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「敬虔気品の保持」  歴代下612~23

ソロモンはイスラエルの全会衆の前、主の祭壇の前に立って、手を伸べた。ソロモンはさきに長さ五キュビト、幅五キュビト、高さ三キュビトの青銅の台を造って、庭のまん中にすえて置いたので、彼はその上に立ち、イスラエルの全会衆の前でひざをかがめ、その手を天に伸べて、言った、

「イスラエルの神、主よ、天にも地にも、あなたのような神はありません。あなたは契約を守られ、心をつくしてあなたの前に歩むあなたのしもべらに、いつくしみを施し、あなたのしもべ、わたしの父ダビデに約束されたことを守られました。あなたが口をもって約束されたことを、手をもってなし遂げられたことは、今日見るとおりであります。

それゆえ、イスラエルの神、主よ、あなたのしもべ、わたしの父ダビデに、あなたが約束して、『おまえがわたしの前に歩んだように、おまえの子孫がその道を慎んで、わたしのおきてに歩むならば、おまえにはイスラエルの位に座する人がわたしの前に欠けることはない』と言われたことを、ダビデのためにお守りください。それゆえ、イスラエルの神、主よ、どうぞ、あなたのしもべダビデに言われた言葉を確認してください。

しかし神は、はたして人と共に地上に住まわれるでしょうか。見よ、天も、いと高き天もあなたをいれることはできません。わたしの建てたこの家などなおさらです。

しかしわが神、主よ、しもべの祈と願いを顧みて、しもべがあなたの前にささげる叫びと祈をお聞きください。どうぞ、あなたの目を昼も夜もこの家に、すなわち、あなたの名をそこに置くと言われた所に向かってお開きください。どうぞ、しもべがこの所に向かってささげる祈をお聞きください。どうぞ、しもべと、あなたの民イスラエルがこの所に向かって祈る時に、その願いをお聞きください。あなたのすみかである天から聞き、聞いておゆるしください。

もし人がその隣り人に対して罪を犯し、誓いをすることを求められるとき、来てこの宮で、あなたの祭壇の前に誓うならば、あなたは天から聞いて、行い、あなたのしもべらをさばき、悪人に報いをなして、その行いの報いをそのこうべに帰し、義人を義として、その義にしたがってその人に報いてください。

 主の御名を崇めます。長い箇所を読んでいただいたが、それでも前後関係で一部だと分かります。1314節に「ソロモンは祈った」とあるので、この箇所が祈りだと分かります。これを読み私の心に湧いて来た想いは「人は何故祈り、また祈るべきなのか」でありました。我々人間が他の生き物と全く違う大きな特徴は祈ることです。他の生き物は祈らないし、祈れません。祈りは人間の専権的行為なのです。

 辞書は「祈りは宗教現象の基本的要素として、原始宗教、民族宗教、世界宗教を問わず、いずれの宗教にも存在する。」と定義するのですが、「私は無宗教だ」と自負する無信仰者でも手紙の端に時には、「~祈っています」と書くこともあるでしょう。

 聖書の解釈原理の一つに、「聖書は聖書で解釈する」があります。旧約は新約で、新約は旧約で解釈するのです。そこで、今日の箇所と並行し、新約聖書のテモテ上21~8節を最初に朗読しておくことにします。では、祈ります。

.ソロモン王の歴史的祈祷物語

 最初に読んだ箇所は、ソロモン王の実際に起こった歴史的な祈祷物語です。そこで、5つの疑問詞を使うという常套手段で整理し、この祈祷物語を分析してみましょう。

 この物語の主役はダビデ王の後継者ソロモン王です。ダビデ王には、アビノアム、アビガイル、マアカ、ハギト、アビタル、エグラ、ミカル、バトシェバと8人の正妻がいました。ソロモンはその妻の一人バテシバにより生まれました。バテシバは勇士ウリヤの妻でしたが、彼が戦場で活躍している間に、王ダビデは人妻バテシバと姦淫の罪を犯し、そればかりか夫ウリヤを戦場で戦死させ、その上で彼女を妻としたのでした。そのバテシバとの間に生まれた子がソロモンなのです。その名の意味は「平和の人」でした。このソロモン王が如何なる人物であったか、エルサレムで王に謁見したシェバの女王の証言を列王下95~8で確認してください。

 ではこれは何時のことでしたか。ソロモンが王位継承したのはBC961であり、神殿完成に7年を要していますから、BC950年頃となります。ということは、今から3000年前の古代の物語だということです。

 場所はエルサレムです。エルサレムの神殿の丘でした。そこは前王ダビデが神殿用地にと、すでに定めて取得し、そのために用意されていた土地でした。父ダビデ王は主のために、自分が神殿を建てたいという強い志をもっていました。ソロモンがその事実を民への祝福の言葉で言及しています。(歴代下64~9)ここから分かる4点は、

①神殿建設は神の計画だったこと。

②そのためにダビデが選ばれたこと、

③そのためエルサレムが建設地として選ばれたこと。

④だが、実際に建築を完成させるのはソロモンと定められたことです。

何故、そのために神に選ばれたダビデ王が建設できなかったのでしょうか。その理由が、歴代上226~10で明らかになります。理由はダビデが流血戦乱の王だったからです。建設されるであろう神殿は平和のシンボルとなるべきだったからだったのでしょう。

 では、ここで何をソロモンはしたのでしょう。51節には、「主の神殿のためになすべき制作全てを終えた」とあり、ソロモンは7年かけて完成した神殿を、神に奉献する儀礼を挙行したのです。

その神殿の規模は、列王上612節によれば、長さが27m9m高さ13.5mとなります。その工事には労役に3万人、荷役に7万人、石切に8万人、工事監督者3300人が動員されたと言われます。巨大な石が切り出され、上質のレバノン杉がふんだんに使用され、内外すべてが金銀で装飾を施され、それは世界七不思議の一つに数えられる程、壮麗な建築でした。ソロモンは、その神殿を完成し、主なる神に奉献しようと立って会衆を祝福し、青銅の台にひざまづき両手を挙げて奉献の祈りを神に捧げたのでした。   

 ここを読んで印象的なのは、奉献の祈りの長さでしょう。何と6章の終わりの42節まで続いているのです。ただ完成を喜び、「神よ。この神殿をおささげします。」と短く献堂の辞を述べれば済んだのではないでしょうか。ソロモンがこの奉献の祈りを何故、事細かに祈ったのでしょうか。

その理由は、彼がこれから治めようとしたイスラエルの国民を神に取り成すためだったのです。その取り成しの理由目的が19節からのソロモンの祈りで明らかになるので23節まで読みます。その取り成しが、あらゆる状況を想定して多岐にわたることが分かりますね。それを一言で言うならば、『ソロモンを含め、神の民が神殿を通じて神に祈る祈りに、主が天から目を向け、耳を傾け、聞き届けてくださるように』だった。

その結果、天から「火が天から降った」のだ。71節。それはソロモンの祈りが神に聞き届けられたことの承認だった。ここに、私たちは、「人が祈る祈りは神によって必ず聞き届けられる」ことを学ぶ。

.ソロモンの祈祷物語の適用

そこで、では、このソロモン王の祈祷物語を現代の我々にどのように適用されるべきなのでしょうか。

ソロモンの祈りは3000年前の古代の出来事!ソロモンはユダヤ人!我々は日本人!大阪であってエルサレムでない。神殿も今は無い。そのソロモンの神殿は360年続いたが、BC586年にバビロンに破壊された。70年後に、ゾロバベルにより再建され、BC20年から46年かけてヘロデ大王により増築されたが、AD70年にローマ軍によって完全に破壊されてしまった。今現在、神殿の丘に聳(そび)えるのは、イスラムの黄金のモスクだ。

そこで最初に読んだテモテ上2章が、私たちの祈りに光を投ずるのだ。この箇所を見よ!1節の祈りの勧告に始まり、8節の祈りの勧告で終わる!主題は祈りなのだ!ここから、私は三つのポイントで適用として短くお勧めしたい。

①確かな祈りの根拠

その第1点は、私たちにとっての祈りの確かな根拠が、私たちの主イエス・キリストにあるということだ。

5節『神は唯一であり、神と人との仲介者も唯一であって、それは人であるキリスト・イエスです。』祈りとは「人間と人間を超える方、神との内面的交通、接触、対話」だ。聖書は「神は唯一である」と教える。聖書は何の解説もなく「はじめに神は天と地を創造された」で始まる!唯一の真の人格ある全能の神が存在することは、説明解説の全く不要な当然の前提であるからだ。

この真の唯一の神に、ソロモン王は神殿を建設した、神殿を通して祈った、神殿に向かって民が祈る祈りに神が聞いてくださるよう嘆願した。同じ神だ!

ソロモン王は6章、18節で『神は果たして人間とともに地上に住まわれるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの神殿などなおさらです。』と告白した。神は霊、無限、無窮、ならば何故神殿を建てたのか?

それはただ一つの理由!それは神殿が神と民との接点となるためだった。

20節に『昼も夜も、この神殿に目を向けてください。ここはあなたが、そこにご自分の名を置くと仰せになった所です。』ここに神殿の意義が秘められている。名は体を表す!名は本質を表すもの!

例証:私の車にはナビ機能あり、住所指定すれば誘導する。今朝、ユーチューブでベニスが紹介!懐かしい!魚屋でタラとエビ!鍋で食べた!クロアチアからベニスに車で!ナビがあったからだ!個人を訪問する時、特定された家に向かい、その表札で確認する!そこに名前が置かれていることは、そこにその名の人物が住み、その人物に会うことができることを意味する!

人手による狭い小さな神殿に無限の神は住まない!だが、そこに置かれた名は神との接点となる、その名を呼ぶことは、神との語らい、交わりとなったのだ!だが、私たちには今や、ソロモンの神殿に勝る神との接点が備えられている。その接点こそイエス・キリストなのだ。

5節「それは人であるキリスト・イエスです」どういう意味か? イエスは神の御子、神ご自身。三位一体の第三位格。その神が人となられた方がイエス・キリストなのだ。ヨハネ114「言は肉となって、私たちの間に宿った」宿ったとはスケノオー=テントに住む、幕屋に住むの意味。スケノス=テント、仮小屋。御子が誕生したこと、御子が人となったこと、それは神が肉体を幕屋とし宿ったことを意味した。

ということは、イエスが、ソロモンにとり神殿が接点であったように、私たちの神との接点となられた。「神と人との仲介者も唯一であって」イエスは神と我々の間の仲介者、取り次ぐかた、中立ち、接点となられたのだ。主イエスの御名を呼び求める時に、神との交わりが開かれるのだ。

ある神学者はこれを「マイクロフォン原理」と呼ぶ。今、私と皆さんの間に、マイクロフォンが!アンプにつながり増幅され、私の声が皆さんに明瞭に届く仕組みだ!

イエスは弟子たちに約束された。ヨハネ1516あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって願うなら、父が何でも与えてくださるようにと、私があなたがたを任命したのである。

どうして、それまでにして神が祈りにイエスの名により答えられるのか?それは6節に言われる。『この方は、全ての人のための贖いとしてご自身を捧げられました。』贖う=罪の奴隷から買い戻すこと。十字架にイエスが付けられたのは、ご自身を贖いの代価として犠牲にするため。イエスは犠牲の子羊だ。その流された血により罪が赦された。罪の奴隷から解放され神の子供とされたこのイエスが復活され、十字架の贖い(罪の赦し)が有効とされたため、イエスの名により祈る祈りに父は聞いてくださるのだ。

パウロは7節に「その証のために、宣教者とされた」と。テモテはその時、エペソに奉仕した。エペソの教会もパウロの証によって誕生した。私もイエスを信じたのは、私に証した牧師がいたお陰だ。伝え伝えられて私たちに至っている。

ソロモンの神殿はない、ヘロデの神殿もない。だが、人手によらない真の神殿がある。イエス・キリストが接点としての神殿なのだ。

祈りはイエスに向かい、イエス御名により祈られる。祈りの最後に「イエスの御名によって」と言うのは、その理由だ。

②祈りの内容

では何を祈るようここで求められるか?1節『願いと祈りと取り成しと感謝とを全ての人のために捧げなさい。』四つの言葉が使われるが全て祈り用語。願い=必要を訴える、祈り=言葉で神に近づく、取り成し=他人のため願う、感謝=神の扱い、付与される自然、摂理一切含め感謝する。

その違いより大切さは、「すべての人のため」にある。加えて2節には『王たちや全ての位の高い人のためにも捧げなさい』と勧告される。

何故「すべての人のため」祈るか?

4節「神は、すべての人が救われて、真理を認識するようになることを望んでおられます。」全て万人が救われることが保証されているのではない。だが、イエスは万人の為に、十字架で犠牲になられた。

神は万人を愛され、犠牲を払われた。救いは万人に備えられ完備している。だが、救いが現実となるのは人間の自由意志にかかっている。

聖書には神の選びが教えられる。神はある人を救い、ある人を滅びに選ばれているのか?救われている人は決まっているのか。

ローマ829節「神は前もって知っておられた者たちを、御子のかたちに似たものにしようとあらかじめ定められました。」これは神の予知と予定だ。予知とは神はその人が神の備えた救いに対して拒否するか受容されるかを予めご存知ということ。それゆえに、救われる人は予定されることになる。神が滅びに定めるのではない。

だからこそ、私たちはすべての人の為に祈るべきなのだ。それは、予知予定された人に、福音が届けられ、その救いが現実となるのを促進する為なのだ。

例証:使徒109~

使徒ペテロがヨッパで昼12頃に祈った出来事がある。祈りが眠りになったが、それによって幻を見せられ、結果的にローマの隊長コルネリオの家の救いにつながっている。コルネリオは異邦人だったが、救いを受け入れる準備ができていた。それがペテロの到着によって救いが現実とされている。その背後にペテロの祈りがあったことを見落としてはならない。私たちが万人のために祈るのは、救いのパートナーとなり救いが促進されるためなのだ。

では何故「政治指導者のため祈る」のか?その時、最高権力者はローマ皇帝ネロであった。彼の残虐非道は目に余る。だが、祈れと要請される。何故か。政治指導者は、「他者の生活を左右する強い権力を持つから」「彼らの決断は、良かれ悪しかれ、他者の運命に影響を及ぼすほどの責任がある」彼らの判断、決断に、国家秩序の平和がかかっている。途轍もない危害さえ及ばせることができる。それゆえに、地方行政官から最高権力者に至る統治者全てのため、規則正しく祈るべきなのだ。

ペテロ上213~15節を参照しよう。ローマ13章でも政治権威は神が付与されると!それは、最少限度の秩序が保たれるためなのだ。支配者が誤っている時でさえ、教会は「悪人を善人に変えていただくように」神に祈るのだ。

世界のニュースが瞬時に刻々報道される現在、私たちは祈りの幅を拡大し、世界中の為政者のために祈るよう、求められていることを確認しよう。

③祈る目的

では最後に祈る目的を確認しよう。2節後半に『私たちが、常に敬虔と気品を保ち、穏やかで静かな生活を送るためです。』口語訳『安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである

敬虔=心から神を敬う生活、気品=上品な、高潔で尊敬に値する振る舞い、穏やか=内面の動揺のない、静かな=外面の動揺のない。

コヘレトの言葉では「空(くう)の空」儚(はかな)く束の間の人生だ。その人生の質が、祈りによって高められることを意味する。

例証;私はこの聖句からフト、千代尼の俳句を想起した。あの「朝顔やつるべ取られて貰い水」の作者だ。「蝶々や何を夢見て羽(はね)づかひ」松任のAさんによって知った。彼女はこの一句を37冊を読破し論文を!千代尼は、止まり休み羽を動かす蝶々を絶妙に読み込んでいる。読む者に連想を誘う名句だと。私はこの蝶々に祈りを連想した。だから、私なら「蝶々や何を祈りて羽づかひ」としたい。Aさんは「羽づかひ」から「息づかひ」が連想されると。息遣いとは呼吸のこと、私たちの祈りは例えて言えば霊的な呼吸ではないか。神に呼びかけ、神に語りかけ、神に聴くとは霊的な魂の呼吸なのだ。

蝶々は多くの時間を花から花へと蜜を求めて忙しく羽ばたき働くが、時に、枝に留まって静かに過ごす!その時、羽を静かに閉じては開く!それは祈りそのものではないか。そこには!生活の穏やかさがある。そこに生活の静けさがある。喧騒な社会生活の合間に、祈りは、静けさと敬虔と気品を得させるのだ。

 

人が人たる所以は、神と交わり神と語らう祈りにある。その本来のあり方をキリストが取り戻してくださいました。十字架の犠牲がなければあり得ない恵みだ。今週も主の御名によって祈りつつ進んでいくことにしよう。