2019年8月礼拝説教

8月25日礼拝説教

     「すべてが新しくなった」    コリント人への第二の手紙 5章17節

コリント人への第二の手紙517

(新改訳)だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」

(新共同訳)だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」

でも人が新しく造られるって本当なのでしょうか?

ニコデモは「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」それは無理だと答えました。

人生は空しく死んでもよいと思っていたトラック運転手の私は、34才の時午前5時過ぎラジオで「神様は私を愛しておられる」と聞き「神様ごめんなさい、信じます。」

そうすると(行っていることは何も変わっていないかもしれないが)それまでと全く違う自分になった。私には私を愛するイエス様が共に居られる。私はその朝変わった。

神様はあなたに対して願いを持っておられる。罪を悔い改め、イエス・キリストを信じて、救われ、生まれ変わって欲しいと願っておられる。死んでも死なない永遠の命に溢れる人になってほしいと願われている。

だれでも そうですこれが福音です。資格審査はない。あなたが罪人なら救われる資格があるのです。(自分は正しいと思う人は後回しです)

イエス・キリストを内に持っているかどうか、キリストと結ばれているか?悔い改めのない信仰は偽物です。あなたの生きている場所でどう生きるか!

キリストを信じるなら誰でも救われる、この方は救ってくださる、そして古いものは過ぎ去ってしまう。古い性質は残っているけれど良いのです。

518節「これらのことはすべて、神から出ているのです」私たちはただ信じて悔い改めた。私たちは死ぬのではない、永遠の世界が待っている。

神はイエス・キリストを遣わし、十字架につけて罪を処分し、よみがえりに与らせて下さった。自己中心からキリスト中心に変えて下さった。私たちはよみがえりの命で生きている。

新しく生きるとは、キリストを知っている、新しい人生を歩むこと。

あなたを愛するキリストは、あなたを①愛さないことはない②去ることはない③捨てることはない④一人にすることはない⑤永遠の友、永遠の主。

この方と会うために人生を歩んでいる。だから主と共に歩もうではないか! 吉村正憲牧師(近畿福音放送協力会委員長)

8月18日礼拝説教

     「安息日を覚える」   出エジプト20章8〜11節 

20:8安息日を覚えて、これを聖とせよ。

20:9六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。

20:10七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。

20:11主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。

それで主は安息日を祝福して聖とされた。

人は一日を朝昼晩、一年を春夏秋冬と生活のリズムを刻んで生活します。

十戒の第四戒は、もう一つの生命のリズムとして一週七日を六日働き、七日目を休むよう生活の指針として戒めています。

その理由は11節により明白で、神が六日で天地の創造を終え、七日目に安息されたからです。

神が休まれたのは疲労したからではなく、創造物の全てに満足されこれを喜び祝うためです。

最初の人間が六日目に造られたのは、この安息に入り神と共に喜び祝い、新しい時代を開始するためでした。

世界は全能の神により創造されたので安全に保全され、たとえ人間が活動を一切停止してもそれで崩壊するようなことは決してないのです。

申命記5章15節によれば、安息日を覚える理由として、民の奴隷からの解放を記念することが更に明示されます。

奴隷時代の労働は、所有者の利益追求のため人間性を奪われ酷使される手段でした。奴隷から解放された民が六日働く労働は本来の労働の回復です。

人間は神に信頼されその被造物を世話し養う管理者なのです。安息日を覚える理由がこの労働の回復を覚えることでもあるのです。

使徒20章7節に、トロアスで使徒パウロと聖徒らが「週の初めの日」に集会したことに、安息日の定めの新しい啓示の進展を見ます。

その日は十字架で磔刑に処せられ埋葬された主イエスが復活された日曜日です。旧約の土曜安息から、キリスト教会は日曜安息へと移行したのです。そこに日曜安息の理由目的が、救いの完成を祝うことにあることが分かります。 

一週間が七日であり、七日目に休むことは神が人間に与えたリズムであり賜物です。このリズムに合わせて日曜に仕事を休むことは現代社会では容易ではありませんが、この日を他の曜日と区別して注意深く過ごすことには大いなる祝福が伴います。

安息日の原語の意味は「中断」です。仕事は永続するべきではなく中断し休むことが必要なのです。

神に信頼し安心して休んで良いと聖書は勧告するのです。

この安息日のリズムに調和して生きるなら、本当の自分を取り戻すことになるのです。

8月11日礼拝説教

      「主の名を唱える」    出エジプト20章7節   

20:7あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。

主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。

  名がその物や人の実体を表すので「名は体を表す」と言われます。第三戒で「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない」と戒められるのは、「主」が神名であり、ご自身の本質を表すからです。

モーセが奴隷解放者として召されると、神はその御名を「わたしは有る」と彼に啓示されました。

聖書は「はじめに神は天と地を創造された」で始まり、神が万物の創造者であり、存在の根源なる方であることを表しています。

旧約聖書にはこの神の御名「主」が6800回も使われています。その都度この意味を覚えて読むことが大切です。

新約聖書においては、イエス・キリストを主として受け入れると救われるのですが、その意味するところは旧約聖書の「主」と同じであります。

イエス様は「わたしは有る」お方そのものなのです。イエス様は見えざる神、「わたしは有る」お方が、見える形で人となられた神ご自身なのです。

湖上の嵐に真夜中、翻弄されていた弟子たちに、海の上を歩いて近づかれた主イエスは、「わたしだ。恐れることはない」と励まし嵐を鎮められました。

この主の呼びかけ「わたしだ」は、原語では「エゴ・エミ」で、直訳すれば「私・私である」となります。これによりイエス様はご自分が主なる神であることを表明されたのです。

当然のこと、この尊い御名を自分の独りよがりな利得や目的のために濫用することは避けねばなりません。

神名を唱えて神々を呼び降ろし、自分の利益のために操ろうとする降神術や魔術が世界に蔓延しています。

そのような悪例に倣らうことは厳に慎むべきです。

主の御名を賛美し、御名により祈り、御名による権威を持って奉仕するべきです。

使徒ペテロは『麗しの門』で生まれつきの足萎えの乞食を、イエスの御名の権威により瞬時に癒しました。

また、「わたしは有る」お方を唱え呼ぶ者は、自分自身も「わたしは有る」者であること、自分の存在を確信することができる祝福に与ることができます。

他人から無視されたり、存在否定する扱いを受けても、しっかりと自分自身を失うことがないのです。

8月4日礼拝説教

      「千代に至る恵み」   出エジプト20章4〜6節

 20:4あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。

上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。

20:5それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。

あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三四代に及ぼし、

20:6わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。

「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」この第二戒が奴隷から解放された民への呼びかけであることから、この勧告は主を具象化するべきではないという戒めです。

神は霊です。

神は見えないばかりか、語り、思い、愛し、計画し行動される人格ある方ですから、動けず、語れず、見ることも聞くこともできない偶像(詩135:15,16)で表せません。

神は万物の創造者です。

作品は制作者の個性や意図や才能を表すにしても、制作者ではあり得ません。

この戒めの最大の理由は、「自分のために」すなわち人が神を偶像に見立て、呪文を唱え祭り事をするのは、自分の利得目的のために神を思いのままに操作することになる、

言い換えれば人が神すらも思いのままに支配できる神に成り上がる危険があるからです。

出エジプト32章の記録によれば、民から集めた金の装身具を溶かし、祭司アロンが金の子牛を鋳造しています。

エジプトの奴隷から導き出した神はこの金の子牛だとすり替えてしまったのです。

現代の民であるクリスチャンといえども、いつの間にか有形無形の金の子牛を無意識の内に崇めるようにならないとも限りません。

第二戒を古くて新しい戒めとして真摯に受けとめたいものです。しかしながら驚くべきことは、天地のいかなる被造物をも神の像とすることを禁じられた主が、ただ一つの被造物を神の像として造られたことです。

それが我々人間(創1:27)なのです。神は人間を「自分のかたち」に似せて造られました。その神の類似性は、人間が被造物を管理統治する責任、選択の自由さ、共に生きる共同性に顕著に表れています。

しかし果たして現実に私たちが神のかたちを保っているかどうかは甚だ疑問です。

それは罪の堕落により地に落ち、神のかたちは損なわれ失われてしまっているのです。

更に驚くべきことは、完全な神のかたち(コロ1:15)である御子を神が我々の内に神のかたちを回復するため世に送られたことです。

十字架により罪の赦しを信仰により得る者は、新しく再創造された人です。

主にある者には神のイメージの回復が実現するのです。