828日礼拝説教

「神の主権的選び」  ローマ人への手紙 9章19〜28節

そこで、あなたは言うであろう、「なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか」。ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。それは、ホセアの書でも言われているとおりである、

「わたしは、わたしの民でない者を、

わたしの民と呼び、

愛されなかった者を、愛される者と呼ぶであろう。

あなたがたはわたしの民ではないと、

彼らに言ったその場所で、

彼らは生ける神の子らであると、

呼ばれるであろう」。

また、イザヤはイスラエルについて叫んでいる、

「たとい、イスラエルの子らの数は、

浜の砂のようであっても、

救われるのは、残された者だけであろう。

主は、御言をきびしくまたすみやかに、

地上になしとげられるであろう」。

 「陶工は、同じ粘土の塊から、一つを貴い器に、一つを卑しい器に作る権限があるのではないか。」聖書は、神と人間の関係を陶工と粘土に喩える。陶器師の製作上の絶対権限は、神の主権的支配を示す。

「もし神が霊であり、したがって一個の人格的存在であり、その本質と完全性において無限、永遠、不変であり、宇宙の創造者、保持者であるなら、神はその絶対的主権を持つ権利がある。」とホッジは言う。

古代バビロンのネブカドネザルでさえ、「その支配は永遠の支配、その王国は代々にわたって続く。地に住む者は皆、無に等しく天の軍勢も地に住む者も御旨のままに扱われる。その手を押さえて「あなたは何をなさるのか」と言える者はない。」と告白した。

では、神の民イスラエルの選びは失敗であったのか。パウロは、神が遣わされた救い主イエスを同胞の彼らが拒絶したことを悲しみ痛む。だが、パウロが神の民の選びの歴史にメスを鋭く切り込む時、そこに神の主権的選びが克明に描き出される。

神は約束によりイシマエルではなくイサクを、計画に基づきエサウではなくヤコブを選び、イスラエルをエジプトの奴隷から解放する時には、パロの心を頑なにし、モーセに憐れみを注ぐことで、人間の意志や努力の介在を許さず、主権的選びを明確にされた。このイスラエル民族から救い主を出すこと、更に、救い主イエスを信じる者を選ぶことが、神のご計画である。そこに選ばれた者達で構成される教会は、民族の壁を超え、ユダヤ人と異邦人とから救われた者で成り立つ神の民とされる。

今この時代に、自分自身の出自や才能、天分、容姿、環境の他者との違いを思うと、神が不公平に見えるかもしれない。しかし、この全人類に対する深遠な神の主権的選びの計画を知り、我々は、土の器に過ぎないことを自覚しへりくだり、創造主に対して「どうして私をこのように造ったのか」と口答えするのを控えよう。

否、むしろ、罪赦され、神に愛され、神の民、神の子とされ、多くの人々の中から「残りの者」とされていることに感謝し、神に栄光を帰すことにしよう。

821日礼拝説教

「豊かな注ぎの油」  テトスへの手紙 3章1〜7節

あなたは彼らに勧めて、支配者、権威ある者に服し、これに従い、いつでも良いわざをする用意があり、だれをもそしらず、争わず、寛容であって、すべての人に対してどこまでも柔和な態度を示すべきことを、思い出させなさい。わたしたちも以前には、無分別で、不従順な、迷っていた者であって、さまざまの情欲と快楽との奴隷になり、悪意とねたみとで日を過ごし、人に憎まれ、互に憎み合っていた。ところが、わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき、わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。

 イスラエルで収穫感謝祭であった五旬節の祝いの日に、神の約束された聖霊が奇しくも120名の祈り待望する聖徒らに降りました。教会はこの聖霊降臨により発足しました。

その降臨の意義を、テトス3章5節は、「聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。」と、主イエスを信じた者の救いの更新の恵みとして明らかにしています。

この手紙の著者パウロは、3〜7節部分を当時の洗礼式の信仰告白文から引用したようです。その告白文には救いの教理として、その必要、根拠、内容、手段、目標が凝縮されております。

3節では、私たちの救われる以前のおぞましい実態が列挙されます。その救いの根拠は神の博愛の顕現であったと4節は明記し、それこそ、神の御子イエスの誕生と十字架、そして復活なのです。

そして5節は、その救いを私たちに充当された方こそ聖霊であると明かすものです。私たちの救いは三位の神、父、御子、聖霊が一体となって働きかけてくださった結果でした。

聖霊によって人は新生させていただきます。霊的に誕生し神の子とされます。受洗者が水に浸され洗礼受けるのは、生まれた赤児が沐浴することにちなんだ象徴的儀礼なのです。それまでの顔かたち外観も全く同じであるにもかかわらず、人は質的に全く新しくされます。

クレタ島で牧師を勤めたテトスに宛てて使徒パウロは、島民が評判の芳しくない「嘘つき」だと1章で酷評します。それがここに主イエスを受け入れるときに人がどれほど質的に変えられるかを、鮮やかに描いているのです。クレタ島民に限らず、神の目には全ての人の罪深さは恐ろしいばかりなのであり、神の慈愛とキリストの罪の赦し、そして聖霊の更新、刷新のわざが無くては、人間の行く末は「人に憎まれ、互いに憎み合って」絶望的であったのです。

最近もテレビで紹介された鈴木啓之牧師も、かつてはヤクザでありましたが、神の慈愛により救われた生き証人です。

8節で、「努めて良いわざを励むことを心がけるようになるため」との勧告を受けとめ、些細な善であっても実践に励みたいものです。

814日礼拝説教

「特選の宝の民」  申命記7章6〜15節

あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。主があなたがたを愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった。ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手から、あがない出されたのである。それゆえあなたは知らなければならない。あなたの神、主は神にましまし、真実の神にましまして、彼を愛し、その命令を守る者には、契約を守り、恵みを施して千代に及び、また彼を憎む者には、めいめいに報いて滅ぼされることを。主は自分を憎む者には猶予することなく、めいめいに報いられる。それゆえ、きょうわたしがあなたに命じる命令と、定めと、おきてとを守って、これを行わなければならない。

あなたがたがこれらのおきてを聞いて守り行うならば、あなたの神、主はあなたの先祖たちに誓われた契約を守り、いつくしみを施されるであろう。あなたを愛し、あなたを祝福し、あなたの数を増し、あなたに与えると先祖たちに誓われた地で、あなたの子女を祝福し、あなたの地の産物、穀物、酒、油、また牛の子、羊の子を増されるであろう。あなたは万民にまさって祝福されるであろう。あなたのうち、男も女も子のないものはなく、またあなたの家畜にも子のないものはないであろう。主はまたすべての病をあなたから取り去り、あなたの知っている、あのエジプトの悪疫にかからせず、ただあなたを憎むすべての者にそれを臨ませられるであろう。

 申命記は、約束の地パレスチナに入ろうとするイスラエルが、神の民であることを再確認するメッセージの記録です。主なる神は彼らを聖なる民、しかもご自分の宝の民として選ばれました。すなわち彼らがとびきり大事なもの、価値あり片時も忘れられないものとされたのです。

イザヤ43章4節で「わたしの目には、あなたは高価で尊い」と言われたのもその意味であります。そして主が『あなたを選んで、自分の宝の民とした』と言われるとき、その語り掛けが、イエス様を主としキリストとして信じ受け入れた私たちキリスト者に対する語りかけと受け止めることが大切です。なぜなら、神はキリストにあって私たちを救いに選びとってくださったからであります。

驚くべきことは、神の選びが、その選ばれた民に宝とされるような何か魅力と価値があったからではなかったこと、ただ彼らの先祖アブラハムと交わした契約を遵守するためであったという事実です。

はるか以前に神はアブラハムに「すべてあなたが見わたす地は、永久にあなたとあなたの子孫に与えます(創13:15)」と約束されました。神は真実な約束を守る信頼される方なのです。私たちが神の子と選ばれたのも同じ原理であります。

主イエスが罪の赦しを得させる贖いの業を十字架の死と復活により成就されたとき、神はそれによって全く新しい契約を立てられました。信仰により、人は義とされ神との正しい関係に立つことのできる契約のゆえに、私たちに何かそうしていただけるような功績や価値や魅力があるからではなく、神は私たちを宝の民とみなされるのです。そのようにして神に選ばれたのは、このお方をより深く知り、このお方により従順にお仕えし、このお方によって祝福を豊かに享受させていただくためです。

「あなたを愛し、あなたを祝福し、あなたの数を増し(13節)」と、キリスト者には幾重にも祝福が重ね合わされているとは何という幸いでしょうか。15節には『主はまたすべての病をあなたから取り去』るとも約束されました。神の驚くばかりの恵みに感謝しましょう。

87日礼拝説教

「主の山に備えあり」  創世記22章1〜14節

これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、「アブラハムよ」。彼は言った、「ここにおります」。神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。三日目に、アブラハムは目をあげて、はるかにその場所を見た。そこでアブラハムは若者たちに言った、「あなたがたは、ろばと一緒にここにいなさい。わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、そののち、あなたがたの所に帰ってきます」。アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イサクに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った。やがてイサクは父アブラハムに言った、「父よ」。彼は答えた、「子よ、わたしはここにいます」。イサクは言った、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。こうしてふたりは一緒に行った。

彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。

 アブラハムは、その生涯を通じて神の扱いを受け、信仰の父と称されます。21章では奴隷女ハガルと息子イシマエルとを理不尽な仕方で追放したアブラハムは、22章では不条理な神の扱いに遭遇させられます。神の約束の祝福された最愛のひとり子イサクを焼き尽くす犠牲とせよと命じられたのです。

この主なる神の要求に何のためらいもなく従ったアブラハムの従順には驚かされますが、指定されたモリヤ山頂で、イサクを縛って屠殺し燔祭にしようとした瞬間、天使の一声で事態は一転しました。アブラハムは藪に角を掛けて動けぬ雄羊を捕らえ、イサクに代えて犠牲とする恵みを得ました。

その時、アブラハムはこの出来事に一大真理を発見しました。彼の信頼する主なる神は摂理の神、万事に備えあるお方であるという真理でした。彼は記念にその地名を「アドナイ・エレ」と呼び、そこから「主の山に備えあり」という諺まで生まれたと言われます。

「備え」と訳される含蓄ある原語は、本来は「見る」を意味しますから、「主は見られる」とすれば、この出来事を通じて主はアブラハムの心奥の隠れた忠誠が試されたことになります。神は人の心を試す方なのです。更に「アドナイ・エレ」を「主は見付けられる」とすれば、イサクの代わりに雄羊をアブラハムに見付けてくださったことになります。しかもその雄羊を予型的に解釈するとすれば、何と神の子羊として十字架に犠牲になられた主イエス様を指し示すものとなります。

アブラハムは自分の愛するひとり子を捧げようとして、かえって生きて返していただきましたが、神はご自分の愛するひとり子イエス様を罪の赦しを私たちに得させるために犠牲となされました。その愛の深さはいかばかりでしょうか。

更に「主は備えられる」とすれば、あのローマ8章32節が開示します。『ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。』今日、この驚くばかりの真理が私たちのものであることを感謝しましょう。