9月24日礼拝説教

  「万策尽きた暁に」  ルカ16章1〜13節

イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口する者があった。そこで、

主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』

管理人は考えた。『どうしようか。主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうすれば、管理の仕事をやめさせられても、私を家に迎えてくれる人がいるに違いない。』

そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、最初の人に、『私の主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。早く座って、五十バトスと書きなさい。』

また別の者には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書きなさい。』

主人は、この不正な管理人の賢いやり方を褒めた。この世の子らは光の子らよりも、自分の仲間に対して賢く振る舞っているからだ。

そこで、私は言っておくが、不正の富で友達を作りなさい。そうすれば、富がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。

ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さなことに不忠実な者は、大きなことにも不忠実である。だから、不正の富について忠実でなければ、誰があなたがたに真実なものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、誰があなたがたのものを与えてくれるだろうか。

どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を疎んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

 主が弟子たちに語られた「不正な管理人」の喩えの強調点は、主人の財産不正使用で首になるはずの管理人の生き残るための抜け目無いやり方です。

管理人は、主人に借りのある負債者を個別に呼び出し、借用証書を減額書き換え手渡し、彼らに恩義を着せ、未来の安全を謀りました。負債者たちとは、大金持ちの不在地主の小作人たちであり、管理人が減額した額は、借財の利子分であったのでしょう。

 律法には同胞から利子を取ることが禁じられていたのですから、証書の利子分を減額しても、実質的な損失は主人にはありません。それ故に、主人は「不正な管理人の賢いやり方を褒めた」のです。

主イエス様は、この譬えで不正を賞賛し是認したのではありません。万策尽きた暁の生き残り作戦の賢い振る舞いに、弟子たちが見習うべき真理があることを指摘し、主は、「不正の富で友達を作りなさい。」と命じられたのです。その上で、「そうすれば、富がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」と約束されました。

 不正の管理人とは、神の創造された被造物の管理者としての責任を与えられ、アダムの犯した原罪のゆえに、その責任を神の前に果たしえず、堕落した私たちすべて人間のことです。人は誰しも束の間の人生を生きます。だが罪故にその先がないのです。その罪の赦しを得させ、永遠に生きる道を備えるために、イエス様は、十字架に贖いの御業を成し遂げてくださいました。イエス様をただ信じるだけで罪は赦され、永遠の未来が開かれます。信じた者は死んでも天国が備えられます。

 「私たちの国籍は天にある。」その通りです。主は、この譬えを通して、もし真実に信じて救われているなら、「自分の富、財産、資産を使って友を作りなさい。」と命じられるのです。罪赦され救われるとは、本来の管理者の責任を回復することです。人は富の所有者ではなく、管理者です。自分に託された財を、利己的に使わず、必要とする他の人のために使いなさい、と主は命じられます。天の永遠の住まいの確かさはそこにあるからです。

 9月17日礼拝説教

「新しい人を着る」  コロサイ3章1〜11節

あなたがたはキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地上のものに思いを寄せてはなりません。あなたがたはすでに死んで、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているからです。

あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。だから、地上の体に属するもの、すなわち、淫らな行い、汚れた行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかなりません。

これらのことのために、神の怒りが不従順の子らの上に下るのです。あなたがたも、以前このようなものの中に生きていたときは、そのように歩んでいました。しかし今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、冒瀆、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。

互いに噓をついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、新しい人を着なさい。新しい人は、造り主のかたちに従ってますます新たにされ、真の知識に達するのです。そこには、もはやギリシア人とユダヤ人、割礼のある者とない者、未開の人、スキタイ人、奴隷、自由人の違いはありません。キリストがすべてであり、すべてのものの内におられるのです。

「みにくいアヒルの子」は、アヒルに孵化された幼鳥が、その醜さのために苦しむのですが、いつしか美しい白鳥になる、アンデルセンのお伽話ですが、聖書は、私たちに「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、新しい人を着なさい。」と勧告します。

聖書は、人間が神の創造された被造物であると定義します。地の塵から形作られ、神の似像であり、神と共に働く、神の愛の対象です。しかるに人類の始祖アダムが犯した罪のために、人間は堕落し、人間の生きる道からズレ、神との関係が破れてしまいました。その堕落した人間を本来の姿に呼び戻すために、神は御子イエス・キリストを遣わされました。

イエス様が「私について来なさい」と弟子たちを招かれた行為は、人を新しい存在に呼び出す再創造の業です。その呼び出された者たちの集まりが教会です。主の招きにより呼び出された私たちが、本来の似像を取り戻すための具体的な態度は、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着ることによります。

古い人とは神と無縁の過去の自分であり、新しい人とはイエス様を信じる自分のことです。脱ぎ捨てるべき過去の自分の特徴の目録は、淫らな行い、汚れた行い、情欲、悪い欲望、貪欲、怒り、憤り、悪意、冒涜、恥ずべき言葉です。

着るべき新しい人間性は、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、忍耐、赦し、愛、平和、感謝です。

果たして習慣化した悪質な人間性を簡単に捨てることができるものでしょうか。聖書が衣服の着脱で比喩的に教えるのは、人がそうする意志さえあれば、必ず可能であるからです。何故なら、イエス様を信じて洗礼を受けた人は、イエス様の愛の力強い支配のもとに移されているからです。自分の力ではできなくても、神の力が働いて、古い性質と行いを捨て、新しい性質と行いを自分のものとすることができるのです。

主を信じた人は、主と一つとなり主の全てに預かり、主と共に死に、復活し、昇天し、天に着座したのです。信仰により決断するとき神の力が働きます。新しい人を来ることで目標である真の知識に向かって進むことができるのです。

9月10日礼拝説教

「塩気確保の秘訣」  ルカ14章25〜35節

大勢の群衆が付いて来たので、イエスは振り向いて言われた。

「誰でも、私のもとに来ていながら、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命さえも憎まない者があれば、その人は私の弟子ではありえない。自分の十字架を負って、私に付いて来る者でなければ、私の弟子ではありえない。

あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰を据えて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を据えただけで完成できず、見ていた人々は皆嘲って、『あの人は建て始めたが、完成できなかった』と言うだろう。

また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうかを、まず腰を据えて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵の王がまだ遠くにいる間に、使節を送って和を求めるだろう。

だから、同じように、自分の財産をことごとく捨て去る者でなければ、あなたがたのうち誰一人として私の弟子ではありえない。」

「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。土にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」

群衆に主は弟子となる覚悟はあるかと「塩に塩気がなくなれば、、、」と語られます。塩気なければ調味料、防腐剤、肥料にも役立たない。弟子は地の塩です。弟子の塩気とは、誰よりも主イエスを愛すること。「誰でも、私のもとに来ていながら、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命さえも憎まない者があれば、その人は私の弟子ではありえない。」と語られたのはその意味です。

家族を憎めとは、「あなたの父と母を敬いなさい」という十戒に矛盾しているように思えます。しかし、同じ趣旨の主の言葉をマタイが10章37節で「私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない。」と留めていることで、それが愛の優先問題であることが分かります。

人と人とを結ぶ情愛は必要不可欠であると同時に、主との関係においては危険性を宿します。情愛は強烈に人を拘束するもの、家族愛や自己愛が最優先されるときには、逆に正しい健全な関係が、無意識のうちに歪められるのです。主を第一にし、主にあってはじめて家族や自分を正しく位置付けることができるのであり、それによって、本来の自由で厚い絆で結ばれることになるのです。

弟子として塩気があるとは、犠牲を払って隣人を愛することです。主が「自分の十字架を負って、私に付いて来る者でなければ、私の弟子ではありえない。」と語れるのはその意味です。主イエスは十字架を目指し進まれ、罪の赦しを得させるため、身代わりの犠牲となられました。弟子とは、利己主義的な生き方ではなく、主が私たちのため犠牲となられたように、他者のために犠牲をいとわぬ生き方でイエスに従う者です。

さらに主は「自分の財産をことごとく捨て去る者でなければ、あなたがたのうち誰一人として私の弟子ではありえない。」と語られることで、富にではなく、全能の神に信頼してついて行くことが弟子の塩気であると言われます。

富、財産、お金は神ではありません。生きる手段であって目的ではありません。腰を据えて考え、覚悟したいものです。

9月3日礼拝説教

「隙を狙われても」  第二コリント11章1〜15節

私の少しばかりの愚かさを、我慢してくれたらよいのですが。いや、我慢してほしい。私は、神の妬みをもって、あなたがたを妬んでいます。私はあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたのです。しかし、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストへの真心と純潔とから離れ去ってしまうのではないかと心配しています。なぜなら、あなたがたは、誰かがやって来て私たちが宣べ伝えたのとは別のイエスを宣べ伝えたり、あるいは、あなたがたがかつて受けたことのない異なった霊や、受け入れたことのない異なった福音を受けているのに、よく我慢しているからです。あの偉い使徒たちに比べて、私は少しも引けは取らないと思います。たとえ、話し振りは素人でも、知識はそうではない。私たちは、事ごとに、さまざまな機会に、このことをあなたがたに示してきました。

それとも、あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたことが、私の罪になるのでしょうか。私は他の教会から奪い取って、あなたがたに仕えるための賃金を得たのです。あなたがたのところにいて生活に困ったときにも、私は誰にも負担をかけませんでした。マケドニアから来た兄弟が私の欠乏を補ってくれたからです。私は何事につけ、あなた方の重荷にならないようにしてきましたし、これからもそうするつもりです。私の内にあるキリストの心理にかけて言います。私のこの誇りがアカイア地方で封じられることは、決してありません。負担をかけないのはなぜでしょうか。私があなたがたを愛していないからでしょうか。それは、神がご存じです。

私は今していることを今後も続けるつもりです。それは、私たちと同じように誇れるようにと隙を狙っている者たちから、その隙を絶つためです。こういう者たちは偽使徒、人をだます働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。しかし、驚くには及びません。サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らの最期は、その仕業に見合ったものとなるでしょう。

 情報を抜き取る迷惑メイルが、利用者に金銭トラブルを引き起こすように、ギリシャのコリント教会は偽教師によって混乱させられました。エデンの園でエバが隙を突かれて蛇に騙されたように、キリストの花嫁である 教会はサタンに狙われています。

神様は人間を男と女に造られ、結婚を聖定されましたが、男女の結婚の隠された秘義は、キリストと教会を指しています。花婿なるイエス様はご自分の全てを十字架に捧げ、花嫁なる教会を愛し、清め聖別されます。教会は、花嫁が花婿と一つにされる晴れの結婚式を慎み待望するように、イエス様の再臨の日を待ち望むのです。ところがコリント教会は、偽教師に誤った教えで思いが汚され、キリストへの真心と純潔を失いかけていました。

偽教師が密かに教会に持ち込んだのは、ギリシャ神話の神々ではありません。それなら違いがすぐ分かったでしょう。彼らが教えたのは別なイエス、異なる霊、異なる福音でした。似て非なる似非キリスト教です。キリストの神性否定、キリストの人性否定、十字架と復活を否定する教理は異端です。モルモン教、エホバの証人、統一原理などは現代のキリスト教異端であり、教えが聖書に類似するため騙されやすいので要注意です。

コリント教会を開拓した使徒パウロは、これらの偽教師はサタンに仕える者であり、サタンが光の天使を装っていると糾弾します。エデンの園でエバを騙した蛇はサタンの象徴です。エバには蛇が狡猾な邪悪な存在であるとは思えなかったのでしょう。目には見えない邪悪なサタンは、今現在でもキリストの花嫁である教会の隙を狙い、混乱させる現実的な脅威なのです。

隙をサタンに狙われないために、教会の牧師が健全な聖書の使信を語れるように執りなし祈ることが肝心です。それにより偽りを見破る力を培えるからです。

情報化時代にあっては蔓延する異端教理情報を識別できる耳と選択力を養うことが必要です。疑わしいキリスト教テレビ番組や書籍については牧師に相談することも賢明です。日々に聖書に親しみ、主の再臨を待望することとしましょう。