1128日礼拝説教

「主の日は突如に」  テサロニケ上5章1〜11節

兄弟たちよ。その時期と場合とについては、書きおくる必要はない。あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。

人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。

しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。

だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのである。しかし、わたしたちは昼の者なのだから、信仰と愛との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう。

神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。

キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい。

 「その時と時期がいつなのか書く必要はありません」その時とは主の日を指す。

聖書では主の日は、第一にキリストが復活された日曜日、第二に神の怒りの裁きの日、そして第三にキリストの再臨の日を意味する。

テサロニケ教会が確認したかったのは、再臨前に死んだ信者はどうなるかだった。それゆえに再臨が、テサロニケ教会宛ての使徒パウロの書簡の主要な主題であった。キリストは「然り、私は直ぐに来る」と約束され、教会は「アーメン。主よ、來ませ」と応答する。

そのキリストの再臨に実は二面性がある。信じようとせず神に逆らう者には審判の時、信じる者には救いの完成の喜びの時となる。「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」人はイエスを主と信じることで罪赦され救われ、今現に救われつつあり、キリストが空中に来臨され、天に引き上げられることにより救いが完成される。

だが信じない者にとっては来るべき主の日は災いとなる。聖書はその時を大艱難と呼ぶ。グローバル化した世界は、政治的、経済的、宗教的に世界を一つに統合する反キリストの出現により最悪の事態を迎える。

その期間は7年間であることも分かっている。黙示録6章〜18章に使徒ヨハネが幻に見せられた恐るべき天変地変の有様が、大艱難の凄まじさを描いている。信者はその直前に天に携挙され7年後にキリストと共に地上に降り立つ。その時が何時であるかは神の主権であり人には分からない。だが、その到来が突如、突然であることが妊婦の陣痛、盗人の侵入の比喩で警告される。

主イエスはマタイ24章に主の日到来のしるしを挙げ、目覚めて祈るべきことを警告された。主の日の到来はノアの洪水のようだと主は語られ、人々が食い飲み娶り嫁ぎする最中、突如の洪水で滅ぼされたと私たちに注意を喚起される。それが当然許され好ましいことに集中していても、キリストに無関心な人は、霊的に泥酔し惰眠を貪ることになる。

 

信仰と希望と愛に生き、慎み目覚めていよう。

11月21日礼拝説教

「不滅で永遠の王」  テモテ上1章12〜17節

わたしは、自分を強くして下さったわたしたちの主キリスト・イエスに感謝する。主はわたしを忠実な者と見て、この務に任じて下さったのである。

わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである。

その上、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い、ますます増し加わってきた。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。

しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。

世々の支配者、不朽にして見えざる唯一の神に、世々限りなく、ほまれと栄光とがあるように、アァメン。

 次週礼拝から待降節に入り、クリスマスの祝いが近い。「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」目に見えない神が、目に見える人間の姿で来られた。

旧約の詩篇記者は「主こそ王。代々とこしえに」と神を賛美した。この世にも諸々の権威ある支配者が興されているが比較にならない。神は時間と宇宙を超越される永遠の王だから。

クリスマスはこの永遠の王の来臨であり、御子イエスが誕生すると、星に導かれた東方の博士たちは王なるイエスを拝して跪いた。

平和の王イエスがロバに跨りエルサレムに入城するや、群衆は「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。イスラエルの王に。」と歓呼した。

イエスを裁き死刑を宣告したピラトの最大の関心事は、彼の問い『お前はユダヤ人の王なのか』に表れている。彼は十字架の罪状書きを「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」とせざるを得ない。三日目に死者の中から蘇られたイエスは、天地の一切の権能を授かる王の王、主の主であられる。

この王なるキリストはただ一つの目的、罪人を救うため来臨された。律法の義に関しては非の打ち所のない者と自負した使徒パウロが、自分がその罪人の頭であると告白する。弟子たちを迫害するべく息弾ませダマスコに向かう路上でキリストの光に撃たれ、罪を自覚し改心した結果の告白であった。

罪人の頭とは、邪悪なワル、卑劣悲惨な極悪を意味する。「私は、かつては冒瀆する者、迫害する者、傲慢な者でした」と彼は言い切り、「私はその罪人の頭である」が謙遜表現でないと言う。このような卑劣な極悪人でさえ救われたのだから、どんな人でも救われないことはあり得ないと、自分をさらけ出し証言する。そしてその救われたのは「信じていない時に知らずに行ったことなので、憐れみを受けました」と明らかにした。

十字架上で「父よ。彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているのか分からずにいるのです」ととりなされたイエスの祈りの結果である。

 

それはまた私たちが救われる根拠に他ならない。主の憐れみに感謝しようではないか。

1114日礼拝説教

「神の約束の確かさ」  出エジプト3章1〜15節

モーセは妻の父、ミデヤンの祭司エテロの羊の群れを飼っていたが、その群れを荒野の奥に導いて、神の山ホレブにきた。

ときに主の使は、しばの中の炎のうちに彼に現れた。彼が見ると、しばは火に燃えているのに、そのしばはなくならなかった。

モーセは言った、「行ってこの大きな見ものを見、なぜしばが燃えてしまわないかを知ろう」。

主は彼がきて見定ようとするのを見、神はしばの中から彼を呼んで、「モーセよ、モーセよ」と言われた。

彼は「ここにいます」と言った。

神は言われた、「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」。

また言われた、「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。

モーセは神を見ることを恐れたので顔を隠した。

主はまた言われた、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている。わたしは下って、彼らをエジプトびとの手から救い出し、これをかの地から導き上って、良い広い地、乳と蜜の流れる地、すなわちカナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとのおる所に至らせようとしている。

いまイスラエルの人々の叫びがわたしに届いた。わたしはまたエジプトびとが彼らをしえたげる、そのしえたげを見た。さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう」。

モーセは神に言った、「わたしは、いったい何者でしょう。わたしがパロのところへ行って、イスラエルの人々をエジプトから導き出すのでしょうか」。

神は言われた、「わたしは必ずあなたと共にいる。これが、わたしのあなたをつかわしたしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたがたはこの山で神に仕えるであろう」。

モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。

神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。

神はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と。

これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である。

 エジプトで奴隷に生まれ、ナイル川で王女に拾われ、宮廷で高度の教養を身に付け、失敗により逃亡し、ミデアンの牧羊者として隠棲していたモーセは、神の召しで数奇の生涯を過ごした。

ホレブの燃える柴から聞こえた神の呼びかけにたじろぐモーセであったが、神の救済の協力者として果敢に使命に立ち向かい、200万余の神の民の出エジプトを成功させている。私たちはこの歴史的民族大移動の出来事に神の約束の確かさを見る。「アブラハムとの契約を思い起こされた」(224

神はその400年前にアブラハムに未来の民のエジプトでの奴隷解放を約束され、しかも忘れられない。モーセに語られた「私はあなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とは、先祖が今現在、生きていることを意味するのであるから、神は民の苦悩の叫びを聞かれるや「私は降って行って・・・救い出す」(38)と決意の確かさを明言された。

神の働きは人間と共同されるが、神はモーセに「さあ行け」と促すばかりか、「私はあなたと共にいる」と保証される。モーセにご自身の名を「私はいる」と啓示されるが、神は過去現在未来を超えて人と共におられる方である。

私たちは4章以降に出エジプトの驚異の出来事を見せられ、感嘆しない者はいない。神は、約束を確かに記憶し、約束を確かに決意し、約束を確かに実行される方なのである。「モーセ、モーセ」との呼びかけに彼は「御前におります」と応えた。

今や神はイエス・キリストにより、新しい存在へと呼び出されるのであるから、信仰により応えよう。モーセは「履物を脱ぎなさい」と言われ、神の僕である意思表示に靴を脱いだ。キリストにあって私たちもへりくだり霊と真をもって礼拝しよう。

モーセは「さあ行け。私はあなたをファラオのもとに遣わす」と召されたが、自分に与えられた召しを確認して受けとめ、神のパートナーとさせていただこう。「私はいる」と語られた神は、私たちと常に共におられる主イエスとして来てくださった。

 

どんな祈りも聴かれる約束に真実な主に期待したい。

117日礼拝説教

「別れそれでも」  創世記13章1〜9節

アブラムは妻とすべての持ち物を携え、エジプトを出て、ネゲブに上った。ロトも彼と共に上った。

アブラムは家畜と金銀に非常に富んでいた。彼はネゲブから旅路を進めてベテルに向かい、ベテルとアイの間の、さきに天幕を張った所に行った。すなわち彼が初めに築いた祭壇の所に行き、その所でアブラムは主の名を呼んだ。

アブラムと共に行ったロトも羊、牛および天幕を持っていた。その地は彼らをささえて共に住ませることができなかった。彼らの財産が多かったため、共に住めなかったのである。

アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちの間に争いがあった。そのころカナンびととペリジびとがその地に住んでいた。

アブラムはロトに言った、

「わたしたちは身内の者です。わたしとあなたの間にも、わたしの牧者たちとあなたの牧者たちの間にも争いがないようにしましょう。全地はあなたの前にあるではありませんか。どうかわたしと別れてください。

あなたが左に行けばわたしは右に行きます。あなたが右に行けばわたしは左に行きましょう」。

「会うは別れのはじめなり」75歳にして神の召しに応えたアブラハムは、辿り着いた約束の地カナンで、甥のロトと別れざるを得なかった。小家畜遊牧民の彼らが一箇所で暮らすには牧草や水場が不十分であった。

ロトは若死にした弟ハランの息子であったから、何かと目にかけてきた甥だけに、アブラハムの心中は辛かったに違いない。175歳と長寿のアブラハムの生涯は、別離の連続でもあった。故郷、父、ロト、イシマエルと別れ、妻サラとは死別、最後はこの世と別れている。その状況は各自違ってはいても、重ね合わせて思えば我々の生涯も別離の連鎖だろう。

別離は人生の危機経験の典型で、人はその危機をどのように受け止め乗り越えるかにより人柄も人生観も変えられることになる。

甥のロトは、叔父を後にすると肥沃なヨルダンの低地を選び一族を連れて進んで行った。人生は一回の選択で全てが決定するわけでもない。それから更にどう生きるかにかかっている。

ロトの選択はその時点で最善であったが、ロトは低地のしかも道徳的に荒んだ町に定住し、その結果は暗い。部族戦争に巻き込まれ、やがて、極みに達した腐敗のため天罰の火により町は滅び、命からがら逃げのびたロトと二人の娘たちの近親相姦はおぞましい限りだ。

一方、選択権を有する年長者であったアブラハムは、年少者のロトに何故か「あなたが左にと言うなら、私は右に行こう。」と提案している。その姿勢に私たちは彼の信仰を見させられる。彼は約束の地に立っていた。所有権を授けられた神が共に居られると確信する彼には、右に行こうが左に行こうが問題ではなかったのだ。

ロトが町に定住したのとは対照的にアブラハムは可動な天幕生活に終始する。彼はどこまでも地上では旅人、寄留者と自覚していた。「堅固な土台の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。(ヘブル1110)」更に、行く先々で祭壇を築く姿勢に、私たちの十字架信仰が重ねられる。 

神の子羊イエスが罪の赦しを得させるため犠牲となられた。我々も信仰の父に倣い別離を成長の機会とさせていただこう。