425日礼拝説教

「終わりが始まり」  ヨハネ11章17〜27節

さて、イエスが行ってごらんになると、ラザロはすでに四日間も墓の中に置かれていた。ベタニヤはエルサレムに近く、二十五丁ばかり離れたところにあった。大ぜいのユダヤ人が、その兄弟のことで、マルタとマリヤとを慰めようとしてきていた。

マルタはイエスがこられたと聞いて、出迎えに行ったが、マリヤは家ですわっていた。

マルタはイエスに言った、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています」。

イエスはマルタに言われた、「あなたの兄弟はよみがえるであろう」。

マルタは言った、「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています」。

イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。

マルタはイエスに言った、「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」。

 何事にも始めがあれば終わりがある。ところが終わりを始めにされる方が誰であるかをラザロの復活が明らかにする。

ベタニヤ村にイエスが着いた時に、ラザロはすでに死後四日で墓中の人だった。村名も「悩みの家」を意味するベタニヤ村はラザロの死を悼む葬儀の最中、マルタとマリヤの家は弔問客でごった返していた。

人間の死は最後の敵、恐怖の王、まさに一巻の終わりで、村には悲哀が漂う。村境にイエスを出迎えたマルタの『主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。』の第一声には、到着の遅れに対する苛立ちと期待外れの悲哀がこもる。

しかし、主は続くマルタの口からこぼれた言葉「しかし」を見逃されない。マルタに残された信仰を認め直ちに「あなたの兄弟は復活する」と告げられた。その上で、「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。と驚異的な宣言を発せられる。

何故に主は二日も到着を遅らせたのだろう。その遅延の目的は、使いに対する返事にあった。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。」(3)主は病気を癒すことではなく、ラザロを死から蘇らせる奇跡で、神の栄光を表そうとされたのだ。

栄光とは神の卓越性、完全性の全てを現すこと。我々の人生にも「もうこれでおしまいか」と落ち込むような場合がある。自分の人生に自分の理解を超えた出来事が起こったとしても、主イエスは必ず近づきその危機を新しい始まりに変えてくださると信じられるだろうか。

主がマルタに「このことを信じるか」と問われると「はい、主よ・・・私は信じています。」とけなげな信仰を表白した。だからこそ、マルタは主を墓に案内したのだろう。

 

それでも主が墓石を除けるよう命じれば「もう腐っています」とたじろいだマルタの態度には絶対的信仰は観られない。そこに私たちも重ね合わせられるのかもしれない。だが主は私たちの弱さを熟知の上で寄り添い、終わりを始めにして下さることを感謝しよう。

418日礼拝説教

 「唯一救いの保証」  マタイ12章38〜42節

そのとき、律法学者、パリサイ人のうちのある人々がイエスにむかって言った、

「先生、わたしたちはあなたから、しるしを見せていただきとうございます」。すると、彼らに答えて言われた、

「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。

ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。

しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる。南の女王が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果から、はるばるきたからである。

しかし見よ、ソロモンにまさる者がここにいる。

 イエスに敵対する学者達が、しるしの提示を要求した。だが「預言者ヨナのしるし」の他には与えられないと主イエスは答えられた。

しるしとは、神が生きて働いておられる証拠としての奇跡を意味して聖書では用いられる。

ヨナは前7世紀ごろの預言者で、北の敵国アッシリアの首都ニネベで預言する神の委任を嫌い、ヨッパ港から船で地の果てタルシシに逃亡を企て、挙句に海に投ぜられ飲み込まれ、大魚の腹中に三日三晩いたが、辛うじて生き延び、本心に帰り、ニネベで使命を果たしたユニークな人物であった。

ヨナが三日三晩大魚の腹中にいた体験は、主イエスの受難を指し示していた。イエスは十字架で磔刑に処され三日目に復活された。人間が克服できない最大の問題は死であり、死は罪の結果である。

罪なき義なる御子イエスが人の身代わりとなり罪責の全てを引き受け十字架で死なれたので罪の赦しが実現し、イエスが神の大能の力で復活されたので、誰でも信じる者は罪赦され、死んでも復活することができる。救いの唯一の保証は、十字架と復活にある。

しるしを執拗に要求した律法学者達の態度は、私たちが生きる時代精神を暗示している。私たちは目に見える保証が無ければ信用しない時代に生きている。証拠を見たら信じる奇跡信仰は要注意である。

異邦人であったニネベの市民は、ヨナが語った神の言葉を単純に信じ、悔い改めて悪から離れ、神の裁きを免れることができた。真の救われる信仰は、十字架の説教を聴いて信じる信仰である。

人間の最大の特徴は選択する自由意志にある。自分の意志で一切決済できるから神は存在しないとする思想は脱線している。

神は人を神に似せて創造したが、人に与えられた自由意志は制約されている。出来ることとしてはならないことがあり、それゆえに人は最後的に神に対して申し開きする責任がある。

世の終わりの「裁きの時」に全ての人が蘇るが、誰が神の前に立てようか。私たちは「邪悪で不義の時代」に生きる。人間の罪の深さは底知れない。

 

ヨナのしるし、即ち、キリストの十字架以外に救いは無い。

411日礼拝説教

「何処に行くのか」  マタイ28章11〜15節

女たちが行っている間に、番人のうちのある人々が都に帰って、いっさいの出来事を祭司長たちに話した。祭司長たちは長老たちと集まって協議をこらし、兵卒たちにたくさんの金を与えて言った、

「『弟子たちが夜中にきて、われわれの寝ている間に彼を盗んだ』と言え。万一このことが総督の耳にはいっても、われわれが総督に説いて、あなたがたに迷惑が掛からないようにしよう」。

そこで、彼らは金を受け取って、教えられたとおりにした。そしてこの話は、今日に至るまでユダヤ人の間にひろまっている。

 日曜日の早朝、ローマ兵士達、二人のマリヤ達は、空になった墓から走り去り、何処かに向かおうとした。人は常に何処からか来て、何処かに向かおうとする。彼らはキリストの埋葬された墓から来た。天使が降臨し、墓石は動かされ、墓は空になった。

イエス・キリストが復活されたのだ。十字架で死んだはずのイエスが人であって神の御子であることが確証された。十字架の死は罪の赦しのためであり、キリストの復活により私たちの救いが確証された。復活は初穂であり、これにより信じる者達の復活の保証ともなった。だからこそ、神が御子の復活によりなされた驚くべきみ業の故に、我々は日曜毎に集まり礼拝で神を褒め称えるのではないか。

その朝、二つのグループは、同じ場所で、同じ事件を見て、同じく報告したことにより、その意味で目撃証人とされた。証人に求められる責任は、目撃した事実を正直に公に証言することに尽きる。

墓を見張ったローマ兵士達は、驚嘆するような出来事の顛末を報告したが、祭司長や長老に「自分達が眠っている間に弟子達がイエスの遺体を盗み出した」と吹聴するよう多額の金銭で買収されてしまった。それにより民衆の間に拡散したデマが、どれほど真理の伝達を妨害したことか。

二人のマリヤは弟子仲間に報告するよう天使に委託されたが、女の立場を危惧したかもしれない。案の定、報告を聞いた男の弟子達の反応を、「使徒たちには、この話がまるで馬鹿げたことに思われて、女たちの言うことを信じなかった。(ルカ2410.11」とルカは記録している。それでも筆頭弟子のペテロとヨハネが念のため墓に走り、空の墓を確認したことによって、ガリラヤでの復活の主との再会が実現している。復活の第一発見者は女性であった。

 

現代においても女性の活躍が期待される。ところで、人は究極的には何処に行くべきだろうか。人生の次のステップに踏み出しかねる時、人生の終局の死と死後を思う時、「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。」と招く復活の主が光で行くべき道を明らかになされよう。

44日礼拝説教

「復活の主の再会」  マタイ28章1〜10節

さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。すると、大きな地震が起った。それは主の使が天から下って、そこにきて石をわきへころがし、その上にすわったからである。その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真白であった。見張りをしていた人たちは、恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになった。

この御使は女たちにむかって言った、「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。あなたがたに、これだけ言っておく」。

そこで女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。

すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した。

そのとき、イエスは彼らに言われた、「恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい」。

 武装兵に警護、封印された墓が、天使の降臨に伴う激震で開口、その事態の急転に、二人の婦人は驚嘆したであろう。天使はイエスの復活を告知するや、二人に空の墓を確認させ、弟子達への使信を委託した。蘇られたイエスがガリラヤに先行される、そこでお目にかかれるのだと。喜び勇んだ二人は墓を走り去るが、何と行く手に復活されたイエスが立ち、ご自信がガリラヤでの再会を約束された。

イエスが十字架で磔刑に処されるや、弟子達は飼い主を失った羊のように四散し、恐れ隠れ潜んでいた。人は迷い恐れ易い羊のようだ。神から迷い出た罪人に赦しを得させるためイエスは十字架に犠牲となられた。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」イエスは良い羊飼いとして彼らとの関係を回復するため再会を配慮された。

弟子達は寝食行動を三年共にすることでイエスを知る知識に自信があったかもしれない。だがペテロは公に「私は彼を知らない」と否認してしまっている。主はその弟子達に再びご自身を現すべくガリラヤに先行しようとされた。

ガリラヤでイエスは、否認したペテロに「あなたは私を愛するか」と三回問われている。「神を愛する人がいるなら、その人は神に知られています」(コリ上82.3)主は弟子達の知識ではなく心をご存知であった。主イエスは主を愛する者をご存知である。

弟子達がガリラヤに帰ることは、そこで経験した全てを読み直すことを意味した。彼らはそこでイエスに出会い、召され、教えを聴き、奇跡を見せられ、働きを共にしていた。

現代に生きる私たちのガリラヤとは教会に、集会に行くことに相当する。「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(マタイ1820)と約束された。

 

集会の内容は賛美、祈祷、献金、説教、祝祷と同じことの繰り返しに見える。だが、私たちはそこで洗礼を受け、そこで献身し、そこで訓練され、クリスマス、イースター、ペンテコステを祝い、それにより主を知る知識を読み返している。そこで復活の主イエスに私たちは会う恵みに与ることになる。