4月26日礼拝説教

「静まって神を知れ」詩篇46篇1~11節

 神はわれらの避け所また力である。

 悩める時のいと近き助けである。

 のゆえに、たとい地は変り、

 山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。

 たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、

 そのさわぎによって山は震え動くとも、

 われらは恐れない。〔セラ

 一つの川がある。

 その流れは神の都を喜ばせ、

 いと高き者の聖なるすまいを喜ばせる。

 神がその中におられるので、都はゆるがない。

 神は朝はやく、これを助けられる。

 もろもろの民は騒ぎたち、もろもろの国は揺れ動く、

 神がその声を出されると地は溶ける。

 万軍の主はわれらと共におられる、

 ヤコブの神はわれらの避け所である。〔セラ

 来て、主のみわざを見よ、

 主は驚くべきことを地に行われた。

主は地のはてまでも戦いをやめさせ、

弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる。

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。

わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、

全地にあがめられる」。

万軍の主はわれらと共におられる、

ヤコブの神はわれらの避け所である。〔セラ

 宗教改革を推進するルターを支えた原動力が詩篇46篇であったことはよく知られた話しです。三つの音楽休止符「セラ」で区分されるこの詩篇は、短篇であるにもかかわらず、神が天地万物の創造者、歴史の形成者、そして終末に神の国を完成される方である、と大きなスケールで神を啓示します。

その歴史背景は、アッシリアのセナケリブ大王の大軍に包囲され苦境に立たされたヒゼキヤ王の時代であったとすれば、10節の「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」とは、まさしくジャスト・メッセージであったでしょう。何故ならば、詩篇46篇は、「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。」と聴く者に直言するからです。主なる神は避け所であるばかりか力であり助けなのです。

711節で告白される「避け所」は、神が難攻不落で安全な場所、砦であり堅固な要塞という意味です。人間が建造する不完全な要塞ではなく、神は完璧な砦であり、この方が、悩める、苦難の時に、私たちと共にいてくださる。だから、天変地変、戦争と戦争の噂さが人心を撹乱させるような時でも、「我らは恐れない」とはばからず告白できる。この偉大な生ける真の神を知れ、知るためには「静まれ」と神は、どの時代に生きる人々にも優しく、力強く、忍耐強く訴えられるのです。

「静まれ」とは、手を引く、手放す、すなわち何かを止めるという意味です。活動に満ちた現代社会においては、静まることは容易なことではありません。しかし、静止と沈黙の時を生活の中に取り入れることをしない限り、神を知ることは不可能です。

この詩篇を休止符「セラ」が区切るように、生活の中に、賛美の中に、祈りの中に、動きを止め、歌うのを止め、語るのを止め、神を思う訓練が必要なのです。「一つの川がある。その流れは神の都を喜ばせ」る。その時、自分の心の中を霊の川が流れるのを経験することでしょう。

主イエスが約束された川(ヨハネ7:37)、聖霊が川の如く流れるのを知るのです。コロナウイルス感染の脅威の最中にあっても恐れることはありません。

4月19日礼拝説教

  「帰れる家がある」  ヨハネ14章1〜3節

「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。 

 十字架を目前にした主イエスは、最後の晩餐の席上で、決別のメッセージを語られた。先行き見通しの不確かさに、弟子たちは戸惑う。するとその心中を洞察するイエスは、『心を騒がせないがよい』と勧告された。そればかりか恐れる代わりに、むしろ「神を信じ、また私を信じなさい」と激励される。

我々が、しかも世界中が、今現在置かれている状況は、ウイルス感染の脅威に晒され、あらゆる方面において危機的である。だが、ここにおいて、頼り信頼できる神がおられることは何と幸いなことか。四面楚歌でも、そのただ中に神が共に居られる。それが私たちの不動の確信である。

それまでの弟子たちはイエスと共に行動する限り、どこでも歓迎され自分の居場所に困ることはなかった。だが、その師イエスが敵視され処刑されるとなれば、覚束ないこと甚だしい。

だが、イエスは『わたしの父の家には、すまいがたくさんある。』と彼らの目を永遠の住まいに向け、その場所を備えに行くことが去り行く目的であることを明らかにされた。

聖書は、人の一生は旅人、寄留者のようだと言う。どんな居住空間に住もうとも永遠に定住はできない。それは仮住まいに過ぎないが、主を信じる者には永遠の住まいが確保されている。そればかりか聖書は、教会がその前味として備えられたと、『そこであなたがたは、、、神の家族なのである。』と『そしてあなたがたも、、、霊なる神のすまいとなるのである。』(エペソ2:19-22)と教える。

信じる者たちは神を父とし、イエスを兄とし家族として集まる。ここでしか味わえない特別な場所が教会なのだ。

ルカ15:11〜32に描かれた父と失われた二人の息子の物語は神の家族の絵画である。教会は弟タイプと兄タイプの人々によって構成される。この兄弟の共通点は、父の財産目当だった。父を利用し財産を思いのままに使いたい。弟は家を出て放蕩に身を崩す。兄は父を怒り家に入らない。神の前に人はこのどちらかのタイプだ。だが、父は二人を愛し、家に帰った弟を抱きしめ、入ろうとしない兄を宥める。

神は愛である。誰でも帰れる家がある。ハレルヤ!

4月12日礼拝説教

  「生きている証拠」  使徒行伝1章1〜5節

テオピロよ、わたしは先に第一巻を著わして、イエスが行い、また教えはじめてから、お選びになった使徒たちに、聖霊によって命じたのち、天に上げられた日までのことを、ことごとくしるした。イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。

そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」。

ウイルス感染予防のためイースター礼拝を休会としたが、主イエスの復活の祝いに変わりはない。蘇られたイエスは40日弟子達に顕現された。

数字の40は何かを証明する象徴的意味がある。初めにイエスは荒野の40日間の誘惑で、神の御子であることを、終わりの40日間で復活の確かさを証明された。ローマ兵に厳重に番兵されたはずの墓は空であった。墓には布だけが遺体を巻いた形状のままで脱け殻のように残されていた。泣くマリヤに、怯える12弟子達に、エマオの二人に、そして一度に500人以上に、イエスは顕現し語りかけられた。

歴史的出来事は残された証拠と証言によって証明されるとすれば、イエスの復活の事実は数々の証拠と多数の目撃証言によって不動である。イエスは確かに復活され生きておられる。「イエスは苦難を受けたのち」に復活することで、十字架の救いの有効性をも証明された。

神の御子イエスは、我々の罪の身代わりとして罪の赦しを得させる子羊として十字架に犠牲となられた。イエスは神のキリスト、救い主であることを復活で証明されたのだ。

そればかりか「神の国」を弟子達に再提示することで、ご自身の王であることをも証明された。主イエスの第一声は「神の国は近づいた」であり、神の王としての支配はイエスによって出現した。決定的で完全な神による世界の統治は、主イエスの再臨により実現する。

40日後にオリーブ山から雲に包まれ、弟子達の見ている前で昇天されたイエスは、世界を統べ治める王として再び来られる。地上の各国でそれぞれの民を統治する為政者達の政治的権威は、神から付与された限定的な力に過ぎない。

コロナウイルス感染の脅威にさらされる世界ではあるが、全てを貫く主イエスの主権の下に置かれているのだ。この主の復活の顕現に接した弟子達には、イエスの証人となることが求められ、聖霊が約束された。世界の未来は混沌としているように見えるが、全ては主の御手にある。

信じて変えられたあなたに関心を寄せた誰かが希望の何かを問うならば、いつでも答えられるよう備えていよう。

4月5日礼拝説教

  「神に喜ばれる人」  伝道の書2章22〜26節

そもそも、人は日の下で労するすべての労苦と、その心づかいによってなんの得るところがあるか。そのすべての日はただ憂いのみであって、そのわざは苦しく、その心は夜の間も休まることがない。これもまた空である。

人は食い飲みし、その労苦によって得たもので心を楽しませるより良い事はない。これもまた神の手から出ることを、わたしは見た。

だれが神を離れて、食い、かつ楽しむことのできる者があろう。神は、その心にかなう人に、知恵と知識と喜びとをくださる。しかし罪びとには仕事を与えて集めることと、積むことをさせられる。これは神の心にかなう者にそれを賜わるためである。

これもまた空であって、風を捕えるようである。

 快楽を試み後継者問題を塾考し「これもまた空である」と苦衷を吐露した伝道者が、24節から全く新しい洞察へ導かれたことは驚きです。

危機経験がチャンス、転機の好例です。彼は喜びが自分で追求して獲得するものではなく、神の賜物として受け取るべきものだと悟ったのです。

「人は食い飲みし、その労苦によって得たもので心を楽しませるより良い事はない。これもまた神の手から出ることを、わたしは見た。」食い飲みは栄養確保、健康維持、刹那的快楽としての美食のイメージが否定できません。ところがこの人間生活を支える基本的要素にある喜びが食卓の交わりにあるのです。

主イエスが取税人、群衆、弟子らと頻繁に飲食を共にされたのは、食卓の交わりが神の喜びを受け取る場所であることを示すものです。夫婦で差し向かう、子供達と両親が揃って夕食に向かう、それを神からの喜びの賜物と受け取められるならば幸いです。

伝道者には更に労苦に光が照射されます。アダムの罪の堕落が労働の意味を呪いに変えたことを創世記3章17節からの記事が教えています。「あなたは一生、苦しんで地から食物を取る」労働には罪の罰の影が差すのです。

今や賃金労働で成り立つ現代の市場経済は、企業の目的達成、利益追求、他との競争が当然のこととなり、労働者は労働を自己実現の手段とする傾向にあるでしょう。ところが労働への新しい光は、そこには神の創造の業への人間の参与参加が込められていることなのです。

一人一人の職務には神からの召命があり、それを天職として受容するなら、それは言い知れぬ働く喜びが湧出する場なのです。しかしながら、24節の「より良い事」という比較級の表現が、食い飲み、労苦の喜びから更に私たちに最高の喜びを示唆しています。それは26節の言うところ、「神の心にかなう人」に与えられる特別最高の楽しみの事です。それは神を心の深みから信頼する人のことであり、その人には至高の喜びが備えられているのです。

集め積む仕事に尽きる人生、神から喜びを賜る人生、果たしてどちらなのかが問われます。