9月25日礼拝説教

「惜しまず注ぐ愛」  マルコ14章1〜9節

さて、過越と除酵との祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、策略をもってイエスを捕えたうえ、なんとかして殺そうと計っていた。彼らは、「祭の間はいけない。民衆が騒ぎを起すかも知れない」と言っていた。

イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた。

すると、ある人々が憤って互に言った、「なんのために香油をこんなにむだにするのか。この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。そして女をきびしくとがめた。

するとイエスは言われた、「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。しかし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。

 エルサレムに300万人もの巡礼者が賑わう過越祭の直前、ベタニア村の片隅で、名も無い一女性が、食卓の席におられた主イエスの頭に、ナルドの香油を惜しみなく注ぐと、それを無駄だと決めつける弟子たちとは、裏腹に、主イエスは、これが世界中に語り伝えられると高く評価された。その行為に、今後、福音を信じて救われるキリスト者の模範が、浮き彫りにされている。

主イエスはこの女の行為を良いこと、それは時にかなって美しいとされた。主の公生涯は、直後に控えた十字架の死でまさに終わらんとしていた。女が二度と無い機会を生かしたため、その香油の注ぎは主の埋葬の準備となった。

人には、先送りできない、後回しにできない、この瞬間にあらゆることを放棄してでもやらなければならない決定的な瞬間がある。時にかなって成される人の愛の業は、主の目に美しい。主イエスは、「この人はできるかぎりのことをした」と、この無名の女の行為に、精一杯する美しさをも認められた。

インド産のナルドの香油は、高価で所持する者の家宝であった。女の注いだ香油の香りは、家中に満ち満ち、その後の最後の晩餐でも、大祭司の尋問でも、ピラトの裁判の席でも、十字架を担い進むドロローサの途上でも、十字架上でも香りを放ち続けたに違いない。

手抜きや手加減、中途半端ではなく、それがどんなに些細であっても精一杯成す行為を、主は美しいとされる。とりわけ主イエスは、香油の壺を割って全部を注ぎだした女の行為に、惜しまぬ愛の美しさを認められた。

来客の頭に香油を注ぐ習慣では一滴で十分であった。しかし、無名の女の行為にはイエスに対する惜しみない愛が滲み出ている。それはイエスが誰であるかをこの女が理解した結果であった。

 

私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか。(ローマ832」女の香油注ぎの行為は、惜しみなく与える神への、愛の応答であった。十字架に、神の愛を見させられた私たちの神への応答はどうあるべきだろう。

9月18日礼拝説教

「誰に取り入るか」  マルコ12章38〜44節

イエスはその教の中で言われた、

「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くことや、広場であいさつされることや、また会堂の上席、宴会の上座を好んでいる。また、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう」。

イエスは、さいせん箱にむかってすわり、群衆がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持は、たくさんの金を投げ入れていた。ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ二つを入れた。それは一コドラントに当る。そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、

「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。

 律法学者と貧しい寡婦とは非常に対照的でありますが、両者に共通するのは、誰に取り入ろうとするかです。

律法学者の職業的な立居振舞いのすべては、人の感心を得ることが隠れた動機で、寡婦のそれは神に喜ばれることでした。

主が「律法学者に気をつけなさい。」と弟子たちに諭されたのは、教会に対する警告でもあります。教会での私たちのやることなすことが、無意識的にであっても、人の関心を買おうとするのであれば、それは偽善であり、主の前に意味を成しません。

他方で、神殿の献金箱の向かいに座し、献金する大勢の人々をご覧になっておられた主イエスは、そこに一人の貧しい寡婦を認め、その献金姿勢を高く評価されました。献金は、本来の意図された用い方をする人には、神の祝福を受けとめる恵みの有効な手段の一つです。

寡婦が捧げたのは金持ちの多額の献金に比べ、それは二枚の最小単位の銅貨でした。円の現在の価値に換算すると100円です。そこで、寡婦の献金を「誰よりもたくさん入れた。」と評価された主は、献金が量の多少ではなく献金する人の心の質が肝心であることを示唆されたのです。

寡婦にとっては二枚の銅貨は生活費全部でした。一枚を明日のため手元に残し、一枚だけ献げることもできました。しかし、二枚全部を献げた寡婦には計算、打算ではなく神への信頼だけがありました。

主イエスは山上の垂訓で、「空の鳥を見なさい。」「野に咲く花を見なさい。」と思い煩いを戒め、鳥を養い草花を飾られる天の父なる神様に信頼することを勧告されました。寡婦は明日のことを心配せず、神に全幅の信頼を寄せていたに違いありません。

米ドルの1セント硬貨には「In God We Trust(我々は神に信頼する)が印字されています。私たちが献金するのは神への信頼表明です。更に主が寡婦の献金を高く評価したのは、寡婦の「生活費全部」を献げた姿勢に神への献身を認めたためです。生活費の原語ビオスは、生命を意味します。それ故に寡婦の献金には、すべてを自分に与えておられる神に、自分の全存在を献げる献身の意志が込められていたのです。

9月11日礼拝説教

「神の愛の痛み」  ホセア11章1〜9節

まだ幼かったイスラエルを私は愛した。私はエジプトから私の子を呼び出した。しかし、私が彼らを呼んだのに、彼らは私から去って行き、バアルにいけにえを献げ偶像に香をたいた。

エフライムの腕を支え歩くことを教えたのは私だ。しかし、私に癒やされたことに、彼らは気付かなかった。私は人を結ぶ綱、愛の絆で彼らを導き、彼らの顎から軛を外す者のようになり、身をかがめて食べ物を与えた。

彼がエジプトの地に帰ることはなくアッシリアが彼の王となる。彼らが立ち帰ることを拒んだからだ。剣は町で荒れ狂い、大言壮語する者を絶ち、彼らのたくらみを挫く。わが民はかたくなに私に背いている。彼らがいと高き者に向かって叫んでも決して届かない。

エフライムよどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよどうしてあなたを明け渡すことができようか。どうしてアドマのようにあなたを引き渡しツェボイムのように扱うことができようか。私の心は激しく揺さぶられ、憐れみで胸が熱くなる。

私はもはや怒りを燃やさず、再びエフライムを滅ぼすことはない。私は神であって、人ではない。あなたのただ中にあって聖なる者。怒りをもって臨むことはない。

 痛みとは、身体や心に疼痛や苦しみを感じるさまです。

聖書は、人の痛みを『人の心は病苦をも忍ぶ、しかし心の痛むときは、だれがそれに耐えようか。』と問います。その痛む者に、『すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。』と主イエスは招かれました。招きに応え痛みが癒されることは幸いです。

人の痛みもさることながら、ホセア書11章には神の痛みに私たちの目が開かれます。ホセアは、自分の家庭生活に重ね合わせて、神の民にメッセージを語らされたユニークな預言者でした。

ホセア書1〜3章には、主と民が夫婦関係に喩えられ、11章では親子関係に喩えられ、そこには民に対する主なる神の愛の痛みが滲み出ています。『まだ幼かったイスラエルを私は愛した。私はエジプトから私の子を呼び出した。』と、神は民を私の子と呼び、親が我が子を手塩にかけ養い育てるように、手厚く取り扱われました。しかしながら、バアル偶像礼拝に走り、堕落し、滅亡に定められる民に対し、神は断腸の思いで『私の心は激しく揺さぶられ、憐れみで胸が熱くなる。』と語られました。エレミヤ31章20節には、同じ心境が「我がはらわた彼のために痛む」と述べられ、それにより神の愛の痛みであることが分かります。

神の本質的性質は完全な義であると同時に完全な善です。義は不義を罰し、善は人を愛します。唯一の主なる神の内にある義と愛とは相矛盾し、その裁く義と愛する善の葛藤が神の痛みです。

私たちは、罪により堕落した人類に対する神の義と善が、イエス・キリストの十字架により啓示されたことを福音により知らされます。キリストの十字架上の受難の姿は、本来裁かれるべき私自身の姿です。キリストは私に代わって神の義の怒りを引き受けられました。それによって信じる私の罪が赦される道が開けました。それは神の愛の痛みのなせる業です。

その神の愛の痛みに預かる者に最高の道が開かれています。それがコリント上13章の人のため痛みとなるまで愛する愛に生きる道なのです。

9月4日礼拝説教

「神の働きの現れ」  ヨハネ9章1〜7節

イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。

弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。

イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。わたしは、この世にいる間は、世の光である」。

イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた、「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」。

そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。

 神殿の門の盲人の乞食を見て、弟子達は『この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか』と因果応報的に問う。しかし、主イエスは因果を問題にせず、「神の業がこの人に現れるためである」と、むしろ目標を指摘された。

先天性の盲人は、この世の不幸を代表し、また誰も否定できないこの世の悪の存在を示している。この世には、地震、津波、疫病等の自然災害、また、盗難、無差別殺人、不倫等の人の犯罪による道徳悪が氾濫し、それに加え聖書には、悪魔、サタンによる霊的悪さえ指摘されている。

これらの自然悪、道徳悪、霊的悪を目撃し、自ら苦しむ無神論者は、「だから神などいるはずがない」と結論する。皮肉なことに不幸な盲人は、神を礼拝する神殿の門で乞食をしていた。

聖書は、万物一切を創造された神が善であり全能であると教える。完全に良いお方が、全能であられるのに、その創造された世界に何故悪があるのか、それを矛盾として疑問視するキリスト者の中には、「神がいるなら、なぜこの世に悪があるのか」と信仰を放棄してしまう。

しかし、「神の業がこの人に現れるためである」と弟子の問いに答えられた主の言葉は、今現に、全能であり善なる神が存在されるばかりか、生きて働いておられることを明言している。

主はベテスダの池の奇跡で『私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。』と証言なされた。そして、この生まれながらの盲人の目を続いて癒された主イエスの行為は、善で全能の神が人となり限りなく人類に近接され、現実に働かれたことを実証する。キリストは人となられた神なのである。

更に4節で語られたお言葉、「私たちは、私をお遣わしになった方の業を、昼の間に行なわねばならない。」によれば、神は人を通し、人と共に働かれることが明らかにされる。神は「あらゆる生き物を治めよ」と創造された人間を祝福し、我々人間に被造物の管理を委任なされた。「私たち」とは主と弟子を意味している。

ここに我々は悪に苦しむ世に神の同労者として立たされている自覚が求められている。