2月26日礼拝説教(詳細)

「と、書いてある」  ルカ4章1〜4

さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川から帰られた。そして、霊によって荒れ野に導かれ、四十日間、悪魔から試みを受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。

そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるよう命じたらどうだ。」

イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。

主を賛美します。今日の聖書箇所ルカ4章をお読みします。確か8日の祈祷会だったと思いますが、奨励担当のY姉が息子さんのN君の高校受験に触れられ、2月には私立高校、3月には本命の公立高校受験を控えているとのことでした。2月3月は受験シーズンであって、学生諸君にとっては緊張の続く日々ではないかと思います。

さて、今日の聖書箇所の主題を見ると「試みを受ける」となっており、これは、主イエス・キリストが公生涯の初めに荒野で悪魔から試みを受けられた出来事であります。

.試惑の理由

主イエス・キリストが試みを受けられた。しかも、悪魔から試みを受けられたと、語られれているのです。この箇所を読んでいると、どうしても、何故どうして、イエス様が、悪魔によって試みられなければならなかったのだろうかと、思わない訳にはいきません。

    聖霊の目的

1節「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川から帰られた。」ヨルダン川から帰られたとは、その前の3章21節からすると、イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けて来られた後のことだと分かりますね。更にどこに帰ろうとされたのか、その先の4章14節からすると、ヨルダン川からガリラヤに帰ろうとされていたことが分かります。ということは、この荒野の試みが、ヨルダン川とガリラヤの間にあったということになるでしょう。しかも、イエスは「霊によって荒野に導かれた」というのです。霊とは聖霊のことです。ヨルダン川では、洗礼を受けられると聖霊が鳩のようにイエスの上に降っている、その同じ聖霊が悪魔の試みに導いているのです。聖霊は神様ですね。神様が悪魔の試みにイエスを導かれた。悪魔が主導したのではありません。神様が敢えてそうさせておられるということです。つまり、主イエス・キリストが悪魔に試みられることには、神様の目的があったということです。 ではその目的は何か?

イエスが洗礼を受けられると天から声がありました。「あなたは私の愛する子」それは天の父なる神様による認証でした。「イエスは正真正銘、神の子である」という天の父なる神からの証明です。その認証されたイエスが、ガリラヤに帰ってくる、人々の所にやってくる、私たち人間のいる所に行こうとされていた、そこでメシアとしての働きを開始しようとされていた。その直前に、神様が認証されたイエスが本当に神の子であるか、本当にその使命を果たしうるかどうか、最後のテストをする必要があったのです。ここで、悪魔の試みに勝利することによって、主イエスは、ご自分が神の子であることを確かに神の前に証明なされ、神の子であることを自証されたのです。

    悪魔の目的

では、イエスを試みた悪魔の目的、狙いはなんであったのでしょうか。悪魔は、別な箇所ではサタンとも、試みる者とも呼ばれ、神と人の目に見えない敵対者のことです。悪魔の狙いは、イエスを試みるというよりも、巧みに誘惑し、神の子であるイエスのメシアとしての働きを妨害することです。3節『そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、」』そうです。悪魔は知っていたのです。イエスが神の子であることを。イエスが人類救済のために神から遣わされたメシアであるとを。イエスが十字架に付けられ、罪の身代わりとして死ぬことにより、信じる者に罪の赦しをもたらし、神と和解する救いの働きをすることを知っていたのです。それ故に、悪魔の誘惑の目的は、明らかです。神の子であるイエスを間違った方向へ誘導することによって、神の救いの計画を妨害することにあったのです。

    信徒の目的

更に、この荒野の試みには、私たち信じる者たちの目的があります。それは、私たち信じる者が、人生において試練・誘惑に直面するときに、悪魔の試みに勝利された主イエス・キリストによって、私たちも試みに勝つことが出来るためなのです。主イエスを信じて洗礼に与かった人には試練・誘惑などは一切なく、それからは順風満帆の生活をエンジョイすることができるものでしょうか。とんでもありません。そんなことはないのです。そもそもはたして、目に見えないのに悪魔など存在するのでしょうか。間違いなく存在するのです。ちょうど神様が目に見えなくても間違いなく存在するのと同じです。イエス様を信じるまでは、誰も神様がおられることがわかりません。そして、悪魔がいることなど更々分からないのです。信じない前には、悪魔の手中にすっぽり収まり、完全に支配されていたのですから、悪魔が人に、それと気がつかせるはずがないのです。

ところが、イエス様を信じた途端になのです、神様がおられること、そして、悪魔の現実に目が開かれるのです。悪魔は、誰であっても人が何としても神に近づかないように妨害しようと画策し、それでも一度、人がキリストを信じて神のものとされたなら、何とか、誘惑し、神から引き離そうと、躍起となって働きかけてくるのです。ここで試みと訳された原語のペイラスモスに、実は二重の意味があり、一つは試練で一つが誘惑なのです。聖書では、この同じ言葉が、前後関係から試練とも訳され、誘惑とも訳し分けられているのです。ということは、ある同じ一つの出来事が、私たちの関わり方次第で、誘惑となることもあれば、試練となることもある、ということになりますね。不用心な態度で関われば、私たちを堕落させる誘惑にもなりうるし、御言葉への信頼と祈りによって対処すれば、私たちの信仰の質を高める試練ともなるということなのです。

ヤコブ1章2節にはこう記されています。「私の兄弟たち、さまざまな試練に遭ったときは、この上ない喜びと思いなさい」何故でしょうか。それは試練に遭えば、その人の信仰が試され、質が高められ向上するからです。更にヤコブ1章13節には、こうも記されています。『誘惑に遭うとき、誰も「神から誘惑されている」と言ってはなりません。 神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、ご自分でも人を誘惑したりなさらないからです。人はそれぞれ、自分の欲望に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。そして、欲望がはらんで罪を産み、罪が熟して死を生みます。』試練は神様が、その人の信仰をテストするために与えられるものです。

しかし、誘惑は、悪魔が、その人の弱みに漬け込み、堕落させようと仕掛けてくるものです。しかし、誘惑について覚えておくべきことがあります。誘惑する悪魔も神様の手の内に置かれており、完全に支配されている、ということです。神様は、悪魔をも御目的のために、用いられるお方であり、悪魔にはやること全てに限度、制限があるということです。私たち人間は、実に際どい生き物ですね。自分で判断し決断する自由が与えられており、同じ出来事に対して、どう対処するべきかによって、その結果が全く違ってくるというのですから。

II. 試惑の実際

ここには、主イエス・キリストが荒野で悪魔から受けたと言われる三つの誘惑が記録されています。同じ試練、誘惑をマルコも1章12、13節に記していますが、マルコは具体的な誘惑内容を省いています。それは、イエスが悪魔に誘惑され、完全に勝利されたことを強調するだけで十分だということでしょう。誘惑の具体的内容は、マタイもルカも三つだけなのですが、ルカ4章13節に「悪魔はあらゆる試みをし尽くして」とあることで、荒野の誘惑は三つだけで終わったのではなく、多方面に及んだと理解すべきであります。ここにあるのは、①石をパンに変える誘惑、②世界展望の誘惑、③神殿から飛び降りる誘惑ですが、今日は、第一の誘惑だけに絞って見ていくこととし、残りは来週にすることにいたします。主イエス・キリストに対する悪魔の熾烈な誘惑の第一は、石をパンに変える誘惑でした。そして、ここに、私たちは、改めて悪魔、サタンの狡猾さ、巧妙さを見せられるのです。

 欲望を突く悪魔

「この石にパンになるよう命じたらどうだ」という悪魔のイエスに対する巧みな誘惑は、第一に、人間イエスの欲望を突くものでした。イエスはこのとき、極端に空腹でありました。聖霊により荒野に導かれ40日間、何も食べない、断食をされていたのです。断食をするとは、ただ食べないというのではなく、食事を絶って祈りをすることです。祈りに心を集中するために、断食をするのです。その結果、当然、イエスは空腹になられました。

私も、50年前、27、8歳の頃、北海道の北見市の断食道場で6日間、断食したことが思い出されます。その夏のこと札幌の愛隣チャペルの青年キャンプで説教を頼まれ、北見市の広大な葡萄園で奉仕をし、その帰りに、そこに開設されたばかりの断食道場で私も実践したという訳です。札幌の材木会社を経営するクリスチャン実業家が開設したもので、私に最初の実験をお願いされたのです。どちらかというと体力の無い痩せた私にとっては、それはそれはシンドイ経験でした。二日目あたりから、もう掛け布団を除けるのも困難なくらいに、力がなくなりましたね。しかし、イエス様の場合は違います、なんと言っても40日間ですから、比較にならない断食です。空腹である。それは何か食べ物を食べたくなる食欲の問題です。それは当然の生理作用であって当たり前の現象です。悪魔はその人間としての当たりまえの生理作用、空腹、食欲を突いて、イエスを誘惑したのです。

先に読んだヤコブ1章14節はこう語ります。「人は、それぞれ、自分の欲望に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。」人間に生理的な本能として備わっている欲、それは本来、神から与えられた生きていくために不可欠な能力です。それなしに人は生きていけません。しかし、悪魔は、その本来善なるもの、大切な欲という本能的機能を突いて誘惑を仕掛けてくるのです。その本能的欲望を満たすために、その人の用いる手段を誤らせることによって、罪を犯し、堕落するようにと、そそのかし、誘惑するのです。

本能的欲は、食欲だけではありません。性欲があり、所有欲あり、支配欲あり、睡眠欲、集団欲ありで、挙げたらキリがないくらいです。それが人間の生きるエネルギーでもある。しかし、欲望に引かれて罪を犯させる、それが悪魔の誘惑の手なのです。

先週金曜日24日は、ロシアのウクライナ侵攻1周年目でした。ロシアはこれを「特別軍事作戦」と呼び戦争であることを否定し、ウクライナで虐待されているロシア人を救済するためだと正当化しています。しかし、その戦争の動機を煎じ詰めれば、飽くなき貪欲に他ならないのです。国土を拡大することで大国とするための戦争なのです。

ヤコブ4章1〜3節をご覧ください。「あなたがたの中の戦いや争いは、どこから起こるのですか。あなたがたの体の中でうごめく欲望から起こるのではありませんか。あなたがたは、欲しがっても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、求めないからです。」ロシアは、自分の領土を拡大し大国となる欲望に負けて、彼らは戦争に突入したのです。私たちとて同様です。自分の個人生活において、自分の本来は正当な欲望を満たすために、その手段を誤るときに、とんでもない罪を犯すことになることを覚えておかねばなりません。

  能力を突く悪魔

そればかりか、悪魔は、人間の能力を突いて誘惑するのです。悪魔は、イエスに「神の子なら」と呼びかけ、石をパンになるよう命じるよう誘惑しました。悪魔のこの「神の子なら」という呼びかけは、心をくすぐる気持ちの良い響きがする語りかけです。イエスは、今しがた、ヨルダン川での受洗で、天からの父の神の子としての認証を受けたばかりです。イエスは、日頃から得ていた神の子としての自覚をこの時点で、はっきりと意識されたに違いありません。「神の子である」とは、イエスは人間であっても神であるということです。神であるとは全能である、何でもできないことはない、無限の能力を有するということです。それ故、悪魔は、「あなたは神の子である、であろう、だから、何でもできないことないはずだ、自分の空腹のために、そこにある石ころでも、パンにできないことはないだろう。さあ、やってご覧、そして空腹を満たしたらいいではないか」と誘いかけたのです。言って見れば、悪魔はイエスの持てる能力、そしてその立場を突いて誘惑を仕掛けたのです。できることならやったらどうかと。私がもし、その荒野にいて、同じように空腹になったとしても、悪魔は、同じようには誘惑してこなかったでしょう。私には初めから石をパンに変えるような力などあるはずがないのですから。しかし、悪魔は人の持てる能力、力、才能、天分、立場を突いて人を誘惑し堕落させようとする、その原則に変わりないのです。勿論、私たちには石をパンに変えるような力はありませんが、パンを得る、日毎の糧を得る、日常生活に欠かせない品々、物質を取得する力、手段があるものです。学校で勉強し、上手くいけば有力な会社に採用され、働いて給料を得ることができます。家が資産家であれば、親ゆずりの遺産を相続し、生活に苦労することがない人もいる。先日も紹介した、青年達に関心の高まる呼びかけ「ファイア・セミナー」もある。

Financial Independence Retire Ealy.の頭文字をとって「早期退職経済自立」を F I R E と言うのです。中には、6千万を貯め、働かなくても生活ができると自慢する青年も紹介されてもいました。しかし、どの場合にも、目に見えない悪魔に誘惑されていることに、全く気がついていないのです。合法的に遺産相続受け、合法的に真面目に働いて給与貰い、資本に投資して利潤を得て、どこが悪いのだ。そう思うのです。しかし、それこそ、悪魔の罠であり、誘惑に陥っている姿なのです。

  反駁された悪魔

その時、石をパンに変えるよう唆されたイエスは、悪魔に反駁(はんばく)し、こう言われました。『「人はパンだけで生きるものではない」と書いてある。』これは申命記8章3節の引用です。これは人が生きるのに「パンがいらない」と言っているのではありません。人が生きていくためにパンは必要なのです。日用品、物質が必要です。それに間違いはありません。しかし、生きるのはパンだけではないのです。人が悪魔に誘惑されるのは、まさにここにあります。パンは人間生活の必要品、物質的な全てを代表する言葉です。ここで神の子イエスが、自分の必要のため、空腹を満たすために、石をパンに変える奇跡を実行したとすれば、どういうことになったでしょうか。そうすれば、そのとき、イエスは、人間の生活の必要品、物質を奇跡的にいつでも満たすことのできる、頼もしいメシアになってしまうのです。先週は、9章から5000人の給食の奇跡からお話しました。同じ奇跡を記したヨハネ6章を見ると、その結末が書いてあるのですね。14、15節をご覧ください。『人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来るべき預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、独りでまた山に退かれた。』その時、群衆は満腹すると、イエスを王に祭り上げようとしたというのです。この方を自分たちの政治的な統治者に据えれば、絶対に食いっぱぐれることはないと、確信したのです。しかし、イエスはそれを退けられました。それは、メシアの本来の目的ではないからです。 それは、神様が神の子イエスをこの世に送られた目的ではないのです。

イエスの引用された申命記8章を全部引用するとこうです。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きるということを、あなたに知らせるためであった。」すなわち、人間は自分を創造された神様との正しい関係を保ち、神様と交わり生きることが本分であるということなのです。それを得させる道が十字架でした。十字架に掛けられるために来られたのです。イエスは、奇跡を沢山行われましたが、それによって、人を神様に立ち返らせようとされたのではありません。十字架に命を捨て、罪の赦しを得させることによって、神に人は立ち返ることができるのです。その意味でイエスは命のパンなのです。

III. 試惑の対処

人となられた神の子イエス様が、荒野で悪魔の誘惑を受けられたように、私たちもまた、誘惑・試練を避けることはできません。パンの誘惑は、誰にとっても死活問題であり熾烈な誘惑です。悪魔は私たちの本来の善なる本能的欲望を突いて誘惑し、パンを得る能力を突いて誘惑し、神様を度外視しパンだけで生きようとする誘惑へと誘い、堕落させようと仕掛けてきます。これに敢然と対処しなければなりません。対処するにはどうすべきでしょうか。

  御言葉に固く立つこと

主イエス・キリストが御言葉を引用して悪魔に立ち向かったように、神の言葉に固く立つことです。主は 3 回も悪魔の誘惑に対して「と、書いてある」と聖書から引用して立ち向かわれました。ここでは、もっぱら申命記からの引用ですが、聖書全てに、あらゆる悪魔の誘惑に対処する言葉が備えられています。テモテ第二3章16節「聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。」ですから、聖書をよく読み、できれば暗誦することに務め、いつでも対応できるように、心に蓄えておき、必要に応じて、悪魔の誘惑に対処しましょう。

 主の祈りを祈ること

パンの誘惑に対しては主の祈りを毎日祈ることがここでも大切でしょう。何故なら、主は「私たちに日ごとの糧を今日お与えください。」と祈るように教えられたからです。そして、「私たちを試みに遭わせず、悪からお救いください」とも祈るよう教えられておられるからです。私たちが祈るときに、悪魔に勝利された主イエスが、私たちに悪魔に勝つ力を下さいます。

  食前に感謝すること

それに加えて、食事をする際の食前感謝の祈りを忘れずにしましょう。これを毎日、毎食、欠かさないで実行することが大切なのです。日用の糧、必要なパンは、神様が下さると確信して感謝することが、パンの誘惑に勝つ秘訣なのです。今週の歩みにおいて、神の言葉を引用し、祈り、感謝し、悪魔の誘惑に勝利することにいたしましょう。

219日礼拝説教(詳細)

「魚二匹パン五つ」  ルカ9章10〜17節

使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに報告した。イエスは彼らを連れて、自分たちだけでベトサイダという町へ退かれた。群衆はこれを知って、イエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々を癒やされた。

日が傾きかけたので、十二人は御もとに来て言った。「群衆を解散し、周りの村や里に行って宿をとり、食料を調達するようにさせてください。私たちはこんな寂しい所にいるのです。」

しかし、イエスは言われた。「あなたがたの手で食べ物をあげなさい。」

彼らは言った。「私たちには、パン五つと魚二匹しかありません。まさか、私たちが、この民みんなのために食べ物を買いに行けとでもいうのでしょうか。」というのは、五千人ほどの人がいたからである。

イエスは弟子たちに、「人々をおよそ五十人ずつひとまとまりにして座らせなさい」と言われた。弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。

イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それを祝福して裂き、弟子たちに渡しては群衆に配らせた。

人々は皆、食べて満腹した。そして、余ったパン切れを集めると、十二籠あった。

主の御名を賛美します。今日の聖書箇所をお読みします。主イエス・キリストは、僅か二匹の魚と五つのパンで5千人を養い、食べた人々は一人残らず満腹したというのです。この「五千人の給食」と呼ばれる奇跡物語は、キリストの復活以外では、沢山ある奇跡の中でも、四福音書全部に載せられている唯一の奇跡であります。また、これだけ大勢の前で行われた奇跡は他にありません。それだけに、この奇跡は非常に印象的でありますし、込められた意味内容も深いものがあるに違いありません。

.給食の奇跡

事の発端は、イエスにより宣教に遣わされていた12人の使徒達の報告でした。「使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに報告した。」と10節が始まります。これに先立つ9章1、2節によれば、イエスはその選んだ12人に、悪霊を追い出す力、病気を癒す権能を授け、彼らを福音宣教に派遣されていたことが分かります。二人一組で、6組のそれぞれが違った町々に派遣されたのですから、彼らが出会った人々も違えば、経験した出来事も皆違っていたことでしょう。上手く成功したこともあれば、失敗したことも沢山あったことでしょう。彼らは、興奮して我を争い、生き生きと自分たちの行なってきたことを、イエスに報告したに違いありません。私たちは、先週12日の礼拝後に、前年度の決算総会をしたばかりであります。教会は、自分たちが行なった働きの結果を、公に報告するということが非常に大切なことであります。教会活動は、私たち人間の営みであると同時に、これは神に委託された働きなのですから、報告することが教会の重要な責任なのであります。

報告を終えたその弟子達を、主イエスは、直ちにガリラヤ北東岸のベトサイダに連れて行こうとされました。働きを終えて疲れていたに違いない弟子達を休ませるためです。食事をする暇もなかった程、多忙だったと言われているのです。ところが、突然この試みは中断させられてしまいました。大勢の群衆が、それと気づいて後を追いかけてきたためです。その群衆の数が、「五千人ほどの人がいた」とあるのですが、これは男性だけの数だとすれば、女性子供を入れれば、1万人から多くて2万人もいたことになります。この大勢の群衆を、主イエスは決して厭わず、歓迎されました。優しく迎え入れ、彼らに神の国の教えを語り、治療の必要な病人たちには、懇切丁寧に癒しの業をなされました。

問題は、夕方になりかけた時のことでありました。12人の弟子達が、主イエスに解散を提案したことにあるのです。「群衆を解散し、周りの村や里に行って宿をとり、食料を調達するようにさせてください。私たちはこんな寂しい所にいるのです。」と、彼らはこう提言していたのです。ところが、それに対する主イエスの回答は、弟子達にとっては、全く意外な想定外の命令でありました。主がこう言われたのです。「あなたがたの手で食べ物をあげなさい。」これには、さしも従順な弟子達といえども、いささかカチンときたのではないでしょうか。反発してこう問い返しています。「私たちには、パン五つと魚二匹しかありません。まさか、私たちが、この民みんなのために食べ物を買いに行けとでもいうのでしょうか。」私たちもどうでしょう、この弟子達の意見には、「そうだ、その通りだ」と同情的な気持ちにならないでしょうか。夕暮れ時の差し迫った時間、人里離れた寂しい場所、とてつもない大人数のことを思えば、常識的に道理にかなっている、イエスの提案は無理難題だと思って当然でしょう。

ところが、意外や意外、主イエスは群衆を座らせ、そのパンと魚を取り寄せるなり、祝福しては裂き、弟子達に手渡し群衆に配らせ、その結果、何と群衆全員が、一人残らず、満腹したというのです。これは驚くばかりの驚天動地の奇跡であります。しかし、私たちはただ驚嘆するばかりではありません、この給食の奇跡が何を意味しているかを悟らなければならないのです。

.イエスはキリスト

すべての人間、一人一人に問われている最も重要な質問があります。それは「イエスとは一体誰なのか」という問いなのです。すべての人は、この問いに答えなければなりません。そして、その答えが実は、この給食の奇跡にあるのです。今日は読みませんでしたが、この奇跡物語は、イエスに関する二つの質問が語られている二つの段落に、サンドイッチ状に挟まれております。

その一つが7〜9節のヘロデ王の発言に関する箇所です。

もう一つはというと、18〜20節のペテロの信仰告白に関する箇所なのです。

当時のユダヤ領の国主であったヘロデ王が、ほとほと困惑していたことがここで分かります。彼の耳に次々と入ってくるイエスに関する風評に、ヘロデ王は、非常に戸惑いを覚えていました。彼はすでに、自分の結婚問題を厳しく糾弾したバプテスマのヨハネの首を切って殺害しております。彼を最も悩ましたのは、イエスのことを「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」という噂でした。かと思えば「エリヤが現れたのだ」とか「昔の預言者の一人が生き返ったのだ」とか、今よく耳にするフェイクニュースまがいの風評が、全国各地に飛び交っていたのです。それ故に、彼の疑問は、「ヨハネなら、私が首をはねた。では、耳に入って来るこの噂の主は、一体、何者だろう」です。即ち、イエスとは一体、誰だという疑問だったです。

そして、18〜20節を読むと、全く同じようなフェイクニュースを弟子達が、イエスの質問に対する答えの中で語っているのが分かります。18節を見ると、イエスが弟子達にこう質問しておられます。「群衆は、私のことを何者だと言っているか」それに対して弟子達は全く同じように答え、「洗礼者ヨハネだと言う人、エリヤだと言う人、他に、昔の預言者の一人が生き返ったと言う人もいます。」と答えていたというのです。因みに、「昔の預言者」とは、イスラエルを昔、エジプトの過酷な奴隷から解放した、あの有名なモーセのことを指していることに間違いありません。お分かりでしょう。この給食奇跡は、この二つの重大な質問、「イエスとは何者だろう」に、挟まれているのです。

この時、イエスと弟子達の置かれた状況は、5千人が、いや、男女子供含めて2万人近い群衆が、空腹な状態に置かれていたということでした。弟子達はここで、「私たちには、パン五つと魚二匹しかありません」と率直に自分たちの現状を訴えました。このパンと魚は、ヨハネ6章によれば、どうやら一人の少年が持参していたお弁当のようです。魚とは今風で言えばアジの干物と思えばよろしいでしょう。同じヨハネ6章では、弟子のピリポが「めいめいが少しづつ食べたとしても、二百デナリオンのパンでは足りないでしょう」とぼやいています。二百デナリオンとは一人の一年分の給料に相当する額ですから、仮に200万円としても、割り算すれば一人100円となりますね。当時の一食分が現在に換算していくらかわかりませんが、明らかにこれだけあっても足りないでしょう。彼らはイエスに派遣されるに当たって、「何も持って行くな、金も持ってはならない」と厳命されていたのですから、その時、一文なしであったことに間違いありません。ちょっとここで、お米で考えたらどうなるでしょうか。1人1合の米と考えるとだいたい 200g、10 人で 2㎏、100 人で 20 ㎏、1000 人で 200㎏、1万人で 2t、2万人で 4tです。4tトラック1台分の米が必要ということになります。そんな食べ物が、どこにあるのか。となりますよね。

何とそれをイエスは、裂いて弟子達に渡すと、どのようにしてか分かりませんが、次々に増えて行く。そして、二匹の魚と五つのパンで全員を満腹にさせられたというのです。これは質量不変の法則に反する現象ではありませんか。物質が移動したり、その形状が変化することはあっても質量そのものは変わらない、それが科学的法則です。水を熱して蒸発させると体積は1700倍に膨れますが、現象としては増えても質量に変化はないのです。しかし、イエスが祝福するとパンはどんどん増える、魚も次々に増える、遂に2万人が満腹したというのです。これは科学法則に反する現象です。ですから、信じられない人は、別な説明をしようとします。これはイエスがその小さな弁当を近くの人に分かち与えたので、多くの群衆は自分が持参していた弁当を、持っていない人がいれば、イエスに倣って分かち与えたのだ、だから、結果的に、みんなお腹を満たすことができたのだと説明する仕方です。しかし、それでは奇跡ではありませんね。それでは、わざわざ四つの福音書に掲載され、記録に残されるはずがなかったでしょう。

この給食奇跡があったからこそ、ペテロの信仰告白が導かれたのではないですか。20節で「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか。」と、イエスに問われたペトロが即座に、「神のメシアです。」と答えたのは、この偉大なパンの奇跡があったからではないでしょうか。マタイ伝では更に詳しくペテロの告白を「あなたはメシア、生ける神の子です。」と記録しています。イエスは、律法を代表する偉大なモーセ以上なのです。イエスは、預言者を代表するエリヤ以上なのです。イエスがメシアだから、イエスがキリストだから、イエスが神の救い主だからこそ、このパンと魚の奇跡は当然起きたのです。イエスは天地を創造された神が人となられた方、キリストなのです。イエスは自然法則、科学法則を造られた方なのです。その創造者にとって、科学法則を超えることは全く問題がないのです。

この奇跡の結果、群衆が皆満腹したことが17節で分かるのですが、そこに、弟子達が余ったパンを集めると12籠あったとありますね。この5千人の給食は、四福音書全部にあるのですが、実はマタイとマルコには、他に4千人の給食が記録されてもいるのです。そのマルコの福音書の8章では、やはり余ったパン切れのことが書かれており、そこでは「七籠になった」とされているのですね。非常に興味深いことは、5千人の場合の籠は、原語では「コープシノス」で、4千人の場合の籠は、「スプスリス」と違っていることです。調べて分かることは、「コープシノス」は柳細工でユダヤ人が使う籠、「スプスリス」は異邦人達が使っていた籠のことで、形状も全く違っていました。つまり5千人の場合に集まってきた群衆はユダヤ人であり、4千人の場合に集まった群衆は異邦人であったということなのです。これは奇跡のあった地名によってもわかっていることで、4千人の場合はガリラヤ南東部の異邦人が住むデカポリスの住民、すなわち異邦人が群衆となって集まっていたのです。

使徒パウロはローマ1章16節でこう告白しています。「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救いを得させる神の力である。」ギリシャ人とは異邦人を代表して言う表現です。5千人の場合も、4千人の場合も群衆は満腹しました。ユダヤ人も異邦人も、すべての人を満足させることのできるメシア、キリスト、救い主、それがイエス・キリストなのです。

.イエスの受難

次に、主イエスが、この時、どのように奇跡を行われたかを、16節にみてみましょう。「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それを祝福して裂き、弟子たちに渡しては群衆に配らせた。」この節を読むとき、思い出される聖書箇所があるのではないですか。その一つが、ルカ22章19節なのです。そこにはこう記されます。「それから、イエスはパンを取り、感謝して祈りを捧げてそれを裂き、使徒たちに与えて言われた。」もう一箇所が、ルカ24章30節なのです。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、祝福して割き、二人にお渡しになった。」最初の箇所は、最後の晩餐の席上のことです。二つ目は、復活のキリストがエマオへの旅人に現れた場面です。この二箇所に、何と、あのルカ9章16節と全く同じ言葉、「取り、祝福し、裂き、与えた」が使われているのです。

ということは、この5千人の給食は、イエスが何をなさろうとされるのかを、即ち、十字架の受難を指し示しているということなのです。イエスは神のメシアです。神のメシアは、私たちに罪の赦しを得させるため、十字架で命を捨てるために来られました。それを指し示しているのがこの奇跡なのです。ですから、その後の9章の21節が続くのですね。イエスは弟子達にこう語られます。「人の子は必ず多くの苦しみをうけ、長老、祭司長、律法学者達から排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」給食の奇跡でパンを裂いて弟子達に渡されたイエスは、このパンが手で裂かれるように、十字架上でご自身の身体が引き裂かれる受難を予告されたのです。ですから、この給食の奇跡は、私たちが礼拝で預かる聖餐式に繋がるものなのなのですね。ここ3年間は、コロナのパンデミックのために、私たちは聖餐式のパンも裂くことなく、皆さんに手渡していますが、パンを裂いて手渡すことが望ましいですね。この私たちの聖餐式の席に、復活の主イエス・キリストが、私たちに豊かな命を与えようとおられるのです。

.神の国の祝宴

そればかりか、給食の奇跡は、神の国の祝宴の先取りです。12人の使徒達は派遣されると、神の国を宣べ伝えてきました。五千人の群衆が押し迫ってくると、イエスは彼らを歓迎し、神の国について語られました。イエスから神の国の真理を聞かされた群衆は、イエスによって配られたパンと魚によって満腹になり、大きな喜びに包まれました。使徒パウロは、ローマ14章17節にこう喝破しています。「神の国は、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」神の国は、神の御子イエス・キリストにより歴史の中に、すでに到来しました。神の国はイエス・キリストによる、全く新しい歴史の中での神の支配なのです。そして、イエス・キリストにより神が支配されるところには、義と平和と愛とが満ち溢れ、人の心が満たされるのです。ピリピ4章19節には、こう言われています。「私の神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスにあって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」神様は、必要なものをすべて満たしてくださる。この5千人の給食は、その神の国の喜びを指し示しているのです。神の国の完全な祝宴は、キリストが再び来られるときに実現するものです。しかし、神の国の祝宴は、信じる者の生活の中にすでに経験されつつあるのです。イエスは言われました。「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ6章35節)イエスは言われました。「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11章28節)イエス・キリストを信じる者は、満腹させられるのです。神の国の祝宴に預かり喜びに満ち溢れるのです。

.協働の召命

さて最後に、キリストが「あなたがたの手で食べ物をあげなさい」と、言われるとき、ここに、我々に対するキリストとの協働への招きがあることを覚えておきましょう。

  協働への招き

それまでの弟子達は、いつでもイエスの為される数々の奇跡の御業に驚きをもって目を見張る傍観者であったでしょう。しかし、今や、彼らは、自分たちの捧げたパンと魚が、イエスによって裂かれて渡され、群衆に配布するときに、自分の手の中に奇跡を実感させられたのです。それは、イエスが彼らを招き「あなたがたの手で食べ物をあげなさい」と、これから為される業へと呼び出されたからです。そして、これは今朝、ここにいる私たちへの招きの言葉でもあるのです。主イエス・キリストは、私たちを、神の国を広める神の働きの協働者にしたいと望まれ、私たちにも「あなたがたの手で食べ物をあげなさい」と招いておられるのです。

②現実逃避の危険

しかし、あの弟子達が2万人の大群衆の必要の現実に恐れをなして、現実から逃避しようとしたように、私たちもまた、自分の無力さを覚えて、萎縮してしまう危険が常にあるものです。弟子達は、群衆を解散させて自分たちで食物を探すように提案し、責任逃れをしようとしました。私たちもまた、とてつもない必要の現実を前にすると、それをなるべく見ないように避けたり、こうなっているのは誰それが悪いからだと、責任を誰かに転化してしまいかねません。

持てるものを献げる

弟子達は、現実逃避する理由を自分たちの無力さにし、「私たちには、パン五つと魚二匹しかありません。」と言い訳しました。ところが主イエスは、その僅かな差し出されたパンと魚を用いて奇跡を起こされたのです。「こんなことは無理です」「もうついて行けません」「とても出来ません」「これしかありません」というところから、実は神様の業は始まるのです。私たちが自分で出来る、十分にあるから、と思ってやることは、自分の業でしかありません。こう頑張って、こうなったという世界でしかありません。しかし、イエスは弟子達を神の国の業へと招かれるのです。「あなた方には出来ないが、しかし、やりなさい」「私がするのだから、あなたがたも協力しなさい」と招いておられるのです。大切なことは、たとえそれが僅かであっても自分の持てるものを主に献げることです。献げられたものが主に祝福された瞬間に、パンが増え始めたように、不思議が起こるからです。

今月届けられた月刊誌により、日韓合同の劇映画「愛の黙示録」という作品があることを私は知り、是非見たいと取り寄せ、家内と鑑賞する機会がありました。その説明書きを読むとこう書いてあります。「日帝統治時代の韓国木浦(モッポ)で、日本人音楽教師、田内千鶴子はキリスト教伝道師で共生園園長の尹致浩(ユン・チホ)に出会い、周囲の強い反対と冷遇にも関わらず彼と結婚し、共に孤児を育てる。しかし、朝鮮解放や朝鮮戦争の激動の中で、夫は行方不明となり、廃墟となった共生園は戦争孤児で溢れる。一人残された千鶴子は孤児たちのオモニ(母)となり、彼らを守り育てながら夫の帰りを待つ。一方、息子の基は、自分だけのオモニになってくれない母への不満が募り、同年代の孤児からはチョッパリとからかわれ、次第に孤独感を募らせていくが、、、」と続きます。田内さんは、高知市若松町の生まれで、7歳で両親と共に日本統治下の木浦市に渡られました。想像を絶する激動を生き抜き、3000人の孤児を守り育て「韓国孤児の母」と呼ばれています。田内さんが亡くなった時、葬儀には市民3万人が参列したということです。私はこの映画を通じて、「あなたがたの手で食べ物をあげなさい」というイエスの召しに従った弟子の一人を、田内千鶴子さんに見る思いがしました。日本軍人の残虐非道により両親を失った孤児たちを、自分の子供と一緒にして母となって守り育てる姿は感動的です。田内さんは、自分が生きた時代、自分の置かれた状況の中で、必要とされる現実に自分を捧げていかれたのです。主は今日も、私たちに「あなたがたの手で食べ物をあげなさい」と主と共に働く協働者となるように、私たち一人一人に呼びかけておられるのではないでしょうか。

2月12日礼拝説教(詳細)

「主の御心ならば」  ルカ5章12〜16節

イエスがある町におられたとき、そこに、全身規定の病を患っている人がいた。イエスを見てひれ伏し、「主よ、お望みならば、私を清くすることがおできになります」と願った。

イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「私は望む。清くなれ」と言われると、たちまち規定の病は去った。

イエスは彼に厳しくお命じになった。「誰にも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」

しかし、イエスの評判はますます広まり、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気を治してもらうために集まって来た。だが、イエスは寂しい所に退いて祈っておられた。

主の御名を賛美します。今日の聖書箇所をお読みします。これは、イエス・キリストがある病人に手を触れ、瞬間的に癒やされた物語であります。病気は病気でも、それは、この聖書訳では規定の病ですが、以前は癩(らい)病と理解されていた病気です。癩病でなく規定の病と訳された理由は、原語のレプラが、必ずしも癩病を意味するだけではなく、かなり広範囲の皮膚病を含む病名でもあるからでした。ここで癒やされた人のレプラが、真正の癩病であったとすれば、それは現代では、癩菌の発見者であるノルウエーのハンセン氏に因んでハンセン氏病とも呼ばれる病気です。このレプラを規定の病と訳した背景にはまた、この病気の対処の仕方について、実に厳格に聖書の律法で規定されていたからなのです。その内の一つ、レビ13章45、46節を引用すればこのようなのです。「規定の病にかかった人は衣服を引き裂き、髪を垂らさなければならない。また口髭を覆って、『汚れている、汚れている』と叫ばなければならない。その患部がある限り、その人は汚れている。宿営の外で、独り離れて住まなければならない。」随分厳しいですね。ここで、患者が守らなければならない規定は三つになります。第一に癩病人だと分かる格好をすること、第二に人に近づくときは「汚れている」と告げ、自分が癩病人だと知らせること、第三に、社会から離れて独りで生活しなければならないことです。

私がまだ高校二年生だったと思います。教会の牧師が「高木君、訪問に行くが一緒に行くか。」と誘われたので、私は牧師の運転するスクーターの後ろに跨って着いて行きました。ところがです、その行った先が、癩病患者が千人ほども収容された施設、清瀬市の全生園だったのです。それからも何回か訪ねる機会がありましたが、そこには重症、軽症の方々が多数収容され、重症の方々に面会したときは、正直ショックでした。それはそれは、見るに見かねるような容姿であったからなのです。イエス・キリストの前に現れ、ひれ伏し、嘆願した人物は、この規定の病、癩病人でした。実は今日、私は、この癩病人が嘆願した中の一つの言葉、「主よ、お望みならば」に焦点を合わせようと思うのです。参考までに他の聖書訳を紹介しておきます。「お心一つで、御心ならば、御心一つで、お気持ち一つで、お心さえあれば、御意ならば」最後は文語訳ですが、日本の昔の家来が殿様に語るようですね。ですから、今日の説教題を「主の御心ならば」としたのはその故なのです。「主の御心ならば」これ実は、人が信仰を表明する際に、非常に大切な言葉使いなのです。

.主権の信仰

この癩病人が、「主よ、お望みならば、私を清くすることがおできになります」と、頭を地面に擦り付け平伏し、主イエスに嘆願したこと、それは彼の精一杯の信仰の表明であったということです。彼が「私を清くすることがおできになります」と言ったことだけでも取り上げれば、この癩病人が、主イエスの奇跡をもたらす力に対して、全幅の信頼を寄せていたのだと分かります。癲癇で苦しむ自分の子供のことで、別な箇所に登場してくる父親が「もしおできになるなら助けて下さい」と、主に嘆願した信仰とは全く違います。「もしおできになるなら」という言い方は、キリストの力に対する信頼があやふやであって、できなければ仕方ない、という中途半端な信仰表明になります。ですからその時に、「もしできるなら、と言うのか、」と主イエスは譴責しておられますね。ところが、癩病人にとって、主イエスに癒し清める力があることに関しては、一点の疑い曇りがなかったのです。それは素晴らしい信仰ではありませんか。

しかしそれ以上に素晴らしいことは、この癩病人には、イエス・キリストの主権に対する信仰があったことなのです。「イエス様、あなたには私を癒し清める力がおありです、でも、それは、イエス様、あなたのお心次第なのです」と、彼は謙虚に信仰を表明しているのです。それは、キリストの主権に対する信仰というものです。「この件に関しての主導権、イニシアチブは主よ、あなたにこそあります。」と言い表していることになるからです。そして、その瞬間でした。神の国がこの癩病人に到来したのです。「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『私は望む。清くなれ』と言われると、たちまち規定の病は去った」そうです。癩病人が「主よ、お望みならば」と言うやいなや、主は「私は望む。清くなれ」と言われたのです。そしてその瞬間、癩病でただれた体は元に戻り、病は消え去ってしまったのです。

しかも主は、ご自分の手を差し伸べ、癩病人に触れて癒やされたのです。死体に触れば汚れる、癩病人に触れれば汚れる、汚れたものに触れば触った人も汚れると、律法では厳に禁止された行為であったにもかかわらず でした。キリストがそのとき、癩病人のどの部分に触ったのか、ここだけでは分かりません。頭なのか、肩なのか、顔なのか、手なのか。それは分かりません。けれど、主イエスが手を伸ばされて触れられたのは、きっとこの癩菌におかされ、肉が腐り、その形もくずれた、そういう所ではなかったかと私には思えるのです。主イエスは、この癩病人の患部に触れたのです。この人自身が見たくない所、人にも見せたくない所、誰もが触ることが出来ない所。しかし、そここそが主イエスによって清めていただかなければならない所なのでしょう。

それは私共にもあるのではないですか。自分でも見たくない所、人にも見せられない所。妻にも、夫にも、親にも、子にも、見せたくない所、知られたくない、そういうところがあるのではないでしょうか。そこが癒されていかなければ、本当に新しくなることが出来ません。そういう所がある。誰にでもある。自分の中で、腐り、臭いを放ち、それ故にフタをしている所があるのです。見たくもない、思い出したくもない。しかしそれがあるから健やかになれない。そこを、主イエスに触っていただき、清めていただかなければならないのです。私共は祈りながらも、そこにだけは触れない。主イエスにさえも、そこだけは触れさせない。そんな所があるのではないでしょうか。しかし、それではダメなのです。主イエスの前に、全てを開いて、許していただき、清めていただかなければならないのです。その時、私共は清められ、そして変えられていくのです。自分のこんな所はイヤだと、独り言のようにつぶやいていてもダメなのです。何も変わりません。大胆に、正直に、「主よ、私のここをいやして下さい。清めて下さい。」そう祈ったら良いのです。主は、必ず清めて下さいます。

.従順の信仰

さて、ここで、主によって癒やされた癩病人の、その信仰が更に問われることが、次の場面によって明らかになります。14節です。「イエスは彼に厳しくお命じになった。『誰にも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。』」 主が、癒やされた癩病人に厳しくお命じになった。何を命じられたか、「誰にも話してはいけない。」と言われたのです。彼に黙っていなさい、と命じられたのです。そればかりではありません、「行って祭司に体を見せ」なさい、と命じられています。

新型コロナが猛威をふるいもう三年越しです。新型コロナは感染症の分類では第二類に入るのですが、5月から第五類に移すと政府が決めています。第二類には他にジフテリア、結核、鳥インフルエンザなどが入っており、感染拡大を予防するため、相当厳しい法的規制がかけられています。発熱などそれらしい兆候があれば、直ぐに、P C R 検査を受けるよう勧告され、陽性であれば、隔離され、濃厚接触者も自宅待機を求められます。癩病も恐ろしい伝染病と考えられ、イスラエルでも、古代から感染拡大予防のために、律法で厳しく取り締まられていました。主イエスは、清められた癩病人に「行って祭司に体を見せなさい」と命じました。祭司たちには勿論、癩病を癒すことはできませんが、医者などいない時代のこと、彼らには人が癩病かどうか診断をしたり、治っているかどうかを判定する知識と技能と責任が、律法によって決められていたのです。癩菌に冒された癩病人は、ただ病気で苦しむだけではなく、社会的にも疎外されていたため、彼らが共同社会に復帰するために、公的な証明を必要としていたのです。これは、本人にとっても、社会にとっても非常に大切な処置です。キリストは、この癩病人の病気が癒やされるだけではなく、彼が安全に確実に社会復帰できることを配慮されたのです。

この癩病人が清められて最優先するべきこと、それはモーセの定めた律法に従って、社会復帰の手続きをすることでした。ところがどうでしょう、15節を読むと、どうもこの癩病人は、キリストの命じられたことに従わなかったようなのです。「しかし、イエスの評判はますます広まり、大勢の群衆が、、、集まって来た」と書いてあります。「しかし」が暗示的ではありませんか。その次の文言だけ見れば、一見良い現象のように見えないでもありません。イエスの評判が広まり、有名になったのですから。しかし、これは、「誰にも話してはいけない」とキリストにより命じられたのに、この癩病人が出て行って、自分の身に起こったことを、誰彼構わず喋った結果に違いありません。むしろ好ましい結果ではなかったのです。彼は嬉しくてたまらなかったのかもしれません。永年癩病に苦しめられ、体つきまで変形し、人々から忌み嫌われ、自己嫌悪に陥り、孤独な生活を強いられて来たのですから。彼が、なんとしても、じっと黙っていることができず、人々に次々と話した動機は、間違っていなかったかもしれません。「俺は癩病でこんなに苦しんでいたのに、イエス様がいっぺんに直してくださったぞ、清めてくださったぞ、だから、みんな、誰でもどんな病気があっても、直ぐに行って直してもらったらいいぞ!さあ、行こう行こう!」そう喋ったのでしょう。その結果、大勢の群衆が押し寄せて来たのです。「病気を治してもらうために集まって来た」のです。

実は、同じことを記録しているマルコの福音書では、はっきりこう書かれているのです。マルコ1章45節「しかし、彼は出て行って、大いにこの出来事を触れ回り、言い広め始めた」。大勢の群衆がイエスのもとに押しかけて来たのは、明らかに癩病人が触れ回ったからに間違いありません。その結果、大勢の群衆が押しかけイエスに期待した目的は何か、それはどこまでも、目にみえる癒しと奇跡であったに違いないのです。このような人々の姿を私たちは、「徹底的現世主義」と呼ぶことができるのではないですか。無病息災家内安全です。とどのつまり、キリストなどどうでもいいのです。ただその力だけが欲しい、眼に見える幸、幸福、至福が与えられさえすれば、それでいいという現世主義なのです。

主イエスは、癒やされた癩病人に「人々に証明しなさい」と命じられていましたね。この「証明する」とは、「証しする」と同じ原語マルチュリオスが使われています。癩病人は積極的に証ししているつもりだったかもしれません。キリストが自分にしてくれた素晴らしい御業を証言しているのだから、正しいことをしているつもりだったかもしれません。しかし、彼のした証しは清めの儀式を抜きにした証しでした。主は「モーセが定めた通りに清めの献げ物をし」て証明しなさいと命じましたが、彼はそれをしませんでした。清めの儀式において行われることは、汚れを引き受ける犠牲が献げられるということでした。旧約聖書のレビ14章にはその儀式の詳細が記されています。長い規定なので全部をここでは読み上げませんが、最初1節を見ると、二羽の清い鳥を犠牲にする規定が記されています。10節からは雄の二匹の子羊を犠牲に捧げる規定が記されています。癒やされた癩病人は、この清めの儀式を軽んじ、無視し、しませんでした。それは十字架抜きの証しに通じる行為と言い換えることができるものです。

病気が癒やされることは素晴らしいことです。交通事故でかろうじて助かることあれば、それは素晴らしいことです。大切なものを落としてしまったが届けられて助かることがあれば、それは嬉しいことです。それはどれも神様の救いの中に入っていることに間違いはありません。しかし、救いの中心は違うのです。全く違うのです。救いの中心は、キリストの十字架の死と復活による罪の赦しです。それによって神と正しい関係に入れられることです。それによって隣人との正しい関係に入れられることです。癩病人は、癩病の清めのために、「主よ、お望みならば」と主イエスに主導権があることを認めて癒やされました。しかし、癒やされ自分の願望が叶って清められた後、彼は主の命令にどこまでも従っていこうとしないのです。自分の気持ちや気分に従って、自分の感情に従って行動してしまいました。

あの使徒パウロがローマの教会に宛てた手紙の冒頭で語った言葉が思い出されます。ローマ1章5節です。「私たちは、この方により、その御名を広めて、すべての異邦人を信仰の従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。」この方とはイエス・キリストのことです。ここに使徒パウロは信仰が何かを明確に示します。信仰とは、十字架に命を捨て、三日目に蘇り、罪の赦しを得させてくださる主イエス・キリストにお従いすることなのです。信仰とは従順に置き換えることができるものなのです。十字架は縦横二本の柱ですが、縦の柱は神との愛による正しい関係、横の柱は隣人との愛による正しい関係を象徴しています。イエス・キリストを信じお従いするとき、人は神との正しい関係、隣人との正しい関係に導かれるものです。今日、私たち一人一人に求められていることは、主の証人になることでしょう。主イエス・キリストが十字架で罪のため犠牲を払われたことを信じ、復活された生けるキリストに従順に従うときに、その証しは正しい意味で有効なものとされることでしょう。

III. 祈祷の信仰

最後に、16節をご覧下さい。ここに「主の御心ならば」と言って主に従う従順な信仰の秘訣が明らかになります。「だが、イエスは寂しい所に退いて祈っておられた」。ここで、この最後の一句に、その秘訣が、主ご自身の模範によって明らかにされるのです。癩病人の話しを聞いて押しかけて来た群衆を、主イエスは歓迎して迎えるより寧ろ、人々を避けて、寂しい所へ退かれました。それは、群衆が絶対的現世主義の錯覚に陥り、ご自分を誤解するのを避けるためです。自分の困っていることなら何でも助けてくれる便利屋であると錯覚したり、どんな病気でも治してくれる神癒祈祷師であると誤解することは、不本意なことであったからです。

主は退き祈られました。神であるにもかかわらず人間となられたイエスは、ここにその人間が神様の御心に生きる最高の秘訣を教えられます。それが祈りなのです。この福音書の記者ルカは「祈りの福音書記者」と呼ばれています。どの福音書よりも、主イエスの祈りの生活を随所に書き残しているからです。主イエスは絶えず祈られました。ヨルダン川での受洗に際して祈られました。癩病人の癒しの直後に祈られ、12弟子選任直前に、ペテロの告白の直前に、山上で変貌される直前に、72人の弟子たちが宣教から帰還した時に、祈りの教えをする前に、受難の目前にゲッセマネで、そして十字架上で祈られました。主イエスは、父なる神様との祈りにより、交わり語り明かすことにより、神様の御心を確認しようとされたのです。主イエスは、ただひたすら父なる神様の御心を行うことを願われました。そして、それは祈りの生活が可能にしたのです。

主ご自身が、「主の祈り」で祈り方を教えられた、その最初の祈り文はこうでしたね。「天におられる私たちの父よ。御名が聖とされますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」(マタイ6章10節)そのように教えられたのは、人は神様に祈ることによって、神様の御心が分かるようになるからなのです。そう教えられたイエス様ご自身が、公生涯の最後にゲッセマネの園で、こう祈られたのを私たちは知っていますね。「父よ、御心なら、この杯を私から取り除けてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。」イエスはひたすら神の御心を求められたのです。イエスはこの同じ祈りを三度祈られました。その祈りにより、イエスは最後的に、神様の御心を確信なされ、その結果、ひるむことなく、十字架に進み行かれました。

私は、教会の迫害者だったパウロが、この主イエスを劇的に改心して信じ、彼がその生涯「主の御心ならば」をいつもモットーにしていたことを思い出します。パウロは、第二次宣教旅行の途次、エペソのクリスチャンたちとの別れ際にこう語っていますね。「神の御心ならば、また戻って来ます」(使徒行伝18章21節)「神の御心ならば」「主の御心ならば」それが彼の人生のモットーでした。

ヤコブもそうでした。彼がこれを大事なモットーにしていたことが、ヤコブ4章13〜15節でわかります。ここにこう勧めている言葉があります。「さて、『今日か明日、これこれの町へ行って一年滞在し、商売をして一儲けしよう』と言う人たち、あなたがたは明日のことも、自分の命がどうなるかも知らないのです。あなたがたは、つかの間現れ、やがては消えてゆく霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生きて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです。」出ていくのも帰ってくるのも、何をするにも、パウロにとっても、ヤコブにとっても、彼らにとっては、主の御心次第だったのです。

新しい年2023年も一ヶ月半が経過しようとしています。去年から依然として引きずっている問題があるでしょうか、自分でも見たくない所、人にも見られたくない所、疼いている心の深い傷があるでしょうか。それが何であったとしても「主よ、お望みでしたら、癒していただけます」と告白することにいたしましょう。今現在、具体的に優先的にするべきこととして、主によって明らかに示されていることがあるなら、主が「しなさい」と命じられることを実行するように致しましょう。努めて今年も祈ることを優先することとし、それによって主の御心を求め、御心に従い進み行くことにしたいものです。「主の御心ならば」これをモットーとさせていただこうではありますまいか。

2月5日礼拝説教(詳細)

「聞く耳のある者」  ルカ8章4~8節

大勢の群衆が集まり、方々の町から人々が御もとに来たので、イエスはたとえを用いて語られた。

「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は岩の上に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、それを塞いでしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽が出て、百倍の実を結んだ。」

イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。

ハレルヤ!最初に聖書を朗読いたします。お祈りします。これはキリストの語られた種蒔く人の喩えです。マタイにもマルコにもある、よく知られた喩えです。農夫が畑に種を蒔いたら、道端に落ちた種は空の鳥に食べられてしまう。岩地に落ちた種は、直ぐに芽が出ることは出たが水気がないので枯れてしまう。茨の中に落ちた種は、一緒に伸びたが、塞がれてしまう。ところが、良い土地に落ちた種だけは100倍の実を結んだというものです。

何か日本人の私たちの常識から考えたら、随分、ずさんな農夫ではないかと思ってしまいますね。私でさえ、農業に関してはズブの素人ですが、種を蒔く前には必ず、最初に畑を耕し、肥料を施すようにしましたよ。石川県の松任時代には、教会の斜め向かいが開放農園で、私も10坪借りて野菜の栽培をしたことがありました。たかが10坪、されど10坪で大変でしたね。一番覚えているのは、春菊の種をばら撒いたことで、一面春菊だらけになり、刈り取っては皆さんに配給したことが懐かしく思い出されます。しかし、当時の農耕方法は、最初に種を蒔いてから、土地を耕すようにしていたようなのです。種が道端や岩地や雑草の中に落ちることがあることは当然あったのですね。喩え話というのは、相手に分かりやすく教えるために、一般生活や自然環境から取られた比喩のことなのですが、主はこの喩えで一体何を教えようとされたのでしょうか。.喩えの教示

第一に、この喩えの前後の箇所の二つの聖句に、その手がかりがあります。1節には「その後、イエスは神の国を宣べ伝え、福音を告げ知らせながら、町や村を巡られた。」とあります。9節を見ると、「弟子たちは、この喩えはどんな意味かと尋ねた。」とあります。そして、その質問に対して、「あなた方には神の国の秘儀を知ることが許されているが、他の人々には喩えを用いて話すのだ。」と主が答えられておられるのです。主は町々を巡回して福音を告げ知らせていました。その中心主題は神の国であったのです。その福音を町々で聞いて集まってきた群衆に、喩えで主が教えられた主題が、神の国の奥義であったということなのです。

新約聖書には122回、神の国、国という言葉が出てくるのですが、そのうちの90回は主が使っておられます。公生涯における主の最初のメッセージは「神の国は近づいた」(マルコ115)でしたし、復活された主が、弟子たちに集中して語られたのも神の国のことでした。この神の国のに使われたバシレイアという原語は、「王様がすべてを支配している」という意味ですから、神の国とは、神様が全てを王として支配している、ということなのです。これはですから、物理的領土的国家ではありませんね。地図の上で幾ら探しても確かめられるような国ではないのです。神の国とは、神様が王である、主である、神様が全てを支配しておられる、世界の歴史を宇宙の歴史を支配しておられる、そういう意味なのです。

では主イエスが来られるまでは、どうだったのでしょうか。それまでは、手付かずだったのでしょうか。そんなことはありません。神様が全てを治めておられることに変わりありません。全ては主の御手に支配されていました。但し、罪を犯して堕落した人類の歴史は別でした。罪とは神を認めず、反逆し、自分のしたい放題にすることです。人間は神様によって造られたにもかかわらず、最初の人アダム以来、意図的に神に従おうとはしないので、神様は、人間のしたい放題にするよう放任されておられた、それが事実でした。その結果として、お分かりでしょう。人間の歴史は悲惨極まりなかったし、今現在でも悲惨なのです。

ところが、主が現れ、「時は満ち、神の国は近づいた」(マルコ115)と宣言された時、それは全く新しい人類に対する神様の支配の開始を告げ知らされたのです。主が宣言された神の国とは、歴史の中に新しい形で起ころうとする、世界に対する神様の新しい支配のことなのです。そして、主が「時は満ちた」と言われたのは、その新しい神様の支配が、イエス様の働きを通して、新しい仕方で、今、世界の歴史の中に入ってきた、ということなのです。ですから、この新しい神の国、新しい形の神様の支配は、小さく小さく開始され、隠れているかのようなのです。それを喩えて言えば、神の国は一粒の種のようであり、ちょうど「種を蒔く人が種を蒔きに出て行く」ようなのです。この喩えで、種蒔く人とは、主イエス・キリストのことです。

11節の主の喩えの解釈を見てください。主はこう解き明かされています。「種は神の言葉である」この神の言葉は、単なる情報伝達的な言語のことではありません。言葉には確かに、コミュニケーションの機能があります。私たちの生活ではそれが一般的です。しかし、神の言葉は、それ以上なのです。言い方を変えれば、神の言葉は、行為遂行的な言語なのです。言葉が行為であり、言葉が発せられると出来事が起こるのです。種を土地に蒔けば、根を張り、芽を出し、花咲かせ、実を結びます。神の言葉は、その種のようなのです。行動を起こす力であり、世界に働きかける力なのです。神様は、終わりの時に、御子イエス・キリストによって語りかけられました。イエス・キリストは人の形で現れた神様なのです。イエス・キリストが神の国を宣べ伝えると、それは、即、神様の行動となるのです。そこに神の働きが起こされ、神の業が現れるのです。

主イエスが居られるところが神の国なのです。

.喩えの警告

しかし、主は譬えにより神の国の奥義を語られただけではありません。譬えによって実は、聞く者に警告されるのです。喩えの最後に主はこう言われています。「聞く耳のある者は聞きなさい」しかも「大声で言われた」のです。叫ばれたのです。そして、11~15節の喩えの主による種まきの解釈を注意してください。11節で「種は神の言葉である」と主が語られた後で、種の蒔かれた四つの土地について解き明かされる中に、繰り返されているのが「御言葉を聞く」なのです。

四つの土地の内で最初の三つでは実が全く実りません。種の実りは、土地がどうあるかにかかっているのです。この種まきの喩えを聞く者は、誰でも自分が果たしてどの土地なのだろうかと、考えさせられるのではないですか。「あなたは、自分がこの四つの土地のうちでどれに相当すると思いますか?」と質問されたら、皆さんは何と答えられるでしょうか。「自分は道端のものです」と言われる方はまずここにはいないでしょう。「信じて救われることのない人たち」と主が解釈されているのですから、もしそうなら、この礼拝に来てはいないことでしょう。では、「自分は良い地に落ちたものです」と、自信を持ってすっきり言い切れる人が、果たしておられるでしょうか。これまた、そう言いたくても言いづらいことではありませんか。そうすると、「自分は岩の上に落ちたものですよ、いや、茨の中に落ちたものですよ」と言われるのでしょうか。しかし、岩の上のものであれば、根がないので落伍することになるし、茨の中のものなら、雑草に塞がれて結局、実をならせることがないわけで、これまた問題ですね。

では、主は最初から、「あなたは道端」「あなたは岩地」「あなたは茨の地」そして、「あなたは良い地」だと、そんな風に私共をランク付けしておられるのだろうか。そんなはずがないと思うのです。よくよく考えてみたら、元々「良い土地」の人など一人もいないのではないですか。どちらかといえば、私たちみんな最初は「道端のもの」ではなかったのではないですか。道端のものとは、「御言葉を聞くが、悪魔が来て、御言葉を心から奪いさる」そういう人のことです。誰でも、どこかで、何らかの形で、御言葉を聞く機会が、大なり小なりあったのではないでしょうか。読んだ小説の中に御言葉があったかもしれない。テレビの番組で語られた御言葉を聞いていたかもしれない。どこかで教会の前を通りかかったら、看板に聖書の御言葉が書いてあるのをチラッとみているかもしれない。しかし、何も感じない、興味も湧かないのです。

私は、この度、説教の準備をしているうちに、私の父のことを思い出しました。父は、私がウイーンに滞在中に、102歳の高齢で死にました。しかし、感謝なことに、死ぬ四日前に信仰の告白に導かれたようなのです。これは、長女から聞いた話しなのですが、藤沢市から群馬県の老人ホームを幼い長男を連れて見舞ったのです。そして老いた祖父に聖書からイエス様の話しをしていたら、突然、父が天井を差して、「あそこにキリストがおられる!」言い出したというのです。長女はその指さす方をすぐにみたのですが、彼女には何も見えません。しかし、父には見えたのです。心の目できっと見えたのでしょう。それから四日後に息を引き取ります。葬儀は兄たちが取り仕切りましたから、勿論、仏式でした。しかし、私は確信しているのです。父は間違いなく信仰のゆえに救われて天国に行っていると。私が高校一年生で教会に行き出しても父は反対したり止めたりすることはしませんでした。そして、高校を卒業して牧師になるため神学校入学を決めた時、父は三年間の学費を全部出してくれました。その入学式の日にも来てくれたのです。それから何十年も過ぎて90歳を超えた頃、私の家に父を引き取り世話する機会があり、三年ほど同居しました。その間、毎週日曜日の礼拝には出席してくれました。だからと言って、信じるなどと言うことは決してありません。そんな父が、礼拝で聖歌の「十字架にかかりたる」426番「ただ信ぜよ」を耳にした時、「俺もこれは若い時に、神田の神保町で救世軍が社会鍋運動をしながら街頭で歌っているのを聞いたことがあるぞ」と言うのです。父は次男でしたから、家督は長男が継ぎ、九州の星野村から一人で20歳ごろに上京し、警察の道を進んだのです。その若き日に、救世軍の路傍集会で讃美歌を聴き、山室軍平大将の野外説教を聞いたに違いないのです。しかし、全く関心がなく、通り過ぎてしまっていたのです。そんな父の息子である私がクリスチャンになる、牧師になる、同居して礼拝にも出る、それでも、よく分からないのです。

この父のケースを見ても分かるように、神の言葉と言うものは、それを聞いて分かるまでには、個人差があるでしょうが、かなり、相当な時間がかかるものだということです。何かのきっかけで、人に誘われてか、教会に行く機会がある。説教を聞いても、ちんぷんかんぷんで分かりません。一生懸命に教会員が親切に説明してくれるのですが、神様と言っても、十字架と言っても、それまでそんなこと考えたこともない人にとっては、全く理解できないのです。数回、通って、いくら聞いても分からないので、もうそろそろ、この辺で遠慮しておこうと言って、行かなくなってしまうかもしれない。通っているうちに、家の人が面白くない顔をし始めると、みんなに嫌がられてまで行くことはないと、あっさり、やめてしまうこともあるわけです。それでも、何か信じる気持ちになって、牧師や役員や友人のクリスチャンに勧められて、洗礼まで受けてしまう。ところが、教会に通っているうちに、ちょっと困難な問題に打ちあたると、ぐらついてしまうのです。

私は21歳から牧師をずっと続けているのですが、これまでに何人に洗礼を授けたことか、随分沢山おります。しかし、ずっと教会に通い続けている人は少ないのですよ。主は、この喩えの最後で大声で「聞く耳のある者は聞きなさい」と叫ばれました。この叫ぶの時制は未完了形なので、叫び続けておられるということですね。主はこの喩えを聞く人々に、「聞く耳」があるかどうか問われるのですね。いや警告されるのです。聞く耳というのは、聞いて悟る耳のことです。聞いた御言葉が心にまで至り理解する耳のことです。そればかりか、聞いた御言葉を実行に移す耳のことなのです。そのような「聞く耳」を持っていた実例が、この喩えの前の段落に登場する女性たちではないでしょうか。それは8章2節の「悪霊を追い出して病気を癒してもらった女たち」のことです。1節は、主の福音宣教の巡回のことですね。「イエスは神の国を宣べ伝え、、、町や村を巡られた」そこに12弟子がお供していました。その福音宣教の結果が、これらの女性たちであったのです。マグダラのマリア、ヨハナ、スサンナ、他にも多くの女性たち、これらの女性たちに神の国が到来したということなのです。イエスが来られ、イエスの語る神の言葉によって、神の支配が力を持って臨み、彼女たちを苦しめていた悪霊が逃げ出し、病がことごとく癒やされてしまったのです。それは、女たちがイエスの語る御言葉を聞いて悟り、心の中で理解し、主を受け入れ信頼した結果なのです。そればかりか、その結果、女性たちの奉仕となって、行動となって実を結んでいるのです。4節を見てください。「彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に仕えていた」と書いてありますね。蒔かれた種が土地に実を実らせる秘訣は、土地が柔らかく耕されることです。土地は道端でもいいのです、岩地でもいいのです。茨の地でもいいのです。その土地がしっかり耕されれば、実を実らせることができるのです。神の言葉は実であり、また、耕す鍬や鋤のようです。御言葉が頑なな人の心を砕くのです。聞く耳があるでしょうか。聞いて心にとどめ、よく考え理解し、御言葉に従って生きようとする耳があるでしょうか。心が砕かれると、道端でも、岩地でも、茨の土地でも良い地に変えられ、100倍の実を結ぶようになるに違いないのです。

.喩えの奨励

主は喩えで神の国の奥義を教え、警告を発し、さらに、福音を伝えようとする働き人を励まそうとされます。この喩えで「種を蒔く人」はイエス様のことです。そればかりか、主イエスと共に、御言葉の種を蒔く牧師や宣教師や証しをしている人々のことでもあるでしょう。

種蒔く農夫は、道端、岩地、茨の地を避けることができません。そこでは蒔かれた種が期待されても、全く実りません。種は全く無駄になってしまいます。それを見る限りであれば、農夫は失望落胆するばかりでしょう。努力の甲斐などないからです。8章1節のイエスと一緒に街や村を巡回していた十二人の弟子たちの心境など知る由もありません。しかし彼らは、主の巡回に付き従うことで、福音宣教の困難さをイエスと一緒に見せられていたのではないでしょうか。主イエスの公生涯をつぶさに追って分かることは、宣教活動が進めば進むほどに、反対者や敵対者が強固になっていくことです。生まれ故郷のナザレ村では、反感を買い追い出されていますね。そればかりか、信じた弟子たちの中からも、理解できない、もうついていけないと脱落していくものたちが沢山、次々と起きるのです。あのヨハネ6章の最後の所がその典型ですね。6章66節にはこう記録されています。「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは12人に、『あなたがたも去ろうとするのか』と言われた。」信じた者たちの離反です。

それは現代でも同じことなのです。福音を伝えることに、何らかの形で尽力する者たちの味わう悲哀は、「何故、信じたはずの人たちが教会を離れ去ってしまうのか」という問題なのです。しかし、よく見てください。この種蒔く人の譬えには、とてつもない激励が込められているのです。確かに道端、岩地、茨の地には収穫がありません。不毛なのです。しかし、最後の良い地には大収穫が待っているのです。8節では主は「芽が出て、100倍の実を結んだ」で譬えを閉じておられるでしょう。これは麦の話しでしょうが、お米だともっとすごい、一粒で400倍から500倍も収穫できます。ササニシキの場合には1000倍だとも報告されていました。福音の宣教の見通しは、どんなことがあっても、明るいということです。神の国は種のように小さく、隠れた存在のようです。成長は遅々として進まないかに見えます。しかし、種は成長するのです。とてつもない結果を産むことになるのです。この種まきの喩えは、その意味で、福音の宣教者に対する力強い励ましのメッセージなのです。この教会でも、少しでも御言葉に奉仕される方々、奨励者、子どもへの働き人、各種の教えるクラスのリーダー、ケアセルのリーダー、皆さん聞いてください。あの詩篇126篇の5、6節は、皆さんのことなのです。『涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行く人も、穂の束を背負い、喜びの歌と共に帰って来る』

また、あのパウロのコリント第一15章58節が聞こえてきませんか。『私の愛するきょうだいたち、こういうわけですから、しっかり立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているからです。』私たちの教会の前途は、その意味で明るいのです。30倍、60倍、100倍、いや1000倍の収穫が間違いないのです。さあ、これから主の制定された聖餐式に、感謝しつつ共に預かることにいたしましょう。

主は言われました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12章24節)私たちは、その十字架の犠牲の一粒の収穫の実なのです。私たちを罪から救うために、一粒の麦となり十字架に死んでくださった主イエスを記念し、感謝しつつ盃とパンに預かることにしましょう。