9月29日礼拝説教

  「真実正直に語る」  出エジプト20章16節 

20:16あなたは隣人について、偽証してはならない。

 第九戒は直訳すると「あなたは偽りの証人として、あなたの隣人に対して不利な答えをしてはならない」です。

証人とは法廷用語であり、誰かの目撃者、現場に立ち会った人です。その証言によって人の命運が決せられてしまう重い努めです。

かつて奴隷としてパロの役人ポテパルに売られたヨセフは、主人の妻に言い寄られた際に、誠実にそれを拒絶し、無実なのに主人に真相を明らかにされずに彼は無残に投獄されています。

奴隷には裁判は無用でした。エジプトの奴隷から解放された民にこの戒めが語られたこと、それは彼等に公正な裁判権が回復された事を意味します。

出エジプト23:1〜8、申命記19:15、16には裁判の詳細が規定され、真実が求められました。

偽証ではなく真実に証言が求められる隣人とは、ただ単に隣に位置する人ではありません。

「私の隣人とは誰か」とは、あのよく知られた「良きサマリヤ人」(ルカ10章)のテーマです。

主イエスは、律法学者のこの質問に喩えを語り、逆に彼に「誰が強盗に襲われた人の隣人になったのか」と再考を促します。自分から隣人になることが肝要なのです。

教会においても同席する隣が隣人ではありません、意識して自分から隣人になる、その人の陰口、悪口、噂話、ゴシップで名誉を傷つけないことです。

完璧な人はいません。しかし、イエスを主と信じ、救いを喜ぶ人を主にある視線で目撃するべきです。隣人の欠点を悲しみ包み込むことです。

その人の良い評判を受けるに早く、悪い評判を認めるのに遅くすることです。

その隣人はまた意外にも近い所にいます。それは自分自身です。

ローマ2:15によれば、人の内面は検事、弁護士、証人の立つ法廷です。良心は神が人の心に置かれた証人です。誰が見ていなくても良心は見て知っている。その結果、自分に失望し惨めにされます。

しかし、信仰に立ち、新しい視点で自分自身を証言するべきです。

キリストにあるなら赦された罪人だからです。そのために犠牲を十字架に払われた神の愛に感謝しましょう。

その時、あなたはキリストの証人ともされるのです。

9月22日礼拝説教 

  「汝、盗むなかれ」   出エジプト20章15節

20:15あなたは盗んではならない。 

『あなたは盗んではならない』と主は第八戒として語られます。いかなる形であれ盗まれた人は苦く辛い思いをさせられます。法治国家であれば卑劣な厳禁行為です。人は他人の所有権を侵害することは許されません。聖書は、神が人間に働くことを定め、その労働の果実を所有することを創造の秩序とされたことを教えます。(創2:15,16)人は働きの成果を祝福として所有することが許されているのです。自分で働くことをせずに他人の働きの果実を自分のものとする行為は、人に対するのみか神に対する犯罪行為なのです。空き巣、強盗、恐喝、無賃乗車、カンニング、横領、その他どんな形態であっても盗みは不当行為です。この第八戒で使われた「盗む」が21:16で「人をかどわかした者は」と誘拐する行為に訳されていることから、第八戒は他人の物を盗むことを含め、実は他人を盗む罪を指摘するものです。ヤコブの12人の末息子のヨセフが、兄達の妬みにより奴隷商人に売却され、エジプトで惨めな境遇に陥った時に語ったセリフに、「わたしは、実はヘブルびとの地からさらわれてきた者です(創40:15)」があります。ヨセフは兄達に盗まれたと言うのです。誘拐する、人身売買する、それはその人の自由を侵害する卑劣な行為です。「人を盗む」行為は、本来自由であるべき人間の「行動の自由」を奪うことです。自由の権利は財産権よりも根本的な権利です。自由を奪うような関係は人が人を支配する関係です。国が他国を支配する植民地政策は自由を奪う残酷な盗み搾取の行為でした。欧米のみか日本も犯した卑劣な過ちです。学校でのイジメ、家庭での虐待、会社でのパワハラ、過労死などもその典型です。人はそのような支配関係を、神との正しい関係を失った結果、自分でも意識しないうちに作り出してしまうのです。では人の物を盗まない、人を支配していないから、それでいいのでしょうか。第八戒はむしろ誠実に働き、困窮の中にある貧しい人々を積極的に援助することを私たちの指針とします。それは罪の奴隷から解放された者の新しい生き方なのです。(エペソ4:28

9月15日礼拝説教

   「こんな時だから」  出エジプト20章14節

20:14あなたは姦淫してはならない。

第七戒の『姦淫してはならない』を数千年後に生きる人はどう受止めるべきでしょうか。姦淫とは既婚の男女が配偶者以外の異性と交わる行為です。ペテロは聖霊降臨の日にこの曲った時代から救われよ」と勧告しました。これは第七戒の視点からすると、たちの生きる時代が結婚と性の理解において極度に歪んでいることを意味します。人間を男と女に創造された神は、夫婦を一体とする結婚を聖定され、性の営みは夫と妻の統合の象徴です。ところが神の賜物を捻じ曲げ誤って使用することにより性モラルの乱れが蔓延し、商品化されたセックスは性的欲望のはけ口でしかないのです。アムノンはアブサロムの妹のタマルに恋して騙して犯した後に、彼の彼女に対する感情が憎しみに激変しました(サムエル下13:15)刹那的な享楽の後には虚脱あるのみです。ところが「曲がった時代」であると同時に現代は「恵みの時代」です。パウロは「見よ、今は恵みの時」と喝破しました。神の御子イエス様の到来により新しい時代を私たちは迎えたのです。十字架の死と復活により、ただ信じる者の罪が赦される。モーセの時代の民が奴隷の家から導き出されたように、これは第二の出エジプトであり、これこそ神の恵みに他なりません。姦淫の現場で捕らえられた女が石打ちの刑で処罰されようとする時、主イエス様は「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と処刑しようとする人々を諌め、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」と女を赦し生かされました。私たちはこの恵みの時代にあることを感謝しましょう。ペテロは聖霊降臨の日にヨエルの預言「終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう」を引用し、この時代が終末の時代であることを開示しました。その大いなる特徴は助け主である聖霊が注がれていることです。第七戒は性の誘惑にさらされる現代では、聖霊の助け無しには全うできません。「男子は婦人に触れないがよい」に始まるコリント上7章が聖霊による有効なガイドとなるでしょう。

9月8日礼拝説教

    「汝、殺すなかれ」  出エジプト記20章13節

20:13あなたは殺してはならない。 

 京都アニメーション放火殺人は記憶に新しい痛ましい事件です。

殺人といっても戦争、死刑、正当防衛、堕胎、自殺、安楽死、人が人を殺害することは簡単に一括できない行為です。

旧約には17種類の「殺す」用語があり、中でも第六戒の用語は個人的な殺害に向けられたものです。

殺人の犯罪であることは万国の法律が明記するもので、日本では199条に死刑に相当する重罪であるとされます。ところが何故か、殺人の犯罪である理由説明はありません。

一般的に「人を殺してはいけないと考える人が多数派だから」とか言われても決定的ではないのです。

聖書はその確固たる理由を創世記9章6節に「神が自分のかたちに人を造られたゆえにと明記します。

人間はその知性においても道徳性においても宗教性においても神の似姿として創造されているために、その人を殺害することは、神の創造の秩序を破壊する行為なのです。

ところが聖書は、カインによる弟アベル殺害に始まり、ダビデ王の姦淫もみ消しのためのウリヤ殺害、アハブ王のナボテ殺害等を多数記録し、人類の歴史が血に染まってきたことを指摘しています。

では、人を直接に殺害していないと自認する者には無縁な戒めなのでしょうか?主イエスは直接殺害よりも恐ろしいことがあると、マタイ5章で「心の殺人」を指摘されました。

相手に怒ること、知能的に愚か者と侮辱すること、神なき無信仰な者として馬鹿者呼ばわりすることが、殺人の源泉に他ならないと指摘されます。それは神の似姿である人間の存在を否定し抹殺する心の殺人なのです。誰もこの点で無罪を主張できる人はいません。

このような罪深い私たちのために赦しを得させるために主イエスは十字架に死に給いました。

主イエスが厳しく指摘された目的は、人が互いに和解し平和のうちに生きるためです。

使徒パウロが「怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。(エペ4:26)と勧告するように、相手を生かし共に和して生きるために怒りに対処する努力が必要なのです。

9月1日礼拝説教

      「父と母を敬う」   出エジプト20章12節

 20:12あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。 

「親孝行、したいときに親はなし」と諺に知られるよう親孝行は人情の常で、洋の東西問わず好ましい倫理道徳です。

しかしながら第五戒の「あなたの父と母を敬え」は一般倫理ではありません。十戒の印刻された二枚の石板は、神と人に関する戒めを象徴します。

その十戒の中央に置かれたこの戒めは神と人を繋ぐものです。

出エジプトを経験した両親の責任は、その子らに恵の主を教えること、子らの責任は父母に命を授けられた生命の神を信じることです。

親は子供を選択できず、子供もまた親を選ぶことはできません。命は神が父母により子に授けられるものなのです。それゆえにこの第五戒は、神と人を繋ぐ意図が込められたのです。

後半は人に関する戒めで隣人愛が求められるものです。しかし、第五戒は「父と母を愛せよ」ではなく「父と母を敬え」と戒められていることは、父母がその子らには隣人でないことを意味します。

両親とは神の権威を代表する代理者であることを示すものなのです。子らは親を敬うことにより神の権威を認め服従することが求められているのです。

「敬え」は原語で本来は「重い」を意味し、そこから「重くする」「尊敬する」と訳されてきた言葉です。

父や母は歳が進み老齢化するにつれ、社会的にも肉体的にも軽くなります。ともすればお役御免の無用者扱いされがちです。

だからこそ敢えて「あなたの父と母を敬え」と第五戒は両親を重んじることを私たちに戒めるのです。

この父母は条件付きではなく、不完全であり、場合によっては愛想が尽きるほどの無責任な両親であるかもしれません。

にも関わらずこの戒めは無条件に父母を重んじるよう戒めます。その意味で神への敬虔な信仰抜きには到底この戒めを全うできません。

それゆえにパウロは後に『子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。(エペ6:1)』と教えたのでしょう。

勿論、親の不当な要求に黙従することではありません。

その根本的な親に対する態度に尊敬の念が求められることです。その時、祝福の約束が成就します。単なる長寿ではなく、神を知り神の支配に生きる祝福です。