2019年6月礼拝説教

6月30日礼拝説教

       「はっきり見える」   マルコ8章21〜26節 

 

 

8:21そこでイエスは彼らに言われた、「まだ悟らないのか」。

8:22そのうちに、彼らはベツサイダに着いた。
すると人々が、ひとりの盲人を連れてきて、さわってやっていただきたいとお願いした。
8:23イエスはこの盲人の手をとって、村の外に連れ出し、
その両方の目につばきをつけ、両手を彼に当てて、「何か見えるか」と尋ねられた。
8:24すると彼は顔を上げて言った、
「人が見えます。木のように見えます。歩いているようです」。
8:25それから、イエスが再び目の上に両手を当てられると、
盲人は見つめているうちに、なおってきて、すべてのものがはっきりと見えだした。
8:26そこでイエスは、「村にはいってはいけない」と言って、彼を家に帰された。

 

主イエスによる無数の奇跡の中でも、ベツサイダの盲人の癒しは特異なケースです。

盲人を村の郊外に連れ出し癒されたこと、盲人の目に唾を塗り癒されたこと、取り分け段階的に癒されたことが目立ちます。

1回目の按手で盲人は見えましたが漠然としていたようです。

主イエスが両手を再び目に置かれると、彼は全てがはっきり見えたのでした。

この盲人の開眼自体が驚異ですが、この出来事の前後と無関係ではなく、実はこの段階的な開眼の恵みによって、弟子たちの霊的視力の段階的開眼の必要性が指し示されたのです。

これに先立ち主イエスは4千人を7つのパンで養われましたが、ベツサイダに向かった船中で、「まだ悟らないのか」と弟子たちの理解の不足を指摘されました。

彼らは残った7籠のパンを置き忘れてきたため、船中で食料不足を嘆いていたのです。

彼らは主イエスの大いなる御業を見たにもかかわらず肝心な真理を会得し損なっていました。

主イエスが共におられるなら何も心配することはなかったのです。

ここに私たちにも共通するメッセージがあります。

見ているものの意味を真に理解するために、主イエスに二度も三度も触れていただき心の目が開かれ、はっきりと見えるようになる必要があるということです。

この出来事の後、彼らはカイザリヤに伴われ、主イエスに「あなたこそキリストです」という大切な決定的信仰告白に導かれました。

にもかかわらず、主イエスが救い主としての受難を予告されるや、ペテロは無理解を露呈し、主イエスを脇に引き寄せ諌める失態を演じてしまいます。

人の目は開かれて見ているようでいて、理解できていない、悟っていない、本当の意味で合点しないことが、大きな問題です。

エペソ5:16、17に『今は悪い時代なのである。だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい』と勧められます。

文明が開花した情報化時代にもかかわらず、現代人は霊的には盲目なのです。

あの盲人が再度触れていただく必要があったように、全てをはっきり見えるよう触れていただきましょう。

6月23日礼拝説教     

     「神に対して富む」   ルカ12章13〜21節

12:13群衆の中のひとりがイエスに言った

「先生、わたしの兄弟に、遺産を分けてくれるようにおっしゃってください」。

12:14彼に言われた「人よ、だれがわたしをあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか」。

12:15それから人々にむかって言われた

あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。

12:16そこで一つの譬を語られた、

「ある金持の畑が豊作であった。

12:17そこで彼は心の中で『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして

12:18言った、こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう

12:19そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。

12:20すると神が彼に言われた、

『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。

12:21自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。 

 群衆の一人が兄弟との遺産相続調停を願うと、主イエスはそれを断るや、

たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである』と貪欲を戒められました。

そこで語られた金持ちの農夫の譬は、その戒めの真意を明らかにするもので、最後に『自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである』と締めくくられました。

人が生きる上で経済活動は必要不可欠ですが、神に対して富む基本姿勢が欠けるならば、それは致命的に愚かなのです。

神に対して富むとは、どのような経済活動であってもその全てに神を意識し、神の見ておられる前ですることです。

金持ちの農夫に欠落していたのはこの基本態度でした。

大豊作に気を良くした自問自答には、「私は」「私の」が10回も繰り返され、いかに自己中心的、利己的であるかがよく表れています。

箴言3:5には『心を尽くして主に信頼せよ』と勧告され、その結果として経済的に豊かであることの幸いが強調されています。

神に対して富むとは、持ち物の所有に関しての健全であることが前提となります。

財産が自分のものであり、自分のためにのみ使用することに、農夫は何らの疑問も抱きません。

それゆえに彼は致命的に愚かなのです。

全ては神から出て神の所有なのであり、人間には何であれその全ては神から貸与されているのであって、誰も自己名義で本当に所有することなどあり得ないのです。

自分に委ねられた財を神の望まれる仕方で神のために管理運用するときに、人は神に対して富む者なのです。

あの使徒パウロがピリピ書で『わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている』と告白するのを聴くときには、

さらに永遠の真の富とは神を知る知識であることにも気づかされます。

私たちが恵みにより主イエスを受け入れ永遠の命を賜物として与えられたとき、その賜物こそ神を知る知識に他なりません。

主の前に経済的に富むと共に、永遠に朽ちない神を知る知識を得て霊的に神に対して富む者とされたいものです。

6月16日礼拝説教 

      「起これば分かる」     ルカによる福音書 17章20~37節

17:20神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、

「神の国は、見られるかたちで来るものではない。

17:21また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。

神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。

17:22それから弟子たちに言われた、
「あなたがたは、人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時が来るであろう。
17:23人々はあなたがたに、『見よ、あそこに』『見よ、ここに』と言うだろう。
しかし、そちらへ行くな、彼らのあとを追うな。
17:24いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。
17:25しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。
17:26そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう。
17:27ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。
17:28ロトの時にも同じようなことが起った。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、
17:29ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。
17:30人の子が現れる日も、ちょうどそれと同様であろう。
17:31その日には、屋上にいる者は、自分の持ち物が家の中にあっても、取りにおりるな。
畑にいる者も同じように、あとへもどるな。
17:32ロトの妻のことを思い出しなさい。
17:33自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである。
17:34あなたがたに言っておく。その夜、ふたりの男が一つ寝床にいるならば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう。
17:35ふたりの女が一緒にうすをひいているならば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう。
〔 17:36ふたりの男が畑におれば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう〕」。
17:37弟子たちは「主よ、それはどこであるのですか」と尋ねた。するとイエスは言われた、
「死体のある所には、またはげたかが集まるものである」。  

 使徒ペテロはヘロデ王により投獄され、明日にも斬首刑に処せられるところでしたが、

不思議と天使により真夜中に救出されたと使徒行伝12章は記録します。

ペテロはその時、自分の身に起こったことが現実のこととは考えられず、ただ幻を見ていると思われました。

現実とは事実としてあることです。ペテロの体験した天使による救出は夢幻では無く確かな現実でした。

聖書はこの現実を神の国と言います。

ペテロの現実は指導者ヤコブが斬首され、自分も処刑されるところでしたが、その只中に神が介入なされたのです。

ルカ1720節によれば、パリサイ人が神の国について質問すると、主イエスは

神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ』と答えられ、

主イエスが到来して以来、神の国がすでに実現成就していると明示されました。

主イエスの最初の使信が「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」であったことからも明らかです。

その意味で「今は恵みの時、今は救の日」であり、それゆえに神の恵みにより、私たちは信仰により救われているのです。

しかしながら、神の国のもう一つの一面の真理は、

完全な神の支配の現実は、主イエスが再び到来される日を待たねばならないということです。

神の救い主の約束は、神の御子イエスの誕生により成就し、なおかつ再臨により完成されるのです。

主は『しかり、わたしはすぐに来る』と約束され、私たちは『アァメン、主イエスよ、きたりませ。』と祈り待望するのです。

主は「すぐに」と言われましたが、すでに2000年以上が経過しています。

だからと言って約束が反故にされたのでは決してありません。

その到来は神の主権によって時が定められており、誰も人はそれを予測することも知ることもできません。

その日、その時は、だれも知らない。」のです。主はその日が雷光のように瞬時に到来すると言われます。

それゆえに、この世の日常茶飯にうつつを抜かし埋没しないように注意していなければなりません。

ノアの洪水の時、ロトの時代に似た状況が予測されているのですから。

6月9日礼拝説教

      「豊かな注ぎの油」     テトス3章1〜7節

3:1あなたは彼らに勧めて、支配者、権威ある者に服し、これに従い、いつでも良いわざをする用意があり、

3:2だれをもそしらず、争わず、寛容であって、

すべての人に対してどこまでも柔和な態度を示すべきことを、思い出させなさい。

3:3わたしたちも以前には、無分別で、不従順な、迷っていた者であって、

さまざまの情欲と快楽との奴隷になり、悪意とねたみとで日を過ごし、

人に憎まれ、互に憎み合っていた。

3:4ところが、わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき、

3:5わたしたちの行った義のわざによってではなく、

ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。

3:6この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。

3:7これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、

永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。

 イスラエルで収穫感謝祭であった五旬節の祝いの日に、

神の約束された聖霊が奇しくも120名の祈り待望する聖徒らに降りました。

教会はこの聖霊降臨により発足しました。

その降臨の意義を、テトス3章5節は、「聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。」と、

主イエスを信じた者の救いの更新の恵みとして明らかにしています。

この手紙の著者パウロは、3〜7節部分を当時の洗礼式の信仰告白文から引用したようです。

その告白文には救いの教理として、その必要、根拠、内容、手段、目標が凝縮されております。

3節では、私たちの救われる以前のおぞましい実態が列挙されます。

その救いの根拠は神の博愛の顕現であったと4節は明記し、それこそ、神の御子イエスの誕生と十字架、そして復活なのです。

そして5節は、その救いを私たちに充当された方こそ聖霊であると明かすものです。

私たちの救いは三位の神、父、御子、聖霊が一体となって働きかけてくださった結果でした。

聖霊によって人は新生させていただきます。霊的に誕生し神の子とされます。

受洗者が水に浸され洗礼を受けるのは、生まれた赤児が沐浴することにちなんだ象徴的儀礼なのです。

それまでの顔かたち外観も全く同じであるにもかかわらず、人は質的に全く新しくされます。

クレタ島で牧師を勤めたテトスに宛てて使徒パウロは、島民が評判の芳しくない「嘘つき」だと1章で酷評します。

それがここに主イエスを受け入れるときに人がどれほど質的に変えられるかを、鮮やかに描いているのです。

クレタ島民に限らず、神の目には全ての人の罪深さは恐ろしいばかりなのであり、

神の慈愛とキリストの罪の赦し、そして聖霊の更新、刷新のわざが無くては、

人間の行く末は「人に憎まれ、互いに憎み合って」絶望的であったのです。

最近もテレビで紹介された鈴木啓之牧師も、かつてはヤクザでありましたが、神の慈愛により救われた生き証人です。

8節で、「努めて良いわざを励むことを心がけるようになるため」との勧告を受けとめ、些細な善であっても実践に励みたいものです。

6月2日礼拝説教

        「互に交わる秘義」    ヨハネの第一の手紙 1章1〜10節

1:1初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、

よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について――

1:2このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。

この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである――

1:3すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。

それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。

わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。

1:4これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。

1:5わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。
神は光であって、神には少しの暗いところもない。
1:6神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、
わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。
1:7しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、
わたしたちは互に交わりをもち、
そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。
1:8もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
1:9もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、
神は真実で正しいかたであるから、
その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。
1:10もし、罪を犯したことがないと言うなら、
それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。 
  ヨハネの第一の手紙  1章1〜10節 

 ヨハネの書から分かることは、「いのちの言」である主イエスを受け入れた者が「交わり」に与るや、

その結果として喜びに満ち溢れることです。

交わりは付き合いや交際の意味で、社会的な人間の関係を表現する言葉です。

家庭や学校、職場で、あるいは気心知れた同好仲間うちで人は交わります。

ところが聖書が明らかにし、また礼拝の使徒信条に告白される交わりは特別なものです。

これを私たちは『聖徒の交わり』と呼びます。

ハイデルベルグ信仰問答は適切にも、

第一に、信徒は誰であれ、群れの一部として、主キリストとこの方のあらゆる富と賜物にあずかっている、ということ。

第二に、各自は自分の賜物を、他の部分の益と救いとのために、自発的に喜んで用いる責任があることをわきまえなければならない、ということです。」と解説しています。

これはヨハネが『わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。』と説いたことを受けた解釈です。

救われる以前の神不在の人生が、いかに空しいものであったか、それは救いに与ったキリスト者が全て認めるところでしょう。

恵みにより主イエスとの交わりに入れられると、私たちはキリストのうちに隠された知恵と知識との宝の発見へと導かれます。

洗礼により教会に加えられ、神を共に賛美礼拝し、聖書の解き明かしと祈祷によって、主イエスとの交わりが深められることにより、私たちの心は喜びが満ち溢れるのです。

更に、その聖徒の交わりの積極的側面は、受けた恵みと賜物を他の人に分かち与えることです。

あの聖霊が降臨したペンテコステの日に、直ちに聖徒の交わりが実行されていたことを、

私たちは使徒行伝2章42節に「そして一同はひたすら、、、信徒の交わりをなし、、、」と確認することができます。

奇跡としるしと共に「いっさいの物を共有にし」必要な人々に分け与える交わりの行為が、強制されずに恵のうちに実行されました。

この時代に私たちの共同性を脅かす事件が頻発するとき、教会からこの聖徒の交わりが実行されることが期待されます。