1031日礼拝説教

「顔は上げられる」  創世記4章1〜10節

人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言った、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。

そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。

カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。

主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。

主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。

 「カインは激しく怒って顔を伏せた」目、鼻、口、耳が集約する顔には、人の人格が表れる。顔認識システムが人工知能で開発され、犯罪防止等、多方面に活用されるが、人格の内面を特定する最高の顔認識システムは聖書である。

双子の兄カインは地の産物を、弟アベルは羊を神に供えた。何故かアベルの供え物にだけ目が留められ、顔を伏せることでカインはその怒りを表した。祝福された弟の未来の繁栄を予見したからに相違ない。同じ母の胎から生まれても兄弟は万事が違っている。

ある意味で、我々は生まれつき全く不平等な現実に、健康な人、病弱な人、金持ちと貧乏人、頑健な人、虚弱な人として生きている。

激怒したカインは、弟を妬み、野原で襲いかかるや尊属殺人に及んでしまった。主は「『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。きょうだいに腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。」と、内面的な怒り、憎しみは相手の存在否定を意味し、殺人に等しいとされた。

カインは神に「あなたの弟はどこにいるのか」と問われると、「私は番人でしょうか」と殺人に虚偽の罪を加えた。そのカインの行く末は、落ち着き安住しようと願いつつも叶わぬ、地の放浪者の生き方をそれによって余儀なくされてしまった。

思い辿れば我々もまたアダムの末裔、カインの末裔に違いない。しかし、神は憐れみ深く、御子を送られ救いの道を我々に開いて下さった。主は戸口に待ち伏せる猛獣のような罪を治めよ、とカインに勧告されたが、人は罪の力に自力で到底勝つことはできない。だが、感謝なことに、主は十字架により罪の赦しと罪からの解放をもたらされ、復活され内住するキリストに信頼すれば罪に打ち勝つことができる。

 

主はカインに顔を上げ、祈りにより神に向き合うよう求められた。置かれた不条理な世にあって、我々も祈り続けるなら、必ず感謝に導かれるであろう。カインは弟の番人であることを否定したが、本来の兄弟愛を回復する道を主は開かれ、互いに愛し合う新しい生き方へと導いてくださっておられる。

1024日礼拝説教

「生ける神に立つ」  使徒行伝14817

ところが、ルステラに足のきかない人が、すわっていた。彼は生れながらの足なえで、歩いた経験が全くなかった。この人がパウロの語るのを聞いていたが、パウロは彼をじっと見て、いやされるほどの信仰が彼にあるのを認め、大声で「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は踊り上がって歩き出した。

群衆はパウロのしたことを見て、声を張りあげ、ルカオニヤの地方語で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお下りになったのだ」と叫んだ。彼らはバルナバをゼウスと呼び、パウロはおもに語る人なので、彼をヘルメスと呼んだ。そして、郊外にあるゼウス神殿の祭司が、群衆と共に、ふたりに犠牲をささげようと思って、雄牛数頭と花輪とを門前に持ってきた。

ふたりの使徒バルナバとパウロとは、これを聞いて自分の上着を引き裂き、群衆の中に飛び込んで行き、叫んで言った、

「皆さん、なぜこんな事をするのか。わたしたちとても、あなたがたと同じような人間である。そして、あなたがたがこのような愚にもつかぬものを捨てて、天と地と海と、その中のすべてのものをお造りになった生ける神に立ち帰るようにと、福音を説いているものである。

神は過ぎ去った時代には、すべての国々の人が、それぞれの道を行くままにしておかれたが、それでも、ご自分のことをあかししないでおられたわけではない。すなわち、あなたがたのために天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たすなど、いろいろのめぐみをお与えになっているのである」。

こう言って、ふたりは、やっとのことで、群衆が自分たちに犠牲をささげるのを、思い止まらせた。

 いにしえの民は皆、ヨシュア、ダビデ、ヒゼキヤ、そしてペテロと、主を生ける神と告白してきた。知性、感情、意志と力を持って力強く活動される神は生きておられる。小アジアのルステラでは、福音を聞いた生まれつき足の不自由な男が瞬時に癒されるや、語った使徒達がギリシャ神話のゼウスとヘルメスと誤解されてしまった。神々として二人を礼拝しようとする人々を制止したパウロが、説き放ったメッセージは、神が人手になる偶像ではなく生ける神であることであった。生ける神は、キュウリ畑の手も足も動かぬ偶像ではない。偶像は必ずしも木や石の彫刻物とは限らない。聖書はむしろ、人の内面を支配する貪欲が偶像礼拝だと指摘する。「淫らな行い、汚れた行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかなりません。」(コロサイ35)手に入れたもので満足せず、更に欲しがる貪欲の精神が今現在、経済中心主義の世界を覆っている。偶像から離れ、方向を転じて生ける神に立ち帰り、満ち足りる心で節度ある生活に生きるべきでなかろうか。あのルステラの先天的に歩行不能な男が、躍り上がって歩き出し得たのは、この生ける神を救い主イエスと信じ受け入れた結果であった。信仰がなくては神に喜ばれない。彼には、神が求める者に報いてくださる生きた信仰が呼び起こされていたに違いない。使徒が「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と命ずるや、それまで歩いた経験の無い男は立ち上がることができた。信じて立ち上がるとき、主イエスを死人の中から立ち上がらせられた神の大能の力が臨んだのだ。しかも立ち上がったのは彼ばかりではなかった。その町で敵対者に投石され瀕死の重傷を負ったパウロが、仲間の信仰の祈りにより突然、再起し、しかも、敵地に敢然と入って行っている。その結果、町には教会が生まれ、その教会から後の伝道者テモテが輩出されている。「御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを続けなさい。」という後のテモテへの勧告は、このパウロの行動に裏付けられている。

1017日礼拝説教

「天国永住市民権」  黙示録7章9〜17節

その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、大声で叫んで言った、

「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」。

御使たちはみな、御座と長老たちと四つの生き物とのまわりに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を拝して言った、

「アァメン、さんび、栄光、知恵、感謝、ほまれ、力、勢いが、世々限りなく、われらの神にあるように、アァメン」。

長老たちのひとりが、わたしにむかって言った、

「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか」。わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。

すると、彼はわたしに言った、

「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。

彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。

 10月半ばを過ぎ年末に向かう今、自分は何処に行こうとするのか。人は堂々巡りするばかりか、それとも直線的に何処かに向かいつつあるのだろうか。

島流しでパトモスの孤島に閉ざされたヨハネは、主の日にキリストの現臨を受け、見たこと、今あること、後に起こることを書き記すよう命じられた。

1章にキリストの異象、2、3章に七つの教会、そして4〜22章にヨハネは歴史の終末を書き留める。黙示、アポカルプシスとは、覆いを除くことを意味する。

黙示録は未来未見の出来事を私たちに開示する。

4、5章でヨハネは天上の光景を見せられ、6章から世の終わりの大艱難時代の様相描写を開始する。

そこに割り込むよう挿入された7章は、終末に到来する7年間の大艱難の前に、空中再臨の主イエスにより携挙された教会を描写している。

ヨハネの見た「数えきれぬほどの大群衆」とは、それまでにイエスを主と信じて救われた万国のキリスト者に他ならない。主は「然り、私は直ぐに来る」と再来を約束されたが、それは地上を襲う7年の艱難期の直後だと、マタイ24章は明示している。

キリストの再臨をクライマックスとする世の終わりは、妊産婦の陣痛に喩えられ、7年の艱難時代は、前期陣痛に続く本陣痛に相当する。グローバル化した現世界は、世界統一国家形成に向かいつつあり、最後的に世界を統合する反キリストの出現が予見され、世界は未曾有の苦難に遭遇するであろう。7年の艱難期の最後には、天から地上に再臨されるキリストにより反キリストが滅ぼされることが定まっている。

感謝なことに教会は艱難期を通らず、空中に再臨されるキリストにより天に携挙される。ヨハネの見た天上の玉座の前で白衣を纏い、主を賛美する大群衆こそ携挙されたキリスト者の教会である。その群衆の中に自分の未来像を確信できる人は幸いだ。

 

天国永住の市民権の保証は、天国の戸籍謄本に相当する「小羊の命の書」に自分の名前が登録されていることにかかっている。神の御子イエスを主と告白しているだろうか。市民権の保証はその信仰告白にこそある。

10月10日礼拝説教

「信従抵抗の狭間」  ローマ13章1〜7節

すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。したがって、権威に逆らう者は、神の定めにそむく者である。そむく者は、自分の身にさばきを招くことになる。

いったい、支配者たちは、善事をする者には恐怖でなく、悪事をする者にこそ恐怖である。あなたは権威を恐れないことを願うのか。それでは、善事をするがよい。そうすれば、彼からほめられるであろう。彼は、あなたに益を与えるための神の僕なのである。

しかし、もしあなたが悪事をすれば、恐れなければならない。彼はいたずらに剣を帯びているのではない。彼は神の僕であって、悪事を行う者に対しては、怒りをもって報いるからである。

だから、ただ怒りをのがれるためだけではなく、良心のためにも従うべきである。

あなたがたが貢を納めるのも、また同じ理由からである。彼らは神に仕える者として、もっぱらこの務に携わっているのである。あなたがたは、彼らすべてに対して、義務を果しなさい。

すなわち、貢を納むべき者には貢を納め、税を納むべき者には税を納め、恐るべき者は恐れ、敬うべき者は敬いなさい。

 岸田新内閣が4日に発足した今この時、「人は皆、上に立つ権力に従うべきです」との聖言は、権力への対応を私たちにストレートに問いかけてくる。

この勧告の背景には、急進的なユダヤ無政府主義者たちの動き、キリスト者による偏向した神の国中心主義、迫り来るローマ帝国による迫害等、キリスト者達の政治意識を消極的にする兆候があった。

大ローマ帝国に生まれ、ローマ市民権を有し、全領土に張り巡らされた道路網を生かし福音を宣教したパウロは、明らかにローマの国家権力を意識しつつ、権力への服従の根拠を、権力はそれが何であれ神の制定によるからと、「今ある権力はすべて神によって立てられたものだからです」と明示する。

カリスマ的であれ、伝統的であれ、合法的であれ、特定の人が権力を保持するのは権力の源である神の貸与による。しかも神が国家権力を容認されるのは、その置かれた地域に最低限の秩序が維持されるためであることが続く数節で分かる。

無政府状態が生み出すのはカオス(混沌)でしかなく、悪を強制的に取り締まる剣(暴力的権力)による国家行使は必要悪となる。しかも「良心のためにも、これに従うべきです」と、権力服従の法が人間の内面に刻まれており、心の法廷とも言われる良心が服従を促していると、その根拠にだめ押しをしている。

そこで納税、市民義務の遂行、官憲への尊敬、隣人愛の励行が服従の具体的在り方として奨励される。だが、私たちはこれらの勧告が、全時代の万国民のためのどこまでも原則であることを理解しておくことが肝心であろう。

今を生きる日本人クリスチャンは、ローマ皇帝に支配されている訳でも、天皇に統治されている訳でもない。自らの手で、自らのために政治を行う立場、即ち、民主主義が憲法で保証された立場にある。

それ故に上掲の原則義務を遂行するばかりか、召しあれば立候補もし、選挙で投票し、不正不義あれば「見ざる、言わざる、聞かざる」を決め込まず、批判し抗議し抵抗も辞さない覚悟が必要となる。

 

更に「位の高い人のために祈りを捧げ」ることにしよう。

103日礼拝説教

「信仰による生涯」  ヘブル11章17〜22節

信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。

この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。

信仰によって、イサクは、きたるべきことについて、ヤコブとエサウとを祝福した。

信仰によって、ヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、そしてそのつえのかしらによりかかって礼拝した。

信仰によって、ヨセフはその臨終に、イスラエルの子らの出て行くことを思い、自分の骨のことについてさしずした。

 ヘブル11章には信仰による生涯を生きた18人が紹介され、彼らは信仰のゆえに称賛され神に喜ばれたと証言される。

信仰は悟る心の清澄さでもなければ認知的な心の態度、信念でもない。「信仰とは、望んでいる事柄の実質である」と1節は、信仰が希望のエッセンスだと明示する。まだ見たことのない未来の出来事、事実を煎じ詰めれば信仰となる。

信仰の父アブラハムは、その希望のエッセンスを確かに保持した最初の人。75歳で主に召され約束の地に到来したアブラハムには、世継ぎが無いため未来は閉ざされていた。だが、「あなた自身から生まれる者が跡を継ぐ」と主により予告されるばかりか、満天の星を示され、後々の子孫が「あなたの子孫はこのようになる」と約束された。

その世継ぎとして25年後にイサクが生まれ、やがてイスラエル民族が興されたことを私たちは知っている。「信仰とは、見えないものを確証するものです。」と1節はさらに信仰の機能をも開示する。信仰は希望の細部までチェックし確認する心の態度だと。

アブラハムが世継ぎと子孫の約束を提示されると、「主なる神よ。私がそれを継ぐことを、どのようにして知ることができるでしょうか。」と神に迫る。主は古代の契約締結の儀礼の形式を生かし、アブラハムに約束の確かさを確証させられた。(7〜21節)

神の属性は真実であり、約束を破ることは決してなされず遵守される方である。「それゆえ、信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉によって起こるのです。」(ローマ10:17)主なる神との人格的な対話、即ち、祈りによる交わりの過程で、人は神の口から出る言葉を受けとめ、心の耳で聴きとることができる。

ペテロは嵐のガリラヤ湖上を歩かれる主イエスが「来なさい」との御声を聴き、船から波間に歩き出している。語られる全能の主は約束を万全に保証される。

 

信仰による生涯とは、人生の嵐の中で、或いは不動の山のように立ちふさがる困難にあって、主に祈り、約束の言葉を受けて行動する生き方である。この章には信仰の人々があなたを激励しよう立っている。