3月27日礼拝説教(詳細)

「共同の記憶の力」  マルコ9章2〜10節

六日の後、イエスは、ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その衣は真白く輝き、どんな布さらしでも、それほどに白くすることはできないくらいになった。すると、エリヤがモーセと共に彼らに現れて、イエスと語り合っていた。

ペテロはイエスにむかって言った、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。そう言ったのは、みんなの者が非常に恐れていたので、ペテロは何を言ってよいか、わからなかったからである。

すると、雲がわき起って彼らをおおった。そして、その雲の中から声があった、「これはわたしの愛する子である。これに聞け」。彼らは急いで見まわしたが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが、自分たちと一緒におられた。

一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。彼らはこの言葉を心にとめ、死人の中からよみがえるとはどういうことかと、互に論じ合った。

 歳は取りたくないものですね。自分の忘れっぽさが心配になることが、先週火曜日にありました。7時半の家庭集会に行こうと教会前の車で待機したのですが、待合時間に来るべき方々が来られないのです。会場の自宅に問い合わせしたところ、何と「休会の予定でした」とのこと。ということは、私だけ忘れていたということでした。 脳科学によれば、脳には記憶を司(つかさど)る部分が二つ、海馬(かいば)と大脳皮質があると言われています。海馬はタツノオトシゴのような形で、情報が最初に保存され、そこで必要・不必要が選択され、必要情報を大脳皮質に移し替え、そこに長期の記憶とされる仕組みになっているそうです。とすると、私の場合、海馬で処理され消去されてしまったのですね。或いは もしかすると、私の脳の海馬が老化しかかっているのかもしれません。実は、今日の聖書箇所は「変貌(へんぼう)山」とか「山頂の変貌」と呼ばれ、聖書でも非常に突出した神秘的な箇所なのですが、その出来事の柱になっているのが、この記憶なのです。何故このような出来事が起こったのでしょうか。その目的の一つは、教会にとっての共同の記憶を準備するためであった、という理解が非常に有力なのです。記憶とは個人的なものなのですが、個人的な記憶を支える根底の部分に、共同の記憶というものが存在し、それが共同体を形成する目に見えない力となるものなのです。今日の聖書箇所、2、3節がこう開始されています。『六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でイエスの姿が変わり、衣は真っ白に輝いた

 イエスは、高い山に登られ、そこで変貌されました。その山は恐らく標高2800mのヘルモン山のことでしょう。ペテロ一人ではなく、ヤコブ、ヨハネも連れて、イエスは高い山に登られました。それは、彼らに共同の記憶を準備するためであったのです。脳科学によれば、人間の記憶は先ず海馬に保存され、その情報が必要だと選別された記憶が、大脳皮質に移され、そこに長期の記憶として固定されると話しました。

この海馬から大脳皮質に長期記憶として選択され、移し替えられる秘訣が三つあると言われています。

第一に、理解して覚えることです。

第二に、記憶を何度も出し入れすることです。

そして、鮮烈な出来事が残り易いこと、この三つです。

先週の聖書箇所を覚えておられるでしょうか。主イエスは、弟子達に質問し、教え、ペテロが反発すれば矯正され、さらに教えておられます。これは、主が、弟子達に理解して覚えさせられたことです。8章31節は、「キリストの受難予告」と呼ばれているとお話ししたはずです。主イエスは、この受難予告を、9章31節、10章33節にも、繰り返されておられることが分かっています。これは記憶の秘訣の二番目に相当し、記憶を何度も出し入れすることで、主イエスが弟子達の記憶を強化されたということです。そこで、更にこの一連の出来事の流れで更に分かってくることがあります。記憶の第三番目の秘訣、即ち、鮮烈な出来事を体験させることによって、主イエスが弟子達の記憶をしっかり保持させ、固定されたということなのです。

 第一に、「高い山に登られた。すると、彼らの目の前でイエスの姿が変わり」、彼らは主イエスの鮮烈な変貌を目撃させられました。ルカは9章28節から、同じこのところを、「六日の後」ではなく「八日ほどたった時」と語ります。登山目的も「祈るために高い山に登り」と語ります。しかも、弟子達が「眠りこけていたが、目を覚ますと」と語っていることから、推測すると、告白事件から6日後に山頂に着き、主イエスと祈りを共にしたその二日後、しかも夜、眠気を催していた、その時だということになるでしょう。「イエスの姿が変わり」、その衣が真っ白に輝いたのです。その形容がユニークですね。「それは、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほどだった」

マタイはこのところを、主イエスのお顔が「太陽のように輝き」172節 と語っており、それによって、その変貌がどれほど鮮烈であったかが容易に想像できるというものです。そればかりではありません。三人の目の前に、何と、旧約聖書時代を代表する二人の偉人が、忽然と出現したというのです。「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた」これまた、鮮烈なできごとではありませんか。エリヤとは、800年前にイスラエルで活躍した預言者です。モーセとは、1200年前に、出エジプトで活躍した奴隷解放の指導者、そして律法の授与者です。彼らは、旧約聖書を代表する偉大な人物でした。その彼らがイエスと語り合っていたというのです。因みに、素朴な疑問ですが、彼らはこの二人がどうしてエリヤとモーセだと分かったのでしょうか。記録写真もありません。似顔絵も残っていません。石膏のデスマスクもないし、ましてやフェイスブックなどあるはずもありませんね。しかし、彼らには分かったのです。もしかしたら、主イエスが彼らの名前を呼ばれたのを聞いたからかもしれません。一つ確かに言えることは神の国では、名乗らなくても、お互いがはっきり分かるということなのです。天国では分かるのです。見違えることはないのです。私たちにも彼らがエリヤだ、モーセだと分かるに違いありません。アブラハムもそれと分かるし、使徒パウロも、使徒ペテロも、宗教改革者のルターもわかるのです。先に天に召された全ての先輩聖徒の皆さんとも再開できるのです。これは素晴らしいことではありませんか。

するとその時、突然、雲が彼らを覆い、何も誰も見えなくなってしまいます。ヘルモン山頂であれば自然現象として雲やガスが発生してもおかしくはないでそう。だがこれは、自然現象ではありません。雲が聖書では、神の臨在の象徴だからです。神は不可視で目に見えません。けれども、神の臨在を人間は察知することができるのです。その時、雲の中から声がありました。「これは私の愛する子。これに聞け」彼らは神の声を、天声を直接耳にしたのです。普通ありえないことが起こったのです。主イエスの変貌、二人の偉人の出現、そして、天声。これほど鮮烈な目撃、強烈な体験は他には決してないでしょう。

 では、何故この三人に、鮮烈な山頂の目撃が与えられたのでしょう。それは、彼らに教会共同体の大切な三つの記憶を保持させ固定させるためだったのです。教会が共同体として絶対に忘れてはならない第一の記憶があります。それは、主イエスの十字架の受難の記憶です。主イエスは、ペテロの告白に続いて8章31節に「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちによって排斥されて殺される」と予告されていました。ペテロは憤然として「そんなことはあってはなりません」と拒否したのですが、イエスは三度もこの受難を予告され、弟子達に教えておられます。

主イエスは、ここで鮮烈な目撃により受難の記憶を徹底的に固定されようとされたのです。ルカはここのところを9章31節にこう語っています。『二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後のことについて話していた』 この「最後」は適訳ではありません。「最期」とすべきです。時間的順序ではなく、この言葉は死を意味しているからです。旧約聖書を代表した偉大な二人が、主イエスと語りあった主題は、エルサレムでのイエスの十字架の死であったのです。しかも使用される原語の「エクソドス」は「出口の道」を意味しており、旧約聖書二番目の出エジプト記の英語聖書の名称は「エクソダス」です。主イエスの十字架の死は、それで終わるものではありませんでした。栄光への脱出です。人類を罪から脱出させ罪の奴隷状態から解放をもたらす犠牲の死でした。第二の出エジプトだったのです。エリヤは預言を代表し、イエスの十字架は預言の成就だと証言しました。モーセは律法を代表し、イエスの十字架は律法の成就だと証言したのです。三人の弟子達はこの二人の偉人の鮮烈な出現によって、十字架の受難の記憶が、しっかり脳裏に保持され固定されることができたのです。

 教会が共同体として絶対に忘れはならない第二の記憶、それは、主イエスの復活の記憶です。イエスはペテロの告白に続いて、教えて言われました、「人の子は必ず・・・殺され、三日の後に復活することになっている」 弟子達にとって、どうしても理解できないことは復活でした。主イエスの復活でした。だが、彼らは2800mの高い山に登らされました。それは天地の狭間でした。そこに800年前の人エリヤと1200年前のモーセが出現しているのです。モーセは、彼が120歳の時、モアブの地で死に、谷に葬られたとされています。(申命記34章5節)そして「しかし、今日に至るまで、誰も彼の葬られた場所を知らない」6節、と記録されます。では預言者エリヤはどうか、聖書によれば、「なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現れ、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。」(列王下2章11節)、彼は死を見ず召天していたのです。二人とも今 現に生きている。人には一度死ぬことが定まっています。だが、復活するのです。復活させられるのです。イエスはその復活により死を超克され、私たちの復活をも証明されたのです。彼らはこの二人の偉人の山頂での鮮烈な出現によって、キリストの復活の記憶がしっかり固定され保持されました。

教会が共同体として絶対に忘れてはならない第三の記憶、それは、主イエスの再臨の記憶です。弟子達にとり、十字架、復活ばかりか、より一層理解しかねたのはキリストの再臨だったでしょう。イエスは弟子たちに教えて語られました、「神に背いた罪深いこの時代に、私と私の言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その物を恥じるのであろう。」(8章38節)主イエスは弟子たちに、はっきりと「再び来る」と教えられたのです。しかも「人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来る」と。栄光に輝いて来ると教えられたのです。彼らは、その再臨の栄光の輝きを、目の前に変貌されたイエスの輝きに見たのです。

輝きの白さとは、神の神性をあらわすものです。それはこの世のものではないということを強調しているのです。この「白い衣を着た者」というのは、天的存在、天にその場所を持つ者に対して使われる聖書の表現なのです。雲の中から「これは私の愛する子」との天の神の声を聞いたときに、彼らは栄光の主の再臨を見せられたのです。

 ウクライナ戦争が1ヶ月経過しようとするとき、噂されるのはロシアが生物、化学兵器ばかりか苦肉の策で核爆弾を使用するのではないか、という恐ろしいものです。もしそうでもなれば、人類絶滅の危機に晒されること必至です。だが世の終わりに希望が教会にはあるのです。最後的破局の前に、主イエスは空中に再臨され、教会は携挙されるからです。その教会の希望の根拠は、彼ら三人の共同の記憶にかかっているのです。

 このように、主イエスが、教会にとっての共同の記憶を準備されたのは、それが教会共同体を形成する力となるからです。

第一に、その力は、何と言ってもキリストを証言する力、福音を証言する証の力でしょう。主イエスはペテロが「あなたは、メシアです」と告白するや、「ご自分のことを誰にも話さないようにと弟子たちを戒められた」(8章30節)と禁じられました。何故禁止されたのでしょうか。主イエスは三人が山頂で鮮烈な光景を見せられた後、山を下りつつ「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことを誰にも話してはならない」9節と禁じられてもおられます。

先週のメッセージで、私は自分がドン・キホーテみたいに思えると話しました。覚えておられますか。ある方が、松本幸四郎さんが「ラマンチャの男」で50年間、ドン・キホーテ役を演じて来られたと教えてくれました。そこで、ネット上で検索したところ、短いプロモーション映像を自由に見ることができました。だが、それはどこまでも、触り部分の予告編でしかなく、本編ではありません。「どうぞ劇場にお越しください」と誘い水なのです。それと同様です。弟子たちは、メシアの全て(肝心な本編)を見ていなかったのです。彼らは、映画や演劇で言う予告編を教えられ見せられたに過ぎなかったのです。主イエスは言われた、「人の子が死者の中から復活するまで・・・話してはならない」注意してください。その発言禁止にはタイムリミットがあったのです。復活するまでです。教えられたこと、予告で見たことを実際に、主イエスの十字架と復活の本番を見るまでは、と限定されていたのです。だがどうでしょうか、十字架、復活、40日間の主との再会、昇天を、本編を実際目撃した彼らは、俄然、聖霊に満たされ証言を開始したのです。それは、1時の興奮した運動ではありませんでした。それは、しかも、今日まで2000年間続いているのです。私たちにその証言が届けられているのです。今私たちは、その場に居合わせていないのに、「主は十字架に、主は三日目に復活、主は昇天、主は再臨される」と、私たちもまた証言しているのです。それは、この共同の記憶が教会の根底にある力となっているからです。

使徒ペテロが、第二1章16〜18節で証言しています。「私たちは、私たちの主イエス・キリストの力と来臨をあなたがたに知らせるのに、巧みな作り話に従ったのではありません。この私たちが、あの方の威光の目撃者だからです。」彼は、「私たち」はと繰り返します。それは共同記憶だからです。彼の単独の経験ではありません。

 共同の記憶は宣教、証言の力ばかりか、キリストを記念しようとする力でもあります。ペテロはあの山頂の光景に接して思わず口を挟んで「幕屋を三つ建てましょう」と言い、しかも「どう言えば良いか分からなかった」とマルコは報告しています。黙っていればいいものを、ペテロとはそう言う人物なのですね。面白いですね。そして、このペテロの口出しを良く解釈する人はほとんどいません。しかしどうですか、「先生、私たちがここにいるのは、素晴らしいことです」とペテロは言っています。素晴らしい経験です、高貴な、価値ある、誉れある経験です、と素直にペテロは感動して言っています。主イエスは私たちに、しばしば、祈る時、礼拝する時、集まる時、聖会、修養会に参加する時、素晴らしい感激の瞬間に導かれるのではないですか。そして、私たちの心に、その感激を何かに、記念として残したいという願望を喚起させてくださるのではないですか。私はこの泉佐野福音教会の40周年記念誌を読むと、そこに会堂建設の背景に、この教会の共同記憶をひしひしと実感させられるのです。会堂を建設せざるを得ない何か大きな鮮烈な神の愛の迫りを、みなさんが共同して体験したからではないですか。教会堂!それは、記憶の記念であり、それを見る度に、それを使用する度に、教会は遡ってあの日、あの時の恵みを追体験させられるのではないでしょうか。この共同体の共同記憶を大切にしましょう。この感動を与えてくださったに主に感謝しようではありませんか。

 もう一つの共同記憶の力は、イエスに似たものに変貌させる力です。三人は「イエスの姿が変わ」ったのを鮮烈に目撃しました。この「変わる」の原語は、昆虫などの変態を意味する英語のメタモルフォシスの語源です。別の状態に変わることです。パウロがこの用語を用いて語った言葉に注目してください。コリント下3章18節に。「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。

共同の記憶が教会に与える力は、聖霊によるクリスチャンの姿変わりなのです。救われたクリスチャンの究極の目標は、キリストに似たものになることです。彼ら弟子たちの十字架の直前までの関心の中心は、自分たちの王国での地位争いでした。誰が一番偉くなれるかでした。しかし、教えられ、本番の十字架と復活を記憶した彼らは変えられたのです。主イエスに似るものとなることを希求するよう帰られたのです。イエスは、彼らを高い山へ、祈るために連れていかれました。主イエスは、彼らをそこで共同の記憶に導かれました。私たちの教会は、このような共同の記憶に支えられて形成されてきたことを感謝しましょう。

今週も、こうして礼拝に集まり、祈り、賛美し、交わることで、豊かな主を知る新しい共同の記憶に導かれていることを感謝しよう。そして今週も祈り礼拝し、福音を証言し、主の形に似せていただくことにしましょう。

320日礼拝説教(詳細)

「信仰さらに知識」  マルコ8章27〜34節

さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられたが、その途中で、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は、わたしをだれと言っているか」。

彼らは答えて言った、「バプテスマのヨハネだと、言っています。また、エリヤだと言い、また、預言者のひとりだと言っている者もあります」。

そこでイエスは彼らに尋ねられた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。

ペテロが答えて言った、「あなたこそキリストです」。

するとイエスは、自分のことをだれにも言ってはいけないと、彼らを戒められた。

それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、しかもあからさまに、この事を話された。

すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめたので、イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。

それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。

 司会者が朗読された今日の聖書箇所は、フィリポ・カイザイリアでイエスがなされた三つのことが語られています。カイザイリアは、標高2800mヘルモン山麓の村、そこからはガリラヤが、そして、その先にはエルサレムが眺望できる位置にあります。

そこでイエスのなされたこととは、第一に、弟子たちを信仰の告白に導かれたこと。第二に、弟子たちの告白に対して教えられたこと。第三に、その教えに反発したペテロを叱責されたことでした。

イエスは最初に「人々は、私のことを何者だと言っているか」と弟子たちに尋ね、更に「あなた方は私を何者だというのか」と尋ねておられます。すると、弟子たちを代表してペテロが「あなたは、メシアです。」と答えたのです。これは教会で私たちが言うところの信仰の告白です。ペテロが告白したメシアとは本来の意味は「油注がれた者」でした。油を注ぎかけるとは権威を授けることを表し、旧約時代では、この油注ぎを受けたのは、僅か王様と祭司と預言者に限定されていました。そして、その三つの職務を、もし兼ね備える人物が到来するなら、その人物こそ神が約束された救世主だ、とイスラエルでは考えられていたのです。

メシアは、国民を最も望ましい仕方で治めてくださる王です。メシアは、私たちに成り代わって神にとりなすことのできる祭司です。メシアは、神に代わって私たちに神の言葉を取り次ぐ預言者です。ペテロがイエスを「あなたは、メシアです。」と告白したとき、彼は「そのすべてが完備された方こそあなたです」と言い表していたのです。マタイ16章17節によれば、ペテロが告白した瞬間、主はこう祝福されたと報告しています。「バルヨナ、シモン。あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、天におられる私の父である。」イエスはペテロに「あなたは幸いだ。」と祝福されました。何故なら、イエスをメシア、キリスト、主であると告白することは、父なる神の直接の働きかけの結果だからです。「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、天におられる私の父である。」恵みによる奇跡の御業なのです。「あなたは幸いだ」一人の人間にとって何が一番、最高の幸せなのでしょうか。この信仰告白に勝る幸せはありません。

私が信仰の告白に導かれたのは16歳の時でした。その時、私はどうして信仰の告白ができたのか、正直言って自分でそれを説明することができません。神の成された恵みの業、恩寵の為せる業であったとしか言えません。

あなたがイエスを告白したのは何時でしたか、どのような場合だったでしょうか。どうして告白できたか、説明することができるでしょうか。今日、今、こうして、イエスをキリスト、メシアと告白できることを素直に感謝しようではありませんか。神の恵みであるからです。

 ところで今日、私たちはこの信仰告白の出来事の流れに、重大な深刻で、とんでもない問題が浮上しているのに気付くのです。ペテロが告白すると、イエスは直ちに、その告白されたメシアについて教えられました。「しかも、そのことをはっきりとお話しになった」と強調されています。そこを読むとこうです。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちによって排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」31節。この教えの中で、イエスは、ペテロの告白している「メシア」を別の名称で「人の子」に言い換えて教えておられます。この「人の子」とは、ダニエル7章13節に由来する名称で、預言者がこう語っています。「私は夜の幻を見ていた。見よ、人の子のような者が、天の雲に乗って来て、日の老いたる者のところに着き、その前に導かれた。この方に支配権、栄誉、王権が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちすべてはこの方に仕える。その支配は永遠の支配で、過ぎ去ることがなく、その統治は滅びることがない。」実は、このダニエルの預言の「人の子」こそ、神が古から約束されておられたメシア、救い主なのです。ペテロが告白したメシアは、このダニエルにより預言されたメシアであり、イエスは、「私がそのメシアだ」と教えられたのでした。しかも、もう一歩踏み込んでイエスは、メシアは、苦しめられ、排斥され、殺される、そして復活するのだ、と教えられます。しかも、「必ず・・・することになっている」と訳されているのは、原語では非常に短い「デイ」が使われており、これは「ねばならない」と言う意味で、これは神による必然性が強調されているということです。これは受難の予告と呼ばれ、イエスは三回予告されていることが知られています。そして、これはその第一回目の予告に相当するものです。

 ところが、その教えを聞いていたペテロが突然、イエスを脇へ引き寄せ諌め始めたのです。マタイはそこのところを詳しく書いており、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(マタイ16:22)とペテロが言って諌めたと報告しております。イエスは、メシアは必ず殺される、苦しめられねばならない、そして復活することになっている、と教えたのですが、ペテロは猛反発しました。「そんなことがあってはなりません」「とんでもありません」と押し留めようとしたのです。すると、ペテロはきつく「サタン、引き下がれ」とイエスに叱られ、退けられてしまいました。ここに突然浮上した問題があります。それは信仰の告白と知識の間の乖離、離反の問題です。信仰告白したとしても知識が必ずしも伴わないことがあるのです。

ペテロは、父なる神の恵みでイエスをキリスト、メシアと告白できました。それは素晴らしい恵みです。幸いなことです。ところが、告白したメシアであるイエスを、彼は自分の知性では、正しく理解していなかったことが、ここに露見したのです。イエスは、ペテロの信仰告白を受け、そのメシアであるご自分に、これからどのようなことが待ち受けているかを教えられました。その受難と復活を教えられたのです。だが、ペテロは「そんなことがあってはなりません」と強烈に断固として反発したのです。

ペテロはイエスをキリスト、メシアと告白したものの、ペテロが抱いていたメシアのイメージが全く違っていたのです。イスラエル民族には、昔から南北の大国、エジプト、アッシリア、バビロン、ギリシャ帝国に痛めつけられてきた苦い歴史がありました。今また大ローマ帝国に政治的に厳重に支配され、その属国として苦しんでいました。その当座、ユダヤを治めるヘロデ大王は、ユダヤ人ではありません、異邦人のイドマヤ人であり、ローマの傀儡政権でした。二重三重に苦しめられてきたイスラエルの民が期待したメシアは、ローマ帝国を転覆させる革命的な政治指導者だったのです。

確かに、ダニエルのメシア預言によれば「この方に支配権、栄誉、王権が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちすべてはこの方に仕える。」とされていたのですから、必ずしも間違っていたわけではないでしょう。それなのに、イエスは、苦しめられ、排斥され、殺されてしまう、と教えられる。それは絶対我慢できない受け入れがたい論理だったのです。そこに、私たちはペテロの信仰と知識の深刻な乖離(かいり)、離反を見ないわけにいきません。そして、それはまた私たちの問題でもあることを認めないわけにはいかないのではないでしょうか。この教会が創立されてから多くの人々が出入りしているでしょう。多くの人々が信仰の告白に導かれ、洗礼を受けているでしょう。だが、多くの人々が教会を離れているという現実があることも事実です。それは必ずしも、この教会に限ったことではありません。どこの教会の現実でもそうなのです。それは何故でしょうか。勿論、離れていく理由、原因は個々人違っており、種々あるでしょうが、大きな一つの理由は、信仰と知識の乖離、不一致ではないでしょうか。信じてイエスを告白するにはする、洗礼を受けには受ける。だが次第に、自分の抱いた救い主のイメージと主イエスの真実との間に相違が露呈していくにしたがい、いつか我慢できなくなる、去っていくしか他に選択肢が無くなってしまうのです。

 するとペテロの反発に対し、イエスはペテロを直ちに叱られました。「サタン、引き下がれ」と。これは非常に厳しい譴責(けんせき)です。イエスがペテロを厳しく譴責した理由は三つあげることができるでしょう。

第一イエスに優位に立とうとしたこと、第二イエスに勝る権威があるとしたこと、第三悪魔に加担したことです。

「ペテロはイエスを脇へお連れして」イエスを諌(いさ)めています。このペテロの動作は、子供や病弱な人を世話するために連れて行くことを意味します。学校の教師が生徒を教えるために脇に連れて行くことを意味します。ペテロはこのようにすることで、イエスの上に立つ優位性を示したことになってしまいました。

ペテロの第二の過ちは、イエスに対して権威ある者として振る舞った点にあるでしょう。「イエスを、いさめ始めた」この「いさめ」は、他の箇所ではイエスが風と嵐を叱るところで使われ、汚れた霊を叱りつけるところで使われた言葉です。あるいは、命じる、戒めると訳される言葉で、権威を表す言葉なのです。権威は一体誰にあるのでしょうか。主イエスでしょう。ペテロは勘違いをし、自分は弟子ではなくて、優位に立つ保護者、権威者と錯覚してイエスを諌めてしまったのです。

それ以上に、ペテロの過ちの深刻さは、神の働き、計画を妨害する敵対行為であった点にあります。イエスは、ペテロを叱責し、「サタン、引き下がれ。」と叱りました。サタンとは敵対者のことです。悪魔の名称です。ペテロは自分がサタン呼ばわりされて仰天したことでしょう。だがイエスは、ペテロの発言、態度の背後に、サタンを見て取ったのです。透かし見通されたのです。神と人の敵であるサタンが、どうしても邪魔したいのは、イエスが十字架に殺されることです。

サタンは、罪の贖い、赦しがもたらされることを極度に恐れていたのです。それによって人が救われることになるからです。人殺しであり偽り者であるサタンは、救われた人間を滅ぼすことができなくなるからです。ペテロはそれとも知らずに、サタンの手先となり、神がなさろうとする救済の働きの妨害者になってしまったのです。イエスは叱って言われた。「あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」そうです。サタンが悪用するのは、人間中心の思想、思考なのです。信仰を告白し、洗礼を受けた後でも、キリストを正しく理解せず、誤解することによって、神の働きの妨害者にならないよう、よくよくお互いに注意することにしなければなりません。

 では、信仰と知識の乖離、離反に対処するにはどうするべきなのでしょうか。

主は、こう言われました、「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」34節です。一言で言えば、主イエスにお従いすることなのです。イエスはかつてペテロに対して、最初ガリラヤ湖畔で「私に着いて来なさい。そうすれば人を漁る者としよう」と召しの呼びかけをなされました。だがここに、イエスは新しく「私についてきなさい」と新たに召されておられるのです。主は言われました、「自分を捨て・・・私に従いなさい」と。従うとは、自分を捨てることなのです。自己否定することなのです。すべての優先順位の最上位にイエスを置き、イエスの意志に自分の意志を合わせて生きることなのです。イエスがペテロを「サタン、引き下がれ。」と叱責された言葉の「引き下がれ」を直訳すれば、「私の後ろに行け」です。ペテロはイエスを諌めることで前に立とうとしていました。イエスは後ろに行け、後ろからついて来ないさいと命じられるのです。イエスの後ろに従うとは、自分を捨てること、自分を否定すること、自分に死ぬことです。しかしどうでしょう。生来の私たちは、私はどこまでも私自身でありたく、「私は私だ。」「私は自分の好きなようにする。」「誰にも邪魔されたくない」「私は自分の成りたい自分になるのだ」と自己実現を目指しているのではないでしょうか。しかし、そういう「自分が何者であるのか」本当に分かっているのでしょうか。

人間の本質的な根本的な問いがあるとすれば、それは「自分は一体何者なのか」に突き当たりませんか。或いは「人とは一体何者か」でしょう。人はそれぞれ、それなりの結論に至っているかもしれない。あるいは、考えても分からないから考えないようにしているかもしれません。適当に自己満足しているかもしれません。しかし、罪によって神から離れた人間は、本来のあるべき人間の在り方を失ってしまっているのです。唯、イエスが何者かが、はっきり理解した者のみが、自分が何者かを理解することができるのです。

イエスはその真理を逆説的にこう語られました。35節です。「自分の命を救おうと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために自分の命を失う者は、それを救うのである」「自分の命」とは、言い換えれば、自分自身、自我のことです。救おうとすれば失う。失えば救われる。それだけでは矛盾した表現です。しかしここに逆説真理があるのです。

イエスに従うことは、自分を否定すること。だが、不思議なことに、それによって本当の自分を理解することになり、つまり自分が救われることになるのです。ただ、誰でもイエスをキリストとして理解し従う時、初めて「自分が何者であるか」が分かるのです。

 最近「ヒトはどうして死ぬのか」というある生物学者の著書を読む機会があり、そこに生き物の細胞の死には、二つあることが説明されていました。

その細胞死の一つは「ネクローシス」で、打撲や火傷、外部からの刺激で起こる事故死です。細胞に外部から衝撃が加わると細胞膜が破れて中身が飛び出して死滅する現象です。

もう一つの細胞死が「アポトーシス」なのです。これは事故死ではなく、細胞の自殺に当たる。ただし、自殺といっても細胞が勝手に死ぬのではなく、内外から得た情報「あなたはもう不要です」「あなたは異常を来して有害な細胞になっている」そういうシグナルを総合的に判断して自死装置が発動して起こる細胞死だというのです。そうすると、その細胞は収縮し始め、葡萄のように小さい粒に断片化し、周囲の細胞に取り込まれ、遂には綺麗に身体から消去されてしまう。そして、一つの例としてオタマジャクシが挙げられていました。尻尾が無くなりカエルに姿を変えて行くオタマジャクシです。尻尾がなくなるのは、そのアポトーシスが起こって細胞が死んでいくからだと説明されています。その際に作用するのはたった一つ「甲状腺ホルモン」これが一定量増えるとアポトーシスを起こす。では、この甲状腺ホルモンを全く除去すると、どうなるか、オタマジャクシは変態することなく、ただひたすら巨大なオタマジャクシになってしまうというのです。そんなオタマジャクシ、気持ち悪いですね。

イエスをキリストと信じる、イエスを主と理解し受け入れ、イエスの教えに従うとき、そうです。アポトーシスが起こるのです。従おうとする。それは自分を否定し自分を捨てること。自分に死ぬことです。そうすると、不思議なことに、新しい自分、新しい自我を発見し、本当の意味での自分を再発見し、新しい理解に至ることができるようになるのです。「誰でもキリストにあるなら、その人は新しく作られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。」(コリント下5:17)は、その意味で語られていたのです。

 そしてさらにイエスに従うとは、自分の十字架を負うことです。「自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」

十字架刑は重大犯罪に対する残虐なローマ帝国の刑罰でした。しかし、イエスの十字架の死は、他人の罪の赦しのためでした。それは愛のなせる救いの業でした。自分の十字架とは、他人のために自分が犠牲になることです。イエスがそうであられたように、他者のため愛と赦しに生きることが、イエスに従う生き方なのです。十字架を負いイエスに従う、そこには重荷や痛みや苦しみを避けることはできないでしょう。今年の3月号の雑誌「舟の右側」の特集に宣教師のメンタルケアが掲載され、そこに丸山陽子師の手記が載せられ、驚きをもって読ませていただきました。神学校で知り合った台湾人の顔金龍師と結婚なされ、台湾原住民の宣教に献身、素晴らしい働きをなされて来られたことを知っておりました。だが、26年間想像を超えるカルチャーショックの中で戦いに全力で応じて来られた陽子先生は、遂に燃え尽き、これまでに何と、三回も燃え尽き症候群に病み、倒れてしまったと語られるのです。何も知らずに飛び込んだ台湾の異文化の中で、どれほどストレスに悩まされ苦しまれたか、計り知れないことを私は知らされました。それは文字通り、イエスに従った結果に他なりません。丸山先生は自分を捨て、台湾住民のために十字架を負い、イエスに従い通されて来られたのです。

しかし、この主の招きは、使徒や宣教師だけに限定された呼びかけではありません。34節には「群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。」とあり、この招きには「群衆」が、すなわち私たちも含まれていることを指し示しているからです。私たちもまた、自分を捨て、自分の十字架を負ってイエスに従うことが求められているのです。自分の十字架を背負うとはどういうことなのでしょうか。それは、私の思いや願いをいったん横に置いて、今自分に神様が求めておられることを為すことです。自分の思い、自分の願いを横に置いて、互いに愛し合いなさいと言われた主の言葉に従うことです。赦しなさいと言われた主の言葉に従うということです。それが、自分の十字架を背負うということです。仕事をするときに隣人の益になるように働くことでしょう。家事をするときには、家族の益になるよう心から仕えることでしょう。弱さや障害ある人が近くにおられれば、できうる限りの助けの手を差し出すことでしょう。教会につながる多くの人々の救いのために祈ることでしょう。聖霊の賜物をいただいて霊的な奉仕に献身することでしょう。主は今日も、「私の後に従いたいものは、従いなさい」と呼びかけられておられるのです。主は決して強制されることはありません。私たちの自由意志を尊重され、その献身服従が神に対する畏れと愛から出てくることが期待されているのです。

今週も主イエスにお従いし、主の前に立ちはだかり妨害するのではなく、主の後ろに退き、自分の十字架を負って、従って行くことにしましょう。

3月13日礼拝説教(詳細)

「気は確かなのか」  マルコ3章20〜27節

群衆がまた集まってきたので、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の者たちはこの事を聞いて、イエスを取押えに出てきた。気が狂ったと思ったからである。

また、エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「彼はベルゼブルにとりつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。

そこでイエスは彼らを呼び寄せ、譬をもって言われた、「どうして、サタンがサタンを追い出すことができようか。もし国が内部で分れ争うなら、その国は立ち行かない。また、もし家が内わで分れ争うなら、その家は立ち行かないであろう。もしサタンが内部で対立し分争するなら、彼は立ち行けず、滅んでしまう。だれでも、まず強い人を縛りあげなければ、その人の家に押し入って家財を奪い取ることはできない。縛ってからはじめて、その家を略奪することができる。

 先週木曜日、私はいつものように祈りの歩行(市内に51ある町を1年かけて短時間執り成し祈る働き)に行く準備していたら、M兄が電話で参加を表明されました。予定地は16番目の下瓦屋町、車はスーパー「いこらモール」に駐車し、30分ほど一巡してきたのですが、私の目に飛び込んできたのは、モールの一角を占める巨大なディスカウントショップの大看板「ドン・キホーテ」でした。その看板を見た瞬間、一瞬ドキンとしたのです。何故なら「最近の自分は人から見ればドン・キホーテではないか」と自嘲気味だったからです。

 騎士道物語の読み過ぎで現実と物語の区別がつかなくなり自らを遍歴の騎士と確信し、「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」と名乗って冒険の旅に出かけるという、あの気が少々変になった人物の物語です。

しかし、今日の説教台を「気は確かなのか」としたのは、その為ではありません。今日の聖書箇所によれば、主イエスが「気が変になっている」と人々に誤解された箇所があるからなのです。20節はこう始まります。「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。」イエスが帰られた家とは、恐らくカペナウムのペテロとアンデレの家かもしれません。すると直ぐに、聞きつけた群衆が駆けつけ、家は入りきれないほどになります。その詳細は、この箇所には記されていないのですが、主イエスは、人々に教え、癒し、解放の働きをなされたに違いありません。

 すると、何と身内の人たちが、イエスを取り押さえるために来たと言うのです。「取り押さえる」とは力づくで対処することです。暴れたら何が何でも押さえつける。何故ですか。「気が変になっている」そう言う噂をナザレで彼らが聞いたからでしょう。「気が狂っているぞ、おかしくなったぞ」「常軌を逸しているぞ、逆上しているぞ」そう言われたら、誰でも家族は何とかしなければならないと思うでしょう。当時、精神病院があったかどうか分かりません。だが、少なくともカペナウムから郷里のナザレに連れ戻さねばならないと思いつめたに違いありません。同じ場面の続きとなる

31節には「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた」とあるので、イエスを狂人扱いにした身内には母マリア、兄弟たち(ヤコブ、ヨセフ、シモン)がいたに違いありません。三人の屈強な男がいれば何とか取り押さえられるだろうと駆けつけたのでしょう。母マリアはイエスの出産では驚かされました。12歳のイエスの宮詣(みやもうで)事件でも大変驚いていました。夫のヨセフが早死にし、大工業で家計を支えてくれていたイエスに期待していたのに、30歳でナザレを出て行くのにも驚いたでしょう。それにイエスの逆上の噂には、驚きを超えてホトホト心配したに違いありません。そんなわけで、息子たちを引き連れて引き取りに来たというのです。

 気狂い扱いされただけではありませんでした。イエスは、ここで魔術師扱いされていたのです。そこには、エルサレムから降ってきた律法学者達がいました。イエスの言動を調査し報告するよう、中央の宗教団体から派遣されたのでしょう。彼らの結論はこうです。「あの男はベルゼブルに取りつかれている」「悪霊の頭(かしら)の力で悪霊を追い出している」彼らは目の前で、イエスの不思議な業(わざ)を見ていました。大勢の病人が癒される、悪霊に憑かれた人々から悪霊が追い出されて行く、生々しい事実を見せられていました。ですから、その奇跡の力の事実は否定できません。ところが、彼らはその力をベルゼブルによると考え、悪魔の力で癒し、悪霊を追い出しているのだと断定し、イエスを魔術師扱いにしたのです。「ベルゼブル」これはヘブライ語では「ハエの王」という意味です。試しにこれを10回ほど唱えてみてください。ハエが飛び回る音のようではありませんか。私たちは、律法学者たちの言い分もわからないわけではない。今現代でも超能力により異常現象が、実証されテレビでも放映されている現実があるからです。

手品師にミスター・マリックという人がいます。マリックとはマジックとトリックの合成語です。「超魔術」と言って大変な人気だったのですが、彼の元には「教祖になってください。」という依頼が来たと言っています。私もネットで確認したのですが、スプーンを動かし、曲げ、切断することさえします。「超能力か?」と彼が人に問われると「ハンドパワーだ」と答えています。その多くはトリックだと思いますけれど、私共はそれに対して本当に弱いのです。そうではないですか。

 では、イエスは気狂いなのですか。イエスはインチキで怪しげな魔術師なのですか。 

英国のクリスチャン思想家であるC Sルイスが言っています。「イエスが誰であるか、次の三つのどれか一つでしかありえない。イエスは狂人であるか。イエスはペテン師であるか。それとも、イエスは正真正銘本物の救い主であるか。」そうです。結論から言えば、イエスは狂人、ペテン師では絶対にない。正真正銘本物の救い主です。その決め手が、35節にあります。「見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。神の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」とイエスは語られました。

これは31節の身内を前提にした、弟子達に語られた言葉です。身内の条件は血縁でしょう。だが、本当の身内、霊的家族の条件は違うと言われているのです。イエスとの霊的な血縁関係になる条件はただ一つ、「神の御心を行うこと」なのです。ということは、イエスが狂人、魔術師では毛頭あり得ず、神の御心を行う方、神から遣わされた神の御子であるということなのです。イエスがベテスダの池で38年もの長きに渡り病んでいた病人を癒された後で、語られた言葉がヨハネ5章19、20節にあります。『よくよく言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何もすることができない。父がなさることは何でも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、ご自分のなさることをすべて子に示されるからである。』イエスは、十字架に架けられ死と復活により罪の赦し、救いを人類にもたらす神の御心を実行する為、遣わされた神の子であり、正真正銘の救い主なのです。更に、主イエスは27節でこう語られます。『まず、強い人を縛り上げなければ、誰も、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。』

何か物騒な話しではありませんか。これは泥棒の論理と言うものです。本格的な泥棒です。空き巣狙い程度ではありません。しかし、どうぞ誤解しないでください。これは喩えなのです。「強い人」とは誰ですか。サタン、悪魔です。「その人の家」とは、この世、世界です。「家財道具」とは、この世界に住む人類、私たちのことなのです。

では「泥棒」とは誰ですか。ルカ11章21、22節を参照しておきましょう。こう記されています。「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その財産は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具を奪い、分捕り品を分け合う。」マルコでの泥棒は、ルカによれば「もっと強い者」です、それはイエス・キリストなのです。主イエスは、サタンの配下に悪霊に縛られている私たちを解放するために、十字架にかかられたのです。それは、人間を我が物顔に支配していた悪魔を追放し、人が罪の赦しを受けることにより、悪霊の立ち入る隙を与えないためなのです。

 するとどうなるでしょうか。イエスを気が狂ったとみなした身内、イエスを魔術師、ペテン師だと断定した律法学者達が、逆に気が確かでないことになりませんか。私は最初に紹介したドン・キホーテを調べているうちに、この二つのグループがドン・キホーテと重なるのに気づかされました。この小説を少し説明しておきましょう。「ラ・マンチャのとある村に貧しい暮らしの郷士が住んでいた。この郷士は騎士道小説が大好きで、村の司祭と床屋を相手に騎士道物語の話ばかりしていた。やがて彼の騎士道熱は、本を買うために田畑を売り払うほどになり、昼夜を問わず騎士道小説ばかり読んだあげくに正気を失ってしまった。狂気にとらわれた彼は、みずからが遍歴の騎士となって世の中の不正を正す旅に出るべきだと考え、そのための準備を始めた。古い鎧を引っぱり出して磨き上げ、所有していた痩せた老馬をロシナンテと名付け、自らもドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャと名乗ることにした。最後に彼は、騎士である以上 思い姫が必要だと考え、エル・トボーソに住むアルドンサ・ロレンソという田舎娘を貴婦人ドゥルシネーア・デル・トボーソとして思い慕うことに決めた。」「やがて彼は、教養の無い農夫のサンチョパンサを従者に二度目の旅行に出る。すると、行く手に340基の風車に出くわした。ドン・キホーテはそれを巨人だと思いこみ、全速力で突撃し、衝突時の衝撃で跳ね返されて野原を転がった。サンチョの現実的な指摘に対し、ドン・キホーテは自分を妬む魔法使いが、巨人退治の手柄を奪うため巨人を風車に変えてしまったのだと言い張り、なおも旅を続けるのだった」

 

 このセルバンテスによる小説がスペインで400年前に発売された時、風刺劇、滑稽本としてベストセラーになったと言われています。最近の評価では、「2002年5月8日にノーベル研究所と愛書家団体が発表した、世界54か国の著名な文学者100人の投票による「史上最高の文学百選」で1位を獲得した。」のです。更にロシア作家のドストエフスキーの解釈の箇所を見るとこうあります、「彼は『作家の日記』の中で『ドン・キホーテ』を「人間の魂の最も深い、最も不思議な一面が、人の心の洞察者である偉大な詩人によって、ここに見事にえぐり出されている」、「人類の天才によって作られたあらゆる書物の中で、最も偉大で最ももの悲しいこの書物」と評した。」とあるのです。私は、ここまで思い至った時に、あの身内と律法学者達とは実は、私たちを代表しており、思わず、「ドン・キホーテは現代の私たちの姿ではないのか」考えてしまいました。何故なら、ここ三週間、連日、報道されるウクライナ情勢を見聞するなら、「これは常軌を逸している」「狂気の沙汰だ」そう思わざるをえないからです。2月24日にロシア軍がウクライナに侵攻し、既に250万人以上が難民となって国外に流出、主要な都市は激烈な砲撃によりインフラが壊滅的に破壊されて行く。あまりにも露骨で悲惨な映像に、誰しも見るに耐えない、聴くに耐えない惨状ではありませんか。ロシア軍に進撃を命じたのは誰ですか。プーチン大統領です。私たち誰しもが思わないだろうか。「彼の気は確かなのか」と。アメリカの調査機関では、「プーチン大統領は精神に異常を来している」と発言し、「イヤ、彼の精神は首尾一貫している」と意見が別れているそうでもあります。この情勢理解のため最近、筑波大学のロシア専門学者の中村逸郎教授の本を入手しました。タイトルは「ロシアを決っして信じるな」と厳しいものです。その中にロシアの一つの小話が紹介されていました。「モスクワ市内の狭い通りを、ロシア人の男性が運転するロシア製の無骨なデザインの車が走っていました。前方を二台の自動車が快走しており、それぞれの車の運転手は、神と悪魔だったらしい。その道の先は行き止まりになっていました。神は急に右折して大きな通りに向かいましたが、悪魔はその手前を左折し、路地に迷い込みました。あとを追うロシア人は二台の自動車の動きを見定めてから、どちらに曲がるべきか、迷うことはありませんでした。神を追うかのように右方向のウインカーを出しておいて、実際には悪魔の方に左折しました。神に敬意を払う素振りを見せておきながら、本音では、悪魔に魅了されているからです。」ご存知ですか。ロシアは7割がロシア正教、クリスチャンなのです。しかし、日頃神に感謝しつつ心底悪魔が好きなのだと言うのですから恐ろしいですね。罪を犯して堕落した私たちの世界は、この世の君サタン、悪魔に支配されているのです。その悪魔の配下にある悪霊達は、私共の中にある罪に働きかけて、神様なんて関係ない、自分の思いや欲のままに歩め、と私共に仕向けているのです。しかも、多くの場合、悪霊はまことに賢いので、私共にそれと気付かせません。ですから私共は、知らず知らずのうちに悪霊の手に落ちてしまい、落ちたことにも気付かないということになります。ですから、ウクライナ戦争のような状況こそが、私共が、そして社会全体が知らず知らずのうちに悪霊の手に落ちてしまっている、その証拠なのです。

 

Ⅰ 気を確かに保ち本来の人間性を保つには、どうするべきでしょうか。

第一に、心からイエスを救い主として信じ受け入れることです。信仰を告白した瞬間に悪霊は離れていきます。

第二に、心から神の御心を行う者になることです。ロシアの小話のロシア人のようであってはならないのです。彼はサインを神の方に出しつつ、実際には悪魔の車についていき左折し迷い出してしまいました。

Ⅱ 神の御心が何かを聖書からいくつかの聖書箇所を取り上げておきましょう。 

 第一に洗礼を受けることを挙げておきます。ルカ7章29、30節『民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた。しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ。』 御心は明らかです。洗礼を受けることです。イエスを信じていて未だ洗礼を受けていない方があれば知ってください。洗礼は間違いなく神の御心なのです。洗礼について詳しくは洗礼準備クラスを受けてください。

 第二にテサロニケ上4章3、4節を挙げておきます。『神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。淫らな行いを避け、おのおの気をつけて、自分の体を聖なるものとして尊く保ちなさい。』5節でも勧告されるように「情欲に溺れないこと」です。男女の性機能は、神から与えられた素晴らしい賜物です。しかし、その使用は結婚した夫婦の間においてのみ使用されるべきであって、濫用してはならないのです。

現代は誤った性の氾濫した時代です。清くなることが御心です。

 第三にコリント下7章10節です。『神の御心に適った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせ、この世の悲しみは死をもたらします。』この聖句は、コリント上に関連しています。パウロはギリシャのコリント教会の数々の罪過ちを指摘しており、それが分裂であり、道徳的過ちなどであったことが知られています。11節以降によれば、「あの事件」が言及され、厳しい処分がされたことが想起させられています。御心は、神により罪を示された時に、心から悲しみ、方向を転じ、罪から離れることです。

 第四に使徒行伝18章21節です。『神の御心ならば、また戻って来ます。』これはパウロの第二次宣教旅行途上コリントから離れアンテオケに行く途上、エペソに立ち寄った際の発言です。パウロの生活の基本は計画の全てを神に委ねることでした。神は一人一人に、あなたを通してなそうとする計画を持たれます。箴言16章3節には、『業を全て主に委ねよ。そうすれば、あなたが計らうことは堅く立つ。』と教えられています。計画はその人自身が立てるものです。その時、祈り、委ねるのです。エレミヤ33章3節には「私を呼べ。私はあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる。」と主の呼びかけがあります。預言者エレミヤの神はあなたの神でもあられます。

 第五にテモテ上5章4節があります。『やもめに子や孫がいるなら、まずこの人たちに、自分の家族を大切にし、親の恩に報いることを学ばせなさい。それが神に喜ばれることだからです。』口語訳は「それが、神の御心に適うことなのである」となっています。これは高齢化社会の現在、大切な戒めです。親の恩に報いること、これは神の御心なのです。十戒では「あなたの父と母を敬いなさい。」と朗唱しますが、この『敬う』の原語は「重く見ること」なのです。老いていけば、体重も軽くなる両親を最後まで重く見、看取ることは、神の御心なのです。

 最後にコリント下5章13、14節を挙げておきましょう。『私たちが正気でなかったというなら、それは神のためであったし、正気であったなら、それはあなたがのためです。事実、キリストの愛が私たちを捕らえて離さないのです。』キリストの他に気狂い扱いされたのはパウロでした。何故でしょうか。彼がキリストの愛に押し出されて福音を宣べ伝えたからです。人々に福音を紹介すること、伝えること、それは神の御心なのです。先週金曜日の朝、フェイスブックに「舟の右側」の編集長、谷口和一郎さんの決意を読む機会がありました。「編集作業をする中で、ある記事にマタイの福音書24章が出てきた。「また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。」(6節)そこから、「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。」(14節)と続き、使徒の働き1章8節へと続く。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」キリストが復活したエルサレムから見て、この日本は「地の果て」である。地理的にも文化的にも宗教的にも、福音から遠く離れている。それはこの国のクリスチャン人口にも如実に表れている。記事を編集しながら、やはり私の情熱が、日本人に福音を伝えることにあるのを再確認する。この、地の果てで、福音が拡がっていくのを目にしたい。そのためにこの人生を使いたい。改めてそう思う。」この時代に神の御心を行うことを決意している人がここにいるのです。

私たちも神の御心を求め、神を中心にして今週の日々を過ごすことにしましょう。

3月6日礼拝説教(詳細)

「試みの時の助け」  マルコ1章12、13節

それからすぐに、御霊がイエスを荒野に追いやった。イエスは四十日のあいだ荒野にいて、サタンの試みにあわれた。そして獣もそこにいたが、御使たちはイエスに仕えていた。

 2月24日、ウクライナを三方向から包囲したロシア軍が遂に侵攻を開始しました。1週間以上経過した現在、首都キエフは包囲されウクライナは危機的状況です。国連臨時総会ではロシア避難決議案が141票で採択され、ロシアが国際的孤立を深めつつあります。これは、ウクライナ国民に試練であるのみならず、ロシア国民の試練でもあり、ひいては人類の試練でもあります。平和裡に解決の道が備えられるよう、私たちは神に祈りの手を挙げ続けることにしましょう。さて、今日の聖書箇所が選ばれたのは、教会暦で2日の水曜日から四旬節(レント)が始まったことによるのです。

今年の復活節は4月17日であり、その前の聖週間(受難週)を準備する期間、キリストの受難と復活に思い馳せる期間なのです。

 マルコ1章12、13節の表題には「試みを受ける」とあります。イエス・キリストの荒野でのサタンによる試みです。そこをもう一度読んでみるとこうです。「それからすぐに、霊はイエスを荒れ野に追いやった。イエスは四十日間荒れ野にいて、サタンの試みを受け、また、野獣と共におられた。そして、天使たちがイエスに仕えていた。」試みとは「物事の良否・真偽や能力の程度などを実際に調べ確かめること」と、国語辞書では定義されています。しかし、ここで試されているのは物事ではありません、イエスです。

ここでイエスが試された目的が何であるかは、この記録が前後の二つの告知に挟まれていることから明らかになってきます。

その第一の告知とは、ヨルダン川での受洗に際しての天からの告知です。「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」それはイエスが神の子だという、天の父なる神の告知であり認知でありました。

第二の告知とは、続く15節のキリストの宣教の告知です。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」それは、イエスが託された職務開始の宣言でした。すると、その二つの告知の間に挟まれた荒野の試練の目的はこう言えることになるでしょう。

人類救済の使命を果たすために、神から遣わされたイエスが、本当に神の子であるのか、メシア(救世主)であるのかどうか、試され確認されることだった、ということになります。

 ではその試みの試験官は誰かといえば、明らかにサタンです。サタンとはヘブライ語で「敵対者」を意味します。聖書では神と人間の敵なのです。聖書で、悪魔、試みる者、誘惑者、悪い者、告発者、悪霊どもの頭(かしら)、この世の支配者とも呼ばれているのはこのサタンです。サタンとは、私共を神様の御心に逆らわせよう、神様から離れさせようとする存在であり、私共人間の敵なのです。しかもサタンは、霊的な存在、肉の目では見えない存在ですから、「ここに居る」「ほらそこに居る」というようには分かりません。しかし、主イエスを知り、神様を知りますと、ここで初めて、サタンの誘惑というものを意識するようになると言って良いと思います。この敵サタンが、イエスを試みているのです。そして、ここには、その試みの時間と空間が「四十日間、荒野で」と記されています。

四十という数字は、聖書を通じて種々に意味ある数字として使われており、その意味とは隔離検疫です。今現在、新型コロナ感染予防の水際対策で、海外からの渡航者が、無菌であることが確認されるまで、特別な場所に14日間隔離される、その隔離検疫と同じ意味です。試みの空間、荒野とは、荒涼とした砂漠、岩場で、人間の命を脅威にさらす混沌、カオスですね。これで、試みの空間と時間が分かりますが、サタンがイエスを試した具体的な内容をマルコはここには書いておりません。マタイやルカはその一部を、石をパンに変えてみよ、神殿から飛び降りてみよ、わたしを拝め、という三つを記録しているにもかかわらずです。ところが、マルコだけが残している一句があります。「野獣と共にいた」これが手がかりになります。イエスが荒野で野獣と共にいたというのです。その野獣が、毒蛇であったのか、ライオンや虎のような獰猛で危険な恐ろしい野獣であったのか分かりませんが、この野獣こそ、試み手段の全てを指し示していると言って差し支えないものと思われます。ルカなどは「悪魔はあらゆる試みをし尽くして、時が来るまでイエスを離れた」(4:13)と書き記しており、サタンによる試みが三つどころではない、あらん限りの試みがなされ、徹底的であったことが分かっています。マルコはまた、この敵サタンのイエスに対する試みの結果をただ一言「天使たちがイエスに仕えていた」と簡略にとどめています。実は、これが言葉を裏返せば、イエスが敵サタンに圧倒的に勝利したことを表していることを示すことになるのです。何故なら、天使は神に仕えるべき存在として創造されているからです。天使達が仕えたのは、人であるイエスが、同時に神であり、神の子であるからでした。それが天使達の務めだからです。ヨルダン川の洗礼で、天の父に神の子であると認証されたイエスは、荒野で天使達に仕えられることによって、神の子であることが、確認されたのです。

第一ヨハネ3章8節には、「神の子が現れたのは、悪魔の働きを滅ぼすためです。」と言われています。悪魔、サタンの働きは、人を罪に誘惑し、罪を犯させることによって神から引き離し、それによって人を永遠に滅ぼすことです。ところが、イエスは、十字架で罪の裁きの身代わりにより人間を罪から解放することにより、サタンの働きを滅ぼされたのです。サタンはその働きの根拠を徹底的に失ってしまうことになります。ここ荒野において、遂に、歴史的に、敵サタンと神の子イエスの一騎打ちが開始されているのです。そして、その最初の戦いにおいて、イエスは「退け、サタン」と一喝し、サタンを一蹴され勝利されました。それが荒野の試みの意味するところなのです。

 その意味で、この聖書箇所は、歴史的に二度と再現されることのない一回性の試み、神の子イエスのサタンによる試みの記録です。ところが、この試みは、同時性の試みでもあるのです。私たちの人生の試みに深く関係する記録であるからです。何故ならイエスが荒野において試みられたのは、私たちのためであったからなのです。即ち、私たちの個々の人生の試みをも語る聖書箇所となっているのです。ヘブル書4章14〜16節にこう記されています。『さて、私たちには、もろもろの天を通って来られた偉大な大祭司、神の子イエスがおられるのですから、信仰の告白をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点で同じように試練に遭われたのです。それゆえ、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜に適った助けを受けるために、堂々と恵みの座に近づこうではありませんか。』この大祭司とは主イエスのことです。荒野では、救い主として来られたイエスが、本当に神の子かどうかが、サタンにより試されました。同じように、イエスを信じたクリスチャンも、本当に神の子かどうか、サタンに試されることになります。イエスを救い主と信じて洗礼を受けたら、後は何も問題がない、順風漫歩な安全な生活が保障されているというのではありません。むしろ、私共が洗礼を受け、神様と共に生きようとした途端に、サタンが仕掛けてくるのです。病気にかかる、怪我をする、仕事が上手くいかない、それこそいろいろなことが起きます。サタンは、そのすべての時を使い仕掛けて来る、試みてくるのです。「神様が何をしてくれる。」「信仰なんて意味がないぞ。」「神様を信じて、何か良いことがあったか。」「罪の赦しだって。お前は特に悪いことをしたわけじゃないだろう。」「永遠の命なんてものより、大切なのは今日の生活だろ。」「祈るのなんてやめてしまえ。」「礼拝に行くより映画に行こう。」等々、本当に様々なし方で囁き、私共の信仰を葬り去ろうとするのです。

 先週日曜の午後5時に実施したライフライン友の会で、その日の朝の録画を大型テレビジョンで見ました。その日のゲストはソプラノ歌手の坂井田真実子さんでした。そのキャリアは並ではありません。国立音楽大学及び同大学院を修了。二期会オペラ研修所マスタークラス修了。修了時に優秀賞及び奨励賞受賞。ロータリー財団奨学生として伊・ボローニャへ留学。平成25年度文化庁新進芸術家在外派遣員としてウィーンへ派遣。ソレイユ音楽コンクール2位及び優秀賞受賞。伊・セギッツィ国際ソリストコンクール聴衆賞(2位)受賞。日本フィルハーモニー交響楽団、東京都交響楽団をはじめ、主要オーケストラと共演。稀なる表現力とコケティシュな魅力で大輪の華を咲かせるソプラノと評される方です。ここまで見る限りでは前途洋々の人生です。だが、その続きがあるのです。「順調に歌手としてキャリアを積んできた2016年37歳で、国指定難病 NMOSD を発症。一時は下半身不随となる、現在は病症や後遺症と共存しつつステージに復活。」そのように坂井田さんのブログには記載されています。今回、坂井田さんがライフラインのゲストとして出演した時、それから6年後ですから、お年は42、3歳だということになります。坂井田真実子がその時ゲストとして歌った賛美は、柳瀬佐和子作曲のあの有名な詩「あしあと」でした。その詩は次のようです。

 

「ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには一つのあしあとしかなかった。わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」主は、ささやかれた。「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」

 その詩を歌いあげたとき、それは正しく彼女の心境そのものでした。聴いていて感動でしたね。彼女が発症した時のことをブログにこうも書いているのです。『私の病気は視神経脊髄炎という自己免疫疾患の難病です。血液中の自己抗体が脳や脊髄で炎症を起こし、それに伴って神経がショートするんです。発症する4か月くらい前から微熱が出たり、二の腕にピリピリとした電流が走ったりする違和感があって、後から思えばそれは病気の兆候だったのですが、若かったので放置していました。そしてある日突然、激痛に襲われ胸から下がまったく動かなくなってしまったのです。痛みで号泣するという経験を初めてしました。』実は、私は即、その夜、私のデータを調べてみました。何故なら、彼女の名前とお顔にどこか私の記憶が残っていたからです。コンピューターの住所録にありました。2006年、確かに坂井田真実子さんは、27歳の若さでオーストリアのウイ—ンに来ておられた。10月22日の私たちの日本語礼拝に初めて出席しておられる。11月12日のメモはこうです。「礼拝で二曲ソロ『主の祈り』『詩篇117篇』岩塚多佳子の伴奏にて、素晴らしい声量のソプラノ歌手。イタリアで1年半留学経験あり。」15年も経過した今、坂井田さんに録画を通してお目にかかる!感動でした。

坂井田真実子さんのご両親は立派なクリスチャンです。彼女は生まれた時から、教会で賛美歌の中で育って来られました。その声楽の才能、学歴、申し分ありません。ところが、その10年後、突如として37歳にして、厳しい試練に遭遇したのです。

 何故、このような残酷な苦しみに合わなければならないのでしょうか?ひどいとは思いませんか?しかし、その答えは、ヤコブ1章2〜4節ではないでしょうか。『私のきょうだいたち、さまざまな試練に遭ったときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生まれることを、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、何一つ欠けたところのない、完全で申し分のない人になります。』「信仰が試される」そうです。信仰が試されたのです。彼女には親譲りの信仰が幼い頃からあったでしょう。ウイ—ンに留学された時にも信仰がありました。だからこそ、日曜日には礼拝に出席されたのです。ところが、彼女の証をこの度聞いていて、私はそこに、彼女の信仰が非常に深められ、大きく成長しているのに気づいたのです。続けて彼女のブログにはこう証されています。『今も痛みはずっとあります。息を吸って吐くだけ、風が当たるだけでも痛い。痛みは慣れないし、誰とも共有できません。でも、十字架にかかってくださったイエス様の痛みを思えば、私の痛みなど大したことはない。イエス様と私だけが痛みを知っていて、神様だけが癒すことができるんです。私ががんばるのではなく、神様が私をがんばらせてくださる。それに気づかせてもらえたのも大きなことでした。』先ほどお読みしたヤコブ1章4節には「そうすれば、何一つ欠けたところのない、完全で申し分のない人になります。」とあります。坂井田真実子さんはこの厳しい試みでその神に対する信仰が深められ、大きく変えられたのです。

 でも、どうしたらこのような試みの時に耐えることができるでしょうか。神の子イエスはサタンに試みられても完全に勝利できました。罪が全く無いからです。サタンが付け入る隙がイエス様にはありません。しかし、信仰により神の子とされていても、私たちは自分の力で、サタンの試みに勝つことはできません。不可能なのです。罪は十字架の信仰により赦されていても、罪の性質に影響されていることに変わりはなく、サタンにとっては、私たちは隙だらけなのです。ここに、今日の箇所の主イエスの荒野の意味があるのです。イエスが試みられたのは、試みられる私たちを助けるためだったからです。もう一度、ヘブル書4章15〜16節を読んで見ましょう。「この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点で同じように試練に遭われたのです。それゆえ、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜に適った助けを受けるために、堂々と恵みの座に近づこうではありませんか。」主イエスは、「あらゆる点で同じように試練に遭われたので」私たちの弱さに同情できる方なのです。そして同情してくださるだけでなく、「時宜にかなった助け」を与えてくださる方でもあるのです。だから、「堂々と恵みの座に近づこうではありませんか」と奨励されているのは、そのためなのです。人生の試みの時には、神に近づき祈りなさいと勧められています。主イエスが山上の垂訓の「主の祈り」で「私たちを試みに遭わせず、悪からお救いください。」と教えられたのはその意味です。「悪から」この悪とは悪魔です。サタンです。「お救いください」と主なる神に祈ることです。

何回祈ったらいいのでしょうか。何回でもいいのです。毎日祈るのです。朝も祈り、昼も祈り、夜も祈るのです。先週から礼拝の後に、「祈りの家チームミニストリ」をしています。教会は神の家、神の家は「祈りの家」です。礼拝の度に、個々の具体的な必要のために、祈ることにしています。ゲストルームで三人のチームと一緒に、祈って欲しい課題があれば、一緒に祈る働きなのです。これは文字通り「恵みの座に近づ」く、具体的な信仰の行動です。主は招いておられます、「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11章28節)一人では祈れないかもしれません。チームの兄弟姉妹が助けてくれます。一緒にイエスのもとに行くことにしましょう。さあ、これから聖餐式に預かります。私たちの罪の許しを得させるために、十字架の受難を耐えてくださった主イエスを記念することにいたしましょう。