11月27日礼拝説教(詳細)

「根株から若枝が」  エレミヤ33章14〜16節

その日が来る――主の仰せ。私は、イスラエルの家とユダの家に語った恵みの約束を果たす。その日、その時、私はダビデのために正義の若枝を出させる。彼は公正と正義をこの地に行う。その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに暮らす。この都は『主は我らの義』と呼ばれる。

 御名を崇めます。今日は今年度の第一アドベントということで、講壇に4本のロウソクが立てられ、最初のロウソクに点火されました。日本語では何事も平仮名、漢字で表記され、外来語はカタカナなのですが、意味不明なのが結構ありますよね。先日、泉南のイオンで買い物した際に、あちこちの商品に「ブラックフライデー20%引き」が付いているのに気が付きました。

黒い金曜日って、これ何ですか。アメリカの感謝祭が11月第四木曜日と決まっています、その翌日のことなのです。その日金曜日は大体休日、そこで商店が大胆な値引きセールを実施する。名づけたのは警察だそうで、あまりにも人が道路に溢れ、仕事が増えるため「真っ暗な金曜日」としたとか。ここまでアメリカの真似をしなくてもいいのではと思いますが、どうでしょう。

しかし、アドベントはアメリカの真似ではありません。キリスト教会の伝統で、教会暦で言う待降節、降臨節、キリストの来臨を表すラテン語なのです。この待降節に伝統的に必ず読まれる聖書箇所の一つが、実は今日の聖書箇所であるエレミヤ33章14〜16節なのです。短いこの箇所に、「その日」が三回繰り返されていますね。それはキリストが来臨される日のことなのです。

I.    回復の預言

 この預言は、エレミヤが捕らえられて王の宮殿の監視の庭に閉じ込められていた時に、神から臨んだ言葉に含まれた預言です。(1節)その前後を参照して読むと分かってくることは、この預言が、神の民イスラエルの回復預言だということなのです。

 14節でエレミヤは預言して言います、「その日が来る」それはしかも、主が神の民に語られた恵みの約束の成就する日だ、と言うのです。エレミヤが預言したまさにその時、エルサレムはバビロン王の軍隊に包囲され緊迫した状態にありました。エレミヤが監禁されたのは、彼が王ゼデキヤに不吉な預言をしたからでした。32章3〜5節のゼデキヤ王のエレミヤに対する不愉快な詰問を参照してみてください。ゼデキヤ王はエレミヤを責めて言うのです、『なぜ、あなたはこんな預言をするのか』と。エレミヤは、神の民イスラエルの偶像崇拝と罪のゆえに、エルサレムには神の裁きが必ず臨むことになる、とはっきり宣告しました。間も無くバビロンの軍隊に征服され、ゼデキヤ王はバビロンに連行されることになると、これまたはっきり預言していたのです。この先の39章を見れば、その預言が実現した事が明らかになります。バビロンの激しい攻撃に耐えられず、都を逃亡した王は逮捕されてしまう、バビロンの王の面前で子供達は無残にも虐殺される、ゼデキヤ自身も両眼を潰され、足枷に繋がれバビロンに連行されてしまいました。

エルサレムの街並みはすっかり焼き払われ、ソロモンの荘厳な神殿は破壊され、有力者はすべて捕囚となりバビロンに連れ去られ、神の民は完全に滅亡してしまいました。しかし、主はそれに先立ち、神の民の回復の約束を与えておられたのです。エレミヤ29章10節をご覧ください。「主はこう言われる。バビロンに70年の時が満ちたらすぐに、私はあなたがたを顧みる。あなたがたをこの場所に帰らせると言う私の恵みの約束を果たす。」この「恵みの約束を果たす」これが14節の約束なのです。

 更にエレミヤは、その約束の実行者を起こすと、15節に「その日、その時、私はダビデのために正義の若枝を出させる。」とも預言しました。それはダビデの家系からやがて出る王が、恵みの約束を執行する者として立てられることになる、と言う意味です。バビロン帝国によりユダ王国が滅ぼされたのはBC586年でした。しかし、それから世界の歴史は大きく動いたのです。

クロス大王に率いられる新興国ペルシャが、150年続いたバビロン帝国を滅ぼしてしまったのです。そして、不思議なことに、その初代帝王クロスが、バビロンに捕囚にされていた民に帰還命令を発令し、その結果、滅ぼされたユダ王国が回復されることになったのです。まさにその時、そのクロス王の帰還命令を受けて立ち上がった人物こそ、ダビデ王の家系のゼルバベルでありました。そのゼルバベルが、このエレミヤの預言で「正義の若枝」と呼ばれているのです。若枝とは、切り倒された大木の根株から生え出た枝のことです。若枝のことを日本語では「ひこばえ」とも呼び、漢字で「孫生」と書き表しますが、孫が生まれることを指すものです。神の恵みの約束は、ダビデの末裔であるゼルバベルにより執行されることになると、預言されたのです。

 クロス王の帰還命令が発令されたのはBC539年でした。ゼルバベルに率いられて帰還した5万人のユダヤ人により、神殿が再建されたのはBC520年のことでした。16節を見てください。『その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに暮らす。』この回復預言が歴史上に実現成就し、解放され救われた神の民が、エルサレムに安らかな日を迎えた有様は、エズラ記やネヘミヤ記に記録されていますから、是非、後で読んでみてください。

II.  預言の成就

 しかしこれでめでたしめでたしではありません。なぜなら、以上の話しだけであれば、この預言は、小さな一民族の歴史体験に過ぎないからです。聖書の預言と成就の関係は、大きなグラスに水を注いで満たすことで、イメージできるかもしれません。グラスに水が溢れる時を預言成就とすれば、このバビロン捕囚からの帰還と、エルサレムの回復は、グラスに半分水が満ちた状態に過ぎない、ということなのです。実は、このエレミヤの預言「その日が来る」と語られたその成就は、まだ別の時を待たねばならなかったのです。

このエレミヤの預言は、旧約聖書で約束されている人類救済の多くのメシア預言の一つであります。人間は神により創造されましたが、罪を犯して堕落し、本来の人間性を失い、滅びに定められていました。神はこの人類を救済し、神との関係を回復させるために、救いの計画を立て、その実現のために、救世主、メシアをこの世に送られようとされたのです。そのメシアこそ、神の御子イエス・キリストなのであり、その救い主イエスが、ここで特別に「若枝」と呼ばれているのです。

 やがて現れるメシアが救い主が若枝と呼ばれる、ひこばえ と呼ばれるとは、どう言う事でしょうか。それは第一に、歴史上、切り倒された木のようなイスラエル民族の根株から、救い主が送り出される、と言う事です。新約のマタイ1章のキリストの系図を開いてください。アブラハムからヨセフに至るこの系図で気づくことは、その頂点にダビデ王が光っていることです。ダビデは優れた王としてぬきん出ており、神はメシアが、このダビデの家系から出ることを約束されていました。しかし、系図を見れば、ダビデ王以降は下降線を辿るばかりではないでしょうか。聖書に登場するダビデ王家の名を継ぐ人物は、あのバビロン捕囚からイスラエルを再建させたゼルバベルが最後となっています。ゼルバベル以後のダビデ王家の血筋を引く人物は、全て無名であり、その最後は大工のヨセフで終わりを告げるのです。そのヨセフの時代のイスラエルの王は、最早、ダビデ王家の血筋の者ではありませんでした。エドム人のヘロデ大王だったのです。そして、その時代にイスラエルは、AD70年、ローマ帝国により、民族国家として切り倒され、世界中に離散し、歴史上、その存在を失ってしまったのです。その切り倒された根株から生まれ出た若枝こそ、救い主イエス・キリストなのです。よく知られた預言、イザヤ11章1節にこう預言されていますね。「エッサイの株から一つの芽が萌え出で、その根から若枝が育ち」と。エッサイとはダビデの父です。「エッサイの株から」とは切り倒されたダビデ王朝のことです。救いはイスラエルから出る、しかも切り倒された株のようなイスラエルから出たのです。

 そればかりではありません。救い主が「若枝」と呼ばれるのは、切り倒された根株から萌え出るだけではない、その萌え出る根株が罪汚れた根株であることです。最近、教会近くの公園で、数年前の台風で無残に倒れた何本もの大木の根が掘り起こされ、芝生を敷いた公園作りが進んでいます。そこに掘り起こされた巨大な根株の塊を見ましたが、大木の根を実際に見ることは珍しいことです。このキリストの系図を根株とすれば、掘り起こした根に、私たちが見るものは何でしょうか。それはおぞましいばかりの罪汚れなのです。

ここには五人の女性が登場することを、きっと聞いた事があるでしょう。3節のタマル、5節のラハブとルツ、6節のバテシバ、最後は16節のマリアです。タマルについて創世記38章の記事を読んで唖然としませんか。タマルは12部族の族長の一人ユダの長子エルの妻となったのですが,夫エルが死ぬと,その弟オナンの妻となります.そのオナンも死ぬと,オナンの弟シェラが成人するまで実家に帰って寡婦の生活をしていました.しかしシェラが成人しても父ユダが、結婚させようとしなかったので,タマルは遊女を装って、しゅうとのユダと結ばれ,ペレツとゼラフというふたごを産むのです、そのようなおぞましい記録です。

ラハブについてはヨシュア記6章を読んで、彼女の素性を知ってまた唖然としませんか。ラハブはエリコの町の遊女、自分の性を売り物にして生計を立てる売春婦でした。

ルツはどうでしょう。あのルツ記の主人公ルツはモアブ人です。モアブ人のルーツを創世記19章に見ればまた唖然ですね。何故なら、モアブ人とは、アブラハムの甥のロトと二人の娘の姉が、近親相姦関係で生まれた子供の末裔であるからです。二人の娘は父ロトに酒を飲ませて泥酔させ、その間に父と寝て関係を結び、姉も妹も子をもうけたというおぞましい物語なのです。

バテシバに至ってはどうでしょうか。ダビデ王の後継者ソロモンは、ダビデとバテシバの子です。しかし、ダビデとバテシバの関係は綺麗事ではありません。ダビデはそれに先立ち、人妻バテシバと姦淫の罪を犯し、そればかりか、その夫ウリヤを巧みに殺害し、殺人の罪を犯し、彼女を横取りしていたのです。これが切り出され掘り起こされた根株の実情です。これは女性四人を見ただけであり、その根を男も女もすべて辿れば、それは目も当てられない悲惨な罪咎(とが)がむき出しになってくるばかりであります。救い主キリストはこのような腐れ汚れ果てた根株から生え出た若枝です。

 イザヤ53章2節をも見てみましょう。「この人は主の前で若枝のように、乾いた地から出た根のように育った。彼には見るべき麗しさも輝きもなく、望ましい容姿もない。」それは切り出された根株の貧しさが強調される預言です。新約聖書のヨハネ1章を見ると、そこに公生涯に入られた主イエスの最初の弟子たちとの出会いが描かれていますね。イエスはピリポを弟子とすると、直後にピリポがナタナエルに出会い、自分はメシアに出会った、その方は「ナザレの人、ヨセフの子イエスだ」と彼に証言すると、ナタナエルは素っ気なくこうくさして言いのけるのです。「ナザレから何の良いものが出ようか」と。ナザレの町の語源について、ナザレはヘブライ語の若枝「ネイツァー」だとする説があります。それはともかく、ナザレは貧しい住民200人程度の見栄えのしない寒村でした。しかもイエスの父はそこで働く貧しい大工でした。まさにイエスの出自は、「見るべき麗しさも輝きもなく、望ましい容姿もない」のです。

.預言の適用

 救い主が若枝であるとは、切り倒された根株、腐れ罪深い根株、見栄えのしない貧しい根株から萌え出ることです。それは、神が希望の潰え去ったところに、真の希望を打ち据えてくださるということなのです。焼け落ちた森の中、切り倒された大木もその切り株も全て水気も生気も失ったままうち捨てられている。そこの一つの切り株の上に小さな茎が、小さな緑色の葉をつけて足を据えるようにして立っている。水気と生気があり、これから大きく成長することが誰の目にも明らかである。これが私たちの救い主イエス・キリストのイメージなのです。このお方が、私たち人間の想像を超えた仕方で、私たちを神と再び結びつけるために、十字架に罪の赦しを得させるために身代わりとなって死んでくださったのです。そして、神の力で死から復活されたキリストを、救い主と信じる信仰に生きる者は、この切り株の上に萌え出た若枝を、心に持つことになるのです。

預言者エレミヤは、自分自身、王の庭の牢獄に囚われた状態であったにも関わらず、神の言葉が臨み、神の民に語りかけて言いました。33章3節です。「私を呼べ。私はあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる。」それは正義の若枝である救い主を、神が出させることです。切り倒されんばかりの大木、腐れ汚れた無数の根、見栄えのしないみすぼらしい根株、にも関わらず、神は若枝を萌え出させてくださると約束されたのです。この約束を自分自身の今置かれている状況に適用して見てください。この約束をこの私たちの小さな群れである教会の現状に適用してみてください。この約束をこの私たちの生きる世界状況に適用してみようではありませんか。

救い主イエス・キリストは私たちの「若枝」なのです。小さく見えても緑色の葉をつけて足を据えるようにして凛と立っていてくださる若枝なのです。あなたは「もう私はダメだ。」「私のような者から何の良いものが出てこようか。」「このような少子高齢化の典型のような教会の未来に何の希望があるだろうか。」と呟いてはいないでしょうか。そうではありません。主は若枝としてあなたの内に、私たちの内にお達くださるのです。その根株がどんなに貧弱で、汚れ、傷ついていても、若枝は、ひこばえは、凛として萌え出で、育ち、実を結ぼうとしているのです。「私を呼べ。私はあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる。」ともに祈ろうではありませんか。

11月20日礼拝説教(詳細)

「王の王、主の主」  黙示録19章11〜16節

それから、私は天が開かれているのを見た。すると、白い馬が現れた。それに乗っている方は、「忠実」および「真実」と呼ばれ、正義をもって裁き、また戦われる。

その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠を戴き、この方には、自分のほかは誰も知らない名が記されていた。この方は血染めの衣を身にまとい、その名は「神の言葉」と呼ばれた。そして、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い上質の亜麻布を身にまとい、この方に従っていた。この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める。そして、この方はぶどう酒の搾り桶を踏む。そのぶどう酒には、全能者である神の怒りが込められている。この方の衣と腿には、「王の王、主の主」という名が記されていた。

 共に礼拝できる恵みに感謝します。今日の聖書箇所を読んでいて、ふと思い起こさされたフレーズがあります。「天高く馬肥ゆる秋」です。秋の季節の快適さ素晴らしさで挨拶によく使われ、「天高く馬肥ゆる秋となりましたが、お元気ですか。」とか、手紙やメイルの出だしに書いたことはありませんか。しかし、この出所を調べてみると、紀元前2世紀の中国の前漢の将軍が、「秋になると肥えてたくましく育った馬に乗って敵(匈奴)が攻め込んで来るから警戒せよ」という警告文だったのですね。それはともかく、この挨拶言葉を連想させた今日の聖書箇所は、聖書の最後の文書、黙示録19章であり、この黙示録を書き記したのは、迫害されて地中海の孤島パトモスに流刑にされていた12使徒の一人ヨハネでした。ヨハネが、主の日に独り淋しく礼拝するその時でした、そのヨハネが聖霊に感じて霊感を受け、この膨大な預言書を書き留めたと言われております。

I.      開かれた天

 さて、今日のこの聖書箇所11節はこう切り出されています。「それから、私は天が開かれているのを見た。すると、白い馬が現れた。」使徒ヨハネは「私は天が開かれているのを見た」と言うのです。天は天でも「天高く馬肥ゆる秋」の晴れた青空ではありません。ヨハネの見た天は、神の居られる場所を意味する天です。それは地にある人が、通常は見ることの絶対できないものを、神の見地から、ヨハネが見させられたということなのです。開かれた天によってのみ見ることの許されるのは、ここに限って言えば、時の始め、時の中心、時の最後です。人間が生かされている時間と空間、タイム・アンド・スペースは、神により創造されたものです。その初めも中心も最後も、神の視点に立たない限り、人は誰も見ることは絶対にできません。

 開かれた天によってのみ、人は時の初めを見ることが許されます。理解することが可能となるのです。聖書は開口一番、「初めに神は天と地を創造された」(創世記11)と書き出されていますね。これは凄い書き出し方ではありませんか。誰一人として時の初めに居た人は居ないし、見た人はいないのですから、とてつもない大胆な発言です。最近の宇宙物理学で、最も有力視される学説は、ビッグバン理論です。膨張宇宙論と呼ばれる学説です。英語でビッグバンは大きなバンという音です。宇宙は132億年前、非常に高温高密度の状態から、大きなバーンという音で爆発し、膨張しつつあるとする説です。だからビッグバン理論なのです。しかし、開かれた天から見えてくるのは、大きなバンという音で始まる膨張現象ではありません。冷たく暗いブラックホールでもありません。物理学の様々な学説や公式や数式でもありません。開かれた天に見させられるのは、時の初めに立っておられる、暖かい人格ある神様なのです。そこに父なる神と共に創造に参与されたイエス・キリストが見えてくるのです。あの開かれた天を見た使徒ヨハネは、ヨハネ1章1節でも「初めに言があった。すべてのものは、この方によって造られた。」と語っています。同じく、使徒パウロも、コロサイ116節に「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。万物は御子によって、御子のために造られたのです。」と語っています。時の初めには、イエス様が居られ、主イエスによって天地万物が造られ、主イエスが立っておられるのです。

 では、開かれた天により、時の中心に見えてくるのは何でしょうか。人類史は、西暦によれば、時代は二つに分けられ、紀元前、紀元後と呼びます。紀元前は略してBCと呼び、紀元後はADと呼ぶのですが、BCとは、ビフォー・クライストの略でキリスト以前であり、ADとは、ラテン語で「主の年」を意味するアノ・ドミニの略です。その人類史の二つの時代の区分、頂点に立つのは誰ですか。これまたイエス様なのです。主イエス・キリストなのです。処女マリアから生まれた神の御子イエス・キリストが、歴史時間、歴史時代の区分とされる中心に立っておられるのです。

 そして、使徒ヨハネが、黙示録19章11節で「私は天が開かれているのを見た」と語る時には、彼がそこに見せられたのは、時の終わりのことです。黙示録の初め1章をご覧ください。黙示録は「イエス・キリストの黙示」で始まっていますね。ヨハネは、流刑にされたパトモス島で独り礼拝していたその時に、天上に居られるイエスの姿を見せられたのです。黙示録の最初の1章17節にはこうありますね。ヨハネは振り返って天上のイエスを観た瞬間、「この方を見たとき、私は死人のようにその足元に倒れた。」と証言しています。その使徒ヨハネが幻の中で、開かれた天において見せられたのは、時の終わりに立たれる主イエス様の姿だったのです。19章11節を見てください。「すると、白い馬が現れた」ヨハネが見たのは白馬だけではありませんでした。白馬に跨(またが)る騎手をもそこにヨハネは見たのです。そして、この白馬の騎手こそ、主イエス・キリストなのです。

 私たちは、人間存在として基本的に時間と空間に生きるよう定められています。その枠から出ることはあり得ません。その時間の初めも、時間の中心も主イエス様が立っておられる、そればかりか、私たちの未来の時の終わりに、私たちを待ち受け、出会ってくださるのは、同じく暖かい人格のある主イエス様なのです。

II.   白馬の騎手

 使徒ヨハネが開かれた天に、時の終わりに見せられたのは、主イエス・キリスト、しかも何と白馬に騎乗された主イエスでありました。今から2000年前に、時の中心に立たれた、私たちに馴染深い主イエスのイメージとは大きく違いますね。3年余の公生涯の最後に、主イエスがエルサレムに入城された時には、王として歓呼する大群衆により迎えられました。しかし、その時、主が騎乗されたのは馬ではありません、耳の長い愚鈍な驢馬(ろば)でした。それはホセアの預言の成就でした。ゼカリヤ9章9節「見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。」平和のシンボルであるロバに跨る王、それが救い主の最初のイメージでした。しかし、時の終わりに立たれる主は違うのです。白馬に騎乗する主イエスです。ローマ帝国時代の将軍が、戦争に勝利してローマに凱旋する時には、必ず白馬に騎乗し、歓呼する市民に迎えられ、威風堂々入城するのが常でした。それ故、主イエスが、白馬に騎乗し、天の軍勢を率いている姿は、主イエスが勝利の王であることを意味するのです。16節を見てください。「この方の衣と腿には、「王の王、主の主」という名が記されていた。」ヨハネが開かれた天に見た白馬の騎手の名は「王の王、主の主」でした。今日の聖書箇所の主題は、「王の職務」であり、キリストの王としての職務がここに三つ明らかにされます。王として万民を治められる、王として戦われる、王として裁きを実行されるという三つの職務です。

 その第一の職務は万民を統べ治めることです。「この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める。」(15節)ここに使用される「鋭い剣、鉄の杖」からは、暴力的で独裁的な印象を受けかねませんが、この「治める」の原語ポイマイネイは、羊を守る、羊を養うという意味で、王が羊飼いのイメージなのです。イスラエルでは、国を統治する王は、羊を守る羊飼いとされていました。国際連合は、15日に世界人口が遂に80億を突破したと報告しました。これらの80億人は196の国に分散しているのですが、その民を治める統治者の権力構造は様々です。社会学者のマックス・ウエーバーは、政治の権威を分析し、それを合法的権威、カリスマ的権威、伝統的権威に分類できるとしました。①合法的権威とは選挙により選出される政治権力者のことです。②カリスマ的権威とは、その人自身に自ずと人を従わせる力のある指導者のことです。③伝統的権威とは、世襲で代々継承される権威、北朝鮮のキムジョンウンなどはその典型でしょう。彼は三代目の権威者です。今日ここで改めて、政治的権威というものが実は、神によることをローマ13章1節で確認しておきましょう。「人は皆、上に立つ権力に従うべきです。神によらない権力はなく、今ある権力はすべて神によって立てられたものだからです。」これが真理です。人によっては受け入れ難いかもしれません。しかし、聖書の真理によれば、神は被造物を人間と共に保全されようとするのであって、政治的な統治も、神は人間と共に治められるお方なのです。それは、そうすることにより、どこでも最低限度の治安を確保するためであり、決して理想的でないことは明らかです。しかし覚えておきましょう、時の終わり、世の終わりには、主イエスが王として最終的な決着をつけることになるのです。

 羊飼いが、羊を熊やライオンや狼の牙から守るために戦うように、王はまた国民を守るために戦う責任があります。ロシアはウクライナを19万の兵で包囲し、ロシア寄りの国にしようと恫喝しましたが、それは大きな誤算でした。ゼレンスキー大統領は、首都から逃亡せずに踏みとどまり、国民を守る為政者として、先頭に立って戦っています。それが大統領の職務だからです。白馬の騎手である主イエスの口からは、「鋭い剣が出ている」(15)この剣の象徴的意味は「神の言葉」です。13節に「その名は『神の言葉』と呼ばれた」とある通りです。ヨハネは福音書でイエスを「言、ロゴス」と呼びました。ヘブル4章12節はこう語ります。「神の言葉は生きていて、力があり、いかなる両刃の剣より鋭く、魂と霊、関節と骨髄とを切り離すまでに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができます。」言葉が剣に喩えられているのです。世の終わりの最終戦争では、キリストにはミサイルも戦車も必要とされません。剣のように鋭い口の言葉によって、敵を粉砕することができるからなのです。

 白馬の騎手は治め、戦い、最後に万民を正義によって裁く方であることが明らかです。その裁きを免れる人は一人もおりません。続く20章11節より、ヨハネは開かれた天により、最後の審判の情景を見せられました。「また私は、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方を見た。」ミケランジェロの代表作とされるフレスコ「最後の審判」が、バチカン宮殿システィーナ礼拝堂の祭壇に描かれています。1541に完成した非常に古い作品です。大きな画面には、審判者なるキリストを中心に400人程の人々が様々な動作表情で描かれており、向かって左側には天国へと昇天していく人々が、右側には地獄へと堕ちていく人々が描写されています。ヨハネがそれと同じ情景を見たとは思われませんが、人は死ぬことと、死んだ後に裁かれることが定まっていることに変わりはないのです。人は皆、その生前のした行いに応じて裁かれる責任ある存在なのです。しかし安心してください。キリストが十字架で身代わりに裁かれたことを信じる人は、裁かれることはありません。あなたは主イエスを信じて洗礼を受けられたでしょうか。洗礼は、キリストと共に罪ある自分が十字架で裁かれ、その結果、神に赦されたので、世の終わりに裁かれることの無いことのしるしなのです。洗礼を受けていない方は、主イエスを信じ、洗礼受けられるように準備をされることを、改めてお勧めします。

Ⅲ.花嫁の支度

 11月を半ば過ぎた今、私たちは再びクリスマスを祝おうとしています。この御子の御降誕を祝う季節に、世界中の教会で最もよく演奏されるオラトリオが、ヘンデル作曲のメサイアでしょう。メサイアは演奏時間2時間半の大作であり、ヘンデルの自筆楽譜は259頁に及ぶものです。彼は依頼されたオラトリオを何と24日間で寝食忘れて書き上げたと言われています。その中でよく知られ愛唱されるのが「ハレルヤ」コーラスでしょう。その繰り返される歌詞が、実はこの黙示録19章の6節なのです。「ハレルヤ。全能者である神、主が王となられた。」そして、9章16節「王の王、主の主」なのです。この白馬の騎士の肩書きは、諸々の国々を征服した古代ペルシャの王やローマ皇帝たちが、自称した肩書きでもありました。しかし、その肩書きの最も相応しい方こそ、永遠の王の王、主イエス・キリストなのです。この白馬に騎乗する勝利者イエスは、私たちの教会にとってどういう方でしょうか。そうです。教会の花婿なのです。7節「私たちは喜び、大いに喜び神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は支度を整え、輝く清い上質の亜麻布を身にまとった。この上質の亜麻布とは聖なる者たちの正しい行いである。」 開かれた天にヨハネが見せられたのは「子羊の婚礼の日」の情景でした。十字架の血により罪から贖われた教会は、キリストの花嫁です。キリストの教会の永遠の希望は、まさに未来のこの「子羊の婚礼の日」なのです。私たちの人生では、多くの結婚の祝いをする機会があるでしょう。自ら結婚の喜びを経験された方も沢山おられるでしょう。この喜ばしい婚礼の私たちの営みは、ただひとえに、未来のキリストと教会の婚礼の喜びを指し示すものなのです。使徒パウロが、エペソ5章21節から「妻と夫」に対する勧告をしておりますが、結婚式でもよく引用される箇所です。パウロは夫に対して、「妻を愛しなさい」と勧告しますが、「キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったように」と模範を示して勧告しています。キリストが教会を愛される。どうして愛されるのでしょうか。イエスを信じたクリスチャンの共同体である教会が、キリストの花嫁であり、永遠の配偶者、妻であるからです。エペソ5章31節では、創世記2章24節をパウロが引用しています。「こういうわけで、人は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる。」その上で32節こう彼は結ぶのです。「この秘義は偉大です。私は、キリストと教会とを指して言っているのです。」使徒ヨハネと共に、開かれた天に、白馬の騎士を見せられるとき、私たちは今日、キリストの花嫁としての支度を整えるように、促されているのではありませんか。

 第一に喜ぶことです。「私たちは喜び、大いに喜び」7節。この未来の確かな事実の故に、喜び楽しめというのです。塚本訳は「小躍りしようではないか」とまで訳しています。愛し合っている若い男女、近い将来結婚することを誓いあっている男女を見たことがあるでしょう。彼らは喜びに満ち溢れている、それが特徴なのです。教会に常に流れる基本的な感情は喜びであります。喜びであるべきです。それは、未来に希望が確かにあるからなのです。使徒パウロは、ピリピ書で繰り返し「喜んでいなさい」と勧告しています。「主にあって喜べ」と勧めるのは、そのゆえなのです。

 第二に主を賛美し栄光を神に帰することでしょう。主に向かって「ハレルヤ!」と叫ぶことです。ヘンデルのハレルヤコーラスは素晴らしいですね。ここで歌い出したいくらいです。何回も何回もハレルヤを繰り返すのです。私が最初に奉仕した秋津福音教会で、私は乞食の男性を1ヶ月ほど世話したことがありました。教会に寝泊まりしてもらいましたが、彼はいつしかお祈りを覚えたのですが、何と祈るかと思えば、「はれますように、はれますように」と祈られたのです。それは彼が教会の集会で私たちがよく「ハレルヤ」を口にするのを聞いていたからに違いありません。しかし、よく意味が分かっていなかったのかもしれません。さあ、私たちもハレルヤと歌いましょう。主を賛美しましょう。賛美は主に相応しいのです。

 その上で、キリストの花嫁としての支度を整えましょう。それは「亜麻布をまとう」ことに表現されています。亜麻布とは純白の布です。それは「聖なる者たちの正しい行いである」とヨハネはその説明を天上に聞き分けました。教会はキリストの義の衣を着せられる花嫁であるとはよく言われます。その通りです。結婚式のウエディングドレスの純白さは、キリストの義を象徴するものです。しかし、それに加えて、その白さは「正しい行い」をも意味すると天からの声は言うのです。これを私たちは今週の歩みの中で課題としようではありませんか。日々の歩みにおける健全な正しい行為は、のちの日に義の衣となることを覚えていましょう。その逆に罪を犯し、人を傷つけることがあるかもしれません。その時は、罪を告白し、神に赦しを求め祈りましょう。「私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。」(第一ヨハネ1章9節)あなたは、キリストの花嫁でしょうか。支度を整えつつある喜びに満ちた花嫁でしょうか。喜び、賛美し、支度を整えて主の婚礼の日に備えようではありませんか。主は白馬に騎乗される王の王、主の主なのです。

11月13日礼拝説教(詳細)

慰めの時の訪れ」  使徒行伝3章20、21節

こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために定めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなる時まで、天にとどまることになっています。

 ハレルヤ!今日は喜ばしい嬉しい日ですね!0家の七五三の祝いとS姉のお誕生を祝いました。年齢的には90歳位開きがありますが、二つが期せずして重なりました。おめでとう御座います。神の祝福を祈りたいと思います。さて最初に、説教テキストに関連した箇所として、3章1〜10節を読むことにします。

今日の聖書箇所、実はエルサレムの神殿の「麗しの門」で起こった事件に続いて、集まった群衆に使徒ペテロが語った言葉なのです。あまりにも突発的な、あまりにも常軌を逸した奇跡事件であったため、聖書の表現を借りれば、それこそ「驚いて卒倒しそう」になった大勢の群衆がペテロに殺到してきたのです。

使徒ペテロには、この事件を起こした当事者として、自分に関する誤った誤解を解く責任があり、同時に、起こった奇跡の意味を解き明かす使命とがありました。彼は自分に関する人々の誤解を解いて言いました。『スラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、私たちがまるで自分の力や敬虔さによって、この人を歩かせたかのように、なぜ、私たちを見つめるのですか。』即ち、ペテロはこの奇跡は自分たちの力ではないと言い切ったのです。そればかりか続いて、彼はこの驚くべき奇跡がどうして起きたかを、「このイエスの名が、その名を冠した信仰のゆえに、あなたがたの見て知っているこの人を強くしました。その名による信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全に癒やしたのです。」(16節)と力強く証言しました。ペテロは生まれつきのあしなえの乞食に命じましたね。「私には銀や金はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」この奇跡は、イエス・キリストの御名により起こるべくして起こったものだったのです。

.慰めの時の約束

 さて今日、この奇跡を背景に語られた20、21節に戻りますが、その主題は何かと言えば、「救いの約束」なのです。使徒ペテロは宣言してこう言いました。『こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために定めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。』メシアとは救い主のことです。主なる神様が救い主を遣わしてくださる、イエス様を遣わされる。それは救いの約束なのです。

すると、率直な疑問として、「来月には、私たちはクリスマスを祝おうとしているではありませんか。救いの約束はもう成就したのではありませんか?」そう思われるかもしれません。その通りです。間違いありません。神の救いの約束は、確かに実現成就しているのです。救いの御子イエスは、乙女マリアにより誕生され、救いの御業を成し遂げてくださったのです。しかしながら、今日、私たちは、救いに関して確認しておくべきことがあるのです。それは、神のキリストによる救いは三段階を踏むということです。

 救いの第一段階を私たちは「罪の支配からの救い」と呼びます。主イエスは言われました、「罪を犯す者は誰でも罪の奴隷である」(ヨハネ8:34)そして、使徒パウロも、「全ての人は罪を犯したため、神の栄光を受けることができない。」(ローマ323)と言っております。人はすべて例外なく神の前に罪の奴隷なのです。奴隷は主人に所有物として支配され、その言いなりにならざるを得ません。罪人だから罪を犯す、それが人間の現実だと聖書は教えます。救い主イエスが生まれ、十字架に命を捨てられたのは、人を罪の奴隷から解放し、罪の支配から救うためでした。イエスを信じるということは、それによって信じた人は、イエス様が新しい主人であり、イエスに仕える者とされる、もはや罪は主人ではなくなるのです。

 ところが、罪という主人の支配から人は解放されても、罪の力は信じた人の内に法則として、厳然として影響しているのが現実なのです。使徒パウロ自身が、自分の体験として、こう告白しています。「私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行なっています。自分が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。」(ローマ719.20)聖書は、それを「罪の法則」と呼びます。法則とは、同じ条件下であれば、必ず同じ結果が出るものです。

毎日朝8時から、朝ドラで「舞い上がれ」が放映されていますね。大学の女学生であるヒロインがパイロットを目指し、手作りの人力飛行機で琵琶湖上を飛ぶ場面が出てきましたね。ヒロインは自転車を漕ぐようにしてプロペラを回転させ、水面スレスレに飛び続けるのですが、力尽きて墜落してしまいます。当然です。何故ですか。分かりきったことで、引力の法則があるからでしょう。人は、イエスを主と信じて罪の奴隷から解放されたとしても、その人の内に罪が法則として、依然として残っているのが現実なのです。新約聖書を読んでいて、しばしば「肉」という言葉が出てくるのに気づかれると思いますが、聖書が「肉」と呼ぶのはこの状態を指していることなのです。聖書で使われる「肉」、原語でサルコスは、これは肉体ではありません。肉体を罪悪視する思想ではありません。聖書で言う肉とは、「罪によって影響されている人間性」とでも言うべきものなのです。見えない引力が下に物体を引っ張るように、人の内には、罪を犯させる影響力が残存している、これが現実なのです。「舞い上がれ」のヒロインが全力でペダルを漕ぎ続けても、引力の法則には太刀打ちできず、墜落したように、人間は自力でこの罪の法則に打ち勝つことはできないのです。イエス様は、この罪の法則から救うためにも来られました。主イエスが、助け主として聖霊を約束されたのは、この罪の力に勝利するためであったのです。イエスを信じた私たちは、誰でも、内に内住してくださる聖霊に絶えず依存するときに、罪に打ち勝つ勝利の生活を、飛び続けることができる、これが救いの第二段階で、罪の力からの救いです。

 しかし神の救いの第三段階があります、罪の存在事態からの救いなのです。聖書には、①罪の主人の支配からの救い、②罪の影響力からの救い を超えた、罪の存在事態が消失する、③罪の存在からの救い が約束されています。引力についても、地上から400キロ上空の宇宙船内には重力が無いため、飛行士が遊泳する映像がよく紹介されていますね。引力、重力が全くなくなるように罪の存在事態が無くなる、救いの第三段階があるのです。それが使徒ペテロの語った「慰めの時」なのです。

こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために定めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。」それは神様がもう一度、救い主イエスを遣わしてくださる再臨によって、私たちにもたらされる、未来に備えられた至福の時のことなのです。この「慰めの時」の慰め、原語アナプシュクシスは、ここだけでしか使われない珍しい用語で、聖書の別訳では『回復の時、恵みの時、安息の時、慰安の時、生気一新の時』とか、様々にバラエティに富んで訳されている用語です。と言うことは、主イエスが再びおいでくださる再臨の時とは、どんな言語によっても言い表すことができないほどに、驚くばかりの歓喜に満ちた至福の状態であると言うことです。その日、その時、もはや人を悩ます罪は存在しません。信じた人は皆 栄光の体で復活させられ、永遠の安息に入れられるのです。黙示録21章1〜4節で、使徒ヨハネが証言して言います。「また私は、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は過ぎ去り、もはや海もない。また私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために装った花嫁のように支度を整え、神のもとを出て、天から降って来るのを見た。そして、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となり、目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。最初のものが過ぎ去ったからである。」」救い主イエスが再臨される時、それが慰めの時、それが救いの最終段階、救いの完成の時なのです。

.慰めの時のしるし

 しかし、もしかすると「それはそうかもしれないけれど」と、ある方には絵に描いた餅のように思えるかもしれません。そうではありません。神の約束は確かなのです。真実な神は、約束したことを必ず実行なされる方です。私たちがこれから祝おうとするクリスマスは、絵に描いた餅ではないでしょう。歴史上、実際に起こった事実です。それは、旧約聖書の333の預言の成就なのです。神の救い主の約束は果たされたのです。ということは、キリストの初臨の約束、クリスマスが成就したのであれば、キリストの再臨は、間違いなく確実に、実現成就するに違いないのです。何故なら、キリストの再臨の預言は、キリストの初臨の333の預言どころではありません。新約聖書のほとんどどの頁に語られている程、無数の神の約束だからなのです。しかも、使徒ペテロの発言は、「麗しの門」であしなえの乞食の奇跡を背景に語られていました。ペテロは集まったユダヤ人の群衆に、彼らを強く譴責してこう語りました。「あなたがたは、このイエスをポンテオ・ピラトに引き渡し、否認し、殺してしまいました。」と。ローマ総督であり、熟練した裁判官でもあったポンテオ・ピラトは、イエスを無罪放免、釈放しようとしました。しかしそれなのに、ユダヤ人達はイエスを殺してしまったのです。その十字架で殺されたイエスが復活され、昇天され、神の右に着座されたそのイエスの名が、今、この惨めなあしなえの乞食を癒されたというのです。この驚くばかりの奇跡の事実が、再臨の救いの約束の確かな力強いしるしとなっているのです。私たちが日々に、クリスチャンとして経験させられる救いのしるしは、この乞食のように強烈ではないかもしれません。それでも、一つ一つのみ言葉の約束を生活の節々で、経験させられるときに、私たちは、将来のキリストの再臨によってもたらされる慰めの時の確かさを、しっかりと確信させられるのではないでしょうか。

私は4月5日に人間ドック検査受け、更なる大腸の精密検査の結果、ステージ2の直腸癌が確認されました。6月1日には医療センターの医師によって治療計画が提示され、6月23日に手術を実施することが確定されました。6月3日の朝のことでした。ヨハネ21章に、主を三度否認した過ちのため、関係が切れていた使徒ペテロを回復する、復活の主のお言葉を読む機会がありました。それは勿論、ペテロ個人に対する言葉ではありましたが、同時にその時、私に対する召命の力強い言葉ともなりました。主は三度言われました「私の子羊を飼いなさい、私の羊の世話をしなさい、私の羊を飼いなさい」。私は七十七歳で癌手術を目前にしていました。これは主が「お前を癒すから今しばらく牧会を続けなさい」と言われる私に対する招きの言葉でありました。今こうして奉仕しているのは、このような主の言葉が背景にあるのです。このようなお取り扱いを、この歳になるまで、これまで何回受けてきたことでしょうか。そして、その度に、主の約束の確かさを確信させられてきたのです。ですから、私個人にとって、「主はあなたがたのために定めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです」この救いの約束の言葉は、疑いようのない真理なのです。それは、あなたにも言えることではありませんか。これまでに大小様々なしるしを生活の節々で見せられたでしょう。主の約束は必ず実現成就するのです。感謝しましょう。

.慰めの時の促進

 最後に、この将来の慰めの時の来るのを早める責任が、実は私たちにあることを確認して終わりたいと思います。19節で使徒ペテロは「だから、自分の罪が拭い去られるように、悔い改めて立ち返りなさい。」そして続く20節で「こうして・・・主は・・・イエスを遣わしてくださるのです。」と語りました。続く21節によれば、主イエスは「万物が新しくなる時まで、天にとどまることになっています。」とも言われています。天に昇天されたイエスは神の右に着座され、栄光を受け、天地のすべての権能を受け、今現在、全宇宙、全世界を支配しておられます。その天にとどまっておられる主イエスが、神様により再び派遣されることになる。それはいつでしょうか。それはひとえに、実は、我々人間の態度いかんにかかっていると言えるのです。人々が「悔い改めて立ち返る」なら、主イエスは再臨なされる、と言われているのです。慰めの時の到来を促進するのは、人間の側の回心如何にかかっているのです。悔い改めとは人が方向を転じて神に向きを変えることです。罪の生活を離れて主に仕えることです。

 この偶像崇拝天国の八百万の神々の日本において、人が素直に、生ける神に立ち返る、方向転換することは、実に難しいのです。古い映画ですが「男はつらいよ」が面白いですね。そこで考えさせられるシーンがあります。「男はつらいよ」の寅さんがテキ屋として、神社の縁日で露店を出し、小物を叩き売りする場面です。日本全国の初詣や神社の祭礼が紹介される、そこにおびただしい人々が、日本人の99%が集まっている、それが日本の霊的な現状なのです。同じ使徒ペテロが第二の手紙3章9節で語っています。「ある人たちは遅いと思っていますが、主は約束を遅らせているのではありません。(神は)一人でも滅びないで、全ての人が悔い改めるように望み、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」私たちが福音を宣べ伝える必要がここにあるのではありませんか。私は志を得て泉佐野市の51の町内を執り成し祈る「祈りの歩行」を昨年から開始しましたが、それは10万人の市民の中から、悔い改めて主に立ち返る人が一人でも起こされるためです。テレビ番組「ライフライン」の案内カードを配布するのもそのためです。りんくう総合診療センターで37日間入院中、何人もの看護師さんにカードを差し上げました。中にはテレビで見てきました、と報告する方もいました。私たちの教会の存在目的、それが福音の宣教であることを再確認する機会としましょう。

 更に再臨を促進するのは、多くの人々が悔い改めて主に立ち返ると共に、信じた私たちクリスチャンが敬虔に生活することです。同じペテロ下の3章11節「このようにこれらのものがみな、崩れ去るのだとすれば、あなたがたはどれほど聖なる敬虔な生活を送らなければならないことでしょう。神の日の来るのを待ち望み、それがくるのを早めなさい」使徒ペテロは、主の再臨は、クリスチャンたちの生活の仕方が促進することになる、と言うのです。最初に読んだ使徒3章19節では「だから、自分の罪が拭い去られるように、悔い改めて立ち返りなさい」とペテロが勧告していました。悔い改めとは方向を転じて神に向かうことであり、それは同時に罪の行いから離れることを意味するのです。それが罪だと示されたことは、神の前に告白し、それを止める、離れることが必要不可欠なのです。社会問題の一つにスプレー缶による悪戯書きがありますね。他人が見ていない時間や場所で行われる卑劣な行為です。犯人である当人たちは面白半分でも、落書きをされた側の個人の住宅や店舗にとっては深刻な被害です。これを消すのは大変な作業を伴うものです。第一ヨハネ1章9節「私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。」神は、その罪を赦し、赦すばかりか清めてくださる。罪が拭い去れるのです。罪の呵責から解放されるのです。聖霊により示された罪があれば、主に告白し、罪から離れることにしましょう。

 慰めの時の到来を促進する、敬虔な生き方の積極面があります、愛の業に努め励むことです。先週のライフラインでワールドビジョンの若いスタッフ、山口正義さんが献身に至った証をされたのが印象的でした。この慈善活動は、アメリカの宣教師ボブ・ピアスは、1947年に中国へ行き青年たちへの伝道キャンペーンを指揮した。1950年に韓国に入った。そこで、朝鮮戦争によって生まれた孤児や未亡人の悲惨さを見て、食料、衣類、医薬品を援助する働きを行い、2000人以上の戦災孤児を養う組織を作りあげた。極東地域において孤児の救済、病院建設、伝道活動のための支援を訴えた。1961年には東京で行われた東京クリスチャン・クルセードの講師として活躍した。23万人を超える人が参加した。そのスタッフ山口正義さんが動かされたのはピアスの一つの思い、「全ての人々に何もかもはできなくとも、誰かに何かはできる」と言う言葉でした。そうです。キリストを信じ、その悔い改めの実は愛の業です。悔い改めは利己主義から人を解放し、他者への愛の実践へと導くのです。パウロは再臨に伴う復活を語った、あのコリント上15章の最後をこう結んでいます。「私の愛する兄弟たち、こういうわけですから、しっかり立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているからです。」そうです。どんな小さな愛の業でも、それが主の業であれば、決して無駄ではありません。それは慰めの時の到来を確実に促進させることになるからです。私たちに罪の赦しを得させるため、すでにこの世に来られた主イエスは、間も無く再び来られます。それは慰めの時、回復の時、安息の時です。それは決して絵に描いた餅ではありません。私たちはその実現のしるしを今現在、日々に経験しているのではありませんか。その慰めの到来の日を促進させましょう。主の日は近いのです。そして、それは私たちの協力によって促進させられることになるのです。

11月6日礼拝説教(詳細)

神に不可能なし」  創世記18章9〜15節

アブラハムは凝乳と乳、そして調理された子牛を運んで来て、彼らの前に出した。木陰で彼らが食事をしている間、彼はそばで給仕をした。

彼らはアブラハムに「あなたの妻のサラはどこですか」と尋ねた。アブラハムが「その天幕の中にいます」と答えると、彼らの一人が言った。「私は必ず来年の今頃、あなたのところに戻って来ます。その時、あなたの妻のサラには男の子が生まれているでしょう。」

サラは、その人の後ろにある天幕の入り口で聞いていた。アブラハムとサラは多くの日を重ねて年を取り、サラには月経がなくなっていた。サラは心の中で笑って言った。「老いてしまった私に喜びなどあるだろうか。主人も年を取っているのに。」

主はアブラハムに言われた。「どうしてサラは、自分は年を取っているのに本当に子どもを産むことなどできるのか、と言って笑ったのか。主にとって不可能なことがあろうか。私があなたのところに戻って来る来年の今頃には、サラに男の子が生まれている。」

サラは怖くなり、打ち消して言った。「いえ、私は笑っていません。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」

 主の御名を賛美します。今日の聖書箇所を読んでいて、あのよく知られた「お客様は神様です」というフレイズが、ふと思い出されました。この出所は松下幸之助さんだと思い込んでいましたが、念の為調べてみたら、演歌歌手の三波春夫さんから出た言葉と分かりました。舞台で観客に向かう心構えを言い表したもので、こう語ったと言われます。「歌う時に私は、あたかも神前で祈るときのように、雑念を払ってまっさらな、澄み切った心にならなければ完璧な藝(芸)をお見せすることはできないと思っております。ですから、お客様を神様とみて、歌を唄うのです。」芸能人として立派な心構えの人ですね。勿論、歌を聴くお客様、家に迎えるお客様、店に来るお客様が、本当に神様であるはずが無いことなど、私たちには分かりきったことです。ところがしかし、今日、読んだ箇所が実は、何とお客が本当に神様だったと言う出来事なのです。聖書で言う信仰の父アブラハムとその妻サラが経験した出来事なのです。

.客の来訪

 アブラハムは、75歳で神の召しを受けて、故郷のハランを後にパレスチナに移住しました。それは彼にとって、神の祝福を期待した信仰による大変大胆な行動でした。しかしその経緯を追って見ると、結果的には、人間的に見て、どうもパッとしないように思えるのです。移住すると、その直後、パレスチナ一帯に起こった旱魃(かんばつ)による飢饉に襲われます。避難して移住したエジプトでは散々な目に遭います。一緒にずっと行動して来た甥のロトとは、気まずく別れる羽目になってしまう。パレスチナの対立する部族同士の喧騒な戦争に巻き込まれてしまう。財産が増え有力な部族長とはなったものの、跡継ぎとなる肝心の息子が無い。神は必ず子供が生まれ後を継ぐと約束してくださったにもかかわらず、その兆しは見当たらず、いよいよ年を取るばかり。10年も過ぎると、待ちきれない妻のサラの勧めでエジプト女奴隷により、男児イシマエルを得たものの、神の認証を得ることができない。気が付いてみれば、自分は99歳、妻サラも89歳。アブラハムと妻サラが、人間的には全く閉塞感に覆われていたまさにその時のことです、神様が客となられたのです。

 1〜8節を読む時、そこに三つの事実が、私には非常に印象的です。

第一に「主はマムレの樫の木のそばでアブラハムに現れた(1節)」、主なる神ご自身が来訪されたというこの事実です。アブラハムを訪ねた来客は、客は客でも主なる神なのです。三波さんの名セリフ『お客様は神様です』が、ここでは文字通りの意味です。「主が現れた」何と神が訪問客だというのです。

二つ目に印象的なのは、その神の訪問が、三人の旅人の形を取って現れたことです。「ふと目を上げると、三人の人が近くに立っていた(2節)」それは昼間の暑い頃、アブラハムは天幕の入り口近くで、座して午睡中だったのでしょう。物音にふと気づいて見上げて見れば、そこに三人の見知らぬ旅人が立っている。客としての神の訪問は三人の旅人の形をとっていたのです。

また印象的な三つ目の点は、アブラハムの来客に対するその対応の仕方にあります。彼は非常に謙遜慇懃(いんぎん)でした。彼は旅人を出迎えると、親族、一族郎党でもなく、行きずりの見知らぬ旅人に対して「地にひれ伏して」挨拶を交わしているのです。そればかりか、彼は最高のもてなしに徹していますね。「パンを幾らか」と遠慮がちに口にしてはいますが、実際には、妻サラに命じて36リットル分の大量のパンを焼かせ、僕(しもべ)達には、最上の子牛の肉料理を用意するよう命じています。日本流に言えば「何もございませんが」と言いつつ、手厚い接待をする、まさに「お・も・て・な・し」に相当すると言えます。その上、彼の対応は非常に迅速でした。来客に気づくと彼は、「走り出ている」(2節)、7節でも牧場に「走って行き」僕たちに指示しています。6節では、アブラハムは天幕に「急いで戻り」、パンを「急いで」作れと妻サラに命じています。その上で、全て食事の準備ができると、アブラハムは、自ら進んで立って三人の給仕役に徹していたのです。

 この出来事を通して、一つの確かな真理が、光って見えて来るのではないでしょうか。それは、見えざる真の神が、人間の形をとって人に現れてくださるという事実です。そして歴史上、その神の顕現(けんげん)の極致(きょくち)こそは、御子イエス・キリストの出現でありました。神の御子イエスは、乙女マリアより生まれ、その人間としての言動を通して、見えざる神を啓示されたのです。使徒ヨハネは、ヨハネ福音書1章18節に、証言してこう語っています。「いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」この人となられた神の御子イエスを見た者は、神を見たのだと言われているのです。そして、キリストが復活し昇天された後の今現在、その見えざる神の顕現の更なる極致が、キリストの教会なのです。これは決して飛躍しすぎた思考ではありません。何故なら、教会という信仰共同体は、キリストを頭(かしら)とする地上のキリストの体を意味するからです。見えざる唯一の神が、聖霊において教会にお宿りくださる、神は教会を通してご自身を啓示しようとしておられるのであります。

 私は16歳で、高校一年生の時に、家の近くのできたばかりの小さな教会を訪ね、そこで神との出会いを体験させていただいた一人であります。その教会の若い牧師夫婦とクリスチャンたちの中に、私は生ける神を見出すことができたのです。信ずるようにされたのでした。本当に不思議と言わざるを得ません。ここに今日おられる皆さんも同じではありませんか。何時か、何処かで、誰かキリスト者と出会い、その人を通して神が、個人的に人格的に出会ってくださったのではありませんか。黙示録3章20節に主イエスは語られました。「見よ。私は戸口に立って扉を叩いている。もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう。」アブラハムと同様に、私たちは旅人である誰かキリスト者によって、主イエスが我々の心の扉を叩いてくださったのです。その招きに応じて心を開き、イエスを主と迎え入れたので、豊かな経験へと導かれたのではなかったでしょうか。このような仕方で、私たちの人生の途上で、出会ってくださる主なる神様に感謝しようではありませんか。

.客の土産

 では、突然の来客である三人の旅人が、アブラハム夫妻に持参した土産はなんであったのでしょう。彼ら三人の旅人が、妻のサラの居場所についてアブラハムに尋ね、天幕の内にいることを確認すると、こう語り出しました。「私は必ず来年の今頃、あなたのところに戻って来ます。その時、あなたの妻のサラには男の子が生まれているでしょう。(10節)」そうです。旅人の土産は、アブラハム夫妻に対する子供誕生の告知でした。一年後には、彼ら二人の間に一人の男児が誕生していると、彼らは告げ知らせたのです。それが彼らに対する土産でした。

 この男児出産告知に対する夫婦の反応は、この箇所では専らサラに限られており、アブラハムは沈黙しているかのように見えます。しかし、私たちはその前の章、17章を読むことで、この事態を予感していたアブラハムの反応を知ることができます。神は18章に先立ち、アブラハムに個人的にご自身を顕現なされました。17章の中での神の顕現と、アブラハムとの対話はかなり長いものです。その中で、神はアブラハムに対して、妻サラが男児を生むことになると、はっきりと約束されました。19節にこう記されています。「あなたの妻であるサラがあなたに男の子を産む。その子をイサクと名付けなさい。」18章において、あの天幕内でサラが聞いたのと同じ告知を、アブラハムは既に個人的に神から聞いていました、しかも、その生まれる男児の名前まで、イサクとするよう命じられてもいたのです。では、この主なる神の子供誕生告知に対する夫婦の反応は、それぞれ違っていたかというと、全く同じでありました。その共通反応は一言で言えば「笑い」なのです。二人は神の告知に対して笑ってしまったのです。夫婦一致して、よりによって笑いで反応したのです。あえて違いを言えば、サラは心の中で笑いましたが、アブラハムは実際表に声を出して笑った点です。しかし二人の笑いに本質的に違いはありません。しかもそれは神の前における不謹慎な最悪の不信仰の表現でした。神の発言を笑い飛ばしたのですから。17章17節がアブラハムの笑いです。「アブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言った。『百歳の男に子どもが生まれるだろうか。九十歳のサラが子どもを産めるだろうか。』」そして、18章12節が妻サラの笑いです。「サラは心の中で笑って言った。『老いぼれてしまった私に喜びなどあるだろうか。主人も年を取っているのに。』アブラハムの笑いは、余りに大きな矛盾のゆえの驚き笑いでしょうか、サラの笑いは苦渋の感情が込められた苦笑いであったことでしょう。

 アブラハムとは、ユダヤ人にもクリスチャンに取っても、聖書で「信仰の父」とまで呼ばれている尊敬すべき人物でしょう。だがその現実は、我々と何も変わらないのです。普通の人なのです。神の思いと人間の思いの開きは果てしなく隔たりがあるのです。イザヤ55章8、9節にこう預言される通りでしょう。「私の思いは、あなたがたの思いとは異なり私の道は、あなたがたの道とは異なる――主の仰せ。天が地よりも高いように、私の道はあなたがたの道より高く私の思いはあなたがたの思いより高い。」しかし、その主が続けて言われたのです。「雨や雪は、天から降れば天に戻ることなく、必ず地を潤し、ものを生えさせ、芽を出させ種を蒔く者に種を、食べる者に糧を与える。そのように、私の口から出る私の言葉も、空しく私のもとに戻ることはない。必ず、私の望むことをなし私が託したことを成し遂げる。」 

 アブラハムが75歳の時、主は彼を祝福して送り出されました。更に世継ぎが必ず与えられると約束もなされました。10年経ち待ちきれずに奴隷女で世継ぎを画策し、既に24年も年月が経過していました。状況は何の変化もありません。二人はただむやみに老齢化するばかりです。しかし、神の約束は必ず実現するのです。必ず成就するのです。これから先の創世記21章1節をどうぞご覧ください。「主は、言われたとおり、サラを顧みられた。そして、主は、語られたとおり、サラのために行われた。」とあります。何が行われたのでしょうか。神が語られたとおりの時期に、つまり一年後、サラに男の子が生まれたのです。アブラハムはその子どもにイサクと名付けました。神の子供誕生の告知に対する二人の共通反応は笑いでしたね。愉快なことにヘブライ語では、命名された名前のイサクと笑いは同じ言葉なのです。彼らが笑ったので名前が笑いを意味するイサクとされたのです。あり得ないこととしての笑いにも関わらず与えられる子、という意味で付けられたのでしょう。二人の笑いは不信仰そのもの驚きの笑い、苦渋に満ちた苦笑いでした。しかし、恵と憐れみに富む神は今や、喜びの笑いに変えてくださったのです。神はご計画の中に召された者たちの中に、その信仰の有無に関係なく、ご自分の約束されたことを必ず実行なされる方です。今日、あなたの置かれた状況はどうでしょうか。たとえ周囲を取り巻く状況が思わしくなく、いよいよ悪い方に傾くように見えたとしても、主なる神の約束をしっかり心に留め置くことにいたしましょう。主は必ず、あなたの心を喜びの笑いで満たされるようにしてくださるに違いないからなのです。

.客の目的

 三人の旅人の土産は、子供誕生の告知でしたが、その主たる来訪の目的は、ただ一つ、彼らに神が全能であることを啓示することでした。17章において、神が個人的にアブラハムに現れた時の最初の語りかけは「私は全能の神である。私の前に歩み、全き者でありなさい。」(1節)です。18章において、神がアブラハム夫妻に同時に現れた時の語りかけは、「主にとって不可能なことがあろうか」です。全能であるとは不可能なことが何一つ無いことです。人間中心的な現代社会、そして、何もかもが閉塞的な現代世界に生きる私たちに取って、これほど素晴らしいメッセージはありません。神は生きておられるのです。神は全能であられ不可能なことは何一つとしてないお方なのです。しかし、決して誤解しないようにしましょう。私たちの望むままに、神は何でもしてくださる便利屋でもなければ、操作簡単なロボットではありません。

神はご自身の御旨に叶う全てにおいて万事を可能とするのであって、私たちの思い通りになさる方ではありません。

 そして、今日、私たちは、このアブラハムの神、全能の神が、ある一つのことだけ出来なかったことを、しっかりと心に覚えておくことにしたいと思うのです。全能の神に不可能があったのです。それは十字架を避けることだけができなかった、ということなのです。主イエスの十字架の受難を偲び、ゲツセマネの祈りをマタイ26章36〜39節に読んでみましょう。「少し先に進んでうつ伏せになり、祈って言われた。『父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の望むようにではなく、御心のままに。』」主イエスは父なる神に「父よ、できることなら」と祈られました。父は全能であること、不可能なことが一つも無いことをイエスは知っておられました。イエスはユダに裏切られ敵対者によって逮捕されようとしており、イエスの目前には十字架が迫っていました。イエスは十字架の苦難を杯を飲むことと表現されました。「できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。」と嘆願されました。十字架の苦難を避けることができるなら回避させてくださいと願われました。

 それは甘いブドウ酒の杯ではありません。人類の罪責の全てが凝集された苦い苦い、それは苦渋に満ちた杯でした。そこに私たちの心の思いの罪、言葉の罪、行いの罪過、その全てが濃縮されていたのです。「父よ。できることなら」イフ ポッシブル!「主にとって不可能なことがあろうか?」あるはずがありません。しかし、神は、この日、この一事を、即ち苦い杯を、十字架を、イエスの前から取り除くことができませんでした。それは、ただただ愛ゆえに、私たちの罪を赦るすためであったからなのです。イエスは十字架上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」と執り成し祈られました。イエスは十字架上で苦しみ「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。全能の神が、イエスの前から苦い杯を取り除くことを不可とされたために、罪の赦し、救いが完成したのです。それによって、今、私たちは主イエスを信じて救われ、全能の父なる神の前に出ることが可能とされたのです。不信仰の苦笑いをも、喜びの笑いに変えていただく恵みに入れられたのです。今朝、聖餐式にこれから臨もうとしております、主イエスの十字架の受難を偲びつつ、盃とパンとに預かることにいたしましょう。主の御名はほむべきかな!