829日礼拝説教

「皆、変えられる」  コリント上153538

しかし、ある人は言うだろう。「どんなふうにして、死人がよみがえるのか。どんなからだをして来るのか」。

おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。また、あなたのまくのは、やがて成るべきからだをまくのではない。麦であっても、ほかの種であっても、ただの種粒にすぎない。

ところが、神はみこころのままに、これにからだを与え、その一つ一つの種にそれぞれのからだをお与えになる。

心身のハンディを克服したパラリンピック選手の苦闘に感動させられる。改めて人間の身体とは何かが問われる。

身体は自分の所有物か。道具手段か。霊魂の器か。そうではない。人間は身体である。身体が人間である。心、霊、魂、そして肉体は密接不離な有機体を構成する。

人間は土から神により造られ、エデンの最初の人の身体は無垢であった。だが、禁断の善悪を知る木から食べた不従順の結果、善悪に関係する生き物となった人間は罪の身体に変質してしまった。

物体が万有引力で下に惹きつけられるように、人間の全存在は罪を犯す力に惹きつけられている。神から与えられた生命により、身体は食物を摂取同化し、新陳代謝により絶えず変化しているが、不思議と自己の同一性が保持されている。何年経過しても自分は自分で他人と身体で区別される。だが、罪の身体は死に定められ、やがてその採られた土に戻らねばならない。にも関わらず、ここに福音がある。

十字架上で罪の赦しを完成され、三日目に復活されたイエス・キリストを主と受け入れる者は、死んでも新しい体、栄光の身体が約束されている。麦の種は、ひとたび地に蒔かれて死ぬと芽ばえて新しい身体を獲得する。それと同じく、死ぬべき罪の身体に、想像もできぬ素晴らしい栄光の身体が与えられる。

球根の中には 花が秘められ、さなぎの中から いのちはばたく。寒い冬の中 春はめざめる。その日、その時をただ神が知る。」(賛美歌21575番)その身体は病気、老化に左右されない朽ちない身体、強い身体、霊の身体、そしてキリストに似た姿となる栄光の身体である。

今現在私たちは半円形の虹を見るが、やがてその時全円形の虹を見るだろう。約束として「私たちは皆、変えられます」と聖書は確証する。

 

神のラッパが鳴り響くと変えられる。主イエスが再び来られるその日に皆、変えられる。主イエスは「然り、私はすぐに来る」と約束され、その日は近い。主イエスが死人の中から立ち上がり蘇られたように、人は皆、蘇り新しい身体に変えられる。それこそ栄光の望みではないか。

822日礼拝説教

「呻きつ待ち望む」  ローマ81825

わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。

被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。

実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。

わたしたちは、この望みによって救われているのである。

しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。

もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。                             

 205ケ国、地域から11,092人の選手達が、晴れの表彰台で金メダルを受賞する栄光のために、33競技でその技を競い合った。イエスを主と受け入れ、神の子とされたキリスト者には、不朽の栄光が備えられている。

主イエスの罪の赦しを得て救われたが、救いの完成は、キリストの再臨で成就する。神の子としての身分は確定したが、その身分は、キリストの再臨で復活の身体が与えられて完成を見る。主イエスは十字架で贖いの業を成し遂げ、蘇って昇天され、「然り、私はすぐに来る」と約束され確かに再び来られる。

古代バビロンでネブカドネツアル王の見た巨大な像の夢の解き明しにより、ダニエルが世の終わりを預言している。(ダニエル2章参照)バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマの諸帝国が歴史を刻んできたが、私たちの生きる現代が、終わりの時代の終わりの時期にあることを明らかにする。1948年にイスラエルが不死鳥の如く再興したが、これは、エゼキエル37章の「枯れた骨の谷の幻」の終末預言の成就であった。

世界はグローバル化し、政治的にも世界統一国家の方向に向かいつつある。やがて反キリストが出現し大艱難時代に突入することを聖書は予告しており、それはまた、真の主キリストが再臨され暗黒に勝利する栄光の時でもある。キリスト者は、その日、その時、死から蘇り、栄光の身体、朽ちない身体、強い身体、霊の身体が与えられる。その栄光は今の時の苦しみと比べるなら取るに足りない。

被造物が苦しみ、キリスト者も苦しむ。地球温暖化現象が象徴する環境汚染・激変に、私たちは被造物(自然)の呻き声を聞くべきだろう。被造物は人間の不従順の罪により呪われている。人間が被造物の管理者としての責任を果たさないため自然は嘆いている。

キリスト者の苦しみは罪の支配するこの世に生きざるを得ない緊張関係から派生、それこそ四苦八苦する。求められるのは忍耐して栄光を待望することにある。それゆえに、主が来られるまで、自分の置かれた場所に踏み止まり、忠実に自分の果たすべき責任を全うしよう。 

815日礼拝説教

「人権が問われる時」  コロサイ3章18節〜4章1節

妻たる者よ、夫に仕えなさい。それが、主にある者にふさわしいことである。

夫たる者よ、妻を愛しなさい。つらくあたってはいけない。

子たる者よ、何事についても両親に従いなさい。これが主に喜ばれることである。

父たる者よ、子供をいらだたせてはいけない。心がいじけるかも知れないから。

僕たる者よ、何事についても、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、目先だけの勤めをするのではなく、真心をこめて主を恐れつつ、従いなさい。

何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。あなたがたが知っているとおり、あなたがたは御国をつぐことを、報いとして主から受けるであろう。

あなたがたは、主キリストに仕えているのである。不正を行う者は、自分の行った不正に対して報いを受けるであろう。それには差別扱いはない。

主人たる者よ、僕を正しく公平に扱いなさい。あなたがたにも主が天にいますことが、わかっているのだから。

 昭和20年8月15日に終戦した翌年、広布された日本国憲法に国民の人権が明記され、人間を人間として尊重することが規定された。では、妻は夫に従い、夫は妻を愛し、子供は父に従い、父は子供を苛立たせず、奴隷は主人に従い、主人は奴隷を公平に扱うよう求める聖書の時代に人権はあったのか。ローマ帝国法には、家父長の絶対支配権が規定されこそすれ、女性、子供、奴隷の人権は皆無であった。彼らは物であり、所有物であり、道具に過ぎなかった。子供に至っては、家父長には殺害、遺棄、売買する権限すらあった。その只中でキリスト者に求められたキリスト教倫理は画期的であり、『他の人たちは、私に何をしてくれるのか』と自分の特権や権利を主張するのではなく、『私は、他の人々に何をしてあげられるのか』と自分の責任や義務を自覚して実践することが求められている。その倫理規定が絵に描いた餅とならずに、実践可能にする鍵を使徒パウロは『何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。』と勧告した。関係の生きものである私たちは相手に向かう場合に、自分の立ち位置が確定していなければならない。妻に対する勧告に「主にある者にふさわしく」とある。「主にある」とは主イエスを信じ受け入れ、主イエスに従うことを意味する。案内板に現在地を確認して目的地に向かうように、自分の現在地が主イエスにあることを確認しよう。「主に対してするように」とは、関係する人が誰であれ神に創造され、愛され、支配され、所有されていることを認めることである。相手の人権を尊重すると同時に、置かれた全ての状況が、主権者である主イエスの支配下にあることを確認するとき、人間関係は革命的に変化しよう。その行為には神の報いも約束される。相手に見返りを期待する行為はすでに愛の業ではない。キリスト教倫理は、「ウインウイン関係」でも「ギブ・アンド・テイク関係」でもない。報いは主ご自身から、しかも、やがて来臨されるキリストにより相続財産として分け隔てなく与えられる。

88日礼拝説教

「降伏すれば勝利」  エレミヤ20章7〜9節

主よ、あなたがわたしを欺かれたので、

わたしはその欺きに従いました。

あなたはわたしよりも強いので、

わたしを説き伏せられたのです。

わたしは一日中、物笑いとなり、

人はみなわたしをあざけります。

それは、わたしが語り、呼ばわるごとに、

「暴虐、滅亡」と叫ぶからです。

主の言葉が一日中、

わが身のはずかしめと、あざけりになるからです。

もしわたしが、「主のことは、重ねて言わない、

このうえその名によって語る事はしない」と言えば、

主の言葉がわたしの心にあって、

燃える火のわが骨のうちに閉じこめられているようで、

それを押えるのに疲れはてて、

耐えることができません。

 東京オリンピックで日本は金27個のメダルを獲得した。スポーツでは競争相手を負かして勝利する。しかし、敬虔な信仰の勝利は降伏により勝利する。

南ユダ王国の末期に活躍した預言者エレミヤは、その置かれた状況の重圧に耐えかね、失望落胆し、「私は疲れ果てました。」と慨嘆した。祭司の家系のエレミヤには安定した神殿での祭司職が決まっていたにもかかわらず、神は彼を預言者に任命された。

預言者は神から託された使信を民に宣言する。その預言の全ては罪の糾弾、審判の予告、悔い改めの勧告だった。だが、40年に及ぶ預言活動は民の反発反抗で難航し、彼は「もう語るまい」と思い詰めるほどに自分の職務に絶望してしまった。

その預言を聴く民は悔い改めるどころか、むしろエレミヤを嘲り、中傷し、法廷に告訴し、彼を抹殺しようとさえした。それが彼の親しい友人親族であったとき、彼の隣人に対する失望は深く、遂には自分の誕生をさえ呪い、生まれたことを嫌悪するに至った。

だが、エレミヤが逮捕され神殿の門に足枷で拘束された晩に転機が訪れる。絶望のうちにエレミヤは「正しき人を試み、思いと心を見られる万軍の主よ」と神に祈りを捧げ、「私の負けです」と神に降伏し、自分の心を全面的に明け渡すことができたのであった。「あなたが私の主です。あなたが私を支配し治めてください」と神に降伏することが、逆説的な勝利となる。

後に使徒パウロは、「これらすべてのことにおいて、私たちは、私たちを愛してくださる方によって勝って余りがあります。」とキリストを主と迎えたキリスト者を代弁している。人は仕事をしつつ生きる。人は他者と共同して生きる。自分で生まれることを人は選択できない。仕事、隣人、人生に失望するとき、勝利は神に明け渡す降伏が勝利の保証となる。 

エレミヤは再起させられ、未来の希望をさえ預言する者とされた。「あなたがたのために立てた計画は、私がよく知っている。それはあなたがたに将来と希望を与える平和の計画であって、災いの計画ではない。」神に降伏するとき未来が開けてくる。

81日礼拝説教

「多いのに少ない」  マタイ9章35〜38節

イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。

また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。そして弟子たちに言われた、

「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。

神の御子イエス・キリストは、町々村々を巡られ、群衆を教え癒し福音を宣べ伝えられた。その群衆の有様を、弱り果て、打ちひしがれている羊飼いのいない羊ようにご覧になり、深く憐れまれ「収穫は多いが、働き手が少ない」と弟子たちに緊急事態を宣言された。

羊は一匹では自生できず、羊飼いの世話なしに餌を見つけることも叶わず、猛獣の餌食になるのが落ち。エゼキエル34章では、羊飼いのいない羊を政治指導者により国民が食い物にされている状況、羊同士がいがみ合い仲違いする状況、或は羊自身が自ずと群から迷い出る状況を指している。

この羊飼いのいない羊の表現こそ、アダム以来、罪により堕落した人類全体を差し示すもので、主イエスはそこに神の呪いとこの世のあらゆる悲惨と死の苦悩、負わされた永遠の地獄の刑罰の責めをそこにご覧になり断腸の思いであられた。

ところが「収穫は多い」と人間の置かれた状況を肯定的に分析され「収穫のための働き手が少ない」と弟子達に要請される。

農夫は地を耕し、種を蒔き、潅水し、害虫駆除し、手入れする作業の最終段階に収穫を迎える。聖書は、人間の歴史における神の経綸の最終段階の「終わりの時」を表す表現が「収穫」とする。

世の終わりは御子イエスが救い主としての誕生によって始まり、主の十字架の死と復活により信じる者が恵みにより罪赦され救われ、天国に入る特別な時代である。主は弱り果てる群衆をこの収穫と見做され、その収穫の刈り取りの働き人の緊急の必要性を、収穫の主、即ち神に「働き人を送ってくださるよう」願うよう要請された。弟子たちに「自分を働き人としてください」と願えとは言われない。

どのような働き人でもその選任の主権は神にある。働き人を祈り願った弟子達の中から12使徒が選ばれている。彼らが願ったからではなく主により選任された。

祈られてハドソン・テーラーが中国奥地ミッションを設立したが、彼の祈りで800人が更に働き人として派遣され、結果として14億人の1億人がキリスト者とされている。私たちもこの要請に応え祈ろう。