328日礼拝説教

「神の愚かさ弱さ」  マタイ27章32〜56節

彼らが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に負わせた。そして、ゴルゴタ、すなわち、されこうべの場、という所にきたとき、彼らはにがみをまぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはそれをなめただけで、飲もうとされなかった。

彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いて、その着物を分け、そこにすわってイエスの番をしていた。そしてその頭の上の方に、「これはユダヤ人の王イエス」と書いた罪状書きをかかげた。

同時に、ふたりの強盗がイエスと一緒に、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。

そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって言った、「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」。

祭司長たちも同じように、律法学者、長老たちと一緒になって、嘲弄して言った、「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから」。一緒に十字架につけられた強盗どもまでも、同じようにイエスをののしった。

さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

すると、そこに立っていたある人々が、これを聞いて言った、「あれはエリヤを呼んでいるのだ」。するとすぐ、彼らのうちのひとりが走り寄って、海綿を取り、それに酢いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。

ほかの人々は言った、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」。

イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。また地震があり、岩が裂け、また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた。

百卒長、および彼と一緒にイエスの番をしていた人々は、地震や、いろいろのできごとを見て非常に恐れ、「まことに、この人は神の子であった」と言った。

また、そこには遠くの方から見ている女たちも多くいた。彼らはイエスに仕えて、ガリラヤから従ってきた人たちであった。その中には、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、またゼベダイの子たちの母がいた。

 『十字架の言葉は、滅びゆく者には愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です』ものの見方によっては同じものが違った結果を生む。その最たるものこそ十字架である。

イエスは十字架に死ぬことを神の御心と確信され、弟子達には三度も受難を予告した。それは計画の失敗挫折や偶然ではなかった。人目に愚かで弱々しく映じたとしても、神の愚かさは人より賢い。

ピラトの死刑宣告に続く過酷な鞭打ちの後、イエスは残酷な十字架に晒しものとされた。人は十字架に自らの死の現実を見るべきだ。

聖書は人の死が罪の裁きであり神の呪いであるとする。「罪を犯した魂は必ず死ぬ

審判のプロである総督ピラトの厳格な尋問によっても罪を認められないイエスの十字架の理不尽な死は、ただ一つの理由目的でしか説明し得ない。『キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました』(ガラテヤ3章13節)それは我々の呪いの身代わりの死であり、それにより信じる者に神の祝福が及ぶためであった。

我々の呪いの身代わりとなったがために、神は御顔をイエスから背け見捨てられた。イエスはその断腸の苦悩ゆえに『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と叫ぶ。「わが神、わが神、何故私をお見捨てになるのですか」と。昼の12時から3時までの暗黒はその苦悶を象徴した。

ロダンの名作『考える人』は見捨てられて苦悶する人間の阿鼻叫喚を地獄の門から俯瞰する位置に置かれた。人に裏切られ、見捨てられ、置き去りにされる苦悩でさえ、神の永遠の遺棄の比較ではない。

十字架はイエスが身代わりに見捨てられたがゆえに、信じる者が神の愛から引き離されない保証を与える神の力だ。

イエスが息引き取った瞬間、神殿の幕が真っ二つに裂けた。神の臨在を意味した至聖所を隔てた幕が裂けたことは、人が恵みにより神の臨在に自由に近づく道の開通を暗示する。

 

イエスは、垂れ幕、つまり、ご自分の肉を通って、新しい生ける道を私たちのために開いてくださったのです』神の力である十字架を仰ぎ感謝しよう。

321日礼拝説教

「特権に生かされ」 創世記25章27〜34節

さてその子らは成長し、エサウは巧みな狩猟者となり、野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で、天幕に住んでいた。イサクは、しかの肉が好きだったので、エサウを愛したが、リベカはヤコブを愛した。

ある日ヤコブが、あつものを煮ていた時、エサウは飢え疲れて野から帰ってきた。

エサウはヤコブに言った、「わたしは飢え疲れた。お願いだ。赤いもの、その赤いものをわたしに食べさせてくれ」。彼が名をエドムと呼ばれたのはこのためである。

ヤコブは言った、「まずあなたの長子の特権をわたしに売りなさい」。

エサウは言った、「わたしは死にそうだ。長子の特権などわたしに何になろう」。

ヤコブはまた言った、「まずわたしに誓いなさい」。彼は誓って長子の特権をヤコブに売った。そこでヤコブはパンとレンズ豆のあつものとをエサウに与えたので、彼は飲み食いして、立ち去った。

このようにしてエサウは長子の特権を軽んじた。

 双子兄弟のエサウとヤコブの確執は、母リベカの胎内で始まり、成人となるや、弟ヤコブによる兄の特権奪取作戦により激化した。

空腹の兄の弱みにつけ込み煮物一杯で権利譲渡の口約束をさせたばかりか、母リベカの戦略に乗せられ、視力も老衰の父イサクを騙し、儀式的に長子の特権をヤコブはせしめてしまった。激怒し殺意に燃えるエサウを恐れ、ヤコブは逃避行を余儀なくされてしまう。

特権に対する執着心のおぞましさを、それから遥か後のイエスの弟子達にさえ顕著だったことを、どう見るべきだろうか。

主がエルサレムの受難を予告された直後、ヤコブとヨハネの母サロメが主イエスに嘆願したのは、息子たちの立身出世であった。王国確立時の左右の大臣職を嘱望したのだ。出し抜かれたと察したのか、残る十弟子達が憤慨する。

この出来事の直後に主は二人の盲人を癒されるが、弟子達の霊的盲目性を『あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。』と嘆いておられる。他の誰よりも優位な立場に立ち、特権を活かし裕福に生きたいと人の奥底には無意識の願望が潜む。

特権階級を妬み、自分の不運に絶望するのも所詮同じこと。現代においては個人関係のみならず、社会、国際関係でも、優位に立とうとする確執が混乱を生み出す導引となっている。

主はエルサレムでの受難を予告されたが、十字架の死と復活は神との和解を得させる罪の赦しのためであった。ここに福音がある。このお方を信じ受け入れる者には、特権が神に付与される。(ヨハネ1:12)それは神の子とされること。この特権には語りつくせぬ無尽蔵の祝福がある。

神の子は神に愛され、永遠の命に生かされ、人生を不思議と導かれ、何と御子イエスと共同の相続人とされる。その上、信じる者は主に似た者とされる。その主イエスの特性は人に仕える僕の精神であり、今日、我々もまた仕える者となることが求められる。

権利に酔い痴れる生き方とは真逆の精神を杯を飲むように心深くに受容するだろうか。主は『私が飲もうとしている杯を飲むことができるか』と問われる。

314日礼拝説教

「出発となる最期」  マタイ17章1〜9節

六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。

ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。

彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。

弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、「起きなさい、恐れることはない」。

彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった。

一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。

 三人の弟子達を従え高い山に登られ、祈る最中に弟子達の面前で、主イエスの顔は太陽のように光り、衣は真っ白に輝き変貌された。そこに何と律法を代表するモーセと預言者を代表するエリヤが出現し、主イエスと語り合われる。

ルカによれば、彼らは「イエスがエルサレムでとげようとしておられる最期のことについて話していた」。その最期とはキリストの受難である十字架の死に他ならない。

この変貌の六日前に、主はご自身の受難を弟子達に予告されたが、政治的革命家のメシア像を抱く彼らには、到底理解しかねていた。主イエスが彼らを山中の祈りに導かれたのは、間も無く迎えようとする受難を彼らに確証させるためであったに違いない。

聖書を代表するモーセとエリヤによる証言を決定的に有効にしたのは、続く神ご自身の栄光の顕現と直接の啓示であった。

「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」ひれ伏し恐れる彼らに神は御子イエスの受難が、ご自身の人類救済のご計画であることを明らかになされたのである。

人は祈るときに霊の目が開け、悟り理解することが許される。

主イエスとモーセとエリヤの会話の主題であった「最期」は原語エクソダスの訳で、「ある場所を離れて出発すること」が本来の意味であり、旧約聖書の出エジプト記のギリシャ語訳聖書の題名でもある。

主の十字架は、第二の出エジプトなのだ。

イスラエルが430年のエジプトの奴隷から解放され、約束の地に出発したように、十字架は人を罪と悪魔の奴隷から解放し、人生の新しい出発をもたらす業となる。

この変貌山の出来事に続く、下山後の悪霊追放の業は、十字架により今後、信じる者にもたらされるエクソダスを具象化している。

罪赦され主に治められる人からは、人を悩ます悪魔の勢力の悪霊どもは、出て行かざるを得ない。

 

クリスチャンでも悪霊に邪魔され悩まされることがあっても、主イエスの御名の前に、悪霊ども自身がエクソダス(出て行くこと)しなければならない。「神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか。」主にあり勝利者として前進しよう。

37日礼拝説教

「それでも従うか」 マタイ16章21〜28節

この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。

すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。

イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。

それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。よく聞いておくがよい、人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。

 使徒に指名された12弟子のペテロは、ピリポ・カイザリアで、「あなたこそキリストです。」と告白することで高く評価されたが、続く受難告知に際しては、その言動の勇み足ゆえに厳しく「サタン、引き下がれ。」と叱責されている。

ペテロは湖上の荒波をおして水上歩行に志願した際にも沈みかけ、過越の晩餐の洗足では、「洗わないでくれ」と断ったかと思えば「手も頭もよろしく」と頼む始末、主と一緒なら死ぬ覚悟はできていると威勢良く啖呵を切れば、その舌の根の乾かぬうちに三度も主を「私は知らない」と否認してもいる。

ユダの引き連れた暴徒に間髪入れず腰の剣で大祭司の僕の耳を切り落とし「剣を鞘に戻せ」と主に諌められたのもペテロであった。

復活の主を湖岸に確認するや、漕ぎ寄せるのももどかしく上着を纏って急ぎ飛び込み接近を図ったのもペテロ。彼は思い付きで即行動する衝動的気質であった。

イエスのキリストであることを告白したものの、主の受難予告を諌めたペテロのキリスト理解には酷い思い違いもあった。

主は繰り返し神の国を解き明かされたにも関わらず、他の弟子同様にペテロの神の国理解も、イスラエルの地上の国家再興思想であり、真理との乖離は著しい。弟子仲間内での最大の関心事が、実現するであろう将来の王国での自分たちの高位名誉であったことも、その動機の不純さが露呈されていた。ペテロもまた、自分の利益のために主イエスを利用とするだけの打算的な存在だったのだろうか。

主は復活後に彼を回復された際に、『よくよく言っておく。あなたは若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。』とペテロの自己中心的傾向をも指摘された。その彼が弟子と成る秘訣はいみじくも「引き下がれ。」との主の叱責にある。その意味は「私の後から後ろ姿を見つつ、自分の十字架を負い付いて来なさい」となる。

十字架は愛の象徴である。イエスの十字架は犠牲である。

 

弟子の条件は隣人を愛し、兄弟を愛する生き方に徹することに他ならない。イエスの後に付いて生きたペテロは、私たちを投影する鏡として立つ。