421日礼拝説教

「信望愛の総点検」  ヨハネ21章15〜23節

食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上に私を愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「私の小羊を飼いなさい」と言われた。

二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「私の羊の世話をしなさい」と言われた。

三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「私を愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」

イエスは言われた。「私の羊を飼いなさい。よくよく言っておく。あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年を取ると、両手を広げ、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すことになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。

このように話してから、ペトロに、「私に従いなさい」と言われた。

ガリラヤ湖畔で復活された主は、7人の弟子たちにご自身を現され、彼らにパンと焼魚で朝食を供与されると、主はペテロにさし向かい、彼の内なるものを総点検された。

「あなたは私を愛しているか。」と三度繰り返してペテロに問われると、ペテロはこれまた三度繰り返し「私があなたを愛していることを、あなたはご存知です。」と答え、三度も主が「私を愛しているか」と問われたことを悲しく思った。彼が心を痛めたのは、主が疑っていると思ったからではなく、彼がかつて大祭司の公邸で主が尋問されると、中庭の焚き火を囲む女中たちに、自分がイエスの仲間と疑われ、三度も「知らない、関係ない」と否認した事実を思い出したからであった。

ペテロは最後の晩餐の席上で「あなたのためなら命を捨てます」と主に断言していた矢先の不甲斐ない自分の姿を想起して心を痛めたのだった。

主はペテロのひたすらなイエスに対する心情をご存知であり、三度の否認で切れていた関係を修復され、否認のトラウマを消去し、「私の羊を飼いなさい」と、改めて彼を教会の監督としての職務に任命なされた。

愛が点検されたペテロに、主は「私に従いなさい」と更に彼の信仰を点検なされる。信仰とは主イエスにどこまでも付いていく従順であり、主は彼が「行きたくない所」へ行く覚悟があるかを問われた。

生まれながらの人であったころのペテロは「行きたい所」へ行き、好むことを思いのままにしようとする人であった。彼にとって「行きたくない所」とは、迫害され十字架につけられ殉教することだと主は予告される。

殉教死はペテロ個人独自の運命であるが、「行きたくない所」に行くことは、イエスを信じる人に共通している。「イエスを信じた私に何故このようなことが起こるのか」と戸惑うことがある。しかし万事が主の御手のご計画のうちにあることを信じて従い、置かれた境遇で笑顔を絶やさず、自分の責任を果たすことが私たちには求められている。

最後に主はペテロの希望の所在を確認された。時間の未来に究極的に望むべきは主イエスの再臨であることを。

4月14日礼拝説教

「さあ行こっかな」  ヨハネ21章1〜14節

その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちにご自身を現された。その次第はこうである。

シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それにほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「私は漁に出る」と言うと、彼らは、「私たちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何も捕れなかった。

すでに夜が明けた頃、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何かおかずになる物は捕れたか」と言われると、彼らは、「捕れません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れるはずだ。」

そこで、網を打ってみると、魚があまりに多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。

陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚が載せてあり、パンもあった。イエスが、「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と言われた。そこで、シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多く捕れたのに、網は破れていなかった。

イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちは誰も、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であると分かっていたからである。イエスは来て、パンを取り、弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。

 ペテロが「私は漁に出る」と呼びかけると、他の仲間が「私たちも一緒に行こう」と夜釣りに船で出かけたが、1匹も捕れなかった。復活の主は、約束されたように彼らの郷里のガリラヤ湖で、漁する弟子達に岸辺に立ちご自身を現された。

100m弱の沖合の船からは、岸辺に立たれた方が誰かは分からない。その主が「船の右側に網を打ちなさい」と指示され、彼らが言われた通りに実行すると、網を引き上げられないほどの大漁であった。

人は他の動物とは違い、働きつつ生きる生き物として造られ、復活の主は、その仕事が何であれ深い関心をもって働く人間を支えてくださるお方である。

主は「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」と召された弟子達に語られた。信じて主の弟子とされた人には、主により派遣されて果たす使命課題がある。1匹も魚が取れない弟子達のように、自分の働きが思うようならないことがあるかもしれない。祈り静まり主のお声を聴こう。

大漁の弟子たちは、岸辺に立たれる主イエスに会いたいと急ぐ。ペテロは泳ぎ、他の弟子たちは網を引いて急いだ。大漁でも破けない網は教会を象徴する。

今や世界80億人の三人に一人が、復活の主にお会いするため日曜礼拝に出席する。漁られた153匹の大魚は、あらゆる人種民族の神の子を象徴している。数字の153は数学では三角数と呼ばれる不思議でユニークな数である。1〜10までの合計が55であるなら、1〜17までの合計は153である。17の10、7はそれぞれ完全数であり、10は律法を7は恵を象徴する。

主を礼拝する私たちは、律法によれば神の戒めに背いた罪人であった。しかるに十字架の罪の赦しの恵みに預かり救われた者ではないか。日曜早朝に復活された主は、一度、二度と弟子達にご自分を現され、再び日曜早朝の湖畔にご自身を表された。

私たちは復活の主イエスにお会いするため日曜礼拝に行く。岸辺では主ご自身がシェフとなり、魚を炭火で調理し、パンと共に空腹の弟子達に提供された。教会での共食を大事にしよう。天の大祝賀会をも見据えて。

47日礼拝説教

「見ずして信じる」  ヨハネ20章19〜29節

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手と脇腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。

イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが「私たちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない。」

八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

トマスは答えて、「私の主、私の神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである。

 復活の主は日曜の夕方、施錠した家に迫害恐れて潜伏した弟子達に突然現れ、十字架の傷跡を示し、彼らが見て触り生きておられることを確信するよう配慮されました。たまさか居合わせなかったので強く疑うトマスにも、一週間後には再び現れ、主はご自身を彼に示し、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と優しく勧告されました。

信仰とは神の確かさに対する信頼ですが、不思議な奇跡を見て触り信じる感覚的な信仰には限界があります。往々にして人の願望が中心となり、主が与える救いとはズレてしまうからです。そのような信仰は、自分の願望が実現しないとなれば、さっさと主から離れて行く危険性があります。

アダム以来、罪によって堕落した私たち人間に、目に見えない神はご自分を目に見える人間の姿で、ご自分を啓示されました。乙女マリアから生まれた主イエス様を見て触れて信じ従った弟子達が、中心となって初代教会は基礎づけられましたが、その信仰、実は主の語られた神の言葉に、しっかりと立脚したものでした。

「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの、すなわち、命の言について。私たちに現れたこの永遠の命を、私たちは見て、あなたがたに証しし、告げ知らせるのです」とヨハネがあの第一の手紙1章1、2節で語るのはそのことです。

使徒パウロも、信仰が神の言葉に立脚することを強調し、「信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉によって起こるのです」とローマ10章17節で教えています。

復活の主は僅か40日間、ご自身を弟子達に現されると昇天され、信仰の新しい時代に入りました。主はトマスに「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」と語られ、新時代の到来を告げられます。

主が弟子達に息を吹き掛け「聖霊を受けなさい」と命じられたのは、聖霊に満たされて神の言葉を語る宣教により、人が神の言葉を聞くことによって救われるようになるためなのです。今こそクリスチャンが聖霊に満たされて神の言葉を語るべき時代なのです。