3月29日礼拝説教 

  「私の後に来る人」  伝道の書2章12〜23節

わたしはまた、身をめぐらして、知恵と、狂気と、愚痴とを見た。

そもそも、王の後に来る人は何をなし得ようか。すでに彼がなした事にすぎないのだ。光が暗きにまさるように、知恵が愚痴にまさるのを、わたしは見た。

知者の目は、その頭にある。しかし愚者は暗やみを歩む。けれどもわたしはなお同一の運命が彼らのすべてに臨むことを知っている。

わたしは心に言った、「愚者に臨む事はわたしにも臨むのだ。それでどうしてわたしは賢いことがあろう」。わたしはまた心に言った、「これもまた空である」と。

そもそも、知者も愚者も同様に長く覚えられるものではない。きたるべき日には皆忘れられてしまうのである。知者が愚者と同じように死ぬのは、どうしたことであろう。そこで、わたしは生きることをいとった。日の下に行われるわざは、わたしに悪しく見えたからである。皆空であって、風を捕えるようである。

わたしは日の下で労したすべての労苦を憎んだ。わたしの後に来る人にこれを残さなければならないからである。 そして、その人が知者であるか、または愚者であるかは、だれが知り得よう。そうであるのに、その人が、日の下でわたしが労し、かつ知恵を働かしてなしたすべての労苦をつかさどることになるのだ。これもまた空である。

それでわたしはふり返ってみて、日の下でわたしが労したすべての労苦について、望みを失った。今ここに人があって、知恵と知識と才能をもって労しても、これがために労しない人に、すべてを残して、その所有とさせなければならないのだ。これもまた空であって、大いに悪い。

そもそも、人は日の下で労するすべての労苦と、その心づかいによってなんの得るところがあるか。そのすべての日はただ憂いのみであって、そのわざは苦しく、その心は夜の間も休まることがない。これもまた空である。 

 伝道者が身を巡らして見た次なる空しい現実は後継者問題です。

伝道者は再び栄華を極めたソロモン王の視点から後継者を熟慮し、これまた風を摑むように空しいと結論します。前の人の役割や権限、また財産などを引き継ぐ後継者選びは、そこに醜い相続争いが生じるにしても、それがどんな分野でも必要不可欠なものです。

ダビデ、ソロモンと続いた三代目はレハベアムでした。ソロモンは賢人でしたが、後継の息子レハベアムは愚王でした。その歴史事実を見据えた伝道者が見たのは、知恵ある者の労苦の実を引き継ぐ者が愚か者であっても、その両者に臨む運命が同一であること、即ち、両者共に死んで忘れられてしまう事実でした。

愚か者より賢い者が生き方として優るとしても、死ぬ運命に変わりなければ、どこに賢さの意味があるのかと。そればかりか、賢い自分が労苦した築財を、何の労苦もしない後継者が、楽々所有する。これまた如何なものかと思案の結果を空の空だと伝道者は結論します。

このあたりを詩篇39篇も冷めた目で「まことに人は影のように、さまよいます。まことに彼らはむなしい事のために騒ぎまわるのです。彼は積みたくわえるけれども、だれがそれを収めるかを知りません。(9)」と証言します。

ここから私たちは身を巡らし、「わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。」と証言した洗礼者ヨハネの後継者に注目しましょう。

ヨハネが自分より優れていると断じた方こそ主イエス・キリストなのです。その根拠は「わたしよりも先におられたからである」それはイエスの先在性、時間を超越した神性、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」それは人類救済のため人類を代表する犠牲の業を成し遂げる救い主だからであります。

ダビデ王家は三代目で傾き衰亡の歴史を辿るのですが、ヨハネの後に来た方、主イエスは王の王として世界の主権者として支配君臨されます。その支配はとこしえです。そして天に昇天された主イエスの地上における後継者こそ教会なのです。

主の主権的な働きは霊的資産を託された教会を通して継承されているのです。

3月22日礼拝説教

  「悦楽喜笑の源泉」  伝道の書2章1~11節

わたしは自分の心に言った、「さあ、快楽をもって、おまえを試みよう。おまえは愉快に過ごすがよい」と。しかし、これもまた空であった。

わたしは笑いについて言った、「これは狂気である」と。また快楽について言った、「これは何をするのか」と。

わたしの心は知恵をもってわたしを導いているが、わたしは酒をもって自分の肉体を元気づけようと試みた。また、人の子は天が下でその短い一生の間、どんな事をしたら良いかを、見きわめるまでは、愚かな事をしようと試みた。

わたしは大きな事業をした。わたしは自分のために家を建て、ぶどう畑を設け、園と庭をつくり、またすべて実のなる木をそこに植え、池をつくって、木のおい茂る林に、そこから水を注がせた。

わたしは男女の奴隷を買った。またわたしの家で生れた奴隷を持っていた。わたしはまた、わたしより先にエルサレムにいただれよりも多くの牛や羊の財産を持っていた。わたしはまた銀と金を集め、王たちと国々の財宝を集めた。

またわたしは歌うたう男、歌うたう女を得た。また人の子の楽しみとするそばめを多く得た。こうして、わたしは大いなる者となり、わたしより先にエルサレムにいたすべての者よりも、大いなる者となった。

わたしの知恵もまた、わたしを離れなかった。なんでもわたしの目の好むものは遠慮せず、わたしの心の喜ぶものは拒まなかった。わたしの心がわたしのすべての労苦によって、快楽を得たからである。そしてこれはわたしのすべての労苦によって得た報いであった。

そこで、わたしはわが手のなしたすべての事、およびそれをなすに要した労苦を顧みたとき、見よ、皆、空であって、風を捕えるようなものであった。

日の下には益となるものはないのである。 

 人の生きる意味を問う伝道者の1章から続く探求の対象は、2章に至り快楽に向けられ「おまえは愉快に過ごすがよい」と独白します。

人が喜び楽しむことの心理学的研究によれば、それが創造的な思考の枠を広げ、ストレスの過剰反応を減らし、自律神経系の亢進を元通りにさせ、免疫力を高め癌を抑制するなど、その効果が高く評価されます。そこで伝道者は、歴史上、栄華を極めたソロモン王の経験に託して、人の作り出す楽しみを検証したのです。

笑い、酒、建築事業、農園栽培、園芸、造園、奴隷所有、財産所有、芸術家の雇用、そして多くの妻妾の抱え込みに到るまでトコトン体験的にその意義を探求します。

ソロモン王の華麗な生活ぶりは、列王記上1〜11章に詳述されており、その莫大な年間収入、世界七不思議に数えられる神殿建造、妻700人に妾300人のハーレムとなれば、想像を絶するばかりです。

しかしながら、彼の達した結論は何と1章2節に同じく「空の空」でありました。「風を捕らえるようなものであった」と断じて憚りません。

どの所作を取り上げても結局、人間が自分自身を楽しませようとするいかなる試みも、愚かしく、利己的で、一時的刹那的ではないかと言わざるを得ません。

4節に「自分のために」という一句は日本語では訳し尽くされず、実に全ての動作に9回繰り返されているフレーズであり、快楽の空しさの根底にある自己本位が浮き彫りにされます。

ところが、このような否定的な結論を背景に、2章後部の24〜26節を読む時、私たちは喜びに関する一条の光をそこに見ることになります。即ち、喜び楽しみとは神の手から感謝しつつ受け取るべきものだということです。

「神は、その心にかなう人に、知恵と知識と喜びとをくださる(2:26)」のです。それは「すべての事について、感謝しなさい(テサ上5:18)」という新約の真理に繋がります。神は人を楽しませようと実は万全の備えをされておられます。

信仰の眼差しで見れば、どんな些細な事柄にでさえも喜び楽しみの源泉となり得るのです。ウイルス感染情報の暗さだからこそ喜びましょう。

3月15日礼拝説教

  「知恵と知識の宝」  伝道の書1章12〜18節

伝道者であるわたしはエルサレムで、イスラエルの王であった。

たしは心をつくし知恵を用いて天が下に行われるすべてのことを尋ねまた調べたこれは神が人の子らに与えてほねおらせられる苦しい仕事である

わたしは日の下で人の行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕らえるようである。 曲ったものは、まっすぐにすることができない、欠けたものは数えることができない。

わたしは心の中に語って言った、「わたしは、わたしより先にエルサレムを治めてすべての者にまさって、多くの知恵を得た。わたしの心は知恵と知識を多く得た」。

わたしは心をつくして知恵を知り、また狂気と愚痴とを知ろうとしたが、これもまた風を捕らえる様であると悟った。

それは知恵が多ければ悩みが多く、知識を増す者は憂いを増すからである。 

 神が人間に与えた共通の仕事は、神の創造世界を理解するため、自分の知性を働かせ把握することだと聖書は教えます。

エデンの園に置かれた最初の人が動物や鳥に命名し分類する作業をしたこと(創世2:19)は科学の始めです。

誰からも教えられない幼児が手当たり次第に周囲の物に触れ舐めかじるのは、世界に生きていく自分のコースを見極めようとする学びの最初でしょう。だが伝道の書は骨折れる仕事だとも言います。所定の学校教育でめでたく卒業でなしに、生涯学び探求する精神を忘れないでいたいものです。

神の叡智で私たちのために造られた世界は奥深く、その視野を広げ探求することは人生を豊かなものにします。ところが、伝道の書は、学ぶほどに気がつくのは、その探求の結果の空しさだと言います。

アインシュタインは物理的研究の結果、宇宙の歪みを証明しました。地球の軸は23.4度に傾いています。これは故あって神が曲げられました。

空しさの原因は、最初の人の犯した罪過ちにより歪曲された人間の世界を自分達の知恵と知識で真っ直ぐにしようとする人の業にあるのです。神を度外視して、世界の歪みを真っ直ぐにしようとする努力の結果は空しいのです。

日本の歴史で戦乱の世を平定した豊臣秀吉は、裸一貫で天下人にのし上がり、その業績は凄まじいものです。その末期に謳った辞世句が、「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」であるとすれば、彼は聖書の言う空しさの証人でしょう。

伝道の書は「知恵が多ければ悩みが多く、知識を増す者は憂いを増す」と当時知られた格言を引用し、人間の知恵と知識では真の意味で人間を幸福にすることができないことを明らかにします。そこで聞こえてくる一つの聖句は箴言1章7節です。

主を恐れることは知識のはじめである」即ち、人は「主を恐れる」というスタートラインに立つべきなのです。知識知恵による空しさと悩み憂いの原因は人の立ち位置にあります。

神の御子イエスを主と信じた人は、真の意味での知恵と知識の宝の発見にスタートすることになるのです。

3月8日礼拝説教

  「虚無虚構の果てに」  伝道の書1章1〜11節

ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。

伝道者は言う、
空(くう)の空(くう)、空の空、いっさいは空である。
日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。
世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。
日はいで、日は没し、その出た所に急ぎ行く。
風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。
川はみな、海に流れ入る、しかし海は満ちることがない。
川はその出てきた所にまた帰って行く。
すべての事は人をうみ疲れさせる、人はこれを言いつくすことができない。
目は見ることに飽きることがなく、耳は聞くことに満足することがない。
先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。
日の下には新しいものはない。
「見よ、これは新しいものだ」と言われるものがあるか、
それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。
前の者のことは覚えられることがない、
また、きたるべき後の者のことも、後に起る者はこれを覚えることがない。 

 この書の著者が誰であるのか、1節が示唆するだけで特定されません。伝道者の原語はコヘレトで、説教者、伝道者、教師とも訳されます。ヨハネ三章でニコデモは「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。」と主イエスを告白しました。

聖書がすべてキリストを語る霊感された書であるとすれば、著者が誰であれ、私たちは伝道の書に知恵の教師である主イエスのメッセージを聴くことが期待できるでしょう。その主題が2節の「いっさいは空(くう)である」と言う断言により明らかです。

言語のヘベルは空と訳され、ヘベルは消え去るためにのみ定められる霧、息、水蒸気が語源です。

イスラエル人であれば創世記4章にカインに殺害された弟アベルを連想することでしょう。アベルの綴りがヘベルと同じだからです。兄によりあっけなく殺害されたアベルは空そのものです。

まことに、すべての人はその盛んな時でも息にすぎません。(詩篇39:5)」といにしえの詩人は歌いました。

人(アダム=土)は息(ヘベル)にすぎないのです。人間は本質的にヘベルであり、消え去るはかない存在です。

4〜7節では循環運動を繰り返す太陽、風、川により人間の空であることが比喩的に例証され、9〜11節では満足を求めて満たされない人間性、新規を求めて果てない人間性、覚えられたくても忘れられてしまう人間性により、更に空が確証されます。

では、この書が私たちに語る帰結はどこにあるのでしょう。最終章の13節です。

「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。」

人(アダム=土)の本分は、神を認め、畏怖の念で敬い、愛し、信じ、従うところにある。この書を読み進むに際し、常にこの帰結を前提にすることが鍵です。

私たちの信仰は、人間存在の現実(空であること)に蓋(ふた)して避け、楽観的に肯定的に生きようとするような軽薄な態度であってはなりません。

主イエスは、空(くう)なる人間と成ることで、空(くう)なる私たちに、生きる喜びの意味を得させるために来られたのです。

 3月1日礼拝説教

  「主があなたの手を通して」  村上渡師(七條基督教会)

    ルカによる福音書 9章1017節

使徒たちは帰ってきて、自分たちのしたことをすべてイエスに話した。それからイエスは彼らを連れて、ベツサイダという町へひそかに退かれた。

ところが群衆がそれと知って、ついてきたので、これを迎えて神の国のことを語り聞かせ、また治療を要する人たちをいやされた。

それから日が傾きかけたので、十二弟子がイエスのもとにきて言った、「群衆を解散して、まわりの村々や部落へ行って宿を取り、食物を手にいれるようにさせてください。わたしたちはこんな寂しい所にきているのですから」。

しかしイエスは言われた、「あなたがたの手で食物をやりなさい」。彼らは言った、「わたしたちにはパン五つと魚二ひきしかありません、この大ぜいの人のために食物を買いに行くかしなければ」。というのは、男が五千人ばかりもいたからである。

しかしイエスは弟子たちに言われた、「人々をおおよそ五十人ずつの組にして、すわらせなさい」。

彼らはそのとおりにして、みんなをすわらせた。イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福してさき、弟子たちにわたして群衆に配らせた。

みんなの者は食べて満腹した。そして、その余りくずを集めたら、十二かごあった。

私の生まれる前から今に至るまで 

母の胎内にいる時に医者から重度の障がいがあるかもしれないと告げられたが、祈りにより出産前最後の検査でレントゲンの影が消え健康体で生まれた。 

★小学一年生の時に同級生をいじめたが酷いことをしたとの自覚もなく(無感覚)その結果相手に対して品物の弁償と慰謝料を払うこととなった。その時「神様、私は二度と暴力を振るいません。自分のこの手を悪いことには使いません」と祈った。 

★小学二年生の時クラスの中で孤独になり『救われたい』との思いを持つようになり、洗礼をうけた。すると直ぐに①私の内なる人生が変わった②同級生が私に近寄ってきて人間関係が回復した。 

★中学二年生の時、半年間同級生から壮絶な肉体的・精神的いじめに遭ったが毎朝又ことあるごとに祈り続けた。それは『神には私を救う力がある』と確信していたからです。やがて解決の道が与えられた。 

★高校ではいじめられそうな友をいじめから守ることができ、私のクラスだけ三年間いじめが起きなかった。『神はどんな経験も主の栄光の為に用いられる』『神は明らかに私たちを訓練しておられる』 

★その後自分の人生の方向を求めた時、神に尋ね求め続けた。『私にとっての最善とは、主のもとに居ること(詩篇7328)』神からの声「私の教会を建てよ」が与えられ、三年後に私の働き場所へと導かれた。 

ルカ9:10~17 5つのパンと2匹の魚-神の行われた奇蹟の2つの側面について考えてみよう。

①キリストご自身が5つのパンと2匹の魚を祝福されたことから始まった奇蹟である

弟子たちの手を通してパンと魚は増え広がって何万人もの人が満たされた。イエス様は人々に命の糧を与えた(ヨハネ6:30~35)そしてイエス様はまことの命のパンである。 

このパンは弟子たちの手を通して!弟子たちにあったのは特別な信仰ではなくイエス・キリストの言葉に対しての『応答』でした。 

私たちも命の言葉(イエス・キリスト)に『応答』して神の奇蹟に与る。御言葉に素朴な応答をしていきましょう。