12月25日礼拝説教

「幼子は飼い葉桶に」  ルカ2章1〜7節

その頃、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録であった。

人々は皆、登録するために、それぞれ自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家系であり、またその血筋であったので、ガリラヤの町ナザレからユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身重になっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。

ところが、彼らがそこにいるうちに、マリアは月が満ちて、初子の男子を産み、産着にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる所がなかったからである。

 ウクライナ正教は、ロシアと決別で、1月7日クリスマスを12月25日に変更決定した。キリストの正確な降誕日は分かっていないが、初代ローマ皇帝アウグストスの治世下に、歴史的に確かにベツレヘムで乙女マリアより生まれた事実が肝心であろう。

皇帝の住民登録の勅令に、ヨセフは許嫁で身重のマリアを伴い、出身地のベツレヘムに向かったが、旅先でマリアは月が満ちるばかりか、泊まる宿もなく難儀したであろう。その結果、生まれた幼子が飼い葉桶に寝かされている。

居場所が無いことは、場の生き物である人間の重大危機である。本来心安らぐ憩いの場である家庭に、険悪な家族関係で居場所の無い人がある。パワハラやセクハラ、残酷な労働条件で職場に居場所の無い人がある。村八分とまでいかなくても地域社会で疎外感に悩まされる人もある。学校でも教師の暴力やイジメで居場所の無い学生がいる。

必要とされない、認められない、誰とも繋がれない、価値がないと感じさせられれば死にたくもなる。無意識のうちに、家庭でもない職場でもない学校でもない第三の場所に、それがカフェであるかクラブであるか公園であるか、人によって千差万別であるが、自然と足が向いているかもしれない。

だが、幼子のイエスが飼い葉桶に寝かされた事実は、キリストが居場所の無い者に、真の意味で心休まる第三の場を与えるために来られたことを指し示している。主イエスは、私たちに「私の愛にとどまりなさい。」と招かれる。

愛には人が憩える広い精神的、霊的な場がある。イエスを信じてその戒めにとどまることが主の愛に居場所を見出すことを意味する。「君は愛されるため生まれた」その歌詞は主の愛により現実とされる。

主は昇天されたが、それは天の父の家に信じる者たちの居場所を備えるためであった。「場所を用意したら」迎えに来ると約束されている。永遠の居場所の確保に感謝しよう。黙示録2章5節によれば、燭台としての教会の居場所が問題視される。キリスト者には置かれた場所で、世の光として照らす責任のあることをも覚えておこう。

12月18日礼拝説教

「受胎告知の秘儀」  ルカ1章26〜38節

六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフと言う人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアと言った。

天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉にひどく戸惑って、これは一体何の挨拶かと考え込んだ。

すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。神である主が、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

マリアは天使に言った。「どうして、そんなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに。」

天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類エリサベトも、老年ながら男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」

マリアは言った。「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように。」そこで、天使は去って行った。

 「おめでとう」との天使ガブリエルの突然の挨拶に、乙女マリアは戸惑う。天使の出現は特別な啓示であった。

その秘儀の第一は祝福の宣言である。マリアが神の特別な顧みを受けたとのこと。それは間も無く子を宿す受胎告知だった。許嫁のヨセフと将来結婚して子に恵まれるというのではない。処女が、男の子を、しかも名前もイエスと特定され、いと高き方の子として生まれると言う。許嫁のマリアの妊娠に気付いたヨセフが悩み思案するある夜、生まれて来る子が約束されたメシアであると、同じガブリエルに告知されている。

イエスは、私たち人間に罪の赦しを得させる救い主として、乙女マリアより生まれようとされた。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネ第一4章10節)これは人類に対する神の愛の現れであった。

クリスマスのクリスは油注ぎを意味し、カトリック教会はマスを聖体拝受のミサとして使用している。私たちはミサと呼ばずに聖餐式と呼ぶが同じく十字架を指し示している。ラテン語であるマスの語源はミテレで、そこからメッセージ、ミサイルも派生している。クリスマスは神の愛のメッセージであり、天から地に発射された神の愛の弾道ミサイルに他ならない。神に誘導されて的中した人に信仰の炎を燃え上がらせ、神と隣人への愛の炎を掻き立てる。

未婚のマリアの「どうしてそんなことが?」という疑念は、天使の「聖霊があなたに降り」神の力により子が生まれるとの宣言に払拭された。神は罪の赦しを得させるために罪なき人を必要とされ、神の特別な働きで処女から御子を誕生させられたのだった。「神にできないことは何一つない。」この天使の告知は、かつて民の始祖アブラハム夫妻に語られたもの。これによりマリアの確信は不動とされ、「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように。」との信仰従順の告白に導かれている。

神がこの今の時代にも必要とされるのは、信仰従順の人であろう。

12月11日礼拝説教

「いつも喜び祝う」  テサロニケ上5章16〜24節

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊と心と体とを完全に守り、私たちの主イエス・キリストが来られるとき、非の打ちどころのない者としてくださいますように。

あなたがたをお招きになった方は、真実な方で、必ずそのとおりにしてくださいます。

 テサロニケの手紙の主題はキリストの再臨だが、降誕を祝うアドベントに、その5章を開くのは、降誕の究極の目的が、再臨にあるからである。御子を信じて救われた者の救いが主の再臨で完成される。

それ故、使徒パウロは「あなたがたの霊と心と体とを完全に守り、私たちの主イエス・キリストが来られるとき、非の打ち所のない者としてくださいますように。」(23節)と祈る。

16節の「いつも喜んでいなさい。」の勧告は人の心の健全さのバロメーター。心の感情は外部の刺激に喜怒哀楽で反応する。それにより脳は種々のホルモンも出すと知られている。喜びは良いホルモンのエンドルフィンの湧出を促進し、免疫力アップ、血行促進、記憶活性、自律神経の平衡等、健康に貢献する。

しかし、外部からの刺激や生理、安心、社会、自我、自己実現の欲求に喜びを求めても、「いつも喜んで」いることはできない。

聖書は、実現不可な勧告をしない。その喜びの秘訣こそ17節の「絶えず祈りなさい。」の勧告にある。人の霊は神に向かう生命で、イエスを主と信じた者の霊が蘇生し、祈りにより神と交わることができ、その結果、喜びが聖霊によって結実する。

主イエスは「私は葡萄の木、あなたがたはその枝である」と弟子との生命関係を喩えられた。その結果を「私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」(ヨハネ1511)と主は約束された。

サマリヤの女にもヤコブの井戸水を指して「この水を飲む者はまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。」と語られた。祈りにより主のみ言葉を頂き、自分の言葉で語り出すとき、喜びの泉が噴出してくる。

信仰の結果、霊が活性化されると、起こってくる物事の見方、聞き方も変えられ、18節の勧告「どんなことにも感謝しなさい。」が可能となる。私たちは体の五感で外部の出来事や人々と接するが、体が健全であることにより、すべての物事、全ての人々が神の御手にある事を認めることで感謝することができる。クリスマスの喜びが内から流れ出るようにしよう。

12月4日礼拝説教

「聖書が自分の物語」  ルカ4章16〜21節

それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が手渡されたので、それを開いて、こう書いてある箇所を見つけられた。

「主の霊が私に臨んだ。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ打ちひしがれている人を自由にし 主の恵みの年を告げるためである。」

イエスは巻物を巻き、係の者に返して座られた。会堂にいる皆の目がイエスに注がれた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

 医者でもあったルカが、キリストの救いの出来事を、既存の文書や語録、それに目撃者とのインタビューをもとに物語形式で綴っている。聖書66巻は、律法、歴史、預言、詩歌、手紙形式で構成されるが、中でも福音書が、記憶、理解、共感しやすい物語形式で書かれた意義は深い。主イエスは「聖書は私について証しするものだ。」と語られ、聖書はどこを開いても主題がキリストであることを示される。

アドベントに入り降誕されたメシアなる主イエスを理解し記憶し共感しやすい聖書が与えられていることを神に感謝しよう。主は郷里ナザレの会堂礼拝で、手渡されたイザヤ預言の巻物を朗読されると、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」と語り出された。

人はキリストの言葉を聞いたその日に、その人の人生物語が神の介入により全く新しくされる。聴いた人の人生物語にキリストの物語が重ね合わされ、遂には、聖書がその人の物語とされる。貧しい者は、聴いたその日に豊かにされる。何かに捕らわれていた者は、聴いたその日に解放される。盲目で見えない者は、聴いたその日に視力が回復される。打ちひしがれた者は、聴いたその日に自由にされる。

キリストに来る以前には、自分に起こった苦々しい悪い出来事の原因が自分にあることで自責の念に苦しみ、他人にあることで他責の念に苦しめられたかもしれない。だが、キリストの言葉により自分物語が一新される。誰も人は自分のその生涯の全てが、予め天の生命の書に既に書き留められ、神に知られていたことを知らない。

詩篇139篇の詩人は、人生を母の胎内の自分の胎児にまで遡ると、神に知られていた不思議に感嘆している。あなたの御眼は わが生涯を見渡され それらはみなあなたの書に記され、わが日々は 私が見る前に形造られた。(関根訳16節)

神は、主イエスの言葉により新しくされた人に、キリストにある自分物語の語り部になることを求められる。証しは時系列的に日常茶飯を並べるのではなく、自分物語を新しくされた主イエスを語ることではないか。