2月25日礼拝説教(詳細)

「圧倒的な勝利者」  列王記下6:8〜23

アラムの王がイスラエルと戦っていたとき、王は家臣たちと相談して、「これこれの場所に陣を敷こう」と言った。だが、神の人はイスラエルの王に人を遣わして言った。「あの場所は通らないように注意しなさい。そこにはアラムが攻め下って来ますから。」イスラエルの王は、神の人が言った場所に人を遣わし、警告に従って、そこを警戒するようになった。それは一度や二度のことではなかった。

このことによって、アラムの王の心は荒れ狂い、家臣を呼んで言った。「我々の中の誰がイスラエルの王と通じているのか。私に言えないのか。」家臣の一人が答えた。「いいえ、王様。イスラエルにいる預言者エリシャが、寝室でお話しになることさえイスラエルの王に知らせているのです。」するとアラムの王は、「彼がどこにいるのか、捜して来い。人をやって捕まえてやる」と言った。

やがて彼のもとに、「彼はドタンにいる」との知らせが届いたので、王は、馬と戦車、および大軍をそこに差し向けた。彼らは夜のうちに到着し、その町を包囲した。

神の人の召し使いが、朝早く起きて外に出てみると、軍隊が馬と戦車で町を包囲していた。従者が、「ああ、ご主人様、どうしたらよいでしょう」と言うと、エリシャは、「恐れることはない。私たちと共にいる者のほうが、彼らと共にいる者より多いのだ」と答えた。エリシャが祈って、「主よ、どうかこの男の目を開き、見えるようにしてください」と言うと、主はこの従者の目を開かれた。そこで彼が見てみると、山はエリシャを取り囲む火の馬と戦車で満ちていた。

アラム人が攻め下って来ると、エリシャは主に祈って、「どうか目をくらますことによって、この異国の民を打ち倒してください」と言った。主はエリシャの言葉どおり、目をくらますことによって、彼らを打ち倒された。エリシャは彼らに、「こちらは、あなたがたの行くべき道ではない。あちらは、あなたがたの目指す町ではない。私の後に付いて来なさい。あなたがたが捜している人のもとへ連れて行ってあげよう」と言って、彼らをサマリアへ連れて行った。

アラム人がサマリアに着いたとき、エリシャが、「主よ、この者たちの目を開き、見えるようにしてください」と言うと、主は彼らの目を開かれた。そこで彼らが見ると、サマリアの真ん中にいるのであった。イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに、「わが父よ、打ち殺しましょうか。打ち殺しましょう」と言ったが、「打ち殺してはならない。あなたは剣や弓で捕らえた者を打ち殺すのか。彼らにパンと水をやりなさい。そうすれば、彼らは食べて飲み、主君のもとへ帰るだろう」とエリシャは答えた。

王が盛大な宴会を催したので、彼らは食べて飲んだ。王は彼らを主君のもとへと送り返した。アラムの部隊がイスラエルの地に来ることは二度となかった。

昨日24日でウクライナ戦争は丸2年を数えました。両軍合わせてすでに死傷者数は50万を超えています。戦死者数は軍事機密ですから正確には言えませんが数十万を超えています。ウクライナからの難民は1860万人にのぼりました。日本には2302人が難を逃れて来ておられます。この悲惨な戦争の早期終結を私たちは切に祈ることにしましょう。今日の聖書箇所は、戦争を背景にした列王記下6章8〜23節です。朗読し、その上で御言葉の祝福を祈ります。

この箇所の概略はこうです。時代は紀元前850年前後のことです。イスラエルはすでに北イスラエルと南ユダ王国の二つに分裂していました。その北イスラエルが、周辺の敵国アラムの軍隊に攻撃されたところを、預言者エリシャの計らいによって、勝利することができたという戦争物語です。先週の礼拝で覚えておられるでしょうか。私は、旧約時代には最も重要な職務に、王、大祭司、預言者があったとお話ししました。中には一人で二つの職務を兼ねた人物もいました。しかし、三つの職務を兼ね備えた人物は、一人もいませんでした。もし一人が三つの職務を兼ね備えているならば、その人物こそ神の約束された人類救済の救世主、メシアであるとされていました。その兼ね備えた人物が登場されたのです。その方こそ主イエス・キリストであります。イエス様は王です。イエス様は大祭司です。そしてイエス様は神の言葉を語る偉大な預言者なのであります。その偉大な預言者であるイエス様が、この列王記下6章を読む私たちに、光を照す言葉として、こう語っておられます。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」これはヨハネ16章33節の言葉です。

1.不可避の苦難

イエス様は私たちに「あなたがたには世で苦難がある。」と言われました。世とは人の住む世界のことです。世に人として生まれ、育ち、生きるなら、苦難に出会うことは避けられない、と言われるのです。苦難と訳された原語のスリフィスは、苦難、患難、圧迫、悩み、苦しみといろいろ訳される言葉です。それは両側から圧力をかけて押しつぶされるような状況を表す強烈な言葉です。以前にウイーンに10年滞在していた頃、あちらこちらに、葡萄酒を作るために、葡萄の実から汁を絞り出すために昔使用されていた巨大な圧搾器をよく見かけたものです。

この世で出くわすその不可避の苦難・圧迫の典型こそ、預言者エリシャとその召使が経験した出来事でしょう。敵国アラムの王は、繰り返しイスラエルを攻撃し、略奪することで民を悩ませていました。そこで、アラムの王は家臣といつも相談し、イスラエルを敗北させる戦略を練るのですが、どうした訳か、情報が漏れて失敗が繰り返されていました。アラム王は、これはきっと家来の中にイスラエルに密通するスパイがいるからに違いないと疑い激怒します。戦争の勝敗の鍵は、相手方の情報を巧みに探り、その動向を察知することにあることは、古今東西共通です。日本が太平洋戦争でアメリカに敗北した原因は、まさにこの情報戦の敗北にありました。全てが筒抜けだったからです。アラム王がいきり立ち、仲間の裏切りに激怒したその時でした。家臣の一人が立ち上がり、「いいえ、王様。イスラエルにいる預言者エリシャが、寝室でお話しになることさえイスラエルの王に知らせているのです。」(12節)と、スパイのせいでは決してありません、それは、イスラエルの預言者エリシャのせいだと進言したのです。ユーモラスな話しではありませんか。エリシャは盗聴器を王の寝室や、会議室に仕掛けた訳ではありません。ドローンを飛ばして盗聴したのでも、サイバー攻撃を仕掛けてアラム王のパソコンから情報を盗み出したのでもありません。その憎い預言者エリシャが、ドタンの町にいるとの情報が、アラム王に伝わるや、王は直ちに命令を下し、大軍を夜のうちに差し向け、ドタンの町を完全包囲させました。それは、蟻の抜け出す隙間もない程に厳重な包囲であり、預言者エリシャとその召使は、絶体絶命でした。その緊急事態を描いている15節をご覧ください。

「神の人の召し使いが、朝早く起きて外に出てみると、軍隊が馬と戦車で町を包囲していた。」召使は眠気まなこで起きて窓越しに外を見たのでしょう。彼はその事態の深刻さに気づき、びっくり仰天してこう叫ぶのです。「ああ、ご主人様、どうしたらよいでしょう」この召使は、この世で苦難に遭遇する私たちを代表しているのではないですか。私たちも、この世で、この社会で生き抜くうちに、幾たびも「ああ、どうしたらよいだろうか」と呟き、心で埋めき、一人悩むことがあるのではありませんか。

自分事になりますが、私がまだ30代半ばのこと、今の妻と再婚した札幌時代が思い出されます。それまで勤務した教会の牧師を辞め、再婚して札幌に出て、新しい教会を立ち上げる計画を持っていました。ところが簡単には実現できず、私は家族を養うために仕事を転々とした時期が4年ほどあったのです。そんなある日、借りていた一軒家の大家さんが大手の幼稚園経営者で、私を見込んで彼の事務所に採用してくれたのです。彼は、幼稚園を四つ、保育園を7つ、軽費老人ホームを2つ、ゼロから立ち上げたやり手の事業家でした。最初、私には事務所で経理をやらせ、しばらく私の働きぶりを観察した上で、老人ホームなどの管理職に就かせようと考えていたようです。そんなある日のことでした。彼が私に「高木君、次の日曜日に、行くところがあるから私の車を運転してくれないか。」と頼まれました。しかし、私は断ったのです。その日曜日には、私が家族で通っていたノルウエー宣教師の教会の礼拝で通訳をする約束をしていたからです。私は優先順位を大切にするものですから、その約束を守る責任があったので、彼の運転を断ったのです。しかし、それが災いしました。彼は私が完全に経営者に従属する男ではないと判断したためか、後で私を呼びだし、二ヶ月後に辞めるように通告して来たのです。それから二ヶ月間、給料は出してくれましたが、仕事から外されてしまいました。それから毎日、毎日、自分で仕事を作り、廊下を掃除し、ボイラー室等を掃除するばかりでした。その時は、本当に惨めでしたね。それこそ「ああ、どうしたらいいのだろう」としばらくは途方に暮れたものです。

私は、この聖書箇所を読みながら、ふと日本の乱世を生き抜いた徳川家康や伊達政宗のことが思い起こされました。彼らの名文句が今に伝えられ残されていますが、徳川家康の語ったとされる「人生とは重き荷を負うて遠き路を行くが如し」は、余りにも有名ですね。幼少時代から徳川将軍に上り詰めるまでの半生を振り返る時、家康は心底そう言わざるを得なかったのでしょう。乱世を生き抜いたもう一人の独眼竜と言われた伊達正宗は、山形の米沢城主、伊達家の嫡男に生まれています。彼は幼少期に天然痘を患い右目の視力を失い、コンプレックスに悩まされました。23歳で東北地方の大半を支配下に置くという実力者でしたが、戦争で父を失い、産みの母親に毒殺されかかる暗殺未遂事件までも経験し、その後の戦乱の世を、豊臣秀吉、徳川家康の下で生き抜くのは、それはそれは難儀の連続であったようです。そんな政宗が残した名言の一つが、「この世に客に来たと思えば何の苦もなし」です。好きこのんで生まれたわけでもない。客のように招かれた生まれたのだから、何があってもおかしくはない。すごいですね。政宗はこう考えて苦難を耐え抜いて生き延びたのでしょうか。しかし、家康や政宗の言葉を待つまでもありません。主イエス様がこう語られているからです。「あなたがたには世で苦難がある。」私たちの生きる、あなたの生きる、私の生きるこの世には患難、苦難、悩み、苦しみが避けがたい。現実としてこの世には患難が待ち受けている。これが現実であるということです。

.不可欠な勇気

しかしながら、「しかし、勇気を出しなさい。」と主は言われるのです。色々な聖書訳ではこうです。「しかし、勇敢でありなさい。」「しかし、元気を出しなさい。」「しかし、勇敢であり続けなさい。」「しかし、安心していなさい。」「されど、雄々しかれ。」どの訳でもいいですね。では、この列王記下6章のこの危機に直面した場面において、預言者エリシャは召使に何と言ったでしょうか。16節です。召使が「ああ、ご主人様、どうしたらよいでしょう。」と絶句すると、彼に一言、「恐れることはない」と激励したのです。「恐れることはない」そうです。この激励の言葉は一体、旧約聖書に、新約聖書に何回語られていることでしょうか。恐れは人間を萎縮させ、混乱させ、弱体化させてしまうものです。

エリシャの召使は、早朝に目覚めて窓越しに自分たちを取り巻くのっぴきならない状況を察知するや、全身を麻痺させるような恐怖に捕らわれてしまったのです。召使は、そのような状況を察知したとしても、恐れて萎縮するのではなく、勇敢であるべきでした。恐れではなく、元気を出して安心するべきでした。何故ならば、このような混迷する絶体絶命の状態に置かれていたにもかかわらず、実は、安心し元気が出てくる、雄々しくあることができる、本当の現実が存在していたからなのです。エリシャは、すかさず単刀直入にこう明言しました。「恐れることはない。私たちと共にいる者のほうが、彼らと共にいる者より多いのだ」これは、なんという強烈な発言でしょうか。

召使が恐れ狼狽したのは、ドタンの町を十重はたえに包囲したアラムの戦車でした。軍馬でした。おびただしい武装した兵士たちを自分の目で目撃したからです。それはショックでした。それは明らかに否定しがたい現実です。夢うつつでは毛頭ありません。ところが実は、それを遥かに遥かに圧倒的に凌駕する超現実があったのです。預言者エリシャに見えて、召使に見えていない現実があったのです。それは、アラムの大軍とは比較にならない天の大軍勢でした。火でぼうぼうと燃える馬と燃える戦車でした。その天の軍勢がドタンの位置する山の周辺を埋め尽くしていたのです。

エリシャはこの時、祈っていいます。「主よ、どうかこの男の目を開き、見えるようにしてください」するとどうでしょう、従者の目は開かれ、彼は、それまでは全く見えなかったもう一つの現実を、そこに確かに直視することができたのです。「そこで彼が見てみると、山はエリシャを取り囲む火の馬と戦車で満ちていた。」恐れを振り払い、勇気を出し勇敢でありえる秘訣がただ一つあります。それは、心の霊の目が開かれ神の現実を見ることです。私たちは、私たちを取り巻く現代世界の屈折した状況を見るときに、あのエリシャの召使のように「ああ、どうしたらよいでしょう。」と言わざるを得ないのではないでしょうか。

ロシアがウクライナに軍事侵攻を開始し、2年が経過したこう着状態を見るときに、そう思わざるを得ません。ガザ地区のハマスがイスラエルに攻撃を仕掛け、1200人のイスラエル人が惨殺され、イスラエルがハマス殲滅作戦を開始した結果、200万人のアラブ人の住むガザ地区が地獄の様相を呈している有様を見せられるときに、私たちは「ああ、どうしたらよいでしょう」と言わざるを得ません。今現在すでに配備される核弾頭を米国が1770、ロシアが1674も保有しているのを見るときに、私たちは「ああ、どうしたらよいでしょう」と言わざるを得ません。しかし、心の霊の目が開かれ、真の意味での神の支配の現実を見ることができたなら、恐れは吹っ飛んでしまうのです。私たちの心は勇気に満ち溢れ、元気を取り戻し、平安に満たされるに違いありません。この私たちの世界を取り囲む天の万軍の軍勢と、比較するならば、現代の国々のどの軍事力を取っても、それは茶番に過ぎないのです。神様の目には戯れに過ぎないのです。

詩篇2篇は、昔イスラエルで王の即位式で歌われる詩でした。しかし同時にこれがメシア預言であることをご存知ですか。「なぜ、国々は騒ぎ立ち諸国の民は空しいことをつぶやくのか。なぜ、地上の王たちは立ち上がり君主らは共に謀って、主と、主が油を注がれた方に逆らうのか。「彼らの枷を壊し、その縄を投げ捨てよう」と。」(1〜3節)そして7〜9節にこうも預言されるのです。「私は主の掟を語り告げよう。主は私に言われた。「あなたは私の子。私は今日、あなたを生んだ。求めよ。私は国々をあなたの相続地とし地の果てまで、あなたの土地としよう。あなたは彼らを鉄の杖で打ち砕く陶工が器を叩きつけるように。」」ここで、「あなたは私の子。私は今日、あなたを生んだ。」のこの「あなたは私の子」と呼ばれるのは誰のことですか。これは主イエス・キリストの預言なのです。十字架に架けられ埋葬されたキリストは、復活昇天され、天の父なる神様の右に着座され、天においても地においても一切の権能を授けられた主権者です。王の王、主の主なのです。キリストはしようと思えば、いかなる国々の軍事力も鉄の杖で打ち砕く陶工が器を叩きつけるように、粉砕することができるお方なのです。

イザヤ40章で語られる預言をご存知ですか。何節かを抜粋して読み上げますが、もうそれだけでも十分に理解することができるでしょう。15節です。「見よ、諸国民は手桶の滴のように、天秤の埃のように見なされる。見よ、主は、島々を細かい塵のように持ち上げられる。」22節です。「主は地を覆う天蓋に住まわれる方。地に住む者はばったのようなもの。」23、24節です。「主は君主たちを無とされる方。地を治める者を空しいものとされる。彼らは植えられる間もなく、蒔かれる間もなく地に根を張る間もない。主がこれらに風を吹きつけると枯れ、暴風がわらのように巻き上げる。」私たちの目に、現代の大国の軍事力や経済力が、たとえ途方もない破壊的な脅威に見えたとしてもです、神の目には、手桶の滴なのです。天秤の埃なのです。細かい塵なのです。イナゴやバッタに等しいのです。吹き飛ばされる藁にすぎないのです。ですから、勇気を出しましょう。安心してよろしいのです。恐怖によって萎縮する必要はさらさらないのです。

III. 究極的な勝利

見てください。この列王記下6章の戦闘の結末は、預言者エリシャがもたらす決定的な勝利で終わっています。エリシャは主に祈りました。「どうか目をくらますことによって、この異国の民を打ち倒してください」エリシャは、召使の目を開くよう祈り、アラムの敵軍の目をくらますように祈りました。その挙げ句に、エリシャは目のくらまされたアラム軍を、イスラエルの領内に誘導し、イスラエルの王の前に見事に捕虜として連れ来ったのです。この以外な結末を見たイスラエルの王は、エリシャに敵の捕虜の殺戮許可を求めてこう訴えます。「わが父よ。打ち殺しましょうか。打ち殺しましょう」しかし、エリシャは「打ち殺してはならない。」と制止しました。そればかりか、「彼らにパンと水をやりなさい」と王に命じます。その結果、王は盛大な宴会をアラムの敵軍のために主催し、彼らは食べて飲んで、アラムの主君の元へと送り返されたというのです。それは言葉を変えて言えば、愛による究極の勝利でした。敵をも愛する愛敵精神の表れでした。ここに、主イエス・キリストの語られた「勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」と語られる世に対する勝利が指し示されているのです。

世とは私たちの生きる人間の世界のことです。そしてこの世には全ての人間を支配する恐るべき力が三つあり、この世の支配力に主は勝利されたのです。人間を支配するこの世の力は、サタンの力です。サタンは神と人に敵対する堕落した天使長ルシファです。エデンの園で最初の人アダムとエバを罪に誘惑したサタンは、この世の君であり、全ての人が罪を犯すように誘惑する恐るべき存在であることに、今も変わりありません。

人間を支配するこの世に働く力はアダム以来、人間に引き継がれている原罪の力です。オリジナル・シンです。聖書は「一人の人によって罪が世に入った」(ローマ5:12)と言います。一人の人とはアダムのことです。人類の始祖アダムが罪を犯したために、全ての人が生まれながらにして罪人であり、全ての人が神に反抗的であるのはこの罪の力によるのです。「人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっている」と聖書が言うのはその意味です。殺すなと言われているのに人が人を殺すのは罪人だからです。姦淫するなと言われているのに、男が婚外の女と、女が婚外の男と性的な罪を犯すのは罪人だからです。偽るなと言われているのに、嘘をつくのは罪人だからです。貪るなと言われているのに、貪欲なのは罪人だからです。物を落とせば、万有引力が作用して、下に必ず落ちるように、罪の力が作用するので、人は自分の意志に逆らってでも、罪過ちを犯してしまうのです。

人間を恐怖に陥れるこの世の力のもう一つは、避けることのできない死の力です。聖書は言います。「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、全ての人に死が及んだのです。全ての人が罪を犯したからです。」(ローマ5:12)誰も死にたくありません。先週のこと、79歳の私の親戚の男性が亡くなったと連絡を受けました。死んでも火葬場は二週間予約で埋まっているので、とりあえず身内3人で家族葬を済ませたとのことでした。火葬場が二週間予約済みだとは、裏返せばどんどん容赦なく人が死んでいると言うことです。死は恐怖の王様です。不死の薬があれば飛ぶように売れることでしょう。しかし、人の死は人間を支配し、誰も死を免れることは許されません。

イエス様はこのサタンと罪と死が支配する世にすでに勝ったと言われたのです。どのようにして勝利されましたか。十字架に磔にされることによってです。最後の晩餐の席上でイスカリオテのユダが、イエスからパンを受けた瞬間でした、「サタンが彼の中に入った。」と聖書は証言します。サタンに唆(そそのか)されたユダは、銀貨30枚を得て、敵対する祭司たちに主イエスを売り渡してしまいました。大祭司はイエスを有罪と断定し、ピラトに死刑執行を要求、イエスはローマでも大罪人を処刑する極刑の十字架に磔(はりつけ)られました。その結果、イエス様は罪人として十字架上で死なれたのです。

サタンの力、罪の力、死の力に完敗したかのようです。ところがどうでしょうか。イエス様は復活されたのです。それはサタンに対する勝利です。それは罪に対する勝利です。それは死の力に対する勝利です。死は勝利に飲み込まれてしまったのです。イエス様は、この恐るべき十字架の受難を、私たち人間に勝利をもたらすために、愛するが故に耐え忍ばれました。サタンの力、罪の力、そして死の力に勝利されたイエス様を信じる者は、それゆえに究極的な勝利者とされるのです。

あのドタンの町にいたエリシャと召使が、アラムの大軍団に包囲されたように、私たちもまた、患難、悩み、苦しみに圧迫されることがあるでしょう。しかし、恐れることはないのです。イエス・キリストが世に対して、十字架の死と復活で勝利されたので、信じる者は勝利者であるからなのです。ローマ8章35節に証言されています。「誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。苦難か、行き詰まりか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。しかし、これらすべてのことにおいて、私たちは、私たちを愛してくださる方によって勝って余りあります。」口語訳は「これらすべての事において勝ち得て余りがある。」と訳します。別訳では「これらすべての(苦難の)中にあって、わたし達は悠々と勝つことができる。」そして新改訳は「圧倒的な勝利者となるのです。」と大胆に表現しています。

今日、改めて祈りましょう。「主よ。どうぞ、私の心の霊の目を開いてください。」と祈りましょう。私たちを取り巻く状況がどれほどに混迷し、錯綜し、混乱し、強圧的であったとしても、それら全てを圧倒する神様の愛と全能の支配の現実を悟らせていただきましょう。この新しい週の歩みの中で、恐れに捕らわれ、「ああ、どうしたらよいのでしょう」と心が塞いでいる方がいるならば、そっと寄り添い、謙遜に執りなし祈り、神様の愛の支配を共有させていただきましょう。「恐れることはない。私たちと共にいる者のほうが、彼らと共にいる者よりも多いのだ」

2月18日礼拝説教(詳細)

「時機を得た助け」  ヘブル4章14〜16節

さて、私たちには、もろもろの天を通って来られた偉大な大祭司、神の子イエスがおられるのですから、信仰の告白をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点で同じように試練に遭われたのです。それゆえ、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜に適った助けを受けるために、堂々と恵みの座に近づこうではありませんか。

聖書はヘブル4章14〜16節を読みます。その最後の16節は「時宜に適った助けを受けるために、堂々と恵みの座に近づこうではありませんか。」と力強い呼びかけで終わっています。「時宜に適った助け」あるいは「時機を得た助け」と聞けば、つい最近起こった能登半島を襲った震度7.5の大地震を思い出さないわけにはいきません。被害の甚大さが明らかになるにつれ、倒壊した家屋の下敷きになっている生存者を救出するために、次々と救助隊が派遣されました。文字通り時機を得た助けを与えるため、自衛隊が動きました。都道府県からも続々と救助隊員が派遣されました。このような災害時には訓練された救助犬が大活躍です。それは、72時間以内に助け出さなければ命に関わるからです。それでも242人が亡くなられたことは非常に残念至極であります。

I. 助けの必要

では、聖書のこの箇所で、私たちが受けるように勧告されている「時機を得た助け」とは、一体どのような意味なのでしょうか。

  助けの意味

私たちの日本語で言うところの助け、或いは助けるとは、「倒れるのを支える、力を添える、危難を救う、過ちがないようにする、傷や病の手当てをする」と色々な意味合いで使われています。ではこの聖書の原語で「助ける」はどうかと言いますと、実は二つの動詞、一つは「叫ぶ」、もう一つは「走る」が合体して合成された言葉なのです。即ち、悲鳴を聞いて駆け寄る、それがすなわち「助ける」なのです。イエス様がカナン地方に行かれてときです。自分の娘が悪霊に苦しめられている母親が、助けを求めて叫びました。「主よ、私を助けてください。」(マタイ15・25)別な町で、イエス様のもとに、息子が癲癇(てんかん)の痙攣(けいれん)で苦しんでいた父親が、助けを求めた場合もそうでした。彼は訴え「もしできますなら、私どもを憐んでお助けください。」(マルコ9・22)と叫びました。彼らが「助けてください」と叫ぶ時、それは、「私たちの悲鳴を聞きつけて、イエス様、急いで来て何とか助けてください」という意味でしょう。

②助けを必要としない人

しかし、助けがそのような緊急の意味であるならば、ほとんどの人は助けを必要とはしません。この場合、ほとんどの人というのは、人間として自立している人のことです。自分で自分のことをきちんと律して生活することができている人のことです。自立した人間は、自分の生活の中に目的をきちんと設定することができ、その目的を達成するための計画を順序立てて作ることもでき、しかもそれを着実に実行することのできる人です。自立しているだけでなく、他の人と行動を共にすることの出来る共同・共立した人もほとんど助けを必要としません。自分の出来ることと、相手の出来ることの違いを理解し、お互いがお互いを必要として仲良く協力し合うことができる人は、大声で悲鳴を挙げて助けを叫び求めることはほとんどありません。

  助けを必要とする人

しかしでは、ここでこの聖書箇所で、「助けを受けようではありませんか」と呼びかけられている人、即ち助けを必要とする人とは誰のことでしょうか。それは、どう見ても娘が悪霊に取り憑かれた母親のようでもありません。癲癇に苦しむ息子の父親のようでもありません。自立し、共立・共同したしっかり自活した人でもありません。14節でその冒頭に「さて、私たちには、、、」と呼びかけている人、そして呼びかけられている「私たち」とは誰のことでしょうか。それは同じ14節の次の言葉、「信仰の告白をしっかり保とうではありませんか。」という言葉で明らかです。それは、心から神を信じ告白している人々のことなのです。

人間が一人の人間として、根本的に大切な要素は、第一にしっかり自立していることです。第二に他者と共同できる共立していることです。もうそれで申し分ないようです。しかし、そうではありません。これが決定的に重要なのですが、自立し共立し、なおかつ神を畏れ敬い信じ従う人であることなのです。信仰によって立つ人、信立する人と言ったらいいでしょうか。では、どうして信立する人、神を信じて立つ人が、「時機を得た助け」を必要とするのですか。それは、神を信じる人のみが、人間としての生きる目標を自覚することができ、その目標を目指す人生は、試練と誘惑の連続であって、自分の力では到底、目標を達成できないことを自覚するからなのです。

聖書を理解する原理原則の一つは、文脈に照らして読むことであると、以前にも紹介しました。その原則に従い、この16節の勧告文が置かれている文脈を辿ると、3章の7節まで遡ることになります。見てください。そのタイトルは「神の民の安息」となっています。実はこのテーマの流れにこの4章16節の勧告はあるのです。ここに何が書かれているか概略を言えばこういうことになります。昔、イスラエルの民は、エジプトに430年の長きに及んで奴隷とされていました。しかし、神様の憐れみにより、遣わされたモーセを通して彼らは奴隷から解放され、安息の地と呼ばれた、約束のパレスチナに旅立ちます。しかしながら、彼らの大半は、40年に及ぶ荒野の旅路において誘惑に負けて罪を犯し、安息の地、パレスチナに入ることができませんでした。この歴史的事例を取り上げ、3章の13節には、こう勧告されているのです。「きょうだいたち、あなたがたのうちに、不信仰という悪しき心が芽生えて、生ける神から離れ去る者がないように気をつけなさい。」

ここで勧告されている「きょうだいたち」と誰に対して語られたでしょうか。それは聖書を読んでいる、現代に生きる神を信じるキリスト者に対してなのです。キリスト者が最終的に人生の目標として目指すのは、エジプトを脱出したイスラエルの民のようにパレスチナではありません。4章の10、11節を見てください。更にこう勧告されることによって、それが何かが明らかになります。「実際、神の安息に入った者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだのです。だから、私たちはこの安息に入るように努めようではありませんか。さもなければ、同じ不従順の例に倣って落伍する者が出るかもしれません。」

キリスト者が最終目標と定めるのは神の安息です。この安息とは、人生を終えた死後に備えられた永遠の安息のことなのです。黙示録14章13節にこうあります。「また私は、天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主にあって死ぬ人は幸いである。』」霊も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」」主にあって死ぬ人は幸いだと言われます。何故ですか。永遠の安息に入るからです。

2月号のアッセブリー誌の表紙を読まれたでしょうか。矢吹牧師が、米国A G教団の元総理・ジョージ・ウッド先生の逸話を紹介されています。私には忘れることのできない非常に懐かしい器です。まだ若い時代に東海教区聖会でウッド先生が講師として説教されたことが思い出されます。また教職修養会でも説教されたことが想起されます。米国において大きな教会を牧会されておられたウッド先生は、2007年に米国アッセブリー教団の総監督に就任され、10年後の2017年に引退されました。その10年間の働きは素晴らしく、在任中、同教団は一貫して拡大を続け、信徒数は10年間で286万人から320万人に増加。34万人です。また、教会数も過去最高の1万3023件に達した、とクリスチャニティ・トデイが報じていました。しかしその後、癌を患い22年にはコロナに感染され80歳で召天されておられます。

80年間のウッド先生の人生の目標は何でしょうか。それは信徒数、教会数の増加でしょうか。それは職務上の目標です。しかしウッド先生個人の人生目標は、どこまでも永遠の安息であったのです。今、先生は黙示録14章に記されているように「労苦を解かれて、安らぎを得て」おられるに違いありません。

  助けを必要とする理由 

しかしながら、ウッド先生のように偉大な働き人が、どうして助けを必要とされるのですか。労苦を解かれて安らぎを得るためには、「時機を得た助け」が、ウッド先生とても絶対的に不可欠なのです。それは短い私たちの人生が、荒野の旅路のように誘惑と試練の連続であるからなのです。最初の人間、アダムとエバはエデンの園で禁断の実を食べるようサタンにそそのかされて誘惑に負け堕落してしまいました。神に選ばれたアブラハムの末から神の民イスラエルが起こされましたが、彼らも荒野の旅路で誘惑に負け、約束の地に入ることができませんでした。11節を見てください。「だから、私たちはこの安息に入るように努めようではありませんか。さもなければ、同じ不従順の例に倣って落伍する者が出るかもしれません。」このように警告されているのは、私たちの人生の旅路には、信仰から落伍させようとする試練、誘惑が待ち受けているからです。どんなに自分はしっかり自立していると自認し自信がある人でも落伍してしまいます。どんなに周囲の家族や友人知人、同僚と結束し共同・共立できていても落伍してしまいます。狡猾なサタンが、虎視眈々と狙いを定め、つまづきのワナを仕掛け、セットして待ち受けているからです。

II. 助けの提供

しかし安心してください。私たちの人生の旅路において、時機を得た助けを提供される方が、確かにおられるからです。その方こそ偉大な大祭司であるイエス・キリストなのです。

①大祭司であるキリスト

イエス・キリストが時機を得た助けを与えることができるのは、それは偉大な大祭司だからです。旧約聖書時代には、霊的に重要な三種類の務めがありました。国を統治する王、神の言葉を語る預言者、そして、神殿に仕える祭司でした。王は、国を敵の手から守る政治的指導者です。預言者は、神に代わって神の言葉を民に取り継ぐ語り手です。しかし、祭司は、神の民を代表して神の前に近づく執りなし手なのです。祭司は、民に代わって神に向かい、神に近づく働きを担いました。祭司は民が携えてくるものを集め、神に持ち運びました。それは民の携える供物であり、また、民の必要、困難、痛み、病、渇望、希求、神の民の状況を神の前に運ぶ役割でした。その神の前における大祭司の役割を、今現在、私たちのために全面的に引き受けておられる方こそ、イエス・キリストなのです。この4章14節からの語り出しは、イエス・キリストが大祭司であることを語る10章までの、実に6章分の序文なのです。

  天を通られたキリスト

このイエス様が、私たちに時機を得た助けを提供される大祭司であることを確証するのは、イエス様が、歴史の時間と空間において、大祭司として「諸々の天を通ってこられた」方であるからです。イスラエルには旧約聖書から続く、制度上の祭司階級が存続していました。アロンの家系が代々、世襲制で祭司職を引き継いでいました。しかし、イエス・キリストは全くそれとは別に、神様がお立てになられた大祭司であられます。「諸々の天を通ってこられた」大祭司です。詩篇148篇4節などでは「天の天よ、天の上にある大水よ、主を賛美せよ」と歌われています。使徒パウロなどは自分が「第三の天にまで引き上げられた」と言っていることから、第一の天は、鳥が飛び交い、雨や風が降り吹く大気圏を指し、第二の天とは、銀河宇宙のこと、第三の天は神がおられる領域とする理解もあります。

ここに「諸々の天を通ってこられた」と語られるのは、第一にイエス様が、天の御座を離れ、乙女マリアより人間として生まれたことを指します。神の子が人となられたその目的は、罪なき人であるイエス様が、人類の身代わりとなり罪の赦しを得させるため、十字架で犠牲になるためでした。「諸々の天を通ってこられた」とは更に、十字架で死なれ、黄泉に降られましたが、三日目に復活され、40日後に昇天され、天の父なる神の右に着座されたことを指し示しています。これこそ、歴史上実際に起こった出来事です。神の子イエス様は、天から降り、天に昇られ、今や権威ある神の右に着座されておられます。

何をされていますか。それが大祭司としての働きなのです。ローマ8章34節に聖書ははっきりと書かれています。「誰が罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右におられ、私たちのために執り成してくださるのです。」今や、天においてイエス様は大祭司として、私のため、あなたのために執りなしておられるのです。

  同情できるキリスト

しかも、この大祭司であるイエス様は、私たちの弱さを完全に同情・同感することのできるお方です。「この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく」(15節)何故ですか。その理由が次に記されています。「罪は犯されなかったが、あらゆる点で同じように試練に遭われたのです。」この点を、ヘブル2章17、18節も鋭く解説していますから読みましょう。「それで、イエスは、神の前で憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を宥(なだ)めるために、あらゆる点できょうだいたちと同じようにならなければなりませんでした。事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」この同情とは、思いやる、同じ経験を共有するという意味です。ギリシャ語のスンパセスは、英語のシンパシーの語源でもあり、スン(共に)パセオー(感じる)の合成語です。イエス様は、私たちを同情できる、私たちの試練、苦しみ、悩みを私たちと一緒に感じることがおできになる。それはご自分でも試練を受けて苦しまれたからなのです。

この「私たちの弱さ」とは、誘惑に屈服しやすいということです。自分では大丈夫だと自認しても屈服してしまいます。しかも、イエス様が味わったのは、単なる人間の弱さ程度ではないのです。ウエストコットの説明は絶妙です。「試みの中にある罪人に同情できるのは、罪を経験されたからではない。罪の無い方だけが、最も強烈に感知する誘惑の力を経験されたからである。堕落する者は、誘惑の力が頂点に達する前に屈服する」そうです。私たちは誘惑の頂点に達する前に、やられてしまうのです。しかし、罪なきイエス様だけが、誘惑の頂点を見極め感知されたのです。マタイ、マルコ、ルカの全ての福音書に記録されたイエス様の荒野の試練はその意味なのです。主はパンの誘惑、神殿飛び降りの誘惑、栄華・権力の誘惑に勝利されました。ですからイエス様は、私たちに弱さを思いやることができるのです。同情することがおできになるのです。弱い私たちの側に黙って寄り添ってくださいます。共にいて私たちの話を聞いてくださいます。「そうか、そうか」とうなづいてくださるのです。

  憐れまれるキリスト

その上、イエス様は私たちを憐れみ、共に苦しみ、共に耐えてくださる大祭司なのです。イエス様が癒しと解放の働きをなされたその動機は、深い心からの憐れみでした。マタイ9章36節に「また、群衆が羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」とあります。この「憐れまれた」は別訳では「かわいそうに思われた」となっており、そこにはスプラングニゾマイという特別な言葉が使われ、これは本来「腹わたが痛む」という意味なのです。腹が捩れるように痛むことです。それはその相手の痛みを自分の痛みと受けとめ、その相手の状態の中にどっぷりと浸りきることです。これが神の子が私たちと全く同じ人間となられた受肉の奥義です。「あらゆる点で兄弟である私たちと同じになること」それが助けのために必要であったのです。その憐れみの最大の極限が十字架の受難でした。主は十字架上において、人間の経験しうる全ての苦しみを引き受けられたのです。それゆえに、人生の様々な試練に苦しむ人を主は助けることができるのです。

III. 助けの受容

そういうわけですから、この偉大な大祭司イエス・キリストの時機を得た助けを受けるよう、今日この聖句より勧告されているのです。「時宜に適った助けを受けるために、堂々と恵みの座に近づこうではありませんか。」時機を得た助けを受ける場所がどこにありますか。それが恵みの座なのです。恵みの座とは礼拝に預かることです。二人、三人がイエス様の御名によって集まること、それが恵みの座なのです。クリスチャンたちの集まり、エクレシアは、そこで神の助けを確かに受け取ることのできる恵みの座なのです。時機を得た助け、時宜に適った助けを受ける恵みの座が礼拝なのです。神様は天地万物を一週間で創造され、七日目を休み安息日としました。6日目に造られた人間の翌日は安息日だったのです。人間は最初から安息に入るよう創造されたのです。私たちは、こうして日曜日ごとに礼拝しようと教会に集まることで、永遠の安息の前味を経験させられているのです。この礼拝で私たちは神様を褒め称え、賛美を捧げ、祈りを捧げています。

先週のこと、福音賛美歌手の工藤篤子さんから、ニュースレターが届き、そこに、北欧のノルウエーで生まれた有名な讃美歌「この手を組んで」が紹介されていました。この讃美歌は、ビュエルクハイムという優れた神学者の作詞によるものです。彼は97年の生涯に15000もの讃美歌を作詞したと言われます。この讃美歌は、中国から帰国したある宣教師が「世界で一番大きな力を持っているのは、アメリカでも、中国でもロシアでもない。手を組んで祈る人だ。」と語った言葉がビュエルクハイムさんの心に深く残り、この詩が生まれたそうです。1節はこうです。「私の小さな手は、何もできないけれど、この手を組んで祈る時、神の御手が動く、応えは必ずやってくる、神の時が来れば、『私があなたを助ける』と主の約束があるから」2節はこうです。「愛する人のために、傷ついた人のために、泣きながら叫びながら、祈る日もあるけど、応えは必ずやってくる、神の時が来れば、『私があなたを助ける』と主の約束があるから」そして3節はこうです。「主イエスの御名によって、祈りはきかれている、いつの日か天国で、すべて分かるだろう、応えは必ずやってくる、神の時が来れば、『私があなたを助ける』と主の約束があるから」そうなのです。この小さな手を組んでイエス様に祈る時に必ず助けを受けることができるのです。時機を得た助けを受けることができるのです。

「堂々と恵みの座に近づこうではないか」そうです。ビクビクはばかり祈らなくていいのです。型にはまったよそよそしい祈りではある必要はありません。真夜中の心配と不安から大声で泣き叫ぶ子供のように大胆に祈ることが許されているのです。あなたの時機を得た助けとはなんでしょうか。今日、堂々と恵みの座に近づこうではありませんか。

211日礼拝説教(詳細)

「帳簿黒字の秘訣」  ピリピ4:10〜20

さて、あなたがたが私への心遣いを、ついにまた表してくれたことを、私は主にあって非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。

物欲しさにこう言うのではありません。私は、自分の置かれた境遇に満足することを学びました。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹することにも、飢えることにも、有り余ることにも、乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強めてくださる方のお陰で、私にはすべてが可能です。

それにしても、あなたがたは、よく私と苦しみを共にしてくれました。フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、私が福音の宣教の初めにマケドニアから出かけて行ったとき、会計を共にしてくれた教会は、あなたがたのほかに一つもありませんでした。テサロニケにいたときにも、あなたがたは私の窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。

贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの帳簿を黒字にする実りを求めているのです。私はあらゆるものを受けており、有り余るほどです。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って、満ち足りています。それはかぐわしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。

私の神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスにあって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。私たちの父なる神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

御名を崇めます。今日、聖書はピリピ4章10〜20節をお読みします。この聖書箇所は、使徒パウロが、自分の宣教によって誕生したピリピの教会に対する贈り物の感謝を述べている箇所です。ピリピは、マケドニア地方の都市で、パウロが第二次宣教旅行で、不思議な幻に導かれて福音を伝えた町でした。パウロはトルコ地方を旅しているとある夜、「マケドニアに来て、私たちを助けてください。」と人が懇願する幻を見せられました。そこで彼は、これは神がマケドニアに福音を伝えるために招いておられるのだ、と確信させられたのです。そのマケドニア地方の最初の町がピリピだったのです。

さて、この箇所の表題は「贈り物への感謝」となっているのですが、しかしよくよく読んで分かることは、ここでパウロは一言も「感謝します。ありがとう。」とは語っていないことです。ですから、ひねくれた注解者の中には、この箇所を「感謝なき感謝」と呼ぶのです。ではこの「感謝なき感謝」によって、ピリピ教会の贈り物について、使徒パウロは何を語ろうとしたのでしょうか。それは実は献金の意味、献金の在り方なのです。今日、この礼拝でも最後に献金の時がありますが、そこで席上献金を捧げる方もあれば、あるいは袋で十一献金を捧げる方もおられるでしょう。教会は教会員の自発的で自由な献金により維持され運営されるものです。それはまた同時に、献金なされる皆様の経済生活にも関わる事柄、物質に関わる事柄でもあります。家計の収支バランスが崩れて、もし毎月毎月赤字続きであれば、それこそ献金するどころではないでしょう。たっぷり収入があって、ゆとりがあるから献金するのではありませんが、借金までして献金するのもおかしな話しです。16、17節に注目してください。パウロはこう語るのです。「テサロニケにいたときにも、あなたがたは私の窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの帳簿を黒字にする実りを求めているのです。」私は今日、この聖書箇所から帳簿を黒字にする秘訣を三つ見つけましたので、皆様と是非分かち合いたいと思うのです。

1.満足すること

その秘訣の第一は11節「私は、自分の置かれた境遇に満足することを学びました。」にあります。パウロはそれがどういうことかを更に具体的に12節でこう語ります。「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹することにも、飢えることにも、有り余ることにも、乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」帳簿を黒字にする秘訣はこれです。パウロはサラッと「私は、自分の置かれた境遇に満足することを学びました。」と一気に語りますが、満足する、満ち足りるのは簡単なことではありません。「ああ!十分だ!もうこれでいい!満足だ!」そういう気分に人は簡単にはなれないのです。むしろ、「ああ!不十分だ!足りない!とても満足できない!もっともっと欲しい!」そう思うのが普通なのではないですか。

最近の報道でよく取り上げられるのが春季労使交渉の行方です。労働組合の経営者側との賃上げ交渉です。最近の物価上昇に給料ではやっていけないからベースアップをするように経営者側と粘り強く交渉しようとする働きかけです。それは許された労働運動であり、労働者の権利と生活を守るための合法的な交渉です。しかし、どれだけ賃上げで給料が上がっても「ああ!満足だ!」という気持ちにはなれないではないですか。では億単位の資産を有する富裕層はどうでしょう。定期国会が開会されていますが、国会は裏金議員問題で大揺れに揺れています。先日の質疑には、自民党の幹事長だったある人物が5年間で50億円の政治活動費を支給されていたことが指摘され、用途が報告されなければ脱税ではないかと追求されていました。お金は生活に必要不可欠ではあっても魔物なのです。

フランスの作家のグスタフ・フローベルがこう喝破しています。「欲望に吹き付けるあらゆる風の内で、金銭欲ほどに冷たく破滅的なものはない。」そのことを熟知していたからこそパウロは、ピリピ教会からの贈り物を受け取った際に、簡単に単純に「ありがとう。感謝します。」とは言わなかったのです。パウロ程、福音の宣教と献金の関わり合いについて配慮した人物はいません。パウロは、福音に仕える牧師や伝道者が、福音によって生活すること、即ち、所属する教会から給与を得て生活するのを当然としています。しかし、パウロ自身は、その生涯に渡って、福音宣教をしながら他の教会から援助を受けることを原則として避けました。自ら手で働き収入を得て生活し、宣教に従事しました。彼は天幕造りで働いて生活費を得たので、そこから、働きながら伝道する人をテントメーカーと現代でも呼ぶようになっています。 しかし、彼にとって、マケドニアのピリピ教会は例外だったようです。パウロはピリピでの短期間の働きを後にし、テサロニケやギリシャへと宣教活動を広げるのですが、そういう彼の活動を経済的に支援するため、ピリピ教会は何度も動いたようです。18節には、その贈り物を届ける役割を果たしたのが、エパフロディトだと記されていますね。

その宣教を支援し贈り物を届けてくれたピリピ教会に対して、パウロは、この手紙で「私は、自分の置かれた境遇に満足することを学びました。」と語ることによって、実は健全な経済観念の模範を示したのです。パウロの宣教活動が如何に困難であったかは、コリント第二の11章23〜29節に、率直に語られています。27節ではこう語ります。「苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」こんな厳しい生活であっても果たして本当に「自分の置かれた境遇に満足する」など、あり得るものでしょうか。

この「満足する」ことについては、日本の諺にも、「起きて半畳寝て一畳」というのがあります。それに更に「天下とっても二合半」が付けられています。これは坐禅を重んじる曹洞宗の教えです。起きて座禅するには半畳あれば十分、夜寝るには畳一畳あればそれで十分。生活に広い場所はいらない。食べる量も決まっている。仏教でも満足すること、足ることを教えています。しかし、そんな悟りの境地に修業すれば入れるというのでしょうか。

パウロが「境遇に満足することを学びました」というと、なんとなくそんな響きがしないでもありません。しかし実は違うのです。それは自分の努力や、修業や、鍛錬ではない。13節でパウロははっきりとこう告白するのです。「私を強めてくださる方のお陰で、私にはすべてが可能です。」「私を強めてくださる方」と誰ですか。そうです。イエス様なのです。ダマスコ途上でクリスチャンを迫害していたパウロを救われたイエス様です。イエス様は、あらゆる境遇に足る模範をその生き様で示されたばかりか、満足できるようにする力をも下さる。パウロでさえも、イエス様が強めてくださらなければ、自分の置かれたどんな境遇にも足ることなど、到底できなかったのです。経済的に自分の会計帳簿を黒字にする秘訣はこれです。イエス様によって強めていただくことです。どんな貧しい状況でも、豊かな状況でも、足ることが出来る、満足することが出来るということであります。どうして満足することが出来るのか。それは、キリストにつつまれているからであります。私という存在が、キリストの中にある。私の全てがキリストの御手の中にある。貧しくても豊かでも、全てはキリストによって与えられ備えられたものであり、それ故に感謝をもって受け取ることが出来るということなのであります。そうすれば、不平、不満に陥ることはないのです。

.献げること

帳簿黒字の第二の秘訣は、17節です。「贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの帳簿を黒字にする実りを求めているのです。」初めに言いましたように、パウロはピリピ教会の贈り物について語っています。そして、その贈り物とは、明らかに使徒パウロの宣教活動を支援する献金でした。15節でも「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、私が福音の宣教の初めにマケドニアから出かけて行ったとき、会計を共にしてくれた教会は、あなたがたのほかに一つもありませんでした。」とパウロはピリピ教会に語りかけています。

この15〜18節の箇所には、日本語でははっきりしませんが、沢山の商業用語が使われているのですね。18節で「私はあらゆるものを受けており、有り余るほどです。」とパウロが語る場合に、この「受けており」という言葉は、領収書を書く際に使用される用語で、「領収書をお渡しします。全額受領いたしました。」の意味なのです。そして、17節で「あなたがたの帳簿を黒字にする実りを求めているのです。」という場合の「実り」とは経済用語でいうところの「利子・利息」のことなのです。これによってパウロがピリピ教会に言わんとしたのは、それは、教会がパウロに送ったとされる贈り物、献金は、確かに直接に受領したのはパウロ個人ではあっても、それはどこまでも神に対する献金であるということなのです。何故ならば、18節の最後にこうパウロは語っていますね。「それはかぐわしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。」この「香り」は原語でユーオディアです。あのクリスチャン演奏家のユーオディア楽団の名称の由来です。旧約の時代の神の民は、天幕で礼拝をする際に香料を焚きました。献金はその神に捧げる香料のようなのです。

献金の本質的な意味は神様に捧げる性質のものなのです。贈り物を直接に受領したのは使徒パウロですが、それは、神様への捧げ物なのです。人から人に手渡される献金もその間に神様が入らなければ問題になります。それが贈り物でも、援助金、支援金の場合でも、とかく問題が起きがちです。贈った人は、それによって相手に対して「与えてやった」という優越感が起こるかもしれません。受け取った人はまた、卑屈な気持ちになるかもしれません。相手とのバランスを保ち、対等の立場に立とうと、「お返し」をして済ませようとしたりすることがあります。しかし、教会における献金は全く違うのです。献金は神に捧げるものなのです。一度捧げられた献金は神様の働きに使用されるものであり、その多少は全く問題ではありません。エルサレムの神殿の献金箱に、生活に苦しいやもめ女がレプタ銅貨二枚を入れるのをイエス様がご覧になった話しが、福音書にありますね。金持ちたちも献金していました。彼らは沢山のお金を献金箱に入れています。その時、主がこう言われたのです。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、誰よりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」主は献金の額、量ではなく、人の心を読み取られるのです。

パウロは、マケドニアの教会の献金のことをコリント第二の8章でこう語っています。「きょうだいたち、マケドニアの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせましょう。彼らは苦しみゆえの激しい試練を受けていたのに、喜びに満ち溢れ、極度の貧しさにもかかわらず、溢れるばかりに豊かな真心を示したのです。彼らは力に応じて、いや私は証ししますが、力以上に、自ら進んで、聖なる者たちへの奉仕に加わる恵みにあずかりたいと、しきりに私たちに願い出たのでした。」(1〜3節)これからも分かることは、ピリピの教会が、パウロの宣教を支援するために何回か送り届けた贈り物の額は、恐らく僅かであっただろうということです。彼らは決して裕福な人たちではなく、むしろ貧しい人たちだったに違いありません。パウロはその貧しい人々の捧げ物を喜んだのです。それは、パウロが必要を満たされたから嬉しいのではありません。彼ら自身のために喜ぶのです。それは、それによって、彼らの帳簿が利子を加えて黒字になるからだというのです。

献金は一種の利子が実として生じる投資のようなものなのです。現在は政府のゼロ金利政策によって、銀行預金には利子がほとんどつくことはありません。それゆえに、株式に投資する人が増えています。投資した会社から配当金が配られるからです。献金は投資は投資でも神様に対する投資です。献金に生じる利子とは、銀行預金利子や株式の配当金ではありません。霊的な実であり、それは感謝であり、愛であり、喜びなのです。それは真心から献金した人だけが経験することの許される霊的な利子です。それは、また、義の実であって、やがて人が復活して、神様の前に立つときに報われる霊的な利子なのです。神様に投資した献金の利子・利息は天国で必ず配当されることになるのです。

.賛美すること

更に帳簿を黒字にする秘訣があるとすれば、それは神様を賛美することです。使徒パウロは、ここまで語り進めて最後に20節で「私たちの父なる神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」と頌栄を歌っています。どうして神様を褒め称え、賛美することが帳簿の黒字につながるのですか。何故なら賛美は信仰の告白そのものであり、告白するその通りに神がなされるからです。パウロが最後の頌栄で賛美する神は、19節を受けているのです。パウロはそこでこう告白しています。「私の神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスにあって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」パウロの信じ信頼する神様は、人の必要の全てを満たすことのできるお方なのです。パウロはこの神様を「私の神」ということができました。誰かが信じている神様、宗教組織が掲げている神様ではありません。「私の神」とはパウロが心から親しく交わり個人的に知っている生ける神様なのです。「あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」と言う「あなたがた」とは勿論、ピリピでイエス様を信じたクリスチャンたちのことです。彼らは金持ちだから、有り余る中からパウロの宣教を支援するために献金したのではありません。極度に貧しかったのです。貧しいのに、惜しみなく献金したのです。パウロはその貧しい献金を惜しみなくした彼ら自身の生活の必要を神様は全て満たしてくださると保証したのです。これこそ帳簿の黒字の秘訣です。

神様が人の必要をすべて満たしてくださる証しは枚挙にいとまがありません。モーセがイスラエルの民をエジプトの奴隷から解放して、40年間荒野を旅して約束の地に近づいたとき、こう語っています。申命記8章2〜4節です。「あなたの神、主がこの四十年の間、荒れ野であなたを導いた、すべての道のりを思い起こしなさい。主はあなたを苦しめ、試み、あなたの心にあるもの、すなわちその戒めを守るかどうかを知ろうとされた。そしてあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたもその先祖も知らなかったマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きるということを、あなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたの着ていた服は擦り切れず、足は腫れなかった。」モーセが神の民と共にここで確認した事実は、神様が40年の荒野の厳しい旅路において、彼らの必要の一切を満たしてくださったことです。「この四十年の間、あなたの着ていた服は擦り切れず、足は腫れなかった。」エジプトの惨めな奴隷生活から解放された神は真実な方であり、解放された後の彼らの旅路のすべてを満たされる神様であったのです。

預言者エリヤがイスラエルに3年続いた大旱魃の時に、ケリテ川のほとりでカラスに養われた話をご存知でしょうか。列王記上17章2〜6節です。「主の言葉がエリヤに臨んだ。「ここを去って東へ向かい、ヨルダンの東にあるケリトの渓谷に身を隠し、その渓谷の水を飲みなさい。私は烏に命じて、そこであなたを養わせる。」そこでエリヤはすぐに行って主が言われたようにした。すなわち、ヨルダンの東にあるケリトの渓谷に行ってそこに身を寄せた。すると烏が、朝にパンと肉を、夕方にもパンと肉を彼のもとに運んで来た。水は渓谷で飲んだ。」私は生ゴミの投棄では随分カラスに悩まされたものです。生ゴミを食いちぎり散らかし随分カラスには手こずったものです。しかし、そのカラスも神様に用いられてエリヤの必要を満たす役割を果たしたと言うのです。

新約聖書ではイエス様による5000人の給食が最も相応しい証言でしょう。5000人の給食の奇跡は福音書すべてが記録するものです。それは間違いなく実際に起こった奇跡だからです。その奇跡の証言する事実は、神様が人の必要をすべて満たされることなのです。イエス様は身元に集まった5000人の群衆が空腹であるのをご覧になり、弟子たちに食べ物を与えるよう指示されました。しかし、彼らは手持ちの食べ物と言えば、少年のお弁当である二匹の魚と五つのパンしかないと報告します。ところがイエス様はその魚とパンをとり祝福し、割いて弟子たちに手渡し、5000人全員が満腹したというのです。神様は人の必要の全てを満たす方です。

ダビデが歌ったあの詩篇23篇を思い出してみましょう。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。」ダビデも神様を個人的に知っていたに違いありません。彼も「私の羊飼い」と言うことができました。神様はキリスト・イエスにあって必要な全てを満たされるのです。イエス様を救い主と信じてお従いするクリスチャンに対する素晴らしい約束なのです。パウロは思わず頌栄に導かれ「私たちの父なる神に、栄光が世世限りなくありますように、アーメン」と賛美しないわけにはいきません。

私たちも神様を心の底から信頼し、喜び感謝して賛美しようではありませんか。天国に行ったら教会はありません。説教もありません。あるのは神様への礼拝であり賛美です。天使たちは歌い、復活した聖徒たちは神様を褒め称え賛美するのです。「私の神は、ご自分の栄光の富に応じて、必要なものを全て満たしてくださいます。」と神様を褒め歌いましょう。これこそ経済的にも霊的にも帳簿の黒字の秘訣なのです。

ローマ12章2節には「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。」と勧告されています。この世を支配する精神は、足ることを知らない不平・不満です。そうであってはならないのです。「自分の置かれた境遇に満足すること」を私たちも学びましょう。それは自分の力では到底できるものではありません。しかし、私を強めてくださる方、イエス様によって、イエス様が私たちを覆い包んでくださることによって可能なのです。喜んでイヤイヤではなく、感謝して主の働きに献金しましょう。

私たちはこの度の能登半島地震の支援のために十三万4千円を捧げることができました。私たちの教会では3名の海外宣教師を支援するために毎月、第二礼拝で宣教献金を捧げています。私たちは海外に実際に行けなくても献金によって宣教に加わることができるのです。私たちの教会では、ライフラインのテレビ伝道のためにも定期的に献金をします。それによって関西全域の人々にテレビを通じて福音を伝える宣教に参与することができるのです。それは全て、自分自身の帳簿を黒字にする素晴らしい秘訣なのです。主を賛美しましょう。主は必要の全てを満たすことができるお方だからです。この新しい週の日々に神様の驚くばかりの満たしを経験するために出ていくことにしましょう。イスラエルの民が荒野を40年旅する間、毎日、主は天からマナを降らせられました。あなたの必要はなんでしょうか。それがなんであれ、本当に必要なものであれば、主は必ず満たしてくださることでしょう。主に感謝しましょう。主を褒め称えましょう。アーメン 

2月4日礼拝説教(詳細)

「良くなりたいか」  ヨハネ5章1〜9節

その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには羊の門のそばに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。その回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。

†さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。

イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。

病人は答えた。「主よ、水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいません。私が行く間に、ほかの人が先に降りてしまうのです。」

イエスは言われた。「起きて、床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。

元旦に能登地震が発生し早くも1ヶ月が経過しました。その死者数は238人であり、今尚1万四千人が避難生活を余儀なくされています。改めて哀悼の意を表すと共に復興対策が促進されることを切に祈ります。

さて、今日この日は聖書箇所をヨハネ5章1〜9節として読みます。これは、ヨハネ福音書に記録されるキリストのなされた7つの奇跡の三番目です。ベテスダの池で38年間寝たきりの病人の癒しの奇跡です。私たちの新しい訳ではこの池がベトザタとなっていますが、口語訳ではベテスダでした。ベテザトとは「オリーブの家」を意味し、それはこの辺りがオリーブの家と呼ばれていたからです。ベテスダとは「憐れみの家」を意味し、それは、この池に入ると病気が癒やされると信じられるようになったために、そう呼ばれるようになったと言われています。エルサレム神殿に入る北側の羊の門の近くにあった回廊で囲まれた二つの池のことで、考古学の遺跡発掘で発見され、確認されています。この池に関しては、伝説によれば、天使が降りてきて水浴びをする際に、池の水が動いた時その瞬間、一番最初に入る人は癒やされるとされ、多くの病人が集まっていたということで、

3節にはこう記されています。「その回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。」イエス様はその池に近づかれます。そしてその中の38年間も病気で苦しみ横たわっている人をご覧になり、「良くなりたいか」と尋ねられたのです。そして彼に「起きて、床を担いで歩きなさい。」と命じられるや、何と彼はすぐに良くなって、床を担いで歩き出したというのです。

1. 癒されるキリスト

このベテスダの池で起こった出来事によって第一に明らかなことは、神であられる方が人となられたイエス・キリストが、病を癒やされるお方であることです。

昔、イスラエルの民がエジプトの奴隷から解放された後のことです。主は民に約束してこう言われました。「まことに私は主、あなたを癒やす者である。」(出エジ15:26)勿論この約束には「もしあなたの神、主の声に必ず聞き従い、主の目に適う正しいことを行い、その戒めに耳を傾け、その掟をすべて守るならば」という条件が付いているのですが。また、私たちが福音書によって、イエス・キリストの公生涯の道行をたどると分かってくることは、主がご自身に近づいてくるすべての人のありとあらゆる病をことごとく癒やされたことです。例えば、マタイ4章の23〜24節にはこう記されています。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民衆のありとあらゆる病気や患いを癒やされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まり、人々がイエスのところへ、いろいろな病気や痛みに苦しむ者、悪霊に取りつかれた者、発作に悩む者、体の麻痺した者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々を癒やされた。」これを見ても分かるように、イエス様は医者の中の医者です。イエス様によって癒やされない病人は一人もいませんでした。

3節によれば、池の周りに集まっていたのは「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人」であったとあります。この38年も病気で苦しんでいる人が、それでは具体的にどんな病気にかかっていたのか、その病名は書いてありません。イエス様が、ベテスダの池の回廊に横たわる、この一人の病人に見たものは、私は想像するのです、死に至る病ではなかったでしょうか。

死に至る病とは、デンマークの哲学者キルケゴールの造語ですが、その意味することは人間の陥る絶望のことです。絶望とは文字通り、希望の無いこと、望みの絶えることです。人間は一生、自分自身とつきあっていく存在ですから、他人ではなく自分に対しての関係がうまくいかずに、自暴自棄になったり、投げやりになったときなどに「絶望」が生じるものです。

イエス様は、絶望的になっている彼をご覧になり、それが長い間、病気であるのを知って、「良くなりたいか」と尋ねられたのです。長い間、病気であった、それがしかも38年間も病気であったというのです。そのことからしても、それは苦しみが無限に続くかもしれない、という時間に関わる絶望であったかもしれません。あるいは、立ち上がる元気もなく寝たきり状態であることからして、自分の力なさ弱さに対する絶望であったかもしれません。それとも、イエス様の質問に対する彼の答えからすれば、自分が治るための可能性に関する絶望であったのかもしれません。「良くなりたいか」という問いに対して彼がこう主に答えているからです。「主よ、水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいません。私が行く間に、ほかの人が先に降りてしまうのです。」天使がたまさか降りてきて、この池の水が動いたその瞬間に、真っ先に入れば治るだろう。確かそう言われてきた。それを頼みにしている。だが、横たわっている自分をその時に、優先して池の中に入れてくれるような親切な人がいるわけがない。それならば、他人に頼ることをしないで自分の力で、自力で立ち上がり、それこそ我先にと、池に飛び込もうとしてはみたものの、自分より元気のいい、力に余力のある奴らが先を越して飛び込んでしまうのです。「主よ。私だって治りたいですよ。治りたいからこそ、最後の望みを託してこの池に来ているのですよ。だから治りたい意志は少なくともあるのですよ。しかし直る可能性としては絶望的なのです。」そう彼はこぼしたのではないでしょうか。

ところが、その病人にイエス様が命じたのです。「起きて、床を担いで歩きなさい。」それは、この病人が、確かに極めて強い挫折感を抱えてはいても、人の意見を聞かずに内にこもって堂々巡りをして、そのまま惨めな自分自身であり続けようとはしないことをイエス様が認められたからです。「すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩き出した。」奇跡が起こったのです。彼は38年間独り立ちして歩けなかったのに、さっさと床をたたみ、肩にかついで足取りも軽く歩き始めたというのです。人はどんな絶望的な死に至る病にかかっていたとしても、イエス様には癒やす力があるということです。

私は妻の母親にイエス様の癒しの素晴らしい御力を見せられたことが思い出されます。妻の母ミサヲさんはその母親が結核に罹かったため、家庭で感染し、若くして小樽の療養所生活を強いられていました。その当座です。その療養所に後に結婚することになる竹内常一郎さんが、友人と聖書研究会をしていました。そこに、ミサヲさんも出席するようになり、走行するうちに竹内さんに見初められ、症状の落ち着いた時に結婚されたのです。医者は結婚しても5年は持たないだろうと警告されたそうです。ところがそれから3人の子供を産みました。その上、5年しか生きられないと言われたのに、何と89歳まで長生きなされたのです。勿論決して普通の人のように丈夫ではありませんでした。しかし、夫の愛情に支えられ長寿を全うなされたのです。それは絶望せずに主に信頼して癒やされた結果であります。あなたを取り囲む状況がどうであれ、死に至る病、絶望しないようにしましょう。絶望は人間だけがかかる病気です。それは人間が動物以上の存在である証拠でもあります。大切なことは、医者の中の医者であるイエス・キリストを信じ、主の御言葉によって、自分の足で歩き始めることではないでしょうか。

.働かれるキリスト

この38年間寝たきりの病人が癒やされたのは、9節によれば、その日がユダヤ人たちの大切に守っていた安息日でした。安息日とは今の曜日で言えば土曜日に当たります。ユダヤ人たちは律法に従って、その安息日には絶対いかなる仕事もしてはならないと、厳格に遵守していました。安息日に着物の綻びを針で縫って繕ったら罪だろうかと論議しました。入れ歯を付けてもよいだろうか、義足をはいてもよいだろうかと議論しました。どんな種類のブローチでも安息日につけてはいけなかったのです。現代のイスラエルの高層ホテルでもエレベーターが使えないところが沢山あります。スイッチを入れて動かすことが労働に相当するからです。

そのため、安息日にベテスダの池から自分の家まで、自分の寝ていた床を担いで歩いて行くなどは、それこそもっての他だったのです。ですから、ユダヤ人たちは病気を癒していただいた人に厳重に警告したのです。「今日は安息日だ。床を担ぐことは許されていない。」すると彼は誰かが歩けと言ったから歩いたのだと弁解しています。すると、それに対してユダヤ人がそれは誰か、と問いただすのですが彼にはわかりません。イエス様が直ぐその場を去っていたからです。しかし、間も無く池の近くの神殿の境内でイエス様に出会った結果、彼はユダヤたちに、それがイエス様であったことを告げました。そのために、ユダヤ人は猛烈に反発し、イエス様を迫害しようとしました。ところが、それに対してイエス様は一言、こう答えられたのです。「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。」このベテスダの池の出来事で明らかにされる第二の点はこれです。イエス・キリストは、今なお生きて働かれるお方であるということです。イエス様は、ユダヤ人たちが働いてはならないとした日に、よりによって働いたために厳しいけん責を受けざるをえません。それにも関わらず、「私は働くのだ。」と言って突っぱねられたのです。

安息日の由来は、創世記の天地創造にあります。創世記2章1〜3節を読むとこう書いてあります。「こうして天と地、そしてその森羅万象が完成した。第七の日に、神はその業を完成され、第七の日に、そのすべての業を終えて休まれた。神は第七の日を祝福し、これを聖別された。その日、神はすべての創造の業を終えて休まれたからである。」これを受けて定められたのが安息日の十戒規定でしょう。出エジプト記20章にはこう記されています。「安息日を覚えて、これを聖別しなさい。六日間は働いて、あなたのすべての仕事をしなさい。しかし、七日目はあなたの神、主の安息日であるから、どのような仕事もしてはならない。あなたも、息子も娘も、男女の奴隷も、家畜も、町の中にいるあなたの寄留者も同様である。」今日すでに十戒朗唱でも朗読したあの箇所です。この安息日の規定は、神様の被造物に対する深い愛の配慮に他なりません。なぜならば、労働の緊張を休息することで緩め、新しい英気を養い次に備えることは、人間生活には絶対に必要不可欠だからです。

先週のニュースによれば、神戸のある病院の26歳の医師が過労で自殺したことを受け、その母親が2億3400万円の損害賠償の訴訟を起こしたと報じられました。100日間休み無し、207時間の超過勤務でこの医師は疲れ果て自殺したのです。人は労働し休息が不可欠なのです。

ではその模範を創造において示された天地万物の創造者である神様も、安息日には一切活動を停止なされ、働かないのでしょうか。そうではありません。決してそうではありません。預言者イザヤはこう預言して語っています。「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は永遠の神 地の果てまで創造された方。疲れることなく、弱ることなくその英知は究め難い。疲れた者に力を与え勢いのない者に強さを加えられる。」(イザヤ40:28)そうです。神様は疲れることがありません。疲れないどころか、疲れた者に力を与える方なのです。勢いのない者を強くする方なのです。詩篇121編では昔の詩人がこう謳っています。「私は山々に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。私の助けは主のもとから、天と地を造られた方のもとから。主があなたの足をよろめかせることがないように。あなたを守る方がまどろむことがないように。見よ、イスラエルを守る方はまどろみもせず、眠ることもない。」そうです。神様は不眠不休であっても決して、一瞬だにまどろむこともありません、眠ることのない方なのです。

創世記1章を見てください。神様が6日間で万物を造られた際に、毎日、造られたものを見て神様は「見て良し」とされておられます。そして、1章31節には「神は、造ったすべてのものをご覧になった。それは極めて良かった。」とされているではありませんか。神様は善なる神です、良いお方です。良いお方が造られるものは全て良いものです。主は善にして善を行いたもうお方です。その善なる神様は、安息日にもその造られたもの全てを保全されるばかりか、良いものを造るために働いておられる、活動し続けておられるのです。イエス様は神ですから、「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。」と明言されたのです。イエス様が安息日に、あの38年間寝たきりの病人に、「良くなりたいか」と問われたのは、そのためです。神様がお造りになったもので、本来の形を失い悪い状態に陥っているならば、それを元の良い状態に修復する働き、それは当然であり、善なる神様の御心なのです。

「イエス・キリストは、昨日も今日もいつまでも同じです。」(ヘブル13章8節)「主なる神は変わることがありません。」父なる神様が今もなお働いておられるように、イエス様も今もなお働いておられます。詩篇121編の作者は「私は山々に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。」と自問自答しています。皆さんも生活の現場において、助けを必要とする時がきっとあることでしょう。その時、自問自答してください。「私は山々に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。」と。そして、こう告白しようではありませんか。「私の助けは主のもとから、天と地を造られた方のもとから。」今もなお主は呼べば答えて助けを与えてくださいます。イザヤは預言して確言してこう言いましたね。「主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、弱ることなくその英知は究め難い。疲れた者に力を与え勢いのない者に強さを加えられる。」主は生きておられます。主は働いておられます。主は変わることが決してないのです。

III. 磔られるキリスト

しかし、最後にこのベテスダの池の出来事を通して明らかにされる第三の点を決して忘れてはならないでしょう。18節ご覧ください。「このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと付け狙うようになった」それは、イエス様が38年間寝たきりの病人を癒やされた結果、ユダヤ人たちに迫害され、殺そうと付け狙われ、遂には十字架に磔にされたことにつながります。私は昨年の1月から日に3回の定刻祈祷を始めました。朝9時、昼12時、そして午後3時に、短い時間ですが賛美し聖書日課を読み、そして祈るのです。それは主の十字架の受難を偲ぶためです。ポンテオ・ピラトから死刑を宣告されたイエス様は、鞭打たれ、十字架を負わされ、ゴルゴダの丘で朝9時に十字架に磔けられました。12時に一帯全面が暗黒に包まれ、イエス様は「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫ばれました。そして 3 時には「全ては終わった」と言われて息を引き取られました。それは、人間の陥る絶望よりも、もっと恐ろしい死に至る病を癒やすためでした。それは人間の罪という永遠の滅びをもたらす病気です。預言者イザヤは、この主の十字架よりも700年も前に預言し、53章3〜5節にこう語りました。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、痛みの人で、病を知っていた。人々から顔を背けられるほど軽蔑され、私たちも彼を尊ばなかった。彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであった。しかし、私たちは思っていた。彼は病に冒され、神に打たれて苦しめられたのだと。彼は私たちの背きのために刺し貫かれ、私たちの過ちのために打ち砕かれた。彼が受けた懲らしめによって、私たちに平安が与えられ、彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。」さらに次の6節にはこう語られます。「私たちは皆、羊の群れのようにさまよいそれぞれ自らの道に向かって行った。その私たちすべての過ちを、主は彼に負わせられた。」

この「彼」とは誰のことでしょう。この方こそ十字架に身代わりとなり命を捨てられたイエス・キリストなのです。そして「羊の群れのようにさまよいそれぞれ自らの道に向かう」のは誰のことでしょうか。それが私たちの姿なのです。羊の群れのようにさまよう!それぞれ自らの道に向かう!それが罪の本質です。罪とはハマルティア!それは的外れの生き方そのものです。神によって造られ、神に愛され、神によって生かされているにも関わらず、神を無視し、神不在の人生を我が物顔に生きること、それは恐るべき神への叛逆の罪なのです。私たちはそれとも知らずに生きていました。先祖伝来の空疎な生活をあたりまえに生きていました。しかし、十字架の福音を伝え聞かされ、罪の赦しをいただき、死に至る病が癒やされたのです。その主の十字架の打ち傷によって癒やされたのです。

今日、私たちは月の最初の礼拝会ということで、これから主の定められた聖礼典である聖餐式に預かろうとしています。私たちがこうして礼拝に集まり、聖餐式を囲むその場に、蘇られた栄光の主イエス様が臨席なされます。あなたは今日、何らかの意味で自分に絶望していないでしょうか。38年間病気であった人のように、長く引きずっている苦しみや問題のために、自暴自棄になっていないでしょうか。イエス様はあなたをご覧になられます。イエス様はあなたがどのような状況に置かれているかをご存知です。そして、あなたに尋ねられます。「良くなりたいか」と。あなたは今日、何らかの助けが必要な切羽詰まった状況に置かれていないでしょうか。金銭問題かもしれません。人間関係の破れかも知れません。家庭内のいざこざ、職場のいざこざかも知れません。イエス様は今日も変わらず働いておられます。「主は永遠の神 地の果てまで創造された方。疲れることなく、弱ることなくその英知は究め難い。疲れた者に力を与え勢いのない者に強さを加えられる。」

聖餐式において、パンをいただく時に、主に祈ってください。告白してください。「私の助けは主のもとから、天と地を造られた方のもとから。」そして「イエス様、あなたから助けが来ると確信します。」と告白してください。あなたは今日、犯した罪過ちによって惨めになっていないでしょうか。主に罪を告白してください。主は真実で正しい方ですから、告白するなら赦し清めてくださいます。聖餐式において盃をいただくとき、「あなたの罪は赦された」という主の御言葉を聞いてください。