2月23日礼拝説教

  「祭る精神と機能」  エステル記9章23節〜10章3節

そこでユダヤ人は彼らがすでに始めたように、またモルデカイが彼らに書き送ったように、行うことを約束した。

これはアガグびとハンメダタの子ハマン、すなわちすべてのユダヤ人の敵がユダヤ人を滅ぼそうとはかり、プルすなわちくじを投げて彼らを絶やし、滅ぼそうとしたが、エステルが王の前にきたとき、王は書を送って命じ、ハマンがユダヤ人に対して企てたその悪い計画をハマンの頭上に臨ませ、彼とその子らを木に掛けさせたからである。

このゆえに、この両日をプルの名にしたがってプリムと名づけた。そしてこの書のすべての言葉により、またこの事について見たところ、自分たちの会ったところによって、ユダヤ人は相定め、年々その書かれているところにしたがい、その定められた時にしたがって、この両日を守り、自分たちと、その子孫およびすべて自分たちにつらなる者はこれを行い続けて廃することなく、この両日を、代々、家々、州々、町々において必ず覚えて守るべきものとし、これらのプリムの日がユダヤ人のうちに廃せられることのないようにし、またこの記念がその子孫の中に絶えることのないようにした。

さらにアビハイルの娘である王妃エステルとユダヤ人モルデカイは、権威をもってこのプリムの第二の書を書き、それを確かめた。そしてアハシュエロスの国の百二十七州にいるすべてのユダヤ人に、平和と真実の言葉をもって書を送り、断食と悲しみのことについて、ユダヤ人モルデカイと王妃エステルが、かつてユダヤ人に命じたように、またユダヤ人たちが、かつて自分たちとその子孫のために定めたように、プリムのこれらの日をその定めた時に守らせた。エステルの命令はプリムに関するこれらの事を確定した。またこれは書にしるされた。

ハシュエロス王はその国および海に沿った国々にみつぎを課した。彼の権力と勢力によるすべての事業、および王がモルデカイを高い地位にのぼらせた事の詳しい話はメデアとペルシャの王たちの日誌の書にしるされているではないか。

ユダヤ人モルデカイはアハシュエロス王に次ぐ者となり、ユダヤ人の中にあって大いなる者となり、その多くの兄弟に喜ばれた。彼はその民の幸福を求め、すべての国民に平和を述べたからである。

 人種差別のため絶滅の危機に陥ったペルシャ在留ユダヤ人達は、意想外に事態が逆転した結果、災いの日が勝利の日となる奇跡を経験しました。

ここで特筆すべきことは、人のピンチが神のチャンスとして歴史体験した彼らが、アダルの月14、15日を「プリムの日」と名付け祭り化したことです。

祭りは日本でも三大祭の一つ諏訪神社の御柱祭を挙げるまでもなく、至る所で古来より営まれる社会現象です。祭りの精神は、古代に経験した出来事をそれによって記憶を新たにすることにあります。

エステル記9章28節にも祭りの趣旨が「記念」するため、それによって覚えておくためであったことが記されています。彼らは今日に至るまでプリムの祭りを毎年守り続けており、シナゴグ(会堂)では必ずエステル記全章が朗読され、酒宴で喜び祝い、街頭に繰り出してはそれこそお祭り騒ぎをするのが習わしです。

そこで、ユダヤ人にも、日本各地の神社の祭りにも無縁とも言えるキリスト者にとって祭りの持つ意味は何かが問われてきます。

主イエスは最後の晩餐で、「私を記念するためこのように行いなさい」と弟子達の前で聖餐式を制定されました。主イエスが、「飲むたびに」するよう定められたことは祭り化に他なりません。日曜日に賛美をささげ、聖書が説き明かされ、祈り感謝し、聖餐式に預かることは、文字通り祭りごとなのです。

祭りはそれによって人が過去の出来事を追体験することです。神が過去の神の民の歴史の只中で成された恵みの数々の業が、礼拝者達に現体験となってくる、それが教会の祭りなのです。

そればかりか、教会の活動に従事する人は、神と自分が「汝と我」の関係に導きいれられ、創造者の前にある人間の一人として新しい創造、全く新しい自己同一を経験させられます。

また、祭りの機能には共同意識を強化する作用のあることが知られ、それは聖餐式でキリストの体を象徴するパンに預かることにより現体験ともなります。主イエスの祈りは聖徒達の一致であり、教会は祭り精神によりその一致調和が生み出されるのです。

いよいよ期待し集い参加しましょう。

2月16日礼拝説教

  「喜びは還元され」  エステル記9章16〜22節

王の諸州にいる他のユダヤ人もまた集まって、自分たちの生命を保護し、その敵に勝って平安を得、自分たちを憎む者七万五千人を殺した。しかし、そのぶんどり物には手をかけなかった。

これはアダルの月の十三日であって、その十四日に休んで、その日を酒宴と喜びの日とした。しかしスサにいるユダヤ人は十三日と十四日に集まり、十五日に休んで、その日を酒宴と喜びの日とした。それゆえ村々のユダヤ人すなわち城壁のない町々に住む者はアダルの月の十四日を喜びの日、酒宴の日、祝日とし、互に食べ物を贈る日とした。

モルデカイはこれらのことを書きしるしてアハシュエロス王の諸州にいるすべてのユダヤ人に、近い者にも遠い者にも書を送り、アダルの月の十四日と十五日とを年々祝うことを命じた。

すなわちこの両日にユダヤ人がその敵に勝って平安を得、またこの月は彼らのために憂いから喜びに変り、悲しみから祝日に変ったので、これらを酒宴と喜びの日として、互に食べ物を贈り、貧しい者に施しをする日とせよとさとした。 

 アダルの月13日にペルシャ全土のユダヤ人達に起こった出来事の意味は、神がすべてを変えることのできる方であることです。

宰相ハマンがユダヤ人絶滅を画策し、王妃エステルとモルデカイが機敏に対処する。目立つのは人間どうしの激しい動きです。

しかし、すべてに神の支配が行き渡っていたのです。「この両日にユダヤ人がその敵に勝っ」た。神が神の民の敗北を勝利に変えられたのです。この真理が現代人に適用されると、神がキリストにより人類の最大の敵である罪と死に対して私たちに勝利を与えられたことが分かります。

世界は不法の精神が支配し、あらゆる領域が混乱しています。罪は神の律法を破ることで、それは神を拒否する敵対行為です。その結果が死なのです。しかし、御子イエスの十字架の死と復活により信じる者は罪赦され死んでも甦らされるのです。

ユダヤ人達はその日、「敵に勝って平安を得」ました。安息し、安堵し、安らぐことができました。それまでは確実に訪れるであろう虐殺と略奪の不安に突き落とされていたのです。だが、神は不安を平安に変えることのできる方です。

高度な文化を築いた現代人に共通する基本感情は皮肉なことに、それは何とはなしに不安であることです。自分が確実に庇護されている確信の欠如です。それは神の平安を授かるまでは、他のいかなる安全策を講じても決して払拭することのできない感情なのです。

復活の主イエスが再会した弟子達に語られた最初の挨拶は「平安があるように」でした。平安はイエスによる神の賜物です。ユダヤ人達はその日を喜びの日とするのですが、それは「憂から喜びに変わ」ったからでした。

魂の奥底から泉のように湧き上がる喜悦は神の賜物です。ここで特筆すべきは、彼らが貧しい者に施しをすることでその喜びを還元したことです。神の賜る喜びの特徴は、その人自身に止まらず他者への愛の具体的行為に還元されることにあります。

神の賜る喜びは自分だけ良ければいいという自己中心的な生き方を打破し、愛により共に生きようとする新しい生き方へと人を変革させる力があるのです。

2月9日礼拝説教

  「正当防衛と愛敵」  エステル記9章1〜10節

十二月すなわちアダルの月の十三日、王の命令と詔の行われる時が近づいたとき、すなわちユダヤ人の敵が、ユダヤ人を打ち伏せようと望んでいたのに、かえってユダヤ人が自分たちを憎む者を打ち伏せることとなったその日に、

ユダヤ人はアハシュエロス王の各州にある自分たちの町々に集まり、自分たちに害を加えようとする者を殺そうとしたが、だれもユダヤ人に逆らうことのできるものはなかった。

すべての民がユダヤ人を恐れたからである。

諸州の大臣、総督、知事および王の事をつかさどる者は皆ユダヤ人を助けた。彼らはモルデカイを恐れたからである。

モルデカイは王の家で大いなる者となり、その名声は各州に聞えわたった。この人モルデカイがますます勢力ある者となったからである。

そこでユダヤ人はつるぎをもってすべての敵を撃って殺し、滅ぼし、自分たちを憎む者に対し心のままに行った。ユダヤ人はまた首都スサにおいても五百人を殺し、滅ぼしたまたパルシャンダタ、ダルポン、アスパタ、ポラタ、アダリヤ、アリダタ、パルマシタ、アリサイ、アリダイ、ワエザタ、すなわちハンメダタの子で、ユダヤ人の敵であるハマンの十人の子をも殺した

しかし、そのぶんどり物には手をかけなかった。 

エステル記も9章に至り物語のクライマックスを迎えます。

アダル月13日はユダヤ人滅亡の運命の日でした。しかるに、王妃エステルの機転で事態は逆転し、ハマンが処刑され敵は打ち破られてしまいます。

邪悪なハマンはホロコストの日をクジで確定しました。だが、その呪われた日がユダヤ人にとり勝利の日と変えられた事実に、見えざる神の摂理を見せられます。

人はくじをひく、しかし事を定めるのは全く主のことである。(16:33) どんな困難な事態に直面しても、神に信頼できることは、現代に生きる者に妥当する真理なのです。神の深いご計画の中に生かされる恵みに感謝しよう。

それにしても、9章に記録されるユダヤ人によるその敵の殺害者数の多さをどう理解すべきなのでしょう。ペルシャ全土で7万5千人を殺害し、ハマンの10人の息子は殺害されたばかりか木に吊り下げられている。そうするように王に嘆願した王妃エステルの人格を疑うべきだろうか。これは主イエスの垂訓の教え「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」の真逆ではなかろうか。

しかしながら、その運命の日に起こったことが、王の名による二つの取り消し不可である有効な勅令に基づいた出来事であったことからして、それが正当防衛の戦いであったと理解されるものです。ユダヤ人達は無抵抗な人々を抹殺したのではなく、周到に武装した敵との白兵戦の結果であったのです。

不義不正な公的な攻撃に対しては生命と権利を防衛する権利が、どの共同体にもあるのです。国内、国際を問わず公の不義に対しては、生命権利防衛のため断固抗議する責任が人にはあるのです。

主イエスが語りかけた時代の弟子達にとり隣人とは同胞であり、家族、友人であり、敵とは異邦人(外国人)でした。そこには差別的な二重倫理が働いていたのです。あのルカ10章の「良きサマリヤ人」で主イエスは隣人愛、愛敵に私たちの目を開かれます。

私たちの個人的関係においては、敵味方なく誰をも差別することなしに、相手の益を図る犠牲的な愛を実践することが求められているのです。それは敵対者のため祈ることによってのみ可能なのです。

2月2日礼拝説教

  「主よ、来りませ」  エステル記8章15〜17節

モルデカイは青と白の朝服を着、大きな金の冠をいただき、紫色の細布の上着をまとって王の前から出て行った。スサの町中、声をあげて喜んだ。ユダヤ人には光と喜びと楽しみと誉があったいずれの州でも、いずれの町でも、すべて王の命令と詔の伝達された所では、ユダヤ人は喜び楽しみ、酒宴を開いてこの日を祝日とした。そしてこの国の民のうち多くの者がユダヤ人となった。これはユダヤ人を恐れる心が彼らのうちに起ったからである。 

 エステル記最後に、ユダヤ人絶滅を画策した邪悪なハマンが敗退し、ペルシャ王の全権を委任されたモルデカイが出現するや全土に歓喜の祝いが満ちます。

「雛型」の聖書解釈によれば、モルデカイはキリストの型です。王の門に座るモルデカイ(2:19) は神の僕キリストの姿です。大声をあげ激しく叫ぶモルデカイ(4:1) は大祭司キリストの姿です。木に吊るされかけたモルデカイ(5:14) は十字架に呪われたキリストの姿です。王の前に来たモルデカイ(8:1) は昇天して神の右に着座するキリストの姿です。そして金冠と朝服のモルデカイ(8:15) は再臨されるキリストの姿なのです。

モルデカイの姿を透かして聞こえるのは、黙示録最後の主の約束と教会の応答です。主イエスの約束、『しかり、わたしはすぐに来る』(22:20)モルデカイからこぼれ聞こえてくるようです。

キリストの花嫁である教会の栄光の望みは主イエスの再臨です。「アァメン、主イエスよ、きたりませ」とその約束に応答するのは、キリストの花嫁である教会なのです。

自然界の混乱、戦争、その噂、経済恐慌、道徳の大敗、宗教上の背教、不義、広範なパニックと混乱の前途に、主イエスは空中に来臨なされ(テサ上4:15) 聖徒を天に引き揚げられます。私たち教会は花嫁として天の小羊の婚姻に預かることになるのです。

荒らす憎むべき者と呼ぶ反キリストに制覇されるであろう世界は最悪の7年を迎え、その最後に主イエスは天から地上に再臨なされ悪の勢力を駆逐し、サタンが底なき穴に封じ込められ、地上には千年王国が到来することでしょう。その時、聖徒らは主と共に世界を治める役割が与えられることでしょう。そして全ての人々の最後の審判ののちに新天新地が到来するのです。

信じる者たちの未来には筆舌に尽きる展望が開けていくのです。これから預かろうとする聖餐式はその意味で重要です。その制定文に「あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。」と勧告されるからです。

罪赦された教会が一致を保つことが主イエスの来臨待望の前提だからなのです。