3月27日礼拝説教

「共同の記憶の力」  マルコ9章2〜10節

六日の後、イエスは、ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。

ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その衣は真白く輝き、どんな布さらしでも、それほどに白くすることはできないくらいになった。すると、エリヤがモーセと共に彼らに現れて、イエスと語り合っていた。

ペテロはイエスにむかって言った、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。そう言ったのは、みんなの者が非常に恐れていたので、ペテロは何を言ってよいか、わからなかったからである。

すると、雲がわき起って彼らをおおった。そして、その雲の中から声があった、「これはわたしの愛する子である。これに聞け」。

彼らは急いで見まわしたが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが、自分たちと一緒におられた。

一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。

彼らはこの言葉を心にとめ、死人の中からよみがえるとはどういうことかと、互に論じ合った。

  山頂の変貌として知られるこの出来事は、非常に神秘的で、聖書の中でも突出している。主イエスが、これに先立ち弟子達を告白に導き教え、受難を三回予告し、三人の弟子達をこの鮮烈な出来事に導かれたのは、教会の力となる共同の記憶を与えるためであった。

後に使徒ペテロが書簡で『この私たちが、あの方の威光の目撃者です』と目撃の当事者を「私たち」と強調したのはその意味であった。共同して覚えた記憶は、後々までその共同体の力となり支えとなる。

優れた教育者でもある主イエスは、その真理を理解するよう教え、反復し、しかも山頂での鮮烈な目撃で、共同の記憶の準備をなされた。主イエスのみ顔は太陽のように輝き、衣が純白に光った。忽然として聖書を代表するエリヤとモーセが出現し、主イエスと語り合う。

雲が突然覆うや、天から「これは私の愛する子。これに聞け」と神の声まで響きわたった。彼らはその鮮烈な印象を決して忘れられなかったであろう。

この神秘的現象から、三人の弟子達は、メシアなる主イエスの十字架の受難、三日目の勝利の復活、それに、終末に計画される栄光の主の再臨を、しっかりと記憶に固定し保持したに違いない。預言者エリヤと解放者モーセの主との語らいの主題は、エルサレムのイエスの最期(エクソダス)であった。

十字架の死は罪の奴隷から人類を救う第二の出エジプトを意味した。このメシアなるイエスが復活し、やがて世界を統べ治めるため来臨される。この三つの記憶こそ、キリスト教会の根底にある力である。

キリストを証言させる力であり、キリストを記念させる力、そして、キリストに人を変貌させる力となる。主の変貌は、映画で言えば予告編であったが、間も無く排斥され十字架上で殺され、蘇られた主イエスに再会した彼らは、昇天後、聖霊に満たされ、命がけの宣教に俄然突き進んで行った。それ以来、今日に至るまで、20数億人を数えるまでに教会を進展させた力は、この共同の記憶に負っている。

現在でも、共に主の栄光を記憶するなら、それが私たちの教会の力となるに違いない。

320日礼拝説教

「信仰さらに知識」  マルコ8章27〜34節

さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられたが、その途中で、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は、わたしをだれと言っているか」。

彼らは答えて言った、「バプテスマのヨハネだと、言っています。また、エリヤだと言い、また、預言者のひとりだと言っている者もあります」。

そこでイエスは彼らに尋ねられた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。

ペテロが答えて言った、「あなたこそキリストです」。

するとイエスは、自分のことをだれにも言ってはいけないと、彼らを戒められた。それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、しかもあからさまに、この事を話された。

すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめたので、

イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。

それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。

 主イエスは、ガリラヤ伝道を終了し、これから向かおうとされるエルサレムの眺望できるヘルモン山麓のフィリポ・カイザリアの村で、弟子たちを信仰の告白に導かれ、「あなた方は私を何者だというのか」と問われた。するとペテロが「あなたはメシアです」と答えるや、直ぐさまメシアにこれから起こることを「苦しみを受け、排斥されて殺され、復活することになっている」と主イエスは予告された。

メシアとは油注がれた者の意味で、油は王と祭司と預言者のみに注がれ、それは神の権威付与の象徴的儀礼であった。それ故に、ペテロは主イエスをその三職を備える約束された真の救い主ですと告白したのだ。信仰告白は、父なる神の啓示の現れで、恩寵のなせる奇跡であることからして感謝しよう。

しかしながら、主イエスのメシアに関する受難予告を耳にするや、ペテロは猛反発、イエスを脇に引寄せ「そんなことがあってはなりません」と諌めている。だが、主イエスは「サタン、引き下がれ」とペテロを叱り退けられた。ここに私たちをも巻き込む信仰と知識の乖離が浮上しているのを認めないわけにはいかない。

ペテロと弟子たちの抱いたメシア像と実際の間には深い溝があった。彼らは大ローマ帝国を打倒し、イスラエルを独立させる革命的指導者をメシアに期待した。苦しみ排斥され殺されるメシアなど論外であった。

教会に多くの人が出入りし、中には信仰を告白して洗礼を受けるが、しばらくすると出て行く人が後を絶たない。根底にある問題は、この信仰と知識の乖離、ギャップにある。初臨のメシアは、しもべとして十字架に犠牲となり罪の赦しを確立された。復活し昇天されたメシアが世の終わりに再臨されるとき、万国を裁き治められる。受難が栄光に先立たねばならない。

私たちも自分のご利益実現の救い主像を勝手に主イエスに押し付けるべきではない。

主は「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」と信仰と知識の統合の道を示される。自我を捨て、愛と赦しの精神でイエスの後ろから付いて従ってくるようにと。

3月13日礼拝説教

  「気は確かなのか」  マルコ3章20〜27節

群衆がまた集まってきたので、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の者たちはこの事を聞いて、イエスを取押えに出てきた。気が狂ったと思ったからである。

また、エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「彼はベルゼブルにとりつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。

そこでイエスは彼らを呼び寄せ、譬をもって言われた、「どうして、サタンがサタンを追い出すことができようか。もし国が内部で分れ争うなら、その国は立ち行かない。また、もし家が内わで分れ争うなら、その家は立ち行かないであろう。もしサタンが内部で対立し分争するなら、彼は立ち行けず、滅んでしまう。だれでも、まず強い人を縛りあげなければ、その人の家に押し入って家財を奪い取ることはできない。縛ってからはじめて、その家を略奪することができる。

 主イエスは、福音を宣教し、病人を癒し、悪霊を追出すと、「気が変になっている」と人々から狂人扱いされ、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と律法学者達からは魔術師扱いされた。その噂を聞きつけたイエスの身内のマリアや兄弟達が、取り押さえようとナザレから駆けつけている。

クリスチャン思想家のルイスは明確に言う、「イエスが誰であるか、次の三つのどれか一つでしかありえない。イエスは狂人である。イエスは人を欺きだますペテン師である。それとも、イエスは正真正銘本物の救い主である。」私たちは、一人一人がイエスに対する態度を決めなければならない。

主は弟子達を見回し、「見なさい。ここに私の母、私の兄弟、姉妹がいる。神の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」と語られた。イエスは、人類を罪の堕落から救済するため、十字架の死と復活による贖いの働きを実行するべく、神の御心を行うため、この世に来られた正真正銘の救い主である。イエスを狂人扱いにし、イエスを魔術師扱いにして誤解した人々こそ「気は確かなのか」と逆に言われなければならないだろう。

イエスを誤解した人々は、この世界の君サタンにより支配される罪で堕落した人類を、即ち、私たちを代表している。サタンは悪霊により人の心の目を盲目にし、落とし穴に突き落とそうとしている。ウクライナに勃発した悲惨な戦火は、私たち現代人がいかに霊的に盲目であるかの証拠となる。

主イエスは、悪霊を追い出し盲人を癒された。主は悪霊の頭である悪魔を縛り上げ、やがて永遠の地獄に突き落とされる。主の十字架の罪の赦しを信仰により受けた私たちに求められるのは、主イエスが「父がなさることは何でも、子もそのとおりにする。」と言われたように、神の御心を行う者となることにある。

イエスを主と迎え入れよう。イエスの御名で洗礼を受けよう。情欲に溺れず清くなろう。罪を悲しみ悔い改めよう。父や母を敬い、親の恩に報いよう。成すべき計画を主に委ねよう。そして良きおとづれ福音を宣べ伝えることにしよう。

3月6日礼拝説教

  「試みの時の助け」  マルコ1章12、13節

それからすぐに、御霊がイエスを荒野に追いやった。

イエスは四十日のあいだ荒野にいて、サタンの試みにあわれた。そして獣もそこにいたが、御使たちはイエスに仕えていた。

 荒野の試練のマルコによる記述は、マタイやルカに比べ極めて短い。だが、確かなその強調点は主イエスのサタンに対する勝利にある。

イエスはヨルダン川での受洗で「あなたは私の愛する子」との神の告知を受け、続いてガリラヤで「時が満ち、神の国が近づいた」と宣教を開始された。荒野の試練は、その二つの告知の狭間にあった。試されない善は役に立たない。試練は、イエスが人類救済の使命を果たす本当の神の子であるかどうかが確証される為であった。

サタンは神と人間に対する敵対者である。サタンは人間を罪に誘惑し堕落させ、神から引き離して破滅させようと目論む。だが、神の子イエスは、十字架の死と復活により罪の赦しをもたらすことで、悪魔の業を滅ぼすため来られた。イエスは十字架の死まで熾烈なサタンの誘惑、抵抗を受け続けたが、荒野で「サタンよ、退け」と一喝し、サタンに対する勝利を確定的なものとされた。

イエスの試練は歴史的に一回性ではあるが、「事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。(ヘブル2:18)」と、その試練は人類を代表し、私たちの人生において各自が受けるサタンの試みにおいて助けを与えるためであり、その意味で同時性の出来事でもあった。それ故に、イエスは『私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点で同じような試練に遭われたのです。それゆえ、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜に適った助けを受けるために、堂々と恵みの座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:15、16)』と奨励されている。

罪なき神の子イエスにはサタンの付け入る隙は無いが、信仰により神の子とされた私たちは弱さのために隙だらけで、病気する、怪我をする、仕事が上手くいかない、いろいろなことが起きると「神様を信じて、何か良いことがあったか。」と囁くサタンの狡猾な試みに、自力では到底勝目は無い。

主の「私のもとに来なさい」との招きに祈りを持って近づき助けを受けようではないか。