1231日礼拝説教(詳細)

「感謝の花束贈呈」  ルカ17章11〜19節

イエスは、エルサレムに進んで行く途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。

ある村に入られると、規定の病を患っている十人の人が出迎え、遠くに立ったまま、声を張り上げて、「イエス様、先生、私たちを憐れんでください」と言った。

イエスは彼らを見て言われた。「行って、祭司たちに体を見せなさい。」彼らは、そこへ行く途中で清くされた。

その中の一人は、自分が癒やされたのを知って、大声で神を崇めながら戻って来た。そして、イエスの足元にひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。

そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を崇めるために戻って来た者はいないのか。」

それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

今日は、2023 年の最後の日、その最後の日を私たちは、こうして礼拝をもって閉じようとしております。この12月は師走と私たちは呼ぶのですが、その語源はお寺のお坊さんがお経をあげるために東西を走り回るところからだそうですよね。この師走に走り回るのは坊さんだけではありません。教会の牧師も説教するため走り回るのです。今日の説教奉仕が終わった翌日の元旦礼拝でも説教しなければなりません。感謝なことですが、身体がついていけるよう、どうぞ皆様もお祈りください。

今年最後の聖書箇所として、今日はルカ17章から読みます。この聖書箇所で、私が最も注目しているのは、16節のお言葉であり、それは、一人の癩病に冒されたサマリア人が、イエス様の足元にひれ伏して感謝を捧げたことです。

.感謝憎悪の狭間

イエス様はエルサレムへの旅の途上にありました。そしてサマリアとガリラヤの間を通過しようとされました。サマリアに住むサマリア人とは、紀元前8世紀ごろに、アッシリア帝国に滅ぼされた北イスラエルの末裔のことです。アッシリアは、占領地に対しては沢山の他の民族を導入して雑婚させ、民族同化を図ることを常としていました。そのため、ユダヤ人は他民族と雑婚させられたため、純粋なユダヤ人からは、汚れた異邦人扱いをされ、軽蔑の対象となっており、彼らをサマリア人と呼び、交際などは一切していなかったのです。

一方、ガリラヤとはガリラヤ湖を中心としたサマリアの北側の地域で、そこに住む住民は純粋なユダヤ人がほとんどでした。

イエス様がそのサマリアとガリラヤの狭間にある村に入られると、10人の癩病人が出迎えたというのです。ここで「規定の病」と訳されたレプロスは、以前の訳によれば癩病人のことです。一種の皮膚病のことですが、当時は治療法も無く、感染を非常に恐れられていた病でした。イエス様を出迎えた彼らが「遠くに立ったまま」というのは、癩病患者たちは、健常者から必ず距離を置くことが定められていたからで、風が彼らの方から健常者に吹いているなら、50メートルは離れねばならなかったのです。そればかりか、癩病人たちは、健常者たちと同じ街に一緒に住むことは絶対に許されず、街の外に住まざるを得ませんでした。ということは、この癩病人たちの10人が集団で、この村に入られたイエス様を出迎えたということは、この村が、癩病人たちだけのコロニーであったと思われるのです。

彼らは、サマリア人たちから阻害され、ユダヤ人からも阻害され、平生は人種的に半目し交際することもなかったはずなのに、同じ癩病に感染したことで、村はずれの狭間のコロニーに同居していたに違いありません。イエス様が通過しようとし入られた村、それは民族的差別の狭間であり、病気故の阻害の狭間であったのです。そこには、差別、軽蔑、阻害、憎しみ、怒りだけがあるような暗い狭間でした。

これは、見方によれば、私たちの生きる社会、世界の縮図と言うことです。何故なら、私たちの社会の至るところ、世界の至るところに、差別、軽蔑、阻害、憎しみ、怒りが蔓延しているからです。昨年2月24日に19万人のロシア軍が大挙してウクライナに攻め入って以来、ウクライナ戦争の悲劇が今なお、続行しています。両軍の死傷者は50万人に達しようとしており、ロシア軍の死者は12万、ウクライナ軍の死者は7万人と言われています。そこにあるのは、怒りと怨念であり、憎しみと悲しみが増すばかりなのです。

10月7日の安息日を祝っていたイスラエル人を襲ったハマスのテロ行為によって、ガザのハマス殲滅作戦が依然として続行中であることをご存知でしょう。その死者数はすでに二万人を超え、行方不明者は6700人を超えているのです。220万人のパレスチナ難民は、食糧、水、燃料に事欠き、安全な場所はなく、全く行き場がありません。そこにあるのは、絶望と、怒りと嘆き、憎しみだけです。サマリア人とユダヤ人の狭間の村は、ウクライナやパレスチナだけに限らず、私たちの社会の至る所の縮図そのものです。この差別や阻害、憎しみと反目は、日本中の家庭や学校、それに職場に地域社会の至る所に見られる現象なのです。三年前のデータですが、小中高のいじめによる自殺者数は415人だと文科省が発表しています。そしてその増加傾向はグラフを見れば、右上がりなのです。

.感謝贈与の効能

その村に、悲哀に満ちたその村にイエス様が入ったその時でした。十人の癩病人たちが遠く離れて、「イエス様、先生、私たちを憐れんでください。」声を張り上げ叫び求め始めたのです。すると、それに対してイエス様は、「行って、祭司達に体を見せない。」と言われました。そして、彼らが言われた通りにすると、「彼らは、そこへ行く途中で清くされた。」というのです。

私たちは、この同じルカ福音書の5章に、一人の癩病人がイエス様に癒しを求めた際に、イエス様が直ちに手を触れて「清くなれ。」と宣言し、彼が瞬時に癒されたことを知っております。しかし、この場合、10人の癩病人には、そうはなされず、彼らの村の祭司に行くよう命じられています。それは何故かといえば、旧約の律法の規定により、ユダヤ教の祭司には、癩病を判定する権限、また、完治したことを決定する権限が与えられていたからです。それは、そうすることによって、癩病人たちが阻害された状況から解放され、市民権を回復し、社会の仲間入りすることができたからです。

イエス様は、ただ体の病気が治るだけではなく、社会的な阻害状況をも改善するように対応されようとしたのです。その結果、言われた通りに出て行った10人全員が、その行く途上で、癩病が癒やされました。

すると、その内のたった一人のサマリア人、ユダヤ人から阻害され、軽蔑され、交際を断たれていたサマリア人の癩病人が、イエス様の元に戻ってきて、ひれ伏して感謝をしたのです。15節にはその喜びようが絵のように描かれ、「その中の一人は、自分が癒やされたのを知って、大声で神を崇めながら戻って来た。」と語られています。彼はイエス様に感謝したのです。それまでの彼の人生の心境を私たちはただ想像することしかできません。それは、暗い、陰湿な、希望のない、恨みつらみではなかったことでしょうか。「何故、自分はサマリア人に生まれついたのか?何故、俺は癩病に感染してしまったのか。俺はなんと不幸な人間だろうか。」その悲哀は深く、尽きなかったに違いありません。

しかし、今や、彼は感謝の喜びに満ち溢れているのです。感謝とは、ありがたく感じて謝意を表すことです。身にしみて嬉しいことです。「笑いは百薬の長」と言われますが、感謝こそ百薬の長ではありませんか。感謝の思いを持つと、脳内のドーパミンの分泌量が増え、心地良い気分になると言われ、専門家に言わせればこれは健康にも良いそうなのです。

二週間前に、高知県の高知刑務所で刑に服している Y さんから、2冊の本が届けられてきました。「あと三ヶ月で出所するので荷物を減らすために送ります。」と理由が書いてありました。彼とは泉佐野警察署で一度面会した方で、手紙のやり取りを続けている方です。その一冊のタイトルは「小さな感謝」でサブタイトルには「人生を好転させる一番簡単な方法」とあります。その著者は、その中で、カリフォルニア大学のロバート・エモンズ教授を紹介し、彼が「感謝の気持ち」を長年研究してきた人だと言うのです。その結果として教授は次のような効果があると言っていると紹介されていました。

  心理的効果

 ・ポジティブな感情が高まり、肯定力が増す

 ・より注意深くなり、生き生きとしてくる

 ・より楽しさや嬉しさを感じるようになる

 ・楽天的になり、幸福感が高まる

  身体的効果

・免疫力のアップ

 ・痛みの軽減

・血圧低下

 ・より運動し、健康管理に務めるようになる

 ・よく眠り、目覚めが良くなる

  社会的効果

 ・より親切になり、他者を助け、慈悲深くなる

 ・より他者の過ちに寛大になる

 ・より外交的になる

 ・孤立感や孤独感が軽減される。

だとするならば、いいこと尽くしではないかと思いませんか。この書物のタイトルは非常に素晴らしいポイントをついていますね。「小さなことへの感謝を忘れない」ということです。

癩病人のサマリア人は、治療法のない絶望的な病気が癒やされたので感謝していますが、そんなにどでかい、それこそ有り難い経験をしたから喜ぶだけではなく、小さなことへの感謝を忘れないことが生きる上で非常に大切なのだと言うのです。聖書もだからこそ、あのテサロニケ第一5章18節で「どんなことにも感謝しなさい」と教えているのではないでしょうか。

人生は、いいことばかりではない。辛いこと、悔しいこと、腹が立つことが起こるのです。そんなとき、小さいなことへの感謝を忘れがちになり、不満や愚痴が口から滑り落ち、他人への恨みつらみに捕らわれてしまうのではないでしょうか。ところが、聖書は「どんなことにも、すべてのことに、何事についても、万事感謝しなさい」と教えるのです。小さなことだけではありません。すべてのことです。とするなら感謝することは絶えることが無いのです。この一年を振り返る年末に、私たちは感謝の花束を多くの人々に捧げるべきではないでしょうか。口頭でもいいし、手紙でもいいし、ラインでもいいし、メイルでもいいです。それ自体が生きる力強い原動力になるからなのです。

.感謝献呈の極致

しかし、私たちは癩病に冒されたサマリア人のイエス様に対する感謝は、単なる人生処世術的な感謝ではなかったことが、イエス様のお言葉によって明らかにされるのです。主は、言われました。「清くされたのは十人ではなかったか。他の九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を崇めるために戻って来た者はいないのか。」私たちは、ここでこの14節によって、10人の癩病人たち全員が、言われたように祭司に体を検査してもらおうと出掛けていく途中で、癩病が清められたことを知っています。祭司に身体検査を受ける前に癒しが実行に移されていました。それによって、祭司の癩病の完治宣言を受け、彼らは阻害された状況から解放され、社会復帰することが許されることになりました。病気が癒やされ健康になる。社会的市民権を回復される。家族と再会し、家族生活が可能とされる。それは二重三重の喜ばしい出来事でした。彼らは皆、心が喜びにあふれ、感謝の気持ちが湧いて来たことでしょう。

しかしながら、イエス様の元に戻ってきて感謝したのは、たった一人のサマリア人、外国人、阻害された異邦人だけだったというのです。イエス様のところに戻ってくる、帰ってくる、そして神を崇めて感謝する、これ実は、人生処世術としての感謝とは別次元の感謝の極致なのです。イエス様は彼に最後にこう語って言われました。19節です。

「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」イエス様は、サマリア人をご覧になり、「あなたは救われた」と言われたのです。「あなたは清められました。」ではありません。「あなたは癒やされました。」でもありません。確かに彼は癩病が癒やされ、汚れから清められました。しかし、イエス様の元に戻って来て、ひれ伏し感謝することによって、彼は救われたのです。

救われる、それは人間としての本来のあり方に立ち戻るという決定的な出来事なのです。神を賛美する人生、イエス様に感謝する人生、そういう人生が救いなのです。イエス様の元に戻って来たこと、帰って来たこと、それは、人間を造り、人間を愛し、顧みてくださる神様に立ち返る出来事です。彼は、神がこんな惨めな自分を愛してくださる、顧みていてくださる、自分の人生に深く関わっていてくださることに気がつくことができたのです。それは、病気が癒やされたこと自体よりも、遥に遥に重大なことだったのです。ある牧師が自分の牧会する教会に出入りする一人の高校生を紹介して、こう語っています。「高校1年生のIくんは、教会に来るといつも“ただ今”と言って入って来ます。そして、教会を出て行くときは、“行って来ます”と言って家に帰って行きます。普通に考えたら、挨拶(あいさつ)が逆です。だから、ちょっと違和感を感じる時もありますが、その心はよく分かるのです。I くんは、教会に戻って来る、帰って来るという信仰なのです。そして、「立ち上がって、行きなさい」と、イエス様から御言葉と祝福を、“心のお弁当”として持たされて、“行って来ます”と出て行く、遣わされていく信仰なのでしょう。」

私たちは今日、2023年の53回目の最後の礼拝に戻って来ました。第一回目の1月第一主日礼拝を終えて、主イエス様に「立ち上がって、行きなさい」と、自分の生活の場に派遣され、一週間の恵の数々の感謝の花束を抱えて、第二番目の礼拝に戻りました。そして、毎週毎週、それを繰り返し続けて来たのではないでしょうか。私たちは、毎週礼拝で、主が私たちを恵もうとして待っていてくださることを知っているからです。ですから、私たちは主に感謝し、大声で神を崇め、賛美礼拝を捧げるのです。それは感謝献呈の極致なのです。詩篇100編は「感謝の詩」と表題が付けられています。

「全地よ、主に向かって喜びの声を上げよ。喜びながら主に仕えよ。喜び歌いつつその前に進み出よ。主こそ神と知れ。主が私たちを造られた。私たちは主のもの。主の民、その牧場の羊。感謝して主の門に進み賛美しつつ主の庭に入れ。主に感謝し、その名をほめたたえよ。主は恵み深く、主の慈しみはとこしえに。そのまことは代々に及ぶ。」

 

今日、私たちはこの年の最後の礼拝会において、感謝を主に献呈するよう呼びかけられるのです。「感謝して主の門に進み賛美しつつ主の庭に入れ。主に感謝し、その名をほめたたえよ。」何故ですか。救われたからです。自分自身の全存在がトータルに回復されたからなのです。私たちの感謝の気持ちを込めて最後に聖歌273番「今日まで守られ」を歌いつつ、献金を主に捧げることにしましょう。1節ではこう歌うのです。「今日まで守られ きたりし我が身 つゆだに憂えじ 行く末などは いかなる折にも 愛なる神は すべてのことをば よきにしたまわん」そうです。感謝しましょう。 

1224日礼拝説教(詳細)

「しるしを求めよ」  イザヤ7章10〜14節

今日この日は第四アドベント、そしてクリスマス礼拝です。私たちはクリスマスを祝おうとして集まりましたが、それは神の御子イエス様が救い主としてお生まれになられたからです。何故クリスマスがそんなに大切なのでしょうか。それは、後にも先にも歴史上、これに勝る出来事が他には無いからです。クリスマスは、年中行事の一つとしてそこそこに済ませていればいいと言った類の種類ではありません。私たちが何故今を生きるのかを決定する重大な出来事なのです。聖書は、万物一切は神が創造されたことで存在することになったと言います。その唯一の神はまた私たち人類の創造者でもあり、このお方が、罪を犯した人類救済のために救い主を送られたのです。この救い主の降誕を祝うのがクリスマスです。そればかりか、この救い主イエスが再び来られます。その来臨を待望するのがクリスマスなのです。今日は、このクリスマス礼拝において、救い主が誕生されたことが、決して偶然の産物ではなく、天才的宗教家の創作でもなく、神の約束された預言の成就であることを確認する意味で、旧約聖書のイザヤ7章10〜14節を読むことにいたします。

主はさらにアハズに語られた。「あなたの神である主にしるしを求めよ。陰府の深みへと、あるいは天へと高く求めよ。しかしアハズは、「私は求めません。主を試すようなことはしません」と言った。イザヤは言った。「聞け、ダビデの家よ。あなたがたは人間を煩わすだけでは足りず、私の神をも煩わすのか。それゆえ、主ご自身があなたがたにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。

I. しるしを求めよ

今お読みしたこの預言書は、紀元前8世紀頃、ウジヤ、ヨアム、アハズ、ヒゼキヤがユダの王であった時代に40年程活躍した預言者イザヤによるものです。この預言の言葉を聞かれて、直ぐにマタイ1章で、天使ガブリエルがマリアの許嫁(いいなずけ)の夫ヨセフに語られた言葉を思い出されないでしょうか。天使のヨセフに対するマリアの受胎告知を記録した後で、マタイはイザヤ7章14節を引用し、こう記しました。

「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われたことが実現するためであった「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」これは、「神は私たちと共におられる」という意味である。」ここから、私たちは、御子イエス・キリストの降誕が預言の成就であると理解し、このイザヤの預言を「インマヌエル預言」と呼ぶことにしているのです。

  命令の主体

さて、このインマヌエル預言の事の発端はといえば、主なる神ご自身が、南ユダ王国12 代目のアハズ王に対して、「あなたの神である主にしるしを求めよ」と命じられたことにあります。新約聖書でも「しるし」という言葉がよく使われているのですが、その意味するところは奇跡のこと、しかも証拠としての奇跡を意味して使われます。しかし、旧約聖書で「しるし」と言う場合には、その語源が「指し示す」にあるので、目に見えないものを指し示す心に描く像、イメージ、すなわち、何かを別のもので代替するという意味合いで使われるものです。その心に描くイメージを「陰府の深みへと、あるいは天へと高く求めよ。」と神はアハズ王に命じられたのです。天にあるものも、地の深みにあるものも、全ては神の支配の下にあるのだから、何でもイメージとして求めたらいいと命じられたのです。

  命令の背景

では、アハズ王が命じられているこの神の命令要求の背後には一体、どんな背景があったというのでしょうか。それは、今日の聖書箇所の前の部分、7章1〜9節を読むことによって明らかになってくるものです。そこには、いわゆるアラムーエフライム戦争と呼ばれる歴史的背景がありました。イスラエルの起源といえば、遡って BC1000頃に、サウル王に始まり、ダビデ王に受け継がれ、そして次のソロモン王時代には最盛期を迎えるに至りました。しかし、ソロモンが死ぬと同時に国は、北イスラエル10部族と南ユダ王国二部族に、真っ二つに分裂してしまったのです。さらに時代が進むと、BC733頃のことでしたが、南ユダ王国の 12 代目アハズ王統治の時代のことです、このアラムーエフライム戦争が勃発したのです。アラムとはダマスコを都とするシリアのことです。エフライムとはサマリアを都とした北イスラエルのことです。このシリアのレツイン王とイスラエルのペカ王が結託し、南ユダ王国に戦争を仕掛けたのです。その戦争の理由は、彼らの北方に位置に台頭した凶暴なアッシリア帝国の脅威に対抗するためでした。この大国アッシリアに対抗するため、レツイン王とペカ王の二人は、ユダのアハズ王に、一緒に戦おうではないかと、同盟を呼びかけたのです。ところがアハズ王はむげに断ってしまったのです。そこで、両国は協働して画策しました。この同盟を拒むアハズ王を倒して傀儡政権を樹立し、自分たちの同盟を強化しようと戦争を仕掛けてきたのです。その時の南ユダ王国の王とその民の心境を、7章2節に見てください。「しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせがダビデの家に伝えられると、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。」王を始め国中が不安と恐れに圧倒されてしまったのです。この「森の木々が風に揺れ動くように」という形容の仕方で、彼らの不安と恐れが並大抵でなかったことが容易に想像できるでしょう。

  命令の意図

その不安と恐れに動揺していたアハズ王に対して、主なる神が預言者イザヤによって「あなたの神である主にしるしを求めよ。」と命じられたのです。何故命じられたのでしょうか。それは、それに先立ち、主が預言者イザヤをアハズ王に遣わし、恐れて動揺するアハズ王を激励するためにメッセージを語らせていたからなのです。7章の3節によれば、上貯水池の水路の端に居たアハズ王にイザヤは語っています。この水路はエルサレム市内にある唯一の泉であるギホンの泉から貯水池に繋がる水路で、敵軍に城壁が包囲されたら籠城するために、水資源を確保するための、必要不可欠な重要な水路でした。おそらくアハズ王は、迫りくるアラムーエフライム同盟軍の包囲に、ここは籠城を覚悟し、入念に水路を点検していたに違いありません。預言者イザヤが神から託された使信は、「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはならない。」というものでした。そしてその際に、イザヤは恐れてはならない理由を三つ挙げているのです。

第一の理由は、アハズ王が恐れていたアラムのレツイン王もイスラエルのペカ王も、取るに足りない人物だからです。見てください、主は彼らを形容して「二つの燃えさし」「くすぶる切り株」のようだと見做されたのです。

第二の理由は、この同盟した二人の王達が、アハズ王を倒して自分たちに都合の良い傀儡政権を打ち立てることを画策するが、「そのようなことは起こらず、実現もしない」と歴史の支配者である主が見通されたからです。

第三の理由は、これが肝腎要なのですが、すべて一切の支配者は主なる神であるからなのです。イザヤは8節でこう預言します。「アラムの頭はダマスコ、ダマスコの頭はレツィン」と言い、9節では「エフライムの頭はサマリア、サマリアの頭はレマルヤの子」と言いました。そこには書かれていませんが、それに続く宣言、つまり、「南ユダ王国の頭はエルサレム、エルサレムの頭は、アハズ、アハズの頭は主なる神」が隠されていたに違いないのです。主なる神が全ての為政者の上に立つ頭なのです。王の王、主の主なのです。

イザヤの語った時点では、まだ見えていないことですが、歴史的に私たちに分かっていることは、その2年後には、シリアのレツイン王はアッシリアによって殺害されてしまいます。北イスラエルのペカ王は、暗殺されて呆気なく死んでしまうような運命だったのです。ですから、イザヤを通して「恐れてはならない」と主なる神が激励した根本理由は、歴史の支配者である全能の主なる神が、南ユダ王国をしっかりと守り支えるからであるからなのです。だからこそ、主は「あなたがたが信じなければ、しっかりと立つことはできない。」と最後に、イザヤを通して勧告されたのであります。言い方を変えれば、姑息な手段を画策することなく、落ち着いてしっかり主に信頼していれば、何も心配することはない、と言われたのです。それに加えて更に主は、アハズ王に「あなたの神である主にしるしを求めよ。」と命じられました。それは、イザヤの預言を聞いても、黙って何の反応をも示さないアハズ王に対して、神への信頼を確証するために、必要なら遠慮なくしるしを求めたらどうか、と恵みの機会を差し出されたのであります。

II. しるしを求めぬ

しかし、まさにその時でした。預言者イザヤを通して語られたメッセージを聞いていたアハズ王が口を開いて、こう答えたのです。「私は求めません。主を試すようなことはしません。」主はアハズ王に「あなたの神である主にしるしを求めよ。」と命じたのに、彼は「私は求めません。」と、その勧告を一蹴してしまったのです。

  拒否した主体

この主の命令を一蹴したアハズ王の人物像を明らかにしている列王記下16章1〜4節を少し読んでみることにしましょう。これによって分かること、それは彼が、南ユダ王国12代目のアハズ王が、並いる王達の中でも実に劣悪であったことなのです。

第一に彼は、主の目に適う正しいことを行いませんでした。

第二にカナンから追い払った原住民の忌むべき慣習、伝統に倣っていたことです。その慣習の一つが、自分の子供を火の中をくぐらせることでした。これは実に残酷で恐ろしいことです。幼児を人身犠牲として祭壇で焼いて偶像に捧げる悪質な宗教習慣だったのです。これは主の律法では厳重に禁止されていた行為です。

第三に彼は、徹底して偶像崇拝を公にしたことです。この「高き所」とか「丘の上」とは、諸々の偶像の神々がおる場所とされたことで、アハズ王はそこに、民をそそのかして一緒に犠牲を捧げ、神ならぬ偶像を拝んでいたというのです。

  拒否した理由

では、そのアハズ王が主の命令勧告を拒否した理由はどこにあったのでしょうか。彼自身はその理由をはっきりと「主を試すようなことはしません。」と断言しました。これは聞く人が聞けば非常に聖書的であり信仰的でありませんか。何故なら、この答えの背景には申命記6章16節の「あなたがたの神、主を試してはならない。」という戒めがあるからです。試す、試みるには二つありますね。神が人を試みることが一つ、そして人が神を試みることです。神が人を試す、試験する、テストすること、それは主権者として当然のことです。しかし人が神を試みる、試す、テストすること。それは真実な方を疑うことですから、重大な不信仰の道です。アハズ王が、「神を試すようなことはしません」と答えることで、それだけでは、神への信頼を彼が誠実に示したかに見えなくもありません。

③拒否の動機

しかし、よくよく吟味してみるとどうでしょうか。「しるしを求めよ」と命じた方は神ではありませんか。アハズ王が神を試そうとしるしを求めようとしたわけではありません。神ご自身が、「しるしを求めなさい」と命じたのです。その命じられた主権者である神に「私は求めません」とアハズ王が答えたこと、これは明らかに、神へ従うこと、信じることの拒否なのです。アハズ王は確かに敵対して差し迫る同盟軍の包囲攻撃に対して動揺し不安と恐れで震えていました。しかし、彼はキッパリとここで、神信頼を捨てたのです。「今更、此の期に及んで神様に頼ってなんかいられるものか。俺は自分の力と知恵を働かせて何とかするさ!」と言ったに等しいのです。あの列王記下16章をさらに読み進むと、具体的にアハズ王が、このアラムーエフライム戦争に対抗する対策を練り、手を打っていたことが分かります。それは、あの敵対する二人の王達が脅威に思っていた北に勢力を拡大するアッシリア帝国の王に、使いを派遣し、こう要請していたのです。『私はあなたの僕、あなたの子です。どうか上って来て、私に立ち向かうアラムの王の手とイスラエルの王の手から、私を救い出してください。』(列王記下16:7)敵の敵は味方です。アハズ王の敵の敵を味方にする彼の周到な画策だったのです。アハズ王は、アッシリアの王ティグラト・ピレセルに「私はあなたの僕、あなたの子です。」と言って憚りませんでした。彼は神の民、ダビデ王家の末裔、本来ならば「私は神の僕、神の子です」と言うべきところを、これによってアッシリアの王に信従する誓いをしてしまったのです。

III. しるしを与える

なんたることでしょうか。そしてその瞬間でした。預言書イザヤがアハズ王に対して預言し、こう宣言したのです。「聞け、ダビデの家よ。あなたがたは人間を煩わすだけでは足りず、私の神をも煩わすのか。それゆえ、主ご自身があなたがたにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」これがインマヌエル預言と呼ばれる預言の言葉です。

  与えられたしるし

人間の側から求めて与えられるしるしではありません。神が「神にしるしを求めなさい」と命じられたのに拒否された結果、神ご自身が与えられるしるしであります。すでに「しるし」とは「目に見えないものを指し示す心に描く像」だと説明しました。主なる神はこのしるしによって、目に見えないある真実をアハズ王の心に描く像、イメージを与えようとされたのです。その神が与えられたしるしとは、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(7:14)です。聖書の預言とは、第一義的に、その語られた時代に対するものです。その場合、この「おとめ」が誰であるのか、生まれる「男の子」が誰であるのか、これまで研究者の意見の分かれるところでした。今日は、最新の研究成果を参考にしつつ、解き明かしさせていただきます。この「おとめ」は原語のヘブライ語では、処女を指すものではなく、若い女、或いは既婚の若い女性を指して使われる言葉であります。そうであるとすれば、最も確実性の高いのは、南ユダ王国のアハズ王の妻達の一人を指し、その若い妻から生まれる男の子がインマヌエルと呼ばれるとなります。では、その男の子とは、アハズ王から生まれる歴史上の人物は誰なのか。その最も可能性の高い人物こそ、アハズ王の跡を継いだヒゼキヤ王を指していると理解されてくるのです。何故そう言えるかと言えば、アハズ王の子ヒゼキヤは、父とは全く逆の人物でありました。申し分のない王であったからなのです。

ヒゼキヤ王のことを記す列王記下18章をご覧ください。3節には「彼は父祖ダビデが行ったように、主の目に適う正しいことをことごとく行った。」とあります。5節には「ユダの王の中で、ヒゼキヤのようにイスラエルの神、主を頼りとしていた者は後にも先にもいなかった。」とあります。7節には、「主が共におられたので、向かうところ敵なしであった。それでアッシリアの王に逆らって、これに仕えなかった。」とあります。ヒゼキヤ王には「主が共におられた」のです。文字通りインマヌエルです。神ご自身が与えるしるしである男の子の名がインマヌエルと呼ばれるとすれば、その意味が「神は我らと共にいます」なのですから、まさにヒゼキヤこそ、預言の成就と言えることになるのです。

②救いのしるし

そうであるとすると、このしるしは、聞いたアハズ王にとっては第一に救いのしるしとなります。16節を見てください。「その子が悪を退け善を選ぶことを知る前に、あなたが恐れている二人の王の領土は必ず捨てられる。」これはアハズ王に生まれるヒゼキヤが大人になる遙か以前に、もうすぐ間も無く、あの敵対していた王達が打ちのめされ滅びることの預言です。そして、それはものの見事に的中したのです。シリアのレツイン王は 2 年後にアッシリアに攻撃され殺害されてしまいました。イスラエルのペカ王は間も無く、部下に暗殺されてしまうのです。

③裁きのしるし

しかしながら、インマヌエル預言は救いのしるしであると同時に、アハズ王に対する裁きのしるしでもありました。17節をご覧ください。「主は、あなたとあなたの民とあなたの父祖の家に、エフライムがユダから分かれた日以来、臨んだことのないような日々をもたらす。それはアッシリアの王だ。」とイザヤはキッパリと続いて預言しました。これは今後アハズ王が経験することになる神の裁きのしるしです。男の子の名がインマヌエル、「神我らと共にいます」の「我ら」の中には、アハズ王が入っていないということです。何故ならば、アハズ王はアッシリア王を頼り、「私はあなたの僕、あなたの子です」と告白し、神を捨てていたからです。今日この礼拝で、アハズ王に関して記された列王記下16章と歴代誌下28章の全部読んで説明する時間はありません。ここでは、アハズ王がそれから経験した悲惨な出来事を列挙するだけにとどめておきましょう。第一にあの敵対したシリアによって国土を大幅に奪い取られ大打撃を受けます。第二に敵対した北イスラエルのペカ王によって12万人が戦死し、20万人の女、子供が捕虜にされます。第三にアッシリアの王に援助を求めて、多額の貢物を差し出したにもかかわらず、聖書(歴代誌下28:20)は「アッシリアの王ティグラト・ピレセルは、アハズに向かって攻めて来て、アハズを苦しめ、助けなかった。」と報告するのです。そればかりか、アハズ王は、アッシリアの宗教を模倣せざるを得ないはめに陥り、全ての民をつまずかせることになります。そのアハズ王が死んだ時には、人々は彼を嫌悪し、不名誉な死に方で代々のダビデ王家の墓に葬られませんでした。

④メシアのしるし

しかし覚えてください。インマヌエル預言は全人類に対するメシア預言でもあるのです。預言者イザヤがアハズ王に宣言したインマヌエル預言は、アハズ王の息子ヒゼキヤにおいて成就すると共に、それから700年後に、乙女マリアによって生まれた救い主イエス・キリストにおいて成就しているのです。インマヌエル預言は、神を信ぜず、自己を過信し、政治的同盟に信頼し、偶像崇拝に陥り、破廉恥な行為をするアハズ王に語られたと共に、神を信じない、偶像崇拝に陥り、人間中心の罪深い全人類に対して語られた預言でもあるのです。許嫁の妻マリアが妊娠したことに気づいたヨセフが、離縁をするべきか思い悩む時、天使ガブリエルが現れ、「ダビデの子ヨセフ、恐れずマリアを妻に迎えなさい。マリアに宿った子は聖霊の働きによるのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(マタイ1:20、21)と語りかけました。そして、それを受けて、マタイは、説明してこう語るのです。「この全てのことが起こったのは、主が預言者を通して言われたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』これは『神は私たちと共におられる』という意味である。」

「しるし」とは「目に見えないものを指し示す心に描く像」です。しるしとは心に描くイメージです。「目に見えないもの」とは「私たちと共に神がおられる」ことです。それは目には見えません。しかし真理なのです。イエス様を 信仰を持って信じ迎えることのできる人は幸いです。何故なら、イエス様によって、自分の心にしっかりと「神が共にいてくださる」というイメージを抱くことができるからです。神が共におられる生き方とは、イエス様の生き方そのものです。このお方を心に迎え入れる人は、自分自身に神が共におられることを経験することができるのです。そうであるならば、その人は自分がどのような状況に置かれたにしても、恐れることはありません。何故なら、愛にして全能の真実な神様が共におられるからです。イエス様は約束して言われました。「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」(マタイ18:20)また、こうも言われました。

「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)イザヤ30章15節に、こうも主は語られましたね。「立ち帰って落ち着いていれば救われる。静かに信頼していることこそ、あなた方の力がある。」恐れることはないのです。主が共におられるのです。

12月17日礼拝説教(詳細)

「主を指し示す者」  ヨハネ1章19〜28節

今日はこうして第三アドベントの燭火が点灯されました。私たちは今日の午後2時から、恒例のクリスマス・コンサートを開催予定しております。会場もこうして整えられ、大いに期待して臨むことにいたしましょう。ゲストとしてお招きしたゴスペル歌手の市岡裕子さんのお父様は、吉本新喜劇の2大巨星と呼ばれた岡八郎さんです。その八郎さんもお父さんが喜劇役者であったらしく、オタマジャクシはカエルの子ですね。関西では大変よく知られたこの八郎さんの娘である市岡裕子さんに期待し、このコンサートが沢山の方々に恵みの機会となることを祈ろうではありませんか。

さてしかし、今日は喜劇とは真逆の感じがしないでもない人物に聖書から登場してもらうことにしております。聖書はヨハネ1章19〜28節をお読みいたします。

さて、ヨハネの証しはこうである。ユダヤ人たちが、エルサレムから祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねさせたとき、彼は公言してはばからず、「私はメシアではない」と言った。彼らがまた、「では、何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「そうではない」と言った。さらに、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「違う」と答えた。そこで、彼らは言った。「誰なのですか。私たちを遣わした人々に返事ができるようにしてください。あなたは自分を何者だと言うのですか。」ヨハネは言った。「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ』と荒れ野で叫ぶ者の声である。」

遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアではなく、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「私は水で洗礼を授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられる。その人は私の後から来られる方で、私はその方の履物のひもを解く値打ちもない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

.指し示す者

ここに登場するヨハネとは、説明するまでもなく、バプテスマのヨハネのことです。バプテスマのヨハネは、イエス・キリストの公生涯に先駆けて登場した非常に重要な人物であります。ルカ福音書には、このヨハネが祭司ザカリアとエリサベツの間に誕生したという経緯が詳しく記されています。マタイとマルコの両福音書には、そのなりふりが「ヨハネは、ラクダの毛衣を着、腰に革の帯を締め、バッタと野蜜を食べていた。」と紹介されております。そして四福音書の全てが、このヨハネは、ヨルダン川でユダヤ人たちに悔い改めのバプテスマを授けていたという事実を証言しているのです。

  使者の質問

そんなある日のことでした。エルサレムの都の宗教的指導者たちから使者が遣わされました。そこでヨハネは非常に厳しく尋問されることになります。その派遣された祭司やレビ人たちは、まず第一に「あなたはどなたですか」とヨハネに尋ねたのです。この質問は一見単純です。しかし、そこには宗教指導者たちの抱いた三つの動機が背後に隠されています。

イ)  祭司に反した行動

第一に彼らは、ヨハネの行動が職務違反だと問題視しました。ヨハネは祭司ザカリアの息子であり祭司の家系であるからです。ヨハネは、きちんと祭司服を着け、エルサレムの神殿で仕事をするべきであるのに、都から離れたヨルダン川で、しかもラクダの毛衣を着て活動するとは、常軌を逸した職務違反だと考えたからなのです。

ロ)  趣旨に反した洗礼

第二に彼らは、ヨハネが人々に施していた洗礼は本来の趣旨に反していると考えたからです。バプテスマは、当時のユダヤ教では、異邦人が他宗教から改心する際に施す儀礼でした。異教の異邦人がユダヤ教に改宗するには、律法遵守を誓約し、割礼を受け、その上で洗礼を受けなければなりませんでした。にも関わらずです。何とヨハネは、洗礼をさらさら受ける必要のないはずのユダヤ人たちに、悔い改めを迫り洗礼を授けていたのです。

ハ)  メシアの噂が立つ

しかし、質問の奥にある最も強い動機は、ヨハネのメシア性の疑念でした。私たちには到底考えられないことです。当時、イスラエルには、メシア到来の期待感が、一般民衆の間に非常に強かったのです。ユダヤ人たちは、旧約聖書に約束されたダビデ家の王の到来が期待されていました。軍隊を動員してローマ帝国を打倒し、世界制覇を実現するような革命的英雄を期待する向きが、非常に強かったのです。そんな風潮の時代に、ヨハネの言動が民衆の関心を強烈に惹きつけ、ヨルダン川のほとりに続々と彼の元に集まってきたのです。そのヨハネの弟子たちの中には、尊敬する師であるヨハネをメシア扱いする者までが出てきていました。こんな噂は、都のサンへドリン議会の宗教指導者たちにとっては決して、決して看過できない現象であったに違いないのです。そういう訳ですから、尋問者たちの「あなたはどなたですか」という問いかけは、「あなたはメシアかどうか返事をしなさい」という意味だったに違いないのです。

  ヨハネの回答

それに対するヨハネの回答は、非常に明白で一貫していました。「彼は公言してはばからず、『私はメシアではない』と言った。」ヨハネは、彼らの期待と疑惑に率直に答え、あっさりと、自分のメシアであることを否定しました。更に使者たちが追求して「ではエリヤですか」と問い掛けると、ヨハネはこれも「そうではない」と一蹴してしまいます。尋問者達がこのように質問したのは、旧約の最後のマラキ3章22節に「大いなる恐るべき主の日が来る前に、私は預言者エリヤをあなたがたに遣わす」と預言されていたからです。するとどうでしょうか、更に追い討ちを掛けるように、使者たちは「あの預言者なのですか」と畳み掛けています。「あの預言者」とは、これまた旧約聖書の申命記18章15節のモーセの語ったとされる預言が背景にある質問です。「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞のうちから、わたしのようなひとりの預言者をあなたのために起されるであろう。あなたがたは彼に聞き従わなければならない。」するとヨハネは、これまたあっさりと「違う」と答えるのです。

  現代人の問題

この「あなたはどなたですか」という問いは、現代に生きる私たちにとっても大切な問いではないでしょうか。勿論、夜に道を歩いていて警察官に、こんな職務質問をされたら嫌ですが。ここに居られる皆さんは、このように問われたら、何と答えられるでしょうか。今国会でも論議されているマイナンバーカードは、11月末時点で人口の72.8%に当る9136万人が保有していると言われています。これは本人確認の電子機能化された身分証明カードです。「あなたはどなたですか」と問われて、懐からサッとカードを取り出し提示すればそれで済む問題でしょうか。22節を見ると、ヨハネを尋問した使者たちは「あなたは自分を何者だというのですか」と更に言葉を代えて質問しています。これは、自分の名前や住所だけで済むような問いではないのです。これは、他の人々があなたをどう評価しているかの問題でもありません。言い換えれば、これは人間としての本質的な問い掛けなのです。自分が誰であるか、何者であるか、自分でどう自己認識しているかの問題です。自己同一性の問題なのです。アイデンティティ問題なのです。

それではあなたは何者かと問われて、何と答えられますか。一般的には自分の職業で答えるかもしれません。「どこそこの会社に勤めています」と答えることができます。しかし定年退職してしまったなら、「何者になるのか」という問いが残ってしまいますね。先日のことコンサートのチラシをご覧になって関心を示されたと言われる75歳の男性が教会の私を訪ねてこられました。彼は勿論仕事を退職されていますが、現在はご自分を「国際一級漫談子」だと紹介されました。そればかりか「大還暦チャレンジ・クラブ会長」だとも紹介してくださいました。「120歳まで生きたい人は集まれ!」と呼びかけておられるのだそうです。愉快ですよね。あるいは結婚された女性であれば「専業主婦です」とか「三人の子の母です」とか紹介することもできるでしょう。そうでなければ「私は日本人です」とか「趣味で毎日ジョギングしています」とか千差満別、いろいろあることでしょう。

しかし、自分が何者であるか、それを本当の意味で知るとは、自分が何のために生まれてきたか、生きる本当の意味を知っていることではないでしょうか。その答えは、聖書的な見地からすれば、「私はクリスチャンです」「私はキリスト者です」に尽きるのです。何故なら人は、イエス様を救い主と信じ、神に立ち返ることによって初めて、本来の人間存在の目的を知ることになるからです。私が大切にしている書物の一つに「ウエストミンスター小教理問答書」があります。その教理問答の第一番目の質問が「人の主な目的は何ですか。」なのです。これは正直言ってドキっとする質問ではありませんか。そして、その答えは「人の主な目的は、神の栄光を表し、永遠に神を喜ぶことです」なのです。そうです。人間は神に創造され、その神を知り、神の栄光を表し、神を喜ぶこと、それが人生の目的なのです。自分が神の栄光のため生かされていることを知るときにこそ、何をするにしても何のためにこのことをするのか悩むことはなくなるのです。

何故勉強しますか。入試に合格することが目的でしょうか。何故大学に行きますか。希望する安定した高収入が見込まれる会社に就職するためなのですか。ではなぜ働きますか。勿論生活のためですよ。では何故結婚しますか。何故食べますか。何故寝るのですか。何故教会へ行きますか。神の栄光のためなのです。飲むにも食らうにも、何をするにも神の栄光のためにするのです。「あなたは自分を何者だと言うのですか」それに対する最も優れた回答は「私は主を信じるクリスチャンです」ではありませんか。神を知り、神を褒め称え、神を喜ぶことが人生目的です。主に感謝しましょう。

.指し示す声

ヨハネが、エルサレムの指導者たちから派遣された使者に、自分はメシアでもエリヤでも預言者でもないと否定した時に、彼らが二度目に「あなたは自分を何者だと言うのですか」と質問したのに対して、彼はこう答えました。22節です。「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ』と荒れ野で叫ぶ者の声である」ヨハネは、あのイザヤ書40章3節の預言を引用して答えたのです。一言で圧縮して言えば、ヨハネは「私は声だ」と答えたのです。

  荒野で叫ぶ者の声

このイザヤの預言は、第一義的にバビロン捕囚の民に対する慰めの預言でした。歴史的事実として、ユダ南王国は、BC587にバビロンに滅ぼされてしまい、民のほとんどが、千キロも離れた北のバビロンに捕囚として連れ去られてしまいました。しかし、70年が過ぎようとするときに、不思議な解放の時が到来したのです。ペルシャ帝国が台頭しました。その結果、バビロン帝国は滅ぼされ、捕囚の民が解放され、祖国に帰国する道が開かれたのです。それは主なる神の恵みの御業でした。「主の道をまっすぐにせよ」とは、古代の王が戦争に勝利し凱旋する際の習慣から撮られた表現です。凱旋する王が勝利の軍勢を率いて通る道は平にされました。その道路に民衆が詰め寄せ、歓呼して出迎えるのが常だったのです。

  キリストの先駆けの声

ヨハネは、このイザヤの預言の成就をイエス・キリストに見立てました。そして、この預言を引用し、自分を「荒れ野で叫ぶ者の声」と自覚して呼んだのです。声とは、発した途端に消えてしまうのです。声は、あることを伝えさえすれば目的を果たして消えていく存在です。ヨハネは自分を一つの声、ワン・ボイスとして捉えました。儚い存在であると自分を捉えたのです。しかし、ヨハネはそれによって、自分には伝えなければならないことがある、差し示さなければならないお方がおられると言っていたのです。ヨハネは、自分が何者かと問われるなら、自分の存在目的は、これから現れようとされる救い主、メシアを人々に指し示すことなのです、と自覚し語ったのです。ヨハネの答えを受けた使者たちは続いて、「なぜ洗礼を授けるのか」と更に質問しました。するとその問いに対して、ヨハネは「私は水で洗礼を授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられる。その人は私の後から来られる方で、私はその方の履物のひもを解く値打ちもない。」と答えたのです。「あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられる」「その人は私の後から来られる方」誰のことですか。この方こそ、そうです。神が約束され遣わされた救い主イエス・キリストなのです。ヨハネに続いて来られる方、後から来られる方、ヨハネはこの方、イエス様の先駆けとなり、救い主イエス様を指し示す役割を果たしたのです。

  クリスマスに指し示す声

このバプテスマのヨハネの告白に、私たちは、クリスマスを重ね合わせることができます。クリスマスは御子のご降誕を喜び祝うお祭りです。と同時にクリスマスはこのお生まれになったイエス様が再び来られようとされるのを待望することを意味します。過去の出来事を消極的に祝うだけではありません。未来の出来事であるキリストの再臨を積極的に指し示す声となることが、教会の使命なのです。19節は「さて、ヨハネの証しはこうである」と始まります。そこで、私たちが読み進むときに、このバプテスマのヨハネが、次々と人々にイエス様を指し示し、力強く証ししていることが分かってきます。今日読んだ箇所では、宗教指導者が遣わした使者たちに、ヨハネがイエス様を指し示したことが分かります。29節から34節によれば、その翌日ヨハネは、自分に近づいて来られるイエスを認めて、ヨルダン川の岸辺の人々に「見よ。世の罪を取り除く神の子羊だ。」と指し示しています。35節から37節によれば、その翌日、二人の自分の弟子たちに、「イエスが歩いておられるのを目に留めて」、「見よ。神の子羊だ」と、ヨハネは指し示しています。その結果はどうでしょうか。二人の弟子たちは、何と即座にイエスに従ってついて行ったのです。それから更に先を読み進むと、ヨハネの声の波紋は果てしなく広がって行ったことがわかります。二人の弟子の一人のアンデレが自分の兄弟のペテロに会うと、彼をイエス様のもとに連れてきて紹介しています。ペテロは、そこでイエス様との最初の出会いを経験させられ、主の弟子となる道が開かれました。更にその翌日の出来事を43節から読み進めば、イエス様ご自身がピリポを弟子とされ、そのピリポが今度はナタナエルに声をかけた結果、彼がイエスに紹介され、弟子とされていく。

この1章19節から始まるヨハネの証しは、あたかも天地創造の一週間のようです。創世記が「初めに神が天と地を創造された。」で始まるように、ヨハネ1章1節は「初めに言があった。」で始まりますね。ヨハネの証しが始まる19日が第一目であれば、「その翌日」と言う言葉を29節、35節、43節と追いかけると、2章1節の「3日目に」が丁度7日目に当たるのです。創世記では7日目が安息日です。7日目のヨハネ2章はカナの婚礼の祝いです。私たちは今日の午後には、2時からクリスマス・コンサートを予定し、20日にはキャンドル・ナイト、そして、24日にはクリスマス礼拝、クリスマス祝会、25日が降誕日となります。ヨハネがイエス様を指し示す声となり証しをした結果、次々と弟子が起こされ、喜びの祝いにつながっているように、このクリスマスの一週間、私たち自身がヨハネのように、イエス様を指し示す声になろうではありませんか。人々に道を指し示す道標とさせていただきましょう。

.指し示す方

では、ヨハネが指し示したイエス様はどのようなお方ですか。私たちが、このクリスマスにあって、人々に指し示そうとするイエス様はどのようなお方ですか。

①先在される方

第一に言えることは、イエス様は永遠に先在される神です。1章15節でヨハネは証言してこう言っています。「私の後から来られる方は、私にまさっている。私よりも先におられたからである。」「後から来るのに先におられた」とは矛盾ですね。しかし、1節によりそれは明らかです。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」イエス様は時間を超越した永遠の神であるからなのです。

②万物の創造者

私たちが指し示す方は万物の創造者です。3節「万物は言によって成った。」見えるものも見えないものも一切は御子によって創造され、御子のために創造されました。

③人を照らす光

私たちが指し示す方はすべての人を照らす光です。9節にこうあります。「まことの光があった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである。」

  受肉された神

私たちが指し示す方は人間の形をとって現れた神です。14節を見てください。「言は肉となって、私たちの間に宿った」礼拝会場のある 2 階の階段上がった通路には、飼い葉桶に寝かされた赤子のイエス様が、今年も飾られています。私事ですが、今年の年末年始にかけて、私の娘は失業中なので、「何もクリスマスのお祝いなどは買わなくてもいい」と言いました。しかし、言うことを聞かないのです。「父さん母さんへのプレゼント」と手渡されたものがありました。それはクリスマスのお菓子シュトレンです。シュトレンは細長い日持ちのする真っ白なケーキですが、ドイツ語で「坑道」を意味します。細長いトンネル状のお菓子です。しかしそれは飼い葉桶の赤子のイエス様をイメージして造られた菓子なのです。それは神が人を救うために人となられた姿そのものなのです。それは、それによって人が神(イエスは神)が啓示されるためでした。18節をご覧ください。「いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」私たちがイエス様を指し示すならば、人々に神が示されることになるのです。

  聖霊の授洗者

そればかりではありません。私たちが指し示す方、イエス様は聖霊の授洗者であります。ヨハネは33節でこう語ってはばかりません。「霊が降って、ある人に留まるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」ヨハネは水で洗礼を授けました。しかし、イエス様は聖霊で洗礼を授けられたお方です。水の洗礼は、罪赦され救われたしるしです。信じて救われた人に実際に命を付与されるのは、イエス様です。イエス様は、イエス様を主と信じ告白する人に聖霊を注がれます。聖霊は信じた人と共に居られ、信仰生活を助け導かれる神ご自身でもあります。聖霊は、私たちクリスチャンが、証をしてイエス様を指し示そうとするときに力を与えてくださる方でもあります。主は約束して言われました。使徒1章8節です。「ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、更に地の果てまで、私の証人となる。」

私は自分の人生を振り返るとき、真の意味で 人生の意味と目的を私に指し示してくれる人生の道標、道しるべとなる人は 16歳になるまでおりませんでした。父には感謝しています。母にも感謝しています。学校の先生達にも感謝しています。しかし、これが本当の生きる道だと差し示す道しるべではありえませんでした。しかし、21歳の若い牧師が私の前に立ち現れました。そして、キリストを指し示してくれたのです。それから長い人生の過程において、道標となるキリスト者が何人も私の前に現れてくれました。

今日、この午後にステージに立って歌い証しされる市岡裕子さんが聖霊に満たされ、イエス様を指し示す声となり道標となられるよう祈りましょう。皆さんもまた今日、ヨハネがイエスを人々に指し示す道標となったように、ある人々の道標となることが求められているのではありませんか。ヨハネがそうであったように私たちもまた「荒野で叫ぶ声」とさせていただきましょう。また、そうであるために、聖霊の満たしを主に祈り求めることにいたしましょう。

1210日礼拝説教(詳細)

「明星が昇るまで」  II ペテロ1章16〜21節

『私たちは、私たちの主イエス・キリストの力と来臨をあなたがたに知らせるのに、巧みな作り話に従ったのではありません。この私たちが、あの方の威光の目撃者だからです。

イエスが父なる神から誉れと栄光を受けられたとき、厳かな栄光の中から、次のような声がかかりました。「これは私の愛する子、私の心に適う者。」私たちは、イエスと共に聖なる山にいたとき、天からかかったこの声を聞いたのです。

こうして、私たちは、預言の言葉をより確かなものとして持っています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗いところに輝く灯として、この言葉を心に留めておきなさい。

何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、人々が聖霊に導かれて、神からの言葉を語ったものだからです。』

第二アドベントの燭火が点灯されました。あと二本点火すればクリスマスの祝いの日となります。先週日曜午後5時のライフライン友の会では、放映された番組でクリスマス・リースの作り方が紹介されていました。紹介指導されたのはピアニストであり、フラワーアーティストの佐々木潤さんで、毎年豪華なリースを私たちの教会に飾ってくださるH姉も、こうして作られるのかと初めて分かった次第です。リースの作り方だけではなく、リースの意味も佐々木さんが紹介され、リースの円形の型は永遠を、差し込まれる緑のヒノキや柊の枝は生命を象徴していると教えてくれました。信じる人々に永遠の生命を与えてくださるイエス・キリストのお誕生をお祝いする飾りには、ピッタリですね。さて、今日はその第二アドベントということで、聖書はII ペテロ1章16〜21節を読むことにします。

I. 再臨の真偽

礼拝に続けて来会されておられる方は覚えておられるでしょうか。11月26日には黙示録1章から、先週3日には I テサロニケ5章から、キリストの再臨をテーマにお話ししました。今日、この II ペテロの手紙1章を開くということは、そのテーマが同じキリストの再臨ということになります。何故、アドベントに再臨を繰り返し強調するのでしょうか。それは、クリスマスの祝いの究極の目的が、キリストの再臨の待望にあるからです。

  クリスマスの取り違い

クリスマス・ジョークの中にこんな可愛らしいのがあります。『兄と弟がクリスマスの一週間前、おじいちゃんとおばあちゃんの家に泊った。寝る前に彼らはお祈りをした。弟が精一杯大きい声を出して祈った。『クリスマスには新しいゲーム機が欲しいです』お兄ちゃんは言った。「叫ばなくてもサンタさんには聞こえているよ」弟は答えた。「でも、おばあちゃんたちは耳が遠いじゃん」』これは、可愛らしく愉快なジョークですが、これは別な言い方をすれば、クリスマスをサンタクロースと取り違えていることですよね。

そのサンタといえば、私は本物のサンタさんに会って握手してきました。ウイーン滞在中に、毎年8月初旬に開催される欧州の日本人教会の合同集会がフィンランドで開催された時、集会後のオプションの一つにサンタ村の訪問があったのです。一晩かけ特急で北上し、私たちは北極線に近いロヴァニエミに二泊ホームステイし、サンタ村を訪ね、本物のサンタさんに会ってきたのです。たいそう大柄の立派な白い髭を生やしたサンタさんでした。日本の郵便局には、この季節そのサンタさんに手紙を送ると返事が必ずもらえるサービスがあります。毎年この村では世界中のサンタたちが集まり、サンタ会議が開催されてもいるんですね。しかしながら、どうでしょう。クリスマスはサンタクロースではありません。

  クリスマスの否定

サンタクロースではなくて、クリスマスは救い主イエス・キリストの生誕祭であります。何故生誕祭というかといえば、キリストは十字架で死に、墓に埋葬されたからです。そればかりではありません。クリスマスはイエス・キリストの誕生日の祝いでもあります。何故誕生日の祝いですか。それは、キリストは3日目に復活され生きておられるからです。そればかりではありません。クリスマスは、イエス・キリストの再臨待望の日でもあるのです。十字架に死に、3日目に復活されたキリストが再び来られる、その日を待望することがクリスマスの本当の意味なのです。

しかし、私たちは、クリスマスがサンタクロースと取り違えられるだけでなく、クリスマスが否定される現実があることを忘れてはなりません。ペテロが16節で「私たちは、私たちの主イエス・キリストの力と来臨をあなたがたに知らせるのに、巧みな作り話に従ったのではありません。」と語ったのは、当時、クリスマスを徹底的に否定する人々がいたからなのです。「巧みな作り話」というのは、ある一派の人々が頭を捻って考え出した神話という意味です。「クリスマス、キリストの再臨、そんな話は空想であり架空の話だ、脚色して面白くした作り話にすぎない」と批判する人々がいたに違いないのです。イエス様の誕生も、イエス様の復活も、イエス様の再臨も巧みな作り話にすぎないと痛烈に批判されたのです。

それは2000年前のペテロの時代だけの問題ではありません。現代でも辛辣に批判する人は山といるのが現実です。「私は何故クリスチャンでは無いのか」という本を出した英国の哲学者のバートランド・ラッセルがその典型です。「人類の難問に答えよう」という本を出した宇宙物理学者のスティーブン・ホーキングがそうです。イエス様が処女マリアから生まれたことなど、到底人間の理性では理解できないのです。イエス様が死んだのに生き返って生きているという復活、そんなことは到底、まともな人間理性では受け入れ難いことなのです。イエス様が重力に逆らって、雲に包まれ天に生きたまま昇天したなどと言えば、科学的には絶対証明できないことだと否定されるのです。そのイエス様が未来にやがて再び来られる再臨、とんでもないことだと、それはそれ以上に信じ難いこととして、多くの人々には受け入れ難いことなのです。

  クリスマスの疑問

もっと深刻な問題があります。クリスマスの取り違え、否定だけではなく、キリストの再臨を疑問視する人がいることです。この手紙の3章3節から読むとこう書いてあります。「まず、次のことを知っておきなさい。終わりの日には、嘲る者たちが現れ、自分の欲望のままに振る舞い、嘲って、こう言います。『主が来られるという約束は、一体どうなったのか。先祖たちが眠りに就いてからこの方、天地創造の初めから何も変わらないではないか。』」クリスマスとは、イエス様が生まれ、罪の赦しのため十字架で死なれ、復活・昇天され、再び来臨されるのを待望することです。それなのに、再臨を疑問視する人々が必ずいるということです。昔もいたし、今現在もいるのです。イエス様は「然り、私は直ぐに来る」と約束された。それなのに待てど暮らせど、その来臨の兆候すらないではないか。何もかも変わることなく、全てが同じことではないか。それは、イエス様の真実に対する疑念です。それは教会の外部からではなく、教会の内部から噴出する可能性のある疑問なのです。

II. 再臨の確証

しかし、そのような辛辣な挑戦に対して、ペテロは、きっぱりと言いました。「私たちは、私たちの主イエス・キリストの力と来臨をあなたがたに知らせるのに、巧みな作り話に従ったのではありません。この私たちが、あの方の威光の目撃者だからです。」ペテロは反論して言います。「私たちは、巧みな作り話に従ったのではありません。」第一ペテロは、以前ガリラヤ湖の荒くれた漁師でしたから、そんな哲学的な思考や、文学的な創作などできるはずがありません。それゆえに、誰か他の宗教的天才の捻り出した神話を受け売りにしたのでもない、と断固否定したのです。そうではなくて、では、どうして福音を告げ知らせたのか、それは、自分たちが「あの方の威光の目撃者だからです」と、歴史的事実の目撃者だからだと言うのです。あの方とはイエス様のことです。イエス様の威光を私たちは目撃させられたから、それゆえに、事実の目撃証人として証言したと言うのです。威光とは原語はメガレイオテイトスで、その意味は偉大さ、尊厳、壮大です。英語で言うマジェスティです。メガは今でも日本で使われ、一般的には1000の1000倍の単位で、メモリに「メガ・バイト」と使用されていますね。

何時、何処で、どのようにキリストの威光を目撃したと言うのでしょうか。そうです。あのキリストの山上の変貌なのです。17、18節にこう語っています。「イエスが父なる神から誉れと栄光を受けられたとき、厳かな栄光の中から、次のような声がかかりました。『これは私の愛する子、私の心に適う者。』私たちは、イエスと共に聖なる山にいたとき、天からかかったこの声を聞いたのです。」これは共観福音書全てに記録された歴史的な出来事です。マタイ17章、マルコ9章、ルカ9章に記されています。是非確認してください。イエス様は祈るために三人の弟子たち、ペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて山に登られました。この時、この特定の出来事の中で、彼ら三人は輝かしいキリストの威光を確かに目撃させられていたのです。

  変貌の目撃

彼らが第一に目撃した威光は、イエス様の栄光の姿でした。イエス様が祈っている間に、彼らの目の前でイエス様の姿が変貌したのです。マルコはこの様子を表現してこう語っています。「衣は真っ白に輝いた。それは、この世のどんなさらし職人も腕も及ばぬほどだった。」と。それはイエス様の神としての神性の栄光の輝きでした。イエス様は人となられた神です。私たちと同じ肉体を採られたイエス様は何処までも外見的には人間でしかありません。しかし、この時、神としての栄光が肉体と衣を突き抜けて輝き出されたのです。それは誰でもいつでも見られるような光景ではありません。彼ら三人だけに許された特別な経験でした。ペテロは、ヤコブとヨハネと共にこの恵みに預かっていたのです。

  証人の出現

彼ら三人が目撃した第二の威光は、二人の証人がイエス様と語り合う姿でした。その二人とは何と律法を代表するモーセと預言を代表するエリヤでした。ルカは「二人は栄光に包まれて現れ」た、と記録しています。栄光に輝くイエス様と栄光に包まれたモーセとエリヤが三者会談する有り様をペテロたちは克明に目撃したのです。後にも先にもあり得ない特殊な会談でした。そのモーセとエリヤが主イエスと語っていたのは、イエス様がエルサレムで遂げようとしておられた最期のことでした。律法と預言とは旧約聖書のことです。旧約聖書が未来に向けて予告した神の約束は、人類を救済するメシアの到来です。代表的なメシア預言であるイザヤ53章はこう書いてありますね。「私たちは皆、羊の群れのようにさまよい、それぞれ自らの道に向かって行った。その私たちすべての過ちを主は彼に負わせられた。彼は虐げられ、苦しめられたが口を開かなかった。屠り場に引かれて行く小羊のように毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように口を開かなかった。」ここで「屠り場に引かれて行く小羊のよう」と言われるのは誰のことでしょうか。そうです。十字架に犠牲とされたイエス様のことなのです。

  認証の天声

三人が目撃した決定的な第三の威光、それは、雲の中から響き渡った天からの神の認証のみ声でした。「これは私の子、私の選んだ者。これに聞け。」雲から聞こえてきた神の言葉、それはイエス様が神の子であり、人類救済のために神が遣わされた正真正銘のメシアであることの神ご自身による直接的な認証でした。ガリラヤ湖畔で「私について来なさい」と声掛けられ従って来たイエス様、今眼前で変貌されたイエス様、モーセとエリヤと語り合うイエス様、このお方が真の救い主であること、それが神ご自身によって確証されたことを、彼らは目撃させられたのです。

先週木曜日の晩、私は自室で、ユーチューブにより日本の中国研究の第一人者で、慶應大学名誉教授の国分良成氏の日本記者クラブでの講演を聞く機会がありました。その中で彼の語った一つのエピソードが非常に印象的でした。「私がアメリカの中国研究の学会に出席した時、そこに米国で中国研究の大家と言われる大学の教授と話す機会がありました。彼はその際に、大学を定年退職することになったと、私に嬉しそうに話されたのです。そこで私が『研究生活を辞めるのが何故嬉しいんですか?』と尋ねたところ、彼はこう答えられたのです。『もうこれで嘘をつかなくてもいいからですよ。』その発言には、私は正直本当に驚きました。それがどうしてかと彼が言うには、『どんなに研究しても中国のことは本当には何も分からないのであって、ほとんどが推測の域を出ていないからですよ。』と言う説明でした。」

そうです。それが人間の歴史研究の限界なのです。人間の知性には限界があるからなのです。しかしながら、ペテロが「私たちは、私たちの主イエス・キリストの力と来臨をあなたがたに知らせるのに、巧みな作り話に従ったのではありません。」と言い得たのは、ペテロとヤコブとヨハネが歴史を支配される神、全てをご存じの神ご自身の確認の言葉を聞くことができたからなのです。

III. 再臨の待望

では、このクリスマスにあって、クリスマスが取り違えられ、キリストの再臨が否定され、再臨が疑問視される只中にあって、私たちはどのようにキリストの誕生を祝い、キリストの再臨を待望するべきなのでしょうか。ペテロはここに、待望する大切な秘訣を紹介して、こう勧告するのです。「こうして、私たちは、預言の言葉をより確かなものとして持っています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗いところに輝く灯として、この言葉を心に留めておきなさい。」

「明けの明星」とは金星のことですね。太陽から二番目の星、地球に一番近い惑星です。この金星が「明けの明星」と呼ばれるのは真夜中に見ることはできず宵か明け方に見えるからです。何を意味するかと言いますと、それはここで、世の終わりに再臨されるイエス様が金星に喩えられ、「明けの明星」と呼ばれているということです。明けの星が現れれば朝が近い、しかしそれまでの真夜中は暗い。その暗い所を照らす灯火がある。その灯火こそ預言の言葉なのですとペテロは語るのです。「こうして、私たちは、預言の言葉をより確かなものとして持っています。」預言とは、神から受けた言葉を人が代わって語った言葉のことです。ペテロはそれを21節で説明しています。「預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、人々が聖霊に導かれて、神からの言葉を語ったものだからです。」

この神の言葉である預言、言い換えれば聖書です。この聖書、神の言葉は、「暗い所に輝く灯火」なのです。世界中に言葉は、文字通り氾濫しています。飛び交っています。それでいて世界は非常に暗いのです。世界の暗さを少しでも明るくする言葉、欲しくてもなかなかありません。その場限りの楽しませる落語や漫才やドラマもあります。暗い世界情勢を分析し解決策を模索する知識人の番組、報道も沢山あります。しかし、真の意味で人の心は明るくなりません。聖書は、「夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗いところに輝く灯として、この言葉を心に留めておきなさい。」と勧告するのは、預言が、聖書が、暗闇を照らす真の光、灯火であるからです。

私たち日本人の誇りである大谷翔平選手は、野球の本場のアメリカで今年四十四本のホームランを放ちホームラン王のタイトルを獲得しました。ホームランを打つと選手は、一塁からホームまで一気に駆け抜けることができます。気持ちいいでしょうね!実はこの教会にもダイヤモンド状のベースが四つあるのをご存じでしょうか。一塁に相当するのを私たちは「教会加入の誓約」と呼びます。洗礼を受ける方が準備のために学ぶクラスのことです。二塁は「成熟の誓約」三塁は「奉仕の誓約」そしてホームは「宣教の誓約」となっており、それぞれにテキストが用意されています。一塁まで進んだ方、洗礼を受けられた方は、そこで止まらず、二塁に進んでください。二塁から三塁へ、そしてホームベースを踏んでください。その二塁ベースに相当する「成熟の誓約」の第一課が「聖書を理解する方法」となっています。ペテロは「この言葉を心に留めておきなさい」と勧告しましたが、聖書を心に留めておくための最良の5つの方法が、この学びには紹介されています。その第一は聖書に聞くことです。第二は聖書を読むことです。第三は聖書を学ぶことです。第四は聖書を暗記すること。そして第五は聖書を黙想することなのです。

「こうして、私たちは、預言の言葉をより確かなものとして持っています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗いところに輝く灯として、この言葉を心に留めておきなさい。」この暗い世界情勢の只中にあって、是非、預言の言葉、聖書をこの5つの方法で心に留めおくようにしてください。

私はここで、7年前の2016年4月14日に発生した熊本地震で被災し、かろうじて助かったT美文さんを思い出します。震度7の大地震は夜9時26分に発生し、震源地は美文さんが住んでいた熊本県益城町でした。美文さんはその町の熊本東聖書キリスト教会の牧師、T武士さんの娘で保育士でした。私が忘れられないのは、救出後のテレビのインタビューを見たからです。その牧師である父親のT武士さんが若い頃、金沢市のキリスト教書店の店長で、よく存じ上げており、やがて献身し牧師となり70歳のその年、郷里の町の牧師だったのです。美文さんはその発生直前、風呂に入ろうと更衣室に入った瞬間、地震に襲われたのです。美文さんは倒れたドアや壁に押し倒され、朝方2時過ぎに救出されるまで、仰向けのまま身動き取れない状態に置かれました。救出されるまでの真夜中の 5 時間は非常に危険でした。その彼女を支えた二つの一つは、登山経験から低体温症にならないよう近くのタオルで首や手首を巻いたことです。そしてもう一つは、クリスチャンであった美文さんが覚えていた聖書の御言葉を思い浮かべて励みにしたことでした。それは救出されてから7日後に、TBS のインタビューに応じて美文さんが語った言葉なのです。美文さんは、ご自分の心に聖書の言葉をしっかり留めておかれたのです。

乙女マリアからお生まれになられたイエス様は、私たちの罪の赦しのために十字架に犠牲になられました。しかし、復活され蘇り昇天されたイエス様は必ず再び来たり給います。「然り、私は直ぐに来る」と約束されたイエス様を心待ちにし、預言の言葉を心に留めて、私たちも備えようではありませんか。

12月3日礼拝説教(詳細)

「眠ても覚めても」   I テサロニケ5:1〜11

きょうだいたち、その時と時期がいつなのかは、あなたがたに書く必要はありません。主の日は、盗人が夜来るように来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「平和だ。安全だ」と言っているときに、ちょうど妊婦に産みの苦しみが訪れるように、突如として滅びが襲って来るのです。決して逃れることはできません。

しかし、きょうだいたち、あなたがたは闇の中にいるのではありません。ですから、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたは皆、光の子、昼の子だからです。私たちは、夜にも闇にも属していません。

ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔います。しかし、私たちは昼に属していますから、信仰と愛の胸当てを着け、救いの希望の兜をかぶり、身を慎んでいましょう。なぜなら、神は、私たちを怒りに遭わせるように定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救いを得るように定められたからです。

主は、私たちのために死んでくださいました。それは、私たちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるためです。ですから、あなたがたは、今そうしているように、互いに励まし合い、互いを造り上げるようにしなさい。

第一アドベントの今日、蝋燭にも点火され、御子の御降誕を祝うクリスマスの近いことが予感されます。と同時に、先週も話した通り、このアドベントにあって、かつて来たり給いし救い主が、再び來りたもう主の再臨を待ち望む礼拝ともしたいと願います。聖書は、I テサロニケ5章1〜11節をお読みします。

この手紙の宛先となるテサロニケ教会は、使徒パウロが第二次宣教旅行の途次に開拓されたマケドニア地方にある教会です。このテサロニケでの宣教活動は困難を極め、パウロはユダヤ人の妨害にあって、早々に退去しなければなりませんでした。テサロニケを後にしたパウロは、ベレア、アテネ、コリントへと転戦するのですが、生まれたばかりのテサロニケが大層案じられたようで、そのため様子を探るため弟子のテモテを派遣しており、そのテモテがやがて帰ってパウロに報告したために、コリントでこの手紙が書かれたようです。3章6節を見るとこう書いてあります。「ところが、今テモテがあなたがたのもとから私たちのところに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、良い知らせをもたらしました。また、あなたがたがいつも私たちのことを良く思っていて、私たちがあなたがたにぜひ会いたいと望んでいるように、あなたがたも私たちにしきりに会いたがっていると伝えてくれました。」弟子のテモテは、この報告の中で、恐らくテサロニケの信徒の抱える問題や疑問についてもパウロに語ったに違いありません。

今日お読みした聖書箇所も、彼らのその疑問に対して書かれたに違いなく、今日の箇所は、実は4章13節からずっと続く流れの中にあり、その疑問とはキリストの再臨に関してなのです。彼らの抱えていた問題とは、パウロが宣教した結果、救われた人々の中に、パウロが街を去った後に何人かが死んでいるのだが、イエス様の再臨は非常に近いと言われているのに、その再臨の前に死んでしまった彼らは、一体どうなるのだろうか、そういう疑問であったのです。その疑問に対しパウロは、4章14節でこう答えました。「イエスが死んで復活されたと、私たちは信じています。それならば、神はまた同じように、イエスにあって眠りに就いた人たちを、イエスと共に導き出してくださいます。」 更にその上で、主の再臨に際して死んだ信徒がどう扱われるかを16節でも語り、「すなわち、合図の号令と、大天使の声と、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降って来られます。すると、キリストにあって死んだ人たちがまず復活し、続いて生き残っている私たちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に出会います。こうして、私たちはいつまでも主と共にいることになります。」と答えているのです。イエス様は再び来られるのです。「然り、私は直ぐに来る」と約束された主は再び、間違いなく来られるのです。そして再び来られる時、信じた信徒達は、その時生きていても、たとい死んでいたとしても、全く問題はないのです。天に同じように引き上げられるからです。

5章10節で「主は、私たちのために死んでくださいました。それは、私たちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるためです。」とパウロが語ったのも、その意味なのです。この「目覚めていても」とは「生きていても」という意味であり、「眠っていても」は「死んでいても」という意味です。イエス・キリストが再び来られる時、私たちはその時、生きていても死んでいたにしても、全く問題がありません。何故かと言えば、肉体的に死んでも生きても私たちは常にイエス様と共に生きているからなのです。今日は、私は説教題を「眠ても覚めても」としました。この題名がこの10節から採ったことはすぐお分かりでしょう。それは、主の再臨を待望する生活、主と共に生きる生活とは具体的にどういうことかが、ここに明らかにされているからなのです。「眠ても覚めても」とは、普通私たちの間では「いつも、常に、絶えず」という意味で使われているフレーズですね。

「眠ても覚めても怖い」とか、「眠ても覚めても仕事のことが頭を離れない」とか「あの時会って以来、あなたのことが眠ても覚めても忘れられない」と言うことがあるでしょう。実は、今日のこお聖書箇所には、主の再臨を待望する生活で、いつも私たちが、常に絶えず心がけるべきことが三つ指摘されているのです。

I. いつも目を覚ましている

その第一は「いつも目を覚ましている」ことです。6節をご覧ください。「ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚ましていましょう。」とあります。目を覚ましているとは、眠っているのと正反対の状態です。

  目を覚ましている実際

この言葉がイエス様により使われたのが、あのゲッセマネの祈りの場面であります。十字架を前にして、ゲッセマネの園で、弟子達から少し離れた場所に移動し、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて祈りの時を過ごされました。マタイ26章36節で、主は三人の弟子たちに「私と共に目を覚ましていなさい。」と命じています。これは、文字通り眠り込まないでいなさい、と言う意味で語られています。しかし、同じ26章41節で、三人が何故か睡魔に襲われ眠りこけているのをご覧になったイエス様が、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」と語られた時には、油断しない、注意深くしていなさい、と言う意味で語られたに違いありません。肉体的に「グーグー」眠り込むことではなく、精神的な注意力を失わないという意味で語られたのです。それが主の再び来られる再臨待望の生活で求められることです。いつも目を覚ましていること、すなわち主の再臨を固く確信し注意深くしていることです。

  目を覚ましている理由

何故、再臨待望において目を覚ましているべきなのか、その理由は、主がいつ来られるのか分からないからです。同じマタイ24章42節で、イエス様が理由を説明し、こう警告されています。「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が来られるのか、あなたがたには分からないからである」 あのテサロニケの信徒達が抱いた疑問もそこにありました。彼らは、イエス様が再臨されると教えられていましたが、イエス様が正確にいつ来られるのかを、知りたいと願ったのです。それに対して、パウロはこう答えているのです。「きょうだいたち、その時と時期がいつなのかは、あなたがたに書く必要はありません。(1節)」テサロニケの信徒達は再臨の時を教えて欲しいと質問しているのに、このパウロの答えはどう言うことでしょうか。この時とはクロノスです。計測できる時間です。時期とはカイロスです。決定的な瞬間のことです。私たちもそうではありませんか。主が来られるなら、あとどれだけ時間がかかるのだろう、あとどれだけ年数がかかるのだろうか、その決定的な年月日がいつなのか、分かったらいいのにと思わないでしょうか。しかしパウロがその時と時期を書く必要もないとしたことは、主イエス様がすでに再臨について教えられた中で、語られたことでした。マタイ24:36には「その日、その時は、誰も知らない。」と主が語られたと言われています。それは神様の主権的な領域なのです。人間が関与し、関知する事柄では無いのです。

先月は私たち夫婦にとっては来客ラッシュの月でした。14日に妻の兄が2泊3日予定で北海道から訪ねて来られ、22日には松任時代の知人が関西方面の旅行途中に立ち寄られ、そして26日にはウイーン時代の友人、M姉が来られ、礼拝に出席されたのです。その三人が三様、誰もが事前に来訪予定をメイルや電話で知らせており、「何月何日に行きます」と連絡がありました。私たちは指定されたその日、その日に再会いたしました。それが人間としての普通の在り方です。そうですよね。しかし、イエス様は人であって神であり、全く次元が違うのです。主がいつおいでになられるのか私たちには分かりません。それは神様の主権的な領域であるからです。

  目を覚ましている危険

それ故に、そこにはいつも危険があるのです。その危険とは注意力が主の再臨以外にそらされてしまうという誘惑です。あるクリスチャンはいつの間にか、無価値なものに注意力が削がれてしまいます。あるクリスチャンは、差し迫る生活上の身近な危険や問題に注意力が削がれてしまいます。あるクリスチャンは、イエス様に認められないようなことまで注意力が削がれてしまいます。私たちは先の予算総会で、2025年6月8日に教会創立60周年記念礼拝をすることを決めました。もうすでに創立して58年が経過したのです。私は8年前にこの教会に赴任しています。そして、創立以来の教会員名簿を見て驚くのです。それは創立以来なんと多くの人々が信仰に導かれたことか、洗礼を受けて信仰告白をされたことか。それと同時に、なんと多くの人々が信仰から外れて去っていったことかと驚くのです。名簿に載せられているあの大勢の信仰者達は、一体どうしてしまったことでしょうか。それは、この教会に限った問題ではありません。私は6つの教会で牧師として奉仕してきましたが、それはどこでも同じ現象です。注意力が主の再臨以外の何かにそらされてしまうからなのです。イエス様が必ず再び来られる再臨を確信し、意識的に注意力をむけ、目を覚まして待望することをしなければ、横道に外れてしまうのです。

II. いつも身を慎む

そればかりではありません。主の再臨を待望する具体的な生活の仕方は、目を覚ましていると共に、いつも身を慎むことです。これは6節で言われ、7節でも勧告されていることです。「ですから、ほかの人々のように眠っていないで、身を慎んでいましょう。」イエス様の再臨に際して、私たちの取るべき正しい態度は、身を慎むことです。

  身を慎む原義

この「慎み深い」とは、一般的には「飲酒を慎む」と言う意味で使われる言葉です。酒で酔っ払わない、酔わずに正気でいる、しらふでいるという意味です。道路交通法では飲酒運転は厳禁とされていますね。飲酒運転には、「酒気帯び運転」「酒酔い運転」の 2 種類があり、「酒気帯び運転」では 3 年以下の懲役または 50万円以下の罰金が、酒酔い運転では 5 年以下の懲役または 100万円以下の罰金が科せられるほか、それぞれに違反点数があり、行政処分として免停や免許取り消しがなされます。何故これほどに厳罰に処するのでしょうか。それは運転中に判断を誤り、とんでもない事故を起こすからです。ここでもパウロは飲酒と関係して語っており、7節に「眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔います。」と語ります。酒に酔うとは、正気を失い、興奮し、夢中にさせられる状態です。健全なお酒の嗜み方まで非難しているのではありません。いつも身を慎むと言うことは、何か不健全なものに熱中し、耽溺しないことです。

  身を慎まない人々

6節で「ほかの人々のように」と言われる人々とは、2〜5節に語られている中に出てくる人々のことです。夜に属し、闇に属している人々です。3節で言われている「平和だ、安全だ」と言っている人々です。自分の生活、周囲、環境を見回して、もし平和だ、安全だと実感できるなら、それに越したことはありませんね。自分で作り出した状況、あるいはみんなで作り出した生活環境を「平和だ、安全だ」と認識できることはいいことではないでしょうか。しかし、実は聖書は、その平和とは、神によらない平和であって、真の現実を知らない人々のことなのです。

最近、ある市販されているグミを食べて、中毒症状を起こす問題がクローズアップされ、社会問題となりましたね。いわゆる「大麻グミ」と呼ばれる製品で、グミには大麻の有害成分「テトラヒドロカンナビノール(THC)」に似た合成化合物「ヘキサヒドロカンナビヘキソール(HHCH)」が含まれ、社長は「気分向上やリラックス効果」などが期待できるとした製品です。不健全なもの、人を熱中させ、興奮させ、判断を誤らせるものは、この世には挙げればキリがありません。先週近くの床屋さんで散髪してきましたが、私を担当した人は62歳だという年配者でした。彼の話しは初めから終わりまでタバコの話だけです。14歳でタバコに手を出し最初は口の中でふかすだけだったが、次第に肺まで吸い込むようになり、やめられなくなったと言っていました。頭の脳だけがタバコを吸うと気持ちいいぞと反応するだけで、体には全く益がないばかりか有害だと医者の説明でよく分かっていると言われ、もう今更やめられない。長生きしたいと思ったが、今は好きなことをしたいだけして死んだらいいと思うと言われるのです。判断を誤らせ、まやかしの平安や安全感を与えるのは酒や麻薬や覚醒剤だけではありません。一見、好ましい、優れていると言われるものでも、同様です。人によっては、その最たるものはテレビかもしれません。スマートフォンかもしれません。インターネットかもしれません。仕事かもしれません。趣味道楽かもしれません。音楽や美術の芸術かもしれません。科学技術の世界かもしれません。多くの人がテレビ漬けです。携帯に取り憑かれています。ネット漬けです。それはアルコールを上回る危険性をはらんでいると言っても過言ではありません。主イエス・キリストが再び来られるという超現実に対して、不健全なものに耽溺すれば、全く無頓着であるからです。

  身を慎む理由

ここ2節で「主の日」と言われるのは、世の終わりに世界に臨もうとしている大患難のことです。旧約聖書にしばしば出てくる主の日とは神の審判の裁きの日のことです。アモス5章18、19節にはこうあります。「災いあれ、主の日を待ち望む者に。主の日があなたがたにとって一体何になるのか。それは闇であって、光ではない。人が獅子の前から逃れても熊に遭い家にたどりついて、手で壁に寄りかかると蛇にかみつかれるようなものだ。確かに、主の日は闇であって、光ではなく暗闇であって、そこに輝きはない。」その究極の災いの日が、世の終わりに臨もうとしていると聖書は警告しているのです。パウロは2節でそれを「主の日は、盗人が夜来るように来る」と言い、3節でそれを「ちょうど妊婦に産みの苦しみが訪れるように、突如として滅びが襲って来るのです。決して逃れることはできません。」と教えています。これはマタイ24章21節に記されている、イエス様が語られた日のことです。

「その時には、世の初めから今までになく、今後もないほどの大きな苦難が来るからである。」と主は言われました。世界の未来は聖書では決して薔薇色ではありません。その日が到来する時、突如として滅びが襲いかかると言われているのです。だからこそ、主を信じた信徒達は、裁きとしての患難の日に巻き込まれないように、身を慎んでいましょうと呼びかけられているのです。

III. いつも励まし合う

その上で、更に、主の再臨待望の生活において求められることは、いつも励まし合うことであります。パウロはこの箇所を11節にこうくくっています。「ですから、あなたがたは今そうしているように、互いに励まし合い、互いを造り上げるようにしなさい。」この言葉は、4章18節でも語られていた勧告です。「ですから、これらの言葉を持って互いに慰め合いなさい。」励ますと慰めるは原語では同じパラカレオーです。

  励まし合う事実

どこに慰め、励ましがあるのでしょうか。世の終わり、終末に世界に臨まんとしていることの意味が全く違うからです。2節に世の終わり滅びをもたらすとされるのは主の日と言われますが、1節の「その時と時期」とは主の日のことではなく、4章15節で言われている「主が来られる時」のことなのです。この「来られる時」とはパルーシアであり、主が出現されること、つまり主の再臨のことです。その有り様が16節でこう語られます。「すなわち、合図の号令と、大天使の声と、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降って来られます。」その時、主にあって死んだ者も生きている者も、雲に包まれて引き上げられ、空中で主に出会う、と約束されているのです。これこそ私たちが空中再臨と呼ぶところのキリストの再臨です。

  励まし合う根拠

パウロは9節に「なぜなら、神は、私たちを怒りに遭わせるように定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救いを得るように定められたからです。」と説明しています。これは何と素晴らしい恵みでしょうか。この日、主が来られる日に、空中に挙げられる人々は、神により救いに定められていると言われるのです。そこには神の決定があるのです。人々はこの世においては何が決定すると考えるでしょうか。ただ現実の世界、目にみえる現実が決定を導き出すと考えます。しかし、そうではありません。最終的な決定は神の決定にあるのです。主イエス様は言われました。「父の許しなしには一羽の雀も地に落ちることはない」マタイ10:29。主は私たちを一羽の雀よりも遥に優っているではないか。その私たちを選び、救われるように定めておられると言われるのです。主の再臨を待望する生活とは、この想像を絶する神の救いの最後的な御業を確信して、相互に励ましつつ生きることなのです。

  励まし合える人

 

しかし、このような信仰の言葉をもって、誰が互いに励まし、慰め合えると言えるでしょうか。それは、主イエスにあって兄弟にされた者同士であるからこそできる生き方です。5章1節でパウロは、テサロニケの信徒に呼びかけ「きょうだいたち」と言います。飛んで4節でも「しかし、きょうだいたち」と呼びかけます。何と数えればこの書簡だけでもパウロは14回も、信徒達に「きょうだいたち」と呼びかけています。イエス様を信じて救われた者は神の家族とされたのです。イエス様を信じて救われた者は、あの主の戒め、兄弟愛の戒め、「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ15:12)を実践して生きる者達です。パウロはこの手紙の中では、一回も自分が使徒であることを語りません。自分の権威を主張していません。生き生きとした励まし、慰めの言葉は、互いに愛し合う兄弟関係のあるところにのみ有効なのです。先週の礼拝に出席されたM姉からメイルでお礼の挨拶が寄せられました。紹介するとこうです。「高木先生、輝先生、主の御名を賛美します。昨夜千葉に戻って参りました。名古屋では、あの頑な兄が、少し私の話に耳を傾けてくれました。感謝です。ウイーンと違い、日本では、クリスチャン姉妹との、交流が少なく沈んでおりましたので、先生の教会の礼拝、高木先生ご夫妻との交流で励まされました。大変お世話になり、ありがとうございました。」M姉は率直に「励まされました」と証言されたのです。どうして励ましが可能にされたのですか。それは私たちが、たとえ普段は離れて暮らしていても、神の家族であり兄弟姉妹だからなのです。どうしてこのような慰めと励ましの可能な兄弟関係に入れられたのでしょうか。それは10節ある通りです。「主は、私たちのために死んでくださいました。」そうです。イエス様が十字架に命を捨て、罪の赦しを私たちに得させてくださったからです。罪赦されて神の子とされたので、私たちは兄弟姉妹とされたのです。これから、私たちは聖餐式を執行しようとしています。十字架にかけられ、復活し、昇天された救主イエス様は、間も無く来られます。この素晴らしい主の再臨待望の原点は、十字架にあります。共に主の体と血に預かることにより、兄弟姉妹の絆を深め、主の来臨に備え、目を覚まし、身を慎んで、主と共に生かしていただくことにしましょう。