1226日礼拝説教

「新しい天地の都」  黙示録21章22〜27節

わたしは、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。

諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの光栄をそこに携えて来る。都の門は、終日、閉ざされることはない。そこには夜がないからである。人々は、諸国民の光栄とほまれとをそこに携えて来る。

しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。

 人は生まれついた瞬間、広大無辺の宇宙に浮かぶ宇宙船地球号に乗り込むのだが、果たして何処に向かおうとするのだろうか。

イザヤは見よ、私は新しい天と新しい地を創造する。』と主の言葉を預言した。

使徒ペテロは『私たちは、新しい天と新しい地とを待ち望んでいます。』と希望を表白した。

ヨハネは幻に『私は、新しい天と新しい地を見た。』と証言する。

聖書は究極の行く先を新天地の都であると私たちに指し示している。

この世は終わり、来るべき世が到来させられる。やがて7年の大艱難が到来し、キリストが地上に再臨され、千年王国が実現、最後の審判で万人の運命が決着するや、天から新しい天と新しい地が降りて来る。壮大な歴史ドラマが展開しようとしている。「ヤコブの苦難の時」と呼ばれる7年間に及ぶ艱難の前に、すでに世界を巻き込む二度の大戦を人類は経験した。

エゼキエルの預言通りに1948年に不死鳥のようにパレスチナにイスラエルが再建された。やがてイスラエルはエルサレム旧市街をも獲得し、第三神殿を再建することになり、更に反ユダヤ主義のロシアを中心とする北連合国が略奪目的でエルサレムを攻撃するが失敗に終わるだろう。

古代ローマ帝国が現代に復興するやグローバル化した世界に統一政府を樹立するが、10の王国に分立した後に諸国を支配下に統合する反キリストが出現し、イスラエルは彼を約束されたメシアと見誤って契約を締結することで、裏切られ、恐るべき艱難の坩堝に投げ込まれることになると聖書は確言する。

 

しかし、感謝しよう。世界に臨む艱難時代に先駆けて主は空中に来臨され、花嫁なる教会は花婿なるキリストとの婚礼に備え、携挙されることが分かっている。ヨハネは新天地の都に、神が臨在され、主イエスが照らされるので、神殿も太陽も月も夜も無いことに気づいた。「神自ら人と共にいて、その神となり、目から涙をことごとく拭い去ってくださる。」私たちの国籍は天にある。小羊の命の書にその名を登録された信じる私たちが、その輝く都に入ることができるとは何たる恵みか。

1219日礼拝説教

「歴史が動く瞬間」  サムエル上2章1〜10節

ハンナは祈って言った、

「わたしの心は主によって喜び、

わたしの力は主によって強められた、

わたしの口は敵をあざ笑う、

あなたの救によってわたしは楽しむからである。

主のように聖なるものはない、

あなたのほかには、だれもない、

われわれの神のような岩はない。

あなたがたは重ねて高慢に語ってはならない、

たかぶりの言葉を口にすることをやめよ。

主はすべてを知る神であって、

もろもろのおこないは主によって量られる。

勇士の弓は折れ、

弱き者は力を帯びる。

飽き足りた者は食のために雇われ、

飢えたものは、もはや飢えることがない。

うまずめは七人の子を産み、

多くの子をもつ女は孤独となる。

主は殺し、また生かし、

陰府にくだし、また上げられる。

主は貧しくし、また富ませ、

低くし、また高くされる。

貧しい者を、ちりのなかから立ちあがらせ、

乏しい者を、あくたのなかから引き上げて、

王侯と共にすわらせ、

栄誉の位を継がせられる。

地の柱は主のものであって、

その柱の上に、世界をすえられたからである。

主はその聖徒たちの足を守られる、

しかし悪いものどもは暗黒のうちに滅びる。

人は力をもって勝つことができないからである。

主と争うものは粉々に砕かれるであろう、

主は彼らにむかって天から雷をとどろかし、

地のはてまでもさばき、王に力を与え、

油そそがれた者の力を強くされるであろう」。

 ハンナの祈りは、前後関係からして不妊であったのに奇跡的に男子を授かったことへの感謝と賛美であった。だが、歴史的観点からすれば、サムエルの誕生は、イスラエルの歴史が特別に動いた瞬間だった。

無政府状態が300年も続いたイスラエルにサムエル出来(しゅつらい)で王制が敷かれ、ダビデ王出現で国家の基礎が確立された。いずれの国でも特別に歴史が動く瞬間がある。だが、人類世界の歴史が決定的に動いた瞬間があった。それが処女マリアに神の子イエスが救い主として誕生した時である。

公生涯の最初、主イエスは「時は満ちた」と明言された。罪により堕落した人類救済の神の計画が成就する時が満ちたのだ。罪なき御子イエスが十字架に赦しを得させる身代わりの贖罪(しょくざい)の業(わざ)を成し遂げられたため、今や信じる者は誰でも罪赦され、神の愛の支配の下に入れられる。義と平和と喜びの現実を享受できることになった。私たちがクリスマスを喜び祝う理由がここにある。

神の国の完成は主イエスの再臨に待たねばならないが、状況がどうあれ信仰者は神の国を見せられ、神の国の現実を日々に体験させられている。

ハンナは自分に対し、祖国に対し恵み深く動いてくださった神を讃え、主は聖、全知、無比、戦争も経済も生死さえも支配する神、義の審判者、創造者であられると声高らかに歌ってやまない。「地の諸々の柱は主のもの。主はそれらの上に世界を据えられました。」どれだけ世界が混沌としても、主なる神が支えておられるのだ。

新型コロナウイルス感染の脅威に全世界が翻弄されているが、それにもかかわらずウイルスさえも創造された神が最善の方向へと動いておられる。しかも神がイスラエルの歴史に介入するに際しハンナを用い、世界の歴史に介入するに際しマリアを用いられたように人を必要とされる。ハンナとマリアに共通する特質は、謙遜であると共に神に全幅の信頼を寄せる貧しい心にあった。

ハンセン氏病患者に尽力した医師神谷恵美子の自覚は「私はただのうつわ。いつもうけるだけ。」の器意識だった。置かれた場で上に開かれた器でありたい。 

1212日礼拝説教

「先駆者の叫ぶ声」  イザヤ40911

よきおとずれをシオンに伝える者よ、

高い山にのぼれ。

よきおとずれをエルサレムに伝える者よ、

強く声をあげよ、

声をあげて恐れるな。

ユダのもろもろの町に言え、

「あなたがたの神を見よ」と。

見よ、主なる神は大能をもってこられ、

その腕は世を治める。

見よ、その報いは主と共にあり、

そのはたらきの報いは、そのみ前にある。

主は牧者のようにその群れを養い、

そのかいなに小羊をいだき、

そのふところに入れて携えゆき、

乳を飲ませているものをやさしく導かれる。

 聖書の預言は、目前の近未来を予見し、遥か遠い先の出来事をも指し示している。イザヤ40章は、イザヤより100年後のバビロン捕囚の民への慰めのメッセージとして語られたが、同時に、700年後のキリストの先駆者ヨハネの出現をも予表していた。

バプテスマのヨハネが「あなたはどなたですか」と問われると、「私は、預言者イザヤが言ったように、荒れ野で叫ぶ者の声である」と答えて憚らない。これにより、ヨハネの役割が、救い主イエスの到来が神の遠大な計画の成就であることを、その先駆けとなることで確証することであったと分かる。

イザヤ書40章には、ヨハネの直ぐ後に到来されるキリストが誰であるかを私たちは見る。「見よ、あなたがたの神を」との呼びかけは、聴き手を1226節の預言に傾聴するよう聴き手を喚起し、神が、全知、全能、無比、無窮、無限、歴史支配者、万物の創造者であると確信させる。

あの洗礼者ヨハネがヨルダンの岸辺に現れたイエスを「見よ。世の罪を取り除く神の子羊だ。」と指摘したが、この偉大な神が、実に人間と成られたことを意味し、そればかりか、人間を罪の奴隷から解放する救い主として到来されたことを証言している。「見よ、主なる神は力を帯びて来られ、御腕によって統治される。」

クリスマスに私たちが祝う御子イエスは王として生まれ、しかも、平和の王としてロバにまたがりエルサレムに入城された。「主は羊飼いのようにその群れを飼い、その腕に子羊を集めて、懐に抱き、乳を飲ませる羊を導く。」イエスは「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と語られ、十字架に罪の赦しを得させるため命を捨て、罪なきお方が犠牲となられた。そして三日目に復活されたイエスは生きておられ、信じる私を牧場の羊として養っておられる。それ故、慰めの必要なあなたを主は慰められる。

悔い改めて主に立ち返ろう。

草花のように心が萎んでいるなら神の言葉に立とう。

弱り疲れ果てているなら祈り主を待望しよう。

 

このクリスマスに、福音を伝え知らせようではないか。

125日礼拝説教

「聖言は繋がれず」  エレミヤ36章1〜8節

ユダの王ヨシヤの子エホヤキムの四年に主からこの言葉がエレミヤに臨んだ、

「あなたは巻物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの日から今日に至るまで、イスラエルとユダと万国とに関してあなたに語ったすべての言葉を、それにしるしなさい。ユダの家がわたしの下そうとしているすべての災を聞いて、おのおのその悪い道を離れて帰ることもあろう。そうすれば、わたしはそのとがとその罪をゆるすかも知れない」。

そこでエレミヤはネリヤの子バルクを呼んだ。バルクはエレミヤの口述にしたがって、主が彼にお告げになった言葉をことごとく巻物に書きしるした。そしてエレミヤはバルクに命じて言った、

「わたしは主の宮に行くことを妨げられている。それで、あなたが行って、断食の日に主の宮で、すべての民が聞いているところで、あなたがわたしの口述にしたがって、巻物に筆記した主の言葉を読みなさい。またユダの人々がその町々から来て聞いているところで、それを読みなさい。彼らは主の前に祈願をささげ、おのおのその悪い道を離れて帰ることもあろう。主がこの民に対して宣告された怒りと憤りは大きいからである」。

 こうしてネリヤの子バルクはすべて預言者エレミヤが自分に命じたように、主の宮で、その巻物に書かれた主の言葉を読んだ。

 その降誕を祝おうとするイエスは「神の言葉」と呼ばれる。世の終わりに、神が御子によって私たちに語られたからだとヘブル書1章1節は証言する。エレミヤ36章は、この神の言葉が記述され聖書となる秘密を私たちに垣間見せる。

預言者エレミヤは、18代目ユダ王のヨヤキムの治世4年目に、巻物を取り寄せバルクに、それまで語った全ての預言を口述筆記させた。それは幅広く民に読み聞かせるためで、バルクが神殿に集まる民衆に巻物から読み聞かせると、それは王宮の高官にも知れるところとなり、結果的には王宮のヨヤキム王も聞くことに発展した。残念ながら王は巻物を切り裂き暖炉の火で焼却したが、エレミヤは神に促され、全く同じ預言を再びバルクに口述筆記させたことが知られている。

聖書は、神が語られ、人が書き留め、写しうつされ、印刷技術の進歩した今日では、何億冊もが流布し、あらゆる言語に翻訳、無数の人々に読み聞かされている。

「聖書は全て神の霊感を受けて書かれたものである。」神の言葉が誤りなく記述されるよう聖霊が特別に作用されたので、聖書は全面的に信頼に値する。「神の言葉は生きていて、力があり、いかなる両刃の剣より鋭く、魂と霊、関節と骨髄とを切り離すまでに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができます。

「主は言葉を送って人々を癒し、破滅から解き放ってくださった。」

「あなたの言葉は私の足の灯。私の道の光。」

神の言葉には、隠れた人のすべてをあらわにし、人の心身を癒すばかりか、人生の暗い道程をも優しく照らす作用が秘められている。主は、種蒔きの喩えに続き、「聞く耳のある者は聞くがよい。」と仰せられた。

ある人は聖書に無関心であり、聞いて拒絶する人もある。ユダ王ヨヤキムが巻物を暖炉で焼却処分したのは、彼の政策が預言と真っ向から対立したためであった。拒絶した結果、「ヨヤキムの死体は投げ捨てられ、昼は日の熱に、夜は霜にさらされる」悲惨な末路を辿る。

 

十字架を仰ぎ、不従順の罪の赦しを得、「しもべ聴きます。お語りください」と祈ろう。