2017年6月礼拝説教

6月25日礼拝説教

 

                           「失望せずに祈る」       ルカ18章1〜8節

 

 18:1また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。 18:2「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。

18:3ところが、その同じ町にひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願いつづけた。

18:4彼はしばらくの間きき入れないでいたが、そののち、心のうちで考えた、『わたしは神をも恐れず、人を人とも思わないが、

18:5このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そうしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるだろう』」。

18:6そこで主は言われた、「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。

18:7まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。        ルカによる福音書 18:1~8

 

 『祈るべきこと』を主は「不義な裁判官」の譬えで教えられる。母の胎から産声を発して出生した新生児が、それを機に空気呼吸するように、神との対話である祈祷は霊的呼吸です。

 『信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。』とヘブル11章6節が証言するように、神に求め祈る姿勢は生きた信仰の具体的表現です。

 主がこの譬えの最後に『しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか』という問いで締めくくられるとき、実は祈祷が世の終わりに深く関ることを意味されます。『人の子が来る』それはキリストの再臨です。

 クリスマスで祝うキリストの初臨に続く世界最大のドラマは、キリストの再臨です。

 主は再び来ると約束されました。人が知ろうが知るまいが、人類はキリストの初臨と再臨の間の中間時代に今現在生かされています。

 そして、主の再臨、世の終わりは近いのです。

 その意味で、祈祷は自分が生きる時代に目覚めている姿勢そのものです。祈らない人は霊的に惰眠を貪ることになります。

 主は再び来られる時が、ノアの洪水の時のようだ、ロトの時のようだと諭されます。『ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。』(17:27)

 滅びるその瞬間までほとんどの人は気づかない。それが現在の世界の置かれた状況です。

 主が再び来られる日に備え目覚めて祈る必要は不可欠なのです。とは言え私達はともすると失望落胆しやすのです。

 自分の願ったとおりにならず、自分の予期した時に希望が実現しないと落ち込みがちです。

 だからこそこの譬えのやもめが不義な裁判官に執拗に迫って裁きを勝取ったように、信仰は忍耐であり祈りには粘り強さ、執拗さが求められるのです。

 主は『神はすみやかにさばいてくださるであろう』と確約されます。

 真実な神は必ず答えてくださると確信して祈りつづけましょう。 


6月11日礼拝説教

 

               「結びの帯なる愛」      コロサイ章12〜14節

 

 3:12だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。

3:13互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。

3:14これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。

                              コロサイ人への手紙3:12~14

 

  信仰生活の三本柱は、義認、聖化、そして献身です。

 信仰により罪赦され義とされた者は、同時にキリストに似た者となるよう聖化の過程に導かれます。その聖化の過程を衣服の着脱に喩えるのがコロサイ3章です。

 古い人を脱捨て、新しい人を着る。古い人とは罪に汚染された性質です。怒り、憤り、悪意、そしり、恥ずべき言葉、それにウソを指してます。

 新しい人とは「造り主のかたちに従って新しくされ」た性質のことです。

 人間は本来、神の似姿として創造されたにもかかわらず、神への反逆のため、その性質は失われたのです。

 ところがイエスを受入れ救われるとき、神の意図された本来の人間性が回復されるのです。

 憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を取り戻すことです。その回復が具体化するのは、相互に忍耐し受入れ、責められることがあれば赦し合うことによります。

 しかし、私たちの経験から分ることは、相手の非や過ち罪を赦すことが容易でないことでしょう。この赦しに関して主イエスが警告される赦されざる永遠の罪を忘れてはなりません。

 私たちは主の祈りで『わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。』と唱えます。

 主はその教えの直後で『もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。』と諭されます。

 それは何故か。自分の神への大罪が赦されたにもかかわらず他人の小罪を赦そうとしない頑さの故です。

 自分に酷い仕打ちをした人を赦すことの困難さを、克服する道は、自らが主なる神により、どれほどの恩恵を受けたか、すなわち、『神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者』であるとの信仰的自覚にあります。

 取り分け、神に愛され、愛され続け、永遠に愛されていることを深く思うとき、他人の過ちを赦す意志が強固にされるのです。

 相手と心から交わろうとし、相手に自分を明け渡す意志的な態度を愛と言い、愛は確かに互いを結ぶ帯なのです。 


6月4日礼拝説教

 

          「賜物を生かす道」    第一コリント12章27〜13章3節

 

12:27あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。

12:28そして、神は教会の中で、人々を立てて、第一に使徒、第二に預言者、第三に教師とし、

次に力あるわざを行う者、次にいやしの賜物を持つ者、また補助者、管理者、種々の異言を語る者をおかれた。

12:29みんなが使徒だろうか。みんなが預言者だろうか。みんなが教師だろうか。みんなが力あるわざを行う者だろうか。

12:30みんながいやしの賜物を持っているのだろうか。みんなが異言を語るのだろうか。みんなが異言を解くのだろうか。

12:31だが、あなたがたは、更に大いなる賜物を得ようと熱心に努めなさい。そこで、わたしは最もすぐれた道をあなたがたに示そう。

13:1たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。
13:2たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
13:3たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。     コリント人への第一の手紙 12:27~13:3

 

 教会暦によれば、ペンテコステ主日は教会の誕生を祝う礼拝の日です。

 主イエスが『わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう』と言われた教会は、聖霊が120名の弟子たちの上に望まれた日に誕生しました。

 教会は聖霊が主導される今現在のキリストのからだであります。

 からだには沢山の違った器官があり、それでいてからだは一つ、各器官は互いに依存して機能するものです。

 イエス様を主と告白した私たちは、このキリストのからだの器官であり、聖霊がおのおのに異なる賜物を与えておられます。

 知恵の言葉、知識の言葉、癒しや奇跡、霊を見分ける力等々、驚くばかりの主の恵みの業を教会が果すために、聖霊の現れが教会には豊かに存在するものです。

 使徒パウロは、そうした理解の上で、「あなたがたは、更に大いなる賜物を得ようと熱心に努めなさい。」と勧告し、14章1節で「霊の賜物を、ことに預言することを、熱心に求めなさい。」との重なる勧めにより、「大いなる賜物」が預言であることを示しました。

 預言は、神からある人にみ言葉が委ねられ、それを必要とする人に提供する奉仕のことです。

 そのための専門職としての預言者が立てられもしますが、広い意味では、私たちすべての聖徒が預言の働きをすることを求められているのです。

 御言葉を手紙に添え、祈りで復唱し、示された御言葉をメモして他の必要とされる人々に、慎み深く差し上げることなどは好ましい預言の働きと言えましょう。

 すべての賜物が全体の益となるように機能するとき、教会は神の臨在のうちに栄光に輝くことでしょう。

 そして使徒パウロは最後に「わたしは最もすぐれた道をあなたがたに示そう。」と、すべての賜物が生かされる道として、愛を動機に奉仕することを提言しました。

 13章1〜3節に三回も「もし愛がなければ」と反復するのは、その大切さを強調するからです。

 13章4〜7節に明らかにされたその愛の実相に自分を日々照らし合わせ、謹厳にそれでいて大胆に主の業に励みたいものです。