8月27日礼拝説教(詳細)

「強い人と弱い人」  ローマ14章1〜12節

 信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽んじてはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてもなりません。神がその人を受け入れてくださったのです。

他人の召し使いを裁くあなたは、一体何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人次第です。しかし、召し使いは立つでしょう。主がその人を立たせることがおできになるからです。

ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。おのおの自分の考えに確信を持つべきです。特定の日を重んじる人は主のために重んじます。食べる人は主のために食べます。神に感謝しているからです。また、食べない人も主のために食べません。神に感謝しているからです。

私たちは誰一人、自分のために生きる人はなく、自分のために死ぬ人もいません。生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。                

8月27日、今日の礼拝のため、この聖書箇所が与えられたとき、次々と思い出されたことが実は三つあるのです。その一つは、私が21歳で牧師に就任していた頃、教団の監督として派遣されていた宣教師のマッセン博士が、当時、流行り始めたフォーク調の讃美歌を紹介された時のことです。

彼は私に薄い小冊子風の賛美集、そのタイトルも「友よ歌おう」を手渡され、「こういう讃美歌があるがどうかね。」と私の感想を尋ねられたのです。「どう思いますか」と問われたその時の私の反応は、率直に言って、「こんなのは讃美歌ではありませんよ」でありました。私は聖歌で育ち、神学校でも聖歌だけ学んできました。神を讃える讃美歌は聖歌の他にはない、それが私の確信でした。

二つ目は、その宣教師の後に派遣されてきた 27 歳の若いメッツエル宣教師と、所沢市の宣教師宅で牧師会をした時のことです。

昼になり、街に出て昼食とすることになりました。私たちが、レストランで思い思いに注文し昼食を済ませると、その帰り道のことでした。通りすがりにボーリング場があり、その広間がビリヤードになっているのを見て、宣教師が「玉突きをやって行こう」と提案したのです。牧師達は顔を見合わせましたが、彼の後について仕方なく順番に玉突きゲームをしたのです。その時の私の心境は、口にこそしませんでしたが、「クリスチャンたる者、決してこんな所に入って遊ぶべきでは無いのではないか」でありました。

三つ目は、石川県時代のことです。金沢市内の日本基督教団所属・長町教会で、米国留学帰りの新進気鋭の牧師の講演会に出席した時のことです。彼は「文化に根差した福音宣教」、福音の土着化を研究してこられました。

その講演の最中に、彼はやおら傍のギターを肩に掛けると、坂本九さんの「上を向いて歩こう」を讃美歌風に歌詞をアレンジして歌い上げたのです。そして「日本の教会は盆栽のようではありませんか。日本の文化にもっと土着化するべきではありませんか」と熱弁をふるわれました。その講演に続いて質疑応答時間がありました。すると、年配の男性が手を挙げ質問したのです。彼はその教会の役員であり、職業は大学の教授でした。「先生はギターで賛美を歌いましたが、教会でギターを弾くなどとはいかがなものでしょうか。教会の賛美の伴奏はオルガンと決まっているのではありませんか」と抗議するように質問したのです。どの話も今から思えば滑稽に思えるものばかりなのですが、皆さんも、大なり小なり、同じような経験があるのではありませんか。そんな場合に、あなたはどのように感じ、どのように反応し、どのように対応されたでしょうか。

このローマ書は、使徒パウロが、第三次伝道旅行でコリントに三ヶ月滞在中にしたため、人に託してローマ教会に送った手紙です。ローマ教会は、それまでにその存在がよく知られていたようですが、パウロが開拓した教会ではありません。パウロはその内情を詳細には知ルコとはなかったのでしょうが、それでも、ローマ教会の直面している問題の一つを耳にしていたため書き記したもの、それが実はこの14章なのです。

.妥当な差異

その問題が何かというと、ローマ教会が強い人のグループと弱い人のグループに分かれて対立状態にあった、ということです。1節に「信仰の弱い人を受け入れなさい。」とパウロは書き出しています。15章1節を見ると、「私たち強い者は、強くない者の弱さを担うべきです。」とありますね。私たちは、自分たち人間を理解する上で、人間を様々な仕方で分類することをするものです。性別の違いから男と女に分類します。年齢の違いから老若男女に分類するでしょう。財産資産の違いから金持ちと貧乏人に分類します。家柄の違いから上流、中流、下流という風に分類したりもします。学歴の違いから高学歴を優遇して格差をつけたりもします。挙げれば、それこそキリがないくらいに分類しようとするものです。その分類の一つが強い人と弱い人なのです。この強弱の分類は、ありとあらゆる分野で使われる分類でしょう。その典型はスポーツの世界です。夏の高校野球が終わったばかりです。慶應が仙台育英を8対2で破り100年ぶりに優勝して大喜びでした。強いチームが弱いチームを打倒したのです。強い人と弱い人の分類を挙げると、そこにイメージされるのは強い人が弱い人を打ち負かして勝利することです。強い人は常に弱い人を打ち破り、勝利者となるのです。では聖書で、弱い人と言う場合にそれは誰のことを言うのでしょうか。強い人と言う場合はどうでしょうか。

①弱い人

今日の聖書箇所を見る限りでは、弱い人とは、クリスチャンであって野菜だけを食べる人のこととなります。菜食主義クリスチャンのことです。弱い人とは、肉を絶対に食べず、豚肉などはもってのほかです。何故菜食主義で、肉食厳禁なのか、その理由の一つは、旧約聖書のレビ記11章に規定されるような食物規定のためだと言われます。もう一つの理由は、肉屋で売られている肉の多くは、異教の偶像に捧げられた肉であったため、それを食べることで偶像崇拝に加担することになるのを避けるためだったようです。そればかりではありません。弱い人は、特定の日を重んじ、カレンダーにきちんと書き込み、絶対に厳守する人です。ユダヤ教では、安息日をはじめ、多くの宗教儀礼に関わる祭りの日、過越祭、仮庵祭などの規定が沢山ありました。ユダヤ人は厳格にこれらの祭りを守ることが信条でした。彼らの多くはユダヤ教から改心したユダヤ人クリスチャンであったと思われます。これらの弱い人とみなされた人たちは、イエス様を心底主と信じたクリスチャンでしたが、食事を制限し、日にちを厳守していたのです。

②強い人

では強い人とは誰なのでしょうか。2節によれば、「何を食べてもよいと信じている人」です。5節によると強い人とは、「すべての日を同じように考える人」のこととなります。このローマ書を書いたパウロは、ではどちらかと言えば、強い人です。15章1節で「私たち強い者は」と自分を含めて言っていることから明らかですね。強い人であるパウロは食べ物について、こう理解しています。14節です。「私は、主イエスにあって知り、確信しています。それ自体で汚れたものは何一つありません。汚れていると思う人にとってだけ、それは、汚れたものになるのです。」このような確信は、イエス・キリストの福音の理解から得られるものです。聖書は旧約聖書と新約聖書から成り立っていますが、旧約聖書は救い主イエス・キリストが来られることを指し示し、新約聖書は、救い主イエス・キリストがすでに来られたことを指し示すものです。旧約はメシアを預言し、新約は預言の実現成就であります。その意味からすれば、新約聖書が真理の実体であり、旧約聖書は真理の影であるという関係になります。真理の実体であるイエス・キリストが現れて下さった今は、真理の影はその役割を終えていることになります。それゆえに、食べ物の規定も、儀礼の祭りの日の規定も、それに固執して守らなくてもいいという理解に達するわけです。そう理解して救われているクリスチャンは、何を食べてもいいのだし、どの日も特別に重要ということはない、と判断する、そう考えるクリスチャンは強い人だとみなされるのです。

③差異の妥当

しかし、同じ教会に強い人と弱い人が混在しているのは不自然でしょうか。そんなことはありません。強い人の考えと弱い人の考えの違いが、根本的な救いの問題には関係していないからです。両者の考えに違いがあっても、イエス様を救い主と信じて救われていることに変わりはありません。パウロが、もしそれが救いに関わることであれば別問題で、食べ物でも祝日問題でも、徹底的に厳格に対処していることがガラテヤやコロサイの手紙で分かります。ある特定の食べ物を避けないと救われないとか、特定の日を、安息日を含めて厳守しないと絶対に救われないとか、もし主張する人があれば、パウロは徹底的に反論しているのです。救はただイエス様を信じる信仰による、恵みによるのであるからです。弱い人と強い人が生じるというのは、各自の信仰の秤の違いから生じるものなのです。ローマ12章3節にこう教えられています。「私に与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。分を越えて思い上がることなく、神が各自に分け与えてくださった信仰の秤に従って、慎み深く思うべきです。」

先週月曜日のことですが、ゴミ処理場に溜まった大型ゴミの投棄に行ってきました。最初に処理場でするのは、ゴミを積んだ車ごと大きな秤の上に乗り、重量測定をすることです。帰りに車ごと計り直し料金を払う仕組みです。それは実に巨大な秤です。しかし、秤は秤でも、切手を量れるような小さい秤もありますね。私たち一人一人にそれぞれ違った信仰の秤が与えられている、信仰的に物事を考える度量があるのです。救われて一ヶ月、一年後、10年後の秤はその度量が違っていて当然でしょう。教会はキリストの体であります。私たちキリスト者は体を構成する肢体です。しかも全く違った肢体によって構成されています。手があり足があり、口、目、鼻の違いがあって当然であり、差異が妥当していますね。この同じキリストの体である教会に、強い人と弱い人が混在していること、違った考え方、生活の仕方をする人がいることは、当然であり妥当していると理解することにしましょう。

II. 不当な批判

そういう訳なので、聖書は、お互いに批判し合ってはならないと私たちに強く勧告するのです。1節で言われます。「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません」相手が自分の生活の仕方や考え方が違っているからといって、イライラしたり、嘲って軽蔑したりしてはならないと言うのです。何でも平気で食べる人、日にちにこだわらない人、酒を飲んでも問題はないと思う人は、菜食主義者や禁酒家を見ると「ああ、まだ本当の福音の理解に至っていないな。どこまでも頑迷なんだから!」と批判したくなるかもしれません。強い人だけではありません。弱い人も同じです。3節に「食べる人は、食べない人を軽んじてはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてもなりません。」と勧められます。肉を食べない人は、肉を何でもムシャムシャ食べるのを見て、「あの人は、クリスチャンらしい顔をしているけれど、汚れた肉を食べて、実際は汚れている。」と批判したり、アルコールを平気で飲むクリスチャン、ビールも飲むし、焼酎も、ウイスキーも飲むのを見て、「どうかしているよ。」と裁きたくなります。肉を食べない人、酒を飲まない人は、自分が弱い人だとは全く思っていません。むしろ逆で、自分は健全でしっかりした信仰の強い人だと自覚しているのです。しかし、強い人も弱い人も互いに相手を批判し、裁き、侮辱することは不当なことなのです。その理由を聖書が三つ挙げていますから確認しておきましょう。

①キリスト者は神の僕であるから

その第一は4節で、「他人の召使を裁くあなたは、一体何者ですか。」と問われています。奴隷制度が社会の仕組みでしたから、主人と召使の関係で裁きの不当であることを語っているのです。自分の僕ならいざ知らず、他人の所有である僕のことをとやかく批判するのは、全く不当であり当たっていないではないか、というのです。4節で「その主人次第です」と言われるのに続いて、「主がその人を立たせることがおできになるからです。」と言われる「主」は、原語ではホ・キュリオスであり、これは主イエス・キリストのことです。強い人も弱い人もイエス様を信じて救われているのであれば、十字架の血の代価を払われて罪の奴隷から買い取られ、贖われて主の僕とされているという意味です。その主に属する僕をとやかく批判することは全く当たらないことなのです。それはとんでもない越権行為です。ですから、イエス様が僕とされた人を勝手に批判したり裁いたり、軽蔑したりしてはならない、これが第一の理由です。

②手段は違っても目的が同じであるから

裁いてはならない第二の強力な理由は、考えややり方が違っていても、双方が目指す目的が全く同じもの同士だからなのです。6節から繰り返し言われていることは、「主のために」でしょう。「特定の日を重んじる人は主のために重んじます。」「食べる人は主のために食べます。」「食べない人も主のために食べません。」7節ではこう言われています。「私たちは誰一人、自分のために生きる人はなく、自分のために死ぬ人もいません」更に続けて8節に「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」と言われます。なぜそうなのか、それは、イエス様が自分の罪のために十字架に身代わりとなり死んでくださり、復活されたからなのです。このイエス様を信じた者は、例外なく、生きる目的が全く変えられるのです。それまでは、自分のために生きていた、誰か自分の大切な家族のために生きていた、何か価値ある思想や事業のために生きていたのですが、変えられたのです。どんなに相手の考えや生活態度ややり方が違っていても、根っこは同じなのです。だから、批判してはならない、これが第二の理由なのです。

③裁くのは神であり自分も裁かれるから

批判したり裁いたり、侮辱したりしてはならない決定的な第3の理由は、人を裁くことができるのはただ独り神だけであり、しかも、批判する自分すらも神に最後に裁かれる者であるからです。10節ですね。「それなのに、なぜあなたは、きょうだいを裁くのですか。また、なぜ、きょうだいを軽んじるのですか。私たちは皆、神の裁きの座の前に立つのです」この7〜12節には、3つの人間存在の枠組みがはっきり語られていますね。生きること、死ぬこと、そして裁かれることです。12節「それで、私たちは一人一人、自分のことについて神に申し開きすることになるのです」イエス様を信じて救われたクリスチャンは、決して死んでも罪のために裁かれることはありません。キリストが十字架で身代わりとなり裁かれたからです。しかし、私たちが自分の人生をどう生きたかについては、申し開きをする責任があるのです。私たちは、その意味で他のクリスチャンの考えや態度や行為についてとやかく批判するような権利は全く与えられてはいません。14章1節「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。」 批判し裁き蔑むことは不当なのです。

III. 相当な称賛

最後にパウロがここに何故、旧約聖書のイザヤ45章を引用したのかに注目しましょう。11節「こう書いてあります。「主は言われる。『私は生きている。すべての膝は、私の前にかがみ、すべての舌は、神をほめたたえる』と。」この引用の最後の「すべての舌は、神をほめたたえる」のところは、手元の聖書では「すべての舌は誓い」となっているのですが、パウロは、70人訳ギリシャ語聖書から引用しています。私は、使徒パウロがここにイザヤ45章を敢えて引用したのは、ローマ教会の対立している二つのグループを本来の使命に立ち返らせようとしたためだと思うのです。何を食べる食べないの、どの日が重要なのか、お互いの意見ややり方が違うからと言って、重箱の隅を突くように、こせこせと批判し合い、裁き合い、蔑み合うようなことはやめて、私たちを限りない愛の故に、大いなる犠牲を払って救ってくださった偉大な神様を称賛し、礼拝しようではないか、と喚起しているのではないですか。

パウロが引用したイザヤ45章といえば、バビロンに70年間捕囚とされていたイスラエルの民を、歴史の支配者なる主なる神が、ペルシャの初代皇帝キュロスを用いて解放する預言です。45章1節にこう預言されています。「主は油を注がれた人キュロスについてこう言われる。私は彼の右手を取り彼の前に諸国民を従わせ、王たちを丸腰にする。彼の前に扉は開かれどの門も閉ざされることはない。」これは B C540年にペルシャ帝国が勃興し、大バビロン帝国が打倒される預言です。5節を見てください。「私は主、ほかにはいない。私のほかに神はいない。私はあなたに力を授けたがあなたは私であると分からなかった。」ペルシャ王クロスは、バビロンに勝利するのですが、その背後にある神の支配を知らないのです。12節を見てください。「地を造り、その上に人間を創造したのは私だ。私はその手で天を広げ、その万象に命じた。私は義によって彼を奮い立たせ、彼の道をすべてまっすぐにする。彼は私の都を再建し、私の捕囚の民を解き放つ。代価によってではなく、賄賂によってでもない——万軍の主は言われる。」「彼を奮い立たせ」のこの「彼」とはクロス王のことです。事実、クロス王がイスラエルを解放し、祖国に帰還させ、都の再建を実行させたのはクロス王だったのです。18節で再び啓示されて語られます。「天を創造された方、すなわち神  地を形づくり、造り上げ固く据えられた方  地を空しくは創造せず人の住む所として形づくられた方  主はこう言われる。 私は主、ほかにはいない。」パウロは、ローマ教会の信仰を呼び覚ますのです。その当時のローマは最強の皇帝による支配体制に置かれていました。そのローマ皇帝など足元にも及ばぬ偉大な天の神に、罪赦されて立ち帰ったのではないか。だから、互いに裁きあって対立するのではなく、むしろ、歴史の支配者である主なる神こそ賛美され、礼拝されるに最も相応しい方として称賛するべきではないか、パウロはそう訴えているのです。

今日、私たちを取り巻く世界情勢は、決して手放しで喜べるような状況では全くありません。しかし、世界のあらゆる状況は全能の主なる神の御手の中にあることを覚えておきましょう。今日も、あなたはイエス・キリストを信じることによって神の国に入れられ、神の主権によって生かされているのです。食べるなら神に感謝して食べましょう。食べないなら神に感謝して食べないでいましょう。特定の日を重んじるなら神に感謝して重んじ、神に感謝してどの日も同じように見なしていましょう。「私たちは誰一人、自分のために生きる人はなく、自分のために死ぬ人もいません」この新しい8月の最後の週も、日々に主のために、あれもしこれもし、主に栄光を表すことにしましょう。

8月20日礼拝説教(詳細)

「宗教リトマス紙」  ヤコブ1章26、27節

自分は宗教に熱心であると思っても、舌を制することをせず、自分の心を欺くならば、その人の宗教は空しいものです。みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まることなく自分を守ること、これこそ父なる神の前に清く汚れのない宗教です。

今日は8月20日ということで、ヤコブ1章26、27節をお読みします。それは、教会暦で今日が聖霊降臨節の第13主日で、世界中の多くの教会がヤコブ1章21〜27節から、この日に礼拝で説教をすることにしているからです。26、27節に三回繰り返されている言葉があります。それは宗教です。宗教といえば、宗教を非常に重要視した有名な歴史学者にアーノルド・トインビーがいます。彼は第二次大戦前までは宗教にはとても懐疑的でしたが、対戦後に全く考えが変ったと言われています。最初の頃は「文明が宗教を創り出してきた」と文明を強調して語っていたのが、最後には「宗教がすべての文明の基礎である」と語るように変えられたのです。この宗教が、今現代では非常に危険視される傾向にあります。大分以前には、オウム真理教が社会を騒がせました。最近では統一原理絡みで、安倍晋三元総理が暗殺される事件が起こり、宗教が国会をも揺さぶり問題視されています。

ではこの宗教とは何か。「宗教の定義は宗教学者の数ほどもある」と言われ、日本の文部省が作成した宗教定義集には104も挙げられています。しかし、今ここで宗教の定義を論じることが中心ではありません。それでも宗教の共通理解をもって話しを進めるためにも、世界宗教辞典の定義をここで引用しておきましょう。『宗教とは人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり、その観念体系に基づく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団である』ちなみに、この定義に準ずる世界の宗教人口のランキングを挙げるとこうなります。2009年版で古いのですが。

①キリスト教(22億・33%)②イスラム(15億・22%)③ヒンズー(9億・13%)④無宗教(7億・11%)⑤仏教(4億・5%)6番以降は省略します。

では、このヤコブ1章26、27節に三回言及されている宗教は何か? それは言わずもがな、イエス・キリストを信じる信仰です。このイエス・キリストを信じるクリスチャンの数は、日本では極端な少数者に過ぎず、人口の1%にも足りていません。しかしながら、世界的な視点からすれば、キリスト教信者は圧倒的な多数者となります。80億を越えた世界の30%以上がクリスチャンなのです。しかし数の多少などはここでは全く問題ではありません。この聖書の言葉は、信じているという私たちの信仰の性質を問題にするからです。水が酸性かアルカリ性かを一瞬にして判別するのにリトマス試験紙があります。もう小学校時代に理科で勉強して誰でも知っています。赤や青の試験紙が変色することで、水の性質が一瞬にして分かってしまうというわけです。今日、ここに宗教心のリトマス紙が三種類用意されています。

.舌を制御すること

その第一は、舌を制しているかいないかを試す宗教リトマス紙です。「自分は宗教に熱心であると思っても、舌を制することをせず、自分の心を欺くならば、その人の宗教は空しいものです」舌禍という言葉がありますね。口は災いの元だということです。人は言うべきことを言わず、言うべきでないことを口に出すことで、自らに災いを招いてしまうのです。今日、ここにいる私たちほとんども毎週の礼拝に参加しています、日々お祈りもしている、聖書を開いてみことばを読んでいる、献金をささげ、讃美歌も愛唱している、聖餐式にも定期的にあずかっている。そうではありませんか。だからといって「私は宗教に熱心なのです」と、表立って言う人はいないでしょう。しかし、傍目から見たら、きっと熱心だと思われるのではないでしょうか。ところが、自分の舌をその人が制することをしていないなら、宗教は空しいのです。空しいとはその人の宗教が空っぽだと言うのではなく、宗教の性質が違っている、と言われるのです。

1章19節ではこう言われます。「私の愛する兄弟達、よくわきまえておきなさい。人は誰でも、聞くに速く、語るに遅く、怒るに遅くあるべきです。」現代社会では、新幹線でも、マラソンでも、ファストフッドでも、何でも速いことが尊重され喜ばれています。しかし、語ること怒ることは遅くあるべきだと聖書は教えます。これは何も、あまりしゃべらない人間になれ、ということではありません。聖書が述べていることは、無口で寡黙な人間になることではなく、正しくコントロールされた言葉を語る者となることです  

更に3章を見れば、そこに1〜12節まで、舌禍に対する警告が辛辣に語られています。 その2節で言われます、「私たちは皆、度々過ちを犯します。言葉で過ちを犯さないなら、その人は体全体を制御することのできる完全な人です。」言葉で過ちを犯す、それが私たちの現実ではありませんか。その8節をご覧ください。「しかし、舌を治めることのできる人は一人もいません。舌は、制することのできない悪で、死をもたらす毒に満ちています。」人は誰しも自分で思うように、この自分の舌を制御することができないのです。その結果、キリスト信者と言えども、矛盾したことを言い兼ねません、しかねません。9節をご覧ください。「私たちは舌で、父なる主をほめたたえ、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪っています。」これは主を信じているクリスチャンのことでしょう。私たちの礼拝に「賛美礼拝」を取り入れて久しい年数が経ちましたね。チームの方々は毎週礼拝後に集まり練習を重ね、その技術程度のグレードアップには目覚ましいものがあります。「主に向かって歌え。新しい歌を主に歌え!」それは神を礼拝する最高の表現です。素晴らしいことです。しかし、その一方で、「神にかたどって造られた人間」を、神様がその人を愛し、命の代価を払って罪から救われた人間を、災いあれと呪う、悪口を言う、批判するとするなら、聖書は、それは泉の同じ穴から、甘い水と苦い水が同時に湧き出るようなもので、矛盾しているのではないか、と言っているのです。

「舌を制することをせず」という、この「制する」とは「くつわをかける」ことです。3章3節で「馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を操ることができます。」とあるこのくつわです。それさえあれば、非常に小さい道具ですが、どんな馬力のある馬であっても、馬の乗り手は手綱で楽々コントロールすることができます。神は人の顔に目は二つ、耳も二つ、しかし、口はただ一つだけ造られました。二つの目でよく見、二つの耳でよく聞くことは大切です。しかし、一つだけの口でしっかり制御された言葉を語ることがもっと大事です。

イザヤ57章19節に素晴らしい主の約束の言葉があります。主なる神が言われました。「唇に賛美の実りを創造しよう」人が語るなら実りを神が共に創造してくださると約束されているのです。口で言葉を語り、その言葉によって物事を興し、物事を作り出すのは人間だけです。猿も、小鳥も会話をしているように見えることがありますが、比較になりません。人間は、語れば事が実現する神に似せて造られた唯一の被造物なのです。自分の口の発言をしっかり抑制コントロールし、語るべき時に、語るべきことを語り、それによって「唇に賛美の実り」を造らせていただきましょう。神の御名が褒め称えられるような働きをさせていただきましょう。あなたの舌にはくつわがかけられ制御されているでしょうか。

.人を差別すること

宗教の第二枚目のリトマス紙は、人を差別することです。27節、「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし」これこそ清く汚れのない宗教です、と語られています。孤児とは保護する父や母がいない淋しい子供達です。やもめとは、配偶者の夫に死に別れたこれまた寂しく一人暮らしする女性のことです。彼らを「困っているときに世話をする」とは、彼らを訪問し、顧み、見舞うことです。そしてその人の必要に仕えることです。ここで挙げられている孤児や寡婦は、福祉を必要とする弱い立場にある人々のすべてを代表しており、社会的に貧しく弱い立場にあるあらゆる人々を含みます。

このリトマス紙の具体的な例が展開されているのが次の2章1〜12節です。1〜4節を読んでみましょう。「私のきょうだいたち、私たちの主、栄光のイエス・キリストへの信仰があるなら、分け隔てをしてはなりません。あなたがたの集会に、金の指輪をはめ、きらびやかな服を着た人が入って来、また、汚れた服を着た貧しい人が入って来たとします。きらびやかな服を着た人に目を留めて、『どうぞ、あなたはこちらにお座りください』と言い、貧しい人には、『あなたは、立っているか、そちらで私の足元に座るかしていなさい』と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、悪い考えに基づいて裁く者になったのではありませんか。」

私は朝食時間に合わせて妻と一緒に、朝ドラの「らんまん」を観ているのですが、先日、牧野万太郎の長屋に、子供時代からの親友で武家の出身の広瀬佑一郎がひょっこり訪ねる場面がありました。アメリカから帰国した佑一郎が万太郎を訪ねてきました。ミシシッピ川の堤防工事に技師として関わった佑一郎。何もかもアメリカは美しく強く雄大だったと語ります。自分が目指すべき工学の方向をつかんだようです。自然と人間の暮らしを調和させる工学の道は、佑一郎がずっと目指していたものでした。しかし人間の素晴らしさと同時に、恐ろしさも知ったと言います。アメリカの奴隷制度の名残り、消えない差別と人身売買、大きな建造物を造る人間が、人間の差別を作る現実を嫌というほど見てきたのでした。「昔は俺らも武士や町人や言いよったけど・・」「人が人を差別する、嫌じゃのう」出会った頃は元武士の家柄をかざし、万太郎や竹雄にひどいことをした時期もありました。佑一郎はこれから札幌に戻り、農学校の教授になるようです。万太郎がすごいのうと褒めます。「おまんじゃち、すごいろう」佑一郎は、草花に優劣をつけない、それぞれが面白いという万太郎こそすごいと褒めます。「おまんは、この先も変わりなよ」万太郎にとって、裕一郎の言葉は何よりも励ましです。しかし、彼はこうも言いました。

「札幌農学校では神のことを学んだけれど、その神を信じるアメリカでは差別が酷い」と。札幌農学校とは、あの「ボーイズ・ビ・アンビシャス」で知られたクラーク博士が聖書を学生たちに教えたあの明治初期の学校であり、そこから新戸部稲造や、内村鑑三という有名なキリスト者が排出されていたことを知っています。しかし、裕一郎は米国に神信仰の矛盾を見せつけられたというのです。

ヤコブは、2000年前の初代教会時代においてすら、このような人種差別、身分差別がキリスト教会の集会であり得たことを隠さず取り上げます。そして、2章1節で「栄光のイエス・キリストへの信仰があるなら、分け隔てをしてはなりません。」と強く指摘するのです。この「分け隔て」あるいは「えこひいき」と訳されるプロソーポンレンプシアという原語は、顔と受け取るの合成語です。それは、人の顔をうかがい、容貌、外観、なりふりを見て、自分にとって益にならなければ、無視し、冷たい態度を取ることです。もし、少しでも自分の心に人を見下し差別する態度があるなら、その人の宗教は汚れている、とこのリトマス紙は判定するのです。

そうした中で、宗教リトマス紙で「あなたは清い汚れない宗教です」と間違いなく判定されたのは、孤児院経営者で知られたジョージ・ミュラーですね。彼は 14 歳で教会の堅信礼を受けたものの、16歳になる頃にはならず者の泥棒として刑務所にいたといわれています。しかし、やがて二十代のはじめ、彼は祈りと聖書研究のために定期的に集まる人々と接するようになり、彼らの証しをとおして、ミュラーは人生の転機を迎え、神の家族の一員として生まれ変わりました。そんな彼が31歳の時に、ブリストル市に30人の子供のための最初の孤児院を設立します。当初から定期的に給料をもらうことを辞退し、生涯を通じて自分のためにも、慈善事業のためにも、経済的必要について一切訴えることを彼はしませんでした。ミュラーの福祉事業の拠り所は、聖書のただ一つの箇所で、それが詩篇68編6節でした。口語訳で引用するとこうです。

「その聖なるすまいにおられる神はみなしごの父、やもめの保護者である。」神が孤児の父なら、孤児の世話をしないはずがない。子供達のために父が備えてくれるはずである、それをミュラーは誰にも救済依頼をせず、聖書一冊に頼って、「父よ。子供達に日毎の糧を与えてください」と祈り続けたのです。ときには一文無しにもなりましたが、その後 63 年間、祈りの答えとしてミュラーは全ての必要が満たされ、各地の働きを合わせると、およそ一万人の孤児の世話をしたと言われています。

静岡県浜松市で福祉事業を立ち上げた長谷川保の信仰も思い出されますね。その事業は昭和五年に貧しく結核に病む青年を見かねて数名のクリスチャン青年が一戸の小さな病室を建てて面倒を見たのが端緒でした。感染を危険視する地域住民から、幾たびも立退要求を受けたり、経済的破綻をきたしそうになる危機を通るのですが、ベテルホーム(神の家)と呼ばれた事業は驚くべき発展を遂げ、現在では213施設を有し、518の事業を展開、職員数は16、589名を数えるまでに成長しています。

しかし、こんな大規模の福祉事業を誰もができるわけではありません。ヤコブは、2章14節から具体的にこう語っています。「私のきょうだいたち、『私には信仰がある』と言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、その人を救うことができるでしょうか。もし、兄弟か姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたの誰かが、その人たちに、『安心して行きなさい。暖まりなさい。存分に食べなさい』と言いながら、体に必要なものを与えないなら、何の役に立つでしょうか。同じように、信仰もまた、行いが伴わなければ、それだけでは死んだものです。」神の憐れみを受けた者として、自分の生活の場で必要とされる人々を見かけるなら、差別することなく、憐れみをかけ、具体的にどんなに小さい奉仕でも、実行して仕えることです。

.汚れに染まること

3 枚目のリトマス紙は27節で明らかになります。「世の汚れに染まることなく自分を守ること」です。世の汚れに染まっているかいないかを試す宗教リトマス紙の詳細が、これまた4章で詳しく語られます。4章4節をご覧下さい。「神に背く者たち、世の友となることは神の敵となることだと知らないのですか。世の友になろうとする者は、自らを神の敵とするのです。」聖書で言うところの世とは、神に背を向け、神から離れ、神の御言葉に聞き従わない世界のことです。

第一ヨハネ2章15〜17節にも使徒ヨハネが勧告していますね。「世も世にあるものも、愛してはなりません。世を愛する人がいれば、御父の愛はその人の内にありません。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、見栄を張った生活は、御父から出たものではなく、世から出たものだからです。世も、世の欲も、過ぎ去ります。しかし、神の御心を行う者は、永遠にとどまります。」

この世の特徴は、自らの地位や名誉をひたすらに追い求めることです。富、暮らし向きのよさ、目の欲、それらをひたすらに追い求めることです。そこに価値を見出し、そこに喜びを見出します。神ではなく、自分を誇る歩みなのです。それがこの世です。イエス・キリストを信じるとは、神の国に入ることです。この世にいながらにしてもう一つの世界に生きる、それがクリスチャン生活です。この地上に生きている限り、二つの世界に同時に生きるため、そこには耐えまざる葛藤が生じることが、どうしても避けられません。この葛藤に勝利するのは並大抵ではありません。なぜなら、絶えず人は誘惑されているからです。

ヤコブ1章14節ではこう語られます、「人はそれぞれ、自分の欲望に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。そして、欲望がはらんで罪を産み、罪が熟して死を生みます。」人を誘惑するのは誰ですか。ここには書いていません。書いてあるのは4章7節です。「ですから、神に従い、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」悪魔は創世記のエデンの園だけの現実ではありません。目に見えない人間の敵である悪魔は誘惑者として、今現在、目に見えなくても現実の存在なのです。アダムとエバに近づいた誘惑者は蛇でした。蛇は悪魔の象徴であり、蛇が巧みに獲物に近づき滑り込むように、現代人の我々の心に侵入し、誘惑を密かに仕掛けてくる張本人なのです。

私たちの教団では、先端のインターネットのメディアを積極的に教会で活用するため、チャーチ・メディア・コミュニティが立ち上げられました。この情報伝達手段を善用すれば、素晴らしい効果が上がること請け合いです。しかし、この優れたネット技術手段を、悪魔が悪用し、多くの人々を誘惑し、罪に陥れているのも現実なのです。

「世の汚れに染まることなく自分を守る」とは禁欲的な生活を真面目に生きなさいということではありません。私たち人間のうちにある食欲も、性欲も、所有欲も、支配欲も知識欲も、全て本来は神から与えられ、善なるものです。それなしに人は人間らしく生きることはできません。悪魔は、その本来善である欲をそそのかして誘惑し、罪を犯させるのです。ウクライナで起こっている戦争もその奥深い動機は貪欲です。未婚の男女間の不品行や、結婚している男女の不倫などは、性欲の正しい用い方の逸脱、脱線です。

聖書は誘惑に対処し勝利する秘訣をこう言います。3章7節「神に従い、悪魔に立ち向かいなさい。」3章8節「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。手を清めなさい。二心のある者たち、心を清めなさい。」神に近づき、神に従い、その一方で誘惑者である邪悪な悪魔に立ち向かうことです。

今日、宗教リトマス試験紙で、神様の前で自分の心と生活を試してみましょう。自分の舌にくつわをはめて、語る言葉をきちんとコントロールしているでしょうか。クリスチャンとして当然なすべき宗教行事をキチンとしていても、困っている人を見ても、心を閉ざして我関せずと、無関心ではないでしょうか。

目の欲、肉の欲、持ち物の誇り、暮らし向きの自慢に傾き、自己満足に陥っていないでしょうか。宗教に熱心であることの一つは、聖書の言葉に耳を傾け聞くことでしょう。しかし、22節では「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの人であってはなりません」と言われています。人を騙す、欺くとは言いますが、自分で自分を欺く、騙すことを人はするものですか。それを自己欺瞞と言いますが、それは自分で自分の心をあざむくことです。 自分の良心や本心に反しているのを知りながら、それを自分に対して無理に正当化することです。神の御言葉に聞いて、神に従いましょう。そして、祈りを通して神に近づき、主の御前にへりくだりましょう。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵をお与えになる」そうなされる方々に主の祝福が豊かにあるよう祈ります。 

813日礼拝説教(詳細)

「未来予想の的中」  エゼキ12:21〜25

主の言葉が私に臨んだ。

「人の子よ、イスラエルの地について、『日々は延び、幻はすべて消えうせる』というこのことわざは、あなたがたにとって何なのか。それゆえ、彼らに言いなさい。『主なる神はこう言われる。私はこのことわざをやめさせる。もはや彼らがイスラエルでこのことわざを使うことはなくなる。』それゆえ、彼らにこう語りなさい。『その日々は近づき、すべての幻は実現する。』イスラエルの家には、空しい幻やへつらいの占いもすべてなくなるからである。それは、主なる私が語ろうとすることを語り、その言葉が行われ、もはや引き延ばされることはないからである。反逆の家よ、あなたがたの時代に、私がこの言葉を語り、それを実行する—主なる神の仰せ。」

God bless you 神のみ恵みが 豊かにあなたの上に 注がれますように」これは私の今日の祈りでもあります。祝福とは「これから良いことが起こる」ということです。これから良いことが起こる。その確信はどこから来るのでしょうか。それは神の言葉、聖書からです。今日は、エゼキエル12章21〜25節をお読みします。

1.未来予想の進歩

「一寸先は闇」という諺があります。これから先どんな運命が待ち受けているのか、まるで予測がつかないことの譬えです。いや、そんなことは無い。今現在は、これから先、何が起こるのか かなり予想予測できる便利な時代に私たちは生きています、と反論できるかもしれません。天気予報を見てください。昔は、夕焼けを見たら朝は晴れになるとか、南風が吹いたら雨になる、そんな程度の予測しかできなかったのが、今は気象衛星の情報で、完璧に近い天気予報が言い当てられていますね。

先週、ある報道番組をネット上で見ると、9日が長崎原爆投下記念日ということで、核戦争をテーマにその道の専門家達が意見を戦わせていました。その論議の最中、四年前に米国の大学の研究機関が、もしロシアがポーランドとドイツ国境付近に核を発射したとすれば、結果どうなるか、その核戦争のシュミレーションを作成し、動画で紹介されたのです。すると、それに対抗して NATO がロシアに核反撃する。するとロシアが欧州全体に再反撃する。結果、4時間以内に9千万人が即死することになるだろうと報告していました。昨年2月24日にロシア軍がウクライナに攻め入り、一年半が経過しても目的を達成できないロシアにとって、残された切り札は核兵器しかない、という目下の現状では、このシュミレーションは、実際に起こりうる可能性を示しており、本当に背筋が寒くなるような恐ろしい話です。そして、これらの未来予測を可能にしたのが、スーパーコンピューターの開発です。膨大なデータを入力しても、一瞬にして計算結果を打ち出せる機能を電子頭脳が発揮するからです。その恩恵に浴して、私たちはかつての生活からは、想像できないような便利さを享受することになったのですが、では、それによって完全に未来を予想し、予測し、それが的中するかというと、必ずしもそうではないのです。

私個人が、特に人間の未来予測は限界があると痛感したのは二年前のアメリカ大統領選挙でした。トランプ前大統領と民主党候補のバイデンが争いましたね。その選挙戦の最中に毎日、様々な専門家が予想予測する番組を注意深く見ていたのですが、その大半がトランプの勝利を疑うことがありません。ところがどうでしょうか、結果は逆転でした。意外や意外でした。「一寸先は闇」とは言わないまでも、どんなに未来予想技術が進歩発展したとしても、所詮、人間の予想予告能力には限界があることを、つくづく思わされた次第なのです。

.未来予想の的中

ところが、今日、私たちはこの聖書に、一つの未来予想が完全に的中し、実現した実例を見せられるのです。それは預言者エゼキエルが語った未来預言が、見事に的中し、歴史上に実現した実例です。

時代は、BC600年頃のイスラエルのユダ王国の末期のことでした。イスラエルは BC1000年頃に形成され始め、サウル、ダビデ、ソロモンと王朝が続きますが、ソロモンの死後、933年に北イスラエル、南ユダ王国に分裂してしまいました。そのユダ王国の20代目のゼデキヤ王の時でした。この時、預言者エゼキエルが立ち上がったのです。

2章の彼の召命を確認するとこう書いてあります。「主は言われた。「人の子よ、私はあなたをイスラエルの子ら、すなわち、私に逆らう反逆の国民に遣わす。彼らもその先祖も私に背き、今日に至っている。その子らは恥知らずで強情である。私はあなたを彼らに遣わす。そこで彼らに『主なる神はこう言われる』と言いなさい。彼らが聞こうと、反逆の家ゆえに拒もうと、自分たちの間に一人の預言者がいたことを知るようになる。」 預言者エゼキエルが預言活動で語りかけた南ユダ王国は、ここで「私に逆らう反逆の国民」と言われ、神に逆らう叛逆の家と呼ばれています。叛逆の国民、叛逆の家とは、神を全く知らないというのではありません。神を信じていないのでもありません。知っていても信じていても従おうとしない、逆らって反抗していたということなのです。具体的には、イスラエルの神以外の神ならぬ偶像をしっかり取り込み、神を信じると言いながら、偶像をも拝み、偶像にもより頼む、そういう二心の姿勢が主流となっていたのです。取り分け、ダビデの次の王ソロモンの時代に、彼が沢山の妻、妾を抱え、正妻は700人、妾300人を諸外国から召し入れ、その婚姻関係を通じて、同時に彼らの偶像をも容認してしまった結果でした。その意味で20代目のヒゼキヤに至っては、最悪、劣悪な状態に陥り、その結果、神の厳しい裁きとして北の大国バビロンに包囲され、国は滅亡寸前であったのです。

エゼキエルがどのような預言をしたのか、私たちは12章前半にそれを見ることができます。それは象徴的な動作による預言でした。これは言葉によらず、預言者が民衆の前で演技を黙々とすることでメッセージを伝える預言の形式です。4節をご覧ください。神によって指示された動作とはこうでした。「あなたは自分の荷物を彼らの目の前で、昼のうちに捕囚の荷物のようにして運び出しなさい。彼らの目の前で、捕囚の身となって行く人々のように、夕方出て行きなさい。彼らの目の前で壁に穴を開け、そこから荷物を運び出しなさい。彼らの目の前で肩に荷物を担ぎ、暗闇の中で運び出しなさい。自分の顔を覆い、この地を見てはならない。私はあなたをイスラエルの家のしるしとしたからである。」随分と変わった演技動作ではありませんか。そして、この象徴的動作が何を意味するか、それが、10節から語られるのです。「彼らに言いなさい、『主なる神はこう言われる。この託宣はエルサレムの指導者と、そこにいるイスラエルの家すべてに関わるものである』と。彼らの指導者は、暗闇の中で荷物を肩に担ぎ、運び出すための穴を壁に開けて出て行く。彼は目でこの土地を見ないように顔を覆う。私は彼の上に網を広げ、彼は私の罠にかかる。私は彼をカルデア人の地バビロンに連れて行く。しかし彼はその地を見ないで、そこで死ぬ。」

「この託宣はエルサレムの指導者」と語られたこの指導者とは誰のことでしょう。これはその時のヒゼキヤ王のことなのです。エゼキエルはこの象徴的動作によって、ヒゼキヤ王が被る悲惨な最後を演技で預言したのです。しかし、この預言に対して、ヒゼキヤ王と民の反応はどうであったでしょうか。それが今日の聖書箇所なのです。エルサレム中に、その時、一つの諺が民衆の間に流布していました。人々の口から口へと「日々は延び、幻はすべて消えうせる」と一つの諺が頻繁に語られたのです。それが民の確信となっていたのです。この諺を現代訳の聖書は分かりやすく意訳し、「神の裁きの日はすぐには来ない。神の預言はいいかげんだ」と訳しています。それは、エゼキエルの預言を真剣に受け止めようとしない、預言否定の態度を表すものでした。預言を軽んじる神を信頼しない不遜な態度でした。その時の王ヒゼキヤが、この象徴動作預言は、矛盾しているとして、全く相手にしなかったと言われています。何故なら、エゼキエルは13節ですが、「私は彼をカルデア人の地バビロンに連れて行く。しかし彼はその地を見ないで、そこで死ぬ。」と語っており、「その地を見ないで、そこで死ぬ」とは論理的にその表現は、全く矛盾していて意味をなさないと一蹴したのです。

ところが、私たちは、実際に歴史上起こった事実を見る時に、矛盾どころか、この預言者の動作預言が、ゼデキヤの身にスン分違わず的中し、成就したことが分かって来るのです。その記録こそ、列王記下25章1〜7節です。そこにはゼデキヤ王の11年目にエルサレムがバビロンに包囲され、ついに食料がつき、王と兵士達が破れた城壁を抜け出して逃亡したこと、しかし追跡されてゼデキヤ王が逮捕され裁かれる顛末が記されているのです。ゼデキヤ王は、バビロン王の前に引き出されて裁かれ、自分の子供達は目の前で虐殺され、ゼデキヤは両目を潰された上、足枷をはめられバビロンに連行されてしまったのです。エゼキエルが動作預言で、「自分の顔を覆い、この地を見てはならない」と指示されたのは、このゼデキヤ王が両目を潰されることを暗示していたのです。そしてバビロンで獄死することが意味されていたのです。

エゼキエルが、エルサレムの滅亡とゼデキヤ王の未来を預言した時、民は諺で「日々は延び、幻はすべて消えうせる」すなわち、「神の裁きの日はすぐには来ない。神の預言はいいかげんだ」と預言を軽んじ、ゼデキヤ王自身もこれは矛盾だと一蹴したにも関わらず、預言は見事に的中し、実現成就したのです。主は言われました。「それゆえ、彼らに言いなさい。『主なる神はこう言われる。私はこのことわざをやめさせる。もはや彼らがイスラエルでこのことわざを使うことはなくなる。』それゆえ、彼らにこう語りなさい。『その日々は近づき、すべての幻は実現する。』」そして、その理由として25節に「それは、主なる私が語ろうとすることを語り、その言葉が行われ、もはや引き延ばされることはないからである。反逆の家よ、あなたがたの時代に、私がこの言葉を語り、それを実行する——主なる神の仰せ。」と語られます。ここに大切な真理があります。神が語られる、すると神は語ったことを必ず実行されることです。28節の最後でも繰り返されます。「私の言葉は行われるー主なる神の仰せ」未来を語る神の言葉は、寸分違わず的中するということなのです。

.未来予想の心得

ここで私たちは今日、私たちに語られている未来予想を聞かねばならないでしょう。今日、私たちに語られている預言はルカ12章33〜40節です。

自分の財産を売って施しなさい。古びることのない財布を作り、尽きることのない宝を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」

「腰に帯を締め、灯をともしていなさい。主人が婚礼から帰って来て戸を叩いたら、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。よく言っておく。主人は帯を締めて、その僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕をしてくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。

このことをわきまえていなさい。家の主人は、盗人がいつやって来るかを知っていたら、みすみす自分の家に忍び込ませたりはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。

ここで私たちの未来に向けて、明確に語られた神の言葉があります。それは40節の最後の言葉、「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」です。人の子とは誰のことでしょうか。そうです。これを語っておられるイエス・キリストです。私たちすべての者に未来に関わる重大な出来事として予測予想されていることは、御子イエス・キリストが再び来られるという再臨です。キリストはおよそ二千年前に、人類救済のため、罪の赦しを十字架の死と復活によってもたらすため、乙女マリアから生まれ来臨されました。キリストは、十字架で死に葬られ、しかし三日目に復活され、昇天し、再び来られる。それが世界、宇宙において未来最大の出来事なのです。

キリストの初臨に関しては、旧約聖書中にその詳細が333箇所に預言されていました。その一つ一つが漏れなく実現成就し、私たちは神の言葉の確かさに驚くのです。ところがキリストの再臨については、初臨の預言の比ではありません。キリストが再び来臨されることについては、新約聖書で平均すればどの頁にも預言されていると言っても過言ではないのです。

マタイ24章30節、「その時、地上のすべての部族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。」と主は言われました。

マルコ13章29節、「これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」と主は言われました。

ヨハネ14章3節、「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私の元に迎える。」と主は言われました。

使徒行伝1章11節、「あなたがたを離れて天に上げられたイエスは、天に昇って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またお出でになる。」とオリブ山での昇天に際して天使が弟子達に語りました。使徒パウロはその多くの書簡にキリストの再臨を語っており、

テサロニケ第一4章16節ではこう預言します。「すなわち、合図の号令と、大天使の声と、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降ってこられます。」

聖書最後の黙示録は、全てが未来予想です。そしてキリストの再臨が明確に語られています。その1章6〜7節、「私たちを御国の民とし、またご自分の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。見よ、この方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者たちは。地上の部族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。」そして黙示録は、その最後の22章の最後の言葉、キリストご自身の来臨の言葉で閉じるのです。「これらのことを証しする方が言われる。『然り、私はすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、來ませ。」

「アーメン」とは、真実、その通りという意味です。今年は西暦では2023年で、それはキリストの誕生から数えての年数のことです。ADとはラテン語でアノ・ドミニの略で、主の年を意味しています。約束された主の再臨が何年何月何日か分かりません。この救い主イエス・キリストの来臨に、私たちはどう備えるべきなのか、それが今日、ルカ12章で語られているメッセージです。それは、主の来臨に備えて目を覚ましていなさい、用意していなさい、という勧告です。

①財布の用意

その第一にすべき用意は自分のために財布を用意することです。主は言われました。「自分の財産を売って施しなさい。古びることのない財布を作り、尽きることのない宝を天に積みなさい。」ルカ12章33節。

私がウイーン時代、生まれて初めて財布を昼日中、盗まれる経験をしました。娘がもう帰るというので、オペラ座近くのレストランで会食した帰り、信号を横断した際に、まんまとスリにやられてしまったのです。気がついたら後ろポケットの財布が紛失していました。500ユーロ札がすられたのです。5年間、妻や娘に警告されたのを無視した結果でした。哀れに思った二人が金を出し合い、新しい財布を買ってプレゼントしてくれたのは慰めであり感謝でした。

主は古びることのない財布を作れと命じられます。主の再臨を真剣に待望して用意するとは、自分の経済生活を洗い直すことにつながります。このルカ12章の先立つ箇所で、イエス様は、愚かな金持ちの譬えで貪欲(どんよく)を警告されました。続く22節からの箇所では、思い煩いを警告されました。人がもっと沢山欲しいと貪る(むさぼる)お金も、足りない足りないと嘆くお金も、束の間のこの世の人生期間に限定された経済にしかすぎません。あの貪欲な農夫は、豊作で得た莫大な収入のゆえに満足して、こう自分に言い聞かせました。「魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ、さあ安心して、食べて飲んで楽しめ。」19節。しかし、神は彼に言われました。「愚か者よ。今夜、お前の魂は取り上げられる。」農夫は「この先何年もの蓄えができた」とうそぶきました。しかし、その晩に彼は全財産を残して呆気なく他界したのです。

老後の資金には2千万円が必要だと以前よく言われるのを聞きました。それから3千万円になり、今では5千万円と言われています。そうすれば安心だと言われるのです。その理由が挙げられます。介護費用のため、年金額の減少、インフレによる物価上昇、長生きすると老後資金が多くかかる、国民年金は約6万円しか受給できない、ゆとりある暮らしができなくなる可能性がある。ここまで聞いていると心中穏やかでありませんね。しかし、主は、貪らず、思い煩わず、むしろ、自分の財産を愛の心を持って活用しなさい、と勧告されるのです。そうすれば、天に宝を積むことになるからだと説明されます。今現在、私たちが貯め、使う通貨、それが円であれ、ドル、ポンド、ユーロ、元であれ、どんなに強力な通貨であっても、所詮この世でしか通用しない通貨なのです。永遠の生活には役に立たないのです。自分の資産や収入は計画性を持って懸命に使用するべきですが、キリストが再臨される視点を見失ってしまうと、いつの間にか脱線するのです。

②腰帯の用意

キリストの来臨に用意しているとは腰帯を用意することでもあります。言われました。「腰に帯を閉めていなさい。」35節。当時の着物は上から下に繋がる長い着物でしたから、活発な活動をする場合には、腰をからげて腰帯を締めるのが常でした。ここで目を覚ましているイメージに婚礼に出席した主人の帰宅を待つ僕が描かれます。当時の婚礼は、一週間毎日続けられ、婚礼は夜行われたために、その出席者の帰宅は何時になるかは不明なことが多かったのです。僕が裾をからげて腰帯を締めている姿、それが主人の帰りに即対応できる姿勢でした。

キリストの再臨を待つ者は、そのようであれと勧告されます。それは、具体的に言えば、目覚めて祈ることです。ルカ21章34〜36節で主がこう語られていますね。「「二日酔いや泥酔や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が罠のように、突如あなたがたを襲うことになる。その日は、地の面のあらゆる所に住む人々すべてに、襲いかかるからである。その日は、地の面のあらゆる所に住む人々すべてに、襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」」祈るとは、主と語らうことです。交わることです。霊的に祈ることは目覚めた状態であります。 毎日、語り合っているお方ですから、主イエス様がこられる瞬間に戸惑うことがないのです。

③灯火の用意

主の再臨に目を覚まして用意するもう一つのイメージは灯火を用意することです。主人の帰りの時間が38節では、「真夜中に帰っても、夜明けに帰っても」とあり、それは真っ暗な真夜中の時間帯です。主人を待つ僕にとり必要なことは、それと分かるために暗闇を照らす灯火を絶やさないことです。私たちが主の再臨を待望するのに用意するのは、主の御言葉により照らしていただくことです。詩篇119篇105節、「あなたの言葉は私の足の灯、私の道の光。」キリストの来臨に備える大切な心構えは、聖書に日々親しむことです。先週のメッセージでも、マルタとマリヤ物語で、マリアの賢明な選択について語ったところです。マルタはイエスとその一行の接待に翻弄されていました。もてなしは大切な務めであることに変わりはありません。しかし、最も大切なことは、マリアがイエスの足元に座して御言葉に傾聴していたことです。御言葉の光に照らされていないと、私たちはたちまち、この世の暗闇に押しつぶされてしまうのです。闇の中を歩くのであり、自分が何処に行こうとしているのか、何を待つべきなのかが分からなくなってしまうのです。

エゼキエルの時代の南ユダ王国の民もゼデキヤ王も、神の言葉が語られ、まさに起こらんとする預言を聞いても、彼らはそれを軽んじ、それから逃れる術を受け損なってしまいました。私たちにとり、この混沌とした世界情勢の只中で、キリストが再びこられることこそ、未来の最も喜ばしい希望であります。しかし、それが、喜びとなり力となるためには、目覚めて用意するべきです。40節で主は言われます。「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」そうです。懸命に用意していなければなりません。

God bless you 神のみ恵みが 豊かにあなたの上に 注がれますように」目を覚まして備えある者に神の祝福があることでしょう。新しい財布、腰帯、灯火を用意して主イエス・キリストの来臨に目を覚まして用意しようとするあなたの上に、神の恵が豊かに注がれますように。 

8月6日礼拝説教(詳細)

「必要な事は一つ」  ルカ10章38〜42節

さて、一行が旅を続けているうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタと言う女が、イエスを家に迎え入れた。

彼女にはマリアと言う姉妹がいた。マリアは主の足元に座って、その話を聞いていた。マルタは、いろいろともてなしのために忙しくしていたが、そばに立って言った。「主よ、姉妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」

主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない。」

聖書をお読みします。ルカ10章38〜42節です。先週、冒頭で聖書の読み方の大切な原則の一つは、その時代背景を考慮して読むことだと申しましたが、もう一つは、その登場人物に自分を重ね合わせて読むことです。テレビでドラマを観る、土俵で奮闘する相撲力士を観る、野球やサッカーで活躍する選手を観る、その時、無意識に私たちは何をしていますか。登場人物や選手たちの誰かに自分自身を重ね合わせているのではないでしょうか。だから共感し感動するのです。その原則は聖書理解において同じであり非常に大切です。自分とは関係のない古代の人物にしかすぎないと冷めた目で読んでいたのでは、そこから得るものはあまりありません。今日の聖書箇所の登場人物は、誰にも馴染み深いあのマルタとマリアです。

ある日、イエス様が彼らの住むベタニヤを訪ねられました。するとマルタがイエス様と弟子たちを自分の家に大歓迎したのです。そしてマルタは、この時とばかりに、この特別な来客のために、全力投球でもてなしの準備を開始しました。しかし、その過程でトラブルが発生します。超多忙なこの時、妹のマリアが全く手伝いもせず、イエス様の足元でその話に聞き入っていたからなのです。そこで、マルタは思い余って、マリアに直接言うのではなく、イエス様に近づいたかと思うと、何とか妹のマリヤが自分を手伝うように、説得してくれるように、ねじ込んだのです。しかし、それに対してイエス様は、マルタの意表を突く、全く意外な答えをこう語られました。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない。」

.必要は只一つ

マルタは接待もてなしのため、いろいろなことに気を遣っていたのですが、イエス様は「必要なことは一つだけである」と語られました。この場合、この必要なこととは、自分と弟子たちの食事のことを意味されたのでしょうか。「そんなに沢山のバラエティに富んだ手の込んだ御馳走でなく、簡単な手料理でいいんだよ」とイエス様はマルタに言われたのでしょうか。そうとも読み取れないことはありません。しかし前後関係からすれば、イエス様が只一つだけだとされた「必要なこと」とは、マリアの取った行為、即ち、イエス様の足元に座って、話しを聞くことであったことが、明らかです。

このベタニヤ村のマルタとマリアの物語が、その前の段落の「良きサマリア人」の喩えの後に続いていることは、決して偶然ではありません。一つのペアとして置かれていると考えられます。良きサマリア人の喩えは、イエス様に対する律法の専門家の質問がキッカケで語られています。彼はこう質問していたのです。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」ここでの問答では、イエス様の優れた教師である資質が遺憾無く発揮されていますね。イエス様は彼に逆に質問されました。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」と問われたのです。すると、彼は、さすがに律法学者ですね、旧約聖書の二つの聖句を取り上げ、神を愛することと隣人を愛することだ、と即答したのです。それに対して、イエス様は、「正しい答えだ。それを実行しなさい。」と、その彼の回答を是認し、勧告なされます。すると、更に律法学者は、自分を正当化しようとして「では、私の隣人とは誰ですか」とイエス様に再度質問を試みます。するとそれに対して、イエス様は「良きサマリア人」の喩えを語り出され、そこで強盗に襲われた旅人の隣人になったのは三人のうちの誰かと、律法学者に尋ねられます。彼が「その人に憐れみをかけた人です。」と率直に答えると、「行って、あなたも同じようにしなさい。」と主は命じられたのです。

これは何とも革命的な隣人理解であります。誰が自分の隣人かなのではなく、誰の隣人に自分はなるべきか、それが問われるからです。しかし、確かにここで、この「良きサマリア人」の喩えによって、隣人愛は完結するのですが、問題の全ては完結していません。イエス様が律法学者に「それを実行しなさい」と命じられたのは隣人愛だけではありません。神を愛する愛があるからです。隣人愛と神を愛する愛は、縦と横が重なる密接不離の関係であり、隣人愛だけでは全く片手落ちなのです。その意味で、このマルタとマリア物語が、連続してここに置かれていたのです。隣人愛を完結する神を愛する愛が、ここマルタとマリア物語によって語られることになるからなのです。

イエス様がマルタに「必要なことは一つだけである。」と言われたここのところを、口語訳では「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。」と訳されています。この必要なこと、無くてならぬもの、それは、人が神を愛する愛なのです。律法学者が引用した神への愛、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。」は、申命記6章5節の引用です。人がその全身全霊を傾けて神を愛すること、これこそ「必要なただ一つのこと、無くてならぬもの」なのです。そして、その神を愛することが、具体的にどう言うことかは、その引用された申命記6章5節の前後を読めば、よく分かるのでお読みします。6章4節「聞け、イスラエルよ。私たちの神、主は唯一の主である。」そして6章6節「今日私が命じるこれらの言葉を心に留めなさい。」神を愛するとは、そうです、神の言葉に耳を傾け、聞き従うことなのです。

イエス様がその公生涯の初めに荒野で悪魔の試練を受けた際に、空腹なイエス様に、悪魔は石をパンに変えるよう試みられました。しかし、イエス様は申命記8章3節を引用することで、悪魔に反撃してこう語られました。『「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」と書いてある』 神を愛する愛が、神の言葉に聞き従うことにあるとすれば、このベタニヤ村のこの物語の中では、あのイエス様の足元に座って、その話に聞き入っていたマリアの姿にこそ、その愛が描かれているのです。イエス様は、隣人愛については、聖書には通じていても、神の言葉に聞くことができていない男に対して、「良きサマリア人」の喩えで、サマリア人のように隣人愛を実践しなさい、と命じられました。その上でイエス様は、神を愛する愛については、もてなしに忙しくて、神の言葉を聞かない女、マルタに対して、妹のマリアを指し示し、マリアのように神を愛する愛を実践しなさいと、命じられたのです。無くてならぬもの、必要なたったひとつのこと、それは神の言葉に耳を傾けることなのです。

.取り上げない

イエス様は、ですから、マルタに対してマリアから「それを取り上げてはならない」と厳命なさいました。姉のマルタが、妹のマリアから、マリアがしていた必要なたった一つのことを取り上げようとしていたからです。「主よ、妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」と、マルタはイエス様に詰め寄ります。しかし、それに対して、イエス様は「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。」と優しく諌められたのです。イエス様はマルタを叱った訳ではありません。「マルタ、マルタ」という名を二度繰り返しての呼びかけにも、イエス様のマルタに対する親愛の情が滲み出ていますね。

イエス様はマルタのもてなしをここで決して否定しているのではありません。マルタはイエス様と弟子たちを喜びを持って自宅に迎い入れ、精一杯のもてなしをしようと準備していました。実は、このもてなしと訳されたギリシャ語にはディアコニアが使われており、これはイエス様とその弟子たちの生き方の中心にあるものを指す非常に重要な言葉であります。この言葉、ディアコニアは、「仕える、奉仕する」とも訳される言葉で、あのマルコ10章43−45節で語られた主の言葉に使われている重要な鍵語です。「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているように、諸民族の支配者と見なされている人々がその上に君臨し、また、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。』」イエス様は信じる弟子たちに、「あなたがたは仕える者になりなさい」と命じられたのです。ですから、ここでマルタのもてなし、弟子たちに対するサービスを否定したり、非難したり、過小評価されているのではありません。 問題は、マルタのもてなしによる忙しさにありました。この40節、「マルタは、いろいろともてなしのために忙しくしていた」の「忙しくする」を他の聖書訳を見ると「心が落ち着かず、せわしく立ち働いていた、忙がしくて心をとりみだし、心が落ち着かず、てんてこ舞いをしていた」と様々に訳されているのですが、その意味するところは、心があちこちに引き裂かれ分散することなのです。漢字の忙しいの字の作りから、よく「忙しいとは心が失われた状態」と言われる通りです。マルタはこの時、あるべき本来の自分自身を失ってしまったのです。イエス様が41節で「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。」と諭されたのは、その失われた状態を指して言われたのです。その結果、マルタは大きな三つの過ちを犯してしまいます。

① 他人を批判し裁くこと

その第一に、マルタは妹のマルタを批判し、「主よ、妹は私だけにおもてなしをさせています」と裁いてしまいました。マルタは外交型、行動型、活動型人間の典型です。絶えず何かしていなければじっとしていられないタイプの人間です。妹のマリアとは対照的で、マルタとマリアが出てくる場面では、いつでもマルタが表面に現れ行動していることが分かっています。ヨハネ11章に記載されている弟ラザロの死んだ場合でも、墓に葬られ四日も経過してからイエス様が村はずれに到着された時に、出て行って出迎えたのはマルタでした。ヨハネ12章でも、夕食が備えられた時に、給仕をしたのはマルタでした。人は行動する時、自分の評価を他人に期待し、また、人と比較して自分で自分を評価しようとするものです。この場合、マルタは妹と自分の行動を比較したときに、マリアに対する批判と裁きに傾いてしまいました。自分はこんなにも一生懸命もてなしのため立ち働いているのに、妹は全く無関心で怠け者だと、思い込んでしまったのです。神様という絶対者の前に立つ姿勢に欠けると人は、物の見方が相対的となってしまいます。他の人と自分を比較対照して見る他にすべがなくなってしまうのです。人を自分の視点から裁いてはならないのです。

不平不満を漏らすこと

そればかりか、マルタは、イエス様に不平不満を「何ともお思いになりませんか。」とぶちまけてしまいました。マルタの一つの傾向は、思っている不満をついつい口に出してしまうことです。ラザロの病死の時もそうでした。病気だとイエス様に早めに知らせ、できれば来て癒して欲しいと期待していたのに、自分の願い通り、期待通りにならないばかりか、弟が死んで四日も経過してから、イエス様が村にたどり着いたのに対して、マルタは憤まんやる方なく、「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」と訴えていました。マルタはイエス様と弟子一行を歓迎し、もてなそうと積極的に動きました。旅先にあり、疲れている彼らに対する接待は、望ましいことであり、正しい行為でした。しかし、望ましいこと、正しいことをしていたにしても、自分の思い通り、願いとおり、計画通りにいかないからといって不平不満を他人に漏らし、呟き、ぼやくことは決して好ましいことではありません。しかし、主に祈る時には、それでもいいのです。遠慮くなく祈りの中で主に不平不満を訴えてください。祈りは必ずしも綺麗事ではなくてもいいのです。主はそれを受け止め、聞いてくださり、主は必ず答えてくださるからです。

③ 主に指示すること

そればかりではありません、マルタはイエス様にこう言い寄ったのです。「手伝ってくれるようにおっしゃってください」これは主客転倒も甚だしい勇み足です。自分の願い、自分の考え、自分の計画を主イエス様になさせようと操作する不遜な態度そのものです。マルタは何故かこの時、気まずくなることを避けてか、自ら妹に催促することの代わりに、イエス様に、説得していただこう、妹に語らせようと操作していたのです。これは自分のやり方が最善、自分のしていることが最重要であるとの思い上がりです。マルタは、自分が今の状況事態を一番よく認識している、把握している、そう思い上がった結果、自分が本当の意味で何をしているのか、どこにいるのかがわからない盲目な状態に陥ってしまったのです。お祈りする時に、イエス様を自分の願い、思い通りのことを実現してくれる便利屋にしないよう気を付けることにしましょう。自分で相手に話すことができないからといって、イエス様に語りかけていただき、イエス様によって相手が変えられるように祈るような祈りはしないように注意したいものです。

III. 最善の選択

イエス様は優しくマルタにそれゆえ、「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。」と諭されました。イエス様はマルタのもてなしの努力を尊重しつつ、マリアの選択を高く評価されたのです。それは無くてならぬもの、たった一つ必要なことだからです。

マルタとマリアの気質は全く違います。それはいい悪いの問題ではありません。行動的なマルタの気質も内向的なマリヤの気質も神様が創造され、神が与えられたもので、両方とも必要な気質です。気質だけではありません。私たちの自己理解に影響を与える生物学的な特性、人間関係、自分が育ち生きる環境、時代背景、国籍、持てる能力など、ほとんどを私たちは自分で選ぶことができません。そして、選ぶことのできないこれらの要素のほとんどが罪の影響で大きく歪められていることが事実です。しかし、その全てを変える鍵があるのです。それは自分の判断で良い選択をすることです。人生は常に選択の連続です。どんな選択をするかが、すべての人生の要因に影響を与え、その後の人生と自己理解を大きく変えてしまうものです。主は、一言、「マリアは良い方を選んだ」と語られました。そのマリアの選択が、その後のマリアの人生に大きな影響を及ぼしました。人々に大きな祝福をもたらすことになりました。「注意一秒、けが一生、決心一瞬、いのち永遠」本当にそうですね。

ヨハネ11章でラザロが墓から甦らされ、その後、12章では、ベタニヤで食事会がされた時に、マリヤがイエス様に高価なナルドの香油を注ぎかけた事件が起こりました。それは弟子たちに、特に裏切り者のユダが厳しく批判し「無駄だ」と誤解した行為でした。しかし、イエス様は「私の埋葬の日のために、それを取っておいたのだ」と高く評価されたのです。マリアには、イエス様の十字架の死を予見することができていたのです。何故でしょうか。それは、マリアがイエス様の語る話しに静かに傾聴し、悟り理解していたからなのです。イエス様が捕えられ、十字架に架けられてからでは、誰も埋葬の油注ぎなどはできません。マリアはできる時に最善のタイミングで行動することができました。それは、マリアが「なくてはならぬもの」「たった一つの必要なこと」すなわち、神を愛する愛、神の言葉に耳を傾け、聞き従うことを選択したからなのです。

私たちが生かされている現代の特徴は、社会全体が誰も彼もが忙しく立ち働き動き回っている喧騒さにあります。忙しいことが美徳なのです。与えられた時間を箱にぎっしり物を詰め込むように、無駄なく隙間なく、多忙に次から次へと何かをすることが価値ありとされるのです。それはもはや大人だけの現象ではありません。現代の子どもたちも超多忙です。親は子供達に遊ぶ時間を与えず、習い事や塾に通わせ、将来の幸せを準備させようと超多忙にしています。

正しい選択はどこにあるのでしょうか?主は言われます。「しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない。」「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」そうです。神を愛することを選択することです。マリアは神を愛することを優先的に選択しました。しかし、私たちは、マリアが神を愛する愛を選択することができたのは、それに先立ちイエス様に愛されていたからであったことを忘れてはならないでしょう。あのラザロの甦りが記録されたヨハネ11章5節にはこう記されています。「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」と。その姉妹とはマリアのことです。マリアの神への愛に先立ち、神の愛がマリアを先んじてすっぽりと包んでいたのです。第 1 ヨハネ4章10節もこう証ししています。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」

マリアに注がれた先行する神の愛は、私たちにも注がれています。その先行する神の愛の現れこそ、キリストの十字架です。イエス様が罪の宥めの献げ物として十字架に犠牲となられたその事実こそ、神様が私たち一人一人を愛される確かな証拠であります。

私たちに主が聖餐式を聖定されたのは、その神の先行する愛を思い起こすためです。イエス様の体を象徴するパンに預かり、イエス様の流された血潮を象徴する盃に預かることにより、神様が愛しておられることを、再確認することにしましょう。マリアは、神を愛する愛の模範を示してくれました。「マリアは主の足元に座って、その話を聞いていた。」私たちも、この聖餐式を通して、神様に先行して愛されていることを確信し、この新しい週の日々に、主の足元に座して、主の語られるお言葉に耳を傾け、お従いすることにしましょう。神不在の喧騒で多忙なこの世の流れに流されないために、主の足元に静かに座って耳を傾けることにしましょう。