5月29日礼拝説教(詳細)

至上命令の起動」  マルコ16章14〜20節

その後、イエスは十一弟子が食卓についているところに現れ、彼らの不信仰と、心のかたくななことをお責めになった。彼らは、よみがえられたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。

そして彼らに言われた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。

信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。

主イエスは彼らに語り終ってから、天にあげられ、神の右にすわられた。弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった。〕

 御名を賛美します。今日の箇所を読み準備していて突然、私は一台の車を思い出しました。19日の木曜のこと、祈りの歩行で市内の土丸町を歩いていたところ、マッチ箱のような小さな車が家の脇に駐車してありました。よく見れば、それはホンダ360で、何と50年以上も前に販売されたクラシックカーだったのです。では何故思い出したのかといえば、それはその車に、初代の最初の教会が重なって見えたからです。

最初の教会とは12人の弟子と言えるでしょう。その弟子たちの最初の有様を、聖書は生き生きと、三回も彼らが、復活の主イエスに出会った人々の証言を全く「信じなかった」「信じなかった」「信じなかった」、そして「泣き悲しんでいる」と描写しているからなのです。その描かれた彼らの有様が私には、錆びついて動かないホンダ360に重なって見えたというわけです。

ところが、彼らのイメージが、最後の19、20節により、一新されてしまうのですね。『主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右に座られた。弟子たちは出て行って、至るところで福音を宣べ伝えた。主も弟子たちと共に働き、彼らの語る言葉にしるしを伴わせることによって、その言葉を確かなものとされた。

今日は、三つの角度からこの箇所より、一緒に見ていきましょう。

1)教会の起動

 その第1点とは、教会が起動されたということです。どんな車であっても車自体で何もすることができません。運転者が、ギヤーを入れ起動して初めて役立つものですね。教会の起動者は誰かといえば、イエス・キリストです。主イエスが弟子たちを信仰告白に導いたときのことでした。使徒ペテロが「あなたこそ、生ける神の子キリストです。」と告白しました。すると、主は彼に言われたのです。「私はこの岩の上に私の教会を建てよう。」と。主イエスが教会の創設者であり起動者です。この教会を起動し運転する方は、何処におられるかと問われれば、それは天上なのです。19節にこうあります、「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右に座られた」 今日、この聖書箇所が開かれているのは、実は、教会暦により、主の復活記念日より第6週目、今日が昇天記念日であるからなのです。

神の子イエスは、処女マリヤによる降誕で人間になられました。

主イエスは、十字架に罪の身代わりの犠牲で処刑され埋葬されました。しかし、

主イエスは、神の大能の力で三日目に甦らされ復活されました。そして、

40日後に主イエスは、オリブ山から弟子たちの見ている前で雲に包まれ昇天なされたのです。

ここで、昇天されたイエスがどういうお方か見ておきましょう。

①高く挙げられたキリスト

 第一に主イエスは、高く挙げられた方です。イエスご自身が「わたしは、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く(2017)」と言われました。それは、ご自分の意志と権利で、父の臨在に入って行くことを語られたのです。またイエスは、「栄光のうちに天に上げられた(テモ上316)」と言われています。それは、キリストの死に至るまでの従順に対する報いとして、父なる神が彼を高く挙げられた行為を強調しているのです。キリストは昇天された瞬間、神の栄光がイエスの周りに輝きました。そして、キリストは天におられたのです。主イエスは、受肉以前に、父と共に持っておられた栄光の中に入られたのです。

②主権のキリスト

 第二にイエスは主権あるお方です。主イエスは、全被造物のかしらとして天上に挙げられたのです。復活なされたイエスは、それを予知して宣言してこう言われました。「私は天と地の一切の権能を授かっている(マタイ2818)」と。それは、目に見えない世界においても、人間の世界においても、一切の権威はキリストの統御の下にあるということを意味します。これは、非常に困難な世界情勢の中に生きる私たちにとって、計り知れない慰めと勇気づけではないでしょうか。歴史を動かし歴史の形成者は、主イエス・キリストなのです。

③先駆のキリスト

 昇天のイエスは、第三に私たちに道を備える先駆者でもあります。キリストは、私たちが、主イエスに従って来るための道を備えるために、先駆者として昇天なされたのです。主は約束してこう語られました。「私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。(ヨハネ142)」それゆえに、主は言われるのです、「心を騒がせてはならない。神を信じ、また、私を信じなさい。(141)」と。将来のこと、未来のこと、何も心配することはないのです。天に主イエスが住まいを用意するため、先駆者として昇天されているからです。

④祭司のキリスト

 昇天されたイエスはさらに、私たちのために執り成す祭司として天におられます。

ローマ834にパウロが明言します。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」祭司としての執り成しは昇天されたキリストの重要な働きです。キリストは、自分が守っている人の利益のために、弁護するため取り扱う全てのケースを完結するまで導くことのできる祭司なのです。この世が存続する限り、イエスの執り成しの働きは停止することは決してありません。

⑤偏在のキリスト

 昇天のキリストの最後は、非常に慰めに満ちたものです。イエスは天に昇天されたが、偏在される方であるということです。地上にある限り、主イエスは一つの場所に限定されていました。だが、天に昇られてからは、あらゆる場所に、あらゆる弟子たちに対して、神として力を行き渡らせることができるのです。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる(マタイ2818)」と主イエスは言われました。また「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。(マタイ1820)」とも約束されました。イエスの御名はインマヌエルです。「神我らと共におられる」それがその名の意味するところです。その御名の効力は、昇天によって変わることがありません。こうして、教会は、昇天されたキリストが、起動ボタンを押されることによって、歴史的に動き出したのです。

Ⅱ)宣教の始動

 では、どこでその起動ボタンが押されたでしょうか。それが15節なのです。

  宣教の福音

主は弟子たちにこう語られました。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」これこそ、教会に対する至上命令です。教会がこの世から呼び出されたのは、この命令を遂行するためでした。この教会では、受洗を希望される方の洗礼準備の学びのテキストには、教会の存在目的が5つ挙げられています。それは、礼拝、宣教、奉仕、交わり、教育訓練です。これらどれ一つとしておろそかにできないものです。だが、その中でも教会が宣教をしなくなったら、全く存在価値を失ってしまいます。それは致命的な欠陥です。最初の教会、最初の12使徒たちは、主イエスの十字架の死を泣き悲しみ、主イエスの復活を「信じない」教会でした。だが、彼らはキリストによって力強く起動され動き出したのです。19、20節をご覧ください。「弟子たちは出て行って、至るところで福音を宣べ伝えた。」のです。

 主イエスが弟子たちに「福音を宣べ伝えなさい」と命じられると、その命令に応じて彼らが宣べ伝えたのは、その福音でした。福音とはグッドニュースです。よきおとづれということです。福音とは、神の子イエスが罪のために十字架で死に、三日目に復活されたことです。福音とは、イエスの十字架の救いにより、この世に神の国が到来したことです。「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ(マルコ115)」人の心が神により支配されるとき、そこに義と平和と喜びが満ち溢れるのです。私たちが生きるこの世にあって、耳に聞こえて来るニュースは真逆ではありませんか。不義、即ち人間関係の破綻、憎しみと戦争、悲しみと嘆きです。その只中にあって、しかも、神の子イエスにより、神の支配が現実になったのです。福音とは、イエスの十字架の救いにより、神の愛が明らかにされたことでもあります。神は愛です。「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。(ヨハネ3:16)」福音を宣べ伝えるとは、人々に「神はあなたを永遠の不変の愛で愛しておられる」と語り伝えることなのです。

  宣教する行動

 主が「行って宣べ伝えなさい」と言われると、弟子たちは、主の至上命令に従って出て行きました。彼らは従順に信仰を行動に移し、出て行ったのです。ここに宣教の秘訣が隠されています。 即ち信仰を行動に移すときに、宣教が可能になることです。

彼らが出て行ったときに、「主も弟子たちと共に働き」宣教は、昇天された教会のかしらなる主イエスとの共同作業となるのです。その時、語る福音の言葉にしるしと奇跡が伴うのです。泉佐野福音教会の「宣教40周年記念誌」の3頁に、創立者の阪口寿美子師の手記の一節にこうあります。「1965年6月、泉佐野キリスト伝道所として開所式がなされ、全くゼロからの出発、午前中働き、午後よりトラクト配布の自主開拓が始められ、鍬入れがなされていったのです。」これは、阪口師が信仰を行動に移した瞬間のことでしょう。泉佐野福音教会の宣教の始動そのものです。そして、その信仰の行動に主が共に働いてくださり、その結果、その秋には3名、更に2名が続いて救いに入れられていると報告なされています。その初穂として、Y兄を始め今現在も何名もの方々が活躍されていますね。「出て行って福音を宣べ伝える」福音宣教とは、一つの生命が躍動する運動、ムーブメントでしょう。そして、私たちに分かっていることは、どのような運動でも、それが分裂、解散しない限り、継続するうちに形を取り組織化され制度化されていくことです。そこで常に注意しておかなければならないことがあります。生命力を失い、運動ではなく組織制度だけ残されることもありうるということです。泉佐野福音教会は、二度の教会建築の偉業を成し遂げました。教会規則も整備され、役員制度も確立し、安定していることは大変感謝なことです。そこで、大切なことは、制度化されつつ、なおかつ命に溢れ生き生きと宣教活動を実践し続けることでしょう。

  宣教の方法

 ここには宣教の具体的な方法は書いてあるわけではありません。だが、素晴らしい提案がなされています。彼らは「至るところで」宣べ伝えたと。すなわち、宣教の方法とは、自分の生活の場での出会いが基本だということです。5月20日のこと、メイルに、私の旧知の友、カナダのライオネル・バッキー師からメイルが届いていました。日本に行くことを計画しており、7月21日に関空に着くと言われるのです。今からもう30年近く前に、私が石川県の松任市で牧師していた頃、宣教師のドネル・マクレン先生の紹介で三人の預言者がカナダから来日され、非常にユニークな宣教活動をされた、そのうちのお一人がバッキー師でした。ですから、もうお年は80歳を超えていると思うのです。ところが、彼は「出て行って福音を宣べ伝え」ようとされているのですね。一週間遅れでもう一人若手の伝道者も来日予定らしく、お二人で日本中を巡回奉仕されるのでしょう。この教会でも奉仕していただきたいと考えています。バッキー師らは、事前に奉仕する対象が、全て分かっているわけではありません。彼らが行こうとする日本の「至るところ」で、主が備えられる人々に福音を語ることになるのです。

Ⅲ)信仰の運動

 その時、何が起こるのでしょうか。人々の信仰が呼び覚まされるのです。福音の宣教は、人々の中に信仰を喚起させる働きなのです。主は福音宣教に対する人々の反応を3つ挙げ、「信じる者は救われる」「不信仰な者は罪に定められる」「信じる者にはしるしが伴う」と言われました。今日は、信仰者に伴うしるしだけ確認しておきたいと思います。

  悪霊の追放

「彼らは私の名によって悪霊を追い出し(17節)」 悪霊を追い出すことがしるしの第一に挙げられます。罪によって神から離れているこの世界は、暗闇の主権者サタンの配下にあると聖書は言います。使徒パウロは「私たちの戦いは、人間に対するものではなく、支配、権威、闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊に対するもの(エペソ6:12)」と言います。ロシアに侵略されるウクライナ戦争のような、人間同士の残酷な争いは本末転倒です。根本的な問題は、人間の罪であり、罪を根拠に人間のあらゆる領域を侵食し、人を苦しめている悪霊です。だが悪霊どもは、主イエスの御名には、震えて出て行くのです。出て行かざるを得ないのです。ですから、しっかり識別して悪霊に対処しなければなりません。

  新しい言葉

 「新しい言葉を語る」 福音を信じた人の言葉が新しくされます。この「言葉」の原語グロッサの本来の意味は「舌」です。舌は言語器官の一つですね。ヤコブはヤコブ書3章8節で断言します、「舌を治めることのできる人は一人もいません。舌は、制することのできない悪で、死をもたらす毒に満ちています。」 しかし、イエスを心に迎えるときに、信じる人は、自分の舌が制御できるようになるのです。優しい言葉が語れる、命の言葉を語れる、人を生かす言葉を語れるように変えられるのです。

  害を受けず

 三番、四番は実験しないでくださいよ。これは信仰を試すテストではありません。

蛇も毒もこの世に溢れる悪徳と理解したらいいでしょう。蛇は悪魔のシンボル、毒は有害な人を傷つける言葉と言ってもいいでしょう。家庭でも職場でも地域社会でも仲間同士の間でも、毒っ気ある言葉により深く傷つけられるものです。だが、福音を信じる人は抵抗することができるのです。害を受けずに癒されるのです。

  病人の癒し

 五番目のしるしには、「病人に手を置けば治る」と、病気の癒しが挙げられます。 按手による癒しは、主イエスの癒しの仕方でもありました。主はライ病人に手を差し伸べて清められました。(マタイ83) 主はペテロの姑の熱病を手に触れることで癒されました(マタイ85) 主は役人の12歳の少女が死んでしまったのに、手を取り起こされると生き返ってしまいました。(マタイ925)主が盲人の目に両手を当てると癒されました。(マルコ823) 主が癲癇で苦しむ少年も手を取り起こされると癒されてしまいました。(マルコ927)主は18年間腰の曲がった女を憐れみ、按手されると癒されました。(ルカ1313)主が水腫で患う男にも按手されると癒されています。(ルカ144

主はこの按手により病人の癒しを、教会に主の務めとして付託されたのです。そういうわけですから、私たちも礼拝後の祈りの家チームミニストリーで、必要を覚える方々に按手して祈るのです。もう、私が大腸癌であることを聞いて知っておられることでしょう。

では、私は自分が病人だから祈ることを辞めるのでしょうか。そうではありません。伝道者は、牧師は、自分が全く罪が無いから罪の赦しの福音を宣教するのではありません。自分も罪人(つみびと)の頭であり、赦された罪人なのです。それゆえに罪人の伝道者が罪の赦しの福音を罪人に語らねばなりません。

もう召天された方ですが、世界的に著名な宣教者でヘンリー・ナウエン師が書いた書物に「病める癒し人」という題名の何かユニークな発想の名著があります。それは、伝道者は自分自身も病む病人だが、病人を癒す務めが、それでも主から与えられているのだと語られるのです。私も同感です。罪人だから罪の赦しを説教する。病人だから病人に癒しの祈りをするのです。

罪を赦す方は、私ではありません、主イエスです。病を癒すのは、私では毛頭ありません。主イエスです。私のためにもお祈りください。自分のために自分で祈るのは困難なのです。私は私のためにも奉仕してくださる方を必要としているのです。パウロ自身もエペソの手紙の最後に「私が口を開くときに言葉が与えられ、堂々と福音の奥義を知らせることができるように、私のために祈ってください(619)」と要請しています。さあ、今日の礼拝後にも、希望者は遠慮なく、備えられた祈りの部屋に来てください。一緒に主の御名によって祈ることにしましょう。

 主イエスは救いの業を完成されて昇天されました。主イエスは教会を起動し、私たちに福音宣教を始動させられたのです。今週も、主から遣わされて出て行く者であることを自覚して、自分の持ち場に戻って行きましょう。あなたが今週「至るところ」に、あなたが語る福音を必要とする人々が、主によって備えられていることでしょう。

主は命じられました。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」。

5月22日礼拝説教(詳細)

しばらくすると」  ヨハネ16章16〜24節

しばらくすれば、あなたがたはもうわたしを見なくなる。しかし、またしばらくすれば、わたしに会えるであろう」。

そこで、弟子たちのうちのある者は互に言い合った、「『しばらくすれば、わたしを見なくなる。またしばらくすれば、わたしに会えるであろう』と言われ、『わたしの父のところに行く』と言われたのは、いったい、どういうことなのであろう」。彼らはまた言った、「『しばらくすれば』と言われるのは、どういうことか。わたしたちには、その言葉の意味がわからない」。

イエスは、彼らが尋ねたがっていることに気がついて、彼らに言われた、「しばらくすればわたしを見なくなる、またしばらくすればわたしに会えるであろうと、わたしが言ったことで、互に論じ合っているのか。よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。あなたがたは憂えているが、その憂いは喜びに変るであろう。

女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみをおぼえてはいない。ひとりの人がこの世に生れた、という喜びがあるためである。

このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない。その日には、あなたがたがわたしに問うことは、何もないであろう。

よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。

 今日は説教題を平仮名七文字としたのですが、首かしげた方があるかもしれません。実は、この箇所に「しばらくすると」が、7回も繰り返されているので採用したものなのです。この「しばらくすると」には、当然、時間を想像されることでしょう。どの程度だと思われますか。時間感覚は非常に主観的なもので、どれ位の長さかは、ある意味で状況次第と言えるでしょう。「テレビドラマの30分はあっという間なのに、礼拝説教の30分はなんでこんなに長いのか」と、感じている人もあるかも知れませんね。実は使用された原語はミクロンで、千分の1を意味し、「少し、ちょっと、少しばかり」を表す単語です。英語のマイクロの語源に相当し、「マイクロバス、マイクロフォン、マイクロウエーブ、マイクロスコープ 」と、私たちにも馴染み深い言葉なのです。今日は、主のお言葉から「しばらくすると」何がどうなるのか三ポイントで「少し、ちょっと、少しばかり」話すことにいたします。

(1)見なくなるが会える

 その第一は、「しばらくすると主イエスを見なくなるが会うことができる」ということなのです。これは、最後の晩餐で弟子たちに語られた主イエスの言葉です。主は「しばらくすると、あなたがたはもう私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる。」と語られました。それに対する弟子たちの反応は「何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」で、主が何を語っておられるのか分かりません。主イエスは「しばらくすると」を二回繰り返され、しかも最初に「私を見なくなる」と語られ、次に「私を見るようになる」とも語られました。

 主が席上で語られた時に、弟子たちにはさっぱり分からなかったとしても、私たちには、その後のことを知っているので分かりますね。「しばらくすると」の第一の意義は、間も無く起ころうとした十字架の死による弟子達との離別のことだったのです。イエスはその晩、裏切られ、逮捕され、尋問され、裁かれ、明日にも磔刑に処せられようとしていました。イエスは間も無く死んで、埋葬され、その結果、弟子たちの視界からは、全く見えなくなろうとしておられました。

 「またしばらくすると、私を見るようになる。」その第二の意味は、三日目の復活による弟子たちとの再会です。イエスは埋葬されて三日目、日曜早朝、蘇られました。それは弟子たちとの文字通りの再会でした。主はマグダラのマリアに会われました。エマオ途上の二人の弟子たちに会われ、弟子たち全員に主イエスは再会されたのです。私たちが先の4月17日に礼拝で喜び祝ったのは、このキリストの復活でした。イエスは、弟子たちに予告された通りに蘇られ、また弟子たちに再会なされたのです。

 そればかりか、それに止まらず、「またしばらくすると、私を見るようになる。」の第三の意味は、聖霊の降臨による再会をも意味されていたのです。イエスは復活なされましたが、40日後には、弟子たちから離れ、オリブ山から雲に包まれ召天なされました。弟子たちの視界から主イエスは消え去り、それによって弟子たちは再び見なくなってしまいました。だが、それに先駆け主イエスは約束されたのです。14章16節「私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」そうです。この方こそ聖霊なのです。そして続けて言われました、「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなたがたは私を見る。私が生きているので、あなたがたも生きることになる。」主イエスは天に昇られ見えなくなってしまわれた。だが、聖霊が降臨なされる。それは主イエスが再び弟子たちのところに戻って来られることを意味していたのです。三日目の復活による主イエスとの再会は、弟子たちに確かに経験されました。だが、聖霊降臨による主イエスとの出会いは、それ以後のすべてのクリスチャンたちの経験するところでもあります。以前にも引用したペテロ上1章8、9節に『あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛しており、今見てはいないのに信じており、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています。それは、あなたがたが信仰の目標である魂の救いを得ているからです。』と、使徒ペテロが語っています。「見たことがない、見てはいない」が二度も強調されているのですが、それなのに、人々がイエスを信じている、愛しているのは何故なのでしょうか。それは、聖霊の働きにより、肉眼では見えなくても、主イエスが出会ってくださったからに他ならないのです。現在、統計的に、世界のクリスチャン人口は20億を超えているといわれています。どうしてそのようなことが可能になったのでしょう。それは聖霊により、主イエスが出会ってくださった結果なのです。それが私に経験され、皆さんに経験されている出来事です。

 しかしながら、主が「またしばらくすると、私を見るようになる。」と言われた言葉には、究極の意味が込められていました。それは、主イエスの終末における再臨による再会なのです。処女マリアから生まれる主イエスの初臨は、旧約に333回預言されています。そして驚くべきことに、その全ての預言が細部に至るまで成就したことが確認されています。更に驚くべきことは、主イエスの再臨の預言が、聖書中に無数になされており、その実現成就が確実視されていることです。聖書の最後の書の最後の言葉は、『然り、私はすぐに来る』との主イエスの約束で閉じられています。(黙示録22:20)人類の希望は、主が再び来られて世界を治めてくださるキリストの再臨にあるのです。

20世紀に入るまで、既に初臨から2千年が経過したそれまでの教会では、「キリストの再臨」が主要なテーマになることは滅多にありませんでした。世俗的にも、人類は、このまま無限に進歩発展進化するように誰しもが思っていました。進化論の提唱も、共産主義の歴史観もその思想的な流れにありました。だが、世界を巻き込み、大量殺戮をもたらした第一次、第二次世界大戦を経験した結果、状況は俄然一変したのです。主イエスは、マタイ24章6節に「戦争のことや戦争の噂を聞くだろうが、慌てないように注意しなさい。それは必ず起こるが、まだ世の終わりではない。」と、終末の前兆を語られます。今また、ウクライナにおいて信じがたい紛争が発生し、第三次世界大戦に突き進みかねない状況が展開しています。最悪の事態、原子爆弾が使用されることでもあれば、人類絶滅の危機に遭遇することは必至だからです。黙示録の終末的天変地変の情景は空言に思えなくなりつつあります。だが、希望があるのです。主は「またしばらくすると、私を見るようになる。」と約束されたからです。それは、主の再臨の約束なのです。テサロニケ上4章17節をご覧ください。『生き残っている私たちが、彼らとともに雲に包まれて引き上げられ、空中で主に出会います。こうして、私たちはいつまでも主と共にいることになります。』聖書には、主の再臨による再会の希望が明確にされています。信じる者は復活し、新しい栄光の身体が与えられ、愛する主イエスに再会することが約束されているのです。

(Ⅱ)苦しむが喜べる

 では、その時、「しばらくすると」何が私たちに経験されると言うのでしょうか。 それは「苦しみが喜びに変わる」ことなのです。20節「よくよく言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、世は喜ぶ。あなたがたは苦しみにさいなまれるが、その苦しみは喜びに変わる」と主は語られました。これは、十字架と復活で弟子達に起こった出来事です。イエスの弟子たちは、主が逮捕され磔刑に処せられると逃亡し、隠れ、嘆き悲しみ苦しみました。その反面、主イエスの敵たちは、イエスの十字架死で亡きものにできたことを確信し喜んだのです。だが、復活の出来事によって事態は逆転しました。すでに以前の説教で語られた20章19〜23節を想起してください。日曜の夕方、戸を閉ざして隠れていた弟子たちは、部屋に突然入ってこられた復活の主を見て、「主を見て喜んだ。」のです。(20節) 

主は、この逆転を出産の陣痛で説明されます。「人間が味わう三大激痛とは、お産、くも膜下出血、尿路結石だそうです。」とは、ある方が医者から聞いた話です。私共の苦痛には、ただ石しか出てこない尿路結石のような痛みと、新しい命が生まれてくるお産の痛みとがあるのでしょう。主イエスが告げるのは、お産の苦しみです。「女が子どもを産むときには、苦しみがある。その時が来たからである。しかし、子どもが生まれると、一人の人が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。」(21節) 

あの弟子達が経験したのは、このお産の苦しみと喜びでした。彼らは、復活の主に再会した時、喜びに溢れ、苦しみを忘れてしまいました。 そして、主は、私たちにもこう語っておられます。「このように、あなたがたにも、今は苦しみがある。しかし、私は再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」(22節)

あなたがたにも、今は苦しみがある」主がそう語られる時、ここには、今現在の私たちの現体験も込められているのです。私共がこの地上の生涯で味わう悲しみもそうなのです。そのただ中にいる時、私共はもう他のものは何も見えないほどに、その悲しみに囚われます。もう明日なんて来ないのではないかと思うほどに、その悲しみに囚われてしまうものです。若い時には、失恋があり、受験や就職の失敗があります。結婚すれば、子育ての悩みがあります。嫁と姑の問題だってあるでしょう。愛する者との別れもあります。老いれば足腰が弱くなり、目も耳も遠くなります。数え上げればきりがない。しかし、復活の主イエスと出会うなら、私共は、それらがすべてしばらくの間のことであることを知るのですし、次があるということを知るのです。

 私は30代半ば、最初の妻が幼子三人を残して病死したとき、非常な行き詰まりを覚えました。再婚することはできましたが、それからの4年間はどん底経験でした。教会を辞任しており、蓄えは尽き、バイトで家族を支え食いつなぐ日々でした。牧師復帰の見込みは全く皆無であったからです。「しばらくすると」ミクロンとは千分の1秒です。しかし、私には四年であり、それはそれは長く感じられたものです。だが、主にとって千年は一年です、そして一年は千年なのです。「しばらくすると」道が私の前に開かれました。再び教会の牧師としての奉仕の生活に戻ることができたのです。それは、主が私に生き生きと出会ってくださった結果でした。

(Ⅲ)尋ねないが願える

 主は言われました『あなたがたにも、今は苦しみがある。しかし、私は再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。』 そのような劇的な変化、苦しみ、悲しみが喜びに変わるのは、主イエスが再会してくださることによります。そして、主イエスがどのように再会してくださるのかが、23、24節です。「その日には、あなたがたが私に尋ねることは、何もない。よくよく言っておく。あなたがたが私の名によって願うなら、父は何でも与えてくださる。

 「あなたがたが私に尋ねることは、何もない。」それは、真理の御霊が来られたからです。聖霊がキリストについてあらゆる真理を指し示し、教えてくださるからです。

勿論、だからと言って全てが悟られ、分かるのではありません。私たちは全て分かったから理解できたから信じたのではありません。聖霊により霊的に誕生し、神の子供とされたので、子供が親に信頼するように、神に信頼する者とされているのです。そこで、その劇的な変化は、祈りによってもたらされるのだと、主は教えられるのです。

よくよく言っておく。あなたがたが私の名によって願うなら、父は何でも与えてくださる。」 24節「今までは、あなたがたは私の名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。

 主イエスが昇天されると弟子達はどうしたでしょうか。使徒行伝の記録を見れば、彼らが只管(ひたすら)祈っていたことが分かります。使徒行伝1章では、エルサレムの二階座敷に、120名が10日間、祈り待ち望んだことが分かっています。その待望した120人の上に、聖霊が俄然降られました。それは、主イエスの到来に他なりません。

それ以後、彼らが主イエスの御名により祈る時に、そこに奇跡が起こり続けました。

使徒行伝3章6節をご覧ください。ペテロは生まれながらの足の萎えた乞食に「私には銀や金はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって歩きなさい。」と呼びかけ、手を取って起こしてあげると、奇跡が起こったのです。彼は立ち上がり、歩き、踊り出したのです。使徒行伝12章6〜19節をご覧ください。使徒ペテロが、ヘロデ王に迫害され投獄されると、教会は熱心に祈りました。すると不思議や、天使が現れ、牢獄の扉が開いてしまったではありませんか。ペテロは牢獄を脱出し、更に宣教活動に専念しています。

使徒行伝16章をご覧ください。ピリピで使徒パウロとシラスは、不当にも投獄され、手枷足枷で自由を奪われ、陰湿な獄中に閉じ込められてしまいました。だが、彼らが真夜中に賛美すると大地震が起こり、結果的に彼らは解放され、そればかりか、獄吏家族までが救われてしまったのです。彼らが困難な状況にあっても祈り賛美したからなのです。

 私たちは教会が「祈りの家」だと確信しています。主の教会として祈りに専念しようではありませんか。そればかりか、個人的にも個々の問題の為に祈ることをお勧めいたします。旧約の詩篇の多くは祈りの詩ですね。敬虔な王ダビデは90篇もの信仰の祈りの詩を作っているのですが、彼自身、その生涯は苦悩に満ちていました。それは厳しい戦いの人生でした。だが、彼が祈りによって勝利することができたことが、その信仰の詩でよく分かります。彼の祈りはしばしば苦渋に満ちた訴えで始まります。ところが、祈り進むうちに一転するのです。彼は突然、確信に満ち、悟り、そして、神への賛美に変えられていくのです。これは、個人的にも主に祈る時に同じように経験されることです。ですから、どんな苦衷にあっても祈りの手を上げてください。

また、苦しみと悲しみの中にある人々のため、執り成し祈ることにしよう。本当に悲しんでいる人に、「その悲しみは、しばらくの時だけです。」と言っても、なかなか通じないのではないでしょうか。自分の目の前の悲しみの現実に囚われて、他は何も見えない、何も聞こえない、これがずっと続くと感じてしまうものです。その人に「あなたのその悲しみは、しばらくの時だけです。」と言っても、「人の気も知らないで。」と反発されるだけかもしれません。しかし私共は、その人のために、その人に代わって「しばらくの時だ」ということを信じ、祈らなければならないのです。悲しみの極みの中にいる人は、祈ることさえ出来なくなるものです。その時、私共はその人のために、その人に代わって、「しばらくの間である」ことを信じて、祈るのです。それが、主イエスに救われた私共の務めなのです。

 ウイーンで10年間教会の奉仕をしていたとき、69歳の男性が救われ洗礼受けられました。国際原子力機関で活躍された方ですが、彼は19歳で京都において実は信仰に導かれておられたことが後で分かりました。だが彼は大学入学を機に、50年間、主から離れていたのです。私は思うのです。彼のために、彼を導いたかつての宣教師が、その教会が執り成し祈っていたに違いないと。その祈りの結果を見ずに、多くの方々はもう召天しているかもしれません。50年は長いですね。だが、主にとっては「しばらくすると」それは千分の1秒に過ぎないのです。執り成しの祈りは聞かれるのです。主は「またしばらくすると、私を見るようになる。」と約束されます。使用された言葉は「ミクロン」千分の1単位です。見えない世界、ミクロの世界、微視的世界があります。それに対するマクロの世界、巨視的世界、広大な宇宙があります。自然科学では、すべては連続して徐々に変化すると考えられておりました。だが、ミクロの世界では、連続的にではなく、飛躍的に瞬間的に全く変わってしまうということが起きているのです。顕微鏡でしかわずかに見えない微視的世界のウイルスが、今現在、世界をひっくり返しています。微視的原子が核分裂することで莫大なエネルギーが放出され、破壊的爆弾ともなれば、発電エネルギーともされています。

主イエスは水を葡萄酒に変えたように、人々が信仰によって祈る時に、状況を変えてくださることが可能となるのです。祈りの勧告として、ヤコブ5章13〜20節を読んで祈ることにしましょう。 「あなたがたの中に苦しんでいる人があれば、祈りなさい。喜んでいる人があれば、賛美の歌を歌いなさい。あなたがたの中に病気の人があれば、教会の長老たちを招き、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、弱っている人を救い、主はその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯しているのであれば、主は赦してくださいます。それゆえ、癒やされるように、互いに罪を告白し、互いのために祈りなさい。正しい人の執り成しは、大いに力があり、効果があります。」アーメン

515日礼拝説教(詳細)

我が愛に留まれ」  ヨハネ15章1〜11節

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。

あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。

もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。

人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。

あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。

もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。

わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。

Ⅰ)結実が期待される

 5月第三主日の聖書箇所が読まれました。ある神学者は、この箇所は本来13章34節と35節の間に挿入される言葉ではなかっただろうか、と言います。12節で主イエスが「これが私の戒めである」と語られ、13章34節に、その同じフレーズ「互いに愛し合いなさい」があるからなのです。皆さんは、先週一週間どうでしたか、「互いに愛し合う」ことに徹することができたでしょうか。そう言われても、直ぐ実行できるものではありませんね。だからこそ、その秘訣を主イエスは、ここに語られているのではないでしょうか。

主イエスは、その秘訣を「葡萄の木と枝の関係」で教えられます。私は今日、9節の一句「私の愛に留まりなさい」を鍵句として語らせていただきます。今日の聖書箇所を読んでいて迫ってくるのは、結実が期待されていることではないですか。「実を結ぶ、実を結ばない、実を結ぶように」7回も反復して語られています。葡萄(ぶどう)栽培で実を期待するのは農夫であることは当然です。主は「私はまことの葡萄の木、私の父は農夫である。」と、父なる神が葡萄栽培農夫のようだと比喩的に語られます。私自身、自宅で葡萄の巨峰を栽培した経験があるので、農夫の気持ちがよくわかります。石川県で庭付きの一軒家に借り住まいをした時、ある方が立派な品種の巨峰の苗木を下さいました。私は大粒の巨峰の房をイメージし、期待して栽培に取り掛かりました。その苗木は見事に枝を伸ばし立派に生育しました。しかし結果は見事に失敗でした。それこそ無数の房が下がりはしたものの、食べられるような葡萄の実とはならなかったのです。私は肝心な剪定技術を知らなかったのです。甚だ残念無念でした。

Ⅱ)葡萄の木は受肉された神

 では、葡萄の栽培農夫に結実を期待させる植えられた葡萄の木とは誰のことかというと、それは主イエスですね。「私はまことのぶどうの木である」と1節に、5節でも「私はぶどうの木である」と主イエスは語られます。ここで「まことの葡萄の木」と言うところに深い意味があり、それは「葡萄の木」が、イスラエル国家の象徴だからなのです。詩篇80篇9、10節に『あなたはエジプトからぶどうの木を引き抜き諸国民を追い出して、これを植えられました。あなたはそのために地を開き、根を下ろさせ、地を満たされました。』とあります。エジプトの奴隷から解放されたイスラエルは、ぶどうの木に喩(たと)えられ、神が結実を期待して選んだ民族でした。ところが長い歴史の過程で判明したことは、彼らが神の期待に添う民族とはならなかったことです。エレミヤ2章21節にこう非難されています。『あなたを確かに純粋な良いぶどうとして植えたのはこの私だ。それなのに、私にとって質の悪い異国のぶどうに変わり果ててしまうとはどういうことか。』と神が嘆いておられるのです。

イスラエルはその国家の歴史において、神の期待に応えず、偶像崇拝に陥り失敗してしまいました。それ故に、主が「私はまことのぶどうの木」と言う時、それは、失敗したイスラエルに代わる、神の期待に添うことのできる真の神の民、期待に添える民が、私から起こるのだと、主はそう言われたのです。日本語では分かりにくいのですが「私はぶどうの木」と言われた、何気ない「私は」が、実は原語からすると、それだけで聖書では神名に相当する言葉なのです。同じような表現が、ヨハネだけでも7回ありますね。「わたしは命のパンである」(6章35節/51節)。 「わたしは世の光である」(8章12節/9章5節)。 「わたしは羊の門である」(10章7節/9節)。 「わたしはよい羊飼いである」(10章11節/14節)。 「わたしはよみがえりであり命である」(11章25節)。 「わたしは道であり真理であり命である」(14章6節)。 「わたしは真のぶどうの樹である」(15章1節/同5節)。 

これらの「私は」はすべて原語では「エゴー・エイミ」が使用されており、その意味は「私、私である」なのです。これは何と、出エジプト3章13、14節が背景にある言葉で、かつて解放者モーセが、神にその名を問いかけた際に、神が答えられた神の名でした。主なる神はモーセに「私はいる、というものである」と答えられました。神の名が「私はいる」あるいは「私は有る」とはずいぶん変わった名だとは思いませんか。しかし、それは神が天地万物の一切の存在の根源で有ることを意味するものです。神は無から一切を存在に呼び出された創造者であられるからなのですね。そればかりではありません。その名は、ご自分を啓示することで、人間の只中で行動される存在であることをも意味したのです。その神の最大の啓示こそ、乙女マリアより人間の形でお生まれになられたイエス様の受肉啓示ですね。「はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった」(ヨハネ1章1節)。その14節には「言葉は人となって私の間に住まわれた」とはっきりと受肉が、人間の形で啓示なされたことがわかります。

Ⅲ)期待されて起こされる神の民

 では神がこのように行動される目的は、一体、何処にあったのでしょうか。それは、イエスによって新しい神の民を起こすことだったのです。民族としてのイスラエルは神の期待に添えなかったのですが、その民の中から御子を送り出され、神は御子イエスによって、新しく神の民を起こそうとされたのです。 この御子により起こされる新しい民が、では、具体的に何処にどのようにして実現したのでしょうか。それが葡萄の木につながる枝によるものなのです。

「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。」と主は語られました。「あなたがた」とは明らかに、主イエスの弟子たちのことですね。主は、イエスを信じる弟子により、全く新しい神の民を起こそうとされたのです。それは、イエスを主と信じる弟子たちの共同体、すなわち、教会のことでしょう。教会は、キリストにより新しく生み出された現代の神の民なのです。それを明確に証言するのがペテロ上2章9節ですね。「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある顕現を、あなたがたが広く伝えるためです。あなたがたは、かつては神の民ではなかったが今は神の民であり憐れみを受けなかったが今は憐れみを受けている」「あなたがた」とは、私たちクリスチャン、教会のことです。そして、神が新しい民に、教会に、クリスチャンに期待されるのは、「それは、あなたがたを闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある顕現を、あなたがたが広く伝えるためです。」ここで「顕現」と訳された原語のアレタイは、賛美、徳、素晴らしさ、栄光の意味を含む豊かな言葉です。その素晴らしさとは「闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力」のことです。教会につながる人々、イエスを信じる人々、すなわち私たち全てが経験したのは「闇から光へ招き入れられたこと」ではなかったでしょうか。

Ⅳ)主の素晴らしさを広く伝えた一つの証し

 4月29日にクリスチャン・ミュージシャンの小坂 忠さんの召天が知らされました。先週5月13日に、フェイスブックを観ると、夫人の小坂叡華さんによる葬儀謝辞が掲載されていました。一読して感動です。彼は1948年生まれ、18歳でロックバンド「ザ・フローラル」結成、それ以後、世俗の芸能界を曲折します。その彼が救われたのは197628歳の時、幼い娘さんが重度の火傷から奇跡的に回復したことを機に、クリスチャンとなられたのです。2年後にミクタム設立。セキュラー・ミュージシャンからクリスチャン・ミュージシャンへ大転換。何がそうさせたのですか。それは、彼自身が「闇から光へ招き入れられた」からではないでしょうか。娘が火傷の年1975年、リリースした曲が代表作「ほうろう」でした。その歌詞はこうです、「このテンポなら 好きなリズム・アンド・ブルース 踊りながら 歌える 履きなれた このボロボロボロ靴が ひとりでに 踊り出す 今はほうろう いつもほうろう 遠くほうろう」何と退廃的な節回しではありませんか。救われる前の彼の心境そのものだったのでしょう。当時のことを彼はこう述懐します。『ボクの高校大学時代の友達らは皆、当時の体制に抵抗し、ヘルメットにゲバ棒を持って、デモへ行ったわけですよ。ノンポリと言われても、あの時代を生きた連中はね。が、そんな彼らが大学卒業を迎えたら、それまで対峙していた社会体制に取り込まれちゃう時代が来ちゃった。これがもの凄くショック、でね……』だからこそ「ほうろう」が生まれたのでしょう。

そのリリースした年に愛娘が火傷に苦しむ。それがきっかけで闇から光に彼は移されたのです。その夫人の謝辞の最後に引用されたのがヘブル11章13節でした。『この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束のものは手にしませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声を上げ、自分たちが地上ではよそ者であり、滞在者であることを告白したのです。』 彼はクリスチャンになる以前の闇の時代は「ほうろう」です。しかし、闇から光に入れられ、放浪者ではなく、天国を目指す地上の旅人、寄留者とされたのです。人生の意味に全く新しい真理の光が照らされたのです。「小坂 忠はデビューから55年の音楽人生、教会音楽の改革者として44年、牧師として30年という幸せで尊い働きにつかせていただきました。」と小坂夫人は真摯に証言されます。彼は、「主の素晴らしさ」を生涯「広く伝え」続けたのです。それはまた、彼ひとりではなく、イエスの弟子たちの、私たちの共通経験ではないですか。「素晴らしい方を広く伝える」そのために、神は「枝である」私たちに、教会に、期待しておられるのであります。

Ⅴ)結実の滋養となる四次元の愛

 そのために主は、「私の愛に留まれ」と言われたのです。それは愛が幹から枝に流れて実を成らせる養分だからです。ぶどうの木が実を結ぶ秘訣は、枝が幹にしっかりつながり、その養分に預かる他にはありません。5節「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。」 枝が幹につながり受ける養分、それはキリストの愛です。愛に留まる、つながる、その時、教会は使命を果たせるのですね。

エペソ3章18節には、キリストの4次元の愛が記されています。パウロは祈って言うのです。「あなたがたの信仰によって、キリストがあなたがたの心の内に住んでくださいますように。あなたがたが愛に根ざし、愛に基づく者となることによって、すべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどのものかを悟り、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができ、神の満ち溢れるものすべてに向かって満たされますように。」 「私の愛に留まれ」キリストのその愛は全人類に広がる愛です。罪人であれ善人であれ、その隔たりを超えた愛です。敵であっても味方であっても、その両極端を愛する幅の広い愛です。主イエスは「敵を愛し、あなたを迫害するもののために、祈りなさい」と教えられました。風呂敷で包み込むような懐の広い愛、極限の愛の広さなのです。 

 キリストのその愛は、無限に続く永遠の愛です。マタイ18章21節でペテロは、イエスに「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回まで赦すべきでしょうか。七回までですか。」と尋ねていますね。堪忍袋に限度があると言わんばかりです。だが、主イエスの回答には圧倒されます。「七回どころか七の七十倍まで赦しなさい」と教えたのです。490回赦せとは、無限大に赦しなさいの意味です。そこでイエスは王様と家来の借金の譬え話をされました。家来が王様に1万タラントの借財があったが免除された話です。1万タラントとは、1タラントが6000デナリに相当するのですから6千万デナリに相当し、1デナリは1日分の日給に相当します。人の一生が50年働くとすると、生涯でおおよそ13,000デナリ稼ぐことになりますね。すると1万タラント稼ぐには、4615人の人たちが50年かけて稼がないと返済できない莫大な負債なのです。天文学的な負債です。この王様はその家来の負債を赦したのです。それが神の赦しです。人の罪はそれほど重いのです。

  キリストのその愛は、高い天上に入れていただける愛です。エペソ2章4〜6節 「しかし、神は憐れみ深く、私たちを愛された大いなる愛によって、過ちのうちに死んでいた私たちを、キリストと共に生かしキリスト・イエスにおいて、共に復活させ、共に天上で座に着かせてくださいました。」信じた瞬間に人は霊的に天に着座させられる特権に預かります。霊的に着座させるばかりか、やがて実質的に着座する時が来ます。ヨハネ14章2節で主は言われました、「私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。」キリストは再び、間も無く来られます。その時、信じる者は誰でも天に引き上げられるのです。

 キリストのその愛は、どんな深海より深い愛です。ミカ書71819節 「あなたのような神がいるだろうか。ご自分の民である残りの者のために過ちを赦しその背きの罪も見過ごされる方。いつまでも怒りを持ち続けずむしろ慈しみを望まれる方。主は私たちを再び憐れみ私たちの過ちを不問にされる。あなたは私たちの罪をことごとく海の深みに投げ込まれる。」 知床半島沖合で観光船が沈没しました。120メートルの海底に沈没したのです。サルベージ船が回収作業に派遣されました。人の潜れる深さには限度があります。200メートル以上の深さを深海と呼び、100メートルの深さは人間が潜れない限界です。世界で一番深い海は10,000メートルで、それは飛行機が飛んでいる高さと同じくらいです。神様が私達の咎も罪も海の深みに投げ込まれるとは、このような深海でありましょう。神の赦しは完璧で安心なのです。そればかりではありません、どんな絶望の淵に沈んでいる魂にも届く愛です。どんなに卑しめられ、他人に低くされ、突き落とされ、社会の底辺に喘いでいる人であっても、自分で自分を卑下し見下げて絶望している人でも、主は引き上げ給うのです。

Ⅵ)結実の確かな条件

 その枝が結実する条件はただ一つ「私の愛にとどまりなさい」これしかありません。 とどまるとは幹につながることです。「とどまる」この言葉は、この箇所だけでも9回も反復されていますね。原語のメノーは、とどまる、滞在する、滞留する、泊まる、居続ける、居着く、住み着く、存続する、生存する、生きながらえる、残ろう、変わらずそのまま留まり続けることを意味する意味深い動詞です。それが何を意味するか具体的には10節で「あなたがたも、私の戒めを守るなら、私の愛にとどまっていることになる」と語られています。戒めを守ることです。「戒め」それは先週のメッセージでも語られた「互いに愛し合いなさい」ですね。これほど難しい課題はありません。しかし、キリストの四次元の愛の滋養に預かれば可能なのです。その時、何が起こりますか。湧き上がる喜びです。11節「わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。」 クリスチャン生活の最大の特徴は喜びにあります。愛し合うなら喜悦がこみ上げてくるのです。そればかりか、答えられる祈りなのです。「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」(7節) クリスチャン・ミュージシャンとして逝去された小坂 忠さんの夫人の証言を聞いてください。「私たちがクリスチャンになったきっかけは、ファースト&ラストコンサートを終えた1975年です。娘が2歳になる前、実家でテーブルの上のスープを頭からかぶって大火傷をした事でした。クリスチャンの祖母が遠方から飛んで来て泣き叫ぶ娘のために祈ると静かに眠り始めたときの驚き。多くの方々の祈りでたった1カ月で癒されたという事実に、キリストを信じる事を妨げるものはありませんでした。翌1976年二人で洗礼を授けていただきました。」 

この時の詳細を私は聞いて知っています。それは、私の出身教会、所沢市の秋津福音教会で起こったことだからです。私はその教会から北海道札幌の教会へ転勤しておりました。この事件は、後任の上石正義牧師夫妻の時期に起こりました。小坂夫人のクリスチャンの祖母は上石牧師と懇意で、この牧師が祈りを求められ、すると不思議と娘さんが癒されたのです。上石牧師は祈りの人でした。秋津の教会に赴任される以前は、無所属単立の伝道者で、家の玄関には「生基督祈祷協団(せいきりすときとうきょうだん)」の表札が掛けられていました。当時20代前半の私は、若い他の牧師たちと共に、何回も祈り学ぶために、国分寺町の上石牧師宅に集まったものです。そこで学んだことは祈りが応えられることでした。 教会がキリストにしっかりつながる枝となり、主に信頼して祈るとき、教会には不思議が満ち満ち溢れるのです。

キリストの四次元の愛を語ったパウロの祈りは更に続いています。「私たちの内に働く力によって、私たちが願い、考えることすべてをはるかに超えてかなえることのできる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々にわたって、とこしえにありますように、アーメン。」(エペソ3章20節)主は、私たちの願い、考えること全てをはるかに超えてかなえてくださるのです。 主は、「私の愛にとどまりなさい」と命じられました。5月の第三週の日々、枝として主イエスにつながり、この御言葉をしっかり胸に抱き、祈りつつ進みゆくことにしましょう。

5月8日礼拝説教(詳細)

弟子である証明」  ヨハネ13章31〜35節

さて、彼が出て行くと、イエスは言われた、「今や人の子は栄光を受けた。神もまた彼によって栄光をお受けになった。彼によって栄光をお受けになったのなら、神ご自身も彼に栄光をお授けになるであろう。すぐにもお授けになるであろう。

子たちよ、わたしはまだしばらく、あなたがたと一緒にいる。あなたがたはわたしを捜すだろうが、すでにユダヤ人たちに言ったとおり、今あなたがたにも言う、『あなたがたはわたしの行く所に来ることはできない』。

わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。

 連休の3、4日に第42回全国聖会が、217教会、1800人の登録参加オンライン形式で実施されました。当教会の多くは、一階のテレビ大画面の放映を前に参加したのですが、それぞれの立場で恵みをしっかり受け止められたことでしょう。私自身は、黙示録2、3章から語られた講師の永井師のメッセージのフレーズに新しい示唆を与えられ感謝でした。それは「教会は健康的でなくてもいい、バランスが取れていなくてもいい、問題があってもいいのだ」です。言われてみれば、黙示録で取り上げられた7つの教会、スミルナとフィラデルフィアを除き、どう見ても確かに健康的ではありません。むしろ全教会が様々な問題を抱えていたことが伺えます。ですから、この教会の中心に、主イエスが居られる、それで十分だと痛感させられた次第です。

そこで今日は、私たちの教会に語られている主の言葉を、ヨハネ13章から聞くことにいたしましょう! 受難週と呼ばれた最後の一週間の木曜日、主イエスは12弟子と、過越の食事をエルサレムの二階座敷で共にされました。その席上で語られた教えが、13章〜17章の5章に連綿と続き、それがいかに重要であるかがうかがわれようというものです。今日の聖書箇所は、13章の中で、主イエスによる弟子の洗足、裏切りの予告、そして裏切り者ユダの退席直後に語られたものです。ここで主が教会に語られた、まさにその時点から起こらんとする三つの出来事に注目してみましょう。

 その最初の起こらんとする出来事とは、間も無く神ご自身が、御子イエスを高く引き揚げられることです。この箇所を読み、また聞かれて気づかれたことでしょう。31、32節には「栄光」が4回も繰り返されています。この栄光と訳されている原語の「ドクサ」は、「考える、思う」の動詞形「ドケサー」の名詞形で、考え思った結果の「意見、評価」が元来の意味なのです。それゆえに、ここで使用された「ドクサ」栄光は、それぞれ違った意味が込められていることに注意してください。

最初の栄光は、31節の『さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受け」』で、主イエスが受けた栄光のことです。この主イエスのご発言の前の21〜30節は、その背景となる、最後の晩餐の席上での緊張した場面です。その21節で、主イエスは弟子たちに一人の裏切りを予告されます。続く24節では、驚いたペテロが、イエスの隣席にいたヨハネに、それが誰かを主に尋ねるよう合図をします。26節を見ると、裏切り者を特定するしるしを「パン切れを浸して与えるその人だ」と、ヨハネにイエスが提示されます。すると、30節には、そのしるし通りに、パン切れを受け取ったユダが出て行き、31節の主イエスの言葉が、この裏切り者のユダが、最後の晩餐の部屋を出た瞬間だったことが分かります。

その時、何が起こったのでしょう。「さて、今や人の子は栄光を受ける」つまりこの瞬間から、この世の人々のイエスに対する評価が確定したということです。

裏切った弟子のユダの評価は、イエスは期待したようなメシアではない、奴隷の価格、銀貨30枚にしか相当しないというものです。彼は銀貨30枚でイエスを敵に売り渡してしまいました。

宗教界の大御所、大祭司カヤパの評価は、イエスは「神の冒瀆者に他ならない」です。彼は、最高法院の裁判で死刑を宣告しました。

ローマ総督ポンテオ・ピラトの評価は、イエスは死刑相当でした。彼は、丹念に尋問し何の罪も認められなかったのにもかかわらず、イエスを有罪とし、極悪非道の罪人バラバを釈放してしまいました。

鞭打たれ、十字架を背負い、ゴルゴダの丘に向かうイエス、十字架で磔刑に処せられるイエスをつぶさに見つめるすべての群衆は、イエスをひたすら愚弄し、嘲り、罵倒するばかりでした。人の子イエスが、この世から受けた評価は、最悪、最低、屈辱、不名誉極まりないものだったのです。

 しかしながら、主イエスは続いて「今や、神は人の子によって栄光をお受けになった」と語られました。御子イエスの受難により、神が栄光を受けられたと断言されたのです。最大の屈辱の時が、最高の栄光の時となった、と言われたのです。

ヨハネ3章16節にヨハネは霊感されて語っています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」御子イエスの十字架の死は、神の世に対する愛の現れでした。同じヨハネが書き表した書簡の第一ヨハネ4章はこう語ります。『神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現されました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥(なだ)めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。』 ある神学者は 『神の愛とは、神がそれによって永遠に動かされ、ご自身を知らせようと欲しておられる神の性質の完全性を意味する。』と愛を定義しています。

神は、愛する御子イエスの十字架の犠牲により、ご自身を知らせようとされたのです。それゆえに、このユダの裏切りの瞬間、神が栄光を受ける瞬間になったのです。今や、全世界で、神が褒め称えられるのは何故でしょうか。十字架のキリストの受難の故なのです。それこそ神の愛の現れだからなのです。神は私を愛してくださいました。神はあなたを愛しておられます。神に栄光あれ!私たちがそう叫ぶのは当然なのです。

 更に私が、今日、強調しようとするのは、主の語られた最後の栄光です。神ご自身が御子イエスに与えられる栄光のことです。32節「神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神もご自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる」と主は語られました。この栄光とは、神が御子イエスを高く引き揚げられる高揚のことです。イエスは十字架で最大の屈辱を受けました。罪なきお方が、重罪人として十字架に晒(さら)されたのです。だが、神が、イエスに最大の栄誉を与えられると、主は確信して語られました。それは、死んで三日目の日曜早朝のキリストの復活のことです。神は大能の力でイエスを死人の中から甦らされました。それは、40日後のオリブ山頂からの昇天のことです。主の復活の御身体は、重力に関係なく神の大能の力で天に昇られました。それは、天の父の御座の右への着座のことです。御子イエスは十字架の罪の赦し、贖罪の業を成し遂げ、天に凱旋され、天においても地においても全てに勝る権威を受けられたのです。

ピリピ2章6〜11節をもう一度読み返そうではありませんか。キリストの謙卑を賞賛するこの箇所に、9節「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」と記されています。主イエスの御名に勝る名は、この世界広しと言えど他に全くありません。このキリストの高揚が、ユダの裏切りの瞬間に起ころうとし、間も無く起こったのです。私が泉佐野市の51ある町々で「祈りの歩行」を実施し、毎回、宣言するのは、キリストの主権です。天地の主権者はイエスだからです。イエスは王の王です。イエスは主の主なのです。

ギリシャ帝国のアレキサンダー大王も32歳であっけなく死にました。ドイツ・ナチスのアドルフ・ヒットラーも56歳で敢え無くピストル自殺で潰え果てました。ロシアで独裁者に成り上がったプーチン大統領も69歳で、その先はおぼつきません。儚い権力とは比較にならないのです。天地万物の創造者である神が、御子イエスを高揚されたからです。

 そこで、更に私たちは次のイエスの発言に注目しなければなりません。33節「子たちよ、今しばらく、私はあなたがたと一緒にいる。あなたがたは私を捜すだろう。『私が行く所にあなたがたは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも同じことを言っておく」これはどういう意味でしょう。このユダヤ人たちに語ったと言う言葉は、ヨハネ7章33、34節に残されています。ここでイエスははっきりと、33節「今しばらく、私はあなたがたと共にいる。それから、私を遣わした方のもとへ帰る。」と語られます。それはキリストの復活後の昇天に違いありません。だから、ユダヤ人たちに「来ることができない」と語られた。人が飛行機や宇宙船でどれだけ高空に舞い上がることができたとしても、神のおられる第三の天に来ることはできません。それゆえに「捜しても見つけることができない」のは当然ですね。しかし、ここで主の言葉によくよく注意していただきたいのです。

7章でユダヤ人たちには、34節「あなたがたは、私を捜しても、見つけることがない。」と語られた前半が、13章の33節に残されていても、後半の「見つけることがない」が、省略されている事実です。裏切り者ユダが部屋から出て行った瞬間、弟子たちは、非常な危機的状況に置かれることなります。イエスは去ろうとしておられました。「子たちよ、今しばらく、私はあなたがたと一緒にいる。」それは時間的には非常に短い。イエスは、弟子たちから離れて行こうとされ、イエスが復活し、昇天した暁(あかつき)には、弟子たちもまた他のユダヤ人同様に、イエスの天の場所に来ることはできないことは自明でした。ところが、ユダヤ人にはそうであっても、弟子たちには違っていたのです。「あなたがたは私を捜すだろう。」そこに「見つけることがない」が省略された意味は、弟子たちには「見つけることができる」ことが暗示されていたということなのです。そして、それによって、初めて34節の言葉とつながる事になるのですね。主は言われた!「あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」実はそこに、この34節に、天に昇られた主イエスを、探して見つけ出す秘訣が込められていたからなのです。その真理を解明する聖書箇所こそ、第一ヨハネ4章7〜16節の「神は愛」の箇所です。

愛する人たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれた者であり、神を知っているからです。愛さない者は神を知りません。神は愛だからです。神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現されました。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する人たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです。

いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちの内にとどまり、神の愛が私たちの内に全うされているのです。神は私たちにご自分の霊を分け与えてくださいました。これによって、私たちが神の内にとどまり、神が私たちの内にとどまってくださることが分かります。私たちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。

誰でも、イエスを神の子と告白すれば、その人の内に神はとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。私たちは、神が私たちに抱いておられる愛を知り、信じています。神は愛です。愛の内にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。このように、愛が私たちの内に全うされているので、裁きの日に私たちは確信を持つことができます。イエスが天でそうであるように、この世で私たちも、愛の内にあるのです。

 この箇所で繰り返し勧告されるのは「互いに愛し合いましょう」です。7、11、12節に3回繰り返されています。そこで、互いに愛し合う結果、そこに何が起こるのでしょうか。それは、愛し合う人々の間に、神が留まられることなのです。ご覧ください。12、13、15、16節を。そこに繰り返される約束は、「神がその人のうちにとどまってくださる」ことですね。主イエスは復活されると、しばらく40日間、弟子たちと共に過ごされました。だがイエスの昇天後に、イエスの居られるところに、当然弟子たちは来ることはできません。天に来ることは不可能だからです。ところが、なんと主イエスを捜し求めるなら見つけることができる道を、主が提示されておられるのです。それが、「互いに愛し合うこと」なのです。第一ヨハネ4章13節に非常に重要なステイトメントがあります。 『神は私たちにご自分の霊を分け与えてくださいました。これによって、私たちが神の内にとどまり、神が私たちの内にとどまってくださることが分かります。』 主イエスは聖霊の約束を残されて昇天されました。主イエスは昇天されたのですが、聖霊において、信じる者、愛し合う者の中に内住してくださるのです。天のイエスの所に来ることはできません。だが、イエスを探し求めるなら、愛あるところにおいては、主イエスの臨在を探知できるのです。

私たちがこうして、日曜毎に礼拝に集まるのは何故でしょうか。互いに愛し合い集まるのであれば、そこに主イエスが居られる。神の臨在を探知することができるからなのではないでしょうか。

 その上で、主が予告されたのが関係の認知です。35節「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るであろう。」裏切りのユダが退席した以後、これから起こること、それは、イエスを信じる者が、イエスの弟子だと周囲の人々から認知されることになることです。イエスの弟子たちが、その後「クリスチャン」と呼ばれるようになったのは、シリアのアンテオケ教会からだったことが使徒行伝11章26節の記録から分かります。「クリスチャン」とは、自称ではありません。それは周囲の人々から付けられたあだ名、ニックネームでした。「あいつらはキリスト屋だ」それがクリスチャンの意味するところです。どうして付けられたのか、どうして認知されたのか。 それは彼らが異常に熱狂的だったからではありません。この世に無いこと、この世にあっては最も難しいこと、それが彼らに認められたからです。それは彼らが「互いに愛し合っていた」からに他なりません。このメッセージの最初に聖会講師の永井牧師が「教会は健康的、バランスのとれた、問題の無い教会である必要はない」と語られたことを紹介しました。だが肝心カナメは、教会に集まる人々が「互いに愛し合う」ことでしょう。この「互いに愛し合う」にはどうするべきか、主は34節で一言、「私があなたがたを愛したように」と言われました。この「ように」とは、「同様に、基づいて」ということです。愛の模範がイエスの愛にあるということですね。そして、そのイエスの愛の模範が、ちょうどこの箇所の直前の洗足の記事に残されてありますので、そこからその模範に学ぶことにしましょう。

 13章1〜15節を開いておいてください。イエスと12人の弟子たちは過越の食事に着こうとエルサレムの二階座席に着席しました。しかし、サンダルで乾いた埃(ほこり)だらけの道を歩いてきた弟子たちの足は埃まみれでした。当時の習慣では、客の足を洗うのは奴隷の仕事でした。しかし、そこに足を洗う僕(しもべ)に相当する人材がなかったのか、彼らは汚れた足のままでした。だからといって弟子の誰かが動くわけでもありません。その時でした、イエスが何と立ち上がられ、弟子たちの足を洗われたのです。イエスの愛は私心なき愛です。そこには何の見返りを求める打算もありません。ギブアンドテイクでもなく、イエスは自分を省みず、ただ自分を与えることのみ考え行動されたのです。弟子たちの誰一人としてするものはなく、今自分しかなし得ないことをのみ考え行動されたのです。

イエスの愛は、感情的な好き嫌いのレベルではありません。それは意志的な愛、犠牲的な愛でした。イエスは、座っておられたのに立ち上がられます。イエスは、上着を脱いで、手ぬぐいを腰に巻かれます。イエスは、たらいに水汲み、手ぬぐいを腰に絡め、十二人全員の足を順番に洗い、洗っては手ぬぐいで拭かれたのです。老人や障害者の入浴介護経験者なら、それが大変な重労働であることがわかるでしょう。イエスはそれによって収入を得るためでもなく、ただ黙々と埃まみれの弟子たちの足を洗われました。それは、自分を放棄し、犠牲にする労苦だったのです。1節に「ご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた」と記されており、この「最後まで」とは、「残るところなく」「この上なく」「徹底的に」「最後の瞬間まで」「極みまで」と他の聖書で訳されています。これを時間的に最後までと取ることができるでしょうし、「極みまで」即ち、弟子たちを徹頭徹尾知り抜かれたと取るならば、イエスの愛は理解に基づく愛だと言えるでしょう。それは愛の対象の一人であったペテロにおいて明らかですね。

6〜9節の主とペテロのやり取りをご覧になれば伺えるでしょう。彼は、主が弟子の足を洗い始められたことに驚き、自分の番が来た時には、恐れ入り断ります。しかし、イエスに洗足を拒否するならイエスとの関係が無くなると言われると、彼は「主よ。足だけでなく、手も頭も。」と突拍子もないことを口走りました。イエスはシモンと呼ばれていた彼に、岩を意味する名、ペテロを命名されていましたが、彼の生来のむら気、短気、弱点を知り抜いておられました。イエスの愛は盲目の愛ではありません。開かれた目で徹底して相手を理解した上での愛であったのです。イエスの愛は一部の愛ではなく、全存在を愛する愛でした。イエスの愛は、その人のありのままの全容を受け入れる寛容な広大な愛だったのです。愛は理解の別名です。長所、短所、気質や過去の経歴、やることなすことの全てを分かった上で愛する、それが主イエスの愛でした。

 イエスは、あの使徒の筆頭であったペテロが、やがてご自分を否認することをご存知でした。使徒のユダが、銀貨30枚でご自分を裏切り、敵に売り渡すであろうことをもご存知でした。イエスはご自分が逮捕されるなら、弟子たち全員が逃亡することを事前にご存知だったのです。イエスは、弟子たちの裏切り、背信、拒絶、否認の全てに赦しをもって愛する愛で臨(のぞ)まれました。その愛のほと走りが、十字架上の執り成しの祈りでしょう。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」 いくら真似してみなさい、と言われてもとても出来ない相談でしょう。しかし、主は言われたのです。「私があなたがたを愛したように」そうです。ここに愛する、互いに愛する可能性があります。すなわち、愛された者だけが、愛する能力を得ることができるということです。愛されたことのない者は、愛する能力を失っています。イエスの弟子とは誰ですか、誰のことでしょうか。イエスを信じた者。確かにそうです、しかし、それ以上ではありませんか。クリスチャンとは、イエスに愛され、イエスの愛を受け入れた者なのです。

テモテ上1章12〜17節に「神の憐れみに対する感謝」の箇所で、あの使徒パウロが個人的感謝を表明して言います。「『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた。』と言う言葉は真実であり、全て受け入れるに値します。私は、その罪人の頭(かしら)です。」この「頭」を意味するプロートスは、本来、第一人者、最重要人物を意味する言葉でした。パウロは、晩年、しかも囚われ投獄された状態で「自分は罪人の第一人者だ」と告白しました。主にあって分かること、主と共に長く歩けば歩くほどに分かってくること、それは自分の罪深さ、罪のおぞましさです。ロシア軍をウクライナに侵略させたプーチン大統領が悪の権化(ごんげ)のように見えます。しかし、他人を裁く権利はありません。自分こそ悪の権化であり、何をしでかすか分からないような罪人なのです。そんな罪人のため、キリストは十字架に犠牲となり、罪を赦してくださったのです。だからこそ、こんな罪深い者を、私のような者を赦してくださったのだから、他の相手を赦す。それが弟子の互いに愛する愛なのです。

三年越しの新型コロナ感染パンダミックで、世界中、何もかもが閉塞状態であり、それにウクライナ戦争が勃発して、悲観的要因が現実には厳しいものがあります。しかしながら、その閉塞感を打ち破るのが愛なのです、互いに愛し合う愛なのです。第一ヨハネ4章18節はこう記します、「愛には恐れがありません。完全な愛は、恐れを締め出します。」主が勧告される言葉は、「あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」です。このお言葉を心にしっかりと留め、今週も置かれた生活の場で主の証人として進み行くことにしましょう。

 5月1日礼拝説教(詳細)

 羊を導く羊飼い」   ヨハネ10章7〜18節

そこで、イエスはまた言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。

わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。

わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。

わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。

父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。

 私たちは先ほどダビデの作とされる詩篇23篇で、「主は私の牧者、私には乏しいことがない」と交読いたしました。イスラエルの王ダビデが、「主は私の牧者」と告白していた牧者とは、実に彼の千年後に来られた主イエス・キリストです。そして、私たちが今日、「主は私の牧者」と告白する牧者とは、今から2千年も前に来られた主イエス・キリストなのです。今日の聖書箇所では、主イエスが物事を分かり易くするため別のものに喩える比喩形式で語られておられるのですが、羊飼いとはキリストのこと、羊とは、明らかに我々のことですね。主イエスは、ここで、ご自分を差して「私は良い羊飼いである」と11節、14節に二度もはっきり語っておられます。

私と妻が、もう今からだいぶ以前になるのですが恵みを得て、中川健一師主催のイスラエル団体旅行に参加する機会がありました。一行40人ほどが一台のバスで、エルサレムからエリコに向かう途中のことでした。道路の左前方から一人の羊飼いに導かれた沢山の羊の群れが見えてきました。するとバス運転手さんが気を利かして停車してくれたのです。一同は早速バスを降りると、写真撮影をすることになりました。その羊飼いは若い青年でしたが、私たちに気づいたのでしょう、彼も気を利かして立ち止まって、杖を手にポーズをとり手を振ってくれました。たくさんの羊達は、しばらくの休憩かと思ったのか、周辺に散らばり草を食み始め、そこで、私たちはここぞとシャッターを切りまくったものでした。私たちの日本ではほとんど見慣れない光景ですが、パレスチナでは日常茶飯の出来事です。ですから主イエスが、羊飼いと羊を比喩的に語りだされたとき、弟子たちをはじめ聴き手には容易にイメージすることができたことでしょう。

 ご自分を羊飼いに喩え、羊を人に喩えた主イエスは、これは羊飼いではないと思われるものを三つ取り上げ、羊飼いのイメージを逆に浮き彫りになされました。12節後半には、「狼は羊を奪い、また追い散らす」と最初にが取り上げられています。

聖書辞典によれば、狼は、食肉目,いぬ科に属する動物で狂暴性を持つ。犬,ジャッカルなどと近縁。体毛は赤褐色から純黒,純白まで多様である。普通,群をなすよりも12匹で行動するのを好み,日没から獲物を捜す夜行性である。聖書時代のパレスチナ地方では,狼は羊ややぎなどの家畜の大敵であった、と説明されています。主イエスは勿論、狼ではありませんね。 

更に、主イエスは雇い人でもありません。12節に、『羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる』と語られており、13節には、『彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである』と言われます。この臆病で利己主義な雇い人とは誰かといえば、当時の神殿の祭司やパリサイ人達のことに間違いありません。彼らは職業的、専門的な宗教活動家でしたが、言ってみれば、主人に代わって公然と仕事をする者として羊小屋に入った人々なのです。しかし、本気で自発的に羊の世話をする責任感がありません。臆病であって、自分が不利になるような危険に遭遇するならさっさと逃げる人です。職業意識はあっても羊に特に関心があるわけではなかったのです。彼らにとって一番関心があったのは、報酬を得ることだけでした。

 更にましてや、主イエスは強盗、盗人ではありません。8節に、『私より前に来た者は皆、盗人であり、強盗である』と、10節には、『盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない』と主イエスは語られています。主イエスが語られた当時を端的に物語る資料の一文があるので紹介しておきましょう。「紀元1世紀のパレスチナは、ヘロデ大王の死後しばらくしてローマの属州に成り下がり、派遣されたユダヤ総督の度重なる失政から、野盗や民衆の扇動者、熱心党の抵抗運動などが活発化した」とあります。その代表的な人物の一人にメナヘムという人物がいました。彼はシカリオイという暗殺テロ組織を率い、ローマ支配への反抗活動を手厳しく行いました。シカリオイというその呼び名は『短剣を持った人々』を意味し、彼らは祭りの最中に群衆にまぎれて短剣で標的を暗殺し、相手が倒れると、再び群衆の中に紛れて暗殺を憤慨する一人になりすますのです。やがて、ヘロデ大王の築いた死海の辺りのマサダの要塞を占拠し、その武器庫から武器を奪い、部下を武装させ、エルサレムに攻め入り、王宮を制圧すると、自分自身が紫の王位で正装し、武装した部下を引き連れて神殿に入ったと言われます。これは自らがユダヤの王、メシアであるという宣言に等しいものでした。彼らは残忍非道、略奪の限りを尽くしていたのです。

私たちは世界史の中で、紀元70年にエルサレムが、テトス将軍率いるローマ軍に包囲されて滅亡したことを知っています。それはキリスト昇天後40年のことでした。100万人が惨殺され、9万人が捕虜となる悲劇でした。その全容を記したユダヤ人歴史家のヨセフスの「ユダヤ戦記」を読むと身の毛がよだちます。その一部を引用するとこうです。「実際その頃、ユダヤ人の間ではありとあらゆる不正邪悪がはびこり、彼らが手をつけなかった悪はなく、彼らが犯した以上の犯罪を思いつくことはできないほどだった。全ての者が公私ともに悪に染まって病み、神への不敬行為や隣人への不正行為では互いに相手に負けまいと競ったのである。権力を持つ者は一般大衆に不当な仕打ちをし、権力なき大衆は権力のある者を葬ろうと躍起になった。権力を持つ者は暴君になって君臨するのに熱心だったし、権力なき者は、暴力に訴えて金持ちの財産を略奪するのに熱心だったからである。彼らは犠牲者達にあらゆる類の侮辱の言葉を吐き、かれらの身を破滅させるためには非道なこと全てをやってのけた。」 しかも、先に紹介したシカリオイの暗殺者メナヘムの活動はその一部であって、歴史家ヨセフスは、それよりもっと悪辣な人物として、極悪指導者ヨハネやシモン、更にゼロータイ(熱心党)の残虐非道を列挙しており、主イエスが「強盗、盗人」と語られた背景には、当時のこうした恐るべき、おぞましい状況があったのです。そればかりか、私たちはどうでしょうか、今現在、盗み、殺し、滅ぼす強盗達が暗躍するのを、世界中至るところに見せられているのではないでしょうか。ウクライナで起こっている悲劇的紛争は、古代と何も変わっていません。私たちは今日、こうした現代の状況の只中で、主イエスの言葉を聞かなければならないでしょう。その暗黒の中に輝く言葉が、「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(11節)なのです。  

 私たちが今日、耳目を傾け注目するべき事実は、この良い羊飼いであられる主イエスが、羊である私たちを導いておられるということです。特に今日、主イエスが何をしようとしておられるのか、16節に注目する必要があるでしょう。主は語られました。「私には、この囲いに入っていないほかの羊がいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、一つの群れ、一人の羊飼いとなる

主イエスが「囲いに入っていないほかの羊」に心を向けておられると言われているのです。この「ほかの羊」とは誰のことを指し示しているのでしょうか。「この囲いに入っている羊」が、当時の主イエスの召された弟子たち、ユダヤ人クリスチャンであるとするなら、異邦人(ユダヤ人以外の外国人)のこととなります。聖書に見る限りでは、最初の教会は、ユダヤ人クリスチャンで構成されていました。福音はエルサレムから広まりました。キリストの十字架の福音は最初、ユダヤ人の間に広められたのです。だが、主イエスの御目(おんめ)は、広く全世界に向けられていたのです。主イエスは復活されると、弟子達に命じてこう語られました。「あなたがたは行って、全ての民を弟子にしなさい。」(マタイ1619) 先週、ヨハネ20章から語られ紹介されたあの疑い深いトマスは、この命令を受けて、どう行動したでしょうか。彼は最初にシリアに、次にペルシャに、続いて西インドに、最後には南インドにまで福音を届けようと宣教し、その地で殉教しているのです。今現在でもトマスを開拓者とする聖トマス教会が、大勢のインド人クリスチャンによって維持運営されています。トマスは、「囲いに入っていないインド人の羊」を囲いに導き入れるために遣わされたのです。その意味で、私たちは「囲いに入っていない日本人の羊」ではないでしょうか。それが囲いの中に、すなわち今現在、教会の中に入れられているのは、主イエスの預言の成就なのです。主イエスは「その羊をも導かなければならない」と確言されました。そこには非常に強い言葉が使われています。ギリシャ語の「デイ」は、「必要である、〜ねばならない、〜は当然である、〜することに決まっている、不可避である、どうしても〜ねばならない、決定的にそうなっていて変えられない」を意味します。「囲いの中に導く」これは、神のご計画の必然の結果なのだと主イエスは語られたのです。

 では、何が主イエスをしてそうさせたのでしょうか? それはキリストの愛に他なりません。11節には、「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と語られ、15節では「私は羊のために命を捨てる」と繰り返されています。キリストは二度も、「羊のために命を捨てる」と語られたのです。ですから、十字架でキリストが死なれたのは、殺されたのではないのです。18節でもこうも語られました。「誰も私から命を取り去ることはできない。私は自分でそれを捨てる」キリストは弟子たちにすでに、三度、殺害されることを予告しておられました。キリストはゲツセマネでユダに裏切られ、暴徒に引き渡されるときに、薄暗い園から逃げようとすればできたのに逃げませんでした。キリストは、大祭司カヤパに不当に裁かれた時にも、不利な証言を立てられても、自分を否(いな)むことをされませんでした。キリストは、ピラトに尋問された時にでさえ、沈黙されたのです。キリストはローマ兵に鞭打たれ、愚弄されるのに甘んじました。そしてキリストは、十字架上で「父よ。許し給え」ととりなし祈られました。主イエスは、自分の命を自ら進んで捨てられたのです。それは罪の赦しを罪人である私たちに得させるための愛ゆえの犠牲の死であったのです。それは、父なる神の救済愛であり、御子イエスの犠牲愛でした。

 では、何の目的で、私たち羊を導こうとされたのでしょうか?それは、羊に豊かな命を得させるためだと、主は言われた。『盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。私が来たのは、羊が命を得るため、しかも豊かに得るためである』(10節) 「しかも豊かに」の原語はペリッソスで、接頭辞のペリは「超えて」の意義です。ですから「ますます多くを得るため」「もっと豊かに」を意味しています。必要以上の、余分の、優れた、普通以上の、余剰、物が有り余る、

そうです、主イエスに導かれるなら、あまりある命に預かることになると言われているのです。イエスと共に歩むなら、生命力が沸き起こって来るのです。自分の生は価値あるものとなり、生きるに相応しい生が始まると言われているのです。しばらく以前から、日曜の礼拝に続いて、ゲストルームで「祈りの家チームミニストリー」が実施されているのをご存知でしょう。その根拠は、イザヤ56章7節で、「わたしは彼らを聖なるわたしの山に導きわたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるならわたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」と語られた預言です。ここヨハネ10章で、この主の言われた「この囲い」こそ、「祈りの家」のことです。そして祈りの家こそ教会なのです。

ところで、この「囲い」を誤解しないようにしましょう。これは教団組織、宗教団体のことではありません。今年のイースター、復活節を報道するテレビ画面に、ロシアのプーチン大統領がロシア正教の本堂で、十字架を堂々と切る姿が放映されていました。その司式を主導したキリル総主教こそ、ウクライナ侵略のプーチン大統領のメンター(助言者)であり、彼らのやっていることは全く聖書から逸脱した愚行なのです。教会が一つの民族宗教に堕落した結果です。この背景には古代ローマ帝国時代の東西教会分裂が横たわっており、ローマカトリックと東の正教は反目してきました。キリスト教会のある宗教教団、団体組織は、自分たちの正当性を主張するあまり、他教団には救いが無いことを強調する向きがあります。それはとんでもない過ちであり、主イエスの語られる「この囲い」とは公同の教会、唯一の教会、イエス・キリストを主とするユニバーサルな永遠の教会のことなのです。

私たちは、地上では、便宜的に教団、地方教会を構成するのですが、主にあっては、教団教派が違っても、礼拝形式が違っても、一つであることを確認しておきましょう。

この「囲い」、羊の囲い、主イエスの教会、祈りの家には、豊かな命が満ち溢れているのです。主イエスはそのために、羊である私たちを導き入れてくださいました。だからこそ、その豊かな命に具体的に預かるために、祈りの家チーム活動があることを覚えていてください。そして積極的に活用利用してください。「求めよ。さらば与えられん」そうです、具体的な必要のために祈ろうではありませんか。

 最後に羊飼い 主イエスに導かれる羊である私たちに何が求められているかを確認してお祈りしましょう。

第一に求められること、それは羊の門を通ることです。主イエスは7節のところで言われました、「よくよく言っておく。私は羊の門である」更に9節でも、「私は門である。私を通って入る者は救われ、また出入りして牧草を見つける」と語られました。ご自分を指して、比喩的に羊飼いと言われ、その上更に「私は門であると言われることに違和感があるかもしれません。これは簡単に説明すると、羊の囲いにはふたつ種類あるということなのです。一つは村の共同の囲いがあり、村中の羊全部が入ることになります。その囲いにはしっかりした扉あり鍵がかけられます。もう一つの囲いとは、放牧の季節になると高原に設置される簡易の壁に囲まれた空間なのです。出入りする小さな戸口はあっても扉はありません。つまり羊飼いが、夜になるとそこに寝そベって添い寝する。だから、羊飼いが門なのだ、ということになるのです。羊は羊飼いによらなければ出入りができません。これは、マタイ7章13節で語られている「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道も広い」に通じる発言です。狭い門はキリストです。門から入る。それは、主イエスを信じ受け入れることです。あなたはどうでしょうか、導かれてイエス・キリストを信じ受け入れて救われているでしょうか。主イエスを信じる、主イエスを受け入れることが、狭い門から入ることなのです。

 更に求められること、羊飼いに羊が導かれる肝心なことは、声を聞き分けることです。16節に主はこう語られていますね、「私には、この囲いに入っていないほかの羊がいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける」ある資料に聖地旅行者の証言がこうありました。『彼はこのように報告しています。「羊の写真を撮りたいと思い,近くに来させようとしましたが,その羊はわたしたちの声を知らないのでついて来ませんでした。ところが一人の羊飼いの少年がやって来て,羊を呼ぶや否や,彼の後について行くのです。そこでわたしたちは,テープレコーダーにその羊飼いの声を録音し,後で流してみました。驚いたことに,その羊は,今度はわたしたちにもついて来ました」。』さて、残念ながら私たちは直接、羊飼いイエス様の声を聞いたことはありません。しかし、イエス様の声は、これまでの人生の要所要所で何度も何度も、私たちの名を呼んでくれた愛する者たちの声に、重なって聞こえてきたのではないでしょうか。主の導き入れられる囲いが、教会であるとすれば、教会は主イエスの現在の地上の身体です。主イエスは、教会の兄弟姉妹たちの内に、聖霊によってお住まいであり、兄弟姉妹たちの肉声を通して、私たちに語りかけておられると言うことができるのです。大切なことは、様々な人々の語りかけに、主の羊飼いの声を聞き分けることでしょう。そして求められていることは、主イエスの後に付いて行くことです。主は、「私を緑の牧場に伏させ、憩いのみぎわに伴われる」のです。「主は御名の故に義の道に導かれます。」「たとえ死の陰を歩むとも恐れません。」主が共におられるからです。今週も主イエスに導かれ、豊かな命の道を進みゆかせていただくことにしようではありませんか。