10月29日礼拝説教

「天地万物の祝福」  コロサイ1章9〜20節

御子は、見えない神のかたちでありすべてのものが造られる前に、最初に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも、見えないものも、王座も主権も、支配も権威、も万物は御子において造られたからです。

万物は御子によって、御子のために造られたのです。御子は万物よりも先におられ、万物は御子にあって成り立っています。また、御子はその体である教会の頭です。

御子は初めの者死者の中から最初に生まれた方です。それは、ご自身がすべてにおいて第一の者となるためです。

神は、御心のままに、満ち溢れるものを余すところなく御子の内に宿らせ その十字架の血によって平和を造り地にあるものも、天にあるものも、万物を御子によってご自分と和解させてくださったのです。

万物は御子において造られたからです。万物は御子によって、御子のために造られたのです。」これは、初代教会の讃美歌か洗礼式の告白文です。

万物は、イエス様により創造されました。御子が草案し、御子が働き、御子のために万物が創造されたのです。偶然でも進化でもありません。生物だけでも推定1億1100万種と言われ、それもイエス様の御手の業です。想像を絶する驚異の御業です。

このお方は見えない神のかたちです。神が見ることができ、触ることができ、聴くことができる人間となられた方が御子イエス様なのです。弟子のピリポが「主よ。私たちに御父をお示しください。そうすれば満足します。」と尋ね、「私を見た者は、父を見たのだ。」とイエス様が答えたのはその意味です。

イエス様を信じる者は、心の深みから満足することができるのです。聖書の開巻冒頭に「初めに神は天と地を創造された。」と語られている神は、父なる神、御子なる神、そして聖霊の三位一体の神です。主は6日間の創造の毎日、その御手の業をご覧になり「神は見て良しとされ」ました。しかも人間が創造された6日目には「それは極めて良かった」と神はご覧になるのです。その意味から人間を含めた万物は善なるものです。

しかしながら、人間の犯した罪により神の定められた創造の秩序が乱されました。神との関係が破れた人間の歴史は悲惨です。神は万物を含め、人間をご自分に和解させる目的で、神の御子を遣わされました。イエス様はご自分を十字架に捧げ犠牲となることで平和を造られました。十字架で血を流して死に、三日目に復活されたイエス様が教会の頭です。それ故にイエス様を主と信じる者には、創造の秩序が回復されるのです。

人間と被造物の秩序、労働と安息の秩序、男と女の秩序、夕と朝の秩序に預かることができます。「夕べがあり、朝があった」朝と夕ではなく逆の順序です。「夕べは涙のうちに過ごしても、朝には喜びの歌がある。」(詩篇30:6)その日、どんなに辛く悲しく苦しいことがあっても、新しい喜びの朝が来るのです。

10月22日礼拝説教

「アブラハムの子」  ルカ19章1〜10節

イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこに、ザアカイと言う人がいた。

この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。

イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている。」

ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。

これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」

しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰からでも、だまし取った物は、それを四倍にして返します。」

イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。

イスラム過激派ハマスが10月7日の安息日を狙ってイスラエルに武力で攻撃した結果、双方に5千人を超える死者を出し、パレスチナは今や非常事態です。このような緊迫した時代に、真の意味で求められるのはアブラハムの子です。

ザアカイに対して主イエスが「今日この家に救いが訪れた。」と語られたのは、彼が何でも望むままに手に入れることのできる大金持ちであったにもかかわらず、一番大切なものを失っていたからです。ザアカイという名前の意味は義人であり、義とは関係の正常さを意味します。ザアカイは不正な徴税人であったため、エリコの人々との関係が破れていたばかりか、神との関係が正しくありませんでした。

イエス様は、人を神との関係、人との関係を取り戻し、失われたものを救うために来られたのです。しかもイエス様は、救われる根拠を、ザアカイがアブラハムの子であるからであると言われました。ユダヤ人の一般的な見地からすれば、ザアカイはローマ帝国に魂を売り渡した売国奴の徴税人であり、罪人の代名詞でした。しかし、イエスがザアカイに認めたアブラハムの霊的な遺伝子は、彼が神の選びを自分のものとして選び取る信仰にありました。

神の民イスラエルの信仰の始祖であるアブラハムは、ユーフラテス河畔の遊牧民でしたが、神が彼を選び「私の指し示す地に行きなさい」と命じられるや、直ちに従い郷里を後に出て行きました。それが神の選びを自らの自由意志で選び取る信仰態度でした。

ひと目イエスを見ようといちじく桑の木に登り、見下ろすザアカイを、イエス様が降りてくるように呼びかけると、彼は急いで喜びイエスを家に迎え入れました。それこそアブラハムの遺伝子である神の選びを選ぶ信仰の表れです。今日でもイエス様を救い主と信じて神の選びを選ぶ人は、人種とは関係なしに、アブラハムの子です。救われた人には祝福として喜びが満ち、神に祈る自由と、隣人を愛する愛が回復されるでしょう。

ザアカイを救われた主は、信じるあなたをもアブラハムの子と認め、救われたのです。感謝しましょう。

1015日礼拝説教

「神の支配の所在」  ルカ172037

神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。

それから弟子たちに言われた、「あなたがたは、人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時が来るであろう。人々はあなたがたに、『見よ、あそこに』『見よ、ここに』と言うだろう。しかし、そちらへ行くな、彼らのあとを追うな。いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。 そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう。

ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。

ロトの時にも同じようなことが起った。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。

人の子が現れる日も、ちょうどそれと同様であろう。その日には、屋上にいる者は、自分の持ち物が家の中にあっても、取りにおりるな。畑にいる者も同じように、あとへもどるな。ロトの妻のことを思い出しなさい。 自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである。

あなたがたに言っておく。その夜、ふたりの男が一つ寝床にいるならば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう。ふたりの女が一緒にうすをひいているならば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう。〔ふたりの男が畑におれば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう〕」。弟子たちは「主よ、それはどこであるのですか」と尋ねた。

するとイエスは言われた、「死体のある所には、またはげたかが集まるものである」。

 パリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねると、「神の国は、観察できるようなしかたではこない。」と主は答えられました。国と訳されるバシレイアは支配という意味で、支配とは、ある地域や組織に勢力・権力を及ぼして、自分の意のままに動かせる状態に置くということです。

神が人となられたイエス様は、公生涯の最初に「時は満ちた。神の国は近づいた。」と宣言されることで、神の国の実現したことを告知されました。そして、メシアであるイエス様が、人々の間に居られるのであれば「実に、神の国はあなたがたの中にある」と確言されます。

天地を創造された唯一の神様の支配はすでに始まっているし、今現在、神様が支配しておられるのです。しかし、神の支配の完全な現れは、イエス様の再臨を待たねばなりません。主は「人の子はまず多くの苦しみを受け、今の時代から排斥されなければならない。」と十字架の受難を告知され、受難、埋葬、復活、昇天、天の着座と続き、再び来臨されるまでの時の経過を教えられます。

その歴史の過程で、多数の人が政治的力で地上に理想郷として神の国を建国する試みがありましたが、成功することはありません。

神の国は、どこまでも神の計画であり人間が参画して実現させられるような性質ではないのです。それゆえに、『「ここにある」とか、「あそこにある」と言えるものでもない。』とは言われるのです。神の国の完成であるイエス様の再臨は「稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように」と予測不可にして瞬時に実現します。

イエス様の再臨には、すでに信じて救われたキリスト者を天に迎え入れ、信じない人々を裁くという厳粛な目的があります。ノアの洪水では神を信じたノアの家族8人だけ助かりました。ソドムとゴモラの火と硫黄による滅亡では、ロトと娘二人だけが助かりました。主は「その夜二人の女が一緒に臼を挽いていれば、一人は取られ、他の一人は残される」と再臨で各自が直面する裁きを語られます。

各自が再臨で主にお会いする準備をし、自分の救いの達成に努力するべきでしょう。

108日礼拝説教

「ふつつかな僕なれど」  ルカ17章1〜10節

イエスは弟子たちに言われた、

「罪の誘惑が来ることは避けられない。しかし、それをきたらせる者は、わざわいである。これらの小さい者のひとりを罪に誘惑するよりは、むしろ、ひきうすを首にかけられて海に投げ入れられた方が、ましである。あなたがたは、自分で注意していなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。もしあなたに対して一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい」。

使徒たちは主に「わたしたちの信仰を増してください」と言った。

そこで主が言われた、

「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう。あなたがたのうちのだれかに、耕作か牧畜かをする僕があるとする。その僕が畑から帰って来たとき、彼に『すぐきて、食卓につきなさい』と言うだろうか。かえって、『夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いをするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい』と、言うではないか。僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。

人権と個人の自由が尊重される現代人に奴隷制度は縁遠いのですが、人間が隷属的な生き物であることに変わりはありません。誰でも罪の奴隷か、さもなくば神の奴隷であると聖書は教えます。

イエス様を主と信じた瞬間に、人は罪の奴隷から神の奴隷とされます。ここで、生きている限り躓きは避けられないと主は警告され、神に仕える者とされた僕達の集まりである教会が果たす課題は、各自が罪の誘惑に負けず罪を犯さないことだと諭されます。

その上で、他の兄弟姉妹を罪に誘惑しないよう警告されます。入信して間もない初心者や、信仰により物事を判断する力が十分に培われていない兄弟姉妹を、躓かせることのないよう、愛の心で慎重に自分の行為を慎まねばなりません。信仰的な思考力や判断力が十分に強化されている信仰の強い人にとって、問題のない行為が、ある人に躓きを与えることがあるとローマ14章の後半で、使徒パウロが詳細に教えています。

そればかりかイエス様は、自分に対して犯した他の兄弟姉妹の罪過ちを赦すべきことをも教会の課題であると語られます。その場合に、適切な仕方で相手の過ちを戒め、相手が自分の非を認めて悔い改めの意志表示をするなら、無限大に赦しなさいと主は命じられるのです。何故なら、自分自身の大罪がイエス様により赦されたからです。

自分の大罪が、主の十字架の犠牲的な愛で赦された使徒パウロは、福音の宣教が愛の負債の返済なのだと、ローマ1章14、15節で語ります。自分が救われたのは、誰かが愛の負債を自覚し、祈り福音を自分に宣べ伝えてくださったからでしょう。

これらの教会が果たすべき課題を聞いた使徒達は、とても果たす力が無いとおじけ、「信仰を増してください」と嘆願しました。主は「からし種一粒ほどの信仰があるなら」と量ではなく質的に生きた命のある信仰があれば達成できると諭されます。

主に信頼するなら、すべての力が与えられ果たせるのです。日毎に主によって課題を果たし、「ふつつかな僕が、すべきことをしたにすぎません」と栄光を主にお返ししましょう。

101日礼拝説教

アドナイ・イルエ」  創世記22章1〜14節

これらのことの後、神はアブラハムを試みられた。

神が、「アブラハムよ」と呼びかけると、彼は、「はい、ここにおります」と答えた。

神は言われた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして私が示す一つの山で、彼を焼き尽くすいけにえとして献げなさい。」

アブラハムは朝早く起きて、ろばに鞍を置き、二人の従者と息子イサクを連れ、焼き尽くすいけにえに用いる薪を割り、民が示した場所へと出かけて行った。

三日目になって、アブラハムが目を上げると、遠くにその場所が見えた。アブラハムは従者に言った。「ろばと一緒にここにいなさい。私と子どもはあそこまで行き、礼拝をしてまた戻って来る。」

アブラハムは焼き尽くすいけにえに用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。こうして二人は一緒に歩いて行った。

イサクが父のアブラハムに、「お父さん」と呼びかけると、彼は、「息子よ、何か」と答えた。そこでイサクは、「火と薪はここにありますが、焼き尽くすいけにえにする小羊はどこですか」と尋ねた。するとアブラハムは、「息子よ、焼き尽くすいけにえの小羊は神ご自身が備えてくださる」と答え、二人はさらに続けて一緒に歩いて行った。

神が示された場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。すると、天から主の使いが呼びかけ、「アブラハム、アブラハム」と言った。

彼が、「はい、ここにおります」と答えると、主の使いは言った。「その子に手を下してはならない。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが今、分かった。あなたは自分の息子、自分の独り子を私のために惜しまなかった。」

アブラハムが目を上げて見ると、ちょうど一匹の雄羊がやぶに角を取られていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕らえ、それを息子の代わりに焼き尽くすいけにえとして献げた。

アブラハムはその場所をヤハウェ・イルエと名付けた。それは今日、「主の山に、備えあり」と言われている。

 関係の生き物である人は、呼び掛けに応答することで豊かな経験に導かれます。アブラハムは神の呼び掛けに応じることで、神に試されました。

試すとは、それによって何かを探り知る行為です。神はアブラハムに最愛の息子イサクを犠牲にするよう命じることで彼を試されました。子殺しであれば尊属殺人であり、神が世継ぎとして約束して与えたイサクを犠牲にすることは矛盾です。しかし、この理不尽な難題は、アブラハムの信仰を試す試練でした。

信仰とは、神を第一とし畏れ敬い、絶対的にお従いすることです。神が与えられる試練は、人によって異なりさまざまでしょう。思いもよらない事態に直面することがあっても、試練と受け止め、喜びをもって対応しましょう。

アブラハムは、神の命令を受けるとためらわずにイサクを伴い、指定されたモリヤ山に旅し、山頂に石で祭壇を築き、イサクを薪の上に載せ、ナイフで屠り、火で焼き尽くそうとしました。しかし、天から天使が呼びかけ、彼の信仰を神が確認されたので、犠牲の業を中止すべきことを告げました。見ると藪に角を取られた雄羊を認めたアブラハムは、イサクに代えてそれを犠牲とし、彼はその地を記念してアドナイ・イルエと名付けました。それは「主は備え給う」を意味します。

天使との応答で明らかにされたのは、神が備える方であること、摂理の神であることです。万物の創造主である神は、宇宙と歴史に対する永遠の計画・配慮をなされ、それによって被造物を目標に導かれるのです。神はあなたの生活環境をもご覧になり備えてくださるお方です。

父に連れそうイサクは、神の子イエス様の雛形です。アブラハムがイサクを犠牲にする際には、代わりの雄羊が備えられましたが、罪の赦しを得させる贖いのために、父なる神が御子イエスを十字架の祭壇に犠牲にされた際に、イエス様に代わる犠牲はありませんでした。

アブラハムとイサクの対話から透かし見えるのは神が人を愛する神であることです。神はその独り子を給うほどに世を愛されました。例外なく個々人を愛されるお方なのです。