726日礼拝説教(詳細)

「祝福百倍の恩恵」  伝道の書6章1〜12節

6:1わたしは日の下に一つの悪のあるのを見た。これは人々の上に重い。

6:2すなわち神は富と、財産と、誉とを人に与えて、その心に慕うものを、一つも欠けることのないようにされる。しかし神は、その人にこれを持つことを許されないで、他人がこれを持つようになる。これは空である。悪しき病である。

6:3たとい人は百人の子をもうけ、また命長く、そのよわいの日が多くても、その心が幸福に満足せず、また葬られることがなければ、わたしは言う、流産の子はその人にまさると。

6:4これはむなしく来て、暗やみの中に去って行き、その名は暗やみにおおわれる。

6:5またこれは日を見ず、物を知らない。けれどもこれは彼よりも安らかである。

6:6たとい彼は千年に倍するほど生きても幸福を見ない。みな一つ所に行くのではないか。

6:7人の労苦は皆、その口のためである。しかしその食欲は満たされない。

6:8賢い者は愚かな者になんのまさるところがあるか。また生ける者の前に歩むことを知る貧しい者もなんのまさるところがあるか。

6:9目に見る事は欲望のさまよい歩くにまさる。これもまた空であって、風を捕えるようなものである。6:10今あるものは、すでにその名がつけられた。そして人はいかなる者であるかは知られた。それで人は自分よりも力強い者と争うことはできない。

6:11言葉が多ければむなしい事も多い。人になんの益があるか。

6:12人はその短く、むなしい命の日を影のように送るのに、何が人のために善であるかを知ることができよう。だれがその身の後に、日の下に何があるであろうかを人に告げることができるか。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:Unknown-6.jpeg今日の聖書箇所の朗読を聴いて喜びがペチャンコに潰れたのではありませんか?6章に散りばめられた言葉はキラ星ですか?いいえ!1節の出だしからして実に暗いのです。

わたしは日の下に一つの悪のあるのを見た。これは人々の上に重い。」ずっと拾ってみるとこうです。「悪、重い、空、病、満足せず、むなしい、暗闇、幸福を見ない、満たされない、優らない、風、益なし、短い」この6章自体がずっしり重いですね。ひと読みして、正直、ここから何を語れるか暗澹たる気持ちになったものです。それもそのはず4、5章の主題が「日の下にある虐げ」であれば、6章7章の主題は「日の下にある不幸」なのです。

 例証:先週ショッキングな報道があった!筋萎縮性硬化症の女性患者を死亡させたとして二人の医師が嘱託殺人で逮捕されたというもの。この女性は海外でも生活した経験があるキャリアウーマン。帰国後は東京で建築士として仕事をしていましたが、2011年にALSを発症。地元の京都で24時間ヘルパー支援による生活を送っていた。スイスで安楽死を受けることを希望していた。「何故この自分がこの病気にかからねばならないのか」思い悩まれていた。これはまさしく日の下にある典型的な不幸ですね。

 ではこの日の下には希望があるのだろうか。この暗い陰鬱な6章に一条の光でも差し込んでいるのだろうか?実はあるのです!それが10節なのです。非常に興味深いことに、10節は伝道の書の折り返し点です。1章から6章9節まで、節数が111です。10節から12章14節まで何と111です。そして主題の「空の空」へベルの字数は37で、37の3倍が何とこれまた111なのです。ちなみに聖書の章と節の区分は500年前にユダヤ人のラビにより付けられている。霊感は無いが意味深長!旧約(1448年ラビ、ナタン)新約(1555年ロベール)10節を読みます。「今あるものは、すでにその名がつけられた。そして人はいかなる者であるかは知られた。それで人は自分よりも力強い者と争うことはできない。」ここから3ポイントで短くお勧めしたいと思います。

 最初のポイントは『今あるものは、すでにその名がつけられた』即ち、存在するもの全ては神の創造の御業であるということです。別訳でこう訳しています。「存在しているものは、すでにその名が呼ばれている」 「名を付ける」命名するとは何か?これは創造の行為なのです。創造とは 何かを存在に呼び出す行為 なのです。 

聖書をイザヤ40:26を開いてみよう!「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。主は数をしらべて万軍をひきいだし、おのおのをその名で呼ばれる。その勢いの大いなるにより、またその力の強きがゆえに、一つも欠けることはない。」「ひきい出し、名を呼ぶ」これは創造の業なのです。 イザヤ43章1節も開いてみよう。『ヤコブよ、あなたを創造された主はこう言われる。イスラエルよ、あなたを造られた主はいまこう言われる、「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。」民族をも存在に呼び出したのは神の創造の業なのです。神が天地を創造、万物を造られたのです。

 先週20日に「アラブ首長国連邦(UAE)が火星探査機『HOPE(ホープ)』の打ち上げに成功した。探査機は2021年2月に火星に到着する見通し。」打ち上げたロケットは日本製で富士重工業、55回目とのこと。すると23日に中国も火星探査機打ち上げに成功したと。これは全て国威発揚が目的です。だが何を意味するか。それは神の創造の業を研究することです。その前に私は米国アポロ衛星による月面着陸のドキュメントを観た。月面は荒漠たる砂地、クレーターです。遠くお月様にウサギを観ていたロマンスは無く、味気ない結果ですね。神は地球を人間の生きる空間として美しく精巧に創造されたのです。 昨年のこと、近所の床屋さんから20匹のメダカを貰ったが、水槽で飼育するが何とも可愛らしく癒される。神はこのような微生物でさえも楽しみのために造られたことに毎日感動しております。

 では第二ポイントは何か。それは人間の身元と運命です。10節はこう続く。「そして人はいかなる者であるかは知られた」別訳二種類『それがアダムであることは知られている、人間とは何ものなのかも知られている』 この「人」と訳された原語はアダムなのです。人間が神の創造の産物であることを繰り返す必要は無いでしょう。しかし、それでも確認することは有益ですから、あの創世記1章27節を読みます。『神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。』もう一つ5章2節「彼らを男と女とに創造された。彼らが創造された時、神は彼らを祝福して、その名をアダムと名づけられた。」この人が原語ではアダムです。これと並行してもう一箇所は創世記3章19節『あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:Unknown.jpeg ここから人間に関して解る事が二つあります。それは人間の身元と運命です。身元を確認するとは大事ですね。就職するとき、結婚するとき、海外旅行すると身元が確認されねばならない。場合によっては証明され保証されねばなりません。どこに住んでいる  どこの家族の者なのか。何者なのか。では人間の身元は何か?なんと「土」なのです!原語はアーダーマー、泥、粘土、土塊、それが身元なのです。どんな良家のお嬢様、御坊ちゃまでも共通するのは土です。

 では人間の運命は何か?「土に帰る」即ち死ぬことなのです。伝道の書のテーマ主題は、1章2節により「空(くう)」であると言いました。その意味が「空しさ、儚さ、無意味さ、束の間」と種々に解釈されるが、その空であることの最たるものこそ人間の運命である「死ぬこと」なのです。 そして、この6章が取り上げる空しさこそ人間の運命としての死であり、その一つは、3節の百人の子持ちの長生きした男の話でしょう。6節でその長寿の年数が「たとい彼は千年に倍するほど生きても」とあり、これが仮の話しであることは明らかですが、ここに死ぬことの空しさが強調されている。歴史上、長寿の記録保持者は誰か?アダムは930歳だが、保持者はメトセラで969歳(創世記5:27)です。その倍の2000年生きても幸福を見ないで死ぬなら虚しいと言っているのです。その上、12節はもっと現実的にこう言う、「人はその短く、むなしい命の日を影のように送るのに、何が人のために善であるかを知ることができよう。」短い!影のようだ!太陽が投影する間は影も映る。だが、陽が沈めば影も消失してしまうのです。

 この伝道の書をEテレビで講義を予定された小友 聡牧師は、そのテキストの題を「それでも生きる」とされました。そうです。人は自分の身元、出自を弁え、死ぬべき運命を知る時に、それでも生きる理由、動機を弁えなければなりません。そして、その生きる理由、動機を明らかにするものこそ実はこの10節の最後のフレーズなのです。「それで人は自分よりも力強い者と争うことはできない。」どう言う意味でしょうか?「それで」前半を受けて、結論ですね。この「自分よりも力強いもの」を「死」を意味するとする説があります。確かに聖書は死を「最後の敵」と呼び「恐怖の王」と呼びます。人間は全てを制覇してきた!だが、死だけは征服することできない。死を超えることは誰にもできない!そう言う意味に取れないでも無い。 しかし、最も妥当な理解は「力強いもの」それは神様だと言うことです。その時にこそ、6章を解く鍵となり、私たちに希望の光を与えるものとなるのです。

 そこでここから三つ皆さんにお勧めすることにします。

1 神と争うことはできないこと

自分よりも力強い者と争うこと」それは何にも優って第一に言えることは、天地創造の全能の神と争うことは不可能であり、無意味だと言うことです。この場合の「神と争う」とは神を否定、神を無視し、神不在の人生を自分勝手に生き続けようとすることです。「神、そんなものは人間の想像の産物で架空の存在だ」と徹底して決めつけ無視することです。「目に見えない神などあるはずがない」「科学的に実験して証明できないような神などあり得ない」「神を信じるなど古臭い迷信であって現代人には馬鹿馬鹿しい限りだ」事実そう思い、そう自信たっぷりに確信している人がたくさんいるのです。しかし、聞いてください。いや聖書に聴いてください。2節では、神が人に富、財産、誉れを与え得る方だと言い、同時に神はその人にそれを楽しませないこともでき、他人に渡すようにすることもできると言うのです。先週、5章19節から、神が賜物として富、宝、楽しむ力を与えると語ったばかりです。しかし、神は楽しませないようにすることもできる力強い方なのです。

 10節で人間の身元が土であり、運命が死であると申しました。聖書は 人間は神の創造の結果だ と教える。そのほかに納得の行く説明を聴いたことがありますか?進化論ですか。仏教の輪廻説ですか?アメーバーから進化し、猿の延長ですか。前世と来世を信じるのですか。あなたは自分が生まれるに際して、どれだけ自分の意志を働かせたと言うのでしょうか。性別、民族、家族、言語、時代、文化、才能、全て自分の希望した結果でしょうか?そうではありません。全く自分は関与していない。できない。別な意志が働いた結果なのです。確かに父母の結婚の結果でしょう。しかし、その親がどれだけ、あなた自身の個性の形成に関与したと言うのでしょうか。ただ精子と卵子が胎内で結合した結果でしかない!神が創造された、意図して精巧緻密に作られたとすることが最も妥当するのです。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:Unknown-4.jpeg その創造者を無視して否定して自分勝手に神不在で人生を生きることは、それこそ無謀極まりないのです。12節の言うように「短く、虚しい命の日を影のように送る」とすれば、それでいて神無しに生きることは空恐ろしいことなのです。あなたは知らなくても神は貴方の髪の毛の数まで知り、あなたの全ての行状を死んだ後に裁かれるに違いないのです。そして、永遠の滅亡が定められた宿命なのです。神と争うことなど到底でき無い相談なのです。

2 神を訴えることはできない

 続いてお勧めしたい。それは あなたは「神を訴えることはできない」と言うことです。この「争う」は法廷で被告を訴えて論争することをも意味します。「自分よりも力強い者と争う」とは法廷に、裁判所に神を被告として引き出し、「あなたのしていることは間違っているではありませんか」と訴え裁くことなのです。第一には「神と争う」とは神を否定、無視することだと言いましたが、だが、あなたはそうではない。 神を認めている、信じている、尊敬もしている。だが、神が成されることに納得できないのです。我慢できないのです。論争したくなるのです。どうしても腑に落ちないのです。自分のイメージする神と現実の折り合いが付かないのです。「神様、あなたは全能ではありませんか!」「神様、あなたは正義の主では?」「神様、あなたは愛なる方では?」「あなたは何故私をこんな風に作ったのですか。」「では何故こんなことが私に起こったのですか。」「何故、こんな悲惨な状況をいつまでも放置されるのですか?」「あなたは本当に神なのですか?」グルグル心の中が掻き回され、黙っていられなくなるのです。

 イザヤ45章9節から13節読んでみよう!どうして語られたか?イスラエルが神を訴えたからです。40章27節「ヤコブよ、何ゆえあなたは、「わが道は主に隠れている」と言うか。イスラエルよ、何ゆえあなたは、「わが訴えはわが神に顧みられない」と言うか。」ご存知でしょう。時代はバビロン捕囚時代のことです。彼らは置かれた惨めな状況から神不信に陥ったのです。しかし、神の答えは「陶器師と陶器」の関係の提示です。茶碗や皿が反論することなどあり得ない!神は力強い方、歴史の支配者、形成者なのです。ご自身の計画に沿って行動される!人は「神と争うこと、神を訴えることはできません。」

3 神と和解する

 しかし、最後にもう一つの勧めをしたい。それは「自分よりもはるかに力強く偉大な神と争うのではなく和解し、神を第一にして生きること」です。5章2節「神は天におられ、あなたは地にいる」天地の創造者は人間と隔絶した尊厳あるお方です。人間はアダム以来、罪によって堕落し、それによって人間の歴史は戦争と悲惨の繰り返しなのです。その人類を神と和解させるため、神はキリストを遣わされ、十字架の死と復活により和解の道を開かれました。十字架につけられ復活され生きておられるキリストを主と信じる生活とは、神と和解し、神を第一として生きる生活なのです。

 マルコ10章17節〜22節に一人の若者が走り寄りイエスに質問します。「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」 後で分かる事だが、彼は金持ちでした。そればかりか道徳的に立派な人でした。律法をきちんと遵守していた。だが、彼は人生に心からの満足がなかった。何かが欠けていることを知っていた。だが重大な問題は彼が富を最優先することを捨てきれなかったことです。イエスはこう言われた、21節「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」イエスは経済を否定したのではない。彼の優先性の問題を指摘されたのです。しかもそれは致命的なのです。富は第一にすべきではない。富の奴隷であってはならない。先週話した通りです。しかし、彼は捨てきれない。心の整理がつかないのです。顔を曇らせ、悲しそうに去っていきます。

一方、弟子たちはどうか。彼らは28節「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従って参りました」と!イエスは言われたのです。29節「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。」この百倍は文字通りではなく、「素晴らしく」の意味です。

 ルカ22章35節でイエスが弟子に尋ねている。「わたしが財布も袋もくつも持たせずにあなたがたをつかわしたとき、何かこまったことがあったか」。彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。」そうです。不足しないのです。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:images-1.jpeg マタイ6章33節に主は言われた。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」神を第一にして生きる!それが束の間の人生での勝利に満ちた生き方なのです。「祝福百倍の恩恵」に日々生きる生き方なのです。人は、その時空しさの只中で「それでも生きる」ことができるのです。

719日礼拝説教(詳細)

「金持病の処方箋」  伝道の書5章10〜20節

5:10金銭を好む者は金銭をもって満足しない。富を好む者は富を得て満足しない。これもまた空である。

5:11財産が増せば、これを食う者も増す。その持ち主は目にそれを見るだけで、なんの益があるか。

5:12働く者は食べることが少なくても多くても、快く眠る。しかし飽き足りるほどの富は、彼に眠ることをゆるさない。

5:13わたしは日の下に悲しむべき悪のあるのを見た。すなわち、富はこれをたくわえるその持ち主に害を及ぼすことである

5:14またその富は不幸な出来事によってうせ行くことであるそれで、その人が子をもうけても、彼の手には何も残らない

5:15彼は母の胎から出てきたように、すなわち裸で出てきたように帰って行く彼はその労苦によって得た何物をもその手に携え行くことができない。

人は全くその来たように、また去って行かなければならない。これもまた悲しむべき悪である。風のために労する者になんの益があるか

人は一生、暗やみと、悲しみと、多くの悩みと、病と、憤りの中にある。

5:18見よ、わたしが見たところの善かつ美なる事は、神から賜わった短い一生の間、食い、飲み、かつ日の下で労するすべての労苦によって、楽しみを得る事である。これがその分だからである。

5:19また神はすべての人に富と宝と、それを楽しむ力を与え、またその分を取らせ、その労苦によって楽しみを得させられる。これが神の賜物である

5:20このような人は自分の生きる日のことを多く思わない。神は喜びをもって彼の心を満たされるからである

最近のコロナ感染の報道を聞いていると内心穏やかではありませんね。東京290人、大阪86人!第二波到来と言って差し支えない程、感染者数が増大しております。油断することなく予防に留意することにしましょう

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:IMG_2232.jpg しかし、今日はコロナ感染とは別な、もっと品の良い、それでいてタチ(質)の悪い病気がテーマであることは説教題からお分かりかと存じます。その病気とはアフルエンザと言われ、その日本名が金持病なのです。アメリカでこんな事件があります。『2013年6月のある日のこと。テキサス州に、イーサン・カウチという名前の16歳の少年がいました。彼の父親は、羽振りのいい板金メーカーの社長さん、要するに、イーサン少年は、大金持ちのボンボンだったのです。この日イーサン少年は、友達と自宅でパーティを開催。未成年にもかかわらず、したたかに酔っぱらった…さらに、そのあと、父親の大型トラックを運転!なんと4人の死亡者を出す大事故を起こしてしまったのです。駆けつけた警察が調べたところ、血中のアルコール濃度は、法律で定められている限度の3倍以上。さらに、イーサン少年は、スピード違反を犯していたことも判明しました。いくら16歳とはいえ、微塵たりとも情状酌量の余地はありません。なにしろ4人もの尊い命が奪われているということで、検察は、「懲役20年」を求刑しました。ところが裁判で弁護士が証人に心理学者を呼び、彼は証言して曰く、「イーサン・カウチ被告は、アフルエンザの患者だ。彼には責任能力が無く罪に問うべきではない。」その結果、10年の保護観察処分を言い渡したというものです。』 このアフルエンザとは、「裕福」を意味するaffluence(アフルエンス)と、Influenza(インフルエンザ)を合わせた造語で…ズバリ、「金持ち病」「金満病」「消費伝染病」という意味で使われているようです。「お金持ちすぎて、善悪の見極めがつかない」「お金持ちの人やその家庭の人が起こす異常な行動」薬物乱用、未成年者の飲酒も含まれるという病気なのです。

 誰でも人間であれば経済的な生き物ですから、多くの富を持つ金持ちであること自体は罪ではないでしょう。しかし、金持ち病となれば話は別ですね。

 ご存知のように新型コロナウイルスの症状を挙げればいくつもあります。37、5度以上発熱、味覚嗅覚の異常、頭痛、筋肉痛、疲労感、咳、息切れ、呼吸困難です。もし、その幾つか重なるならPCR検査を即刻受けるべきですね。気をつけてください。それでは、金持病アフルエンザの症状があるとすればどんなものでしょう。実はその症状を6つあげているのが、今日の箇所、伝道の書5章10節〜17節です。

1 富に満足できない。

症状の第一番目は富に満足できないことです。「金銭を好む者は金銭をもって満足しない。を好む者はを得て満足しない。」「金銭」は別訳では銀と訳され現金のことです。次の「」は家畜や不動産で財産のこと。次の「」は別では収益、利益と訳されます。金持ちは現金も財産も沢山所有している、投資すれば配当金、預金すれば利息が付く、そこから収入、収益がどんどん雪達磨式に増える。持てる者はいよいよ持てる者となる!昨日の新聞に「米コロナ対策格差広げる」見出し!世界の資産上位10人中、8人が米国人、トップはアマゾンのジェフ・ベゾス、二位ビル・ゲイツ。8人の総資産は80兆円。今年になって2割増えたと言われる!溜息出ますね。 今まで私が現金で管理した最高は1300万円、松任教会の建築資金、銀行に預金したら毎月の利息が5万円!驚きです。今は極端な低金利だが!ところが金持病にかかると富にどう言うわけか、どうしても満足できないというのです。何故ですか。その動機が貪欲だからです。金銭愛とは、貪欲の別名です。自分の持てる分に満足できず、もっと欲しいもっと欲しいと欲張る姿勢が貪欲です。その結果、どうでしょう。どれだけ所有しても満足できないジレンマに陥ってしまうのです。

2 富は寄食者を増やす。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:dollar.jpg第二の症状を11節はこう言う。「財産が増せば、これを食う者も増す」私が30代で職を転々としたことを思い出します。その一つは幼児教育の大手の事務職でした。経営者は大学で経済専攻、卒業して幼稚園を立ち上げ、4つの幼稚園、7つの保育園、二つの軽費老人ホームを経営し、事業として大成功者と映りました。所謂やり手なのです。街中にバーまで経営し、市役所職員などを接待し、補助金を巧みに手に入れている。13の事業所には13人の管理者を雇い、その全従業員を合わせると相当数になる。ある時、本部事務所の会議室に13名の管理者全員が揃い、法改正による書類の書き換え作業をしているのを目撃した。その13名の殆どは誰か、彼の親族近親者なのです。「財産が増せば、これを食う者も増す」その典型です。では金持病の症状は何か?「その持ち主は目にそれを見るだけ」別訳「持ち主にとって何の益になろう。彼はそれを目で見るだけだ」眺めるだけだ!それを見て一時的に優越感に浸ることができる。目の前には常に、自分より勝った人がいます。最高の地位に立ったとしても、いつ追い落とされるかわかりません。そこにはいつも不安が同居せざるを得ず、たましいの平安がないのです。

3 富は不眠症を起こす

第三の症状は 金持ちは安心して眠れないことです。そんなはずがないと思いますか。12節「飽き足りるほどの富は、彼に眠ることをゆるさない」面白い別訳「富む者は、満腹しても、安眠をとどめられる、金持ちは食べ飽きていて眠れない」どうも食べることと関係しているようですここで金持ちは「働く者」と比較されている。「く者は食べることが少なくても多くても、快く眠る昼間の仕事から解放され、肉体的な緊張がほぐれる人は良き眠りを楽しむことができる食事が貧しくても、沢山食べてもそうだと言うわけです。

どうして金持ちは眠れないか?3つ原因が挙げられる。1過度の飽満がその原因 「沢山食べる者は眠れない」2健康的な身体運動がない 3富への過度の欲望が不安を引き起こす。自分の富が失われはしないかと心配して安眠することが出来ない。恐らく第3番目が妥当するでしょう。

4 富は不幸で喪失する

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:images.png第四の症状は、何かの不幸で一瞬にして富を失うもので、富は頼りないものだと言うことです。14節「またその富は不幸な出来事によってうせ行くことである」この「不幸な出来事」が何かは詳しく説明していません。だが、これは言わずもがな!今年世界流行となったコロナ感染を誰が予測したでしょうか。至る所、経済危機を招き、悲鳴が聞こえてくるのではないでしょうか。「それで、その人が子をもうけても、彼の手には何も残らない」このような家族を巻き込む悲劇を私たちは自分の周辺にも幾らでも見て知っているのではないでしょうか。

5 富は死ねば持参できない

第五の症状は15節です。彼はその労苦によって得た何物をもその手に携え行くことができない」人間の死ぬ日と生まれる日は同じだと言うことです。誕生の姿は死ぬ姿と一致するのです。

人は裸で母の胎を出て、また裸で死ぬ。私は冗談で子供達に「私の棺には山崎製パンのアンパンを入れてくれ」と頼むのですが、何も持って行けません。裸とは無所有であることです。「あの世へは金は持って行けない」とは万人の知恵です。「地獄の沙汰も金次第」ところが金を持参できる人は一人もいないのです。人は根源的にモノ、金を所有することはできない。精々レンタルで言えばせいぜい80年くらいなのです。詩篇49篇17節「彼が死ぬときは何ひとつ携え行くことができず、その栄えも彼に従って下って行くことはないからである。」所有欲は幻想です、富に執着することは無意味なのです。

6 富の果実は心労で腐敗する 

最後の症状は17節です人は一生、暗やみと、悲しみと、多くの悩みと、病と、憤りの中にある富から得られる果実は心労で腐ってしまうと言うことです。富はその所有者に実をもたらし、収益を増やす。しかし、病的な金持ちであれば、これがその人の一生の結末なのです。

「20世紀の海運王」と言われたギリシャの大富豪アリストテレス・ソクラテス・オナシスの話は聞いたことがあるでしょう。トルコにタバコ商人の息子と生まれた彼は才覚を発揮し事業に成功し海運王となり大富豪となる。その生活ぶりは派手で、当時のオペラ界の花だったソプラノ歌手のマリア・カラスを射止め、そのうちに暗殺されたケネディ大統領のジャクリーヌ元夫人と結婚する。1953年にはモナコ王国の事実上の所有者にまで成り上がるのですが、最後は悲惨でした。最初の妻の二人の娘は、それぞれが富豪と結婚するのですが、二人とも睡眠薬の過剰摂取で姉は43歳、妹は45歳で死んでしまう、オナシスの一人息子は24歳の若さで飛行機事故で亡くなってしまう。失意のオナシスはその2年後、自ら気管支肺炎で69歳の生涯を閉じてしまうのです。文字通り裸で行ったのです!皆さんの中で金持ちになりたいと思っている方があれば、どうぞ思い直してください。今現在金満家であれば、よくよく吟味してください。今からでも遅くありません。

 では、金持病の症状が一つでもあればどうしたらいいですか。金持病にかからないためにはどうすればいいですか。

18節を見てください。そこにそのための素晴らしい処方が出されていることが分かるでしょう。「見よ、わたしが見たところの善かつ美なる事は、神から賜わった短い一生の間、食い、飲み、かつ日の下で労するすべての労苦によって、楽しみを得る事である。これがその分だからである」ここ18〜20節で提示される処方とは、一言で言って、「短い一生の間、楽しみを得る事である」即ち、人生の楽しみ方、喜び方を健全に会得すると言うことです。

 ここに来て、伝道の書に似たような勧告が今までもあったと気付かれたかも知れません。そうなのです。伝道者はこの12章の中に7回もこのテーマを語っているのです。(2:24—25、3:12—13、3:22、5:18−20、8:5、9:7、11:9)

A.人生の楽しみは獲得ではなく受け取るもの

(2章24、25節)2章前半は、ソロモン王に託した快楽追求、続いて相続の虚しさが述べられていましたね。それを背景に強調されたのは、「人生の楽しみは神の賜物として受け取るものである」と言うことでした。 

B.人生の楽しみは機会として与えられるもの

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:jfe3PIXnDByaib.jpg(3章12、13節)3章は、「全ての業には時がある」あの有名な出だしで始まり、時間論が述べられ、そこで強調されたのは、「楽しみは機会として神により与えられるものである」ことです。あの14の対句でなる詩の28の出来事の時をご覧ください。喜びの機会がいくつもあります。「生(うま)るる時、植える時、癒す時、建てる時、笑う時、踊る時、抱く時、保つ時、縫う時、語る時、愛する時、和らぐ時」クロノスとカイロスを説明しました。単調な時計の流れのような時もあれば、決定的瞬間もある。神は喜びの素晴らしい機会を賜物として備えていてくださる、と言うことです。

C.人には楽しむ能力が与えられているもの

(3章22節)3章では、人間が獣と同じだと言われた後に語られる。ショックでしたね。ここで強調されるのは、動物に無いものがある、それは人間には喜び楽しむ能力が備えられていることです。そこが動物と違うユニークさなのです。喜び、笑い、楽しむ動物を見たことありますか。動物は本能に突き動かされるだけなのですが、人間は楽しむ能力があるのです。

 では、7回のうちの4番目で何が強調されるでしょうか。「見よ、わたしが見たところの善かつ美なる事は」と善と美が出てきましたから、もう一つ真を加えて「人生の楽しみ」の真・善・美を紹介することいたします。

1 富に仕えず神に仕えること  真

人生を楽しむ真理とは、聖書全体から言えること、それは、「富に仕えるのではなく神に仕えることによって得られる」と言うことなのです。

主イエスはこう語られました。「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」マタイ6:24「人生は富を蓄え金持ちになりさえすれば存分に喜び楽しめることができるはずだ」と思い込みがちです。しかしそれは全く真理ではありません。金持病の本質は、自分では富を支配しているつもりで、実は富によって人が支配されるところにあるのです。人は富や財産を所有し自由に使うことによって幸せを掴めると考えます。ところが実際には富や財産に支配され、奴隷にされているのです。主イエスは神と富を並列されました。神の本質が全能であれば人の目には富が全能であるかのように見えるからです。しかし、富は人を徹底的に欺くのです。

すでに金持病の6つの症状を取り上げましたが、その悲惨な症状の全ては、人が富、財産、金銭を神扱いした結果なのです。現代世界に蔓延している精神はそれゆえに「マモン崇拝」と言われる所以です。科学技術信仰に並び、現代人を蝕んでいるのは経済中心主義なのです。富に奴隷として仕えていては、本当の意味で人は人生を楽しみ喜ぶことはできないのです。ですから、人が救われるとは、主イエスを信じて、罪の奴隷、富の奴隷から解放され、神に仕えるものとされることなのです。そこから本当の人生の楽しみが得られるのです。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:images-2.jpeg2 賜物として楽しみを受け取ること 善

第二の処方箋(善)は人生の喜び楽しみを神様からの賜物として両手を差し出し受け取ることです。2章、3章で語られた教えに通じる真理です。18節「神から賜わった短い一生の間」とあります。人生は短い、儚い、束の間なのです。その人生そのものが神の賜物なのです。そうだとすれば、その人生において神はなおのこと喜び、楽しみをも賜物としてプレゼントして下さるのです。18節「食い、飲み、かつ日の下で労するすべての労苦によって、楽しみを得る事である。これがその分だからである。」別訳「これが人の受ける分なのだ。それは彼の分だからだ。それが彼の分け前だから」神の賜物を「分け前」と表現します。その賜物、分け前は何か?「食い、飲み、かつ日の下で労するすべての労苦によって」食い飲み労苦!「え、それが分け前ですか?」それは何とも日常茶飯な、平凡な事柄ではありませんか。しかし、そこにこそ、その短な日常茶飯に手短なところにこそ、実は、喜び、楽しみが備えられていると言うのです。人生の分け前を歓迎する人は、与えられた土地を耕す農夫のようだと言われます。

私は松任で教会斜めの田圃の貸出農園で10坪を5千円で借用した。最初「何だ これだけか」と食ってかかった。だが、「たかが10坪、されど10坪」耕し 手入れし野菜の収穫を得るのは大変難儀だった。だが土地は雨と太陽を受けて、手入れすると実りをもたらしてくれるのです。春菊は大豊作で皆さんに食べていただきました。19節でこう言われる。「また神はすべての人に富と宝と、それを楽しむ力を与え、またその分を取らせ、その労苦によって楽しみを得させられる。」楽しむ力を神が与えられる!人生において与えられた楽しみの機会を人は楽しむ術を会得しなければなりません。楽しむ力を神は与えてくださるからです。

先日、泉南のイオン前の海岸に新設されたロングパークを見学してきた。その完成した娯楽施設に感心したものです。以前は海水浴場があるくらいの無味乾燥な海岸線だった。だが、今や一大リゾートになっている。泉南市は自分たちに与えられた海岸を楽しめるように改造し、人々に楽しみを提供しようとしたのです。それは個人の人生に言えることでしょう。神からの分け前(食い飲み労苦)が各自に、間違いなく、公平に与えられているのです。それを開発し楽しみ喜ぶことはその人自身の責任なのです。

3 くよくよ思わないこと 美

最後に真善美の美とは?美とは原意は「ふさわしい」です。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:Unknown.jpeg人生を楽しむふさわしい態度は何か?それは20節でしょう。「このような人は自分の生きる日のことを多く思わない」別訳を参照、「こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない」「人生の日々をあまり思い返すこともない」「人生の限られた日々について多くは考えないですむ」原語は「ザーカル」これは一つには回想に更けること!ノスタルジアと言う用語ある。「心痛んで故郷に帰る」意味。人生の現実に幻滅し過去のことばかり思い出してノスタルジアに耽り溜息することです。もう一つは、人生現実に幻滅して将来の事ばかりあこがれる過度の思い入れです。どちらにも共通するのは現在の生活への不満足です。隠された怒り、苛立ちがそこに見え隠れしているのです。ところが、この処方箋は、今現在、平凡な飲み食い、労苦する仕事に楽しみ、喜びを得る人は、その神の下さる喜びで心が満たされるので、「くよくよ考えない」と言うのです。そしてこれが神に信頼して生きる人間の美しい生き方、ふさわしい生き方なのです。

7月12日礼拝説教(詳細)

「農耕を愛する王」  伝道の書5章8、9節

5:8あなたは国のうちに貧しい者をしえたげ、公道と正義を曲げることのあるのを見ても、その事を怪しんではならない。それは位の高い人よりも、さらに高い者があって、その人をうかがうからである。そしてそれらよりもなお高い者がある。

5:9しかし、要するに耕作した田畑をもつ国には王は利益である。

先週は驚かされるニュースが沢山ありましたね。熊本の球磨川氾濫、米国のコロナ感染者300万人突破、そして木曜日に東京で1日最高224人が感染したことです。東京ばかりか大阪でも30人が感染しました。コロナ感染の第二波が到頭やってきたか、要注意です。

 ところで今日の聖書箇所で、「驚いてはならない」と言われているのに気がつかれたでしょうか。口語訳はそこが「怪しんではならない」なのですが、殆どの訳は「驚いてはならない」「驚くな」となっているのです。では、何を驚くなと言われているのか?「あなたは国のうちに貧しい者をしえたげ、公道と正義を曲げることのあるのを見ても」怪しむな、驚くな、と言われるのです。貧しい者とは食うや食わずの経済的に貧困な社会的弱者です。そういう人々を虐げる、抑圧する、搾取する、それは「公道と正義を曲げること」だと言うのです。別訳「不正な裁き、正義の欠如」「権利と正義が踏みにじられている」蹂躙されている。これは典型的な弱い者イジメですね。では誰が曲げ、蹂躙し、虐げるのか? 続きを見るとそれが役人だと分かります。「それは位の高い人よりも、さらに高い者があって」この「位の高い人」とは、官僚を指し示す専門用語なのです。お役人が、官僚たちが、位の高い人が弱い者いじめをする、それを見ても驚くなというのです。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:Unknown.jpeg ではその理由は何故か。「さらに高い者があって、その人をうかがうからである」この「うかがう」には二つの意味があるので、当然驚かない二つの理由が浮かび上がってまいります。「伺う」が「見張る」とすると驚かない第一の理由は、官僚制の機能が十分作用しているのだから、多少、下級役人の不正行為があったにしても驚くことはない、となります。その悪い役人を見張っている上司がいる。きちっと監視している上役がいる。不正が発覚すれば罰するだろう、ひどい場合には懲戒罷免する。「あなたの国のうちに、見ても」国は行政区域の意味で別訳では「州」としている。それは一部の不祥事であってシステム全体の問題じゃない。国全体の問題じゃない。「だから驚くことはない」という理由になります。

 「伺う」が「かばう」とすれば全く別の解釈が浮上してくる。新共同訳は「なぜなら身分の高い者が、身分の高い者をかばい更に身分の高い者が両者をかばうのだから。」と訳す。上司が悪い部下をかばう。行政の中心にある組織的な官僚制度は、腐敗した公認の談合を繰り返すもの、また繰り返さざるを得ないシステムだ、組織だ。絶対無くならない社会的必要悪だから、ことさら驚くこともないという理由になる。

 「位の高い人」とは、官僚を指し示す専門用語と最初に説明しました。これは社会学的な専門用語で、官僚制度の研究では代表的な学者にドイツのM ウエーバーが「職業としての政治家」で取り上げており、彼はその6つの特徴を挙げているのですね。「規則により秩序付けられた権限・ピラミッド型の階層組織・文書の重視・専門的訓練を前提とした職務・全労働力を要求する職務・一般的職務に従った職務執行」個人的な感情に影響されず規則に従って物事を進めていくシステムなので、政治だけでなく、近代社会の経済発展にとっては欠かせない重要な制度だと言われるものです。

 ところがこの優れた官僚制度の裏には、逆機能と呼ばれるデメリット、弊害が隠されていることも事実です。その全部を説明する時間ないので、ひとつだけあげると、官僚制度はピラミッド型階層組織であるため、「上司が間違ったことを言っていても指摘できない。上司に言われたことは絶対なので、法を犯すような不正も時にはやってしまう」わかるような気がしませんか。職場にもありませんか。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:images-8.jpeg 先週日曜日に注目される出来事が東京でありましたね。年間予算13兆円、官僚16万人の頂点に立つ新 都知事が決まったことです。夜8時の投票終了と同時に、現役の小池百合子知事当選確実が発表されました。選挙結果報告によれば、小池さんの得票数は366万票、ほぼ60%。圧倒的大勝利の当選です。私は実は投票前日の土曜夜に一冊を読み終えたところでした。それはノンフィクション作家の石井妙子さんの「女帝 小池百合子」です。その上で選挙結果に注目していたので非常に複雑な心境でした。石井さんは後書きに「ノンフィクション作家は、常に二つの罪を背負うという。一つは書くことの罪である。もう一つは書かぬことの罪である。後者の罪をより重く考え、私は本書を執筆した。」と書きます。彼女は小池知事に疑惑を覚え、100人を超える関係者の証言と3年半の取材によって書き切ったと言われます。

その疑惑の一つは小池知事の学歴問題です。政治家に成る前から東京テレビのキャスターとして華々しくマスコミに登場する頃から「自分はエジプトのカイロ大学を日本人としての初めての卒業生です。しかも首席で卒業しました」と紹介してきました。すると、その意味を知る人はどうしても皆 疑問視せざるをえない。何故か?常時10万人の学生を擁するカイロ大学、アラブ諸国からも優秀な人材が在籍する、日本の東大同様、エジプト人でさえ卒業できるのは4人に一人という難関。それをアラビア語も覚束(おぼえ つた)ない日本人が首席とはありえない話なのです。しかし、現在、カイロ大学の学長の公式見解では、彼女の卒業を認めているのです。

何故か。それはエジプトに対する日本政府のODA無償資金協力が莫大であり、その一部は明らかにカイロ大学にも流れているからでしょう。参議院議員、衆議院議員、環境大臣、防衛大臣を歴任した日本の有力政治家に対して不利な発言など出来るはずがないのです。一時が万事で、唖然とする事ばかりです。この作品を東京の有権者皆が読んでいたら結果は違ったものになったのではないかと思うのです。私自身、小池さんが4年前に都知事選に立候補した時には、「カイロ大学卒業とは珍しいユニークな人だ」程度にしか思っていませんでした。私も報道を鵜呑みにしていたのです。キチンと調査もせず言われるままに報道するマスコミの功罪は大きいですね。人が投票する時、その候補者をどれほど解っているのでしょうか怪しいものです。今や、その年間予算13兆円、都職員16万人の頂点に立つべく小池知事は再選されました。まさしく官僚制度の頂点に立たれたのです。小池さんには首相になる野心があると以前から言われています。彼女が総理大臣になったらどうでしょうか?

 9節をご覧ください。「しかし、要するに耕作した田畑をもつ国には王は利益である。」王とは政治、官僚の頂点に立つ指導者のことです。新改訳はここを「国にとっての何にもまさる利益は、農地が耕されるようにする王がいることである。」と訳しました。「田畑、農地」産業で言えば、農業、即ち第一次産業のことです。この第一次産業が放置され健全でなければ国民は飢餓に陥ることになります。権力機構である政治の安定がなければ、農民は安心して土地を耕すことができません。実際、世界中の飢餓のほとんどは、天候の問題ではなく、政治が不安定であることから生まれてくると言われています。「国には王は利益である」その意味で、国の秩序の要として政治的支配者はどうしても必要だということが良くわかります。 そうではあってもです、ここで私たちは、「見ても、驚いてはならない。怪しんではならない」とのメッセージを、よく理解し受けとめる必要があります。

これは、社会の不正を冷静な目で見ることの勧めだということなのです。それは言い換えると、私たちには上に立つ政治的指導者がどうしても不可欠でMacintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:Unknown-1.jpegはあるが、それがどんな政治形態であったとしてもそれを絶対化したり、神聖化したりしてはならないということなのです。政治を絶対化し神聖化したがために、とんでもない悲劇が起こってきたことを私たちは歴史から学んでいます。日本では天皇制を絶対化したためにとんでもない過ちを犯しました。ドイツではヒットラーのナチス政権を絶対化したために大失敗を犯しています。「見ても驚くことはない」とはそういう意味なのです。

 では、この世の政治的な不条理や必要悪を冷めて見ていればいいのか?そうではありません。この聖書箇所を透かし見、見るべきものを見て悟らねばなりません。最近、役員会では正面玄関の緑色の教会文字盤を修理する案件が浮上してきました。築25年にしてプラスチックの文字盤が強風で何箇所かが剥がれたからです。教会名は?そうです。「泉佐野福音教会」です。この福音をフクオンと呼ばないでください。見て悟るべきはこの福音なのです。この教会名の福音の出所は何処か?もちろん聖書です。その聖書の中でもあのコリント上15章1〜5節が最も分かりやすいでしょう。

兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。」2節はこう言います。「この福音によって救われるのである。」 

先週の礼拝で三名の兄弟たちの入会式を司式させていただいた。その際に誓約していただいたが、誓約の第二はこうだった。「あなた方は、神の御子イエスキリストの十字架の贖いによって救われたことを確信しますか。」だった。 そうです。人が救われるのはキリストの十字架です。十字架につけられたキリストを仰ぎ見て人は救われるのです。

十字架とはローマ帝国の犯罪人処刑の極刑です。その十字架には頭上に罪状書きがかけられました。キリストの罪状は何でしたか。ヨハネ19章17〜22節が記録しています。 ピラトが書かせた罪状書きには「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」とラテン、ヘブル、ギリシャ語で書かれました。これはどう言うことですか。イエスを信じて救われるとは、イエスを「自分を治める王」として迎え入れるということなのです。

 私は、5章8節の「虐げられる貧しい者」から調べて解ったことは、旧約聖書には至る所に、主なる神が貧しい者に心配りをされている事実です。「主は、貧しい者を安全な所に置く、避け所である、奪う者から救う、住まいを備える、命を忘れない、食べ物で飽かせる、弁護し救われる」一箇所だけ引用しておきましょう。詩篇12:4『主は言われる、「貧しい者がかすめられ、乏しい者が嘆くゆえに、わたしはいま立ちあがって、彼らをその慕い求める安全な所に置こう」と。』 この虐げられる貧しい者を救う主が人間の形をとって、王として現れてくださった方こそキリストなのです。

しかしどんな王として現れてくださいましたか。絢爛豪華な王衣をまとった宮殿に踏ん反り返る王様ですか。そうではありません。十字架上に裸にされ荊(いばら)の冠を被る王です。コリント下8章9節にこう記されています。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである。」富んでおられたのに貧しくなられた王です。神であるのに人となられました。十字架で全てが剥奪されました。十字架で命まで捨てられました。イエスは私たちを富ませるために、貧しさの極限まで貧しくなられたのです。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:20200317190900.png 音楽家のバッハはこの受難の王イエスをオラトリオ「マタイ受難曲」で見事に描きました。音楽家のヘンデルは復活し栄光の王イエスをオラトリオ「メサイア」で見事に描きました。

1741年ヘンデルは56歳で人生のどん底に喘いでいた!借金漬けで、債務者用監獄に投獄寸前でした!その時、富裕な友人のチャールズ・ジェネンズから聖書の言葉のみで書かれた、キリストの生涯にもとづく台本が届けられ、作曲の依頼を受けたのです!4月22日からとりかかり260頁の楽譜は、24日で仕上がったと言われます!その題名は「メサイア」となった!作曲最中に訪問した友人は、ヘンデルが感情高揚しすすり泣いているのを目撃したと言います!彼は、聖書に光を!救い主イエスの栄光を見せられたに違いありません!翌年4月に初演、一年後ロンドンで上演されたときにはイギリス国王ジョージ二世が列席鑑賞!ご存知ハレルヤコーラス第一音が鳴り出すや国王が起立したと伝えられます!儀礼に従い聴衆も立ち上がりました!その時「王の王、主の主」とキリストが合唱で歌われ、栄光が真の王に捧げられたのです。

 では私たちはどうあるべきでしょうか。この世の政治制度を冷静に見て驚かず、十字架のキリストを仰ぎ見て悟り、これを「見て私たちは取り組む」べきことがあるのです。

 ローマ13章1節にこう勧められます。「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。」人を強制する力が政治家に与えられています。それは神がそうすることを許容されたのです。これが語られたのはあの残虐非道な皇帝ネロが治めるローマ帝国時代であったことを忘れてはなりません。どんな政治形態であったにしても、その最低の秩序が保たれるために政治は必要悪なのです。その理解を受けて7節にこう勧められます。「あなたがたは、彼らすべてに対して、義務を果しなさい。すなわち、貢を納むべき者には貢を納め、税を納むべき者には税を納め、恐るべき者は恐れ、敬うべき者は敬いなさい。」納めるべき税は納めましょう。果たすべき義務は果たしましょう。

金曜日に市役所から封書が届きました。それは介護保険料の確定書です。「ワオー」です。しかし私は当然その義務は果たさなければならないのです。選挙の日には、忘れず投票することにしましょう。たとえ自分の支持する人でない人が当選したとしても彼のために祈り支援することにしましょう。

maxresdefault.jpg 先週、私は一枚の返信ハガキをワールドビジョン事務所に投函しました。古くから世界的な規模で慈善活動する団体で、そのチラシを見て応募したのです。それは海外の貧しい一人の子供のスポンサーになることです。チラシにこうあった。「世界で1億5000万人の子供たちが今日を生きるために働いています。」そこで私も一人のチャイルドスポンサーになる決心をしたのです。貧しい者が虐げられているのを、見て見ぬふりしないで、今の自分にできることをする、それが求められているのではないでしょうか。私たちの国、日本は今や世界先進7カ国に入る経済大国と行って過言ではありません。にも関わらず、言われている事実の一つには「子供たちの7人に一人は欠食児童である」があります。信じがたいことです。しかし、これが現実なのです。そのために立ち上がって子供食堂が各地で起こされていることを私たちは知っています。

 また、「貧しい者」とは経済的な貧困だけを意味しません。主イエスは山上の垂訓で言われた。「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」「心の貧しさ」とは自分の心の破産状態を知ることです。「こんな自分でいいのだろうか」と密かに悩む人です。全て揃っている、金も財もある、地位もある、だが、「何によっても満足できず、無一物、乞食同然である」ことを痛感して悩み苦しむ人です。私たちの生活の周辺には必ず心の貧しい人がおられることでしょう。イエスはそういう人々の友となられました。私たちにもそうなることを求められているのです。

いつでしたか紹介した理学博士の安藤和子さんは徹底した無神論者でした。しかしいつしか「心貧しく」なられたのです。そんな時、郵便ポストの教会案内が助けとなりました。誰かが投函し続けたのです。それによって安藤博士は救いに与られました。「貧しい人々」のために、すべてのことができるわけではありません。しかし、できることがあるはずなのです。箴言22:2 富める者と貧しい者とは共に世におる、すべてこれを造られたのは主である。」

今日、あなたは霊的に富める者とされているでしょうか。経済的に富める者とされているのでしょうか。今週の歩みの中で、主が貧しい者と出合わせてくださるよう祈りましょう。

75日礼拝説教(詳細)

  「口の言葉を慎む」  伝道の書5章1〜7節

5:1神の宮に行く時には、その足を慎むがよい。近よって聞くのは愚かな者の犠牲をささげるのにまさる。彼らは悪を行っていることを知らないからである。

5:2神の前で軽々しく口をひらき、また言葉を出そうと、心にあせってはならない。神は天にいまし、あなたは地におるからである。それゆえ、あなたは言葉を少なくせよ。

5:3夢は仕事の多いことによってきたり、愚かなる者の声は言葉の多いことによって知られる。

5:4あなたは神に誓いをなすとき、それを果すことを延ばしてはならない。神は愚かな者を喜ばれないからである。あなたの誓ったことを必ず果せ。

5:5あなたが誓いをして、それを果さないよりは、むしろ誓いをしないほうがよい。

5:6あなたの口が、あなたに罪を犯させないようにせよ。また使者の前にそれは誤りであったと言ってはならない。どうして、神があなたの言葉を怒り、あなたの手のわざを滅ぼしてよかろうか。

5:7夢が多ければ空なる言葉も多い。しかし、あなたは神を恐れよ。

今日、開かれている聖書箇所は、伝道の書5章です。この箇所は4章1節から関連しており、ある注解者は1〜12節を「社会的領域での望ましい態度」13〜16節を「政治的領域での望ましい態度」5章1〜7節を「祭儀的領域での望ましい態度」と的確にまとめていました

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:profile_flower.jpg とすると、今日は5章ですから、スキップすることになります。しかし、それは何も政治問題はどうでもいいからという訳ではありませんので誤解のないように。ただこの政治に関して一言、報告とお勧めをしておきたい。6月30日の事でした、全国ニュースに泉佐野市が話題になったのです。千代松(ちよまつ)泉佐野市長がふるさと納税問題で最高裁に上訴したことに最終判決が下され、勝訴したという報道でした。国が破れ地方が勝つという画期的な判決です。私は、テモテ上2章1節が思い起こされました。『まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。』苦しい市財政のため奮闘される千代松市長のために覚えて祈り支えることにしましょう。

 そこで耳目を5章に向けていただきましょう。最初に紹介したタイトルでは、「祭儀的領域での望ましい態度」ですが、これをもう少し解りやすく言い換えれば「教会での望ましい態度」として差し支えないでしょう。

そこで特に1節の最初の文言に注目していただきたいのです。「神の宮に行く時には、その足を慎むがよい」これは、勧告というより警告の響きがしませんか。「その足を慎むがよい」これは「危険な場所に行く人は注意しなさい」という忠告の表現です。今日も殆どの方がマスクしていますね。コロナ感染の脅威が完全に無くなっていないからです。東京で連日50名超える感染者が報告されている。ひょっとすると第二波が到来するかもしれない。だから、感染の危険性がある所は行かないように再三注意が呼びかけられている。都会の繁華街の怪しげな接待伴う店には行かないようにしようと! しかし、よくよく注意してください!キャバレーやナイトクラブやカラオケ、ライブハウスのことを言っているわけではありません。冬登山危ないぞ!とか、横断歩道危ないぞ!でもない。「神の宮へ行くときは」と言っているのです。これを平たく分かり易く言い換えれば「教会へ行くときは」「教会に近づくときは」「教会に通うときは」気をつけなさい!となるのです!

教会に通うそれが危ない!と言っているのです。勿論、教会に行くな!近づくな!通うな!ということではありません。しかし不用意であれば危険だと警告されるのです。ここにおられるすべての方々に言われていると受け止めてください。

 第一に注意するべき危険は、教会での捧げ物です。「近よって聞くのは 愚かな者の犠牲をささげるのにまさる」古代イスラエルで神の宮、神殿に集まることは神を礼拝することでした。その中心的な祭り事が犠牲を献納することです。民の捧げものの種類には灌祭(酒、油)、穀祭(植物)、犠牲(動物)があった。そして捧げる目的には4種類あった。

燔祭(全焼、焼き尽くす)は、犠牲を全焼することで自分自身を神に献身することを表す、罪祭と呼ぶ犠牲はその血を注ぐことにより、自分に結果が及ぶ罪の赦しを表す、愆祭と呼ぶ犠牲は、誤まって他人に害を与える罪の赦しを表す、酬恩祭と呼ぶ犠牲は神の祝福に対する感謝を表すものとして捧げられている。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:images.jpeg 今、教会ではこのような捧げ物をすることはありません。何故でしょうか。明確な答えはヘブル9章11、12節にあります。「しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。」そうです。救い主イエスがご自身を完全な犠牲として捧げて下さったからです。今日挙行した聖餐式は、主の十字架の贖いの犠牲を想起するためです。それゆえに最早、自分の罪の赦しの犠牲を捧げる必要は全く無くなったのです。

 そればかりか、私たちは全く別な新しい捧げ物をするのです。ローマ12章1節にこう勧められます。「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」「あなた方のからだを捧げなさい」この「からだ」とは言い換えれば「自分の全存在」です。それが生きた聖なる供え物なのです。動物でなく自分自身を捧げるのです。それが具体的には教会では何か?奉仕活動であり、また、献金なのです。その活動が何であれ、また献金の額がどうであれ、その意味することは自分を捧げることを表すのです。

 その詳細には別の機会に触れることにし、今日は、5章1節により、献金を捧げる、奉仕活動をする、そのために教会に近づく、「その足を慎む」そこに潜む危険を私たちは共に弁えることにしたいのです。奉仕するな、献金などしなくていい、というのではありません。「愚か者の犠牲を捧げる」ということは、教会でも奉仕、献金をする意味を良く解らずに、見当違いでしてしまう危険性があるということなのです。

 ルカ18章のパリサイ人と取税人の祈りが思い出される。イエスがこのたとえを語ったのは捧げ物に「他人を見下げる」危険性があることを指摘するためでした。パリサイ人は自慢気に「わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています」と祈ります。良い事です。ところが愚か者の犠牲なのです。彼は横目で隣の取税人をチラチラ見ながら比較し見下し軽蔑していたからです。

 ある場合には、献金も奉仕もそれによって神から何かしら見返りが期待されるのではないか、という思いが入り込む危険もあります。それが故郷(ふるさと)納税なら別でしょう。この納税が「好きな自治体や寄付金の使い道から、応援したいと思う自治体を選んでふるさと納税をすると、お礼として特産品がもらえたり、寄付金控除が受けられたりするため、人気を呼んでいます。」と説明されていました。もし教会の献金、奉仕に見返りを期待するなら、神との取引になりさがってしまう危険があるのです。「これだけ捧げたのだから、何かきっと良いことがあるはずだ」「これだけ辛抱して誰にも知られずにキツイ奉仕をしているのだから、何らかの見返りがあってしかるべきではないか」しかし、これは愚か者の奉仕、愚者の献金なのです。

 神様もきっとお困りでしょうから、献金してお助けしなければ!などと考えるのはもってのほかです。献金しなければ不足するほど貧乏な神ではありません。天地を創造された主は万物の所有者であり、人間の捧げ物で支えられる必要性は全くないからです。

300px-Jan_Vermeer_(attr.)_-_Christ_in_the_House_of_Martha_and_Mary_-_National_Gallery_of_Scotland.jpg ルカ10章のマリヤとマルタの出来事も思い出されますね。イエスと弟子達が休息したベタニヤの家でマルタは忙しく接待に奔走、しかしマリヤはイエスの足下で聞き入っていた。その時、マルタは我慢できない。彼女は「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」とイエスに訴える。私たちの教会でも、奉仕活動にはこのような問題が起こり易いのです。マリヤ会がマルタ会になる危険性がある。自分はしているのにあの人、この人はしていない。しようともしない。我慢できなくなり批判し、裁いてしまうのです

 5章1節が「近よって聞くのは、、、まさる」と言うのと同じ趣旨のことを、主イエスもマルタに語られました。「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。」「その良い方」とは?そうです。主の言葉に聞くことです。聞いて従うことなのです。献金、奉仕はそれに準ずるのです。勿論、いらない、しなくていいのではありません。教会に行く時には、「その足を慎みましょう」

 二つ目の危険性は祈祷です。「神の前で軽々しく口をひらき、また言葉を出そうと、心にあせってはならない。」神の前で言葉を出すとは!そうです。それは祈りです。「え!祈りが危ない!教会は祈りの家では?」そうです。教会は祈りの家です。勿論、どこででも祈ります。祈れます。そして、「神の宮に行く時」私たちは神に聴くことと同時に神に祈るために行くのです。 聖歌230番は歌います。「楽しき祈りよ 憂きこの世離れ 御位に近づき 神と語らしむ 」「楽しき祈りよ 汝が羽は運ぶ 乾ける心を 我が主の御前に」「楽しき祈りよ 我が目は見渡す ピスガの峰より 天なる御国を」そうです。祈りは楽しい、喜ばしい、素晴らしいのです。にも関わらず、聖書は「その足を慎むがよい」と警告する。

神の前で軽々しく口をひらき、また言葉を出そうと、心にあせってはならない。」別訳を見ると、「軽率にしゃべってはならない」「口を急がせず、また、心をせかせるな」とあります。軽率に喋るな、焦って語るな、そして「あなたは言葉を少なくせよ」と2節最後に勧められるのです。どういうことでしょう? 続く3節には関連して格言が引用されています。「夢は仕事の多いことによってきたり、愚かなる者の声は言葉の多いことによって知られる」共同訳はこうです。「夢を見るのは悩みごとが多いから。愚者の声と知れるのは口数が多いから」別訳にもこうあります。「忙しく働けば、夢が来る。しゃべり過ぎれば、愚か者との噂が立つ」これは多弁、饒舌、喋りすぎの一般的な戒めですね。夢とは「「記憶」の集まり。これまでに見聞きしたことや経験したことがいくつもつなぎ合わさって、夢になるのだという」記憶の断片、しかも疲労し、悩み、多忙な時に夢見やすい。その夢はそれゆえに支離滅裂が多い。それと同じ原理で、饒舌で喋りすぎると夢ならぬ愚か者の噂が立つ。これは一般世界の道理のことです。人々の間での饒舌の戒めのことです。

inorinote.jpg それを使って聖書は、神の前ではなおのこと、饒舌であることは慎めと言うのです。その勧告理由は何でしょうか? はっきり聖書はこう言います。「神は天にいまし、あなたは地におるからである」神と人間自分との乖離、距離、隔たりなのです。人間同士の会話でも喋りすぎ、饒舌は禁物ですが、ましてや神との対話、祈りにおいては、語りかける相手が人間ではない、天にいます偉大な比較にならぬ神だからなのです。そこには計り知れない乖離、距離がある!比較にならない格差があるから。慎めと言うのです。 

 この真理を最も解りやすく明らかにされたのが主イエスのマタイ6章7節でしょう。「祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。だから、彼らのまねをするな。」ここに真の神ならぬ偶像崇拝者の愚かさが指摘されます。「彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている」神々に祈る、嘆願する、祈願する、しかも言葉が多ければ多いほど、自分の願いが聞かれる、もっと辛辣な言い方をすれば、神を動かし、操作し、コントロールし、思い通りに操ることができると思い込んでいるのです。偶像礼拝について言われることですが、偶像礼拝とは自分自身を神格化することなのです。神々を動かして思い通りにやらせるとは、やらせる自分が支配者であり神であると言っているのと変わらないのです。 

 あの列王上18章20〜40節のエリヤとバアル預言者の祈り比べが思い出されますね。エリヤはカルメル山でバアルの預言者450人、アシラの預言者400人を相手に、真の神はどちらかを確認する戦いに挑戦します。一頭の牛を祭壇に切り裂き、祈って犠牲を天からの火で焼き尽くす神を神としようと提案したのです。偶像預言者はどうしたか。彼らは朝から昼まで「バアルよ、答えてください」と同じ祈祷を叫び続けたのです。27節のエリヤの皮肉な発言をご覧ください。愉快ですね。異教の偶像崇拝に共通するのがこの態度なのです。それは真の神には通用しないのです。神を人は祈りにより動かすべきではない。また、動かされることは決してないのです。祈りは神をコントロールする操作道具ではないのです。

 主イエスは言われた、「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。」父親が子供の必要を知っているようにです。だから、子であるなら執拗にくどくど同じ言葉を繰り返す必要はないのです。パウロの祈りの勧めを最後に聞きましょう。「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。」ピリピ4:6。これが祈りの精神です。「神の宮に行く時には、その足を慎むがよい。」教会に通い、教会での祈りにつまづかないようにしよう。

images-3.jpeg もう一つの危険性に触れて最後にしましょう。それは誓約の危険とでも言うべきものです。4〜6節が言うところの問題です。神の前で誓う、願をかける、誓願を立てる、いわゆる自己宣言を行う場が古代の神殿だったです。「誓う」とは、「神仏、他人、自分に対して、ある事を必ず守ると固く約束する、自分の心中で固く決意する事」です。 先週は4章から「共に生きるとき」と共同して生きる大切さに触れたのですが、共に生きるのを可能にするのは、お互いに約束し合い約束を実行する事にかかっていると言って過言ではないでしょう。そして場合によっては、その約束の確かさを保証するため、神仏や人前で誓約宣言をするわけです。 そこで、今日の箇所では、その誓約を「果たす事を延ばすな」「必ず果たせ」「果たさないなら誓うな」と強く勧告されております。なぜなら、誓いを果たさない、破るなら、神が怒り、災いがくだるからだと教えるのです。

 牧師は神から派遣された使者として誓約を司式するのです。6節で「なたの口が、あなたに罪を犯させないようにせよ」と言うのは、それがどんな誓約であっても、誓約で約束した事を果たさないなら、それは神の前に口で罪を犯したことになると言うことなのです。最初に言いました。「神の宮に行く時には、その足を慎むがよい」教会には誓約すること、神と人の前で誓約すること、それが重要な意味を持つからです。

 今は「成熟の誓約」を学んでおり、次は「奉仕の誓約」「宣教の誓約」と続きます。誓約、誓約、また誓約です。そればかりか、教会には喜ばしい結婚式の新郎新婦の誓約があります。私たちの生活、人生の歩みは、決断し、約束し、誓約して前進する!だが、現実はどうか?約束を先延ばしにする、いや、誓った約束を果たさない、果たせない。それが現実ではないですか。だからこそ危険なのです。誓約を守る意志に欠けるなら危険なのです。

 この最後は7節の一言で締めくくられていますね!「あなたは神を恐れよ」その神ご自身がイエスにおいて人となり来てくださった。この方が自分で自分をどうしようもない私を救ってくださったのです。分かっていても実行できない惨めな罪深い私を救ってくださったのです。この主イエスに依り頼む時、私たちは真実に生きることができるのです。

 妻の父、竹内常一郎さんはその救いを生々しく経験された方でした。もう天に召されておられるのですが。16歳で「日本的善人になる」と決心したそうです。西郷隆盛、勝海舟、日蓮や親鸞のように立派になりたい。しかしながら、毎日善行に励む事を課題とした挙句、それは6ヶ月で挫折してしまったと語られました。その時、彼は上司の机にあった小冊子を手にすることで不思議と救いに導かれたのです。そこには石打刑で殉教したステパノが紹介されていました。ステパノは群衆の投石で残酷にも殺害されたのですが、その直前に祈っている。その迫害者のために赦しを祈りました。竹内兄は驚愕したそうです。虐待する者たちのために赦しを祈らせたイエスとは誰か?彼は突然、この方を知りたいと願いました。その翌日から毎朝、早めに勤務していた小樽市役所に出勤すると、誰もいない会議室で一人になり、「私にキリストを下さい。」と祈り方も分からないままに祈ったそうです。それから何日目か、何と栄光のキリストが現れてくださったと言われました。彼はそこで改心したのです。誰の介添えもなしに、イエス様を主と受け入れ、それから聖書を買い求め、集会を探し出し、キリストに倣う者とされたのでした。自分の意思力ではとても完遂できないことを主に信頼することによって実行できる者に造りかえられたのです。

 「神の宮に行く時には、その足を慎むがよい。」私たちは天におられる神を礼拝するために教会に通うのです。だからこそ、慎しまねばなりません。教会を通して献金や奉仕は率先していたしましょう。ただし、間違った動機でしないよう注意する必要があります。教会は祈りの家です。パウロは言った。「絶えず祈りなさい」神に願い事を知っていただくことはいいことなのです。しかし、まかり間違っても祈りによって自分の想い通りに神を操作し、動かそうなどとは思わないでください。教会は真実に約束を誓約する場であります。約束しあう私たちの間に主が撚り合わされる時に、その制約は実行が可能となることでしょう。「三つ撚りの糸は容易く切れない」のです。祈りましょう。