1月28日礼拝説教

「神の支配の現実」  ルカ8章4〜8節

大勢の群衆が集まり、方々の町から人々が御もとに来たので、イエスはたとえを用いて語られた。

「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は岩の上に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、それを塞いでしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽が出て、百倍の実を結んだ。」

イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。

 主イエスが群衆に大声で語られたのは「種を蒔く人のたとえ」です。この譬えは、神様がお造りになったすべてを主権的に支配される神の国の秘義を明らかにするものです。

秘義とは人に隠されていた秘密です。神様が天地万物を主権的に創造され。それゆえに一切を所有されます。その上、神様は所有されるすべてのそれぞれの特質や力を主権的に保持されます。すべては自然法則に委ねられ自立自給するのではなく、神様が維持し、供給し、間断なく支えられるのです。

私たち人間も、一切を保持される神様の協力者として、その被造物を管理するよう責任が与えられました。「神は神を愛する者たち、すなわちご計画に従って召された者たちと共に働いて一切を益にしてくださることを私たちは知っている。」と語られるローマ8章38節の真理は、その事実を指し示すものです。

そればかりか神様は、全てを見通され、自然界、精神界、道徳界のあらゆる事件を、ご自身の目的達成のために主権的に用いられます。私たちはそれを神の摂理と呼びます。あらゆる事件、出来事を目的達成のために神様が用いられる摂理は、人知を超え、理解し尽くすことはできません。しかし、神様が自然界のすべて、動物界、地上の国々、そして、すべての個人に対して、主権的に支配を行っておられるという、聖書が証言している事実を覚えておきましょう。

主は弟子たちに「あなたがたには神の国の秘義を知ることが許されている。」と語られ、キリスト者に神の国の奥義が明示されることを保証されました。十字架に罪の贖いを完成されたイエス様を信じる者は、神の国に入ることが許され、義と平安と喜びとを享受することが現実となります。

その経験の鍵は、この譬えで農夫の蒔く種に象徴される主の御言葉です。喩えの四種類の土壌、道端、岩の上、茨の中、耕された地は、人の御言葉の聞き方の違いを示します。主が「網を降ろして漁をしなさい」と語られた通りに、不漁で悩むペテロが網を降ろすと大漁でした。

主は御言葉に聞き、それを悟り、それを行う人を祝福されるのです。

1月21日礼拝説教

「顔と顔を合わせ」  出エジプト記33章12〜16節

モーセは主に言った。

「御覧ください。あなたは私に、『この民を導き上れ』と仰せになりました。しかし、私と共に遣わされる者は示されていません。しかもあなたは、『私はあなたを名指しで選んだ。あなたは私の目に適う』と仰せになりました。もしあなたの目に適うのなら、どうか今、あなたを知ることができるように、私にあなたの道をお示しください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、私はあなたの目に適うでしょう。御覧ください。この国民はあなたの民なのです。」

すると主は言われた。

「私自身が共に歩み、あなたに安息を与える。」

モーセは言った。

「あなた自身が共に歩んでくださらないのなら、私たちをここから上らせないでください。私とあなたの民があなたの目に適っていることは、何によって分かるのでしょうか。あなたが私たちと共に歩んでくださることによってではありませんか。そうすれば、私とあなたの民は、地上のすべての民のうちから特別に選ばれた者となるでしょう。」

 「私自身が共に歩み、あなたに安息を与える。」と主は民の滅亡の危機に際して必死に執り成すモーセに答えられました。民はエジプトの奴隷解放直後に、金の子牛を偶像とする罪を犯したため滅亡に瀕していたのです。

「私自身が共に歩み」の直訳は「私の顔が歩む」です。目、鼻、口、耳が集約する顔は人格の象徴です。主なる神は民の罪を赦し、約束の地までの旅路に臨在し共に歩むことを約束されました。神は人間に御顔を隠されます。神は義であり聖であるため不義と汚れとは相入れません。

モーセは罪を犯した民のために命懸けでとりなし嘆願しました。その姿は後に人類の救済のために来臨されたキリストの雛形です。モーセは民のため嘆願し、イエス様は全人類のため十字架上で執りなし、そればかりか命を捨て、罪の赦しをもたらされました。それによって、エデンから罪によって追放されたアダム以来、人類に御顔を隠されておられた神様は、キリストの贖罪のゆえに、御顔を現され、イエス様を救主と信じる者の共同体である教会に臨在を現されるのです。

イエス様の昇天後に聖霊が来臨なされ、聖霊のご人格において三位一体の唯一の神が、私たちと共にいてくださるのです。神はモーセに臨在のしるしとして、安息を与えること、良い賜物を与えること、恵みと憐れみを与え、神の後ろを見ることまで許されました。

人は前から神の御顔を見ることは許されません。神様によって起こった出来事が、言ってみれば神様が通られた後だとすれば、私たちは、日常に起こる出来事によって神様の臨在を実感することが許されるということでしょう。

人はいつも神の臨在を実感することはあり得ませんが、臨在に預かる恵みの機会が数多く与えられていることを感謝しましょう。愛の章であるコリント第一の13章12節には、「その時には、顔と顔とを合わせて見ることになります。」と、イエス様が再び来臨される時には、主と顔と顔を合わせて見ることまで約束されています。旅立つ民に臨在同行された主は、新年を旅立つ私たちとも臨在同行なされるのです。

1月14日礼拝説教

「網を捨てて従う」  マタイ4章18〜22節

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。

イエスは、「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。

そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になり、二人をお呼びになった。彼らはすぐに舟と父を残して、イエスに従った。

ペテロをはじめとするガリラヤ湖の漁師に対する、キリスト公生涯最初の弟子の召しは、極めて個人的経験であると同時に、本質的に私たちにも関係する普遍的な出来事です。彼らに対する「私に付いて来なさい。」との主の命令は、あなたと私の人格関係であるばかりか、それは他の誰との関係に最優先され、しかも従属することが求められます。その命令は文字通りに訳せば「私の後ろから来なさい」です。

ペテロは後に信仰告白に導かれた際に、主の受難予告を不満とし主を脇に引き寄せ諌めている。しかし、彼は酷く主に「サタンよ、引き下がれ。」と叱られてしまった。同じ主が私たちの側を歩み、私たちをご覧になられ、私たちをも呼び出されておられます。その呼び出しこそ創造的行為であり、人は全く新しい存在に造り変えられるのです。

それまで魚をフィッシングしていたのに人間をとる漁師にと質的に変革されました。それは進化でも輪廻でもなく、自己欲求の社会的実現でもなく、ましてや神を否定し人間のみの主体的決断だけを強調する実存主義でもありません。宇宙万物全てを創造される神が人間を造られたのです。

私たちは、神によりあるがままの自分存在にこの時代に呼び出され、そればかりか、罪の堕落から救いへと呼び出され、その上、本来のなすべき職務と課題を果たすよう召し出されるのです。ある人は救われて今までと同じ仕事を続けます。ある人は救われて転職します。仕事や家事に従事しつつ教会の霊的な務めが別の人には与えられるでしょう。牧師・伝道者・教師・宣教師に召される人もいます。仕事を隣人に愛をもって仕える奉仕としての意義を抱かせ、福音を世界に宣べ伝え、霊的に奴隷とされている人々を解放するため、主は各自に成させようとするご計画があるのです。

ペテロ達は主に信頼し、直ちに立ち上がり従いました。時間の長短より勇気ある決断が大切です。その決断献身には放棄が不可欠です。新しい何かを獲得するには捨てることが秘訣です。主イエス様との個人的な交わりの内に、年始めに召しを確認しようではありませんか。

1月7日礼拝説教

「畏れ敬い過ごす」  第一ペテロ1章17〜21節

また、あなたがたは、人をそれぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、父と呼んでいるのですから、この地上に寄留する間、畏れをもって生活しなさい。

知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来の空しい生活から贖われたのは、銀や金のような朽ち果てるものによらず、傷も染みもない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。

キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために現れてくださいました。

あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。したがって、あなたがたの信仰と希望とは、神にかかっているのです。

 2024年は元旦早々に大地震が北陸を襲う、翌2日には羽田飛行場で航空機事故が発生するなど波乱の幕開けです。

新年を展望する私たちに、聖書はこの一年を生きる基本姿勢を指し示し、「この地上に寄留する間、畏れをもって生活しなさい」と勧告します。この地上の何処に暮らすにしても、キリスト者は仮住まいです。永遠の天国を目指し旅する寄留者です。

この地上の生活には、天災や人災の恐れや不安や心配は尽きません。しかし、キリストを受け入れた者は、その恐れや不安や心配が神様への畏敬の念により凌駕されるのです。恐れは畏れに変えられました。

神様を畏れ敬う第一の理由は、父なる神様が義をもって私たちの行いを公平に裁かれることを悟るからです。十字架の罪の赦しの故に、信者は死後の裁きを受けることは絶対ありませんが、生きている間の自分の誤った行いは責任を取らなければなりません。人は蒔いたものを刈り取るのです。父なる神様は信者を神の子として必要な懲らしめを与えられるでしょう。

神様を畏れ敬う第二の理由は、父なる神様が私たちを先祖伝来の空疎な生活から贖ってくださったからです。私たちはかつて、先祖伝来の人間の作り出した偶像の崇拝者でした。自分の知性、理性によって神を否定し侮る傲慢な者でした。人の好みに任せた放蕩、情欲、泥酔、馬鹿騒ぎ、暴飲にふける欲情乱行のとりこでした。しかし神様は、深い憐れみと恵みにより、小羊のようなイエス様の尊い血の身代金を十字架で払われることで、空しい生活から私たちを贖ってくださったのです。

そればかりか、私たちにはキリストの復活により、主が再び来られる時には、キリストと同じように、幕屋のように脆く弱い身体が、強い栄光の身体に復活させられる希望が与えられているので、心から神様を畏れ敬うのです。

この地上で神様を畏れ敬いつつ暮らす秘訣は、

これらの根拠理由を知る知識を繰り返し聖書に確認することです。

イエス様によって成し遂げられた救いの事実を信じることです。

その真理に基づいて父なる神様の御名を呼び祈ることです。

元旦礼拝説教

「公正の確立」  イザヤ42章1〜4節

新年明けましておめでとうございます。当たり前のように挨拶しましたが、新年がおめでたいのは、日本では「年取り」の祝いだからだと言われます。かつては誕生日ではなく、正月が来るたびに皆が一斉に歳をとる数え年だったのです。そして、新しい年齢と一生を生き抜く力や幸運を与えてくれる年神様がやって来るのが正月なので、年神様を盛大に招くためにお祝いをするのが日本の伝統です。そんな意味で新年を祝う人々に対して、「門松は冥土の旅の一里塚」と皮肉な狂歌を歌い、京都市内を竹竿の先にドクロをぶら下げて歩いた奇人がいました。あの一休和尚ですよ。しかも彼はその後に「めでたくもあり めでたくもなし」と謳ってますね。京都の人は彼に会わないように、正月三日間は外に出なかったという逸話もあります。しかし、私たちは日本人ではあっても、今日元旦にここに集まって礼拝するのは、年神様ではなく、天地を創造された真の神様と共に、新しい年を始めるためです。

日本ではクリスチャンは人口の1%しかいませんが、世界では統計上3人に1人がクリスチャンです。どうして世界中で信じられるようになったのか、歴史的には色々な理由があるでしょうが、イエス様の救いが普遍的なものであるからなのでしょう。

普遍的な理由の第一は、私たちの神様が天地を創造された唯一の神であられるからです。国家や民族や文化を超えて拝まれる神様だからです。

第二の理由は、イエス様の救いが、誰でも求める人には差別なく与えられるからです。何の条件も付けられず、ただ信仰さえあれば救われるからです。

第三の理由は、イエス様が与える救いが、人間である我々が直面する根本的な問題である罪や死、生きる意味を解決するものであるからです。すべての人の必要に応える救いだからです。

今日、私たちは主なる神様と新しい年をスタートするにあたり、イザヤ42章を読み、拝聴することにしたいと思います。

わたしの支持するわがしもべ、
わたしの喜ぶわが選び人を見よ。
わたしはわが霊を彼に与えた。
彼はもろもろの国びとに道をしめす。
彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、
その声をちまたに聞えさせず、
また傷ついた葦を折ることなく、
ほのぐらい灯心を消すことなく、
真実をもって道をしめす。
彼は衰えず、落胆せず、
ついに道を地に確立する。
海沿いの国々はその教を待ち望む。    イザヤ書 42章1~4節

.公正への憂い

この1〜4節の短い箇所に、3 回繰り返される言葉があります。それは、公正です。1節、3節、4節に繰り返されます。この公正とは原語のミシュパートの訳で、神様の統治理念を表す非常に重要な用語です。ミシュパートは裁くことを意味するシャーファトに由来する言葉で、判決、道、公儀、裁き、裁定、真実とも種々に訳され、そのため、聖書翻訳も、この聖書では「公正をもたらす」ですが、「道を示す」「裁きを導き出す」「公儀をもたらす」「判決をもたらす」と様々です。公正をもたらすことを別な言い方で言うならば、これは「曲がったことが横行している社会を正すこと」です。私たちは、昨日、12月31日をもって2023年を終えたところですが、昨年を総括するときに、言えることは、「私たちの生きる社会と世界には、曲がったことが凄まじいばかりに横行していた」と言うことではないでしょうか。年末の通常国会では、突然、自民党の最大派閥である清和会の裏金作り問題が浮上し、関係していると思われる閣僚や役員が多数、罷免され辞任しております。清和会とはその派閥の創設者であった福田赳夫さんが「政清人和」という中国の思想から命名された派閥名ですが、その意味するところは「まつりごと清ければ人おのずから和す」であり、清廉な政治は人民を穏やかにするという意味を込め「清和会」と命名したものです。ところが、実態は名称とは裏腹に、やっていることは不正な裏金作りであったことが露呈してしまったのです。これは一事が万事であり、世界にはウクライナ戦争、パレスチナのガザ紛争など挙げればキリがありません。

.公正の担い手

この預言の言葉が語られたのは、今から遙か昔の紀元前8世紀のことであり、その時代の社会と世界に、曲がったことが凄まじいばかりに横行していたからです。預言者イザヤがこの預言を語りかけた相手は、古代の大帝国バビロンに捕囚になっていたイスラエルの民でした。

彼らは、B C587にバビロンのネブカドネザル王に攻略され滅ぼされ、1000キロも離れた異国のバビロンに連行され、捕囚となっていたのです。何故、そのような憂き目にあったのでしょうか。それは、イスラエルが神の戒めから離れ、国中に曲がったことが横行したからです。それが極限に達したときに、神はバビロンを動かし、民を裁かれたのです。その捕囚にあい惨めな状況に置かれた民に語られたのがこのイザヤの預言でした。それは、神様が世界に公正をもたらす代理人を立てられるというメッセージでした。この預言は 1 節に「見よ、私が支える僕(しもべ)」で始まります。神様が支える支持する僕、それが神の公正を世界にもたらす代理人のことなのです。この神の選ばれた代理人である僕とは一体誰のことでしょうか。

  クロス王に成就

預言の第一義的な目的は、その時代に対するものです。その意味からすると、この預言は、ペルシャ王のクロス大王に成就したといえます。このクロス王について語られた預言をイザヤ44章28〜5章 1 節に見てみましょう。「また、キュロスについて、「彼は私の牧者 私の望みをすべて実現する」と言い、エルサレムについて、「それは再建され、神殿は基が据えられる」と言う。主は油を注がれた人キュロスについてこう言われる。私は彼の右手を取り彼の前に諸国民を従わせ、王たちを丸腰にする。彼の前に扉は開かれどの門も閉ざされることはない。」これは歴史的に見れば、イザヤが活躍した時代から200年後に実現したことになり、驚くべき預言です。このクロス王がバビロン帝国を滅ぼし、捕囚となっていたイスラエルの民を解放し、祖国復帰を実現させたのです。

  イスラエルに成就

しかし、この預言はそのイスラエルの民に成就すべき預言でした。何故なら、イスラエルが神の民として召されたのは、世界に公正をもたらすための神の代理人とされたからです。それを証明する聖書箇所があり、それが41章8〜10節なのです。読んで分かることは、42章1〜4 節と重複していることです。イスラエルは神の僕であり、神に支えられ、公正を世界にもたらすように神に選ばれていたのです。しかし、私たちは長い歴史過程において、神に選ばれたイスラエルが、必ずしもその使命を果たし得ず、世界に散らされ、悲惨な歴史を辿ったことを知っております。今、注目を集めるパレスチナ紛争のイスラエルは、1958年に再建された国家ですが、果たして、神の僕としての役割を果たしているのでしょうか。

  イエス・キリストに成就

私たちがこのイザヤ預言の完全な成就を見るのは、実はイエス様なのです。何故ならマタイの福音書12章に、マタイはこのイザヤ42章の箇所を全部引用し、イエス様こそ預言の成就だと証言しているからです。マタイは、あの42章の後半を「彼は争わず、叫ばず、その声を大通りで聞く者はいない。公正を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折ることもなく、くすぶる灯心の火を消すこともない」と引用しています。

イエス様は、11章 28 節でこう呼びかけました。「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」ご自分が柔和で謙った者だからだと言われるのです。

イエス様は弟子たちが安息日に腹の減った弟子たちが、麦畑で穂を揉んで食べた際に、見ていたパリサイ派が、安息日違反だと批判したとき、それを諌め、彼らを守られました。イエス様は、会堂に入られると、安息日でしたが、片手の萎えた人を癒されました。病気を治すのは労働に当たるから禁止されているとする人々を諌め、憐れみの業を率先してなされました。15節を見ると、おそらくその安息日の日でしょう、大勢の群衆が癒しを求めてついてきたときに、皆んな癒されました。マタイは、それを受けて、イザヤの預言がイエス様に成就したと証言したのです。それは人々に公正をもたらす仕方が、この世の為政者たちの仕方とは全く違っていたからです。

この世の為政者たちは、社会に公正秩序をもたらすと称して、叫び、声をあげ、巷に響き渡らせ、法律で、裁判で、行政で、金で、そして軍事力、武力で実行します。しかし、イエス様は全く逆です。そして「彼は傷ついた葦を折ることもなく、くすぶる灯心の火を消すこともない」弱い人々に寄り添い、優しく手当てをなされる主の僕なのです。その究極の公正をもたらす手段が苦難の十字架でした。イエス様は罪の赦しを得させるために、ご自分を十字架の祭壇に犠牲として捧げられたのです。人は、この十字架を仰ぎ、罪の赦しを信じ受け入れることによって、初めて公正な生き方へと導き入れられるものなのです。

.公正への召命

しかしこのイザヤ預言について更に言えることは、この預言はキリストを信じた者の共同体である教会に成就すべきものです。主は信じた弟子たちにこう語られました。「あなたがたの中で頭になりたい者は、皆の僕となりなさい。人の子が、仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのと同じように。」マタイ20:28これは、イエス様を信じるクリスチャンが、曲がったことが横行する社会と世界に、公正をもたらすために神様の代理人として僕となるように召されておられると言うことです。イエス様が人に仕えられたように、イエス様が人に自分の命を捧げられたように、生きることが社会に真の意味で公正を取り戻す道なのです。

  あなたを選んだ

自分をそのように受け止めようとする人に対して、主はイザヤ41章9節が、語られます。

「私はあなたを地の果てから連れ出し、その隅々から呼び出して言った。『あなたは私の僕。私はあなたを選び、拒まなかった。』と」神はあなたを選んでおられます。神はあなたを僕として公正を社会にもたらすために呼び出されたのです。

  あなたを助ける

また自分をそのように受け止めようとする人に対して、主は41章10節を持って語られます。

「恐るな。私があなたと共にいる。たじろぐな。私があなたの神である。私はあなたを奮い立たせ、助け、私の勝利の右手で支える。」あなたが、社会に主にならい公正を取り戻すために生きようとするなら、主が支え、助けてくださると言われるのです。

  あなたを重んじる

そればかりではありません。自分をそのように受け止めようとする人に対して、主は、43章 4 節を持って語られます。

「あなたは私の目に尊く、重んじられる。私はあなたを愛する」社会に公正をもたらそうと主の僕になる時、決して目立たないかもしれません。軽んじられかもしれません。しかし、主はあなたを愛し、あなたを重んじられるのです。あなたが高価で尊いと主は評価されるのです。

いやしかし、社会に公正をもたらすどころではない。自分のことで精一杯で、いや自分自身が公正に扱われていな事で悩んでいるかもしれません。イザヤ40章の 27 節にこう語りかけられています。「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ語るのか。『私の道は主から隠されており私の訴えは私の神に見過ごされている』と。」 この「私の訴え」は、私のミシュパートです。捕囚となってバビロンで惨めな状況に置かれていることを訴える呟きです。神様は自分を公正に裁き、公正に対処してくださっていないではないか、門前払いを食らってばかりいるではありませんか。という嘆きです。それに対する答えが、28 節以下ですね。主は永遠の神、創造者であることを思い起こすように喚起するのです。

この偉大な生ける真の神様は、決して見過ごしにしてはおられないのです。そして、言われます。「主を待ち望む者は新たな力を得、鷲のように翼を広げて舞い上がる。走っても弱ることがなく、歩いても疲れることはない。」世界を統治される神様は生きておられます。世界に公正をもたらすために、その代理人として召されていることを、この新年の初めに再確認させていただきましょう。あなたは主に忘れられてはいません。それどころか、あなたを僕として選び、支え、力を与え、公正を社会にもたらすように遣わそうとされておられるのです。