5月28日礼拝説教(詳細)

「統合拡散の妙理」  創世記11章1〜9節

全地は、一つの言語、同じ言葉であった。人々は東の方から移って来て、シンアルの地に平地を見つけ、そこに住んだ。彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作り、よく焼こう。」こうして彼らにとって、れんがが石の代わりとなり、アスファルトが漆喰の代わりとなった。

彼らはさらに言った。「さあ、我々は町と塔を築こう。塔の頂は天に届くようにして、名を上げよう。そして全地の面に散らされることのないようにしよう。」

主は、人の子らが築いた町と塔を見ようと降って来て、言われた。「彼らは皆、一つの民、一つの言語で、こうしたことをし始めた。今や、彼らがしようとしていることは何であれ、誰も止められはしない。さあ、私たちは降って行って、そこで彼らの言語を混乱させ、互いの言語が理解できないようにしよう。」

こうして主は、人々をそこから全地の面に散らされた。そこで彼らは、その町を築くのをやめた。それゆえ、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言語を混乱させたからである。主はそこから彼らを全地の面に散らされた。

今日は、教会暦で言う聖霊降臨記念礼拝です。聖書は三箇所、創世記1章27、28節、そして11章1〜9節、最後に使徒行伝2章1−4節をお読みいたします。聖霊降臨記念礼拝に何故創世記を読むのか意外に思われるかもしれません。しかし、創世記は聖書でも大変重要な書で、取り分け1章~11章は「真理の苗床」と呼ばれています。もう稲の田植えが始まりました。稲の田植えは、それに先立ち稲の苗床で育てた小さい苗を植え付ける作業です。苗はそれがどんなに小さくても、一度植え付けられるとお米になるものです。創世記は、宇宙の始まり、人間の始まり、文化の始まり、私たちが知りたい真理の謎が、不思議と分かる仕組みになっているのです。例えば、私たちが日常で使っている話し言葉の起源は、今だに学問でも謎です。言語学者に「言葉の起源は何ですか」と尋ねてみてください。「言語の歴史は、言語によって記された記録がないために探求できない」とかえってくるばかりなのです。ところがどうでしょうか、聖書の創世記を見る時、私たちはそこに言語の起源の真理の苗を見つけ出すことができるのです。

I. 統合拡散の秩序

創世記11章1節をまずご覧ください。「全地は、一つの言語、同じ言葉であった。」と書いてあります。後の方、6節には「彼らは皆、一つの民、一つの言語」ともあります。聖書によれば、最初は一つの民族が一つの共通言語で意思の疎通をはかっていたことが分かるのです。では最初の人間の起源はどこにあったのでしょうか。聖書ははっきりと神様が人間を造られたことに起源があると教えています。

①統合の秩序

最初に読んだ1章27、28節にそう書いてあります。それによると神は「人を自分のかたちに創造された」と言われています。そしてその結果、具体的に「男と女に創造された」のです。と言うことは、男と女とは神様のかたち、神様のイメージだと言うことになります。これはどう言うことでしょうか。私たちが聖書を通して知る神様は唯一であるが、三位の神様であります。父なる神、御子なるイエス、聖霊なる神、その本質においては同等であられ、その位格においては混同することなく、永遠に愛の交わりのうちに存在される、と私たちは信じております。神は、男と女に人間をご自分に似せて造られ、2章の24節では人間についてこうも語られているのです。「こういうわけで、男は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる。」 人は男女で複数ではあるが一体だと言われるのです。複数であって一つ、これが神の像なのです。神様が三位格を有しながら一体であるように、男女は二人で複数であるが一体である。ここに人間が共同して生きる共同社会の起源があります。複数の人々が統合されて一緒に生きる、それが共同社会です。複数なのに一つなのです。一つは一つでもこれは複合的な一つなのです。神様は人間を統合されて共同して生きるように造られました。

これが人間に関する創造の秩序と言われる真理であります。

②拡散の秩序

そればかりではありません。最初に神様は、共同して人間が生きるだけではなく、拡散して生きるようにとも、創造の秩序を定められたことが28節で分かってくるのです。「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。』」そうなのです。神様は人間に対して「地に満ちよ」と命じられたのです。地に満ちるとは、子供を産み増やし、それに伴い、一箇所に集中することなく、地球上の全面に住み分け、しかも共同して生きると言うことです。人間は一致統合し共同して生きるだけではなく、地球上に広く拡散しつつ共同して生きることが、創造の秩序として定められたのです。神様が人間を祝福して命じられたことですから、これこそ人間が生きる本来の生き方であり、しかも、幸いな生き方なのです。

使徒パウロが第二次宣教旅行を実施し、ギリシャのアテネを訪問した記録が使徒行伝17章に残されていますが、その26節でパウロはこう語っています。「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の全域に住まわせ、季節を定め、その居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見出すことができるようにと言うことなのです。」 素晴らしい言葉ではありませんか。私たちが今こうして、日本の国に、日本人として生まれ、共同して生きていることは決して偶然ではありません。神様のご計画であり、創造の秩序にのっとった、しかも、これによって、求めるなら、神を見出すことができるようにされているとは、本当に感謝なことであります。何故、韓国人が朝鮮半島に、何故、中国人が中国に、何故、フィリピン人がフィリピンに住んでいるのか、すべて神様の創造の秩序、創造の意志なのです。

II. 統合拡散の混乱

ところが世界の現実を見ると果たしてどうなのでしょうか。創世記1章に、私たちは人間の共同社会の真理の苗を見せられましたが、創世記11章によれば、私たちはそこに、私たち人間の共同社会の現実の苗を見ることになるのです。この聖書箇所のタイトルを見ると「バベルの塔」となっています。このバベルとは地名のことです。その地名の由来がここに記されているので、この箇所の題名とされているのです。9節にこうあります。「それゆえ、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言語を混乱させたからである。主はそこから彼らを全地の面に散らされた。」バベルという地名は、その由来を、神が人間の言語を混乱させられたからであると、書いてあります。バベルとはヘブライ語の動詞でかき混ぜる、混合するを意味するバーラルから取られた名称です。バベルとは混乱なのです。随分と変竹林な変わった地名ではありませんか。つまり、創世記1章で見せられた神様の祝福された本来の共同社会が、現実には変質し、共同社会がすっかり混乱してしまっていると言っているのです。

先々週、19~21日にかけ、G7広島サミットが岸田首相を議長に開催されました。アメリカ、英国はじめ主要7カ国以外に、種々のグループの代表を務める各国首脳8名も参加し、その他に、国連議長、国際保健機構、国際通貨基金、原子力機構等の代表も参加しました。何故集まったのですか。それは世界の混乱している問題を解決しようと話し合うためでした。その中でも混乱している緊急課題の一つはウクライナ戦争でしょう。そのため、急遽、ゼレンスキー大統領までもが直接参加されました。先ほど、使徒行伝17:26を引用してこう言いました。『神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の全域に住まわせ、季節を定め、その居住地の境界をお決めになりました。』ウクライナに何が起こっていますか。ロシアがウクライナの居住地の境界を破り越境し侵略し、クリミア半島を暴力で奪取しロシア領地だと宣言、四つの州も勝手にロシアの所有を宣言してしまったのです。これは混乱です。混乱もいいところです。その変質してしまった経緯を11章は三つの角度から明らかにしているので、確認しておきましょう。

①民族の大移動

その混乱の第一歩は、民族の大移動でした。創世記11章2節にこうあります。「人々は東の方から移って来て、シンアルの地に平地を見つけ、そこに住んだ。」私たちは学校で世界史を学ぶときに、民族大移動という言葉を聞いたことがきっとあることでしょう。これはその最初の民族移動であったのかもしれません。東の方からシンアルの地に移動して住んだというのですが、何が理由で、大移動をしたのか分かっていません。分かることは、このシンアルが今現在のチグリス、ユーフラテス川が流れるイラク地方であることは間違いありません。大集団が謎めいた仕方で、何らかの理由で大移動を開始したのです。

② 神への叛逆

その混乱の第二歩は、3−4節で分かることで、それは、人々の神に対する叛逆なのです。「彼らは互いに言った。『さあ、れんがを作り、よく焼こう。』こうして彼らにとって、れんがが石の代わりとなり、アスファルトが漆喰の代わりとなった。」大移動によって、そこに起こったことは産業革命ですね。パレスチナ地方には石が多いので、建物は石を重ねて作るのが伝統ですが、ユーフラテス川流域の平地には泥が豊富でも石はありません。彼らは石の代わりにレンガを製造したというのです。しかも、太陽で自然乾燥させたレンガより遥に強度のある窯焼きレンガです。そしてレンガを接着させるのに、漆喰ではなくアスファルトを採用しました。私共日本人は、温泉が自然に湧き出している所を知っていますけれど、イラクとかサウジアラビアとか、ペルシャ湾の周りでは、石油がちょろちょろと自然に湧いていて、揮発成分が蒸発して真っ黒なアスファルトの池が出来ている所があるのだそうです。このレンガとアスファルトによって彼らは町と塔を築こうとしたのです。この塔に関しては、今現在でも現地には、ジグラットと呼ばれる高層建造物が残っており、高いものでは90メートル以上もあります。彼らはジグラットの中央部分は、太陽焼きレンガを詰め、外側に頑丈な窯焼きレンガを使ったと言われます。

何故、町と塔を築こうとしたのか、その動機が問題です。4節にはこう書いてあります。「さあ、我々は町と塔を築こう。塔の頂は天に届くようにして、名を上げよう。そして全地の面に散らされることのないようにしよう。」その動機は二つあり、ここに非常に明らかです。その一つは、「名を上げよう」すなわち実績を示して高慢になろうとすることです。その動機の二つ目は「全地の面に散らされることのないようにしよう」、即ち、神へのあからさまな反抗、叛逆です。創世記1章で明らかなように、神の人間に対する創造の秩序は「全知に満ちること」でした。全地に拡散して棲み分けることです。しかし、自分たちの団結を守り、安全を図るために、人々は拡散することを恐れ、強固で安定した町づくりを図ったのです。これは、アダムとエバが、エデンの園で、神に反抗したのと全く同じことです。神様は、園のどの木からでも食べて良いと言われましたが、中央の善悪を知る木から食べてはならないと禁じました。しかし、彼らは、神様に逆らい、食べて罪を犯してしまいました。善悪の木から食べると神のようになると誘惑されたからです。バベルの人々は、自分たちの力を誇示して神のようになろうとし、神に信頼しないで、拡散することを避け、自分たちの力で堅牢で安全な町を確保しようとしたのです。

③神の裁き

その共同社会の混乱の第三歩は、神様による裁きなのです。それは5~9節に記されている通りです。5節には、主なる神様が町と塔を見るため降られたとあります。文字通りに受け取る必要はないでしょう。全てを知りたもう全知の神が見えないはずがありません。7節には、主なる神様の決意が記されています。「さあ、私たちは降って行って、そこで彼らの言語を混乱させ、互いの言語が理解できないようにしよう。」最初に言語学者でも、沢山の言語の起源については答えられないとお話ししました。世界では現在 7,139 種類の言語が使用されていて、そのうち約 40%の言語が絶滅の危機に瀕しており、その多くは話者数が 1,000 人以下となっていると言われます。しかし何故こんなにも沢山の言語があるのでしょう!言葉は人間同士の意思疎通の媒介に絶対不可欠です。しかし、言葉が違っていれば意思の疎通がうまくいかないのです。確かに、今ではスマホにまで翻訳機能が入っているそうで、旅行する人に助かっているのですが、それでも同じ言語同士であればどれほど話しがしやすいか知れません。聖書はその多言語の原因を神様による裁きだと教えるのです。主が決められました。「彼らの言語を混乱させ、互いの言語が理解できないようにしよう。」それは神様への叛逆、反抗に対する裁きなのです。その結果、人々は全地の面に拡散させられることにもなりました。創世記1章では、人間の統合と拡散は祝福だと言いました。ところが、罪の結果、統合も拡散も混乱になってしまったのです。町を築くこと、つまり都市建設や、技術革新することが、ここで否定されているのではありません。そうではなくて、神に叛逆し、自分たちの力で文明を築こうとする結果、人間が混乱に陥らざるを得なくなっていることを教えているのです。

III. 統合拡散の回復

ところが、今日、私たちはこのペンテコステの日に、この混乱に陥っている統合拡散の回復を見出すことができるのです。

①第一の降臨

11章5節では「主は降って来て、言われた」とあり、7節では、「さあ、私たちは降って行って混乱させよう」と言われています。ここで主が降られたことは裁きを意味するのですが、それは、裁きは裁きでも、そこにも神様の愛の憐れみが込められていることを忘れるべきではないでしょう。5節「彼らは皆、一つの民、一つの言語で、こうしたことをし始めた。今や、彼らがしようとしていることは何であれ、誰も止められはしない。」そこには、そのまま放置すれば、その結末が、如何に悲惨な結果になるか、どうなるかを予見された神様の愛があります。人間の団結の力、エネルギーは凄まじいものがあります。悪い方向に結集した結果は、より悲惨な結末を産むことは明らかです。

日本の太平洋戦争がその典型です。戦争末期のスローガンは「一億総玉砕」でした。本土決戦にはその意気込みで臨めと叱咤激励されたのです。婦人たちまで駆り出されて竹槍の訓練をさせられたのです。その結果、空襲が加えられ、沖縄は戦場と化し、長崎・広島に原爆が投下されてしまいました。神に信頼しない人間の一致団結は悲劇を生むのです。神が言語を混乱させ意思疎通を阻害し、全地に拡散させたことは憐れみの行為でもあったことを覚えておきましょう。

②第二の降臨

ここでバベルの塔に際して降臨された主が、それに留まらず、さらに歴史の中に介入され降臨されました。第二の降臨があったのです。それは、御子イエス・キリストの降臨です。乙女マリアによる御子の誕生、それは第二の降臨でした。神様は、罪によって混乱した人類を救済するため、罪の赦しを得させるために、御子を遣わされ、十字架に犠牲にされることにより、救済の道を開いてくださったのです。罪による世界の混乱に秩序を取り戻すための道を備えてくださったのです。

③第三の降臨

そればかりではありません。御子の降臨に続く、第三の主なる神様の降臨が、聖霊降臨なのです。聖霊の降臨を語る箇所こそ、最初に読んだあの使徒行伝2章1~4節です。120名の弟子たちが、主イエス様の昇天後、10日間毎日祈り待望していると、その10日目に、 2 階座敷に居た彼らの上に、聖霊が降られたのです。2~4節をもう一度お読みします。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした。」ここで大切なことは、神の霊が降臨した時に起きた現象です。それは4節によれば、「霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした」ことです。120名が語り出した言葉は、彼らの習い覚えたヘブライ語ではありませんでした。他国の言葉でした。それは神によって与えられた新しい言葉でした。そしてより一層大切なことは、彼らの言葉が、周囲で聞いていた外国から来ていた大勢の外国人によって理解されたことです。5~13節の記述によれば、そこにいた外来人たちは15カ国以上が数えられています。6節をご覧ください、「この物音に大勢の人が集まって来た。そして、誰もが、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられた。」

11節をご覧ください。「ユダヤ人や改宗者、クレタ人やアラビア人もいるのに、彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」周囲の人々は、聖霊によって語られた多言語の意味を聞いて理解できたということです。そこで、使徒ペテロが立ち上がって、群衆に語りかけた経緯が14節から記されております。ペテロは、聖書のヨエルの預言を引用し、今この場で起こっている出来事を力強く解説し、人々に勧告して語りました。37節をご覧ください。すると「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロと他の使徒たちに、『兄弟たち、私たちは何をすべきでしょうか』と言った。」彼らは神様の働きかけにより聞く耳が備えられたのです。その結果、多くの人々は11節によれば、ペテロの言葉を受け入れ、洗礼を受け、何と3000人が一度に救われたと言われているのです。神により創造された人間は、統合して共同社会を一致して生活すること、世界に拡散して全面を満たし生きることが、本来は祝福であったにもかかわらず、神に叛逆する罪によって混乱に陥っていたのですが、新しい時代が到来したのです。

聖霊が降臨されることで、全く新しい言葉が語られるようになったのです。しかも、言葉自体が多言語で語られても、聖霊によって理解させられることによって、祝福が得られるようになったのです。7000以上もある言語が一つの言語になる必要がありません。異なった言語で、新しい言葉、福音が語り出される時に、聖霊によって聞く耳の与えられる人が起こされ、新しい統合された共同体が誕生できるようになるからです。その共同体が、それが教会です。教会は聖霊による新しい言葉、福音を聞いて信じた者たちによる、祝福された共同体なのです。そればかりか、教会は全世界に拡散される、なおかつ統合された共同体なのです。

4月発行の海外伝道ニュースをお読みになりましたか。宣教師のマリア・ジュルゲンセン先生が紹介されていました。アメリカのクリーブランドで聖霊のバプテスマを受けられた両親は、「主のためにどこへでも参ります」と祈ったそうです。すると、神様から「Japan! 日本へ」と語られたのです。その結果、両親は、ただ神様のみを頼り、あてもなく知人もいない日本への渡航を決意され、1913年(大正二年)天洋丸で8月11日に横浜に到着されました。上野や浅草周辺で集会をすると、200人、300人が集まったそうです。彼らは、日本で、聖霊に導かれ新しい言葉、福音を語ったのです。聖霊に満たされたジュルゲンセン一家が、アメリカで統合された教会に加えられ、聖霊に満たされた家族は、拡散されて日本の地にまで来てくださったのです。私自身も、神学校でマリア先生の薫陶を受けた者の一人であります。先生のヨハネ福音書の講義を忘れることができません。聖霊が降る時、人間の失われた本当の統合と拡散が回復されるのです。聖霊に満たされることを求めようではありませんか。聖霊に満たされる時、新しい言葉が与えられ、新しい言葉を語り、証言する者にとされるのです。聖霊が降臨される時には、聞いた人々が、聞く耳を持って福音に信仰をもって応答するようにされ、救われるのです。

イエス様は、大声で呼びかけ言われました。「祭りの終わりの大事な日に、イエスは立ったまま、大声で言われた。「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、ご自分を信じた人々が受けようとしている霊について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ与えられていなかったからである。」(ヨハネ7章37節) 心が渇いていないでしょうか。私たちも招きに応じてイエス様に祈り求めることにいたしましょう。聖霊はすでに降臨なされ、また、今降臨なされるのです。

5月21日礼拝説教(詳細)

「昇天高挙と共働」  マルコ16章19、20節

主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右に座られた。弟子たちは出て行って、至るところで福音を宣べ伝えた。主も弟子たちと共に働き、彼らの語る言葉にしるしを伴わせることによって、その言葉を確かなものとされた。

今日も再び皆様と共に、主を礼拝できる恵みに感謝しております。今日の聖書箇所、マルコ16章からお読みいたします。さて、最近手に入れたある書物により、6年ほど前、2017年11月15日にニューヨークのクリスティーズの競売で一枚の絵が、4億ドルという史上最高価格で落札されたことを知りました。その70年前には複製だとして、僅か一万円で落札されたという絵でしたが、その後、回り回って、日本円にして510億円で落札されたというのです。その絵とは、1500年ごろにイタリアのレオナルド・ダ・ビンチが描いたとされる「サルバトール・ムンディ」で、このラテン語を訳すと絵の題名は「世界の救世主」なのです。競り落としたのが誰かは後で判明し、それはサウジアラビアの王家で、この破格の値段の絵は、ルーブル・アブダビ美術館に展示されることになるそうなのです。ダビンチが描いたその「世界の救世主」とは誰のことでしょうか。それは言わずと知れた、そうです、私たちの主イエス・キリストなのです。世界の救世主である主イエス・キリストが、どのようなお方であると、今日、このマルコ16章は私たちに語っているのでしょうか。

I. キリストの昇天

先ず16章19節をご覧ください。「主イエスは、弟子たちに話した後、天に挙げられ、神の右に座られた。」とあります。覚えておられるでしょうか、私たちは先月、4月9日にイースター礼拝でイエス様の復活をお祝いいたしました。イエス様は、十字架に架けられ、三日目に復活されると、弟子たちに40日間、復活されたその身体で、ご自分を現され、最後に、弟子たちの見ているその前で、オリブ山から雲に包まれ、何と天に昇られ、見えなくなられたということなのです。

ここで第一に、非常に大切なことは、イエス様が「主イエス」と呼ばれていることです。この主、原語でキュリオスには、奴隷の所有者、奴隷の主人という意味があります。しかし、それ以上にもっと重要な意味は、主、キュリオスとは神様であるということなのです。つまり、イエス様を主イエスと呼ぶということは、イエス様が人ではあるが、同時に神様であるという信仰告白なのです。イエス様は神であられるのに、罪から人間を救うため、十字架に犠牲になるため人となられた救い主、世界の救世主なのです。

そして、この世界の救世主であるイエス様が、十字架に架けられる、三日目に日曜日の朝、復活される。それからの40日間、弟子たちにご自分を特別に現し、集中して毎日話し聞かせられたのは神の国のことでした。この19節には何を話されたか書いていません。ルカは、使徒行伝1章3節にこうはっきり書き残しています。「イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」イエス様の最初のメッセージは神の国の到来でした。(マルコ1章15節)「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい。」そして、最後のメッセージも神の国であったということです。

神の国とは、神がすべてを支配なされることです。人間の歴史の只中に、全く新しい時代が到来したことを宣言なされたのです。イエス様を主と信じる者に、神の支配がはっきりと認識できる新しい時代が到来したのです。先週金曜日から、広島で G7のサミットが開催されています。米国、英国、カナダ、ドイツ、フランス、イタリア、日本の首脳がズラリ顔を揃え、世界の諸問題を話し合いました。そればかりか、ウクライナのゼレンスキー大統領が土曜日に来日され、対面に会談に臨むことになりました。確かに今起こっている世界の重大問題について彼らは話し合います。しかし、彼らが世界を支配しているのではありません。世界の、そして宇宙の本当の支配者は神様なのです。 その十字架で救いを完成し、復活され、神の国を弟子たちに教えられた主イエス様が、何と、それから、オリブ山で弟子たちの見ている前で、雲に包まれ、天に昇っていかれたと言われているのです。

ルカが使徒行伝1章に詳細に書き残しているキリストの昇天の有様はこうです。「こう話し終わると、イエスは彼らが見ている前で天に上げられ、雲に覆われて見えなくなった。」(9〜11節)これは、3年間も、毎日毎日、主イエスと寝食行動を共にしてきた弟子たちにとっては、非常にショッキングな出来事ではなかったでしょうか。 ルカの福音書にもキリストの昇天の有様を、ルカは記録しているのですが、そこを見るとこう書いてあります。「そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」(24:51)、ところがそればかりではありません。そして更に「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに戻り、、、」(52節)と書いてあるのです。天に昇る、昇天する、「彼らを離れ」る、それは弟子たちとの離別です。別れです。本当は、それは実に辛い悲しいことではないでしょうか。ところが彼らは大喜びであったと言うのです。それは一体何故でしょうか。それは、昇天することによって、イエス様が今までとは全く違った時間と空間を超越した天の領域に入られたからなのです。

イエス様は、乙女マリアから誕生することで、人間として、私たちと同じく、時間と空間の歴史的領域に入られました。弟子たちは、その領域内で歴史的に出会ったのであり、イエス様を体験させられていました。ところが、復活し、昇天することによって、時空を超越した天に入られることで、イエス様は、時間と空間に全く制限されることなく、いつでもどこでも人間と共におることが可能となった、ということなのです。イエス様が地上を歩まれていた時には、イスラエルのエルサレムに居ながらにして、日本の大阪に、泉佐野市にいることなどは、どんなに願ってもできないことでした。しかし、今では、地球上のどこにいても、どの国にいても、全く問題がなくなったのです。「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」と言われたマタイ18章20節のイエス様のお言葉、そして、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と約束されたマタイ28章20節のイエス様のお言葉も、この昇天によって、文字通り現実となったのです。イエス様の御名はインマヌエルです。「神、我らと共におられる」です。その御名は、昇天された今や、私たちにとっての現実の祝福となったのです。

II. キリストの高挙

世界の救世主であるイエス様は、天に昇られただけではありません。マルコ16章19節は、「主イエスは、、、天に上げられ、神の右に座られた」と、イエス様が高く挙げられたと、言います。イエス様が天に上げられた。その天とは神様がおられる場所です。イエス様が昇天されたことは、これによって初めて天に行かれたというのではありません。御子として最初から居られた所に、イエス様が戻られたということです。イエス様は、天の父から遣わされてこの世に来られました。今や、昇天することによって、地上を離れ、天の父なる神様のもとに帰られたのです。

「神の右に座られた」とは、右が象徴的には力を意味するものですから、これは権威ある立場が与えられることを表す特別な表現です。イエス様が天の父なる神様の右に座られた、着座されたことが何を意味するか、とてもここで全てを語り尽くせません。最初の三つだけ列挙しておきます。その第一は、イエス様が輝かしい御子の栄光をお受けになられたことです。その第二は、イエス様が永遠の大祭司となられ、私たちのために執りなしておられることです。その第三は、イエス様が教会の頭となり、教会を体として活動されておられることです。その第四は、イエス様が主権者として天地を統治しておられることです。そして、第一ペテロ3章22節によれば、イエス様は、「神の右に座られた」ことによって、主権者として永遠に統治されると言われています。「キリストは天に上り、天使たち、および、諸々の権威や力を従えて、神の右におられます。」マタイ28章18節でも、イエス様はこのように明確に言われました。「私は天と地の一切の権能を授かっている。」

いつの時代でもそうですが、今の時代でも政治的権威が問題になっています。権威権能とは、相手を自ずと従わせる人格的な力のことです。秩序が保たれるためにこの権威権能は、必要不可欠な力なのです。しかし、この世において、権威と権威がぶつかるとどうなるでしょうか。それは混乱と悲劇です。先週、私はユーチューブでウクライナ戦争の戦場で繰り広げられる戦闘を実写したビデオを見せられましたが、人が人を殺す悲惨な現実は、心が本当に疼き痛みます。何故、このような混乱と悲劇が起こるのでしょう。それは権威と権威が対立しぶつかる結果です。

しかし、私たちはこの聖書を通して、世界の国々の対立しぶつかり合う権力者を超えた、目に見えない悪質な一つの権威が働いていることを忘れてはなりません。イエス様は、その権威を「この世の支配者」と呼びました。ヨハネ12:31をご覧ください。「今こそ、この世が裁かれる時、今こそ、この世の支配者が追放される。」とイエス様は言われました。口語訳ではこの所を「この世の君」と訳され、現代役はこれを「この世を支配している悪魔」と意訳していることが分かります。そうです。エデンの園で人間を誘惑し罪を犯させた悪魔、人間を堕落させた悪魔が、目に見えない悪どい仕方で、私たちの世界に君臨し支配しているのです。悪魔は神に愛される人間を妬み、人間が滅びることを熱望し、そのために在らん限りの策略で策を弄し支配し、人間を破滅に陥れようとしているのです。

しかし、この世の君、支配者である悪魔を打ち倒すために、イエス様は来られたのです。十字架にかけられたのは、実は、悪魔の業を破壊するためであったのです。人間は罪を犯せば神に罰せられ滅びることになります。しかし、イエス様は十字架の身代わりの死によって罪の赦しをもたらされたのです。イエス様を信じる者は、罪赦されてしまうのです。永遠の命が与えられることになるのです。その意味で、勝負は決まったのです。悪魔は敗退したのです。「今こそ、この世の支配者が追放される。」十字架による罪の赦しの実現によって、悪魔は堕落した人類を支配する根拠を完全に失ってしまったのです。悪魔はこの世から追い出されるべきです。そして追い出されるのです。しかし、最終的な追放、悪魔の裁きは主イエス様が再臨される時を待たねばなりません。それまで、悪魔はなおこの世において、最後のあがきでその悪どい働きを押し進めています。しかし覚えてください、十字架の勝利によって、すでに悪魔の敗北は確定したのです。

第二次世界大戦において、ナチスドイツが欧州全土を制覇し、悲惨な状況が世界を覆っていた時、ナチスを打倒するため連合軍が結成され、その一つの試みは、フランスのノルマンディ上陸作戦でした。連合軍は5000隻の艦艇、1万2000機の航空機を用意しました。50万の連合軍兵士がアイゼンハワー元帥の指揮のもと、上陸作戦を敢行したのです。それは1944年6月6日に敢行されました。双方合わせて50万人の死者を出す、それはそれは激烈な戦闘が繰り広げられたのですが、その結果、ドイツ軍は撤退を余儀なくされてしまいました。これによってナチスドイツの敗北は決定的になりました。しかしながら、完全なドイツの降伏は、一年後の5月ヒットラーの自殺を待たなければなりませんでした。

同じことが、霊的な戦いでも言えることです。「今こそ、この世の支配者が追放される。」イエス様の十字架によって、悪魔は完全に敗北を喫したのですが、実際的な悪魔の敗退、悪魔の追放は、イエス様の再臨を待たねばなりません。

私たちの生活に密着した目にみえる政治的な権威、それは、どんな経緯によって成立したにせよ、聖書はそれが神によって立てられていると教えています。それは、最小限度の秩序を保つために、政治的権威、権力は必要であるからです。上に立つ権威が必ずしも私たちみんなの満足いくものでないとしても、その背後に天地の主権者が立っておられることを認め、為政者たちのために、私たちは忍耐強くとりなし祈ることにしましょう。

III. キリストの共働

最後に確認しておかねばならないことは、世界の救世主イエス様が、昇天し、高く挙げられた今現在、イエス様は、私たちと共に働いておられるということです。「弟子たちは出て行って、至るところで福音を宣べ伝えた。主も弟子たちと共に働き、彼らの語る言葉にしるしを伴わせることによって、その言葉を確かなものとされた。」(20節)イエス様が復活されて弟子たちに、責任を持って果たすよう命じられたのは、福音の宣教でした。「あなたがたは行って、全ての民を弟子にしなさい。」とマタイ28:19には命じられています。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」とマルコ16:15にも命じられています。その結果、弟子たちは「出て行って、至るところで福音を宣べ伝えた。」のです。

すると彼らは何を経験したのでしょうか。それは、昇天されたイエス様が、目に見えなくなったイエス様が、何と、その弟子たちと共に働かれたことなのです。そして主イエス様が共に働いておられることが何故分かったか、その理由が、彼らが福音を語る、み言葉を語るとしるしが伴い、それによって、語る言葉が確証されることになったからだというのです。

この「しるし」とは平たく言えば奇跡のことです。しかし奇跡は奇跡でも、特に強調されている意味があります。それは、その奇跡的な行為そのものよりも、その奇跡の背後にある力や意味を指し示しているということなのです。これは、この奇跡、しるしによって、イエス様が生きて働いていてくださっていることが指し示されるということなのです。  ある牧師が体験した不思議なしるしをこう語っているのを見つけました。「こんな事もありました。ある婦人の信徒の方が高齢者の施設に入っていました。身寄りはありませんでした。そして、何も食べなくなって市民病院に入院しました。食べられなくなったのではなくて、食べなくなったのです。そして、担当のお医者さんから「医療として出来ることは何もありません。体はどこも悪くないのです。教会として何とかして欲しい。」という連絡が来たのです。このような連絡が病院から来たのはこの時だけです。私が病室に行くと、ベッドに横たわっている痩せこけた婦人がおりました。「何か食べたいものはありますか。」と聞くと、「ぼた餅」と答えました。私はぼた餅を一個買って、毎日病室に行きました。もう口から食べることを長くしていなかったのですが、ほんの一口、ぼた餅を口に入れました。毎日ぼた餅を持って病室に通いました。すると、一口が二口になり、二週間ほどすると一個食べるようになったのです。それに伴い、病院の食事も食べるようになり、一ヶ月ほどで退院することになりました。お医者さんも驚いていました。」 素晴らしい証しですね。

 もうこの教会で8年も奉仕してきましたから何回も私個人の証を聞かれたことと思います。それでも、イエス様が共に働いてくださったしるしを少し証しさせてください。

しるし①

私は自分自身がイエス様を信じて救われたこと自体にイエス様が生きて働いてくださったしるしを見せられます。聖書を読んだこともない、クリスチャンが周りにいない、特別困っていたわけでもない、そんな私が何故か教会に足を向け、集会で語られた聖書の言葉を聞いて、どうしてか信じられたのです。これはイエス様が直接働いてくださったとしか到底私は説明できません。

しるし②

 私が信じたのは16歳でしたが、17歳のとき、聖霊のバプテスマを経験しました。夏のキャンプに参加し、二泊三日の最後の集会で、説教者の招きがあり、私も前に進み出て祈ってもらいました。すると、その時、聖霊が臨まれ、私の口から異言が出てきたのです。使徒行伝2章に聖霊の降臨により全員が異言で語り出したことが証言されています。聖霊が降るときは、どこでも誰でも満たされ異言で語り出しています。習ったことのない別の言語を自由に語れる、これは奇跡以外の何ものでもありません。イエス様が生きておられ働いてくださった結果です。

しるし③

私が33歳の時、私の前の妻が3番目の子供を産むと間も無く死んで召されてしまいました。私は残された三人の幼子を抱えて正直途方に暮れたものです。しかし、そんな私の前に再婚の道があっという間に開かれ、今の妻を迎えることができました。彼女の家族も友人も知人も全ての人がこの結婚に反対したそうです。これはイエス様が生きておられ働いてくださったしるしそのものです。本当に感謝しております。

しるし④

私が38歳の時、石川県の松任市の伝道所に招かれました。2、3名の来会者が出席する小さな集会でした。ひどいお粗末な建物を集会場にして、私は5年ほど奉仕していました。そんなある日、妻に未信者の婦人から電話があったのです。「土地を貸すから教会を建てませんか。」と言うお誘いの電話でした。土地はあっても、建てたくても建築資金など最初からありません。その頃礼拝に集まっていたのは15人程でした。一週間祈りましょう、と提案し、再度集まり意見を交換した結果、建築することを皆で決定しました。その年の12月に一ヶ月間限定で募金活動をし、集まった資金を基礎に献金を積み上げることにしました。ところが不思議や、その一ヶ月間で800万円が集まったのです。教団事務所に問い合わせると、その教会が初めて教会堂を建築する場合には500万円の資金を提供する制度がわかりました。そこで1300万円があっという間に、集まり、教会員の知り合いの建築会社に相談したところ、坪単価を下げるから一気に建築することを勧められ、残金はある時払いの催促なしでいいと言われ、その年の内に完成してしまったのです。これはイエス様が生きていて働いてくださったしるしであるとしか言いようがない不思議なことでした。

しるし⑤

 私が60歳になった時、突然、海外のそれも音楽の都ウイーンでの奉仕が飛び込んできました。何の経済的保証も無いのに、それから10年間、ウイーン日本語キリスト教会で宣教の働きに従事できたことは、奇跡としか言いようがありません。私は毎週毎週、日曜礼拝で説教により神の言葉を語るばかりです。しかし、それによって10年間の間に15名の方々がイエス様を信じ洗礼を受けられました。その中の一人に、69歳の男性が信仰を告白し洗礼を受けられました。彼は、ウイーンに本部を置く国際原子力機関(IAEA)の元職員で、引退後米国に居住しておられましたが、ウイーンに特別任務で3ヶ月滞在され、その最初の日曜日のこと、朝の散歩で見つけた教会の日本語礼拝の看板により来会され、それから毎週出席されたのです。そして、帰国一週間前に受洗を希望されました。話しを聞けばなんと50年前に、19歳の時に、京都で信仰に導かれていたにも関わらず、両親の猛反対によって断念し、教会からすっかり離れていた方なのでした。彼は毎週、礼拝で説教を聞くたびに目に涙を浮かべ、とうとう信仰を公にし洗礼を受けられたのです。これこそイエス様が生きて働かれたしるしであるとしか他に言いようがありません。牧師であるなら、伝道者であるなら、誰でも経験することです。それどころか、イエス様を信じておられる我々ひとりびとりが皆経験させられていることではありませんか。その前の17節でイエス様が約束しておられます。

「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らは私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも、決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」これは、使徒行伝の要約です。使徒行伝は、復活され昇天し、生きておられるイエス様が教会と共に働かれた記録に他なりません。使徒行伝は開かれたままで終わっています。その働きは今現在にまで繋がっているのであり、イエス様は、変わることなく、生きて私たちと共に働いておられるのです。

世界の救世主、イエス様は人となられました。十字架につけられ、三日目に復活され、40日後に昇天され、天の父なる神の右に着座され、今現在も生きて私たちと共に働いておられるのです。私たちにできることは何でしょうか。証しすることです。主のみ言葉を語ることです。福音を宣べ伝えることです。その時、イエス様が共に働いてくださるのです。それによって、語られたその言葉を確かなものにしてくださるのです。この新しい週も、そのような意味で、私たちはそれぞれの生活の場に遣わされていくのです。何も頑張ったり、力(りき)む必要などありません。主が共におられ、私たちと共に働いてくださるからです。

5月14日礼拝説教(詳細)

「母の愛に優る愛」  詩編139編13〜18節

まことにあなたは私のはらわたを造り母の胎内で私を編み上げた。あなたに感謝します。私は畏れ多いほどに、驚くべきものに造り上げられた。あなたの業は不思議。私の魂はそれをよく知っている。

私が秘められた所で造られ、地の底で織りなされたときあなたには私の骨も隠されてはいなかった。胎児の私をあなたの目は見ていた。すべてはあなたの書に記されている、形づくられた日々のまだその一日も始まらないうちから。

神よ、あなたの計らいは、私にはいかに貴いことか。その数のいかに多いことか。数えようとしても、砂粒よりも多い。果てに至っても、私はなおあなたと共にいる。

今日、5月14日、皆様と共に礼拝できる恵みに感謝しています。ところで、今日が何の日かご存知でしょうか。私がパソコンで「5月14日は何の日」と検索したところ、第一番に出てきたのは「温度計の日」水銀温度計の発明者の誕生日だからです。2番目に出てきたのは「けん玉の日」。そして3番目に出てきたのが「種痘記念日」なのです。天然痘の予防接種に初めて成功した日だからだそうです。別に間違っているわけではありませんが、もう一度検索をやり直し、「5月第二日曜日は何の日」と入れたら出てきました。「母の日」です。そうです、今日は母の日なのです。母の日はアメリカで20世紀初頭に、国の記念日に指定されたことから世界中に広まった記念行事ですが、日本でも戦後に定着し始めた記念日で、かなり一般化していますね。今日は、母の日ということもあって、聖書は詩編139編からお読みし、「母の愛に優る愛」と題してお話しさせていただこうとしています。

I. 母の愛への感謝

母の愛を語った名言集を開いてみたらジョージ・エリオットが語ったとされるこんな言葉がありました。「人生は、目を開いて母の顔を愛するところから始まった。」うまいことを言ったものです。自分を産んでくれた母親は、誰にとっても特別な存在ではありませんか。子を産んだ母親は、その子のそばに朝も昼も夜もいつもそば近くにいてくれます。その子に食べさせ、世話をし、しつけるために手本を示し、教え戒め、一緒に考え、一緒に歩み、母親は子供たちの人生にユニークでとても大切な役割を果たすものです。子供が若者になっても、成人して独立しても、母親は彼らの人生の中にずっと果たす役割が、きっとあるはずでしょう。

私の母は、私が17歳の時に膵臓癌で世を去ってしまいました。若い頃は助産婦をしていたらしく、疲れると自分でビタミン剤を注射しているのをよく見かけたことがあります。私は五人兄弟の末っ子ですが、戦後の混乱期に五人の子育てで疲れ切ってしまったのかもしれません。長生きしてくれたらよかったのにと、今だに残念で仕方がありません。私が今でも忘れられないのは「気は心だから」という母親の口癖でした。ちょっとしたことでも誠意を表すことはできるもの、相手にも気持ちが伝わるという意味です。リンゴなどでも少し残ったら、それを細かく切り分けてみんなに少しづつでも食べさせるような、そんなことをよくしていた母でした。皆さんにもきっと、それぞれ自分の母親についての忘れ難い思い出があることでしょう。母親の子供に及ぼす影響は、実に大きいものです。

日本初のノーベル賞受賞者は湯川秀樹博士と知られていますが、地理学者の小川琢治の三男だったという秀樹は、無口で目立たない存在だったようです。他の兄弟に比べ成績も冴えない秀樹をみて、父は大学に行かせるのを迷っていました。ところが彼の母の次の一言が秀樹を大学に進学させることになります。「目立たない子だっているものです。目立つ子や才気走った子が、必ずしも優れた仕事をする人間になるというわけではないでしょう。」もしこの言葉がなければ、日本初のノーベル賞受賞者が誕生するのは、まだまだ先のことだったかもしれません。

“漫画の神様”と言われた手塚治虫が小学生の頃の話です。授業中に描いていた漫画が教師に見つかり、母親が学校に呼び出され厳しく注意されてしまいました。ところが家に戻った後、母は治虫にこう言ったそうです。「お母さんは、あなたの漫画の世界で第一号のファンになりました。これからお母さんのために、おもしろい漫画をたくさん書いてください」この治虫にとって一番の理解者となり味方となった母があったからこそ、彼は漫画家として大成したに違いありません。

河野進という方の書いた詩に「最も大切なものは みな ただ」というのがあります。「最も大切なものは みな ただ 太陽の光 野や山の緑 雨や川の水 朝夕のあいさつ 神への祈り そして母の愛」本当にそうですよね。最も大切なものは皆ただなのです。その母の愛もただですが、ただはただでも偉大ですね。この自分を産み育ててくれた母に対し、どうあるべきかを、聖書が何と語っているかというと、出エジプト記20章の十戒の第五戒があります。「あなたの父と母を敬いなさい。」と戒められています。この「敬う」と訳されたヘブライ語は、もともと「重くなる」といった意味を持つ言葉です。「老いて軽くなっていく母を重んじなさい」と私たちに諭しているのです。日本の産んだ歌人に石川啄木という詩人がいます。彼は26歳で死んでしまったという天才詩人で、「働けど 働けどなお わが暮らし 楽にならざり じっと手を見る」を忘れずに覚えています。その啄木の詩集「一握の砂」に収められた母を題材にした和歌があります。『たはむれに 母を背負いて そのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず』何ともジーンと来る感動的な詩ではありませんか。年老いて軽くなっていく母を敬い重んじることにしましょう。

また箴言23章22節にもこう語られてもいます。口語訳ですが、「あなたを生んだ父のいうことを聞き、年老いた母を軽んじてはならない。」そしてその先の25節には「あなたの父母を楽しませ、あなたを産んだ母を喜ばせよ。」ともあるのです。皆さんを産み育ててくれたお母さんはまだ生きておられるでしょうか。そうであれば、母の愛に感謝し、母を重んじ敬い、それこそ「気は心です」どんなにささやかでも、ぜひお母さんを喜ばせてあげてください。もうすでに母がなき人となられているのであれば、自分を産み育てる母を備えてくださった神に感謝することにしましょう。

II. 母の愛に優る愛

母の愛と言えば、私はオランダの画家レンブラントの傑作と言われる「放蕩息子の帰郷」を思い出させられるのです。この作品は56歳で死ぬ2年前に完成しており、レンブラントの信仰が結集されていると言われている傑作です。彼は若くして画家として絶頂期を迎えるのですが、暗い惨めな最期を遂げています。恐らく彼は放蕩息子の姿に自分自身を重ね合わせて描いたに違いありません。このレンブラントの絵画に感動した同じオランダ生まれのカトリックの神父ヘンリー・ナウエンが書いた書物に「放蕩息子の帰郷」という作品があります。彼はレンブラントの絵の実物が展示されているサンクトペテルブルグのエルミタージュ美術館で許可を得て、何時間も絵の前に座り観察し、この書物を書き上げたと言われています。私が非常に彼の書物で感動させられたのは、彼がレンブラントの絵で発見した放蕩息子を抱き抱える父親の両手の特徴です。私もそれまでは、その絵を見ても全く気が付かなかったのですが、よくよく父親の両手を見れば、右手が優しい女の手、左手がゴツゴツした男性の手が確かに描かれているのです。ルカ15章の放蕩息子の譬えには、父親が登場しても母親は出ておりません。しかし、レンブラントは父親の両手を描き分けることで、母親をも登場させようとしたに違いありません。レンブラントは、妻のサスキアの潤沢な持参金を湯水のように使い果たし、妻が結核で死ぬと、愛人と家政婦と不倫関係に陥り、結婚不履行を理由に訴えられ裁判沙汰になり、最後は貧乏で惨めな最期を遂げることになります。しかし、レンブラントは、放蕩息子に自分を、その父に神様の愛を、罪深い自分を受け入れてくださる神の愛を見出したに違いありません。

すべての子供達にとって、父親や母親の果たすべき役割は何かと言うと、本来は神の代理を務めるということなのです。神を人は見ることはできません。しかし、人は自分の父や母を見るときに、神を見ることができるように、神が備えられたのです。ウイリアム・サッカレーという人が、「お母さんというのは、子供たちのくちびるや心にある神様の名前。」と言っているのは、きっとその意味でしょう。勿論、父や母が神様であるはずがありません。しかし、神の代理として、神様がどういうお方かを子供に教える、そのような役割を果たす責任が本来はあるのです。父や母は神の代理として、子供たちを神に導く責任があるのです。母親の愛に優る愛があります。それが神の愛です。人間の愛の中で神の愛に最も近い愛は母の愛です。しかし、母の愛は完全ではありません。母の愛には限界があります。その母の愛に優る完全な神の愛を証言するのが、実は詩篇139編なのです。

①全知の神の愛

詩篇139編1〜6節を読んでみましょう。「主よ、あなたは私を調べ、私を知っておられる。」ここでの鍵語、キーワードは「知っている」です。1節「主よ、あなたは私を知っておられる」2節「あなたは座るのも立つのも知り、理解される」3節「あなたは、私の道を知り尽くしておられる」4節「あなたは、何もかも知っておられる」6節「その知識は、私には高すぎて及びもつかない」お母さんは、自分の腹を痛めて産んだ子供のことを、誰よりも詳しく知っているものでしょう。自分の胎内に9ヶ月も胎児として付き合い、出産しては育児する日々、母親のその知識は増すばかりです。しかし、次第次第に、子供の成長と共に、分からないことが増えることも事実です。そして、いつしか、子供たちの心身の成長に追いつけず、途方に暮れることがあるものです。しかし、神の知識は比較になりません。主なる神は、何もかも知っておられます。私たちはその無限の知識を神の全知性と呼ぶのです。イエス様は、「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。」とマタイ10:30で語られました。父なる神の全知性を語っておられたのです。愛は理解の別名です。神様が全てを知っていてくださる、それは神様が私たちを理解してくださることです。それは神が愛だからなのです。私たちは、自分のことを分かっているようで、実は肝心なことが分かっていません。明日何が起こるか、次の瞬間に何が起こるかも知りません。しかし、心配することはないのです。神は一人一人を愛し、全てを知り尽くしておられるからです。

②偏在の神の愛

7〜10節は、神の偏在の愛を語ルものです。そこを読んでみましょう。7節「どこに行けば、あなたの霊から離れられよう。」8節「天に登ろうとも、あなたはそこにおられる。」この詩人は、主なる神は、いつでもどこにでも居られる、居てくださると告白して歌うのです。私たちはこの属性を神の偏在と呼びます。神はあまねく存在なされるお方であると信じ、告白するのです。これは、母の愛に遥に優る神の愛ではありませんか。子供にとっては、自分の母親と過ごした時間は、他の誰よりもきっと一番長いに違いありません。おんぶされ、抱っこされ、添い寝され、どこにいても何をしていても母は幼い子供の側にいてあげるものです。しかし、それには限度があるのです。やがて子供は自立し独り立ちし、いつまでも母が側にいることはありません。神は愛です。神の愛は偏在の愛なのです。いつでもどこでも共におられる方、インマヌエル、神は我らと共におられる、あまねく共にいてくださる方です!皆さんにとって、今まで、今居る所から一番遠くまで行った所はどこでしょうか。私は、オーストリアのウイーンに10年滞在する間に、北の果て、北極線を越えるところまで行ったことがあります。ある夏、フィンランドで合同集会が開催され、そのオプションで、夜行列車で一晩掛けて北上したのです。そこでサンタクロースに面会しました。そこで、北極線を越えたのです。しかし、神様は地上の何処にいても、あるいは宇宙船で400キロ上空の宇宙空間を飛行しても、何処にでもおられるのです。10節をみてください。「そこでも、あなたの手は私を導き、右の手は私を離さない。」母の愛を遥に優る愛がここにあります。神はあなたを、そし

て私をも愛するが故に、常に偏在され共にいてくださるのです、導いていてくださるのです。

③全能の神の愛

母の愛に優る神の愛は、全能の愛であります。13節に詩人は更にこう謳うのです。「まことにあなたは私のはらわたを造り母の胎内で私を編み上げた。」すべて人間は、母の胎内で母の卵子と父の精子の結合によって生まれて来るということは分かりきったことです。母の愛は偉大です。しかしながら、母はただ子を宿し、子を生み育てるだけであって、神様がこの仕組みを設けられたのであり、人間は神によって創造されて存在させられると、聖書は教えているのです。ここで「あなたは私のはらわたを造り」の「はらわた」は原語のヘブライ語ではもともと腎臓のことです。ある訳では「奥深い部分」と訳したりもしている言葉です。当時の古代では、心臓に心があり、腎臓に感情があると考えられていました。ですから、神様は自分で制御できないような、奥深い感情さえも造られたお方だと告白していることなのです。この詩では、13節で「胎内で私を編み上げ」と歌い、15節では「私が地のそこで織りなされた」と歌います。この15節の「織りなす」という言葉は、ラカウというヘブライ語です。それは、より糸を作る時に用いられる言葉です。より糸というのは2本の糸をねじって、こよりのようにひねり合わせて一本の太い糸に仕上げた糸のことです。ところで人間の身体は一つの受精卵が細胞分裂を繰り返し、やがて完全な人間の身体に仕上がっていきます。そのとき各部分の器官にみごとに分化していけるのは、DNAに記された遺伝情報に基づいて、細胞が分裂していくからです。いわば人間のDNAという設計図を基に造り上げられた作品、それが人間だということができるでしょう。そしてこのDNAは二重らせん構造になっています。いわば、より糸の形態をしているのです。つまり二重らせん構造のDNA情報に基づいて、細胞分裂し胎児となっていくことを、地の深い所で織り上げられたと表現しているとも読めますね。そして14節では「私は畏れ多いほどに、驚くべきものに造り上げられた」と言い、「あなたの業は不思議」と驚いています。私たちは自分の身体のことで、どの程度このような感動を覚えているでしょうか。当たり前のことと無感動になってはいないでしょうか。よくよく自分の身体の仕組みを観察してみれば、文字通りワンダーフルなのです。私たちの体のどの部分をとってみても、目、耳、心臓、全てが実に精巧緻密にできているのであって、ただただ驚くばかりなのです。

私自身は十一ヶ月前に直腸癌手術を受けた結果、胃や腸の機能の凄さに、正直驚いているのです。大腸と直腸を含めて20センチも切り取る手術で、保険からは300万円以上も支払われるという大手術でした。37日間入院することになり、そのほとんどの日々が点滴による栄養補給であったため、恐ろしいほど体力が減退し、非常に惨めな状態に私は陥りました。直腸の半分が切り取られたため、排便の機能に支障を来たし、一体どうなることやら正直案じられたものです。しかし、どうでしょうか、今や、体重も回復し、胃腸も万全で快適な日々を過ごすまでになっているのです。医療技術の進歩もさることながら、人間に与えられている自然回復能力には驚かされているのです。

更に16〜18節を読んでみましょう。「胎児の私をあなたの目は見ていた。」凄いと思いませんか。母の愛に優る愛がここにもあります。母は胎児を宿しても感じることはできても見ることはできません。しかし、神は全能であり、見ることがおできになる。しかも、まだ胎児であるときに「すべてはあなたの書に記されている」すなわち、その人の一生が記録されているというのです。お母さんは胎児に自分の夢を託したり、期待するかもしれません。しかし、自分の子供がどのような人生過程を辿るか、全くあずかり知らないのです。ところが「形作られた日々のまだその1日も始まらないうちから」神には、私たち一人一人各自に対する計画があり、予知され予定されているというのです。ここに母の愛に遥に優る比較することもできない神の愛があります。子を産んだ母や父には、子に対する期待や希望があっても、両親が子の一生を形成することはできません。

III. 愛の信頼と祈り

神は愛です。その神の愛の啓示は、御子を送り、十字架に罪の赦しを得させるため犠牲にされることにより頂点に達しました。その愛は全知の愛であり、偏在の愛であり、全能の愛です。伝えられた福音により、イエス様を主と信じる受け入れた者は、この神の子とされるのです。そして、子であればこの大いなる神の愛に信頼し、そして、祈ることが許されているのです。23、24節をご覧ください。その祈りを詩人がこう祈っています。「神よ、私を調べ、私の心を知ってください。私を試し、悩みを知ってください。御覧ください、私の内に偶像崇拝の道があるかどうかを。とこしえの道に私を導いてください」これは非常に大切な祈りであります。人間は、人間として進むべき道は一つしかありません。二者択一なのです。とこしえの道か偶像崇拝の道かどちらかです。「偶像崇拝の道」と訳されたヘブル語は「痛み、悲しみ、傷、悪いこと、不義、よこしま、不信、偶像崇拝」という幾つもの意味があり、口語訳は「悪しき道」とし、新改訳は「傷ついた道」と訳しました。私たちの新しい訳は「偶像崇拝の道」です。二つの道は全く対立した道です。悪しき道、傷ついた道、偶像崇拝の道、それは神が造られた人の本来進べき道ではありません。イエス様はマタイ7章13節でこう言われました。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道も広い。そして、そこから入る者は多い。命に通じる門は狭く、その道も細い。そして、それを見出す者は少ない。」「とこしえの道」とは命に至る道です。「偶像崇拝の道」とは滅びに至る道です。偶像とは、人間が創り出した神です。神ならぬ神です。それは有形無形様々です。しかし、その道は滅びなのです。私たちは罪によって、滅びの道をそれとも知らずに歩んでいました。イエス様が来られたのは、命の道、とこしえの道、人が進べき本来の道へ導くためです。イエス様は門のようです。イエス様を信じることは門をくぐるようなことです。その結果導かれて生きることができます。今日、あなたはどの道を歩いているでしょうか。歩いて来たでしょうか。

「痛み、悲しみ、傷、悪いこと、不義、よこしま、不信、偶像崇拝」の道を歩いているでしょうか。それとも確かに導かれた命の道にあるでしょうか。あなたは門をくぐるようにイエス様を主と信じ、従う命の道に進んでおられるでしょうか。確かにある日、信じて命の道を歩んでいたが、今は横道に外れて、私の生活には痛みや、悲しみや、心の傷が絶えず、辛い日々を過ごしている、そういう方がおられるでしょうか。神は愛です。あなたのために、御子を犠牲にするほどに愛され、子として迎え入れてくださる方です。イエス様を受け入れ信じてください。神の愛は母の愛に優る愛です。あなたが、私が今ここにあること自体が神の愛のなせる業なのです。14節をご覧ください。「私は畏れ多いほどに驚くべきものに造り上げられた。」「あなたに感謝します。」今日、この記念すべき母の日に、母の愛に優る神の愛に感謝し賛美することにしましょう。主は痛みを癒やし、悲しみを喜びに変え、悪を清めてくださいます。

5月7日礼拝説教(詳細)

「豊かに残る結実」  ヨハネ15章12〜17節

私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。私はもはや、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。私はあなたがたを友と呼んだ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。

あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって願うなら、父が何でも与えてくださるようにと、私があなたがたを任命したのである。

互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。

今日の聖書箇所、ヨハネ15章からお読みします。さて、私たちは、この後で聖餐式に預かる予定にしています。聖餐式は、主が十字架にかけられる前の晩の過越の食事、最後の晩餐の席上で聖定された主の十字架の受難を記念する礼典です。今日お読みしたこの聖書箇所は、弟子達と最後の晩餐を終えたイエス様が、ゲッセマネの園に向かう途中の葡萄畑で語られたといわれるお言葉です。イエス様はこの1節で「私はまことの葡萄の木、私の父は農夫である。」と語り出されました。弟子達との関係を葡萄の木とその枝に喩え、「私は葡萄の木、あなたがたはその枝である。」と教えられたのです。

葡萄といえば、私は自分で巨峰を栽培した経験が忘れられません。ある知人が立派な巨峰の苗木を分けてくれました。私は早速、庭に植え、ベランダに棚を作り、葡萄栽培に挑戦したのです。しかし、その結果は見事大失敗でした。その苗木は非常な勢いで成長する、枝を張り巡らす、びっしりと房が垂れ下がり始める、それはそれは大きな期待に胸膨らませる毎日でありました。ところが、ある日、突然、小さな実が次々と落下し始めたのです。とてもとても食べられるような葡萄にはならなかったという次第なのです。

イエス様は、この葡萄の譬えを通して、ご自分と弟子達とを葡萄の幹と枝に喩えたばかりか、天の神様が豊かな実りを期待する熟練した葡萄栽培農夫のようであるとも教えられます。そしてこの喩えにより、信じる者達に神様が期待される豊かな果実の実りとは、それが愛であることを教えられたのです。今日の聖書箇所の最初と最後をご覧ください。12節も17節も「互いに愛し合いなさい」で始まり「互いに愛し合いなさい」とサンドイッチのように閉じられていることが分かりますね。これは愛のサンドイッチです。これをしっかり食べた人は間違いなく大いに満足し、喜びに満ち溢れるに違いないと思います。 .愛の戒め

しかし、よくよく見ると必ずしも食べやすくはないのです。何故なら、最初と最後、12節と17節にはそれぞれ「これが私の戒めである」「これが私の命令である」と語られているからなのです。愛とは「愛せ!愛するのだ!」と命令されて愛するものなのでしょうか。誰か人に、他人に強制されて、それで愛することができるものですか。戒めという言葉には、いさめるとか、禁止する、用心する、懲らしめる、といったような意味でも使われていますから、決して気持ちの良い響きのある言葉ではありません。

ところが、聖書では、愛が戒められる、愛が命令されることは、人間が人間であるが故に、当然のことなのだと教えられているのです。何故でしょうか。それは人間が本来は神によって造られたものだからだということなのです。神の言葉によって造られた被造物であるからなのです。聖書によれば、人間は神の言葉によって戒められて生きる人格ある生き物として造られているものです。これは、最初に造られたアダムとエバに対する神の語りかけで明らかなことです。創世記2章16節によれば、「神である主は、人に命じられた」と、エデンの園で、二人が人間としてどう生きるか、命じられているのです。「園のどの木からでも取って食べなさい。」これは人間に対する許容、許可です。「ただ、善悪の木からは、取って食べてはいけない。」これは人間に対する制約、禁止です。エデンでの最初の二人が、人間として生きる条件、それは、その許可と禁止の間に生きることなのです。

私たち人間が、神の戒めによって生きるべきであることをより一層明らかにするものに十戒があります。今日は月の第一主日ということで、礼拝で十戒を朗誦しました。これは、イスラエルの民がエジプトの奴隷から解放された直後に、シナイ山でモーセが神様から授かった10の戒めです。これら10の戒めのうち、安息日に関する戒めと、父母尊敬の戒めを除き、すべてに「ならない」という禁止用語が付いていることが分かります。「〜ねばならない、ねばならない」と続くと、それだけで、非常に重く、暗い印象が無いとも言えません。ところが、よくよく吟味してみれば、十戒は人間が人間であるための愛の戒めなのです。十戒は前半が神様に関わる戒めで、その後半は人間同士に関わる戒めであることが分かります。どれも「してはならない」「あってはならない」という禁句で閉じられるのですが、それは、裏返せばこういうことでしょう。「神様を本当に愛するなら、そんなことはしないだろう」「隣人を本当に愛するならば、そんなことはしないし、できないだろう」という意味なのです。

ルカ10章の「良きサマリヤ人の譬え」の箇所が思い起こされます。律法の専門家がイエス様に「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」(25節)と、質問していますね。するとイエス様が、「律法に何と書いてあるか。」と逆質すると彼が「『心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」」と答えています。律法学者は、律法のエッセンスである、神愛と隣人愛で回答したのです。人間とは神を愛する生き物、隣人を愛する生き物として神に造られているということです。

火曜日の午後のことでした。妻と娘の恵と三人でイコラモールにメダカと金魚を買いに行きました。ある方からいただいて飼っていた水槽のメダカが一匹になって可哀想だからでした。そこで二匹の金魚とメダカ二匹を買いました。今、元気にスイスイ楽しそうに水槽を回遊しています。見れば店内には子猫も子犬も、何種類も販売されていましたね。これらペットに戒め、命令はありません。彼らは本能の命ずるがままに精一杯生きるだけ、それが動物です。勿論、躾けるためにペットにお説教する飼い主もいることはいますが!ところが人間だけは違うのです。人間は愛によって生きるもの、愛によって生きるべき生き物なのです。

愛するとは人格の間の交わりのことです。愛は自分自身を相手に明け渡す行為なのです。自分を相手に明け渡すことをしない人は、自分さえ良ければいい人です。自分を閉ざす人は、相手を愛することをしないので、だから盗むのです。だから殺すのです。だから姦淫を犯すのです。だから嘘をつくのです。自己中心、自分本位であり、相手はどうでもいいのです。イエス様は弟子達に「互いに愛し合いなさい」と戒められました、命じられました。そして「私があなたがたを任命したのである。」とまで言われたのです。それは、任命され、遣わされていくこの世に、真の意味で愛の無いこの世に、愛の新しい世界を作り出すためなのです。「愛し合う」これはどうでもいいような事ではないのです。その使命を与えられた弟子達が、妬み合い、憎しみ合い、争い合っていたら、その使命を果たせるでしょうか?だから、イエス様は戒められるのです。命じられるのです。

.愛の模範

そればかりか、イエス様は愛を命じられるだけではなしに、命じるご自身が、「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」とその愛を弟子達に自らその模範で示されました。愛されたことのない人は、愛することができないのです。愛された人だけが愛することができるのです。弟子達は互いに愛することを命じられたのですが、イエス様から愛されることを実際に体験することによって、はじめて愛し合うことができるのです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(13節)と次に命じられた後に主は語られます。これは、イエス様がこう語られることによって、私たちに、日常生活の中で、このように実践しなさいと言われているのでしょうか。そうではありません。これを直訳するとこうなります。「人がその友のために命を捨てる、これより大きな愛を持っている人はいない。」すなわち「これより大きな愛を誰も持っていない。」ということです。安心してください。私たちは誰もこんな大きな愛は持ち合わせてはいません。主イエスがここで告げられたのは、これは御自身の十字架を前提としているということなのです。つまり、「友のために命を捨てることより大きな愛を持っている人はどこにもいない。けれど、このわたしはその友のために命を捨てる愛を持っている。わたしは友であるあなたのために十字架の上で命を捨てる。わたしはそれほどまでにあなたを愛している。」という、これは主イエスの私共に対しての愛の宣言なのです。続いて聖餐式で、私たちがいただくことになるパンと盃とは、イエス様が友のために命を捨てる犠牲の愛に預かることではありませんか。イエス様は、私たちに罪の赦しを得させるために、私たちに代わって犠牲となり命を捧げてくださったのです。

更にイエス様はこう語られます。「私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。私はもはや、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。私はあなたがたを友と呼んだ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」(14、15節)イエス様は私たち一人一人に「あなたがたは私の友である。」と告げられます。そればかりか「私はもはや、あなたがたを僕とは呼ばない。」とも言われたのです。ここでは友と僕が対照的ですね。僕とは奴隷のことです。売買される奴隷です。人格が認められず、主人の命令を目的も何も知らずにただ実行するだけの奴隷です。友は違います。全く違うのです。そこには上下の格差がありません。相互的であり同等の立場、それが友達です。

漢字の友は、二つの合成で、二つとも手を意味し、二つの手が組み合わさり重なった様子が友です。握手し、重ねて誓う姿、それが漢字の友です。イエス様は100%神様でした。そのイエス様は100%人間になり、人間である私たちの親しい仲間となられたのです。イエス様はこれにより、私たちに対する限りない親密さをお示しになられたのです。しかし、ただ一つの条件付きであることに注意しておきましょう。「私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である」イエス様の命令とは何ですか?「互いに愛し合いなさい」です。愛に生きる意志表明をする人に限られるのです。

その上、イエス様は弟子達を彼らに先んじて、先行して選ばれたと、その愛の模範を示されます。「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。」(16節)愛は先行するのです。愛は待っていません。私たちがイエス様を先ず選んだ、だから信じたのではないのです。「いいや、私は自分で決めてこの教会に来ましたよ。」「いいや、私は自分で信じると決心したし、自分で洗礼を受けることを決めましたよ。」と言われるかもしれません。しかし、そうではないのです。イエス様が先んじて選んでくださったからだと言われるのです。

私は多くの方々の救いの証しを聞くのですが、誰の証しでも非常に印象的なのは、神様の先行する愛の選びなのです。先日のこと「神戸改革派神学校校長の吉田隆先生」の救いの証しを読みました。何と吉田神学校校長は、ごみ箱に捨てられたトラクトで救われたというのです。高校3年生の時でした。校門で配られていたのでしょうね。トラクトなど見る人はあまりいません。仕方なく受け取って、それを教室のごみ箱にポンポンと学生は捨てるのですが、それを拾って、彼はたまたま読まれたのです。まだ教会にも行ったことがありませんでした。しかし、そのトラクトを見て、神様を信じて生きることのすばらしさ、その世界観に感動して信仰に導かれたのです。まさに、イエス様が「道端の石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことができると」と言われた通りです。大学に入ることができたら教会に行ってみようと仙台にやって来た彼は、教会を探すために小高い丘の上に登ったそうです。今のようにスマホがない時代です。丘の上からなら十字架が見えるのではないかと思ったそうです。しかし、どこにも見当たりません。どうやって探そうかと思っていたとき、電信柱に 1枚のチラシが貼ってあるのを見つけました。そこには、「新しい人生」と書いてありました。教会の特別伝道集会のチラシだったのですね。どこにあるのかなあと思って行ってみたら、細い路地の奥にある小さな民家でした。それは宣教師のお宅だったのです。でも十字架が無かったので大丈夫だろうかと心配になりました。しかも、その教会の名前が「改革派」です。当時革新派とか、何とか派という学生運動が盛んで、ヘルメットをかぶってやっていたので、そういうのに巻き込まれたら大変なことになるなと不安になったそうです。しかし、日曜日にその教会に行ってみると、そこには 2030 人の人たちが集まっていて、みんな喜んで歓迎してくれました。そして、教会に十字架がないのは、台風が来たときに取れてしまったからだということを聞いて安心したそうです。この神学校の校長先生に見えてくるのは、ただただ先行せるイエス様の選びの愛ではないでしょうか。

.愛の結実

そしてその先行する愛の選びの目的、それは実を結び、その実が残るためです。その実とは何か、それが「互いに愛し合う」ことなのです。イエス様が実について語るときに想定されておられたのは相互愛です。互いに愛し合うことです。この世においては、何事も結果を出すことが期待されます。野球の選手であればホームランが期待される。サッカー選手であればゴールを決めることが期待される。水泳でもスケートでも優勝が期待される。しかし、イエス様が葡萄の枝に期待される実は、抜きん出る業績や利益、収益、儲け、利息ではありません。互いに愛し合うことなのです。それだけで十分なのです。葡萄の木の枝が豊かに、しかも残る実を結ぶ秘訣は、主がすでに1〜11節に語られた通りです。

その第一の秘訣は、幹に繋がる枝が農夫に持ち上げられることによることです。2節で「私につながっている枝で実を結ばないものはみな、父が取り除き」については、最近、私は新しい光を得たのでお分ちしたい。この「実を結ばない枝」をクリスチャンではない人とか、名ばかりのクリスチャンであるとか、キリストのファンであって本当の弟子ではない人とか、諸説がいろいろあります。しかし、枝は枝でも「私につながっている枝」である以上、イエス様を信じるクリスチャンであることに変わりはないでしょう。ただ実を結ばない、結べないクリスチャンなのです。しかもこの「父が取り除き」を、ほとんどの聖書訳が「取り除き」或いは「切り落とし」「切り取る」にしているのですが、ここで使用されている原語の「アイロー」には(地面から)「起こす、持ち上げる」という意味があるのです。枝によってはズンズン伸びるに従い、地面に垂れ下がり、中にはその枝の葉が雨に当たり泥まみれになることがあるのです。そのような枝には実がなることがありません。そこで農夫はどうするでしょうか。その垂れ下がり汚れた枝を水で洗い、棚にくくりつけるのです。するとやがて実がなるように成るのです。地面に垂れた枝の葉を汚す泥は、クリスチャンの犯す罪過ちです。

キリストを信じながらも、何らかの罪過ちを犯し続けるクリスチャンには喜びがありません。 それが何であれ主の御心を悲しませる罪過ちを犯しているなら、父なる神様は、それを洗い清めるよう働きかけてくださるに違いありません。ヘブル12章6節には、こう語られています。「主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」子供を鞭打ち懲らしめるのは、子供が悪いことをしているからでしょう。それは親が憎くて鞭打つ、スパンクするのではありません。愛するからこそ、鞭打つ懲らしめなのです。自分に酷い仕打ちをした人、傷つくような暴言を吐いた人をどうしても赦せない人は愛の実を結ぶことはできません。主はクリスチャンが罪過ちを犯しているからと言って切り捨てるようなことはなさいません。むしろ、罪を悔い改め、主に立ち返るため、優しく忠告し責められるのです。

実を結ぶ第二の秘訣は、枝が農夫によって刈り込みを受けることによってです。2節後半でこう主は語られます、「実を結ぶものはみな、もっと豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」私が巨峰を家の庭で栽培した時、私は全く剪定方法を知りませんでした。枝は伸び放題、葡萄の房はつき放題でした。その結果、全く収穫に至りませんでした。私が10年奉仕したウイーンの郊外は広大な葡萄畑に囲まれ、ウイーンはワインの一大産地でした。整然と畝ごとに植えられる葡萄の木の高さは、ほぼ背の高さ程度で、春先の枝の剪定時期に見られる葡萄の木は、すっかり刈り込まれた姿でした。一本の葡萄の幹に剪定されて残された枝は50センチ程度の長さの三本の枝で、残りは全部切り取られてしまうのです。その枝から出てくる新しい枝に葡萄の実が成るのです。イエス様を信じるクリスチャン生活を送りながら、実をならすことがあっても僅かで、豊かでないことがありうるものです。それは、その人自身にとって、価値があり、役立つと思われても、実際に愛の実を結ぶには無駄であるような何事かに、熱中したり、手放すことを惜しむことによるものです。それは何かしら禁止された罪を犯すことではありません。合法的であり、意義深いもの、奥深い経験であるかもしれません。あるグループとの活動であったり、健康管理に有益な活動、スポーツであるかもしれません。

私が献身し神学校生活の3年生の夏休みのある日のことが思い出されます。私と同じ教会から献身した兄弟は、家庭が貧しく、学校生活も経済的に汲々としていましたが、私は父親が学費全てを出してくれたので苦労しませんでした。そんな夏休みのある日、祈っているときに、アブラハムがイサクを捧げた物語が思い出され、自分にとって大事な何か放棄するべきものがあるのではないかと思わされ、その結果、父親からの仕送りに思い至ったのです。そこで、私は父に送金の辞退を提案することにしました。それは当然の子供としての権利でしたが、断ったのです。その結果、それから残りの、卒業するまでの六ヶ月間というもの、それなしには経験できない、実に不思議な体験を次々とさせられたのを忘れることができません。 神様があなたに語りかけられるとき、それが何であれ、主の目に無駄であると思われるものは放棄するようにしたいものです。

 

決定的な秘訣は何と言っても枝が幹にしっかりと繋がり接続していることです。イエス様は、この葡萄の譬えの中で、何回も「つながっている」「留まっている」ことを繰り返し語られました。「私は葡萄の木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその枝につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。」(5節)と主は言われます。木に枝がつながって実を結ぶとはどういうことでしょうか。主は、16節で先行して弟子達を選んだと語られて、こう言われたことがヒントとなるはずです。「あなたがたが行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって願うなら、父が何でも与えてくださるようにと、私があなたがたを任命したのである。」そうなのです。イエス様につながって実を結ぶとは、主イエスの御名によって父なる神様に祈ることなのです。「父が何でも与えてくださる」と言ってもこれは魔法のランプなのではありません。「金持ちにしてください!」とか「大きな庭付きの邸宅をください!」とか「テレビに出演できるような有名人にしてください!」とか願って叶えられることではありません。「互いに愛し合いなさい」そう命じられても、戒められても、実は私たちには愛する愛がないのです。あったとしてもせいぜい条件付きの愛であり、自分によくしてくれる人、親切にしてくれる人、自分を大切に、愛してくれる人を愛する愛なのです。そうでなければ、人に対しては本当の意味で自分を明け渡すようなことはできないのです。会社でもそうです。結婚生活でもそうです。兄弟同士でもそうです。ましてや地域社会ではそうです。ガラテヤ5章22節の霊の結ぶ実を見てください。「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」生まれつきの人間には初めから無いのです。コリント第一13章4〜7節を見てください。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」生まれつきの人間には初めから愛が無いのです。先月の信徒会でコンプライアンスの印刷物を配布しました。法令遵守の精神を守ろうという趣旨です。セクハラやパワハラは何故起こるのでしょうか。何故、お互いに傷つけあってしまうのでしょうか。愛が無いからなのです。この愛の無い罪深い私たちのために、主は罪の赦しを得させるために、命を捨ててくださいました。罪赦されたことを感謝し、愛の無い自分の心に愛をくださるよう祈ろうではありませんか。私たちが互いに愛し合うところから、世界は変革されていくことなるのです。「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」この主のお言葉をしっかり受け止め、祈りましょう。