1月29日礼拝説教

「今こそ勇気出せ」  ハガイ2章1〜9節

ダレイオス王の治世第二年、第七の月の二十一日に、主の言葉が預言者ハガイを通して臨んだ。

「ユダの総督シャルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュア、および民の残りの者に告げよ。あなたがた、生き残った者のうち、かつて栄光に輝いていたこの神殿を見た者は誰か。今、あなたがたが見ているものは何なのか。目に映るのは無に等しいものではないか。ゼルバベルよ、今こそ強くあれ——主の仰せ。

大祭司ヨツァダクの子ヨシュアよ、強くあれ。この地のすべての民よ、強くあれ——主の仰せ。働け、私はあなたがたと共にいる——万軍の主の仰せ。あなたがたがエジプトを出たときに、私があなたがたと結んだ契約によって、私の霊はあなたがたの中にとどまっている。恐れてはならない。

万軍の主はこう言われる。間もなく、もう一度私は天と地、海と陸地を揺り動かす。諸国民をすべて揺り動かし諸国民のあらゆる財宝をもたらし、この神殿を栄光で満たす——万軍の主は言われる。銀は私のもの、金も私のもの——万軍の主の仰せ。この新しい神殿の栄光は以前のものにまさる——万軍の主は言われる。この場所に私は平和を与える——万軍の主の仰せ。」

 バビロン捕囚から帰還した民は、破壊された神殿の再建で、基礎工事に着手した。政治状況や悪質な妨害のため、工事は18年も放置されていた。その落胆した民を奮起させたハガイによる「ゼルバベルよ、今こそ強くあれ」との預言に、主が慰め励ます神であることを知る。

使徒パウロも「神は、どのような苦難のときにも、私たちを慰めてくださる」と後にコリントの教会に教える。イエスを主と信じる者は、いかに気落ちしても主の確かな励ましと慰めを受けることができる。そればかりか、「今こそ強くあれ、働け、私はあなたがたと共にいる」と語られる主は、共に生きて働く神であることをも明らかにされる。

神の民と共におられる保証は、出エジプト後、主がシナイ山で立てた契約にあった。契約により民の神となられた主は、いつでも共におると確約される。今現在、主が私たちと共におられる保証は、新しい契約、キリストの十字架の血の契約にある。主イエスの十字架で流された血の故に、信じる者は罪赦され、神の子とされる。聖徒たちの集会が教会であり、主イエスはその集まりと共におられる。「二人または三人が、私の名によって集まるなら、そこに私も共にいるのです」と主は約束された。その意味で教会は神の住まい、神殿なのだ。ソロモンの神殿も、ヘロデの神殿も崩壊した。神の建てる新しい神殿は私たち、即ち信じる者の集会、教会である。「あなたがたは、、、キリストにあって、、、主の聖なる神殿となります」(エペソ2:20)その名もインマヌエル、(神は私たちと共におられる)を意味する主イエスが、十字架の契約の故に、私たちと共にいてくださるとは何たる光栄か。

しかも共におられる主が、「私は、諸国民をすべて揺り動かす」と語り、実に世界を治める主権者であることを啓示される。私たちは、混迷する世界情勢に主を認めるべきだろう。世界が動揺するのは、揺り動かされるものが、取り除かれることを示しています」とヘブル12章は解く。私たちが不動の御国、神の支配に入れていただいていることを感謝しよう。

1月22日礼拝説教

「雲が幕屋を覆い」  民数記9章15〜23節

幕屋を建てた日、証しの天幕である幕屋を雲が覆った。それは夕方になると幕屋を包む火のように見え、朝まで続いた。常にそのようにあって、雲は幕屋を覆い、夜は火のように見えた。

雲が天幕から離れて昇ると、それと共にイスラエルの人々は進み、雲が一つの場所にとどまると、イスラエルの人々はそこに宿営した。イスラエルの人々は主の命によって進み、主の命によって宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営し続けた。雲が何日もの間、幕屋の上にとどまり続けることがあっても、イスラエルの人々は主への務めを守り、進まなかった。

雲が幕屋の上に数日の間しかとどまらないこともあったが、彼らは主の命によって宿営し、主の命によって進んだ。雲が夕方から朝までとどまるときも、朝になって雲が昇れば、彼らは進んだ。昼であれ、夜であれ、雲が昇れば、彼らは進んだ。二日でも、一か月でも、何日でも、雲が幕屋の上にあって、その上にとどまり続けるかぎり、イスラエルの人々は宿営したまま、進まなかった。雲が昇れば、彼らは進んだ。

彼らは主の命によって宿営し、主の命によって進み、モーセを通して示された主の命によって主への務めを守った。

エジプトの奴隷から解放された民は、宿営の中心の幕屋を覆う雲が昇ると旅立ち、雲がとどまると宿営した。そのイメージは旅をする民で、約束されたパレスチナを思い見つつ進む40年の長旅だった。それは始祖アブラハムの信仰につながるイメージであり、彼自身が生涯テント生活に終始する旅人であった。

「アブラハムは、堅固な土台の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。」とヘブル11章10節は証言する。罪の奴隷からキリストを信じる信仰により解放された私たちもまた、天国を目指す地上の旅人であり、私たちの国籍は天国にあるのではないか。地上には理想的な永住地の無いことは阪神淡路大震災が示している。

主イエスは父の家に私たちの住まいを備えに昇天され、準備ができたら迎えに来てくださる。束の間の人生において、自分の責任を忠実に果たしつつ、旅人として目的地に向かうことにしよう。

40年の荒野の民の旅路は前人未踏で危険であるため、彼らは神の導きに全面的に依存していた。にもかかわらず、必らずしも彼らが神の導きに従順に従ったかどうかは疑わしい。否むしろ、民数記の記録も、新約聖書の解説も、彼らが心を頑なにし、神に背いたことを証言している。

キリストを信じる信仰者の人生は、荒野のように困難が山積する。だが全ては信仰の試練であることを覚えておこう。そこで神に信頼するか信仰が試される。それによって精錬されるに違いない。「あなたがたを襲った試練で、世の常でないものはありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。」それ故に、務めて不平や愚痴をこぼさず、すべてを感謝しよう。

神の民は荒野の旅路で「主への務めを守った」。神は、計画実行のためご自身に仕えるように民を召される。今や聖霊は例外なく信じた一人一人の内に居られ、聖霊の賜物を付与し、全体の益になるよう働いておられる。それが何であれ各自が自分の賜物を見極め、奉仕に余念なく当ろう。

115日礼拝説教

「お言葉ですから」  ルカ5章1〜11節

群衆が神の言葉を聞こうとして押し寄せて来たとき、イエスはゲネサレト湖のほとりに立っておられた。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。イエスは、そのうちの一そうであるシモンの舟に乗り込み、陸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆を教えられた。

話し終わると、シモンに、「沖へ漕ぎ出し、網を降ろして漁をしなさい」と言われた。

シモンは、「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も捕れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。

そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいた仲間に合図して、加勢に来るように頼んだ。彼らが来て、魚を両方の舟いっぱいにしたので、二そうとも沈みそうになった。

これを見たシモン・ペトロは、イエスの膝元にひれ伏して、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間です」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子ヤコブとヨハネも同様だった。

すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

公生涯の初期に、イエスはガリラヤ湖の漁師ペテロを弟子に召された。

その朝、ペテロは前夜の不漁で気持ちも重く網を洗っていた。神の言葉を聴こうと押し寄せた群衆に、イエスはペテロの船から教え、後に沖に漕ぎ出て網を降ろすようペテロに命じられる。

昼日中に漁を勧めるイエスに、プロの漁師としていささか反発の気持ちもあったであろうが、ペテロは「お言葉ですから」と応じて漁をすると、意外や驚異的な大漁であった。

最初、「先生、私たちは夜通し働いたのに・・・」と応じたペテロあったが、その大漁の結果、彼は「主よ。私は罪深い人間です。」と平伏し、イエスに対する認識が一変してしまった。上に立つ人くらいの尊敬を込めてペテロはイエスに先生と呼びかけたが、ペテロに語りかけられたイエスは主、即ち神であられたのだ。

ガリラヤ湖畔で群衆に語られた神の言葉は、不特定多数の人々に語られ、今日で言うところの教会の礼拝説教に相当した。だがペテロに、沖に出て漁をするよう語られた言葉は、個人的に語られた言葉、原語でレーマであった。主イエスは、漁を職とするペテロの船をご覧になり、また語られた。漁業を専門とする本職の漁師ペテロでも、徒労に終わり失敗し、失望する。

人間は働きつつ生きるもの。主はその大切をご存じで、常に人の働きの場に寄り添ってくださるお方である。主イエスは昇天されたが、今や聖霊のご人格において、信じる者のうちに居られる。人の思いに神の思いを融合されることによって、常に助けの手を差し伸べておられる。ペテロは、「私たちは夜通し働きましたが・・・」と仲間同士の共通体験、共通認識を全面に出して答えてはいても、「しかし、お言葉ですから、私は網を降ろしてみましょう」と、主体的に主イエスに応じていた。

主の言葉に傾聴することは尊い。しかし、ヤコブ書1章22節には「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの人であってはなりません」と勧告されているように、ペテロが聴いて実践した姿勢に倣うなら、期待に優る新年が、必ずや展開することになるに違いない。

1月8日礼拝説教

「午後三時の祈り」  使徒行伝10章1〜8節

さて、カイサリアにコルネリウスと言う人がいて、イタリア大隊と呼ばれる部隊の百人隊長であった。敬虔な人で、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。

ある日の午後三時ごろ、コルネリウスは、神の天使が来て「コルネリウス」と呼びかけるのを、幻ではっきりと見た。彼は天使を見つめ、怖くなって、「主よ、何でしょうか」と言った。

すると、天使は言った。「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。今、ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、皮なめし職人シモンと言う人の客になっている。家は海岸にある。」

天使がこう話して立ち去ると、コルネリウスは召し使い二人と、側近の部下で敬虔な兵士一人とを呼び、すべてを話してヤッファに遣わした。

 新年は主の恵みの年であるが、賜物は受け取る手段が不可欠になる。数ある恵みの手段の中でも神への祈りは最有効。カイザイリアのイタリア大隊の百人隊長コルネリウスの午後三時の祈りは、「、、、地の果てまで私の証人となる」と語られたキリストのビジョン、世界宣教の突破口になったことが知られる。

ローマ人だったコルネリウスは、会堂の礼拝に参加し、神を敬う敬神家だった。ユダヤ人が慣習とした三つの徳行、断食、施し、そして日に三度の祈祷の実践者でもあった。麗しの門での乞食の足萎えの癒しの奇跡が、神殿の午後三時の祈りに参加する予定の使徒ペテロによって実行されたことが示すように、初代の聖徒たちもユダヤ教の徳行を継承していたのだ。

だがマルコ15章には、主の十字架の受難が九時に始まり、十二時に暗黒に覆われ、三時に息引き取られたとの記述により、初代教会は定刻祈祷の実践根拠を十字架の受難に置いていたのだ。コルネリウスの祈りに現れた天使は、隊長の祈りが神に覚えられていることを告げる。

祈りは神に芳しい香りとして届いている。どんな小さな祈りも神に見逃されることはない。使徒ペテロがヨッパで昼十二時の祈りをすると天からの幻で啓示を受け、それによって神はペテロの無意識の偏見、即ち、人種差別意識を露出させ、驚くばかりの変革を彼にもたらされた。自分で気づいていない偏見は神の働きの障害となる。異邦人を蔑視し、交際を汚れると避けていたペテロが変えられた結果、福音宣教は怒涛のように異邦人世界に注ぎ出されることとなった。ユダヤ人のペテロとローマ人のコルネリウスは、面識皆無であったが、聖霊により統合的に出会いが導かれている。

人は祈ることで出会いが導かれる。それによって神の業がダイナミックに展開することになる。主は「私の家は祈りの家と呼ばれる」と言われた。教会が祈りの家として、祈りが焚き込められるなら、教会は神のパートナーとして導かれ、新しい大いなることが起こされるに違いない。この年、教会でも個人的にも定刻祈祷にチャレンジしてみよう。

1月1日礼拝説教

「主の恵みの年に」  イザヤ61章2節

主なる神の霊が私に臨んだ。主が私に油を注いだからである。主の恵みの年と、私たちの神の報復の日とを告げ、すべての嘆く人を慰めるために。

シオンの嘆く人に、灰の代わりに頭飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、沈む心の代わりに賛美の衣を授けるために。

彼らは義の大木主が栄光を現すために植えられた者と呼ばれる。

 私たちは、元旦の朝には互いに謹賀の挨拶を交わすのを常とする。この新年は、開かれているイザヤ61章2節によれば、喜びの保証される主の恵みの年と成ることが約束される。

この預言はまず、バビロン捕囚で、異国の地に何十年も居留せざるを得ず、その悲哀を深く思い、悲嘆にくれるユダヤの民に語られた。歴史事実によれば、大バビロン帝国を打倒したペルシャ帝王クロスが、捕囚の民に祖国帰還を発令したBC538に、この預言が成就し、嘆きは慰めを得、祖国再建を果たす結果となった。実に主の恵みの年を告知した1節の主に油注がれた人物こそ解放者クロスであった。

しかし私たちは45章1節に、イザヤが歴史上にクロスの出現をその100年以上も前に預言している事実に驚きを覚える。神はクロスをユダヤの民の解放のため一人の救世主として起こされたのである。だが、この油注がれた解放者、救世主の完全な預言成就は、私たちの主イエス・キリストにある。

全人類をその恐るべき罪の奴隷から解放するため、御子イエスは十字架の身代わりの死と復活によって罪の赦しを得させてくださった。イエスを救い主と信じる者は誰でも赦され、神と和解し、神の子となる特権を得るが、それは神の恵みの業に他ならない。

キリストが来られてから今の時代は恵みの時、救いの日なのである。昨年の様々な辛い出来事で、嘆き深くため息しただろうか。だが主に信頼し前進するなら、嘆きの代わりに喜びの油が注がれるに違いない。神は、腐敗しきったユダヤの罪を撃つためバビロン帝国を道具として使い、捕囚の民を解放するためペルシャ帝国を自在に用いられた。主は国を興し、国を廃する主権者であられる。

救い主として来られた主イエスは、すべての人に報いるために再び来られる。神を知らない人々、福音に聞き従わない人々は罰が与えられ滅びに定められる。神は人間を神の協力者として造られ、各自に計画を有し、神と共に行動することが求められる。慈愛に富み、全能の神に大いに期待すると共に、神の期待に応え、自分の役割を今年も果たすことにしよう。