1129日礼拝説教

「今がどんな時か」 ローマ13章11〜14節

なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている

なぜなら今は、わたしたちの救が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。

夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。

そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。

あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。

 1129日より四週続く教会暦のアドベントは、キリストの初臨と再臨の待望を表現し、キリスト者の時の認識を示す。ローマ書は、15章の義認、611章の聖化、それに1216章の献身が骨子であり、その12章からキリスト者の実践が具体的に訓戒される。

その締め括りともいうべき1311節は、その実践が時の認識によるものであることを「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています」と明らかにしている。その時は「眠りから覚める時」更に「夜は更け、昼が近づいた」と、キリスト者が生きる時代が夜明け前だと比喩的に表現される。

聖書は、人類始祖アダム以来の歴史を「この世」と呼び、キリストの到来により開始する新しい時代を「来るべき世」と呼ぶ。主イエスが「時は満ちた。神の国が近づいた」と宣言されたのは、その来るべき世の開始を意味していた。罪に支配されたこの世は、キリストの再臨により終える。とすれば人はこの世と来るべき世が重複する境界線に生きていることになる。

キリスト者は、罪のこの世に生き、なおかつ、義の支配する神の国、来るべき世に同時に生きている。闇夜に光の子として生きる。

救い主イエスの初臨のクリスマスを祝い、なおかつ、キリスト者は、救い主イエスの再臨を夜明けとして待望する。義の太陽である主が再び来られる時、キリスト者の救いは完成する。

「初め信じた時」とは各自の洗礼の日である。それは救いの始めである。その完成は、再臨による身体の復活を待つのである。

信仰により義とされ神との関係が正しくされたキリスト者は、身体の復活により全人的に救いが完成する。それ故、この世にあって生きるキリスト者は、この世の闇の行い、馬鹿騒ぎ、泥酔、淫乱、放蕩、争い、妬みを脱ぎ捨てる。

その上で、キリストに祈り交わることで密着し、服を着るようにキリストを着ることが勧告される。それによってキリスト者としての「品位をもって歩む」ことが可能となる。

 

この世と来るべき世に重複して生きる緊張は避けられないが、主は戦いに勝利を必ず与えてくださる。

1122日礼拝説教

「先に進み行く王」 ミカ21213

ヤコブよ、わたしは必ずあなたをことごとく集め、

イスラエルの残れる者を集める。

わたしはこれをおりの羊のように、

牧場の中の群れのように共におく。

これは人の多きによって騒がしくなる。

打ち破る者は彼らに先だって登りゆき、

彼らは門を打ち破り、これをとおって外に出て行く。

彼らの王はその前に進み、

主はその先頭に立たれる。

 申命記18章より預言の判断基準は、その預言の実現により証明されると先週、明らかにされた。ミカはその意味で正真正銘の預言者である。

BC8世紀のイスラエルに活動した預言者ミカは、主なる神が王として民の罪を審判するため到来されると告げたが、それは北イスラエル王国がアッシリア帝国により、南ユダ王国がバビロン帝国により滅ぼされることで成就している。

民の罪は偶像崇拝による神への背信であり、強者の貪欲による弱者虐待の倫理の頽廃であった。歴史を支配される神は、次々に勃興する諸帝国をイスラエルの罪を罰する道具とされた。

この悲惨な未来を予見した預言者ミカは、「このため、私は嘆いて泣き叫び、裸足、裸で歩く。(1:8)」と悲しい心境を漏らした。それにもかかわらず、王なる主の到来を『ヤコブよ、私は、・・・イスラエルの残りのものを必ず呼び集める』と再び告げ、イスラエルの復興を預言した(2:12,13)

それは羊飼いのように民を守り導く王の到来である。それはペルシャ帝国のクロス王による捕囚の民に対する祖国帰還命令によりBC538に実現した。その時、70年に及ぶバビロン捕囚から解放されたのは5万人弱であった。文字通り彼らはイスラエルの「残りの者」であった。

だがこのミカの預言が、それに留まらず、その完全な成就が500年後の主イエス・キリストの誕生であったことは言うを待たない。星に導かれた東方の博士達は、王の誕生を祝うためエルサレムに旅した。十字架で磔刑の処せられたイエスの頭上には「これはユダヤ人の王イエスである」と罪状書きされていた。

主なる神は人と成り、人を罪の奴隷の囲いから解き放つため到来された。その方こそ主イエスである。主イエスは『私には、この囲いに入っていないほかの羊がいる。その羊をも導かなければならない。(ヨハ10:16)』と異邦人である我々に心配りされた。

 

今教会に集められている我々においてこれは実現している。更にマタイ2531節以降によれば、主イエスが再び世の終わりに王として、人のその行いに応じて報いるために来臨されることを知る。どのような行為が報いの対象となるかよくよく吟味しよう。

1115日礼拝説教

「預言の判断基準」 申命記18章15〜22節

あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞のうちから、わたしのようなひとりの預言者をあなたのために起されるであろう。あなたがたは彼に聞き従わなければならない。

これはあなたが集会の日にホレブであなたの神、主に求めたことである。すなわちあなたは『わたしが死ぬことのないようにわたしの神、主の声を二度とわたしに聞かせないでください。またこの大いなる火を二度と見させないでください』と言った。

主はわたしに言われた、『彼らが言ったことは正しい。わたしは彼らの同胞のうちから、おまえのようなひとりの預言者を彼らのために起して、わたしの言葉をその口に授けよう。彼はわたしが命じることを、ことごとく彼らに告げるであろう。

彼がわたしの名によって、わたしの言葉を語るのに、もしこれに聞き従わない者があるならば、わたしはそれを罰するであろう。

 ただし預言者が、わたしが語れと命じないことを、わたしの名によってほしいままに語り、あるいは他の神々の名によって語るならば、その預言者は殺さなければならない』。

あなたは心のうちに『われわれは、その言葉が主の言われたものでないと、どうして知り得ようか』と言うであろう。

もし預言者があって、主の名によって語っても、その言葉が成就せず、またその事が起らない時は、それは主が語られた言葉ではなく、その預言者がほしいままに語ったのである。その預言者を恐れるに及ばない。

 出エジプトしたイスラエルの民は、荒野を40年放浪した末、約束の地に入る寸前であった。120歳で死を目前にしたモーセは、遺言のように神の戒めを再述する中で、「主は、私のような預言者を立てられる」と告げた。

預言者は、神から権威を授けられ、指導者として王と祭司に並び立つ。その務めは神の言葉を民に告知することにあった。入って行くカナンの土着の住民は、人間的方法手段として霊媒により死者の霊に伺いを立てるが、神の民は活ける神に聴かねばならない。国は指導者によりその形が決定される。イスラエルは預言者により語り出される神の言葉で形成されようとしていた。

それだけに、預言が真正であるかの判断基準は死活問題であった。その核となる基準は、預言者が語った言葉が成就するか否かにあるとモーセは明らかにしている。

モーセが告げた「私のような預言者」の第一義的な意味は、今後活躍する預言者達を指すことに違いないが、それからおよそ1500年後に、使徒ペテロがこの一句をその教説(使徒行伝322)で引用したことにより、それがメシア預言であったことが判明する。

午後三時の祈りの際に、エルサレム神殿の「美わしの門」前で、生まれつきの足なえの乞食が、ペテロとヨハネの働きかけで瞬時に癒された。その驚異的な事件に駆け集まった群衆に、彼が完全に癒されたのは彼の主イエスに対する信仰によるとペテロは断言、この方こそ約束されたメシアだと証言し、イエスこそモーセの告げた預言者に他ならないと解き明かしている。

ヘブライ語でメシアが「油注がれた者」を意味するとすれば、油注がれた王、祭司、そして預言者の権威ある職務はイエスにおいて完全に成就したのだ。この方こそメシア、救い主であられる。

この方に対する人の責任は、語られる神の言葉に聞き従う従順であり、そうするとき、その人は新しい人間形成に導かれよう。そればかりか、この方に信頼する者は驚くばかりの祝福に預かることになる。

 

足なえを瞬時に癒された主イエスが、昨日も今日もいつまでも同じであられるからである。

118日礼拝説教

「目を覚ましをれ」 マタイ24章35〜51節

天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。

その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。

人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。

すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。

して洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。

そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。

ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。

だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。

このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。

から、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。

主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。

主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。

よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。

もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、

その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、

その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、

彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう。彼はそこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。

 公生涯の最後にエルサレムに入城した主イエスは、世界の七不思議とも称されるエルサレム神殿に見惚れる弟子達に、「ここに積み上がった石は、一つ残らず崩れ落ちる。」と崩壊を衝撃的に告げられた。それをキッカケに世の終わりと再臨に言及し、主イエスは「目を覚ましていなさい。」と強く勧告された。前後に語られた三つの喩えにより、これから起ころうとする終末の神のご計画に無頓着になる危険に警鐘を鳴らされた。

主の再臨時の世界の状況は、ノアの洪水時に人々が「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり」した状況に酷似する。使徒パウロは、主のこの勧告を具体的にテサロニケ上5:6で「目を覚まし、身を慎んでいましょう」と言い添え、何事でも、当然であり好ましい事であれ、それに泥酔、陶酔して主の来臨に無頓着な羽目に陥らぬよう警告する。同じ8節では「信仰と愛の胸当てを着け、救いの希望の兜をかぶり、身を慎んでいましょう」と目覚めている積極的姿勢が推奨されている。

同じパウロは、別な視点から「目を覚ましている」べきことを切り出し、ミレトスでのエペソ教会の長老達への訣別訓で、「あなたがた一人ひとりに夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい」と薫陶する。その理由は彼が去った後に、狼のような異端的教師が教会を荒らすことの予見にあった。

教会の秩序は、偽教理により容易に乱される。それゆえに目を覚ましているとは、健全な聖書真理、教理を常に想起することに他ならない。聖書に精通し、神の永遠のご計画に敏くなければ、主の再臨への思いは、気づかぬうちに横道に逸れてしまうだろう。

ルカは主の同じ勧めを「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい」と記録することで、聖徒達の祈りの生活が目覚めていることだと証言する。

 

祈りは「見よ。私は直ぐに来る」と約束される主イエスへの直接的語りかけである。毎日対話を重ねている限り、主イエスが見える形で再来される時、見まごうことはない。主が遅くなることはない。目覚めて備えていよう。

111日礼拝説教

「世の終りに臨む」 コヘレトの言葉12章14節

神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。

 太陽の下で行われるあらゆる業(わざ)を見たコヘレトは、その考察の結論を「神は善であれ悪であれ、あらゆる隠されたことについて、すべての業を裁かれる。」と締め括る。

人はその善し悪しを何かにつけて他人から裁かれ、非難され、称賛されもする。しかし決定的なのは、人間を創造された神による裁きだ。

神は最初の被造物である人間をご覧になられ「極めて良い」とされたが、それは神が意図されたとおりであることに対する喜びであった。神が裁かれるとすれば、その人が神の意図した人の人たる本分の有無である。それは13節で言われた神への畏れに他ならない。

神を畏れ愛するなら人はその戒めを守るものであり、その戒めとは隣人を自分のように愛することだ。父母を敬う、殺さない、姦淫しない、盗まない、偽らない、貪(むさぼ)らない、それは隣人を愛することだ。

聖書は世の終わりに最後の審判で、隠れたこともすべてが裁かれると告げる(黙示録20:1115)。人は死ぬことを避けられないのと同じく、死後の裁きを誰一人として回避できない。日産の元会長は、日本の刑事裁判を回避しようとレバノンに逃亡し、逃亡費用は37億円だと言われている。だが人の裁きは逃げおおせても神の裁きから逃げることはできない。

神は義であるがために懲罰を罪人に報いる。「人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっています(ローマ3:23)」 ならば誰が最後の審判に耐えられようか。

だが、感謝なことに神はその愛故に、私たち人間に罪の赦しの道を供えられた。「キリスト・イエスによる贖(あがな)いの業(わざ)を通して、神の恵みにより価なしに義とさるのです。(ローマ3:24)」神は十字架による懲罰を御子イエスに下すことにより、信じる者を赦される。十字架は神の義と愛とを同時に満足させる恩寵(おんちょう)溢れる救いのみ業である。信じる者はそれ故に死後の最後の審判を免れることができる。そればかりか、良き業に神は褒賞を備えられる。この福音の故に、私たちは新しい生き方に導かれる。

 

神の裁きが恐ろしくて戒めを守るのではない、神に愛され赦されたので喜び従う者とされている。