1029日礼拝説教(詳細)

「天地創造の祝福」  コロサイ1章9〜20節

御子は、見えない神のかたちでありすべてのものが造られる前に、最初に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも、見えないものも、王座も主権も、支配も権威、も万物は御子において造られたからです。

万物は御子によって、御子のために造られたのです。御子は万物よりも先におられ、万物は御子にあって成り立っています。また、御子はその体である教会の頭です。

御子は初めの者死者の中から最初に生まれた方です。それは、ご自身がすべてにおいて第一の者となるためです。

神は、御心のままに、満ち溢れるものを余すところなく御子の内に宿らせ その十字架の血によって平和を造り地にあるものも、天にあるものも、万物を御子によってご自分と和解させてくださったのです。

10月最後の主日礼拝の今日、私たちはコロサイ1章を読むことにします。9〜20節です。今日、私たちは、この礼拝会に敬愛するS姉が遠く西宮から出席くださったことを大変嬉しく思うのです。姉妹は来月誕生を迎えるということで、今日は笑顔で誕生月のお証しをしてくださいました。ご高齢であるのに笑顔で証されるS姉の故に、私は先週送られてきた「引退教職者機関誌」の表紙の写真がどうしても思い出されるのです。そこには波の打ち寄せる砂浜に「Happy retirement」と刻まれた英語文字が写っていました。年取って引退する牧師たちに、「幸せな引退であれかし」というのでしょうか。果たして引退して本当に幸せなのでしょうか。何が引退した牧師たちにとって、老人たちにとって幸せなのでしょうか。その答えこそ、今日お読みした聖書のこの御言葉ではありませんか。1章13節です。「御父は、私たちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下へと移してくださいました。」そうです。神様が私たちを闇の力から愛する御子の支配下へ移し替えてくださった、これこそ幸せの原点です。

私と妻は先週二泊三日の短い休暇を近くの温泉で過ごしてきました。その近くに花や野菜を売る国華園があり、そこで私は赤、黄色、ピンクの四つの花鉢を買い求め、帰宅するや私の書斎の窓際の鉢に移し替えました。美しく可愛い花です。イエス様を信じて、今こうして日曜に教会に集まり礼拝するのは、私たちが神様によって移し替えられたからではありませんか。愛する御子イエス様の支配下に移されたからではありませんか。私たち一人ひとりが美しい花として、今現在、神様に愛でられているからなのです。では、その愛する御子とは、私たちがその支配下に移し替えられたというお方は誰でしょうか。それが今日のテーマです。パウロは9〜12節にコロサイの教会のために祈ります。そして、祈り終わって、神様にその支配下に移し替えられた御子が如何なるお方であるかを、15節から実に見事な美しい詩文で語り明かしているのです。

I. 創造の原理

最初の15〜17節をご覧ください。ここにおいては、御子イエス・キリストがどのようなお方であるかが、三つに絞って語られていることが分かります。

  御子は見えない神のかたち

その第一は御子イエス様が見えない神のかたちであることなのです。神は見ることができません。神は霊だからです。見えるものは神ではありません。聖書には 神は肉眼では見えない方だと教えます。「神はただひとり不死を保ち、近づきがたい光の中に住み、人間の中でだれも見た者がなく、見ることもできないかたである。」(テモテ第一5章16節)では見えない神をどうして知ることができるのでしょうか。

古代ユダヤ人は、見えない神の手がかりを知恵に求めていました。知恵とは普通は、物事の理を悟り、適切に処理する能力です。しかし聖書の箴言8章を見ると、そこでは知恵が擬人化され、その12節では「私は知恵。熟慮と共にあり、知識と慎みを備えている」と語り出しています。17節では「私を愛する人を私も愛し、私を探し求める人を私も見いだす」と語ります。そして、30節では「私は神の傍らで腕を振るう者となり、日々、神を喜ばせ、いつの時にも御前で楽しむ者になった。」と語っています。これはユダヤ人が知恵を通じて見えない神を知ろうとした一つの証拠です。

一方、ギリシャ人はというと、見えない神の手がかりを言葉に求めました。その場合に言葉に相当するギリシャ語はロゴスです。ギリシャ哲学ではロゴスは神の理性であると考えられていました。その二つの発想を借りて言えば、神の御子イエス様は、神の知恵であります。神の言葉であります。

ところがここコロサイ書では、御子が誰であるのかが、それはまた素晴らしい表現で解き明かされているのです。それは15節です。「御子は見えない神のかたちである」と使徒パウロは宣教しています。神のかたちなのです。イエス様は神のかたちなのです。ということはどういうことかと言えば、イエス様は、肉眼では見ることのできない神が、人が見ることができ、理解できるかたちをとった神の完全な啓示である、ということなのです。ここにかたちと訳されたギリシャ語のエイコンとは、姿とか像とか肖像とも訳されます。当時流通した貨幣の銀貨に刻まれたローマ皇帝の顔もエイコンです。ヨハネ1章18節でこう言われていますね。「いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」どのように神を示されたというのですか。神が人となることによってなのです。その少し前の14節では「言は肉となって、私たちの間に宿った。」とあります。この言とはロゴスです。イエス様のことです。「肉となった」とは肉体をとって人間となったということです。神学でいう受肉です。英語のインカネーションです。

パウロはピリピ2章6、7節で受肉をこう解き明かしています。「キリストは神の形でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の形をとり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れました」人間の姿で現れたとは、神様が見えるかたちとなられたことです。知恵による啓示、言葉による啓示を超えて、神は人間による啓示をなされたのです。あのヨハネ14章の箇所で、ピリポが質問した時にイエス様がどのように答えられたか思い出されませんか。『フィリポが、「主よ、私たちに御父をお示しください。そうすれば満足します」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、私が分かっていないのか。私を見た者は、父を見たのだ。なぜ、『私たちに御父をお示しください』と言うのか。」ピリポは主に召されてもう3年以上もイエス様と一緒に過ごしてきたはずです。ピリポは実は神様を見ていたのです。

見ていたのに気づかなかったのです。イエス様は見えない神を、人が理解し知ることができるように人間となられた見えない神のエイコン、かたちなのです。

②御子は先在する至高の神

そればかりか、更に御子イエス様は、万物に先立ち先在する至高のお方であります。「御子は、すべてのものが造られる前に、最初に生まれた方です。」と言われたこの「最初に生まれた方」という表現で、中には誤解される方もいるかもしれません。私たちは人間として母の胎内から生まれてきたのですが、生まれたということは生まれる前には存在しなかったということです。それをそのままイエス様に当てはめたら、永遠に存在していないとすれば、イエス様は神様ではないということになってしまいます。しかし誤解してはならないのです。この「最初に生まれた方」と訳されているギリシャ語のプロトトコスは、本来は長子、初子を意味するのですが、同時に、これは最も高い者を意味する名誉や栄誉の称号なのです。「御子は、すべてのものが造られる前に」つまり、被造物に対して絶対的に上位に立つ、最高の至高の方であることが強調されているのです。

③御子は万物の創造者 

その上で16節から解き明かされたのは、御子イエス様が万物の創造者であるということなのです。見えない神のかたちであり、万物に先立つ至高の存在である御子イエス様は、すべてのものを、万物一切を存在に呼び出された創造者です。

16〜17節を再読してみましょう。「天にあるものも地にあるものも、見えるものも、見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。万物は御子によって、御子のために造られたのです。御子は万物よりも先におられ、万物は御子にあって成り立っています。」私はこれを読む時、思わずリンカーンの演説の簡潔な名文句が思い出されます。「Politics of the people, by the people, and for the people」「人民の人民による人民のための政治」ここでは勿論、政治のことではありません。万物の創造です。万物はすべて御子において、御子によって、御子のために造られたのです。聖書の開巻の冒頭の創世記1章1節を覚えておられるでしょう。暗記されておられるでしょう。「初めに神は天と地を創造された。」です。聖書は開巻冒頭に何の説明も解釈もなしに、唐突に宣言するのです。神様が万物を創造されたのだと。ところがここには、コロサイ書には、万物は御子によって、イエス様によって造られたことが解き明かされているのです。

「万物が御子にあって創造された」ということは、どういうことですか。存在するもののすべてをイエス様がイメージし、計画し、創案し、設計されたということではありませんか。N H K の朝ドラの前回は、植物学者の牧野富太郎博士をモデルに放映されましたね。彼は生涯に60万もの植物を採集しています。そのうちの1500が新発見とされたのです。本当に気の遠くなるような研究生涯を送られたものです。それは彼が幼い頃から自然の植物に魅せられた結果でした。ところが、私が改めて生物の種類をネットで検索してみれば、こう書いてあるではありませんか。「地球上には、既知の生物が約 175 万種、うち哺乳類約6,000種、鳥類約9,000種、昆虫約95 万種、維管束植物約 27 万種など。 未知のものも含めると、実際には 300 万種~11100 万種が生存しているとの推計もされる。」ということは、生物だけに限っても生存する1億以上の生物を、すべて別個のものとして独特に設計されたのは御子イエス様であるということです。

そればかりか、創案し設計しブループリントしたその一切が御子イエス様によって、直接手を加えて造られたのです。「万物は御子によって造られたのです」直接創造に携わった方がイエス様なのです。イエス様が匠なのです。生物だけではありません。宇宙に存在するすべてを、数えられるだけでも5000億の銀河も、太陽も月も地球もイエス様が直接造られたというのです。

確か 7 月ごろだったでしょうか。私が以前奉仕した石川県の松任キリスト教会のN姉とのメイルのやり取りがある中で、私は問い合わせました。「最近、ご主人の創られる俳句で傑作があれば教えてくださいませんか。」と。すると、ある俳句の会で最優秀作品に選ばれたという一句を紹介くださったのです。それはこうです。「地球てふ奇跡の星の夏を生く」ご主人は金沢の私立高校の英語の教師を長年務められ、最後は教頭となられました。退職後の趣味にと俳句を習われ、その結果このような見事な作品を創られたのです。クリスチャンではありません。そのNさんが、地球を奇跡の星と呼ぶところには、信仰があるのではと思わせるような響きがありませんか。奇跡とは自然法則を越える現象です。彼は何を根拠に地球を奇跡と確信して俳句を詠んだのでしょうか。宇宙ひろしといえども、私たちの住むこの地球のような人間にとって万全な環境を有する惑星は、他にはありません。イエス様が創造主として、丹精にその全能の力と知恵により、人間の住みやすい最善の地球環境を、愛を込めて造られたのです。

そして決して忘れてならないことは、この万物が地球を含めて、その創造の目的が御子イエス様のためであったことです。16節最後の言葉です。「万物は御子のために造られたのです。」今朝、礼拝の詩篇交読で104編を読んだのは、それが神の創造を讃える詩篇だからでした。ご覧ください。24〜26節にはこう謳われます。『主よ、あなたの業はいかに豊かなことか。あなたは知恵によってすべてを造られた。地はあなたの造られたもので満ちている。海も大きく広々としている。その中のうごめくもの大小の生き物は数知れない。そこには舟が行き交い、あなたの造られたレビヤタンもその中で戯れる。』そして詩人は31節でこう祈るのです。「主の栄光がとこしえにあるように。主がご自分の業を喜ばれるように。」なぜでしょうか。それは万物の創造の目的がイエス様のためであるからなのです。主の喜びのためであるからなのです。

次女のMは、私たちの居間の水槽でメダカを飼っております。餌をやることが日課であり、また、Mにとってはそれがささやかな喜びであるようです。餌をやろうとすると気付いたメダカは一斉に集まってくるほど懐いています。主はご自分のおつくりなったすべてをご覧になり喜びたもうお方です。人間は創造の6日目の最後の日に、神によって造られました。それまでに造られたすべては人間のためでありました。光も闇も、太陽も月も、陸も海も、家畜動物や魚も、草も果樹も人間のためです。そして、最後の人間を含め創造された万物は、主の栄光のため、主の喜びのためなのです。主はお造りになったすべてを喜びたもうのです。天地万物一切は、御子にあって、御子により、御子のために造られ、御子によって成り立っていることを確認しておきましょう。そして栄光を主にお返ししましょう。

.創造の祝福

そこから間違いなく言えることはあります。それは何か、御子の万物創造は、私たちにとって大いなる祝福であるということに尽きます。それが創世記1章が主張しているメッセージでもあるのです。1章10節をご覧ください。「神は見て良しとされた」13節をご覧ください。「神は見て良しとされた」同じ言葉が更に18節に、21節に、25節に繰り返されているではありませんか。そればかりか、創造の最後となる6日目の31節には「神は、造ったすべてのものをご覧になった。それは極めて良かった。」と言われているのです。私たち人間の物の見方には、性善説と性悪説がありますが、神による天地創造から言えることは、万物は人間を含めて最初から善なるものであったということに尽きるのです。神はご自分の創造の業のすべてをご覧になり、それは神の目には極めて、はなはだ良かったのです。土曜日の昼頃にテレビ番組で、日本の経済を支える中小企業の工場見学があります。愉快な三人組が次々と町工場を探検するのです。それが実に面白おかしく紹介されます。その工場の製品が製造されていく過程で、三人が感動すると指を差し出し、一斉にいう言葉があります。それは「グッドジョブ」です。そうです。神はその最初の創造の業の完成において、「グッドジョブ」と言われたのです。極めて良しとされたのです。私たち一人一人は自分の意志に関係なく、この世界に生まれ付いたのですが、この生まれついたこの世界、この宇宙本来は、神の最善の創造の業の結果であり、本来良いものであり、祝福されている事を覚えておきましょう。コヘレトの言葉3章11節にはこう語られています。「神はすべてを時に適って麗しく造り、永遠を人の心に与えた。だが、神の業を人は初めから終わりまで見極めることはできない。」神の創造の業は、最初の6日間の働きで終わってしまったわけではありません。神の創造の業は継続され、被造物は保持され、時に適って麗しく、バランスを保ち続けられているのです。イエス様がベテスダの池の辺りで38年間寝たきりの病人を癒やされた時、ユダヤ人にこう言いましたね。「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。」そうです。万物を創造されたイエス様は、今もなお、すべてを時に適って麗しく造り出されるお方、働いておられるお方なのです。

ローマ書8章28節ではこうも語られていますね。「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています。」これこそ御子イエス様の万物創造から引き出される結論なのです。私たちの知識なのではありませんか。主を賛美しましょう。

.創造の秩序

しかしながら、私たちは、自分の生きる世界の現実が混沌として秩序が乱れていることをしっかり見据えて、神様が創造された秩序の中で、どう生きるべきかわきまえ知るべきでしょう。昨年2月にロシアがウクライナに戦争を仕掛けて以来、改めて世界平和が大きな課題となっています。今月10月7日にガザ地区のハマスがイスラエルに攻撃を仕掛けて今や6000人以上の死者が出た現在、改めて世界平和問題がクローズアップされています。世界中いたるところで秩序が乱れ、混乱しているのです。

神様は秩序の神です。神様は創造において世界に秩序を制定されました。ところが神の被造物である人間が罪を犯すことによって、世界は混乱してしまったのです。私たちは、今日の聖書箇所を通して、イエス様が天地万物を創造されたお方であると共に、創造の秩序を回復するために、神様から御子イエス様が救い主として遣わされたことを知らされます。19、20節を再読してみましょう。「神は、御心のままに、満ち溢れるものを余すところなく御子の内に宿らせその十字架の血によって平和を造り地にあるものも、天にあるものも、万物を御子によってご自分と和解させてくださったのです。」

私たちは、この御子イエス様を信じ受け入れ、救われました。今こうして教会の礼拝に出席しているのは、罪の赦しを得て神様と和解させていただいた結果であります。18節に「また、御子はその体である教会の頭です。」と言われます。イエス様を頭として頂く教会に加えられたのは、創造の秩序に私たちが預かるためです。

  夕と朝の秩序

神は創造において夕と朝の秩序を聖定されました。創世記1章5節に「夕べがあり、朝があった。第一の日である。」この「夕べがあり、朝があった」という秩序が六日目までずっと毎日続います。朝があり夕べがあった、ではありません。これは創造の秩序です。詩篇30編6節にこう謳われています。「主の怒りは一時。しかし、生涯は御旨の内にある。夕べは涙のうちに過ごしても、朝には喜びの歌がある。」罪赦されて贖われ者には、この夕と朝の秩序が回復されるのです。哀歌3章22、23節にもこう謳われています。「主の慈しみは絶えることがない。その憐れみは尽きることがない。それは朝ごとに新しい。あなたの真実は尽きることがない。」その日のうちに、どんなに辛いことがあっても、悲しいことがあっても、新しい朝が来るのです。慈しみと憐れみが新しく備えられた朝が来るのです。

②男と女の秩序

神は創造において男と女の秩序を制定されました。何故人間は男であり女なのでしょう。それは神が人間を共同して生きるものとして男と女に造られたからです。神は「人が独りでいるのは良くない。彼にふさわしい助け手を造ろう。」と言われ男に女を造られました。しかし人類に罪が入って以来、男と女の秩序が破壊されてきたのです。至るところに男女の乱れが見られます。罪赦された者には、主によってこの本来の男女の秩序が回復されるのです。独身の方は配偶者の与えられるよう祈ってください。既婚の夫婦であれば、夫は妻を愛し、妻は夫に従えるよう祈ってください。

③労働と安息の秩序

神は創造において労働と安息の秩序をも聖定されました。人は働きつつ生きるものです。人が働くことは創造の秩序です。人間は神に似せて造られ、神が創造の働きをされたように、人間も働くことが生きる秩序なのです。そして、働くだけではなく、神は安息をも秩序として制定されました。人間が造られたのは、創造の第 6 日目でしたが、その翌日は安息日でした。人間は最初に安息に入れられ、それから労働するように秩序立てられたのです。モーセの十戒で「安息日を覚えて、これを聖別しなさい。」と戒められているのは、労働し安息することが創造の本来的な秩序であるからです。日本においてはしばしば政治家が「働き方改革」をしきりと提言しています。これは日本においては、創造の秩序が混乱していることの証拠です。イエス様を信じて贖われた者は、この労働と安息の秩序に預かるよう祝福されているのです。

④人間と被造物の秩序

神は更にお造りになった被造物すべてと人間との秩序をも制定されました。創世記1章28節にはこう語られています。「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ。」これは、人間が神の造られた被造物すべての管理者となる秩序の制定です。人間は自然と共存するばかりか自然、被造物の管理者として神に任命された責任があるのです。人間が罪を犯し、神との関係が断絶した結果、自然環境の破壊が深刻化していきました。海洋資源の枯渇や、森林資源の乱獲、オゾン層の破壊による温暖化現象など、世界中が深刻な問題に直面しています。イエス様を信じて贖われた者は、創造の秩序としての管理者の勤めを果たす責任が課せられているのです。       

今日、この10月第五主日に礼拝する主イエス・キリストは、天地万物の創造者であります。私たちの住み、生きる地球と宇宙は神の御手による創造であるがゆえに、極めて良しとされ祝福されております。私たち贖われたクリスチャンは、この神の創造の素晴らしい秩序を生きるように回復されました。それは、自覚と責任感が求められる生き方でもあります。最後に21節〜23節を朗読し、お祈りすることにいたします。「あなたがたも、かつては神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死を通してあなたがたをご自分と和解させ、聖なる、傷のない、とがめるところのない者として御前に立たせてくださいました。ですから、あなたがたは揺るぐことなく、しっかりと信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。」

1022日礼拝説教(詳細)

「アブラハムの子」  ルカ19章1〜10節

イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこに、ザアカイと言う人がいた。

この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。

イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている。」

ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。

これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」

しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰からでも、だまし取った物は、それを四倍にして返します。」

イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。

今朝はルカ19章1〜10節をお読みします。この度の説教題を「アブラハムの子」とした関係で、ネットでこれを検索したところ、幼稚園などでよく歌われているという「アブラハムの子」という童謡があることが分かりました。その歌詞は単純でこのようです。「アブラハムには7人の子、1人はノッポで あとはチビ、みんな仲良く暮らしてる、さあ踊りましょう」アメリカの童謡ですが作者不明で、50年前に日本の Y M C A が広めたそうです。「アブラハムには7人の子」と歌うのですが、正確に言えばアブラハムには8人の子です。側女のハガルからイシマエル、妻サラからイサク、そしてケトラから6人が生まれています。何故一人がノッポであとはチビか理由は分かりません。「みんな仲良く暮らしてる」これはいいことですから、キッズワイワイでも歌ったらいいし、賛美チームでも歌ってもらい、皆で踊ることにしましょうか? 

しかし、この童謡とは裏腹に、今現在、世界のアブラハムの子たちは、悲しいことに、全く仲良くないのです。10月7日土曜安息日に、突然、ガザ地区の武装テロ・ハマスがイスラエルに攻撃を仕掛け、一連の衝突でこれまでにイスラエル側では少なくとも 1400 人が死亡した一方、ガザ地区では少なくとも 3200 人が死亡、双方の死者は 4600 人を超えています。 220万人が住む天井の無い監獄と呼ばれるガザ地区では、これまでにおよそ 100 万人の住民が家を追われ、イスラエル軍の空爆が続く中、飲み水や食料、医薬品が著しく不足する状態が続き監獄を超えて今や地獄です。イスラエルが、1948年の国連決議を経て建国されて以来、パレスチナ人の難民問題が、未解決のまま放置され今日に至っていました。700万人のパレスチナ人の一部は今現在、穏健派のパレスチナ暫定自治政府が管理するヨルダン川西岸地区に、一部は強硬派のハマスが統治するガザ地区に住み分けています。武闘組織ハマスが何故、ガザ地区から今回、武力攻撃に踏み切ったのか、その原因・理由・動機については専門家の意見が分かれるところです。その内の有力な理由の一つは、アブラハム合意に対する猛反発だとされています。このアブラハム合意とは、2020年にイスラエルとアラブ首長国連邦が国交を回復したのを機会に、次々とバーレーン、スーダン、モロッコが関係正常化に踏み切り、最近では、アラブの盟主サウジアラビアが、イスラエルと国交を回復する交渉を進めているという一連の政治的な動きを指すものです。何故「アブラハム合意」と呼ぶかと言えば、イスラエルとアラブ諸国との関係正常化の牽引役がアメリカであり、イスラエルはユダヤ教、アラブはイスラム教、アメリカがキリスト教とすれば、それら三大宗教の始祖が共通してアブラハムであるからなのです。ガザ地区のハマスにとって何が深刻な問題であるか、それは、これまでは、イスラエルには終始敵対関係にあったはずのアラブ諸国が自分たちの国益を最優先し、イスラエルと国交を締結することによって、パレスチナ難民が、全くなおざりにされ、置き去りにされてしまったことなのです。先週水曜日の18日には、アメリカからわざわざバイデン大統領が駆け付けました。異例の事態です。しかし、その直前に、ガザの病院が砲撃され500人の死者が出たと報じられ、事態は一層深刻の度合いを増してしまいました。イスラエルは自国の安全保障のために、ガザ地区のハマスを殲滅するため、予備兵30万人を動員し、地上攻撃準備を固めました。150名の人質救出、100万人の退避勧告、水、食料、電気の遮断、救いようのないこの現実に、国連も関係各国もなす術がありません。このような世界情勢の只中にあって、今日、私たちが聞くべき神の言葉は何でしょうか。それは意外かもしれないのですが、ルカ19章9、10節なのです。主はこう語られました。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

I. 救いの必要

イエス様は、この時「今日、救いがこの家を訪れた。」と語られました。救いが訪れたというこの家は誰の家ですか。そうです。取税人ザアカイの家です。ザアカイに妻がいて子供がいればザアカイの家族のことです。ザアカイの家はこの時、今現在のイスラエルのガザ地区でミサイルに破壊された家のようでしたか。すみ家が焼かれてしまう。人々は着の身着のまま安全な場所もないのに逃げ惑う。水が無い、パンもない。電気がない。とんでもありません。真逆の状態です。

ザアカイはエリコの町の取税人でした。しかもその頭、税務署長でした。当時、イスラエルはローマ帝国に支配された植民地でした。ローマ政府は税金徴収には請負制を導入し、植民地のどこでも現地人に任せました。徴税のノルマを課すると共に、幾分余計に徴収する権限を与え、請負人に利益を得させてもいました。エリコには良質の泉があり、古くからのオアシスとして知られ、農耕が盛んで、パレスチナで最も肥沃な地です。それゆえに取税人は潤沢な税の徴収が可能です。ひたすらに私腹を肥やすことができ、その一人、ザアカイは当然、金持ちであったのです。「救いがこの家を訪れた」と主が語られたザアカイの家、家族はとびきり裕福であったのです。その家の造りも、人も羨む豪邸であったに違いありません。ですから人間的な見地からすれば、ザアカイの家に救いなどさらさら必要が無いはずです。何もかも満ち足りていたからです。

ところが、まさしくその金持ちザアカイの家に救いが必要であったのです。何故なら、イエス様の見地からすれば、ザアカイは失われた状態にあったからです。主は言われました。しかもザアカイを指して言われました。「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」ザアカイは、確かに潤沢な資金で何でも欲しいものを手に入れることができたでしょう。取税人の頭として地位に満足できたことでしょう。しかし、それでいてザアカイは自分自身を失っていたのです。自分が何処から来て、何処に行こうとしているのか、自分が一体何者であるのか、見失っていたのです。

この19章の前の18章を見れば、ザアカイとは身分の全く逆の真面目な国会議員が登場しています。この二人にはそれでも共通点がありました。それは、二人とも金持ちであったことです。身分は選ばれた議員でした。宗教的道徳的にも真面目で少年の頃から律法をきちんと遵守している。その上金持ちであるという三拍子揃ったこの人物が、何故、イエス様にこのような質問をしたのでしょうか。「善い先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と彼は、真剣に尋ねているのです。それは、この金持ちの議員には、そう問わざるを得ない何か深刻な飢え渇きがあったのです。身分や金銭や道徳では決して満たすことのできない、心の渇きがあったからに違いないのです。

コヘレト5章9節にはこう書かれています。「銀を愛する者は銀に満足することがなく、財産を愛する者は利益に満足しない。これもまた空である。」この申し分のない金持ちで人格者であった国会議員に、満たされない空しい思いがあったとすれば、立場は違っても金持ちのザアカイも同様であったことでしょう。人間は神によって造られ、神によってだけしか満足することのできない生き物として万物の霊長として存在しています。神との正しい関係が無ければ、何をしても、何を食べても、どれだけ巨万の富を貯めたとしても、心の深みから満足することができないのです。5 世紀ごろに活躍した神学者のアスガスチヌスが、自分の魂の遍歴を綴った告白の最初のところで、次のように書いています。「あなたを讃えることが喜びであるように、それは、あなたがわれわれをあなたに向けて創られたからです、そのためわれわれの心は、あなたのうちに憩うまでは安らぎを得ません。」そうなのです。人は神に向けて造られているので、神に向かい、神に憩いを見出すまでは、満足も安らぎも決してないのです。

ザアカイという彼の名前の意味は「義人」です。正しい人です。彼の両親は生まれた子供にこうあれかしと願ってザアカイと名付けたことでしょう。聖書で正しい、あるいは義であるとは関係が正常なことです。他人との正常な関係、神との正常な関係があることが義なのです。イエス様がザアカイを失われたものとみなされたのは、ザアカイが神との正しい関係になかったからです。エリコの市民とも正しい関係になかったからなのです。ザアカイが救われるとは、ザアカイが神と人との関係が正しくされる、回復されることであったのです。

今朝、皆さんはその意味で救われているでしょうか。それとも何をしても、お金があっても、何か虚しさを覚えて渇いているのでしょうか。イエス様は、そういうあなたの心に本当の満足を与えるために救い主として来てくださったことを感謝しましょう。イエス様を信じ受け入れることにより、神と人との関係が正常にされるのです。

II. 救いの理由

その上で、主はその救われる理由をこう語られました。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。」その救いの理由根拠を「この人もアブラハムの子なのだから」と言われたのです。これがザアカイの家に救いが訪れた明確な理由、根拠です。神様は、人類救済の歴史で、神の民を起こすために一人の人物、アブラハムを、地理的に言えば今現在のイラクあたりの遊牧民の中から選び出されました。そしてアブラハムからイサクが生まれました。イサクからヤコブが生まれました。ヤコブから12部族が誕生し、長い歴史の過程を通って神の民イスラエルが形成されました。この神の民イスラエルから救い主イエスを送られ、十字架に架けられ復活されたイエス様を信じる者をさらに神の民に加えようとすることが神様の遠大なご計画でした。

しかし、この時点で、エリコの取税人ザアカイには、アブラハムの子の自覚などは毛頭ありません。神の民の自覚、選民意識などは言外であったことでしょう。彼はエリコの街のすべての人から疎外され、除け者扱いにされていました。取税人とは、ユダヤ人にとっては罪人の代名詞です。血も涙もない貧しい人から税を搾り取る悪人です。彼らはローマ帝国に魂を売り渡した売国奴です。十戒の重大な戒めの一つである貪(むさぼ)りの罪を平気で犯している守銭奴です。しかし、イエス様はこの時、「この人もアブラハムの子なのだから」と断定されたのです。罪人であり取税人であるザアカイにアブラハムの DNA、遺伝子を認められたのです。一体、守銭奴であり、貪欲の奴隷であり、ローマ帝国に魂を売り渡すようなザアカイの何処にアブラハムの遺伝子を、イエス様が認められたというのでしょうか。それはただ一つ、ザアカイには、神の選びを選び取る信仰があったからなのです。

ザアカイは、すでにそれまでにイエス様に関わる予備知識が幾分多少あったのではないでしょうか。

18章の最後には、エリコの郊外で盲人の物乞いがイエス様によって奇跡的に癒やされた事件が起きていました。この奇跡の噂は、たちまち口コミ耳コミで、エリコの町中に響き渡ったに違いありません。新聞が発行されていたなら、号外が街行く人々に配られたことでしょう。ザアカイの耳にも当然届いていたはずです。そればかりか、取税人仲間のレビがカペナウムでイエス様の弟子とされたことを聞いていたに違いありません。レビが自分の家にイエス様と弟子たちを招き、盛大な夕食会を開いたことなど、当然、噂で届いていたに違いありません。そのイエス様が弟子たちを伴い、まさにエリコの街に入ろうとされていたのです。いく道には群衆が群がり、一目見ようとしていたのです。ザアカイも深い関心を寄せていました。是非ひと目、噂のイエス様を見たいと願っていたことでしょう。ところが、ザアカイは生憎背が低く、群衆に遮られて見ることができません。そこで、彼は打開策として、走って先回りし、イエス様が通られるだろう道の脇の小高いいちじく桑の木に登り、そこに隠れ潜んで見物しようとしたのでした。

ちょうど、イエス様がその木の下に通りかかったその時でした。何と、突然、主は上を仰ぎ、ザアカイに、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている。」と呼びかけられたのです。ここには、ギリシャ語では非常に強烈な言葉が使用されているのですね。この「泊まることにしている。」には、「ねばならない」という断定的な言葉が使われていたのです。イエス様は、泊まることを事前に決めておられた。偶然、たまたまではない。これは神の計画、神の必然、神の選びを意味するのです。

アブラハムの遺伝子、DNA とは何でしょうか。アブラハムの子に認められる DNA と何でしょうか。それは神の主権的な選びを彼が選び取るということなのです。神は天地万物の創造者です。人間をも造られた創造者なる神です。この唯一真の偉大な神は、天地が造られる前からあらかじめ、人を選ばれた神なのです。その主権的な神の選びを自分のものとして選ぶこと、それがアブラハムの霊的な遺伝子なのです。

創世記12章を見てください。主が唐突に、メソポタミア地方、チグリス・ユーフラテス川流域の牧羊者アブラハムに、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、私が示す地に行きなさい。」呼びかけておられます。これこそ、一方的な神の選びによる行為です。この神の呼びかけに応じて、主が告げられたように約束されたパレスチナの地に、アブラハムが準備して出かけて行ったことは、神の選びを自分で選ぶアブラハムの選択行為であったといえます。エリコのザアカイには、このアブラハムの遺伝子があったのです。彼がいちじく桑のてっぺんで、イエス様の呼びかけを受けたということ、それは神の選びを受けた瞬間でした。そして、彼がその主の呼びかけに応じ、急いで降りてきて、喜んでイエスを迎えたこと、それはザアカイによる神の選びに対する選びの自主的な選択行為であったのです。

いちじく桑の木に、大の男がよじ登ったザアカイの行為、それは日常生活から飛び出した行為でした。皆さんが、日曜日に教会の礼拝会に出席することは、ザアカイのいちじく桑登りに匹敵する、日常生活から飛び出したジャンプアップの行為ではありませんか。普通一般の人々がしようとはしないことです。しかし、ザアカイがいちじく桑の中で、神の選びの呼びかけを受けたように、人は誰でも礼拝に出席する中で、神の選びの招きを聞くのです。礼拝が、神の主権的な永遠の選びを選ぶ機会となるのです。

エペソ1章11節で、使徒パウロがこう教えています。「キリストにあって私たちは、御心のままにすべてのことをなさる方のご計画に従って、前もって定められ、選び出されました。」そうです。私たちは選び出されたのです。神様は人を偏り見る方ではありません。えこひいきして、ある人を選び、ある人を選びから外されることはなされません。神様はすべての人をキリストにおいて選んでおられます。神との正しい関係に入れる計画をもっておられるのです。しかし、人の責任は、神様の選びを自分で選ぶことにあります。神は人を自由意志を有する生き物とされ、人には責任が与えられているのです。その自分の自由意志によって神の選びを選び取るその時、神様の選びが実現することになるのです。

あなたは、いつ、イエス様を信じて受け入れ、神様の選びを選び取られたのでしょうか。あなたが、信仰によって神の選びを選び取られたということは、あなたにもアブラハムの DNA、遺伝子が組み込まれているということです。「そんなこと言われても、私は日本人であって、イスラエル人の血は人種的に血統的に流れていませんよ。」と言われるかもしれません。しかしガラテヤ3章6、7節にはこう書いてあります。「『アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた』と言われているとおりです。ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子孫であるとわきまえなさい。」アブラハムの子であること、神の子であることは血縁にはよらないのです。ただただ信仰によってイエス様を信じる人が、自分の生まれた家系や人種に全く関係なしに、アブラハムの子であり、アブラハムの霊的遺伝子を受け継いでいると見做されるのです。あなたが救われている理由、それは、あなたがアブラハムの子であるからです。神の選びを選び取る信仰があるからです。感謝しましょう。

III. 救いの祝福

主は言われます。「今日、救いがこの家を訪れた。」それは、イエス様を信じて救われた人には神の祝福が満たされるということです。先ほどのガラテヤ3章の続きの8節を見てください。「聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを見越して、『すべての異邦人があなたによって祝福される』という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰による人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されるのです。」 神様に祝福されるということは、神によって自分の生涯にこれからずーと良いことが起こるということです。

①喜びの家となる

第一に救いの祝福とは、家が喜びで溢れることです。ザアカイは金持ちでした。しかし笑顔がありません。喜びがなかったのです。ところが、いちじく桑に隠れたザアカイがイエス様に「ザアカイ、急いで降りてきなさい。」と呼びかけられると、彼は喜んで木から降りてきました。妻のサラからアブラハムに生まれたイサクの名前のヘブル語の意味は「笑い」です。イサクの誕生でアブラハムの家は笑いと喜びが溢れました。イエス様を信じて救われる祝福は、家に喜びと笑いが絶えないようになることです。

②祈りの家となる

第二に救いの祝福とは、祈りで家が満ちることです。ザアカイはその日、イエス様を家に迎え入れた結果、イエス様と語り明かしたに違いありません。ザアカイは「主よ。」と呼びかけイエス様と語らいました。主とはギリシャ語でキュリオスであり、それは旧約聖書で主と訳されたヤハウエと同じことです。ザアカイはイエス様を主なる神と信じ、それ以来、祈りの人とされ、ザアカイの家は祈りの家とされたのです。エレミヤ33章3節に主はこう言われます。「私を呼べ。私はあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる。」主と自分の言葉で語る祈りこそ素晴らしい祝福なのです。

③愛の家となる 

第三に救いの祝福とは、救われた人の家が愛の家になることです。イエス様に出会い、イエス様に救われたザアカイには人格の大変化がもたらされました。彼はこう告白しました。「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰からでも、だまし取った物は、それを四倍にして返します。」これは貪欲で利己主義であったザアカイの人格の大逆転です。神との関係が正しくされた結果、ザアカイは隣人との関係も正しくされたのです。ザアカイは神を愛し、同時に隣人をも愛する人に変えられたのです。エリコで村八分にされていたザアカイの家が人々の交流の場に変えられたのです。

④解放の家となる

第四に救いの祝福とは、家に癒しと解放が行われるようになることです。ここではザアカイが主によって「アブラハムの子」と呼ばれているのですが、同じルカの13章には「アブラハムの娘」が登場します。イエス様がある会堂に入られると、そこに18年間も病の霊に取り憑かれている女がいました。腰が曲がったまま伸ばすことができません。ところがイエス様はこう言われるのです。「この女はアブラハムの娘なのに、18年もの間サタンに縛られていたのだ。その束縛から解いてやるべきではないか。」そう言われ、「女よ。あなたは病から解放された」と手を置かれると、たちどころに腰がまっすぐにされたのです。救いの祝福は家が癒しと解放の場とされることなのです。

 今現在の見通しのつかない混沌とした世界情勢の中で、最も必要とされるのは、イエス様を信じ、その家が喜びの家、祈りの家、愛の家、解放の家とされるアブラハムの子たちです。何故なら、今生きる現代は、聖書の言う終わりの時の終わりであるからです。マタイ24章6〜8節に主はこう語られました。「戦争のことや戦争の噂を聞くだろうが、慌てないように注意しなさい。それは必ず起こるが、まだ世の終わりではない。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。」私たちは20世紀に勃発した第一次、第二次世界大戦を知っています。その大戦の直後の1948年に1900年間もの間、国を失っていたイスラエルが中東に建国されたことを知っています。更に戦争の噂を聞いており、未曾有の地震や飢饉が起きているのを知っています。これら全ては、再臨の前兆であり、主イエス・キリストのおいでくださる日の近いことを指し示しているのです。主はその前兆の一つとして「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」とも警告されました。このような時代にこそアブラハムの子が必要とされるのです。喜びに満ち、愛を実践し、祈りつつ、未来を信仰によって見通し、自分の果たす役割を受け止め、忍耐強く果たしていくアブラハムの子が必要なのです。あなたは自分が何者であるのかを発見したいと捜しているでしょうか。そういう失われたあなたを救うためにイエス様があなたを捜しておられます。ザアカイに「今日は、あなたの家に泊まることにしている」と呼びかけられたイエス様ご自身が、あなたの生活の場である家にとどまることを望まれ、あなたと語り合いたいと望まれます。主はこの礼拝に来会されたすべての方々に呼びかけておられます。今週も救い主イエス様の招きに応じ、信仰を持って受け入れ、アブラハムの子として、主の救いの祝福に預かることにしようではありませんか。祈ります。 

10月15日礼拝説教(詳細)

「神の支配の所在」  ルカ17章20〜37節

神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。

それから弟子たちに言われた、「あなたがたは、人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時が来るであろう。人々はあなたがたに、『見よ、あそこに』『見よ、ここに』と言うだろう。しかし、そちらへ行くな、彼らのあとを追うな。いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。 そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう。

ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。

ロトの時にも同じようなことが起った。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。

人の子が現れる日も、ちょうどそれと同様であろう。その日には、屋上にいる者は、自分の持ち物が家の中にあっても、取りにおりるな。畑にいる者も同じように、あとへもどるな。ロトの妻のことを思い出しなさい。 自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである。

あなたがたに言っておく。その夜、ふたりの男が一つ寝床にいるならば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう。ふたりの女が一緒にうすをひいているならば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう。〔ふたりの男が畑におれば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう〕」。弟子たちは「主よ、それはどこであるのですか」と尋ねた。

するとイエスは言われた、「死体のある所には、またはげたかが集まるものである」。

今朝は、表題が「神の国が来る」とされたルカ17章20〜37節をお読みしました。何故、「神の国が来る」と表題にされているのか、それは、パリサイ派の人々がイエス様に、「神の国はいつ来るのか」と尋ねたことによります。この神の国の国と訳された原語のバシレイアは、本来は支配と云う意味です。支配とは、ある地域や組織に勢力・権力を及ぼして、自分の意のままに動かせる状態に置くということです。

最近のこと、この支配が具体的に実感させられる出来事がありました。それは、教会近くの二つの公園の雑草が見事に刈り取られ、スッキリしたことです。造園専門の業者が入り、草刈機を使って1日かけた作業の結果です。もっと踏み込んで言えば、それは大阪府知事の支配の結果でしょう。公園は大阪府営住宅地に属し、それは大阪府の管轄統治下であり、府の命令で実行された雑草刈り込み作業であったのです。私個人として、教会玄関前部分の公園三角地帯のみに、集中して草取りをしてきた者として、なおのこと大阪府知事の支配を痛感させられた次第です。

パリサイ派の人々が敢えて、イエスに神の国の到来の時を問いただした背景には、イエス様の公生涯の最初に、「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と宣言されたのを彼らが知っていたからに違いありません。パリサイ派だけではありません。ユダヤ人の多くは、神の国の到来を熱心に待ち望んでいました。当時、イスラエルは完全にローマ帝国に支配され、ある程度の自治権は与えられていましたが、その自治の実権を握っていたヘロデ王は、エドム人であってローマ帝国の傀儡(かいらい)政権でした。ユダヤ人たちはローマ帝国の税金、傀儡政権の税金と二重に税金を取り立てられ、重税に苦しんでいました。ユダヤ人たちの誰もが、神から遣わされると約束されたメシアが出現し、ローマ帝国を必ずや打倒し、自分たちの手で統治できる国の実現の日を夢見ていたのです。そのメシア待望の機運が高まっていた時代にイエス様が現れ、「神の国は近づいた」と宣言されたのです。その上至る所で、神の国の到来を熱心に解き明かされました。しかしながら、ローマ帝国の支配、ヘロデ王の支配状況は何も変わっていません。彼らパリサイ派の人々がイエスに尋ねたのには、実はそのような背景があったのです。その質問に対するイエスの回答は明快でした。主はそれに対して「神の国は、観察できるようなしかたでは来ない。」と答えられました。口語訳では「神の国は、見られるかたちで来るものではない。」と訳されています。では、神の国、神の支配は、何時、何処に、どのように実在するというのでしょうか。神の支配の所在は、一体それは何処にあると言うのでしょうか。

.その時間性

先ず第一に神の支配の所在の時間性が、ここに明らかにされます。パリサイ派の人がイエス様に「神の国はいつ来るのか」と到来の時を尋ねていたからです。

  到来の過去

「神の国はいつ来るのか」という問いに対する答えは、神の国はすでに到来したということです。何故なら、イエス様が公生涯の最初に「時は満ちた。神の国は近づいた。」と宣言されていたからです。これは神の国の到来の時が満了したということです。それは神の約束された救い主、メシアであるイエス様が人間として誕生したことによって、すでに到来したということを意味するのです。神の支配は既に始まったのです。乙女マリアに天使ガブリエルは、受胎告知でこう言いました。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。神である主が、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(ルカ1章30−33)イエス様の誕生は、永遠に支配する王なるメシアの到来なのです。イエス様の誕生により、既に神の国、神の支配は到来していたのです。これが、神学で「実現した終末」と呼ばれるものです。世の終わりにメシアが到来する。メシアは既に到来された。それゆえに今は終末の時代なのだと言われる所以なのです。

  到来の現在

ということは今現在、神の国、神の支配は到来し、存在している、ということでもあります。イエス様が21節に「『ここにある』とか、『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの中にあるからだ。」と語られたのはその意味です。主が、「実に、神の国はあなたがたの中にあるからだ。」と言われた「あなたがた」とは、そう問いかけるパリサイ派の人々のことです。イエスの弟子たち、取り巻く群衆をも指しています。イエス様が彼らのその真ん中に臨在されていること自体が、神の国の現実、神の支配の現実であると語られたのです。

ルカ11章には、イエス様が悪霊を追い出された場面がありますね。その場で、イエス様はこう語られました。「私が神の指で悪霊を追い出しているのなら、神の国はあなたがたのところに来たのだ」(20節)この主の語られた「神の指」とは聖霊のことです。人を汚し抑圧する悪霊をイエス様が叱責すると、聖霊の力によって追い出されました。それこそ神の支配の表れではないか、と主は言われるのです。

ヨハネによる福音書には、イエス様のなされた7つの奇跡が記録されていることをご存知でしょう。ヨハネは意識的に、これらの不思議な業を奇跡と呼ばずに「しるし」と呼びました。英語で言うサインです。しるしとは、サインとは、それによって何かを指し示すものですね。交通信号の青であれば、それが進行可を指し示すようです。ヨハネが不思議な主の業を「しるし」と呼んだのは、奇跡の業よりも業が指し示す意味が大切であるからです。即ち、イエスの成された奇跡の業は、イエス様がメシアであること、神の子であることを指し示していたのです。ヨハネはその福音書の最後にこうも言っています。「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。私は思う。もしそれらを一つ一つ書き記すならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」(ヨハネ21章25節)そうなのです。イエス様の居られる所には奇跡が次々と起こりました。数えきれない程のありとあらゆる不思議な業が起こりました。それらの一つ一つが神の国、神の支配がそこにあることを指し示していたのです。

私たちはイエス様が十字架に架けられ死なれたこと、三日目に復活され、天に昇天されたことを知っています。昇天されて天の父の右に着座されたこと、天においても地においても一切の権能を授けられ王となられたイエス様を知っています。そのイエス様の御名はインマヌエルではありませんか。その意味は「神は我らと共におられる」でしょう。誰であっても、人がイエスを主と信じた時に何が起こるのでしょうか。それはその瞬間に、その人は神の国に入れられるということなのです。ヨハネ3章のニコデモとの対話で、主はこうニコデモに語られました。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(3節)また、続けて「誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(5節)と言われました。神の国を見る!神の国に入る!それはどういう体験ですか。それは、人が神の国の現実をまざまざと認識することなのです。説明されて納得するようなことではありません。確かにその人の全人格・存在の全てを持って現実的に、「神が居られる。神が支配しておられる」と実感することなのです。

私たちが日曜毎に教会で礼拝するのは何故でしょうか。それは主がこう約束されたからです。「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」(マタイ18章20節)そうです。私たちがこうして集まる只中に、イエス様がおられるのです。礼拝は神の国の現実なのです。私たちは自分の霊で「主がここにおられる」と認識させられるのです。私たちが心から賛美を捧げるのは感情の興奮ではありません。イエス様が喜び臨在されることを受け止める恵みの手段なのです。私たちはこうして礼拝することで、神の国、神の支配の現実を今現在、実感させられているのです。

  到来の未来

しかし忘れてならないことは、神の国、神の支配の到来は未来に完成されるということです。22節で主がこう語っておられますね。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできない。」主の語られた「人の子」とはメシア、救い主の称号であり、それはイエス様のことです。そして「人の子の日」とは、イエス様が再び見える形で再臨される日のことです。パリサイ派、弟子たちと語っておられてから、しばらく後のこと、イエス様は捕らわれ十字架に架けられることになります。25節で言われました。「しかし、人の子はまず多くの苦しみを受け、今の時代から排斥されなければならない。」主は十字架の受難のことを指してこう言われたのです。主は十字架の受難に続き、復活され昇天されました。しかし、「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たい」と言われた「人の子の日の一日」とは、再臨されて始まる新しい時代の第一日目という意味です。そして「しかし、見ることはできない」と言われたのは、天に昇られてから再臨されるまでには待たねばならない時の経過があることを、イエス様はここで語られたのです。イエス様が誕生されたこと、イエス様が今、信じる私たちと共におられることによる神の支配は、それを「実現された終末」と呼ぶのですが、それはまた「完成される終末」を待たねばなりません。イエス様が再び来られる再臨の時、王の王として主の主として再臨されるその日その時に神の国が完成されるのです。

II. その空間性

このような意味からイエス様は、20、21節で「神の国は、観察できるようなしかたでは来ない。『ここにある』とか、『あそこにある』と言えるものでもない。」と言われたのです。更に23節で「『そら、あそこに』『そら、ここに』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、追いかけてもならない。」と語られるのもその意味です。人間の心の奥深くには、出来れば、目に見える形で、理想郷とも言えるような神の国を、地上の何処かに実現成就するのを見たい願望があります。カール・マルクスが「資本論」によって打ち出した共産主義思想は、神の国を政治的な努力で、理想的な国家として地上に形成しようとする一つの試みでした。しかし成功しません。政治思想で理想的国家を建設する努力は大切ではあっても、それがどんな政治形態、どんな国家形態であっても、神の国と呼びうるものではあり得ません。宗教的にもメシアの到来の日を予測して、理想郷を作り上げて待望するような運動が、世界の至る所でいくたびも起こりました。しかし、主は、言われるのです。「神の国は、観察できるようなしかたでは来ない。」これは、私たちが肝に銘じて受け止めるべき御言葉でしょう。

最後の37節では、パリサイ派ではなく、弟子たちもイエス様にこう尋ねて言いますね。「主よ、それはどこでですか」イエス様が来臨される場所は、何処かと質問したのです。だがそれに対して主は「死体のある所には、禿鷲も集まるものだ。」と謎めいた言い方で答えられるだけでした。それは、主の再臨の場所とは、それが起こった後に初めて分かる、と言う意味です。禿鷹は、餌食となる動物が死んだ後に、その時、群がります。餌食の動物が死んでいなければ禿鷹は集まりません。餌食となる動物が死んだかどうかは、死んだ後にしかわかりません。それと同じことです。人の子であるイエス様、メシア、救い主であるイエス様が再び来られる場所は、主が来られて初めて分かるということなのです。

III. その意外性

ですから、神の支配の完成であるキリストの再臨を、主は24節でこう表現されました。「稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。」主の再臨は、誰も予測できない、瞬間の出来事であると言われたのです。天高く打ち上げられた気象衛星によって観察できる天気予報のようには、主の再臨を予測できないのです。人間の側から計算・予測されて特定できるような出来事ではないのです。何処までも神のご意志による、ご計画の実現成就であって、人間の関与する余地は全くありません。それがよく分かるように、主はノアの出来事、ロトの出来事を引用されました。

26節「ノアの時にあったようなことが、人の子の時にも起こるだろう。」27節「ノアが箱舟に入る日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が来て、一人残らず滅ぼしてしまった。」これは創世記6章に記録された出来事ですね。ノアの時代の大洪水は突如として突発的に起こりました。突然、大雨が降り出し、40日40夜降り続いきました。ノアには洪水の到来が告げられていましたが、誰一人としてその日その時を予測予感できませんでした。皆、いつも通りの生活に明け暮れし、飲み食いし、娶り、嫁ぎしていたのです。そしてその結果、洪水によって滅ぼされてしまいました。

28節ではこう語られます。「ロトの時にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行った日に、火と硫黄が天から降って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。」これはあの創世記19章に記録された出来事ですね。天使の警告に従ったロトとその家族は救われましたが、何も知らずに日常生活を送っていたソドムとゴモラの住民は全員が滅ぼされてしまったのです。

その上で30節に、主はこう言われます、「人の子が現れる日にも、同じことが起こる。」主の再臨に起こることとは何でしょうか。主イエス様が再び、しかも思いがけない時、稲妻が閃くように突然に来られるときに起こること、それは裁きなのです。34、35節を見てください。「言っておくが、その夜一つの寝床に二人の人が寝ていれば、一人は取られ、他の一人は残される。二人の女が一緒に臼を挽いていれば、一人は取られ、他の一人は残される。」二人が同じ状態にありながら、全く違う結果が起こると言われたのです。一人は「取られ」一人は「残され」る。取られるとは、共に連れて行かれること、迎えられること、受け入れられることです。救われて天に迎えられることです。しかし、残されるとは、裁かれて滅びに取り残されることです。

主イエスが最初に人間として乙女マリアから生まれ来臨されたのは、十字架の死と復活により、人に罪の赦しを得させ救うためでした。しかし、二度目に再臨されるときには、救われた者を天に迎え入れ、信じなかった者たちを裁くために来られるのです。ノアの洪水の時に、救われたのは箱舟に乗り込んだノアの家族八人だけでした。予期せぬ大洪水が発生した時に、ノアの家族を除くすべての人々は溺れ死んでしまいました。ロトの時代に、突如として天から火と硫黄が降った際に、生き残ったのは天使の警告を受け入れて、ソドムとゴモラの街から逃げ延びたロトとその二人の娘だけでした。残りの街の住民たちは一人残らず、全滅したのです。この神の国の到来の意外性、神の支配の意外性は、他人事、昔話などではありません。これは現代に生きる私たち個々人が、否応なしに直面することになる現実問題でもあります。

最近、ある兄弟から「セカンドチャンスはあるのですか?」と質問されました。セカンドチャンスとは、イエス様を信じない未信者の人でも、死んだ後に救われるチャンスが残されているという考えです。これは聖書的には誤りです。ヘブル9章27節には、「人間には、ただ一度死ぬことと、その後、裁きを受けることが定まっている。」とはっきり書かれています。その裁きの具体的なことは、黙示録20章に記されています。それはすべての人が復活して、白い御座の前で最後の審判を受けることです。その時、二つの書物が開かれます。一つは個々人の行いが記録された書物であり、もう一つは命の書です。この書物にはすべての名が記されていますが、イエス様を信じて救われていない人の名前は消去されています。その名が命の書に記されていない人は、すべて、自分の行った行いに準じて神の審判を受けることになります。これが真理です。人は死んだ後に、信じて救われるチャンスはありません。

ルカ16章には、金持ちと貧しい乞食のラザロの物語が語られています。二人ともある日突然死んでしまいます。死んだラザロはアブラハムのふところで安らぎ、金持ちは陰府の炎に焼かれ苦しんでいます。あまりの苦しみに、金持ちはラザロを生き返らせて、生きている自分の五人の兄弟たちに送り、こんな苦しみに遭うことのないよう言い聞かせてほしいと嘆願します。しかし、生きている間に、神の言葉に聞こうとしないなら、死人が復活してきて説得しても聞き入れることはしない、と断られてしまいました。死んだら最早、信じて救われるチャンスは全くないのです。「言っておくが、その夜一つの寝床に二人の人が寝ていれば、一人は取られ、他の一人は残される。二人の女が一緒に臼を挽いていれば、一人は取られ、他の一人は残される。」と主は言われます。再臨において人は救いと裁きが確定するのです。そういう訳ですから、主はここに、私たちがこの再臨にどのように準備しているべきかを、明瞭に教えられました。

  後ろを振り向かない

準備に必要な態度の第一は、後ろを振り向かないことです。32節に主は「ロトの妻のことを思い出しなさい。」と警告されました。創世記19章23節から数節を読んでみましょう。「日が地上に昇ったとき、ロトはツォアルに着いた。主は、ソドムとゴモラの上に、主のもとから、すなわち天から硫黄と火を降らせ、これらの町と低地一帯、町の住民すべてと、土地に芽生えるものを滅ぼされた。ロトの妻は振り向いたので、塩の柱になった。」これがこの箇所で、主の語られたことです。ロトの妻は、夫と二人の娘と逃げ延びようと街を後にしたのに、自分が出てきたソドムの街を振り向いたために、塩の柱になったというのです。創世記19章の15節から読んでいくと、天使がロトの家族を滅ぼされるソドムの街から救出するため、連れ出そうとしたことが、克明に描かれていることが分かります。天使は、彼らを街の外に連れ出した際に、はっきりと警告しました。「生き延びるために逃げなさい。振り返ってはならない。」出てきた街を振り返るとは、自分のそれまでに築き生み出したものへの執着心の表れです。それは未来への視点が欠けていることを意味する態度です。未来のこれから完成される神の国に迎え入れられるために、後ろ向きの人はふさわしくないのです。ロトの妻は、街に残した財産や慣れ親しんだ活動に対する未練を拭えませんでした。人の人生は束の間であり短いのですが、地上の生活をないがしろにすることでは決してありません。前向きであること、未来の神の国、天国を志向する信仰姿勢が必要不可欠なのです。イエス様を一度は信じ熱心な求道生活をしながら、塩の柱になってしまう人がいます。人柄が塩辛くならないよう気を付けなければなりません。柔軟な温かい活力ある信仰が、冷たく固い柱のようにならないよう気を付けなければならないのです。

  富に兼ね仕えない

準備に必要な第二の態度は、富に兼ね仕えないことです。主は33節で「自分の命を救おうと努める者は、それを失い、それを失う者は、命を保つのである。」と戒められました。命を救おうとすると失い、命を失うと保つという、この逆説の真理を、主は幾たびも語ってこられました。これは未来の神の国に入るための死活的な真理なのです。この地上の人生を生き抜くために、多くの大多数の人々が絶対的に必要だと確信していることは富の確保でしょう。資産を増やすこと、資産を運用し、資産をできるだけたくさん蓄積することが、生きる中心課題なのです。この前の章のルカ16章で、イエス様が語られた時に、すでに引用された御言葉が、あの13節の主の言葉です。「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を疎んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」人は本質的に隷属的存在だと先週も語りました。人は神の奴隷かさもなくば富の奴隷でしかなく、その中立ではあり得ません。

自分の富、財産、蓄えが自分の命の絶対保証だと確信している人は、主の来臨に際しては、取り残されることにならざるを得ません。経済生活の大切さを否定することでは決してありません。財産、資産、自分の手で働いて得た資産を神から委託されたものとして忠実に管理使用することは、クリスチャンの基本です。しかし問題は、神に全面的に信頼してお従いしようとしているかが問われているのです。

  自分の救いの達成に努力

神の国に迎え入れられるための準備の第三は、自分の救いの達成のために努力することと言えるでしょう。イエス・キリストの再臨に起こる裁きこそ、すべての人が直面する動かし難い現実です。寝床の二人の一人は迎え入れられ、一人は残されます。イエス様を信じたので、ただ信仰の故に、罪赦されて、私たちは救われました。信じているなら救われています。しかし、その救いはキリストの再臨において完成される救いでもあります。ピリピ2章12節に、使徒パウロはピリピのクリスチャンたちを励まし、こう勧告しています。「だから、私の愛する人たち、いつも従順であったように、私がいたときだけでなく、いない今はなおさら、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」このように語られたからといって誤解しないでください。「自分の救いを達成する」とは自助努力で自分の力で救われることではありません。ただ恵みにより、憐れみにより神の愛の故に賜ったキリストによる罪の赦しによる救いを、手放さないように、奪い取られないように、保持し続ける努力をすることが大切なのです。主は確かに約束して言われました。「然り、私はすぐに来る」主は突然、稲妻の閃きのように、意外な仕方で来臨されます。

あなたは、そのために準備ができているでしょうか。あなたは、まだイエス様を救主と心から信じていないかもしれません。イエス様はあなたの罪の赦しのために、十字架で犠牲となられました。蘇られたイエス様を信じる以外に救いの道はありません。主が来られる時、信じて救われていなければ、あなたは取り残される一人です。裁きを免れることはできません。自分の死んだ後に救われるセカンドチャンスはありません。しかし、今、生きている今、セカンドチャンス、サードチャンス、フォースチャンス、つまり、何回でも救われるチャンスは残されています。今までそのチャンスを逃してきたかもしれません。今日、イエス様を信じ受け入れてください。主の来臨は今日かもしれません。明日かもしれません。私たちはいつでも主が来られても良いように、今週も日々備えて過ごすことにいたしましょう。

108日礼拝説教(詳細)

「不束(ふつつか)な僕(しもべ)なれど」  ルカ17章1〜10節

イエスは弟子たちに言われた、

「罪の誘惑が来ることは避けられない。しかし、それをきたらせる者は、わざわいである。これらの小さい者のひとりを罪に誘惑するよりは、むしろ、ひきうすを首にかけられて海に投げ入れられた方が、ましである。あなたがたは、自分で注意していなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。もしあなたに対して一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい」。

使徒たちは主に「わたしたちの信仰を増してください」と言った。

そこで主が言われた、

「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう。あなたがたのうちのだれかに、耕作か牧畜かをする僕があるとする。その僕が畑から帰って来たとき、彼に『すぐきて、食卓につきなさい』と言うだろうか。かえって、『夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いをするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい』と、言うではないか。僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。

今朝はルカ17章1〜10節をお読みします。今日の説教題は10節の御言葉の「役に立たない僕」から「不束な僕なれど」としたのですが、表看板に説教題を筆で書いて下さるN姉には、お電話でふりがなをするようお願いしました。この二文字を「ふつつか」と読める人は、そんなに居られないかもしれないと思ったからです。ご安心ください。そういう私も辞書で確認するまでは読めない一人だったのですから。この二文字の語源は非常に古く、平安時代に使われた「太束」なのです。短くて太い柱のことで、それが転じて「太くて頑丈なこと」を意味する褒め言葉でした。ところが、次第に、細い体型でしとやかな人が「美しい」と思われるようになり、「太束な人」は、野暮ったい人、つまらない人、いい加減な人を指すように変わってしまい、それが今日の「不束者」に繋がっていると言われているのです。例えば「ふつつか者ですが、ご指導ご鞭撻のほどお願い申し上げます」と使いますね。

「ふつつか者の私に、ご教授いただけないでしょうか?」と言うこともあるでしょう。また娘の結婚式で、「至らないところもありますが、末永くよろしくお願いします」という意味で「ふつつかな娘ですが、どうぞよろしくお願い致します」とよく使われもします。中には娘の結婚式で「ふつつかな娘ですが」と挨拶すべきところを「ふしだらな娘ですが」といってしまったという笑えない話があるそうですが、これは気をつけなければなりませんよね。

ところで、イエス様がこれらの言葉を語られた相手は誰か、1節によれば弟子たちであることが分かります。また、5節には使徒たちが登場し、7節で、イエス様が「あなたがた」と語られていることからして、これが今日の教会であることが分かります。イエス様はこの段落の最後に、主人と僕の譬を語っておられ、その上で10節に教会に対して「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『私どもは役に立たない僕です。すべきことをしたにすぎません』と言いなさい。」と命じられます。「自分に命じられたことをみな果たしたら」即ち、教会には果たすべき課題があるということです。そして、果たすための能力もあること、そして果たすべき態度があることを主は教会に語っておられるのです。

I. 果たす課題

主が語られたのは、当時の社会制度であった主人と奴隷の関係の譬えです。当時の奴隷制度ではあっても、外で働く奴隷と家の中で働く奴隷は分けられていたはずですから、外で働いて帰宅しても、更に家でも働かすというこの譬えに出てくる主人は、随分過酷な人、非人道的な人のように思えます。しかしそれにも関わらず、私たちはここで、私たち人間はどこまでも隷属的な存在であることを覚えるべきでしょう。

ローマ6章16節で使徒パウロはこう言っています。「知らないのですか。あなたがたは、誰かに奴隷として従えば、その人の奴隷となる。つまり、罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従う奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。しかし、神に感謝すべきことに、あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの基準に心から聞き従って、罪から自由にされ、義の奴隷となったのです。」

人間は誰でも奴隷的な存在であって、その中間はありません。罪の奴隷か、神の奴隷かいずれかなのだと聖書は教えます。イエス様を私たちが信じた時、一体何が起こったのでしょうか。それは、その瞬間に罪の奴隷から神の奴隷に変えられたということなのです。その瞬間に自分が仕える主人が決定的に変わったのです。それまで罪の奴隷であった者が、突然イエス様が主人となられたのです。教会は主イエス・キリストを信じ愛しお仕えする主の僕、主の奴隷の集まりなのです。では、外で奴隷が働く畑の耕作、羊の世話、家で主人に給仕する勤めに相当するような、主の僕とされた教会に課せられた課題、果たすべき使命は何でしょうか。それがここには少なくとも4つ挙げられています。

  罪を犯さないこと

第一の課題は罪を犯さないことです。1節で主は言われました。「つまずきは避けられない。」この同じ趣旨の言葉をマタイ18章7節で、主は「人をつまずかせるこの世に災いあれ。つまずきは必ず来る」と語っておられます。口語訳はこのところを「この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。」と訳しています。この「躓き」あるいは「罪の誘惑」と訳される言葉の原語スカンダロスは、本来は罠のこと、落とし穴のことです。

子供の頃、私は罠でよく遊びました。草原の長い草を結び、引っ掛かるように細工する遊びをした者です。草むらに小さい穴を掘り、分からないように草で塞いで人を落とす遊びをしたのです。私はこう見えても悪ガキでしたね。主は、私たちの住むこの世には至る所に罠が仕掛けられている、と警告されるのです。人に罪を犯させる仕掛けが組まれているのです。イエス様を信じ、罪赦されたクリスチャンたちは、罠にかからないように、罪の誘惑に負けないよう注意しなければなりません。

第1主日に十戒を朗唱しています。それは、十戒を厳守すれば救われるということではありません。恵みにより罪の奴隷から解放されたのだから、再び罪を犯さないだろう。犯さないようによくよく注意しようという呼びかけなのです。

私たちは、イスカリオテのユダが銀貨30枚で主を売り渡したことを知っています。しかし、それに先立ち、ユダが密かに盗みの罪を犯していたことが知られているのです。ヨハネ12章には、ベタニアでマリアがナルドの香油を注いだ美しい記事が記されていますが、その場で「なぜ、無駄にするのか」とマリアに抗議したのはユダでした。そこには、こう注釈がされています。「彼がこう言ったのは、自分が盗人であり、金入れを預かっていて、その中身をごまかしていたからである。(6節)」と。ユダは弟子集団の会計でした。彼は財布を預かり出し入れを管理していました。それが彼には罠となったのです。密かに財布を誤魔化し、盗みを働いていたのです。教会に課せられる課題、個々のクリスチャンたちに課せられる課題、それはそれが何であれ、罪を犯さないことです。

   躓かせないこと

第二の教会の課題は、それは、人に躓きを与えないことです。主はこう続けて言われます。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者には災いがある。」そして、「その者にとっては、これらの小さな者の一人をつまずかせるよりも、首に挽臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまうほうがましである。」と非常に厳しく語られました。

つまずかせるこの小さな者とは、ここではイエス様を信じた者たち、弟子たちのことでしょう。今日で言うクリスチャンたちのことです。相手をつまずかせるとは、その相手に罪を犯させるよう罪に誘惑すること、それによって主イエス様からその人を引き離れさせてしまうことです。いつでしたか、ローマ14章から「強い人と弱い人」と題して語ったことがありました。覚えておられるでしょうか。それは主にある兄弟・姉妹を、枝葉末節の教理の違い、生活の仕方の違いから裁くべきではないことがテーマでした。人によって何を食べ、食べないか違っている。ある日を特別に重んじる人もいれば、どの日も同じだとする人がいる。生まれたばかりの赤ちゃんの幼児洗礼は有効だとする人もあれば、自分の意志で決断して洗礼を受けるべきだとする人がいる。主イエス様の再臨は7年間の大患難の前だとする人、いや、後だとする人もいる。その違いによって裁いたり批判したりするべきでないというテーマでした。

実はそのローマ14章後半の主題が「兄弟をつまずかせてはならない」なのです。これは各自に与えられている良心の問題です。非常にデリケートな問題です。良心は、その人が過ちを犯した場合に、それを指摘する内面の働きです。良心とは神が人間に与えられた心理的な機能の一つですが、それは完全でもなければ、麻痺して弱くもなり強くもなる性質のものです。パウロがローマ書で語った背景には、当時のユダヤ教からの改心者と異邦人改心者の問題がありました。宗教的な伝統によって、神の前にこれは罪であるとする考え方には大きな違いがありました。ユダヤ人にとっては、安息日、割礼、十戒の厳守は死活問題でした。ユダヤ人改宗者にとって、クリスチャンとしてこれらの伝統をどう理解するかは深刻な問題であったのです。欧州や米国には、長いキリスト教の伝統が根付いているために、現代でも、この良心の問題が重要な課題となる場合があります。日本の教会は歴史が浅いので、それほどではないかもしれません。それでも、アルコール飲料、映画やテレビや演劇、ネットなどの娯楽、髪のスタイルや服装、日曜・祝日などについては、各自の意見・考えは違っているものです。あるクリスチャンは、酒、タバコは神の前に罪であると考えます。日曜日は厳守すべき礼拝の日だと考えます。礼拝の日の服装は普段着ではなく、正装で臨むべきだと考える人もいます。東京の私の親戚が通う大きな教会に出席した時、それは驚きでした。男性の全員が一人残らず背広姿で出席していたからです。

この躓きの問題はどこにあるのでしょうか。自分ではこれをしたら神の前に罪を犯すことになると思っていたのに、周りの信仰の篤い熱心なクリスチャンたちが平気でそれをしているし、当たり前のようなので、それをすべきであると考えを変え、それを自分でも実行する。それはその人にとっては、良心に逆らって実行することです。すると、自分では罪だと思ってもやってできないことはないと思う。それで何かが変わるわけでもない。それが他のしてはいけないと思っていた事についても発展する事になり、ついには罪に対する感覚が麻痺し、神から離れてしまうことがあるということなのです。私たちの教会では葡萄酒は使わないのですが、ワインを採用している教会で、自分は酒を飲むことは神の前で罪を犯す事になると考えていたのに、皆が飲んでいるので、酒を飲む習慣がつく事になる。それは日曜礼拝も然り。日曜厳守が正しいとしていたのに、あるクリスチャンは絶対化しないで、日曜にも平気で休んで旅行に行く、家族でキャンプを楽しんでいる。自分も休んで見たら、なんでもない。そういう感覚が発展し、罪を犯す事に無感覚になり、ついには神から離れてしまうことがありうるのです。私たちクリスチャンは、自分たちが良かれと平気で行っていることが、ある人に躓きを与えてはいないか、罪を犯す誘惑になっていないか、十分に愛ある配慮をすることが課題であることを覚えておきましょう。

  罪を赦すこと

ここに挙げられる第三の教会の課題は、人の罪を赦すことです。主はこう語られます。「あなたがたも気をつけなさい。もしきょうだいが罪を犯したなら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたの方を向いて、『悔い改めます』と言うなら、赦してやりなさい。」

ここでは、兄弟が犯す罪とは自分に対しての罪であることが分かります。その自分に対する相手の罪過ちを「赦してやりなさい」と主が言われるのです。赦すとは許容の許しではありません。相手の罪を容認して放置することではありません。赦しとはその犯された罪過ちが全くなかったものと見做し、今までと全く変わらない関係を保持することです。しかし、その赦しには三段階のプロセスがあることを見落とすべきではありませんね。

第一に相手の罪を戒めることです。これは非常に難しいことです。相手の状態、自分自身の状態、そのタイミング、話の持って行き方、それは非常にデリケートな行為であります。多くの場合、相手を戒めたからと言って素直に認める保証はありません。むしろ自己弁護して自分の正当性を主張し、逆に戒めた人を批判するかもしれません。

第二に悔い改めです。赦しは相手の悔い改めが条件なのです。自分の非を認め、改善する意志があっての赦しなのです。

しかも、主は1日に7回罪を犯し、7回悔い改めても赦しなさい、と命じられます。マタイ18章では、主は「7回どころか七の七十倍まで赦しなさい」と命じておられます。それは赦しとは無制限だということです。何故なら、もう分かっていることです。私自身、自分自身の計り知れない大罪が主によって、十字架によって、完全に徹底的に赦されているからです。主が自分にしてくださったように、兄弟姉妹の罪過ちを赦すよう、主は教会に課題を与えられたのです。

④福音の宣教のこと

ここにはただ暗示的ですが、教会に課せられた課題がもう一つあります。それは福音の宣教です。主は「自分に命じられたことをみな果したら(10節)」と語られました。この「命じられたこと」、これは原語ではオプセイローが使われており、その本来の意味は「借金していること」なのです。そして、私たちはこの同じ用語をパウロがローマ1章14節で使っていることを知っており、彼はこう語っています。「私には、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。」この果たすべき責任がオプセイローです。「借金している」なのです。私には払うべき負債があると言うのです。それがパウロにとっては福音宣教でした。「それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。」それは愛の負債です、愛の借金です。

十字架の罪の赦しを受け、神様に愛されたから、その恩恵にお返しするとするなら、それは福音の宣教を他にないと言うのです。先々週の水曜日9月27日に、ウイーンで歌手として活躍される緒方美知子姉をお招きし、尾崎キリスト教会と合同で特別集会を開催しました。私はこの機会に改めて、泉佐野福音教会のたどった短い歴史をおもわないわけにいきませんでした。随分古い時代に、泉佐野市で万代恒雄牧師が宣教師と伝道集会を開かれたのですね。その集会にK家の方々が出席されていた、呼びかけに応じて、K家で家庭集会が開かれるようになる、そこに尾崎教会の牧師と信徒の方々が奉仕されたというのです。やがて、K家のすぐ隣のアパートで尾崎出身の阪口寿美子先生が開拓伝道を開始される。その集会でK家の皆さんが救われる、高校生であったY兄が救われている。それから58年が経過して今日の泉佐野福音教会がある。そこには「果たすべき責任」を果たさないわけにいかない愛の負債者がおられたに違いないのです。教会は、キリストによる神の愛の負債が負わされているのです。果たすべき責任があるのです。それはキリストの福音、それを信じるなら救われる十字架の福音を宣べ伝えることなのです。

.果たすべき能力

教会に課せられた課題、それは罪を犯さないことです。人に躓きを与えないことです。罪を赦すことです。福音を宣べ伝えることです。主がそのように弟子たちに語られたそのときです。まさにその時、使徒たちはたまらず、こう主に願い出ました。「私どもの信仰を増してください。」彼らは、その重い重責、課題に圧倒されたのです。「とてもとても自分たちにはその課題を果たすような力はありません。」「私たちにはそのような責任を受け止められるような信仰もありません。」だから「主よ。私どもの信仰を増してください。」信仰を大きく、太く、強くしてください、そうする力を能力をください、と願い申し出ざるを得なかったのです。

ところが、それに対する主の答えはこうでした。「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『根を抜き、海に植われ』と言えば、言うことを聞くであろう。」弟子たちは信仰の量を問題にしたのに対して、主は信仰は量ではなく質の問題だと言われたのです。教会に与えられた課題を果たす能力を、主は喩えて「からし種一粒ほどの信仰」と言われました。からし種は伸びれば5メートルにもなる植物です。ところがその種は0、5ミリなのです。極端に小粒なのです。しかし、種は小さくても命があります。命があれば、芽を出し成長し、実を結ぶことができる、それが種です。大きな強い信仰、たっぷりな信仰ではない。命ある生きた信仰さえあれば、課題を果たすことができる、と主は言われるのです。その可能性を喩えて言われたのです。「この桑の木に、『根を抜き、海に植われ』と言えば、言うことを聞くであろう。」桑の木が海に植るとは、馴染みのない、想像し難いイメージではありませんか。

しかしこれは、これによって洗礼、バプテスマが連想されるものです。洗礼においては張られた水に人は沈められます。水とは死の象徴です。人はイエス様を信じてキリストの死と復活に預かるのです。海に植えられた桑の木は、洗礼を受けたクリスチャンのイメージです。海に囲まれた桑の木は、この世の罪の誘惑、つまずきに囲まれたクリスチャンの姿そのものです。教会はこの世に植え付けられた桑の木のようです。周囲はどこまでも死にかこまれているのですが、そこにたくましく生きるのです。イエス様を主と告白し、主につながるのであれば、主が無限の供給を保証してくださる。イエス様を信じるなら、罪の誘惑に勝つ力が与えられるのです。イエス様を信じるなら、愛のある配慮によって人をつまずかせない力と知恵が与えられる。イエス様を信じるなら、罪を犯した人を赦す力が与えられます。イエス様を信じるなら、誰かに福音を伝える力が、聖霊が与えられるのです。信仰は量ではありません。イエス様を単純に、心から信じ受け入れ、信頼する信仰が肝心なのです。

.果たすべき態度

それゆえに、主は「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『私どもは役に立たない僕です。すべきことをしたにすぎません』と言いなさい。」と言われるのです。「私どもは役に立たない僕です。」口語訳や新改訳は「ふつつかな僕です。」となっていますね。文字通りの意味は、「取るに足りない、無益である、ダメな人間」です。しかし、これは実際に役に立たないと言うことではありません。これは、謙譲語なのです。へりくだった人の語る謙遜の表現なのです。事実、主はヨハネ15章で、葡萄の例えでも言われました。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。」その上で、こう言われたのです。「私を離れては、あなたがたは何もできないからである。」これが教会とキリストの事実関係なのです。主と教会は密接不離の関係です。信仰によってキリストに結びつくことなしには、霊的な働きは何一つできないのです。教会に与えられている命じられた課題、罪を犯さないこと、つまずかせないこと、罪を赦すこと、福音を宣べ伝えること。そのどの一つでもキリストから離れては、何もできないのです。ですから、主の前に「『私どもは役に立たない僕です。すべきことをしたにすぎません』」とへりくだるのです。一日を終えた就寝前の祈りがあるなら、主にそのように告白しましょう。「私はふつつかな僕です。今日も私がすべきことをあなたから上よりの力を与えられてしたに過ぎません。」

私は先週の日曜日の午後、静まる時を持ちましたが、10月の1日でした。私は常々、「私はもう78歳、あと二年で80歳なのですよ。」と皆さんに言っておりました。しかし、よくよく計算してみれば、あと6ヶ月で79歳です、あと一年六ヶ月で80歳なのです。後どのくらいの年数、教会でご奉仕することができるのでしょうか。もし引退を表明するとするなら、私が語るべき最後の言葉は10節としようと思います。また、そうあるべきです。「私は役に立たない僕です。すべきことをしたにすぎません」「私はふつつかな僕です。なすべきことをしたに過ぎません。」ただただ主の前にへりくだるばかりです。

今週の日々の歩みも、主に信頼し祈りつつ前進しましょう。罪の誘惑に負けないよう信頼しましょう。つまずかせないよう祈りましょう。赦せるように備えましょう。福音を宣べ伝えられるよう聖霊の力を祈りましょう。そして、「私はふつつかな僕です。なすべきことをしたに過ぎません。」とヘリくだり主に感謝し栄光をお返しすることにしましょう。

10月1日礼拝説教(詳細)

「アドナイ・イルエ」  創世記22章9〜14節

これらのことの後、神はアブラハムを試みられた。

神が、「アブラハムよ」と呼びかけると、彼は、「はい、ここにおります」と答えた。

神は言われた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして私が示す一つの山で、彼を焼き尽くすいけにえとして献げなさい。」

アブラハムは朝早く起きて、ろばに鞍を置き、二人の従者と息子イサクを連れ、焼き尽くすいけにえに用いる薪を割り、民が示した場所へと出かけて行った。

三日目になって、アブラハムが目を上げると、遠くにその場所が見えた。アブラハムは従者に言った。「ろばと一緒にここにいなさい。私と子どもはあそこまで行き、礼拝をしてまた戻って来る。」

アブラハムは焼き尽くすいけにえに用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。こうして二人は一緒に歩いて行った。

イサクが父のアブラハムに、「お父さん」と呼びかけると、彼は、「息子よ、何か」と答えた。そこでイサクは、「火と薪はここにありますが、焼き尽くすいけにえにする小羊はどこですか」と尋ねた。するとアブラハムは、「息子よ、焼き尽くすいけにえの小羊は神ご自身が備えてくださる」と答え、二人はさらに続けて一緒に歩いて行った。

神が示された場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。すると、天から主の使いが呼びかけ、「アブラハム、アブラハム」と言った。

彼が、「はい、ここにおります」と答えると、主の使いは言った。「その子に手を下してはならない。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが今、分かった。あなたは自分の息子、自分の独り子を私のために惜しまなかった。」

アブラハムが目を上げて見ると、ちょうど一匹の雄羊がやぶに角を取られていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕らえ、それを息子の代わりに焼き尽くすいけにえとして献げた。

アブラハムはその場所をヤハウェ・イルエと名付けた。それは今日、「主の山に、備えあり」と言われている。

創世記22章9〜14節をお読みいたします。先週の水曜日、いつもであれば定例の祈祷会のところを、私たちは尾崎キリスト教会と合同して祈祷会を実施しました。事の発端は、数ヶ月前に、ウイーンを拠点に声楽家として活躍される緒方美知子姉からの呼び掛けでした。

9月末に一時帰国するに際して、泉佐野福音教会に立ち寄ることができます、との連絡を受けたのです。そこで、日程的に双方にとって都合が良い日は27日水曜日でしたから、祈祷会にお招きし賛美の奉仕をお願いすることにしました。しかし、そればかりではなく、私たちは、近くの尾崎キリスト教会にも呼び掛け、合同の集会をしませんかと提案したのです。その結果、尾崎からは12名が参加、合計で30名ほどの規模の集会となりました。集会はメゾ・ソプラノ歌手による賛美と証し、秋川師による説教と応答の祈祷と続き、非常に内容の濃い豊かな集会となりました。奉仕された皆さんには心から感謝します。

今回改めて、呼び掛けに応じるということが、豊かな実りをもたらすものであることを如実に経験させられました。今日お読みした聖書箇所は、アブラハムが息子のイサクを犠牲にして献げるという有名な箇所です。この22章の最初から読み進むときに、実はアブラハムが三回に及び、呼び掛けを受け、それに対して三回、同じように「はい、ここにおります。」と答えていたことが分かっております。第一回は1節です。アブラハムは神に呼びかけられ「はい、ここにおります。」と答えました。第二回目は7節です。息子のイサクに呼び掛けられ、アブラハムは同じように答えています。そして第三回目は、11節です。アブラハムは天使に呼び掛けられ「はい、ここにおります。」と答えました。アブラハムに対するこの三回の呼び掛けは、神、イサク、天使と異なりますが、私たちは、このアブラハムに対する呼び掛けとその応答を通して、神が如何なるお方であるかをはっきりと知ることができるのです。

.人を試す神

第一に神は人を試すお方であることが分かります。「神が、「アブラハムよ」と呼びかけると、彼は、「はい、ここにおります」と答えた。」と1節には、第一番目の対話が記されています。しかしご覧ください、その前に「これらのことの後、神はアブラハムを試みられた。」と、その神の呼び掛けの動機が書かれているのです。その呼び掛けの神様の動機は、彼を試すことでありました。試すということ、それはそれによって相手の何かを知ろうとすることです。私たちは、この創世記の12章から、アブラハムの足跡をずっと辿ることによって、彼が、実は何回も何回も成功と失敗を神の前で繰り返してきたことが分かります。

アブラハムは、神による召命を受けたとき、彼は成功したと言えるでしょう。神はアブラハムを、親族の地を離れ、神が指し示す地に行くように召し出されました。するとアブラハムは召されると、75歳で主が告げられた通りに勇敢に旅立ち、パレスチナ地方に出かけて行くことができました。

しかし、パレスチナ全土に厳しい飢饉が襲ったときのことです。彼は失敗してしまいました。経済的な安全の確保のために、神に信頼せずに、遠くエジプトを頼みとして移住しました。ところが、自分の妻を妹であると偽ったために、エジプトの王との間に、とんでもないトラブルが発生し、見事に失敗してしまったのです。

創世記の13章によれば、一緒に旅立った甥のロトとの間に、やがてお互いの家畜が増えたため牧草地の問題が発生したと語られています。その時アブラハムは、甥のロトに土地の選択権を与えることで、事を穏便に解決するのに成功しました。

創世記の14章によると、アブラハムは激しい部族戦争に巻き込まれるのですが、勇敢に振る舞って成功したことが分かります。家畜の事で互いに距離を置いて暮らしていた甥のロトが、この戦争に巻き込まれてしまいます。結果、家族財産全てが奪い去られてしまいます。その時、アブラハムは、一族郎党を引き連れ、果敢に戦い、ロトの家族の救出に成功しているのです。

しかし、15章以降の足跡を辿ると、アブラハムは世継ぎ問題で大きな失敗をしでかしてしまうのです。妻のサラが不妊であったため、世継ぎがいないことが彼の大きな悩みの種でした。しかし、神は、「あなた自身から生まれる者が跡を継ぐ」と世継ぎを約束してくださいました。ところが、待てど暮らせど、サラに子供が生まれる気配がありません。待ちきれないサラは、自分の女奴隷のハガルを、子供を産ませるためにアブラハムに与え、それによって世継ぎを確保するようアブラハムに勧め、その結果イシマエルが誕生したのです。しかし、それは神の約束の世継ぎではありえません。神の約束は、アブラハムが100歳、サラが90歳のときに成就することになります。それによってイサクが誕生したのです。ところがそのために、妻サラと女奴隷ハガルの間に亀裂が生じてしまう、深刻な家庭内騒動に発展してしまったのです。アブラハムは神の約束を待つことに失敗してしまいました。

それでは、このような成功と失敗の繰り返しを踏まえて、神はアブラハムに何を知ろうと試みたのでしょうか。神はアブラハムに「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして私が示す一つの山で、彼を焼き尽くすいけにえとして献げなさい。」と命じられました。これは人間的な見地からすれば、到底理解し難い理不尽な要求です。甚だしく矛盾しているとしか思えません。世継ぎとして与えると約束した同じ神が、その与えられた世継ぎのひとり息子を、殺して犠牲にして献げよと、アブラハムに命じたのです。 では、これに対してアブラハムはどうしたでしょうか。彼は主が命じられた通りに、翌朝準備し、指定されたモリヤ山に旅立ち、イサクを祭壇に刺し殺して犠牲にしようとしました。

一体この試みによって神はアブラハムの何を知ろうとされたのでしょうか。ヤコブ1章2、3節には、こう記されています。「私のきょうだいたち、さまざまな試練に遭ったときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生まれることを、あなたがたは知っています。」そうです。アブラハムは彼の神への信仰が試されたのです。神を信じるとは、神を第一として畏れ敬い絶対的にお従いすることです。

先週水曜日の合同集会で、緒方美知子さんが素晴らしいメゾ・ソプラノで賛美しつつ証しされたとき、私たちは深い感動を覚えさせられました。それは緒方姉が非常に厳しい試練を乗り越え神に信頼して勝利されたことを証言されたからです。新型コロナ感染の最盛期には、全く外出ままならず2ヶ月間、誰とも会えなかったとその深刻さを語られました。そればかりか、自転車に自動車が飛び込んできて何十メートルも飛ばされ大怪我をし、車椅子生活を余儀なくされたとのことです。度重なる試練に緒方姉は、大変な孤独と痛みを経験させられました。しかし、神に対する信仰によってその厳しい試練を勝利に導かれたと証言なされたのです。

主は、イエス様を信じ救われたあなたの全てをご存知です。これまでどのように歩んでこられたのか、全てをご存知です。そしてその上で更に、主は、あなたがどこまで神を第一とし畏れ敬い信じて従おうとしているか、信仰を試す神であられるのです。神がどのような試練を与えられるか、それは人によって全く違うことでしょう。しかし、どんな試練が与えられたとしても、驚かないでください。「この上ない喜びと思いなさい。」喜びを持って受け止めてください。

II. 備えある神

アブラハムが独り子のイサクを伴い、指定されたモリヤ山に辿り着いた時のことです。9、10節をご覧ください。アブラハムは祭壇を築き終えるや否や、イサクを縛り、祭壇の薪の上に寝かせ、刃物を取ってイサクを屠ろうとしました。あわやイサクがナイフで殺害されようとするその瞬間でした。天から天使が「アブラハム、アブラハム」と呼掛けたのです。そして天使がこう宣言したのです。「その子に手を下してはならない。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが今、分かった。あなたは自分の息子、自分の独り子を私のために惜しまなかった。」そう語られて刃物を脇に置いたアブラハムが目を上げてみれば、何と一匹の雄羊が藪に角を取られていたのです。そこで彼は雄羊を捕え、イサクの代わりに、祭壇の上で焼き尽くす生贄として献げました。

そして、アブラハムはこの驚くべき出来事を記念して、その場所を「ヤハウエ・イルエ」と呼んだのでした。その原語の意味は訳すと「主は備え給う」です。天使の呼び掛けに対するアブラハムの応答によって明らかにされたこと、それは、神様は備えあるお方であるということです。英語で備えるは、Provide と綴(つづ)るのですが、この語源はラテン語のプロ・ビデーレです。その意味は「予(あらかじ)め見る」なのですが、そこから備える「Provide」が作られ、更に「providence」が作られ、これは日本語の摂理を意味するものです。日本語で摂理を「自然の摂理」と使ったりする場合には、自然界を支配している法則という意味になりますが、聖書の中では、万物の創造主である神の宇宙と歴史に対する永遠の計画・配慮のことです。神がこれによって被造物を目標に導かれること、それが摂理です。その摂理を優しく、分かりやすく言い換えるとすれば、それが「備える」ことなのです。天使の呼び掛けに対するアブラハムの応答を通してわかること、それは、神様が摂理の神であり、備えある神であることなのです。アブラハムの神は、神を愛する者の傍にいて、その「前を」「見る」すなわち、予知し、良きものを備えてくださるお方なのです。何という素晴らしい真理でしょうか。神様は、生ける真の神は、備えあるお方、摂理の神です。

もう何回も証ししたことですから、耳にタコができているかもしれませんが、私と妻がこの泉佐野福音教会に赴任すること自体が、神の摂理の豊かな体験でした。10年間ウイーンで奉仕をし、70歳で日本に帰国しようとするとき、私たち夫婦の日本での生活は全く未知数そのものでした。しかし、神様は、あの黙示録3章8節のフィラデルフィア教会に与えられた言葉を、私たちに対する約束として与えてくださいました。「見よ。わたしは、だれも閉じることができない門を、あなたの前に開いておいた。」私にとり、そのお言葉だけで十分でした。主が私たちのために、日本での生活と働きの場を備えてくださることが確信できたからです。その結果、2015年4月にこの教会の皆さんが紹介されたのです。広い土地に建てられた3階建ての立派な美しい教会、それに新車のノアが用意されていました。それ以来、私たち夫婦はこの車に乗る度に、「感謝だね。このように車まで用意されていて!」と口癖のように語り合っているのです。

私は 16 歳の時に信仰の告白に導かれてこのかた、それは文字通り神様の備えの連続でありました。私の家族が、新宿から東村山市に引っ越したその年、私の家のすぐ近くに小さな教会が誕生したのです。それは、私に対する神の摂理的配剤、神の備えであったとしか言えません。神学校を卒業したばかりの21歳の青年牧師が、開拓伝道をその年に開始され、その年に私は信仰に導かれて救われたのです。

イエス・キリストは生きておられます。父なる神、聖霊なる神は生きておられ、神は摂理の神、備えあるお方なのです。もうお亡くなりになりましたが、有名な牧師であり神学者であった北森嘉藏先生が、信仰には類型があると話され、一つは猿型の信仰で、もう一つは猫型の信仰だと言われました。猿型の信仰とは何かと言いますと、母猿が樹上を移動する場合、子猿を背中に背負って木から木へと飛び移って移動するのですが、その際、母猿の首っ玉にしっかりしがみ付いていないと子猿は地上に振り落とされてしまう、一方、猫が子猫を連れて移動する場合、母猫は子猫の首っ玉を咥(くわ)えて部屋から部屋へと移動する、その時、子猫は全くの受け身で母猫に自分を任せておけばよい、つまり信仰にも、猿の母子のように、神にしっかりしがみついていないと信仰から脱落してしまうという形と、猫の母子のように、ただただ身をじっと神に委ねる受け身のかたちのものとがある、という説明でした。この時のアブラハムの信仰は、人間がジタバタしてもはじまらない、すべてを知っていて、しかも最善をなしてくれる神にすべてを任せるという、いうなれば猫型の受け身の信仰であったのです。アブラハムはこの厳しい試練の最中、「目を上げて見ました」すると、そこに神の備え、藪に角を取られた雄羊を見たのです。

あなたもご自分の生活の周囲を見てください。神様もあなたの生活の全てを見ておられ、しかも備えておられるのです。当時の人々は、それ以来、この山、モリヤ山を「主の山に、備えあり」と呼ぶようになりました。アドナイ・イルエ! ヤハウエ・イルエ!「主の山に備えあり」を口癖にすることにしましょう。

III. 人を愛する神

それでは7節のイサクの呼び掛けに対するアブラハムの応答から見えてくる神様はどのようなお方でしょうか。それは、人を愛する神であることなのです。イサクは父に寄り添い、祭壇で燃やす薪を背中に背負い、モリヤ山に行く途中で、父アブラハムに呼び掛けてこう問います。「火と薪はここにありますが、焼き尽くすいけにえにする小羊はどこですか」それに対するアブラハムの応答はこうでした。「息子よ、焼き尽くすいけにえの小羊は神ご自身が備えてくださる」アブラハムはイサクに、神様がお前を献げよと言われたとは言いません。内心ではイサクを犠牲にする覚悟でありました。しかし、結果的には、アブラハムの告白通りに、神が生贄を備えてくださいました。この父アブラハムと独り子イサクの対話から見えてくるもの、それは、父なる神と御子イエス・キリストであります。イサクは神の御子イエス・キリストの雛形です。イエス・キリストは、父なる神からこの世に遣わされた救い主です。アダム以来の罪の故に、滅びに定められた人類を救う道は、ただ一つしかありません。それは、人類の罪責の全てを身代わりに引き受けて十字架の祭壇で裁かれ殺され、犠牲となる他にありません。アブラハムがイサクを献げようとした時には、イサクの代わりの犠牲が備えられました。しかし、父なる神が御子イエス・キリストを十字架に献げようとされた時には、イエスに代わる犠牲はありません。神はご自身の最愛の御子を罪の赦しを得させるために、十字架に犠牲として捧げざるを得なかったのです。何故でしょう。それは神が愛なる神であるからです。ヨハネ第一4章9節から読んでみましょう。「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現されました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ヨハネ3章16節はこうです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」この「世を愛された」の世に自分の名前を入れて読んでみてください。私であればこうです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、私、Aを愛された。」そうです。神は私を愛してくださる。その愛の度合いは計り知れません。「御子をお与えになったほどに」なのです。神様はあなたを愛しておられます。十字架はその神の愛の印であり、証拠であります。福音書には、マタイにもマルコにもルカにも、主のゲッセマネの祈りが残されています。主は十字架を目前に三度も父に祈られました。「父よ。できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。」しかし、三度祈られても、父の答えはありません。その結果、御子イエス様は、ご自分が十字架で罪の赦しのために犠牲の生贄となることが父の御心であると確信され、十字架に向かわれたのです。

今日、これから皆さんと共に預かろうとしている聖餐式は、十字架を前にした前夜、弟子たちと最後の晩餐を摂る際に、主が聖定された礼典です。それは、主イエス様の十字架の受難を思い起こすための礼典です。十字架で砕かれた御体を象徴するパンをいただき、十字架で流された血潮を象徴する杯を飲むとき、そこに神の愛を思い起こすことにしましょう。神は愛です。神様はあなたを 私を愛されます。愛してくださいます。神は人を試みる方です。神は備えある摂理の神です。そして神は御子を給うほどに私たちを愛してやまない愛なる神なのです。