1月26日礼拝説教

  「救いを得さす力」  エステル記8章9〜17節 

その時王の書記官が召し集められた。それは三月すなわちシワンの月の二十三日であった。そしてインドからエチオピヤまでの百二十七州にいる総督、諸州の知事および大臣たちに、モルデカイがユダヤ人について命じたとおりに書き送った。

すなわち各州にはその文字を用い、各民族にはその言語を用いて書き送り、ユダヤ人に送るものにはその文字と言語とを用いた。その書はアハシュエロス王の名をもって書かれ、王の指輪をもって印を押し、王の御用馬として、そのうまやに育った早馬に乗る急使によって送られた。

その中で、王はすべての町にいるユダヤ人に、彼らが相集まって自分たちの生命を保護し、自分たちを襲おうとする諸国、諸州のすべての武装した民を、その妻子もろともに滅ぼし、殺し、絶やし、かつその貨財を奪い取ることを許した。

ただしこの事をアハシュエロス王の諸州において、十二月すなわちアダルの月の十三日に、一日のうちに行うことを命じた。

この書いた物の写しを詔として各州に伝え、すべての民に公示して、ユダヤ人に、その日のために備えして、その敵にあだをかえさせようとした。

王の御用馬である早馬に乗った急使は、王の命によって急がされ、せきたてられて出て行った。この詔は首都スサで出された。モルデカイは青と白の朝服を着、大きな金の冠をいただき、紫色の細布の上着をまとって王の前から出て行った。

スサの町中、声をあげて喜んだ。ユダヤ人には光と喜びと楽しみと誉があった。いずれの州でも、いずれの町でも、すべて王の命令と詔の伝達された所では、ユダヤ人は喜び楽しみ、酒宴を開いてこの日を祝日とした。そしてこの国の民のうち多くの者がユダヤ人となった。

これはユダヤ人を恐れる心が彼らのうちに起ったからである。 

 ペルシャ残留ユダヤ人達をその絶滅から救済したのは、邪悪なハマンの発令した虐殺令を無効にする新勅令です。それはまさしく喜ばしい知らせでした。告知を受けたユダヤ人達は喜びに満ち溢れました。

翻ってローマ1章16節を見れば、私たちは人類救済の福音が発令された事実を確認するものです。

わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。

1月23日に米国の科学雑誌は「終末時計」が真夜中に100秒に迫ると発表、政府の調査機関は「南海トラフ」巨大地震が30年以内に80%の確率で発生すると警告しました。70数億人の住み分ける地球は、その意味で危険極まりない状況に置かれています。

しかしながら、それはむしろ表面的な状況であって、人間一人ひとりが置かれている真相は、神に対する罪のために永遠の裁きに直面させられる事実なのです。

罪を犯した魂は必ず死ぬ。(エゼ18:4) 人間が必ず死ぬのは単なる自然死ではなく罪の罰なのであり、しかも人は死んだ後に神の前で裁かれるのです。たとえ巧みに人の目をかすめ逃げおおせたとしても神から逃亡することはできません。

神の力である福音とは、御子イエスが罪の赦しを得させるために、十字架に犠牲となられた死と三日目の復活です。神はこの御子の贖いのみ業の故に、信じる者の罪を赦し救うことをよしとなされました。ただ単純に十字架を仰ぎ、御子イエスを主と信じ受け入れるなら神との正しい関係が回復されるのです。これが福音です。

礼拝で朗唱される十戒は、それをことごとく遵守することで救われるためではありません。それは人間の自力に頼ることであり、人は自分の頑張る努力では疲れ果ててしまうことでしょう。頑張り努力ではなく、蘇られた主イエス様に信仰によりつながることが肝心です。

主は「わたしにつながっていなさい。と葡萄と枝の喩えで呼びかけられた「つながり」が求められます。

今現在置かれている状況が何であれ自分の手と主の御手とがしっかりとつながることこそ肝心なのです。

1月19日礼拝説教

  「新秩序に生きる」  エステル記8章1〜8節 

その日アハシュエロス王は、ユダヤ人の敵ハマンの家を王妃エステルに与えた。モルデカイは王の前にきた。これはエステルが自分とモルデカイがどんな関係の者であるかを告げたからである。

王はハマンから取り返した自分の指輪をはずして、モルデカイに与えた。エステルはモルデカイにハマンの家を管理させた。

エステルは再び王の前に奏し、その足もとにひれ伏して、アガグびとハマンの陰謀すなわち彼がユダヤ人に対して企てたその計画を除くことを涙ながらに請い求めた。

王はエステルにむかって金の笏を伸べたので、エステルは身を起して王の前に立ち、そして言った、

「もし王がよしとされ、わたしが王の前に恵みを得、またこの事が王の前に正しいと見え、かつわたしが王の目にかなうならば、アガグびとハンメダタの子ハマンが王の諸州にいるユダヤ人を滅ぼそうとはかって書き送った書を取り消す旨を書かせてください。

どうしてわたしは、わたしの民に臨もうとする災を、だまって見ていることができましょうか。どうしてわたしの同族の滅びるのを、だまって見ていることができましょうか」。

アハシュエロス王は王妃エステルとユダヤ人モルデカイに言った、

「ハマンがユダヤ人を殺そうとしたので、わたしはハマンの家をエステルに与え、またハマンを木に掛けさせた。あなたがたは自分たちの思うままに王の名をもってユダヤ人についての書をつくり、王の指輪をもってそれに印を押すがよい。王の名をもって書き、王の指輪をもって印を押した書はだれも取り消すことができない」。  

 王妃エステルにより主催された二日連続の酒宴は、ペルシャ残留のユダヤ人達に驚異の新秩序をもたらしました。邪悪な宰相ハマンが失脚し、代わってモルデカイがアハシュエロス王により抜擢されたからです。それは神の恩寵溢れる摂理的な配剤の恵みでした。

人類の歴史を形成される同じ主なる神は、それから500年後に御子イエスにより全人類に対して新しい秩序を切り開かれました。

公生涯に立たれたイエスの最初の宣言、「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」によるのです。アダム以来の罪による堕落した秩序の只中に、イエスにあって神の支配を見ることのできる新時代が到来したのです。

モルデカイが王妃によりハマンの家の管理を委ねられたことに、神が最初に創造した人間に意図された被造物の管理者としての責任を、現代の新秩序において回復するべきことが教えられます。あのイエスのタラントやミナの喩えで示唆される真理は、キリスト者が忠実な管理者であるべきことです。

全ては自分のものではなく、神から委託されたのであって、管理者として責任を全うするべきでしょう。アハシュエロス王が指輪をモルデカイに与えたことは、キリスト者には驚くばかりの特権と権威が付与されたことを暗示しています。

ヨハネ1:12では信者には神の子となる特権が付与されたこと、マタイ10:1では、教会に病気を癒し悪霊を追放し福音を宣布する権威が授与されていることが明らかです。

主イエスによって開示された新秩序にあって、教会は付与された権威を活用し、主イエスの御名によって大胆に業を進めるのです。

モルデカイが発令した勅令は、ハマンが発令した勅令を圧倒する力があり、それはローマ8章の対立する「罪と死の法則」と「命の御霊の法則」を指し示します。

今や信じる者の内にはこの二つの法則がせめぎ合うのですが、主イエスの御名により祈る者は「罪の法則」に勝利するのです。

人に罪を犯させる力が引力のように作用するでしょう。しかし、祈る者には御霊が愛に生きる勝利の力を必ず与えられるのです。 

1月12日礼拝説教

  「十字架の勝利者」  エステル記7章1〜10節 

 王とハマンは王妃エステルの酒宴に臨んだ。このふつか目の酒宴に王はまたエステルに言った、「王妃エステルよ、あなたの求めることは何か。必ず聞かれる。あなたの願いは何か。国の半ばでも聞きとどけられる」。

王妃エステルは答えて言った王よ、もしわたしが王の目の前に恵みを得、また王がもしよしとされるならば、わたしの求めにしたがってわたしの命をわたしに与え、またわたしの願いにしたがってわたしの民をわたしに与えてください。わたしとわたしの民は売られて滅ぼされ、殺され、絶やされようとしていますもしわたしたちが男女の奴隷として売られただけなら、わたしは黙っていたでしょうわたしたちの難儀は王の損失とは比較にならないからです」。

アハシュエロス王は王妃エステルに言った、「そんな事をしようと心にたくらんでいる者はだれか。またどこにいるのか」。

エステルは言った、「そのあだ、その敵はこの悪いハマンです」。

そこでハマンは王と王妃の前に恐れおののいた。 王は怒って酒宴の席を立ち、宮殿の園へ行ったが、ハマンは残って王妃エステルに命ごいをした。彼は王が自分に害を加えようと定めたのを見たからである。

王が宮殿の園から酒宴の場所に帰ってみると、エステルのいた長いすの上にハマンが伏していたので、王は言った、「彼はまたわたしの家で、しかもわたしの前で王妃をはずかしめようとするのか」。この言葉が王の口から出たとき、人々は、ハマンの顔をおおった。

その時、王に付き添っていたひとりの侍従ハルボナが「王のためによい事を告げたあのモルデカイのためにハマンが用意した高さ五十キュビトの木がハマンの家に立っています」と言ったので、王は「彼をそれに掛けよ」と言った。

そこで人々はハマンをモルデカイのために備えてあったその木に掛けた。こうして王の怒りは和らいだ。

 6章が逆転劇なら7章は勝利劇である。邪悪な宰相ハマンの謀略でペルシャ在住のユダヤ人は虐殺されかけたが、王妃エステルの機転で、逆に王の逆鱗に触れたハマンが処刑されてしまった。

「私と私の民は滅ぼされ、殺され、絶やされようとしています」とのエステルの訴えが、その差し迫る窮状を語っている。宰相ハマンが発布したユダヤ人根絶の恐るべき勅令は、彼が立場を悪用し王を騙して実行しようとする奸計だった。

異国ペルシャで試練に遭遇するユダヤ人は、この世に生を営むキリスト者を表す。主イエスはペテロをはじめ弟子たちに、『あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている』と明言された。

「悩み」とは葡萄が絞り器で圧力かけられ汁を絞られる重圧に喩えられる。罪により堕落した世界にあっては艱難、労苦は避けられない。「おめでとう」の挨拶で開始した新年も決して安易ではないことを覚悟するべきだろう。

だが主イエスは「しかし、勇気を出しなさい」と激励される。それは主がこの世に勝利されたからである。邪悪なハマンに勝利したエステルはキリストの雛型でもある。王に寵愛され信任されたエステルは、全能の父なる神が愛し信頼される御子イエスを表す。

エステルが民を自分と同一視したように、主イエスは私たちと同じ人間となり人類の全てを代表してくださった。主が十字架に命を犠牲として捨てられた時、人の罪と死と悲哀の全てが処分された。主は三日目に復活することで死にさえ勝利された。

主は一人の人間の尊厳と価値とを重んじられる、命を捨てるほどに愛を表される。「世に勝つ者は誰か。イエスを神の子と信じる者ではないか」(ヨハ15:5)「しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある」(ロマ8:37)真の勝利は、自己鍛錬と研鑽によるスポーツとは異なる。キリストの十字架の勝利を信仰により自分のものとさせていただく勝利である。

勇気を出す根拠は復活の勝利者イエスが共におられることにある。

1月5日礼拝説教

  「偶然いや必然か」  エステル記6章1〜5節 

その夜、王は眠ることができなかったので、命じて日々の事をしるした記録の書を持ってこさせ、王の前で読ませたが、

その中に、モルデカイがかつて王の侍従で、王のへやの戸を守る者のうちのビグタナとテレシのふたりが、アハシュエロス王を殺そうとねらっていることを告げた、としるされているのを見いだした。

そこで王は言った、「この事のために、どんな栄誉と爵位をモルデカイに与えたか」。王に仕える侍臣たちは言った、「何も彼に与えていません」。

王は言った、「庭にいるのはだれか」。この時ハマンはモルデカイのために設けた木にモルデカイを掛けることを王に申し上げようと王宮の外庭にはいってきていた。

王の侍臣たちが「ハマンが庭に立っています」と王に言ったので、王は「ここへ、はいらせよ」と言った。

 邪悪な大臣ハマンの画策によりペルシャに居留するユダヤ人は根絶されようとし、モルデカイは明日にも絞首刑で木に吊るされるばかりでした。

ところがハマンとモルデカイの立場はこの6章に至り大逆転します。モルデカイは過去の功績が王に認められ公然と賞賛され、虐殺を狙ったハマンはこれ以後落ち目となり遂には、彼を処刑するべく立てた木に自分が吊るされる羽目に陥るのです。

その大逆転の軸とは、王宮での予定外な早朝の王とハマンの会見です。ハマンはモルデカイの処刑許可を得ようと謁見を求めますが、出会い頭に王が先にモルデカイの褒賞について彼に問いかけることで、事態は一転したのです。処刑を準備し、王の許諾を得、結果としてモルデカイを殺害して怨念を晴らす計算でした。

原因があって結果が出る。この世の中は殆どが必然的に物事が起こるようです。だがハマンの思惑は王の行動によって期待する結果に至りません。

ではこれは、何の因果関係もなく、予期せぬ出来事が起こる偶然の所産だろうか。その偶然も、それぞれが因果関係にある人の行動が交錯することで生じると説明もよくされます。何らかの方法で予め、識別することができたなら、偶然の幅も狭くなるでしょう。

ハマンにはその時代に到底、事前に予見するような手立てがありません。だからと言って、王の前夜からの行動を理性的な必然であったとは言えません。

王は何故か眠れない、眠れないから催眠のため退屈な日誌を読ませる、それでも眠れず朝を迎え、その時、侍従から暗殺未遂事件記録を聞かされ、その功労者がモルデカイと知る、そればかりか彼に対する褒賞が未完であったと察知し大臣ハマンに褒賞させる。それは意想外な偶然の連続でした。

ある人が「偶然の一致とは神が匿名のままであり続ける方法である」と言ったとか。神名を表に一度も出さず発信するこの書のメッセージは、「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる」に他なりません。

神に愛され、神を愛する者の日常生活に主は関与くださるのです。