5月28日礼拝説教

「統合拡散の妙理」  創世記11章1~9節

全地は、一つの言語、同じ言葉であった。人々は東の方から移って来て、シンアルの地に平地を見つけ、そこに住んだ。彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作り、よく焼こう。」こうして彼らにとって、れんがが石の代わりとなり、アスファルトが漆喰の代わりとなった。

彼らはさらに言った。「さあ、我々は町と塔を築こう。塔の頂は天に届くようにして、名を上げよう。そして全地の面に散らされることのないようにしよう。」

主は、人の子らが築いた町と塔を見ようと降って来て、言われた。「彼らは皆、一つの民、一つの言語で、こうしたことをし始めた。今や、彼らがしようとしていることは何であれ、誰も止められはしない。さあ、私たちは降って行って、そこで彼らの言語を混乱させ、互いの言語が理解できないようにしよう。」

こうして主は、人々をそこから全地の面に散らされた。そこで彼らは、その町を築くのをやめた。それゆえ、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言語を混乱させたからである。主はそこから彼らを全地の面に散らされた。

 ペンテコステ礼拝は、五旬節の日に、主の約束された聖霊が、弟子たちに降臨された歴史的出来事を記念する行事です。その顕著な現象は、聖霊に満たされた120名の弟子たちが、習ったことのない他国の言葉で話し出したことです。今現在、7,139種類の言語があります。言語の起源もそれを話す人間の起源も謎です。真理の苗床と言われる創世記によれば、人間は神により神に似せて男と女に造られ、最初は単一の民族で、単一の言葉を話していました。ところが創世記11章のバベルの塔の記述によれば、人間の語る言語が複数に分かれ、世界中に拡散して住むようになったのは、神に対する人間の叛逆の罪に対する裁きであったとわかります。アダムとエバがエデンの園で禁断の木の実を食べ、神に逆らい神のようになろうとした原罪が、バベルの塔と町の建設にも反映されています。神はその裁きとして言語を混乱させ、お互いの意志疎通ができないように、また世界中に散らされました。創世記1章によれば、人間は複数で統合された共同体を構成し、更に、産み増えて全地に拡散して満たすよう祝福されていました。その祝福された統合と拡散が、混乱と対立に罪によって変質してしまったのです。歴史上に繰り返されてきた悲惨な流血戦争の経験から、私たちはより優れた技術革命と話し合いによって一つに統合されたいと努力するのですが、むしろ世界各国の対決の溝は深まるばかりで、人類絶滅を意味する原子爆弾を威嚇のためチラつかせる国があるほどです。バベルの塔に際して、裁きのため地に降られた同じ主は、正しい義なる神であると同時に愛なる良いお方です。罪による混乱から救うためイエス様が人となって来られ、十字架の犠牲による救いの道が開かれたばかりか、聖霊が降臨されることによって、本来の統合され、拡散される新しい共同体が誕生させられました。それが私たちの教会です。聖霊により語られる新しい言葉によりイエス様を信じたクリスチャンたちは、心から愛による一致を保つ共同体になるのです。これこそ統合拡散の妙理です。

5月21日礼拝説教

「昇天高挙と共働」  マルコ16章19、20節

主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右に座られた。弟子たちは出て行って、至るところで福音を宣べ伝えた。主も弟子たちと共に働き、彼らの語る言葉にしるしを伴わせることによって、その言葉を確かなものとされた。』

「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右に座られた。」復活されたキリストは、40日間、弟子たちに現れ、神の国のことを話し、オリブ山頂から雲に包まれ昇天されました。

復活の主に再会した弟子たちは、彼らの視界から消えて昇天されたイエス様を大変喜びました。それは、時間と空間を超越した天の領域へ入られた結果、主がいつでもどこでも誰にでも共に居てくださることになったためです。主が約束された「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」とのお言葉は現実となったのです。その意味で、私たちは文字通りに恵みの時代に生かされています。

主は、昇天され、父なる神の右に着座され、神の御子の輝かしい栄光をお受けになられ、大祭司として私たちのために執りなし祈っておられます。教会をその地上の身体とされ、主は教会の頭として、教会を統括されます。右は力を象徴し、神の右に着座されたイエス様は天地一切の権能を授けられ、永遠の主権者として治めておられます。その支配の及びゆかぬ領域はありません。

エデンの園で、人類の始祖アダムとエバをそそのかし、罪によって堕落させた悪魔が、それ以来、人類を牛耳るこの世の君でした。しかし、神の御子イエス様が十字架に罪の赦しを得させる身代わりとして犠牲になられた結果、悪魔は人類を支配する根拠を失ったのです。悪魔は十字架により決定的に敗退し、イエス様が再臨される時には、完全に追放され永遠に滅ぼされる運命にあります。

この世にあるすべての政治的権威は弱さと限界がありますが、最低の秩序が保たれるため神によって立てられた必要不可欠な制度です。上に立てられた権威のために覚えて祈りましょう。

「主も弟子たちと共に働き、しるしを伴わせることによって、その言葉を確かなものにされた。」昇天された主は聖霊において私たちと共に働かれます。主は私たちに福音を宣教する使命を与えられ、福音を語るときに不思議な奇跡が伴うのです。それにより主が生きて働いておられることが分かり、神の御言葉を聴く人々は救われるのです。

5月14日礼拝説教

「母の愛に優る愛」  詩編139編13〜18節

まことにあなたは私のはらわたを造り母の胎内で私を編み上げた。あなたに感謝します。私は畏れ多いほどに、驚くべきものに造り上げられた。あなたの業は不思議。私の魂はそれをよく知っている。

私が秘められた所で造られ、地の底で織りなされたときあなたには私の骨も隠されてはいなかった。胎児の私をあなたの目は見ていた。すべてはあなたの書に記されている、形づくられた日々のまだその一日も始まらないうちから。

神よ、あなたの計らいは、私にはいかに貴いことか。その数のいかに多いことか。数えようとしても、砂粒よりも多い。果てに至っても、私はなおあなたと共にいる。

人生は、目を開いて母の顔を愛するところから始まった。」とは名言です。自分の母は誰にとっても格別な存在です。胎に宿し、産み育て、共に語り、共に歩く母の愛は子の人格形成に大きな役割を果たします。その愛を受けた子に対して十戒は、「あなたの父と母を敬いなさい。」と命じ、箴言は、「あなたを産んだ母を喜ばせよ。」と勧めます。「母の日」である5月14日に、なお生きている母には敬意を表し、今は亡き母のことでは神に感謝を捧げよう。

子供を育てる父や母の本来の役割は、子供に対する神の代理役です。永遠の父である神の愛と義が両親に投影されており、親はその生き方を通して神を表し、子供がやがて永遠の父に信頼しつつ生きていくことが理想なのです。

父や母もやがて去り行き、その愛には限界があるのです。「まことにあなたは私のはらわたを造り母の胎内で私を編み上げた。」母の胎内に子を宿す仕組みを造られたのは偉大な創造者なる神です。その全能の愛の御手により人間は、その細部に至るまで精巧緻密に創造されています。

「母の胎内で私を編みあげた。」とか「地の底で織りなされた」との詩人の表現は、最新の遺伝子研究成果に通じるものがあります。遺伝情報に基づいて胎内で受精卵が細胞分裂し、胎児の各器官に分化し、遂には人体が完成していく過程を、「あなたの業は不思議」と神を賛美しないわけにはいきません。神はその創造の愛による作品である人間一人一人の何もかもご存じであることを「主よ、あなたは何もかも知っておられる。」と詩人は告白します。

知っているとは理解することであり、理解することは愛することです。産み育てる母は誰よりも自分の子を知るものですが、複雑に心身成長する子にはついていくことができません。しかし、神様はいつでも何処でも私たちと共におられ、しかも個々人のために計画を有し、準備してくださる素晴らしい愛のお方なのです。「神よ、あなたの計らいは、私にはいかに貴いことか。その数はいかに多いことか。」母の愛に優る愛なる神に信頼し祈りましょう。

5月7日礼拝説教

「豊かに残る結実」  ヨハネ15章12〜17節

私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。私はもはや、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。私はあなたがたを友と呼んだ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。

あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって願うなら、父が何でも与えてくださるようにと、私があなたがたを任命したのである。

互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。

「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。」と語られる主は、「互いに愛し合いなさい。」と、たたみ掛けるように二度も命じ戒めることで、私たちに期待する実が愛であることを明らかにされました。それは人が神の言葉により造られ、神に戒められる生き物だからです。人間以外の動物は本能により生き、人間のみが戒めにより神を愛し隣人を愛し生きるのです。

愛するとは人格的に交わること、自分を相手に明け渡す行為です。自分を閉ざし交わらない人は殺し、盗み、偽り、貪り、両親を敬わず、偶像を拝み、安息日を守らず働き続け堕落します。罪は愛の欠如そのものです。愛を演技しても神の目に隠すことはできません。愛が冷えて行くこの世に新しい愛の世界を作るため遣わされる弟子が互いに妬み、争い、憎むなら、どうしてその使命を果たせるでしょうか。

「互いに愛し合いなさい。」と戒めるだけではなく、主は弟子達にその愛の犠牲、愛の親密、先行する愛を実行されます。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」それは目前に控えた十字架でした。愛は犠牲です。主が弟子たちに真理を語り明かされたのは、彼らと同じ平面に立ち親密な友とされたからです。私たちの友となるため、主は100%神である方が100%人となられました。

主は先行して私たちを選ばれたことを「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。」と言われます。愛は待っていません。愛は先行するのです。私たちが今あるすべてに先んじて神の選びがあるのです。

「私を離れては、あなたがたは何もできないからである。」愛の戒めは、葡萄の木であるイエス様にみ言葉と祈りでしっかりつながることで、はじめて可能になります。つながっていても罪があれば告白して捨てること、さらに豊かに愛の実を結ぶためには、つながっていても無駄な生活の要素を放棄することが必要となります。「私の父は農夫である。」父なる神は枝の手入れをする農夫です。父なる神の愛ゆえの懲らしめと手入れを素直に受けたいものです。