9月25日礼拝説教(詳細)

惜しまず注ぐ愛」  マルコ14章1〜9節

イエスがベタニアで、規定の病を患っているシモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、その壺を壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。

すると、ある人々が憤慨して互いに言った。「何のために香油をこんなに無駄にするのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。

イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、私はいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もって私の体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。よく言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」  

 今日、皆様と分かち合おうとする聖書箇所は、イスラエルの三大祭の過越祭の頃、実際にあった出来事です。太陽暦では3月4月頃、歴史家ヨセフによれば、ある年の過越祭では、エルサレム神殿に捧げられた子羊の数が、25万6500頭であったと報告されていますから、その祭りには300万人近いユダヤ人巡礼者が、世界中からエルサレムに参集していたことになり、まさにその時に起きた出来事のことであります。

しかもその出来事は、エルサレムではなく、3キロ離れた町外れの、その名も「悩みの家」を意味したベタニヤ村の片隅で、そればかりか、その村でも社会的に疎外されていた癩病人の家で、それも匿名の女性によって起こった出来事でした。それは、その家の食卓の席に着いておられた主イエスの頭に、一人の女が突然高価なナルドの香油を、その壺を割って注いだという出来事なのです。しかも主イエスは、この出来事の直後に、こう言われました。『よく言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。』と。

この福音とは、良きおとずれ、グッドニュースのこと、イエス・キリストの死と復活のことです。それによって信じる者の罪が赦され贖われることです。その福音が宣教される所では、何と世界中のどこででも必ず記念となる、語り伝えられる、と言われたのです。それが、どういうことを言わんとされたのかといえば、“福音が語られる、それによって福音を信じて救われる者が起こされる、その救われた者は、この匿名の女性がした行為を、同じようにする者とされるだろう”ということなのです。

 しかしどうでしょう、この女が主イエスの頭に、香油を注いだその瞬間でした、そこに同席した人々、実はそれは弟子たちだったのですが、彼らは猛烈に憤慨し、その香油を注いだ女を、非常に厳しくとがめたのです。

この「とがめる」とは、文字通りの意味が「馬がヒヒーンと荒々しく鼻を吹き鳴らす」ことなので、腹立たしく憤慨した、弟子たちの目つきや言葉使いが、何か目に見えるようではありませんか。彼らは怒って『何のために香油をこんなに無駄にするのか』と言葉を荒げて、女にキツく抗議しました。そして、おまけに『この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。』と非難し、女を困らせてしまったのです。

ところがどうでしょう、弟子たちが、悪し様(あしざま)に無駄なことだ、と糾弾したはずの女のしたことが、何と「世界中に記念として語り伝えられる」ことになるのだ、と主イエスは、断言なされたのです。弟子たちが憤慨し非難する一方で、その反対に、主イエスが賞賛された、この女のしたこととは、一体どういうことなのでしょうか。

主イエスは即座に、女をとがめた弟子たちに、「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ」と諭されました。主は女のした行為は良いことだ、と言われたのです。弟子たちがこの場面で、良いこととしたのは、明らかに、貧困者の救済です。当時のユダヤ人が、とても大事に実行していた三つ善行がありました。それは断食、祈祷、施しの三つで、どれも、それらは彼らにとっては徳の高い善行です。中でも施し、即ち貧しい人に施しをすることは、大変に良いことでした、徳の高い善行だ、として推奨されていました。しかしながら、この女のした行為、主イエスの頭に油を注ぐ行為は、良いことは良いことでも、彼らの善行とは、実は全く違った次元の善であったのです。

主イエスがここで使用された「良い」の原語カロスは、「良い」の他に、美的に心地良いもの、つまり美しいという意味が込められた用語でもありました。先週私は、和歌山に行く途中の道の駅を通りかかり、そこに花を売るコーナーがあったので、5鉢の花を手に入れてきました。今それは書斎のベランダに植えられているのですが、それはそれは私の目に、大変美しい。本当に美的に心地良いものとなっています。

Ⅰ.時宜にかなう美

 イエスがここで、「私に良いことをしてくれたのだ」と言われたのは、この女は、時宜にかなった美しい行為をしたのだと言われたのです。なぜかと言いますと、7節でこう語られたからです。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、私はいつも一緒にいるわけではない。」 ここには、「いつも一緒にいる人」と「いつも一緒にいない人」が対照されています。ここで、いつも一緒にいる人とは貧しい人のことです。では、いつも一緒にいない人とは誰でしょうか。それは明らかに主イエスの事です。いつの時代でも、どこの国、どこの社会にも、生活に苦しい貧しい人はいるものです。主はこの貧しい人たちのことをここで軽んじた訳では、決してありません。ここには、実は強調されている一つのことがあるのです。

人の生きる時間には、1時間、1ヶ月、1年と時計や、カレンダーで測れる物理的に継続する時間があります。だが、それとは違う、決定的な時、かけがいのない時、二度と無い機会という瞬間がある、その時を人が生かすことの大切さ、それが強調されているのです。つまり、時宜にかなって行動する美しさ、それを主は強調されたのです。その時、イエスご自身、公生涯の最終局面に立たされておられました。その日は、受難週の水曜日ですから、その翌々日の金曜日には、十字架の死が、主イエスを待ち受けていたのです。それは、歴史上の決定的な瞬間であった、と言っても過言ではありません。この匿名の女性が、ベタニヤの食事の席で、イエスの頭に高価な香油を注いだその瞬間は、それこそ二度と再び到来することのない、決定的な機会・チャンスであったのです。ですから、この女性が大事にしていた高価なナルドの香油を、イエスの頭に注いだ行為は、この決定的な瞬間を生かしたという意味で、時宜にかなった大胆な行為行動であった、ということができるのです。

人には誰にでも、いつでもできる事があります、先送りしてもいい事がありますね。しかしまた、人には誰にでも、先送りすることのできない、後回しにしてはならない、この瞬間には、あらゆることを放棄してでも、やらなければならない事がある、というものです。

私の自分の母の死が思い出されます。私がまだ17歳の時でした、母は私が高校二年生の時、膵臓癌で死んでしまいました。最初、町医者は十二指腸潰瘍と診断して治療してくれたのですが、それは誤診でした。気が付いた時はもう手遅れです。大変なショックでした。私にとって、いまだに悔やまれることがあります、死んでしまった母のためには、今更、何もしてあげることができないということなのです。もう遅いのです。機会を失ってしまったのです。

 あの「天の下では、全てに時機がある」で始まるコヘレト3章11節には、「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」という素晴らしい一句があります。時、時間は神の創造です。我々人間はその時間と空間に存在させられ、生きる生き物です。神は、その時間の中で、我々が生きるその時間の中で、時宜にかなって事をなさる方だと言われているのです。神は、時間の中で、継続する時間の中で、しかも決定的な瞬間に行動なされる方なのです。この神に、私たち人間は、似せて造られました。そして、主イエスを信じて救われるということは、本来の人間性を取り戻すことです。ですから、信じて救われるということは、神がそうであられるように、時宜にかなって機会を生かして行動する者になるという事なのです。その意味で、ベタニヤのあの香油を注いだ女性は、本来の人間性を取り戻した人を代表しています。そうであるとすれば、我々も、誰かに声かけをするとか、電話をかけるとか、手紙を書く、病人を見舞う、相手の必要に応える凡ゆる行為が、時宜にかなうものとなるよう、祈らなければならないでしょう。

Ⅱ.精一杯の美

 さて、弟子たちがこれは無駄だと非難し、主イエスが良いことだと賞賛された女の香油注ぎの、もう一つの美しい次元は、彼女がその時、自分のできることを精一杯した美しさの次元です。主イエスは、この女を評価して、「この人はできるかぎりのことをした」と言われました。8節です。女が、イエスの頭に注いだナルドの香油は、インド産のハーブの根から採取された高価な香油でした。別な聖書箇所では、その壺の分量が「香油1リトラ」であったとされているので、重さにすれば、正確にそれが327.5グラムであった、と考えられます。しかもその値打ちは、非難した弟子たちが300デナリと言っていたのですから、それは一年分の収入に相当するものであったことが分かっています。このナルドの香油はその品質上、石膏の壺に保管されることで、時間が経てばたつほど質が高まるものでした。それは、母から娘に代々受け継がれる家宝のようなものでした。家庭の一大事というような時のため、大切に大切に取って置かれたものでした。

 このナルドの香油には、その当時、様々な用途がありましたが、その一つは、人の葬儀に際して、腐敗臭を消すために、死者に塗ることでした。この一人の女性が、どこまで、主イエスを理解していたのかは、定かではありません。しかし、結果的には、この香油の注ぎが、主イエスの埋葬の準備の役割を果たすことになったことが8節で分かります。主はこう語られました。『この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もって私の体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。』 香油が注がれた時、ナルドの香油の香りは、シモンの家全体に一瞬にして広まったことでしょう。その翌日の弟子たちとの最後の晩餐の席上でもその香りは残っていたに違いありません。大祭司の庭での審判でも、ピラトの尋問の際にも、主イエスが十字架を担い歩いた悲しみの道、ドロローサでも、そして、あの十字架上でも、香りは放たれ続けたに違いありません。ナルドの香油はイエスの埋葬の準備となったのです。

 主イエスにとっての美しい行為、それは、それが何であれ、その人自身が、自分でできる限りのことを、精一杯する行為なのです。手加減したり、手を抜いたり、中途半端にするのではなく、それがどんなに些細であっても、できる限り精一杯、愛情を込めて為す行為、それは、主の目には、限りなく美しいのです。

私が直腸癌手術をするというので入院した時のことでした。ある教会から、四つ葉のクローバーの押し花にイザヤ46章4節が、筆書きされた一枚のハガキが送られてきました。そのクローバーを採取した方のお名前が、K姉と小さく記載されていたのですが、私はその方を存じ上げません。しかし、その行為によってどれほど、私が激励されたかしれないのです。私たちも、主の前に、それが何であれ、できる限り精一杯にすることを、生涯のモットーとすることに、しようではありませんか。

.惜しまぬ愛の美

 この一人の女性の行為の美しさをこれまでに、時宜にかなう美、精一杯の美と言いましたが、更に際立った美しさは、その香油の注ぎに現れた惜しまぬ愛の美です。この女性は、「純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、その壺を壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけ」ました。香油の壺は壊され、割られて注ぎ出されたのです。そこには物惜みしない、気前の良い、イエスに対する愛が滲み出ていた、と言えないでしょうか。当時の文化では、食事に招待した来客の頭に、香油を注ぐことが習慣でした。それでも、来客に実際に注がれるのは、極僅かのホンの一滴であり、それで十分でした。私はいつでしたか休暇で神戸市に観光した際に、ハーブ園で三種類の香油を購入したのですが、その一つはフランキンセンス(没薬)でした。私の書斎で時々、無水アルコールに混ぜて噴霧使用するのですが、それは本当に僅か一滴に過ぎません。それでも十分なのです。それによって部屋中が芳しい香りに包まれます。しかしどうでしょう、このベタニヤの一人の女は、壺を割って、375グラムもの香油全部を注ぎだした、というのです。それはこの女のイエスに対する、惜しみない愛そのものです。それを見ていた弟子たちには、全く無駄としか思えませんでした。しかし、この女が何故そうできたのでしょうか、なぜ、敢えてそうしたのでしょうか。どこまでも推測想像ですが、その動機は、主イエスがどういうお方かを、この女が、完全とは言えないまでも、深く良く理解していたからに違いありません。

それとは非常に対照的なのは、同席していた弟子たちが、注目し理解していたのは、もっぱら注ぎだされたナルドの香油の価値とその利用方法でした。経済的に換算すれば300デナリに値するのだ、人一人の一年分の賃金に相当するのだ、それを福祉事業として貧困者に振る舞えば、それで、どれだけ大勢の人が助かるかしれないぞ、そういう理解でした。それは勿論、間違いではありません。正しいことでもあります。しかし、彼らには、その高価な香油が注がれたお方が誰であるかを理解していなかったのです。そればかりか、この方に、これから何が起ころうとしているのかを、皆目理解することもできていなかったのです。

 私はこの度、この箇所を解く鍵の聖句が、ローマ8章32節だと教えられております。「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか。」そこにはそう記されています。「その御子をさえ惜しまず死に渡された方」ここにこそ、神の愛が語られているのではないでしょうか。神は、御子イエスを犠牲にすることにより、人類を罪の奴隷から救おうと、神であられるのに御子イエスを、人の形でこの世に遣わされました。愛は惜しみなく与えるのです。神は最愛の御子を、惜しみなく与えることにより、御子を犠牲にすることにより、私たちに対する惜しみなき愛を示されたのです。

 この匿名の女性は、いつしか主イエスの弟子に加えられていたのでしょう。そしてイエスに従い、イエスの語る言葉に聴き続けるうちに、神の惜しみなく与える愛を、垣間見せられていたのではないでしょうか。主イエスがそれまでに、三度も弟子たちに、ご自分の十字架の受難を予告されていたことが知られています。しかし、彼らにはその受難の意味が、全く理解できていませんでした。

インドの詩人のタゴールの名言の一つに『愛は理解の別名なり』がありますね。相手を心から理解することが愛なのだというのです。理解することによって愛の行為が当然生まれるものだというのです。弟子たちは、それまで付き従ってきた主イエスを理解しなかったために、女の香油の注ぎを無駄だ、と軽率に断じてしまいました。そうではありません。無駄ではないのです。この女は主イエスを理解していたので、愛の行為として、惜しみなく高価な香油を、壺を割って注ぎだしたのです。

英語で理解するとは、understandと綴りますね。つまり「下に立つ」です、それが理解することです。この女性は、主イエスに従い、主イエスの下にへりくだることにより、主イエスの受難を理解し、察知し、その惜しみない神の愛に対して、高価で大切な香油を思う存分に、惜しみなく注ぎ出すことで、神の愛に応えたのです。「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか。」

 神は、あなたを、そして私を愛しておられます。その愛は「御子をさえ惜しまず死に渡」す程の犠牲的な愛です。その惜しみない神の愛が、キリストの十字架の行為によって、完全に表されました。今日、私たちに求められているのは、あのベタニヤの一人の匿名の女性が、神の惜しみない愛に、香油を注ぐことで、自分の惜しみない愛の応答をしたように、神を愛すること、神を礼拝することではないでしょうか。

 この新しい週の歩みにおいて、私たちもまた、自分にできることを精一杯することを心がけることにしましょう。そして、いつでもできることと、この時でなければできないこととを、しっかり見分け、時宜にかなって行動できる者となれるよう祈りましょう。惜しみなく愛してくださる神様の愛に応えて、私たちもまた、惜しみない愛の実践者へと導いてくださるよう祈ることにいたしましょう。愛に富む神は、「御子と一緒にすべてのものを私たちに賜る」方でもあります。あなたの差し迫った今日の必要は何でしょうか。その必要のためにも共に祈ることにいたしましょう。

9月18日礼拝説教(詳細)

「誰に取り入るか」  マルコ12章38〜44節

イエスはその教の中で言われた、

「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くことや、広場であいさつされることや、また会堂の上席、宴会の上座を好んでいる。また、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう」。

イエスは、さいせん箱にむかってすわり、群衆がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持は、たくさんの金を投げ入れていた。ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ二つを入れた。それは一コドラントに当る。そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、

「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。

 ハレルヤ! ただ今、司会者にマルコ12章を朗読して頂いたのですが、この箇所は、二つの記事が並んでおります。一つは律法学者について、一つは貧しい寡婦についてで、寡婦とは、結婚していた夫に死に別れて、一人暮らしする弱い立場にある婦人です。この二つの記事は一見してどう見ても無関係のようです。しかし、実は深い所で繋がっており、私はここから「誰に取り入るか」と題して語るよう、今日は導かれています。「取り入る」とは、自分が有利になるように、誰か力のある人に働きかけることです。時の権力者に取り入るのがうまい」とか「彼は上役に取り入ろうとしている」と言った風に使われる言い方です。

I.      取り入る対象

 さて、今日の聖書箇所の前半は律法学者について、後半は貧しい寡婦のことですが、主イエスは、律法学者については、非常に厳しく非難され、「律法学者に気をつけなさい。」と弟子達に教えられました。当時のユダヤ人達が誰であっても、非常に大切にしていたのは神の戒め、律法です。その律法によく精通し、その律法を民衆に教え、指導することで、多大の尊敬を集めていたのが律法学者でありました。その民衆に尊敬されていた律法学者について、主イエスが敢えて「気をつけなさい」と、教えた理由、それは、彼らが神に仕えているようでいて、実は、もっぱら人に取り入っていたからなのです。ですから、主イエスは、続けて言われたのです。「彼らは、正装して歩くことや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望んでいる。また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。」とキツく手厳しく批判されました。それは、自分が有利になるようにと、しきりに人に取り入ろうとする、律法学者たちの心の奥底に隠された動機を見抜いておられたからなのです。彼らの行動のどれを取っても、その全てが人に見せるための見せびらかしでしかありません。自分が他の人々より優位に立つための手段でしかなかったのです。

 実は、主イエスが「律法学者に気をつけなさい。」と弟子たちに教えられたということは、今ここにいる私たちに対する警告でもあります。いつの間にか、無意識の内に、自分のやる事、成すことが、人に取り入ろうとするためであるとするなら、私たちもまた偽善に陥ってしまうからなのです。主イエスは、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」(マタイ61)と教えられました。偽善とは、原語(ヒュポクリテス)の本来の意味は、俳優、舞台役者のことです。役者や俳優は舞台の上で、自分とは全く違う人物役を、上手に演じるのがその仕事ですから、それはそれでいいのですが、我々普通の人間が、人々の間で、人に見てもらおうと、役者のように演技し、振舞ってはならないのです。日常生活だけではありません。教会に集まるときにも、よくよく注意しなければならないのが、この偽善です。それがはた目に、どんなに良い行いであったとしても、例えそれが無意識であっても、人に見てもらおうと人に取り入ろうとするためであるなら、それは全く意味をなさなしません。

 主イエスは、律法学者について警告されたその後のことでした。神殿の献金箱に、銅貨2枚を捧げようとしていた貧しい寡婦をそこにご覧になると、弟子達を呼び寄せ『よく言っておく』と語り出されました。この『よく言っておく』の原文は「アーメン、レゴー」なのですが、このアーメンは「確かに、まことに、本当に」という意味です。それはこれによって、この寡婦にこそ、人の本当の健全な態度姿勢があると、主イエスが賞賛されたことを意味していたのです。それがどういうことかと言うと、この貧しい寡婦が、人に取り入ろうとするのでは全くなく、どこまでも神に取り入る、つまり、神に喜んでいただきたい一心から、献金を捧げようとしているのを、鋭く見抜かれたからなのです。

II.   取り入る手段

 12章のこの41節によると、主イエスは、この時、神殿の献金箱の向かいに座って、大勢の群衆が献金する様子を見ておられました。その献金箱は、エルサレムの神殿の「女性の庭」と呼ばれる場所に置かれていたものです。その献金箱は、日本の神社の賽銭箱のようではなく、文献を調べてみると、13組のラッパの形をしていたことが分かります。投入する口の部分が細く、下に行くに従いラッパのように広がっているので、「ラッパ」と呼ばれていました。13もの投入口があるということは、神殿の祭壇で犠牲を焼く薪用、香料用、金の器の維持費等々、用途別に献金する仕組みだったようなのです。そして、人が献金すると、意図的に底の方で音がするようになっていました。ですから、当然、献金する量によっては、誰にもよく聞こえる違った大きな響きがしたに違いないのです。

 さて、「献金」と聞けば、聴く人によっては、違ったイメージが湧いてくるはずでしょう。献金は献金でも、この貧しい寡婦の献金は、勿論、戦争中の国防献金、政治家に貢ぐ政治献金とは違いますし、また賄賂、寄付金、募金、義援金、支援金とも全く違います。

賄賂と言えば、近年、莫大な金銭が動いた贈収賄事件が摘発されましたね。七万人の学生を抱えるマンモス大学の日本大学理事長が、背任容疑で逮捕されました。メデタシメデタシで終わったはずの東京オリンピック大会組織委員会の元理事が、受託収賄罪で逮捕され、電通や角川、青木が絡んでいるというので、大変話題になりました。これらについてここで、詳細を語るまでもないことでしょう。賄賂は、それこそ自分達に有利になるようにと、誰か力のある人物に、密かに働きかける金を使った悪どい振る舞いです。

 献金は募金寄付金でもありません。寄付金とは、公共的な慈善目的のために金銭を無償で譲渡することです。献金はまた義援金とも違います。義援金は寄付の一つで、特に災害などの被害にあった人への応援として直接金銭を送ることを指します。献金は支援金とも違いますね。支援金は、自分が応援したい団体や関心がある団体に寄付し、被災地の支援活動に応用される性質のものです。 

では、この貧しい寡婦の献金を、主イエスが賞賛されたのは何故でしょうか。それは寡婦が人に取り入るのではなく、彼女の信頼する神に取り入る手段、つまり、神に喜んでいただこうとする手段であったからです。唯一の真の神は私たちの目に見ることができません。聖書は、神が憐れみと慈愛に富む恵み深いお方であると教えています。この生ける神に至る道として、神の御子イエス・キリストが来てくださいました。そして、主は言われました。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6) イエス・キリストは、私たちを罪の奴隷から解放し、人間を創造された神に立ち返ることのできるように、十字架に罪の赦しを得させるため犠牲となってくださった救い主です。このイエス・キリストを信じる時に、見えない神と交わり、神が分かるようになります。イエス・キリストは、今日も昨日もいつまでも同じです。皆さんも、是非、イエス・キリストを救い主として信じ受け入れ、信じている方は信じ続け、神と交わり、神の恵みに預かるようにしてください。

 そして、この生ける真の神の恵みに預かるには、幾つもの手段があります。その一つが献金なのです。恵みの手段とは、差し出された神の恵みを受け取る手のようなものです。手は、それを差し出すことにより、何かを受け取ることができる手段でしょう。その意味で、教会の集会がそうですね。聖書があります。クリスチャン同士の交わり、聖徒の交わりもそうです。聖餐式、洗礼式も恵みの手段です。そして祈りも素晴らしい恵みの手段であります。その数々の優れた恵みの手段の一つに献金もあるのです。献金は、それによって神の恵みに預かる豊かな優れた手段、手段の一つなのです。

Ⅲ.取り入る姿勢

 主イエスは、献金箱の向かいに座して、人々が献金する様子をじっと、ご覧になられました。そして、この恵みの手段を活用し献金をする、その正しい健全な姿勢を、この貧しい寡婦に認められたのです。主イエスは、貧しい寡婦がやって来て、捧げていたその姿をご覧になると、弟子たちに『私は言う、アーメン!』と語られました。この貧しい寡婦の姿勢こそ、「アーメン!」なのです。本物なのです。神に喜ばれる健全な姿勢なのです。

  献金は量額ではなく質

 第一に献金は、量ではなく質であります。主イエスは大勢の金持ちが、献金箱に沢山の金を捧げる姿を見ておられたのですが、そこに、そのなり振りですぐそれと分かる、ひときわ、貧しい寡婦が来て、僅か銅貨二枚を捧げるのをご覧になられました。そこで、主イエスは『よく言っておく。この貧しいやもめは、献金箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。』と評価されたのです。 「たくさん入れた」とは言葉の上では量を問題視されたと見るべきではありませんか。では、寡婦はどれだけ捧げたというのですか? そうです。レプトン銅貨2枚です。これを現代の価値に換算すると50円銀貨2枚に相当すると考えていいでしょう。合計すれば100円です。100円ショプで商品一個が買える金額です。ですから、主イエスが「誰よりもたくさん入れた」と言われたのは、実質的な献金の量、献金の額のことではなく、問題にされたのは献金の質であったという事ができます。質と言っても、捧げる金が金貨か、銀貨か、銅貨か、アルミかの問題ではありません。献金する人の心の質のことです。金持ちたちは有り余る中から、量的には沢山の献金をしていました。しかし、主イエスが注目されたのは、銅貨2枚により示されていた貧しい寡婦の心でした。私たちの教会の献金の大原則が、ここにあることを、今日、ここで確認することにしましょう。教会には、席上献金、什一献金、感謝献金・イースター献金・クリスマス献金・聖会(特別な集会のための)献金、会堂建設献金など、かなりの種類の献金がありますね。それがどの献金であったとしても、献金する際の大原則は、どこまでも、献金の量、献金額の多少ではなく、捧げる人の心が肝心だということであります。コリント下9章7、8節に、使徒パウロがこう勧告しているのが思い起こされます。「各自、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あらゆる恵みをあなたがたに満ち溢れさせることがおできになります。こうして、あなたがたは常にすべてのことに自足して、あらゆる善い業に満ち溢れる者となるのです。」そうです。教会では、それが、強いられたり、自発的でなく、仕方なしに義務的であったり、いやいや不本意に、もし、私たちが献金をするなら、それは、全く意味をなさないということなのです。

  献金は打算ではなく信頼

 更にここから言えることがもう一つあります。それは、献金は打算や計算ではなく、全く神に対する信頼の業(わざ)であるということです。最初に主イエスが律法学者を非難し「気をつけなさい」と弟子たちに教えたと申しました。この律法学者のことを調べるうちに、この言葉のヘブライ語の語源がサーファルであって、元々「数える、記録する」を意味していたことが分かりました。そして古代社会では、律法を書き記す書記係の務めがあり、その書記がやがていつしか、律法を教え指導する律法学者になったことが分かってきました。この律法学者の語源であるサーファルが、最初に聖書に出てくるのは、創世記15章のアブラハムへの神の語りかけにあります。主はアブラハムを外に連れ出し、こう語られました。「天を見上げて、星を数えることができるなら、数えてみなさい。」そして、更に「あなたの子孫はこのようになる。」とアブラハムに語られました。その時、アブラハムの憂い悩みは、妻のサラが不妊であるため、子供がなく世継ぎのいないことでした。そのアブラハムに対して神が、「あなたの子孫は数え切れない程になる」と約束なされたのです。今現在、世継ぎがいないのに、それなのに、子孫が数え切れない程になる、と神が言われる。それはアブラハムにとって、人間的には全く計算のできないこと、ただただ、神を信じる他にはないことでした。

 「数える」「計算することができる」「キチっと記録し整理ができる」そのこと自体は、良いことです。私たちの生活や仕事では必要、不可欠なことです。しかしながら、「数える」「計算する」、その別の側面には、物事を自分のものとすること、物事を治め支配すること、所有する意味があることも覚えておかなくてはなりません。神殿で沢山の献金をしていた金持ち達、金持ちが何故金持ちなのか、それは一つには、金持ちが、自分の財産を正確に数えることができる、計算することができる、如何に増やし、損失を出さないか管理することができるからだと言えるでしょう。金持ち達の献金は、それ故に、しっかり損得計算され尽くした献金だったに違いないのです。しかも、人々の見ている前で、これ見よがしに捧げる偽善的な献金でしかなかったのです。

 ところが、寡婦は違いました。たった二枚の銅貨です。この二枚の銅貨が寡婦の心を表していました。打算ではなく寡婦の信頼の心です。寡婦は、ここで心の中で明日の生活のことを考え、一枚を手元に残し、残る一枚を献金することもできたでしょう。しかし、寡婦は二枚全部を、しかも、それが持っていた物のすべてを、それを全部捧げてしまったのです。そこには計算、打算の余地がありません。寡婦の献金は、ただただ神を信頼する信仰による献金であったということなのです。  献金は「金を献じる」と書きます。金は人が一番大切にするものでしょう。しかし、主イエスは「誰も、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を疎んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。(マタイ6:24)」と言われました。献金は、金ではなく神に信頼する信仰の告白なのです。アメリカの通貨ドルの1セント硬貨には小さく刻まれた文章がある!「In God We Trust」我々は神に信頼すると!寡婦は二レプタ献金で、神への信頼を表明していたのです。

 ここでまた、主イエスの「思い煩うな」と教えられた山上の垂訓が思い出されます。マタイ6章25〜34節です。人が思い煩うのは、計算の結果です。現状、未来をソロバンで弾いては悩むのです。今日、敬老祝いを致しましたが、聞いたことがありませんか?「安定した老後を生きるためには、少なくとも2千万円が必要ですよ」と。2千万円以上持っている人は、計算して安心して、枕を高くして眠れるかもしれません。しかし、持っていない人は計算して煩うしかないのです。溜息が出るばかりなのです。しかし、主イエスは言われるのです。「空の鳥を見なさい。」更に「野の花がどのように育つのか、よく学びなさい。」と言われるのです。神様が、天の父なる神様が、鳥を養い、花を美しく飾っておられる、だから神様に天の父に信頼しなさい、と言われるのです。銅貨2枚、持ち金100円を捧げた寡婦は、生活自体は貧しかったでしょう。にも関わらず、寡婦には日毎の糧を与え養いたもう父なる神に対する信仰と信頼があったのです。献金には打算ではなく神に対する信頼が求められるのです。

  献金は献金ではなく献身 

 最後に主イエスは、寡婦の献金を賞賛し「この貧しい寡婦は、、、生活費全部を入れたからである」とも言われましたね。献金の本質はこの「生活費全部」に込められています。この貧しい寡婦は、この二レプタ献金により、自分自身の全てを神に捧げる献身の意志を表明していたということなのです。この「生活費」と訳された原語ビオスは、一生、生涯、生活、ライフを意味します。寡婦が、生活費全部を捧げた献金には、自分の一生(命)を捧げます、自分の全存在を捧げます、という神に対する彼女の献身が込められていたのです。

 これが、私たちの教会の献金の大原則であることをも確認しておきましょう。献金は単なる教会員であるための会費でもなく、教会活動を維持するための拠出金でもありません。実際にはそのように使用されるでしょうけれども。私たちが、集会毎に捧げる献金は、勿論、毎回全部ではありません。収入の一部を捧げます。私たちは文化的に、一部で全部を表現することをするものです。献金は、自分の所有する一部を捧げることにより、自分自身の全存在を神に捧げる献身の営みとするのです。即ち、神を信じるとは、自分の命、自分の一生、自分の全ての所有、自分の日毎の生活、それは全て神が与えてくださったものと自覚することなのです。持っているもので与えられていないものは一つもないのです。私たちは裸で母の胎から出てきたのです。全ては与えられたものなのです。献金とは、それによって、自分の持てるものは、全て神から与えられたものであり、神によって生かされていることの信仰表明であり、それ故に、私の全ては神のものですと、我と我が身を献身する行為なのです。

 今日、この礼拝で、この貧しい寡婦の献金の姿勢を通して、自分自身の献金の在り方を洗い直すことに致しましょう。そして、この優れて豊かな恵みの手段である献金により、慈愛に富める父なる神様の恵みと祝福に預からせていただくことにしましょう。あなたが必要としておられるのは何でしょうか。主はこう言われました。「あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存知である。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。」と。

911日礼拝説教(詳細)

神の愛の痛み」  ホセア11章1〜9節

 まだ幼かったイスラエルを私は愛した。

私はエジプトから私の子を呼び出した。

しかし、私が彼らを呼んだのに、彼らは私から去って行き、バアルにいけにえを献げ偶像に香をたいた。

エフライムの腕を支え歩くことを教えたのは私だ。

しかし、私に癒やされたことに、彼らは気付かなかった。

私は人を結ぶ綱、愛の絆で彼らを導き、彼らの顎から軛を外す者のようになり、身をかがめて食べ物を与えた。

彼がエジプトの地に帰ることはなくアッシリアが彼の王となる。

彼らが立ち帰ることを拒んだからだ。

剣は町で荒れ狂い、大言壮語する者を絶ち、彼らのたくらみを挫く。

わが民はかたくなに私に背いている。

彼らがいと高き者に向かって叫んでも決して届かない。

エフライムよ どうしてあなたを引き渡すことができようか。

イスラエルよ どうしてあなたを明け渡すことができようか。

どうしてアドマのようにあなたを引き渡しツェボイムのように扱うことができようか。

私の心は激しく揺さぶられ、憐れみで胸が熱くなる。

私はもはや怒りを燃やさず、再びエフライムを滅ぼすことはない。

私は神であって、人ではない。

あなたのただ中にあって聖なる者。怒りをもって臨むことはない。 

(聖書協会共同訳)

再び皆さんと共に礼拝できる特権に感謝しています。今日の聖書箇所の表題は「神の愛」となっていますね。しかし、私は敢えて「神の愛の痛み」と題して語ろうと思っています。それは、ホセア11章8節に『私の心は激しく揺さぶられ、憐みで胸が熱くなる』と主の語られた言葉が、預言されているからなのです。これと全く同じ趣旨の主の言葉を、預言者エレミヤも、エレミヤ書31章20節で預言しております。『彼のために私のはらわたは悶え、彼を憐まずにはいられない。』しかもこの同じ20節の文語訳を紹介すればこうなのです。『彼を思わざるを得ず、ここをもて我がはらわた彼のために痛む、我必ず彼を憐れむべし』。「私のはらわたは悶え」を文語では「我がはらわた・・・痛む」と訳しているのです。そこで、私はそれ故に、説教題を敢えて「神の愛の痛み」としたわけなのです。

I.      人の痛み

 痛みとは、普通、肉体に痛みや苦しみを感じるさまですよね。私は、最近ご存知のように、直腸癌の手術を受けたのですが、手術自体は麻酔が効いていたため、全く痛くありませんでした。しかし、術後しばらくは、下腹の傷痕がよく痛んだものです。手術は腹腔鏡下式で実行され、以前ならメスで切り開くところ、腹部に四ヶ所小さな穴が開けられ、内視鏡で映像を観察しながら、機械操作で手術が施されました。その傷痕が痛むのですよ。咳やクシャミでも痛むのです。ですから、しばらくは、点滴で痛み止め処置をしてくれましたので助かりました。

 この痛みは、体内に張り巡らされた末梢神経が刺激を感知する、すると電気信号が脊髄を通って脳に伝わり「痛い」と感じる痛みのことです。この他にも、ストレスにより起こる痛みに「心因性疼痛」があり、神経の炎症により起こる痛み「神経障害性疼痛」があることが知られていますね。坐骨神経痛などはその典型と言えるでしょう。

 しかし、痛みは肉体だけではありません、心に苦痛を感じるさま、精神的な辛さでもあります。聖書の箴言18章14節にも言われていわれている通りです。『人の心は病苦をも忍ぶ、しかし心の痛むときは、だれがそれに耐えようか。』これは口語訳ですが、新しいこの聖書訳では『人の霊は大病にも耐えられるが、霊が沈めば誰が支えることができようか』となっています。この心の痛みは、苦痛、苦悶、悩み、思い煩い、逆境、厄介ごととも言い換えることのできる痛みのことです。

 私はこのたびの入院中に、北朝鮮の拉致被害者、横田めぐみさんの母親である早紀江さんの手記「愛は諦めない」を読む機会がありました。それを読み始めて、直ぐに私の心に迫って来たのは母・早紀江さんの痛々しいばかりの心の痛みでした。その冒頭の部分をここで紹介しておきます。

「主人の転勤で新潟に住み始め、1年3ヶ月目の1977年11月15日夕方、下校途中に家のすぐ近くで、娘めぐみは、煙のように消えてしまいました。何が起きているのかわからず、家族は絶望の淵に立たされていました。家族の中心であった、あの元気で明るい女の子が消えてしまった、生きていく気持ちがなくなってしまうほど、悲しく恐ろしい出来事が私たちの家族にのしかかってきました。どこかで絶対に生きていると信じることで希望をつないでいても、黒雲は常に心の内に沸き起こります。泣きわめき、街々をさまよい歩き、どうしてこれから生きてゆくのか、、、と空しい日々が流れます。」と綴られます。

 先に引用した聖句は『人の霊は大病にも耐えられるが、霊が沈めば誰が支えることができようか。』という箴言の一句でした。それは「心が痛めば誰が支えることができるだろうか。」と大変悲観的な問いかけです。しかし、本当に感謝なことに、早紀江さんは、ご自分の沈んだ心を支えてくれる方に、出会うことができたのです。早紀江さんは、続いてこう証しされます。『そんな苦しさの中で、私は聖書に出会わせていただきました。吸い込まれるように一心に読み続け、やっと深呼吸ができたのでした。』 早紀江さんは、主イエス・キリストの招きに預かり、そして、キリストに重荷を下ろし、心の傷を癒していただくことができたのです。主イエス・キリストは、今日も、全ての人に呼びかけ、こう招いておられます。「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11章28節)皆さんの中にも、今日、心が今傷つき、痛んでいる方がおられるでしょうか。それが何であれ、今日、主の招きに応じてみてはいかがでしょうか。主が痛む傷を癒し、休ませてくださるに違いありません。

II.    神の痛み

 しかし、今日の聖書箇所、ホセア11章により、私たちが向かおうとしているのは、人の痛みもさることながら、神の痛みなのです。神の愛の痛みなのです。このホセア書の預言者ホセアは、イスラエルの王ダビデに続いたソロモン王の後、二つの王国に分裂したうちの一つ、北イスラエルに活躍した預言者でした。預言者ホセアの活躍した時、この北イスラエルは経済的繁栄の絶頂に達しており、それと同時に、宗教と道徳の腐敗の絶頂期でもありました。貧富の格差は広がるばかり、人心が非常に乱れきっていたのです。

 実は、この預言者ホセアは、その神の民イスラエルに対する神のメッセージを、彼自身の生活体験に重ね合わせて、語らされたユニークな預言者でした。ホセア1〜3章を見ると、ホセアが、自分の妻との結婚生活に重ね合わせて、神の民に向かって、預言させられていたことが分かってきます。主はホセアに『行って、淫行の女をめとり、淫行の子らを引き取れ』(12)と命じられました。何か信じ難いような命令です。この淫行の女、つまり、ホセアの妻となる女性の名はゴメルでした。恐らく、結婚する前から淫行の悪霊に取り憑かれていて、ホセアと結婚した後、妻ゴメルは夫ホセアを捨てて、他の男に走り、姦淫の罪を犯してしまったのでしょう。

 二人の間には、三人の子供が次々と生まれました。最初に生まれた男の子の名前はイズレエル、次の女の子はロ・ルハマ、次の男児はロ・アンミと命名されます。その長男の名イズレエルは、かつて曰く付きのおぞましい歴史事件が起こった町の地名です。女の子ロ・ルハマは「愛されない」を意味し、次男のロ・アンミは「私の民ではない」を意味するものでした。子供達の名前自体がどう見ても、非常に否定的で、これは、堕落した神の民イスラエルに対する神のメッセージそのものでした。そして、夫ホセアと妻ゴメルの関係が、主なる神とイスラエルの関係を象徴していたのです。ここで、父親ホセアが主なる神を象徴しており、その妻ゴメルが神の民イスラエルを象徴していました。神と民の関係は夫と妻の関係のようだと言われていたのです。

 そのホセアが、それからずーと降って、今日の聖書箇所ホセア11章を預言した際には、ホセアの家庭生活の別のもう一つの側面、すなわちホセアと自分の子供達との親子関係に、重ね合わせて預言させられていることが分かってきます。「まだ幼かったイスラエルを私は愛した」で始まる1〜4節に語られている主の民に対する神の語りかけをご覧ください。ここで、特に強調されている言葉は、8回繰り返されている「私」です。ここで語られた「私」とは、主なる神ご自身のことです。1節「まだ幼かったイスラエルを私は愛した。」「私の子を呼び出した」 2節「私が彼らを呼んだのに、彼らは私から去って行き」3節「歩くことを教えたのは私だ」「私に癒やされたことに」4節「私は人を結ぶ綱、愛の絆で彼らを導き」「食べ物を与えた」 

 ここに見えてくる主なる神の姿、それは、民に対する父親のイメージそのものです。幼い自分の子供を、手塩にかけ、大事に大事に養い育てる親の姿そのものです。ところがどうでしょうか、同時にここに見えて来る神の民イスラエルの姿は、父親の愛の呼びかけに応じようともせず、親の愛の手当に全く無頓着で、好き勝手な振る舞いで堕落する放蕩息子のイメージそのものです。それが、まさしく、当時の堕落しきっていたイスラエルの有様でした。彼らは神ならぬ虚しいバアルの偶像崇拝に走り、国中至る所には、神の忌み嫌われる悪しき行いが、蔓延していたのです。

 続く5〜7節には、その罪の堕落の当然の帰結としての神の裁きが描かれます。ここの「アッシリアが王となる」とは、当時、北方に俄然勢力を増していた、残虐非道な北のアッシリア帝国により、やがてイスラエルが支配され滅ぼされることになる預言です。その預言は、実に、ホセアの生きている間に実現し、紀元前722年に、北王国イスラエルは、歴史的に滅亡してしまいました。

 ところがです、ここで8節をご覧ください。その民の滅亡を宣告された同じ主なる神が、「私の心は激しく揺さぶられ、憐れみで胸が熱くなる。」と語られたのです。そして続く9節を見ると「私はもはや怒りを燃やさず、再びエフライムを滅ぼすことはない。」とも語られたのです。「エフライム」とはイスラエルのことです。冒頭で、エレミヤ31章20節を文語訳で紹介したことを覚えておられるでしょうか。「彼を思わざるを得ず、ここをもて我がはらわた彼のために痛む、我必ず彼を憐れむべし」 言ってみれば、これは主なる神の断腸の思いです。そして、これが神の愛の痛みだと、私は申しました。

 「神の痛み」とはどういうことでしょうか? 人の痛みなら分かります。私たちは自分の痛み、身体の痛み、心の痛みの経験からも分かります。「神の痛み」とは,改めて説明すれば、こう言うことではないでしょうか。

それは、神が自らの愛に反逆する罪人,絶対に滅ぼすべき怒りの対象となった罪人を,神がその怒りを自らが負い、なおかつ愛そうとする神の愛を意味すると言うことなのです。

神の本質的な属性は、神が義であること、私たちは知ってます。その性質が義である、正しいとは、しかも完全に正しいとは、被造物の不義汚れをそのまま放置することができず、それを裁き、それを罰せずには置かない神の清い性質、属性であるということです。と同時に、私たちは知っていますね。すなわち、神の本質的な属性は、神が善であることです。

詩篇145篇8節には、神が善であることが言い換えられてこう表現されています。「主は恵みに満ち、憐れみ深く、怒るに遅く、慈しみに富む方。」 同一の神が、完全に義であり、同時に、完全に愛と憐れみと恵みに満ちた善であられる。それは、一つの人格における対立であり、矛盾ではないですか。そこに、義であり善である神のお心に、生じざるを得ない矛盾と葛藤、それが神の愛の痛みなのです。主なる神は、神の民の反逆と堕落に対して「私の心は激しく揺さぶられ、憐れみで胸が熱くなる。」と語られました。「ここをもて我がはらわた彼のために痛む、我必ず彼を憐れむべし」と言われたのです。そして、イスラエルをその不義故に裁こうと言われた同じ主が、「私はもはや怒りを燃やさず、再びエフライムを滅ぼすことはない。」と語られるのです。それは神の愛の痛みのなせる心の大転換なのです。

 そして、その神の愛の痛みの究極的な人類全体に対する現れを、私たちは実に、キリストの十字架に見たのではないでしょうか。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3章16節)「その独り子をお与えになった」とは、イエス・キリストの十字架のことです。 キリストの十字架は、人類に対する神の義と神の愛の決定的な歴史的な現れです。  人類、すなわち私たちは、一人一人例外なしに、その犯した罪過ちの故に、当然裁かれ、罰せられ、滅ぼされる運命、宿命にありました。人となられたイエス・キリストが、十字架上で無残にも処刑されたのは、私たち不義なる人間に対する、神の完全な義の怒りの現れです。鞭打たれ、五寸釘を両手両足に撃ち抜かれ、炎天下にさらし者となり、神に見捨てられたイエスの苦悶は、本来私たちの受けるべき裁きの苦悶でした。  ところが、神の御子イエス・キリストが、私たちの身代わりの犠牲として処刑された十字架は、神の完全な善の現れ、愛の現れでもあるのです。その身代わりの犠牲の死により、信じる人の罪は赦され、神に立ち返ることができるようにされたのです。十字架は、神の義と善、義と愛とが、同時に満足させられる神の業なのです。神は御子イエスを義の故に罰し、神は愛故に信じる人を赦されるのです。十字架は、神の愛の痛みの現れです。

 私は入院中、聖書日課を読み、そのある日の説明に落語家の林家三平さんの話が出てきたのをきっかけに、関西の落語会の大御所であった露の五郎さんの落語をユーチューブで聞く機会がありました。それはまだ亡くなられる前の2013年の作品で、驚いたことに、そのストーリーは全くキリスト教そのものだったのです。端的にその落語のストーリーを言えばこうでした。

「ある人が誰かに尋ねることから始まります。『あの背の高い建物はなんやね?』『あれはな、教会というもんや。あの高い塔のてっぺんの十字架はな、イエス・キリストさんが犠牲になって死んだ印なんや。』『それはまたなんで死んだのかね』『それはな、贖(あがな)いというてな、人の罪が全く赦されるためなんや。分かりやすく言えばな、どんな借金でもチャラになるようなことなんや。』するとその男が突然言う、『それなら、俺も信じる!俺には多額の借金があるんや。ちょっと行って来る。』そして、彼はその金貸しのところに行って、『おーい!借金がチャラになることになった。』と叫ぶのです。するとその金貸しが、『誰や、そんなことしよるやつは?』 露の五郎さんは、そこで大声で『オー!イエス』と叫んでおしまいとなる」それ最後のオチなんですね、そういう落語でした。

五郎師匠は、人々の前で、堂々と、罪を赦してくださる方はイエス様なのです!と証されていたのです。私たちは、露の五郎さんの双子姉妹の妹娘がクリスチャンになり、やがて献身して伝道者になられたことを知っています。その娘によって五郎さん夫婦も晩年に救われクリスチャンになられました。彼らも十字架の神の愛の痛みに触れ、罪という借金がチャラにされ、罪赦されて救われたのです。

III.痛みへの招き

 そう言うわけですから、イエス・キリストの十字架は、神の救いへの愛の招きです。コリント上1章18節がこう語ります。「十字架の言葉は、滅びゆく者には愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です。」何故神の力であるのか?本来ならば、裁かれ滅ぼされるべき罪人である私たちが、神の愛の痛みの故に、ただキリストを信じるだけで、罪赦され、救われるからです。十字架は、今日もここにおられるすべての方々に、呼びかけられている救いへの愛の招きです。イエス・キリストを信じ受け入れ、その救いの恵みに、是非預かってください。

 イエス・キリストの十字架は、同時に人の生きる最高の道への愛の招きでもあります。私は敢えてそれを「愛の痛みへの招き」と言い表わしお勧めします。新約聖書で愛の章のと知られる、コリント上13章をご存知でしょう。その直前の12章31節の最後はこう結ばれています。『そこで、私は、最も優れた道をあなたがたに示しましょう』 ここで「最も優れた道」とは、それが、13章を指していることは明らかです。その愛の章で愛が解き明かされた4〜7節にはこう書かれていますから読んでみましょう。『愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える。』これが人の通るべき最高の道、愛なのです。そこにあらわされた最高の道、愛とは、言い換えれば、「相手のために痛むこと」だと言えないでしょうか。自分を捨てて相手を生かす生き方、それが愛なのです。

 アルブレヒト・デューラーというドイツの画家の「祈りの手」という作品をご存知でしょう。この絵にまつわるエピソードがあります。「貧しい鍛冶屋の子デューラーと同じように貧しいハンス。二人は画家になりたいという強い望みを持っていました。しかし絵の具を買うお金さえありません。ハンスが提案します。一人ずつ交代で勉強しよう、一人が働いてもう一人を助け、画家として成功したら交代しよう。まず君が先に勉強しなさい。デューラーは感謝して絵の勉強に行きました。ハンスは早朝から深夜まで鉄工所で重いハンマーを振り上げて必死に働きデューラーを支え続けました。やがてデューラーの絵が売れるようになったので、デューラーはハンスと交代するため帰ってきました。しかしハンスの手は長年の重労働で、とても絵筆など持てない程に変形していたのです。それを見てデューラーは自分を責め、苦しみます。ハンスはそんなデューラーが苦しみから解放されるようにと祈るのです。自分のために祈るハンスを見てデューラーは言います。「君の手を描かせてくれ。君のこの手の祈りで僕は生かされているんだ。」こうして名画が生まれたと言われているのです。

 「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」主イエスは愛をそう教えられました。(ヨハネ1513) インドで一生貧民に尽くしたマザー・テレサの小冊子「痛みとなるまで愛すること」の中で、彼女は、こう言います、『愛することとは、いつでも痛みを伴うところまで行くのです』 この愛の章13章の最後は、こう結ばれて終わりますね。『信仰と希望と愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です。』

 この週の初めの朝、私たちは、礼拝を終えるとそれぞれの生活の場に遣わされようとしております。あの同じマザー・テレサ女史がこうも言いました。「愛の反対は憎しみではなく無関心です。」 私たちそれぞれが遣わされていく自分の生活の場で、人に対して、それが誰であれ、無関心な態度ではなく、「痛みを伴うところまで行く」愛に生きるように求められているのです。今一度、神の愛の痛みである十字架を仰ぎ望み、主の御足の後に倣い、愛の痛みに召されていることを覚えて、それぞれの生活の場に遣わされていくことにいたしましょう。

9月4日礼拝説教(詳細)

神の働きの現れ」  ヨハネ9章1〜7節

「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。 弟子たちがイエスに尋ねた。

「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。 わたしは、世にいる間、世の光である。」

こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム『遣わされた者』という意味の池に行って洗いなさい」と言われた。

そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。」  

             ヨハネ9章1〜7節

1.  世の悪の現実

 今日、ヨハネ9章1〜7節を読んでいただいたのは、私が、大腸の精密検査の結果、癌の発症を診断されたその日に、この3節の言葉、「神の業がこの人に現れるためである」を、個人的に主から頂いていたからです。このお言葉は、前後関係からすれば、直接的には、弟子たちの質問に対する主イエスの回答でした。主イエスと弟子たちが、神殿の門を出ようとした時でした、彼らは、そこに生まれつきの盲人が乞食をするのを認めると、『先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。』と、主イエス・キリストに尋ねたのです。この乞食は、盲人は盲人でも生まれつきの盲人、先天性の盲人でした。母の胎から生まれついた時から、彼の目は、全く可哀想なことに見えなかったのです。

この盲人の乞食は、見方によっては、世の中の不幸な人を代表していると言うことができます。そればかりではありません。この盲人の乞食は、世の諸々の悪の現実を指し示しているとも言うことができます。誰も否定できない事実、それは、私たちが生きるこの世には、諸々の悪が、人間を様々な仕方で苦しめているという現実があるということです。人間を苦しめる悪とは、の反対であり、または善の欠如です。害のあるもの、好ましくないもの、劣ったもの、それがなかった方が良かった出来事です。

  自然悪

 人間を苦しめるその悪には、自然悪と呼ばれる自然災害があります。地震、竜巻、台風、津波、ハリケン、(ウイルス感染、癌等)の病気、あらゆる疾病です。2011年3月11日に発生した巨大地震、東日本大震災は震度7で、1万8425名の死者・行方不明者を出しました。私たちの記憶に新しいところです。三年越し今尚、猛威を振るう新型コロナ感染者はどうでしょうか、世界で6億人を超え、死者数は649万人を数えていると言われています。

  道徳悪

 自然悪ばかりか、人間を苦しめる悪には、道徳悪と呼ばれる、人が犯す犯罪による災害が世の中には、溢れています。聖書のローマ1章29節には、その道徳悪が一挙に列挙していますね。『あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。

その最も恐ろしい道徳悪の典型が、広島、長崎の原爆投下であり、アウシュビッツのユダヤ人ホロコストでした。ナチスドイツにより600万人が毒ガス室で殺害されたと言われています。それは悲惨極まりな劣悪な歴史的事件でした。

  霊的悪

 自然悪と道徳悪ばかりか、それに加えて聖書は、霊的悪と呼ばれる悪が、この世にあることをも教えています。 『わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。』(エペソ6章12節)と聖書が教えるものです。それは目に見えない存在即ち、悪魔、サタン、悪霊による様々な悪である、と聖書が明らかにするものです。

 さて、主の弟子たちは、神殿の門の傍らで惨めに乞食をする盲人を認めた時、思わず、彼らの心に疑問が駆け巡りました。それは「この盲人を不幸のどん底に突き落とした原因は一体何だろうか?」という因果応報的な疑問でした。しかし、その疑問よりももっと深刻な最大の懸案事項が、ここにはあるのです。それは『神がいるなら、この世にはなぜ悪があるのか』という疑問です。

あの不幸な生まれながらの盲人の乞食は、皮肉にも、神を礼拝する神殿の門のすぐ近くの傍らにいました。聖書は、神が万物を創造されたと言います。聖書は、創造の神は善なるお方である、良いお方である、神は愛である、しかも全能であると教えます。では、善で全能である神が万物を造られたというのに、この世に何故、悪があり、悪によって人は苦しめられるのでしょうか。矛盾していないでしょうか。ですから、人はそれぞれ各自、自分の苦しみに会うことによって、あるいは許し難い悪徳を目撃すると、人生の分岐点に立たされることになるのです。

何らかの具体的な苦しみに直面することが、信仰を持っている多くの人にとっては、信仰を失うきっかけとなってしまうものでもあります。『今まで、自分は、神は良い方、神は愛であり、神は全能だと信じてきた。けれども、こんなに自分が苦しめられるとすれば、神がいるはずがない。』と信仰を捨てる危険に陥るのです。

Ⅱ.神の業の現れ

 私が泉南の済生会病院で、5月26日に大腸の内視鏡検査結果をはっきり写真で見せられたその時、しかも、それが癌であると診断された時、内心、私には、大きなショックでありました。現代の死亡原因の上位三つは癌、心臓疾患、老衰が占めます。中でも癌は死因の27%を占め、日本人の3、4人に一人が 癌が原因で亡くなっている計算です。私の場合、直腸癌で、その発見が遅れていれば、他臓器に転移し、早い時期に死ぬことになったはずです。幸い、早期発見であったため、癌は手術で除去されこそしましたが、しかし、入院生活は37日と長引き、かなり辛い日々を過ごし、体重は激減し衰弱してしまいました。しかし、それに先立ち、癌が診断告知された、まさにその日のことでした。主からヨハネ9章3節の言葉「神の業がこの人に現れるためである。」を頂いたのです。私はそれから、ずーと毎日、繰り返し、繰り返し、このお言葉を口ずさみ、どういう意味なのかと、考え続けたものです。その一端をここでお分かちするとこうです。

  神は働いておられる

 第一に、「神の業がこの人に現れる」とは、『全能であり善なる神は、間違いなく存在される、しかも、今現に、生きて働いておられる』ということでしょう。このお言葉から、あのヨハネ5章のベテスダの池の辺りで、38年間病気だった男を癒された際に、主が語られた言葉が思い起こされます。主はこう語られたのです。『私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。』(5章17節)今日交読した詩篇121篇、都登りの歌では、古(いにしえ)の詩人が自問自答していますね。『私は山々に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。私の助けは主の元から、天と地を造られた方のもとから。』と、詩人は歌うことができました。そして、続く4節では、「イスラエルを守る方は、まどろみもせず、眠ることもない」とはっきり告白しているのです。

善にして全能の愛なる神は、ただ何もせずに天上から傍観している神ではありません。生きて、現に働いておられる神なのです。

  神は人となり働かれる

 第二に、「神の業がこの人に現れる」とは、この場のキリストの行為によって、『神は人となり働かれる』ということを意味しているでしょう。キリストが、ここで神殿の門の盲人の側を通りすがり、盲人の目に泥を塗り、盲人を癒されておられるからです。ここで神の業とは、盲人の目を開く働きでした。それは人間の形をとってこの世に来られた神であるキリストによって為されたのです。イエス・キリストは、人間となられた神です。聖書のピリピ2章6節にこう書いてあります。『キリストは神の形でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の形をとり人間と同じ者になられました。』この「人間と同じ者になられた」とは、キリストが人間として乙女マリアから生まれたことです。人間としての発達の段階をたどられたことです。キリストは人間の身体を持ち、知性と感情を持っておられました。そればかりか、キリストは人間としての弱さを持っておられ、疲れを覚え、空腹を感じ、喉の渇きを覚えられもしました。イエス・キリストが、神殿の門の盲人の側を通り過ぎようとされたことは、全能で善なる神が、諸々の悪によって苦しむ私たち人間に、同じ人間となって、限りなく、近くに来てくださったことを指し示しているのです。

  神は人間と共に働かれる

 そればかりではありません。続く4節の言葉によれば、『神はその働き、業を人間と共に成される』と言う事を意味しているのであります。4節を読むことにしましょう。『私たちは、私をお遣わしになった方の業を、昼の間に行なわねばならない。誰も働くことのできない夜が来る。』このお言葉で驚くべきは、「私たちは、業を、行わなければならない」と主が語られておられたことです。主は「私は」と言わず『私たちは』と言われたのです。『私たちは』とは、誰のことですか。主と弟子達です。広い意味で言い換えれば、『私たちは』とは、神と人間です。神が私たち人間を創造された。何故でしょうか。6日目に創造された神は祝福して、人間に使命を与えて、こう言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ。』(1:28)あの詩篇8篇が同時に、想起されますね。5、7節『人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは。人の子とは何者なのか、あなたが顧みるとは。御手の業を治めさせ、あらゆるものをその足元に置かれた。』

そこでこう言うことができるでしょう。人間とは、神から被造物の管理を委託された管理者なのだ、と言うことです。神は、創造された宇宙自然界に法則を定め、その法則をわきまえて人間が、自然を管理することを委任なされたのです。神は、人間に自由意志を与え、自分で判断し、自分で決断し、律法に準じて道徳的に、社会生活を管理することを委任されたのです。そうすることによって、神は世界を人間と共に保持し、維持し、発展させようとされておられるのです。その結果が、今現在に至るまで、どうであるか、それは、言わずと知れたことです。人間は神の信頼を裏切り、世界は悪の巣窟となってしまいました。それでも、神の働きの原則は変わりません。神は人間と共に働かれ、働こうと成され、働いておられるのです。

 私は直腸癌が発症して以来、この主の言葉と共に歩み、主が癒してくださることを確信することができました。そして、今回、神の癒しの働きは、外科医師と看護士達が協力することによって、具体的に、成し遂げられたと理解させられています。37日間、りんくう総合診療センターに入院することで、つぶさにスタッフの医療活動を見せられ、その献身的な姿勢に、正直、心を打たれたものです。中でも手術で執刀された担当外科医は、二日間だけ、私の病室に顔を見せないだけで、実に毎日、回診なされ、私が思わず「先生は休みを取られないのですか?」と問うと『患者さんがおられる限りは、、、』と医者は、笑顔で部屋を出て行かれたのです。

Ⅲ.受けて立つ信仰

 神の働きを、今日、共にしているのは、この外科医や、多くの看護士だけではありません。全ての人々が、神を信じても信じていなくても、人間として、神の被造物の管理者として、様々な分野で働いていることに変わりありません。しかし、今日、この聖書箇所には、私たちに対する特別な招きがあるのです。イエス・キリストが、「私たちは、私をお遣わしになった方の業を、昼の間に行わねばならない。誰も働くことのできない夜が来る。」と語られた時、その「私たち」とは、主ご自身とその弟子たちを意味しておられました。その弟子たちとは、イエスを信じて従った者たち、即ち、私たちを含めたキリスト者のことです。

イエス・キリストを信じて従うとは、本来の人間のあるべき姿に変えられるということです。罪によって堕落し、神の管理者としての責任が問われる人類の中から、敢えて選ばれたキリスト者には、神の被造物の管理者としての新しい責任自覚が求められているのです。生まれながらの盲人の乞食は、シロアムの池に行って目を洗い目が開かれました。シロアムとは「遣わされた者」の意味です。ヨハネが敢えて原語の意味を書き添えたのは、シロアムが、神から遣わされたメシア、イエス・キリストを指し示していると理解していたからに違いありません。

私たちは、今日、これから主の聖定された、十字架を指し示す、聖餐式に預かろうとしています。イエス・キリストが、十字架の受難を耐えられ、ご自分を犠牲にされたのは、信じる者の罪が赦され、神に立ち返った一人一人が、本来の神の期待された信頼される管理者に、造り替えられるためです。生まれながらの盲人は、イエス・キリストに再会し、「あなたは人の子を信じるか」と問われると『主よ、信じます。』とひれ伏し礼拝し、心の目も開かれました。9章35〜39節 今日、この聖餐式に預かることで、私たちもまた、「主よ、信じます。」と告白し、自分が神に委任された管理者であるとの自覚を、新しくさせていただくことにしましょう。

 私個人のことですが、この度の直腸癌の発症で、ヨハネ9章のお言葉と合わせ、ピリピ1章21、22節もいただいておりました。「私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益なのです。けれども、肉において生き続けることで、実りある働きができるのなら、どちらを選んだら良いか、私には分かりません。」死ぬことが益なのは、肉体を離れて、愛する主イエスのみそば近くに行くことができるからです。ですから、パウロは言います、『私の切なる願いは、世を去って、キリストと共にいることであり、実は、このほうがはるかに望ましい。』 私自身も、この度、生と死の狭間に立たされたのですが、こうして、癌が癒され、回復されつつある今、私は、尚許される限り「肉において生き続け」、必要とされる方々のために、お役に立てれば幸いだと、今、ここに立たされております。