9月27日礼拝説教(詳細)

920日礼拝説教(詳細)

「人の向き心次第」 コヘレトの言葉(伝道の書)10章

10:1死んだはえは、香料を造る者のあぶらを臭くし、

  少しの愚痴は知恵と誉よりも重い。

10:2知者の心は彼を右に向けさせ、

  愚者の心は左に向けさせる。

10:3愚者は道を行く時、思慮が足りない、

  自分の愚かなことをすべての人に告げる。

10:4つかさたる者があなたに向かって立腹しても、あなたの所を離れてはならない。

  温順は大いなるとがを和らげるからである。

10:5わたしは日の下に一つの悪のあるのを見た。

  それはつかさたる者から出るあやまちに似ている。

10:6すなわち愚かなる者が高い地位に置かれ、

  富める者が卑しい所に座している。

10:7わたしはしもべたる者が馬に乗り、

  君たる者が奴隷のように徒歩であるくのを見た。

10:8穴を掘る者はみずからこれに陥り、

  石がきをこわす者は、へびにかまれる。

10:9石を切り出す者はそれがために傷をうけ、

  木を割る者はそれがために危険にさらされる。

10:10鉄が鈍くなったとき、人がその刃をみがかなければ、力を多くこれに用いねばならない。

  しかし、知恵は人を助けてなし遂げさせる。

10:11へびがもし呪文をかけられる前に、かみつけば、

  へび使は益がない。

10:12知者の口の言葉は恵みがある、

  しかし愚者のくちびるはその身を滅ぼす。

10:13愚者の口の言葉の初めは愚痴である、

  またその言葉の終りは悪い狂気である。

10:14愚者は言葉を多くする、

  しかし人はだれも後に起ることを知らない。

  だれがその身の後に起る事を告げることができようか。

10:15愚者の労苦はその身を疲れさせる、

  彼は町にはいる道をさえ知らない。

10:16あなたの王はわらべであって、

  その君たちが朝から、ごちそうを食べる国よ、

  あなたはわざわいだ。

10:17あなたの王は自主の子であって、

  その君たちが酔うためでなく、力を得るために、

  適当な時にごちそうを食べる国よ、

  あなたはさいわいだ。

10:18怠惰によって屋根は落ち、

  無精によって家は漏る。

10:19食事は笑いのためになされ、酒は命を楽しませる。

  金銭はすべての事に応じる。

10:20あなたは心のうちでも王をのろってはならない、

  また寝室でも富める者をのろってはならない。

  空の鳥はあなたの声を伝え、

  翼のあるものは事を告げるからである。

題名を「人の向き心次第」としたのは、2節によります。『知恵ある者の心は右に、愚かな者の心は左に。』とあるからです。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:名称未設定フォルダ:images.jpeg左右とは(上下、前後、左右)の六方向の一組です。左右は聖書では単なる方向だけではありません、象徴的な意味が込められ使われていることに注意する必要があります。右は名誉、善、幸運を意味し、左は不名誉、不運、劣等を意味するのです。そして聖書は知恵ある者の心は右に、愚かな者の心は左に向くと言うのです。因みに、左右を調べて書き順の間違いに気づきました。旁(つくり)は手と腕を表し、左右の位置が違うため書き順は違うのです。漢字の語源では祈りに由来することは興味深いですね。右の口は祝詞入れる箱、左の工は道具の意味なのです。

 ところで、先週、私は国勢調査に応えてネットで返送しました。皆さんは済ませたでしょうか。いくつもの質問がありましたが、この質問だけはありませんでした。「あなたは知恵ある者ですか。それとも愚かな者ですか」そんな質問するはずがありません。しかし、今日、皆さんに問われている質問は正にこれなのです。そしてそれは非常に重要な質問でしょう。何故か。そのどちらかによって、その人の向かう人生の方向が右か左かによって全く違ってくるからなのです。

  1. この世の右左

 伝道者は5節にこの書で繰り返される言い回しで、「太陽の下に不幸があるのを私は見た。」と言います。伝道者はこの世の人の営みをつぶさに観察し、人が束の間の人生をいかに生きるべきかをここでも勧告し警告をもしています。ここで彼の見たもの、何でしょうか。それは知恵と愚かさの具体的な実態なのです。伝道者が「愚かな者の心は左に」と言う時、それが何を意味するか、10節で「愚かさは、・・・高くつく」損失を招くことになると言います。12節で「愚かな者は、・・・身を滅ぼす」自分に破滅をもたらすことになると言います。更に15節では「愚か者は、・・・疲れるだけだ」どんなに労苦しても疲労だけが待っていることになると言います。何もいいことがありません。左向きには不名誉、不運、劣等しかないのです。では「知恵ある者の心は右に」と伝道者が言う時、それが何を意味するか、10節で「知恵には益があり、成功をもたらす」と言います。右向きには名誉、良いこと、幸運が待っていると言うことなのです。

 そこで、今日は10章を整理し、有益で成功をもたらす知恵がいかなるものか、先ず確認しておくことにしましょう。

①知恵は秩序を弁え選任する能力

 これは5〜7節、20節から言えることです。5〜7節は一言で言えば「権力者の過失」。20節は「権力者への反発」と言えます。これは権力者が人事をする場合の問題、同時に、その人事に反発する人の問題です。相応しくない人物を力ある責任ある地位に任命してしまう、それは愚かなことです!「愚かな者が甚だしく高められ」「奴隷が馬に乗る」その結果として、うっかり批判しようものならたちまち危険が身辺に及ぶような体制!それは政治的に暗い時代を暗示しているといえます!20節で「空の鳥がその声を運び、その言葉を知らせてしまう」と言うのは比喩的表現で、親しい友人でも告げ口するかもしれない、スパイが潜んでいるかもしれない、だから気をつけよ!という警告なのです。

 先週、16日に臨時国会で首班指名選挙が実施され、菅義偉さんが99代首相に選任され、閣僚人事が即発表されました。もしその選任と人事が愚かであれば国は左に傾くことでしょう、知恵によれば右に向くに違いありません。今は批判したからといって秘密警察にしょっ引かれるような時代ではありません。健全な批判は大切ですが、私たちに求められる知恵は彼らのためにとりなし祈ることでしょう。私たちは国民として国家秩序を弁える相応しい政治指導者を選任する知恵が与えられるよう祈ることではないでしょうか。

知恵は危険を察知して回避する能力

 これは8〜11節から言える知恵です。穴を掘る!石垣を崩す!石を切り出す!木を割る!蛇使いがまじないをかける!前四つは現代でもピンと来るMacintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:名称未設定フォルダ:Unknown.jpegかもしれないが蛇使いは身近ではないですね!でも分かるでしょう、知恵とは危険を察知して回避する能力なのです!言わずと知れたことです。どんな作業、どんな仕事であっても危険はつきもの!事前に賢明に察知し、危険を回避する備えある態度、それが知恵であるということでしょう!

「穴を掘る者」が「それに落ち込む」とは、聖書ではわなをかけた者が、自分のかけたわなにかかるということです。悪い企み、迂闊な行為 自業自得の出来事です。こういう穴堀は、職場でも教会でも絶対、是非是非やめておきましょう。

③知恵は効率を予測して工夫する能力である

 これは10節から言える知恵。「斧がなまった時、その刃を研いでおかなければ力が要る」妻の両親が高齢のためもう老人施設に入らざるを得なくなった時でした、妻は母の許可を得て台所にあったセラミック包丁研ぎをもらいました!段ボールでウイ—ンに送ってしばらく後でした、妹さんがそうと知ってしきりに残念がっていたそうです!彼女も狙っていたのです!実際使ってよく分かる!二度三度こするだけで、その切れ味は抜群によくなるのです! 知恵は効率を予測して工夫する能力であるということなのです。実際に効率を計算した人によると鈍い刃で作業するなら30%以上も無駄な労力を消耗するそうです。

④知恵は全体を把握して制御する能力

 これは12〜14節から言えないでしょうか。ここで多発されている用語ですぐ分かりますね。「口、言葉、唇る、語る」愚か者は言葉の故に失敗すると言うことなのです!12節「くちびるは身を滅ぼす」のです!ヤコブが的確にこの問題を取り上げ ヤコブの手紙3章2節にこう言っています。「私たちは皆、度々、過ちを犯します。言葉で過ちを犯さないなら、その人は体全体を制御することのできる完全な人です。」ヤコブはまた、5節「舌を治めることのできる人は一人もいません。舌は、制することのできない悪で、死をもたらす毒に満ちています。」とまで言い切っています。14節「愚か者はよくしゃべる」のです。すべてが分かっているかのように!ところが伝道者曰く、「愚か者は、町に行く道さえも知らない」と辛辣に言い切ります。当たり前のことが分かっていない、と言う意味なのでしょう。知恵とは何か?それは、自分の全体を客観的を弁え、物事の全体を把握し、自分の言葉を制御コントロールできる能力であるということなのです。

⑤知恵は目的を弁え適宜実行する能力

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:名称未設定フォルダ:images-9.jpeg では16〜19節の事例はどうでしょう。王に仕える首長たちが朝っぱらから食事する事例です!朝食を否定しているのではありません!朝っぱらからどんちゃん騒ぎすることです!美食を堪能し酔っぱらうことです!それと対照的なのが17節の別の首長たちです。「相応しい時に、飲むためにではなく、力を得るために食事する」宴会をする!食事を皆でする!それにはそれなりの効果がある!それは「力」をつけるために効果がある!体力だけじゃない!指導者が集まり、国民が相応しい時に、祝いの宴会に着く!ならばそれは国家として国民の自覚を深め、一致団結し力をつける効果があると言うのです!知恵は目的をしっかり弁え適宜実行する能力ということではないしょうか。18、19節は、その意味で無目的に指導者が酒食に溺れていると「天井が落ち、雨漏りがする」とんでもない結果になると警告している言葉というと理解して良いでしょう!

 伝道者は言った、『知恵ある者の心は右に、愚かな者の心は左に。』知恵ある者は、名誉、善、幸運を得るのです、愚かな者は必然的に不名誉、不運、劣等を味わうことになってしまうのです。

  1. きたるべき世の右左

 ところが、ここで一つの大切な隠れた事実に注目する必要があるのです。それは10章には1度も「神」が語られていないことです。4章以外はどの章にも記載されているのに10章には全くありません。それは、ここで語られた知恵はどういう意味があるのでしょうか。それは、全て「この世」における知恵である、限りある不完全な束の間の知恵だと言うことなのです。 私たちはこれまで何をみてきたか?「この世の右左」を確認したのであって、ここでもう一つの右左「きたるべき世の右左」に注目しなければならないのです。

 聖書で「きたるべき世」とは、神が支配し治められる世界という意味です。言い換えれば神の国という意味です。知恵は知恵でも、愚かは愚かでもこの世と神の国とではその意味するところが全く違ってきます。聖書は神の国の知恵をこう言います。箴言9章10節「主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることが分別。」それでは神の国の愚かはどうか?聖書は愚かをこう言います。詩篇14篇1節「愚かな者は心の中で言う『神などいない』と。」 聖書は、知恵ある者とは主なる神を信じ畏れ愛する者だと言います、聖書は愚か者とは主なる神を否定し信じない者だと言うのです。

 知能指数(Intelligence Quotient)という数字で表した知能検査結果の表示方式がありますね。100が中央値で85〜115に68%、70〜130に95%が収まる。70以下だと知的障害とされる。そう言う方式です。 情動指数(Emotional Intelligence Quotient)と言う心の知能を測定する指標もある。「自分の本当の気持ちを自覚し尊重して、心から納得できる決断を下す能力、衝動を自制し、不安や怒りのようなストレスのもとになる感情を制御する能力」と定義し、ある心理学者が知能指数よりももっと生きる上で重要だと提唱した学説です。しかし、聖書は、知能指数よりも情動指数よりも、最も重要な指数があると言います。それは、神を信じ畏れる霊的指数だと言うことなのです。どんなに知能指数、情動指数が高くでも、霊的指数が低ければ、なければ、その人は愚か者なのです。そして、どれほど学歴があっても、身分地位が優れていたとしても、神を否定し、信じないのであれば、霊的指数が低ければ、その人の心は永遠に左向きなのです。人として生きる方向を完全に誤っているのです。

 アウグスチヌスの告白のあの有名な言葉が思い出されます。「神は人を神に向かって造られた。だから、人が神に向かうまでは魂に平安はない。」そうです。人は神に創造され、その方向は神に向け造られていたのです。その神に向かおうとしない態度こそ罪なのです。罪は的外れなのです。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:名称未設定フォルダ:images-8.jpeg 知能指数高い人と言えば、聖書には主イエスを夜分にこっそり訪ねたニコデモがいますね。ヨハネ3章に登場する。ニコデモは慇懃(いんぎん)に挨拶する。「先生、私共は、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。」と。その老練な律法学者でもありサンへドリン議員でもあるニコデモにイエスはこう直言されたのです。「よくよく言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」それは、あまりにも唐突で、学識あるニコデモにさえ理解できないことでした。 覚えてください!キリストが来臨されたことにより、人類の世界歴史に画期的な出来事が起こったのです。それはキリストの到来により「きたるべき世」新しい時代、神の国が到来したことなのです。イエスは公生涯の最初の宣言でこう言われました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい。」マルコ1:15 キリストによって実現した神の国の現実は目に見えません、地図では認識できません。

アメリカのグーグルが開発したネット上のマップは凄い性能ですね。住所で検索すれば一目瞭然!この教会に赴任することがウイ―ンにいて数ヶ月前に確定し、住所を知らされネットで検索した結果、私と家内は、教会の前に立っているかのように建物を確認できました。驚きです。「へー、この教会で奉仕するのだ」と感動した次第です。 しかしながら、神の国の現実は、グーグルマップでは分かりません。ただ福音を信じることによってのみ、すなわち、イエスを主と信じる信仰によってのみ把握することができるのです。その意味で、ニコデモはどれほど宗教的で知能指数が高くてもそれまでの彼の心は左向きだったのです。

 今日、問われていることは、この世での左右ではなくて、神の国における来るべき世での左右なのです。神に造られた人間として自分自身が左向きか右向きかが問われているのです。

 ウイ―ン時代の記憶に一人の方の逸話が思い出されました。パリ教会から送られたパルタージュ(教会の通信紙)にあった証しを紹介したい!農林水産省に勤務するKさんであり、休暇でウィーンの礼拝に出席されたことがある。パリに3年駐在し、帰国寸前のパリの礼拝で語った証しでした!彼は「今まで生きてきた中で最も難しい質問が3つあった」と語ります。その第一の質問が「あなたは天使の存在を信じますか?」だったと次のように語られた! 「皆さんは天使の存在を信じていらっしゃいますでしょうか?聖書にたくさん登場する天使のことです。私はもちろん信じています。全く難しい質問ではありません。が、19975月、この質問が突然私の目の前に非常に難しい問題として出現したのです。それは公務員試験の時でした。「世界に飢餓と飽食が同時に起こるメカニズムを説明し、考えられる解決法を提示せよ」という質問に90分かけて回答を書き終わった後、公務員の適性試験が続けて行われました。単純な問題、YESNOかの2択問題が並びます。「あなたは神ですか?」に当然「NO」と答えた数問後に、この「あなたは天使の存在を信じますか?」という質問が現れたのです。その瞬間、血の気が引きました。ここでYESと答えたら、精神が変な奴と思われ、不適格者として試験を落とされるかもしれないという恐怖が心を支配したのです。ここは「NO」と答えておこう、と決断した時に、1つの聖書の言葉、「神の国とそのとを先ず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものは全て与えられます。」(マタイ6:33)という言葉が心に響いたのです。神の国とその義を第一にすれば、という言葉に従うべきか、ここはひとまず日本の常識人としての対応をしておくべきか。正直脂汗(あぶらあせ)が流れました。この場面ではNOと答えておくことも神様は赦してくれるのではないか? しかし、耳元では、教会学校で覚えた賛美「神の国とその義をまず求めなさい、これらのものは全て与えられる、ハレル、ハレルヤ」という歌まで鳴り響き始めました。しかもそんな時に限って「椅麗な神の国で響く、天使のような歌声」で聞こえてくるのです。長い葛藤の後、私は降参しました。「神様約束通り、「これらのもの」Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:名称未設定フォルダ:images-6.jpegを与えてください」と祈り、YESと回答欄に書きました。結果、私は今、公務員として働いています。もちろん、ここでYESと書こうがNOと書こうが全く影響はなかったかもしれません。ですが、私はあの時に確かに、1つの決断をしたのです。小さいことですが、「神の国と神の義をまず第一とする」ことの決断をしたのです。この決断が、その後、時々に難しい判断を迫られる時の基礎となっています。あの時私は確かに「神の国とその義を第1にする」という決断をし、「それらのもの」が与えられた。 私の人生の中で出会った質問「あなたは天使の存在を信じますか?」というのは今では「あなたは神の国と神の義をまず第一としますか?」という質問に置き換えられています。」という内容でした!

 その試験はKさんにとっては、自分の人生で成功するかしないかの決定的瞬間でした!確かに試験に合格することは成功です!しかし、彼は「人生で成功する知恵」ではなく「人生を成功させる知恵」にかけたのでした!神を信じて神の約束にかけたのです!

 あなたはどうでしょうか?「自分の心が右向きの知恵ある者でしょうか。それとも、左向きの愚かな者でしょうか。」この世では十分知恵者であるかもしれません。成功しているかもしれない。それでもイエスを信じていなければ左向きなのです。

 私たち誰もが右向きか左向きかが判定される日がやがて到来することを覚えておきましょう。マタイ25章31〜34節にこうあります。「人の子は、栄光に輝いて天使たちをみな従えて来る時、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そうして、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からあなた方のために用意されている国を受け継ぎなさい。』41節 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、私から離れ去り、悪魔とその使いたちに用意してある永遠の火に入れ』」羊とヤギは似て非なるものです。「すべての国の民」に私たちも入るでしょう。人の真価は最後の時に判別されるものです。この世の知恵にはいささか欠けた左向きかもしれなくても、神の国では信仰により右向きであれば幸いです。

「人の向きは心次第」なのです。

 ドイツの教会カントール(楽師長)だったバッハはあの有名なカンタータ第147番 《口と心と行いと生きざまもて》に「主よ、人の望みの喜びよ」を自分の信仰を表し作曲しました。それを朗読し、この告白を私たちも共にすることで、神の国において心を右に向ける者とさせていただきましょう。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:Unknown.jpegイエスは変わらざる私の喜び 

私の心の慰めであり 潤い 

イエスはすべての悲しみから守ってくださる 

イエスは私の命の力 

目の歓びにして太陽 

魂の宝であり 歓喜

だからイエスを放しません」 

私たちも「だからイエスを放しません」と祈ろうではありませんか。

913日礼拝説教(詳細)

「武器に優る知恵」  伝道の書9章13、14節

9:13またわたしは日の下にこのような知恵の例を見た。これはわたしにとって大きな事である。

9:14ここに一つの小さい町があって、そこに住む人は少なかったが、大いなる王が攻めて来て、これを囲み、これに向かって大きな雲梯(うんてい)を建てた。

先週月曜日にご存知のように姉妹が天に召されました。享年78歳。天寿を全うなされたものと確信し主の御名を崇めます。9日午前に告別式を挙行し、姉妹の御遺体は檀原の火葬場で荼毘(だび)に付されました。納骨式は今日この礼拝後に墓地に直行し実施の予定です。この姉妹の遺体を荼毘に付した後でした。私たちは午後2時過ぎに遺骨収集に臨みましたが、私はそこに一種異様な光景を見たのです。僅かばかり残された骨の腰あたりに大きな塊(かたまり)が残されていたからです。普通ありえないこと。それは何と棺に納めさせていただいた姉妹の愛読聖書と聖歌だったのです。紙であれば真っ先に灰となり微塵だに残らぬ筈なのに、それは驚きでした。その時、私に閃いたのはあの主イエスのお言葉です。「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない。」(24:35)姉妹は聖書愛読の人でした。ボロボロになるまで聖書を読み続けられた方でした。今日、私たちが手にしている聖書、それは天地が滅んでも決して滅びることのない神の言葉なのです。

  1. 武器に優る知恵

images-2.jpeg さて、先週火曜日の朝でした。私の娘が電話で、「自転車がパンクしたから自動車で行く」と電話が入りました。後で分かったことは、パンクではなく、チューブの口金を誰かに抜き取られたのです。木曜日が彼女の休日なので、午後、部品を購入し、修理し直りました。自分で修理すれば200円もかからない。だがその時、普通なら私が父親として直してあげるのだが、自分でするよう促しました。チューブの口金自体は実に簡単な構造ですがよくできた仕組みです。しかしセットするには技術が必要。ゴムは簡単には入らない。舐めるか水で湿らせる必要がある。彼女は何とかクリアしました。これからは自分で治せることでしょう。私が逝っても大丈夫!!!チューブの口金は人間の知恵の傑作なら、それを装着するにも知恵が必要でしょう。

 伝道者はこう言っています。「次もまた太陽の下で私が見た知恵であり、私にとってただならぬことであった」9章13節 伝道者にとって「ただならぬ」知恵とはこの場合どういう知恵でしょうか。それは読んで分かってくること、「武力に優る知恵」「武器に優る知恵」のことなのです。伝道者は、武力、武器と比較して知恵の方がはらかに優ると言うのです。

 それを証明するため伝道者は、一つの具体的な実例を取り上げました。 この町が何処で、攻めた王が誰で、救った知恵ある男が誰かは分かりません。これは外典マカバイ記9章のヨナタンが包囲されても敵を打ち破った事件を背景にしているとする説もあれば、サムエル下20章の事件を背景にしている説もある。後者の概略はこうです。『ダビデ王が長男アブサロムの反逆を制圧した直後に、今度はベニヤミン族のシェバの反乱に遭遇する。その討伐に将軍ヨアブが派遣される。シェバが潜んだ小さな町をヨアブが包囲し塁を築いて攻撃する。すると「知恵ある一人の女」が現れ、シェバの首を刎()ねて城外に投げ落とし町は救われた』というものです。

 では、武器に優る知恵!知恵とは何か?伝道の書では大切な概念であり、すでに7章でも触れています。そこで、「知恵とは人間の手腕や能力を指す。」と言い、「ものごとの道理をわきまえて適切にふるまう能力のことを指す」と言いました。また「知識を沢山持っていても、知恵を著しく欠いている人もいるし、また、知識はさほど多くなくても、立派に知恵を持っている人もいる」とも言われるものです。

 「武力に優る」知恵と言うといつも想起される愉快な少年の事件がある。正確な場所、日時は言えませんが、第二次世界大戦中ナチスに反撃して迫る連合軍に実際あった逸話です。敗戦の色濃い戦況の最中、ドイツに進軍する連合軍の部隊が長蛇の列で深い山中の狭い道を進みます。あるトンネルに差し掛かったとき、一台の軍用トラックが天井に引っかかり通過できない!進退窮まり進軍は頓挫(とんざ)していた!するとそこに村の少年が自転車で通りかかり、事態を観て一言提案した。「おじさん、ちょっとタイヤの空気を抜いてみたら!」結果はどうか。通過できたのです。それは少年に備わった知恵ではないでしょうか。愉快ですね。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:Unknown-1.jpeg ところが伝道者は、その知恵が「武力に優る」「武器に優る」と言うのです。戦争を知らない世代にはピンと来ませんね。しかしながら人が人を殺傷する武器の開発進歩は凄まじいものがあります。あの終戦記念日8月15日に前後の特集で、私は日本にも原子爆弾開発計画が実在したことを知り愕然としました。「一つは日本陸軍の「二号研究」であり、いま一つは日本海軍の「F研究」である。「二号研究」は1941年4月の原爆開発依頼から京都帝国大学仁科芳雄教授が中心の理化学研究所「仁科教室」で行われ、「F研究」は1941年5月から京都帝国大学荒勝文策教授中心で行われた」その特集には戦後GHQの指令で京都大学の荒勝文策教授の研究所のサイクロトロンの設備が破壊される場面が放映されている。また、ドイツ潜水艦U−234がウランを密かに日本に輸送しようとしたことが分かっています。45年5月14日に大西洋上で連合軍に拿捕され、そこには「ドイツで潜水艦建造を学んだ友永英夫技術中佐、イタリア、ドイツでジェットエンジンを学んだ庄司元三技術中佐」が乗船していたがすでに自決しており、しかも、240トンの積荷の一部はウラン塊であったことが分かっている。その原子爆弾に日本は被爆しているのですから、その武器、武力の恐ろしさは分かっています。今日、この聖書は 知恵は武器、武力に優ると言うのです。覚えておきましょう。

  1. 侮られる貧しい人の知恵

 ところがどうでしょうか、伝道者は、この知恵ある男を人々がどう扱うかを冷めた鋭い目で観察した結果、「けれども、この貧しい男を人々は記憶に留めることはなかった」と言い、16節で、「貧しい男の知恵は侮られ、その言葉は聞かれることがない」と断定しているのです。

 この短い例話は、ある研究者によれば、ヘブライ語原文には、この貧しい知恵ある男の言葉に聞いていれば町は救われたであろうに、と言うニュアンスが含まれている、と言われています。そのままであれば、『町は知恵により救われたが、その知恵ある貧しい男は忘れられ軽んじられた』 或いは『知恵ある貧しい男に聞いておれば町は救われたであろうに、だが男を軽蔑したので救われなかった』となるわけですが、そのいずれであるにせよ、強調されるのは『この世では、ともすれば知恵は軽んじられ人々が聞こうとしないものだ』と言うことなのです。

EGIMTVdU4AA7Uqs.jpg 私がウイ—ン滞在のある年、福島原発関連の講演会に出席する機会があった!大使館広報文化センターに50名程集まり、おりしもウィーンで開催された「原子力安全閣僚級会合」の報告がなされ、それに放射線医学総合研究所のセンター長、酒井一夫さんから福島原発事故後の放射線の影響について講演を聴く機会があったのです!報告、講演そのものはお見事と言う程、さすがの専門家達であり非の打ち所のないものでした。しかし、私が帰宅してどうしたか? 私は岡崎信吾長老からいただいた「福音と世界」6月号のテーマ「原発問題のこれから」を調べ、そこに引き合いに出された一人の人物、高木仁三郎さんをネットで検索したのです!1938年生まれだが、2000年に大腸癌で亡くなっている!62歳の若さで亡くなる!彼は東大で理学博士、専門は核化学!卒業後はひたすらに核物理の世界を突き進み、日本原子力事業総合研究所核化学研究室勤務、東京大学原子核研究所助手、東京都立大学助教授、マックスプランク核物理研究所客員研究員であった!ところが何と1973年、35歳で都立大学を退職、そして、原子力資料情報室を立ち上げ、彼は一転して反核運動の闘志となったのだ! 私がネットを検索して驚いたのは、今回の大地震による福島原発事故を、すでに1995年の時点で、予想し、16年前に、その危険に警鐘を鳴らしていた事実であり、彼は日本物理学誌に指摘したことが分かったのです!抜粋①「地震によって長期間外部との連絡や外部からの電力や水の供給が断たれた場合には、大事故に発展する」②「福島第一原発 については、老朽化により耐震性が劣化している「老朽化原発」であり、「廃炉」に向けた議論が必要な時期に来ている」③加えて、福島浜通りの「集中立地」についても、「大きな地震が直撃した場合など、どう対処したらよいのか、想像を絶する」④「考えられる事態とは、(中略) 地震とともに津波に襲われたとき 原子炉容器や冷却材の主配管を直撃するような破損が生じなくても、 給水配管の破断と 緊急炉心冷却系の破壊、非常用ディーゼル発電機の起動失敗といった故障が重なれば、メルトダウンから大量の放射能放出に至るだろう。」驚きです!その通りだったから。

 しかしもっと驚くべきことは、現実は、彼の提言がほとんど政治家、事業化、学会では聞かれなかったということです。実際に裏で口止め工作がされていたのでしょう。電力会社は3億円を支払うと申し出たとか。だが彼は断ったのです。その結果は言うまでもありません。知恵は力に優る、武器に優る!知恵は地震に、津波に優るのです!ところが、この世は不条理であり、知恵が聞かれず、蔑まれ、無視されるという現実があることを私達は忘れてならないということではないですか。

 ところで今日、ここで方向を転じ、この「知恵ある貧しい男」から、私たちに透かし見えてくる素晴らしい真理があることに注目してください。私たちはここからあのイザヤが預言した主の僕(しゅのしもべ)を想起しないでしょうか。イザヤ53章1〜3節をご覧ください。3節に繰り返されること、それはこの人物が軽蔑され、尊敬されなかったことです。一体この人物は誰のことを指し示しているのでしょうか。そうです。私たちの救い主イエス・キリストなのです。彼は、ベツレヘムの馬小屋の飼い葉桶に生まれました。ナザレ村の貧しい大工ヨセフの家庭に育ちました。やがて公に生まれ故郷のナザレ村の会堂で、神の言葉を語り出すや村人は、その知恵に驚嘆した、とルカによる福音書第4章は記録しています。ところがその続きを読むと驚くのです。人々は「この人は、ヨセフの子ではないか」と批判し、町から追い出し、崖っぷちから突き落とそうとした、と言うのです。

 旧約外典シラ書13章(聖書協会共同訳旧約外典223頁)にこんな文書がある。「金持ちがしくじると、多くの人が助けてくれるし、言ってはいけないことを話しても、正当化してくれる。身分の低い人がしくじると、非難され、分別あることをはなしても、相手にされない。金持ちが話すと、誰もが静かになり、その言葉を雲の上まで持ち上げる。貧しい人が話すと『こいつは何者だ』と言い、つまずけば突き倒す。」

 イエスは捕えられ、鞭打たれ、十字架に付けられ、悶絶の苦しみのうちに殺されてしまいました!伝道者が見たこの世の不条理さの極地は、キリストの十字架に露呈したのです!「貧しい男の知恵は侮られ、その言葉は聞かれることがない」しかし、この方は全く別の意味での知恵ある者なのです。貧しい誕生、貧しい生い立ち、確かに貧しい者でした!貧しい知恵ある者でした。しかし知恵は知恵でも「神の知恵」なのです!

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:images-4.jpeg 皆さんは箴言8章を読まれましたか!あの箴言8章では知恵が擬人化され、1節は「知恵は呼びかけていないか」で始まり、12節では「私は知恵。熟慮と共にあり、知識と慎みを備えている」、更に22節では、「主はその道の初めに私を造った。いにしえの御業の始まりとして」とあり、30節に至っては、「わたしは神の傍(かたわら)で腕を振るう者となり、日々、神を喜ばせ、いつの時も御前に楽しむ者となった」とあります。箴言の著者は分かって書いたのでしょうか。そうではありません。分からずに、しかも聖霊に霊感され、やがて人間の像でこの世に来られる「神の知恵」救い主イエスを言い表していたのであり、預言していたということなのです!

 パウロは第一コリント1章で、イエスが神の知恵であることを明らかにし、30節でこう言います。「あなた方がキリスト・イエスにあるのは、神によるのです。キリストは私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖い(あがない)となられたのです」 「私達にとって神の知恵となり」とは、必ずしも他の人には知恵にはならないということです。私達にとって神の知恵となるのはどうしてか、イエスを信じたからであり、イエスの十字架の死の事実が何を意味するかを悟ったからです。18節でもパウロはこういいます。「十字架のことばは、滅びゆく者には愚かなものですが、私たち救われる者には、神の力です。」貧しい知恵ある者イエス、そしてその十字架による死は、「滅びゆく者には愚か」なのです。愚かさとは、無意味さの極地です。重罪犯を懲らしめる最悪の死刑、十字架!それがイエスの死ですが、無意味でしかない!

 ところが実は、イエスの十字架の死は、神の知恵の極致、神の力の極致なのであります!何故なら、その死と復活により、人を義とし、聖(きよ)め、贖(あがな)からなのであります。

人を義とするとは、十字架による罪の赦しによって神との関係が正常に回復されることです!

聖めるとは、聖霊によってその立場に相応しく、キリストとの交わりの中に導かれて恵みを現在経験することです!

贖いとは、キリストにより罪の代価がすでに払われ赦されているので、最後の日に審判の日に、完全に解放されると言うことです!

Ⅲ.静かに傾聴すべき知恵

 最後に17、18節により具体的な提案が示唆されていることを確認して終えましょう。

①誤った愚かな声を退けること

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:5e3ce97d26795-2.jpeg 18節は「一つの過ちは幸せをことごとく損なう」と。私はこの一句からコロナ感染に纏わる記事「【新型コロナウイルス】 公表前に危険を警告した中国人医師が死亡」が想起されます。ご存知でしょう。その医師とは眼科医のリー・ウェンリアン(李文亮)さん。新型ウイルスは武漢で12月19日に初めて確認され、直ちにそれに気づいたこの医師は医師仲間に警告のメッセージを送りました。それは世界で最初の知らせでした。ところが12月30日に彼は警察から「虚偽の発言をした」「噂を撒き散らした」と逮捕されてしまったのです。そればかりか彼自身が27258分、新型コロナウイルスによる肺炎で死亡してしまったのです。この眼科医の知恵は愚かな当局によって無視され侮られたのです。そのために初動対応が大幅に遅れ、世界的流行に発展してしまったのです。それこそ「一つの過ちは幸せをことごとく損なう」典型なのです。この過ちの根は何ですか。それは「愚かな者たちの支配者が叫ぶ声」に聞いて、知恵に聞こうとしなかったからです。中国専門の研究者が言っていました。「中国はもはや国家ではない」「習近平主席とは9200万の共産党員のマフィアのボスだ」と酷評しています。10章1節はこれに関係していますね。「死んだ蝿は香料職人の油を臭くし、腐らせる。少しの愚かさは知恵や栄光よりも高くつく。」それがコロナ感染なのです。

②静かに知恵に傾聴すること

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:images-2.jpeg ところがその同じ中国には、知恵に静かに傾聴している人々がいることも驚きですね。ウィキペディアで中国のクリスチャン人口を検索すると、こうある。「現代の中国のキリスト教徒は、ブリタニカ国際年鑑の最新データによると中国の人口の7-7.5%9100-9750万人程度と記録されている。」驚きではありませんか。統計では1945年には100万人だったのです。共産党員数が9200万とすればほとんど同数のクリスチャンがいると言うことなのです。彼らは「知恵ある者の言葉を静けさの中で聞く」人々ではありませんか。主イエスは言われました。「聞く耳のある者は聞きなさい」今私たちに求められているのはこのことです。知恵ある者とは主イエスのことです。彼に聞かねばならないのです。

ヤコブ1章5節を想起します。「あなた方のなかで知恵に欠けている人があれば、神に求めなさい。そうすれば、与えられます。神は、とがめもせず惜しみなくすべての人に与えてくださる方です。」私たちはこの喧騒な時代に静まることを、静まって神に聞く態度を保つことが最重要でしょう。神は求める者に知恵を惜しみなくくださるからです。

 ウイ—ンでのエピソードですが、A姉が一年のクラリネット留学終えて帰国されるというので見送りに行きました。5時に車で迎えに伺い、空港から7時35分出発予定であった!B姉も同行され、荷物の出し入れを手伝ってくださり、いざアパートを出ようとして問題が発生した!A姉が「鍵がないので待ってくれ」と!部屋を探し、積んだ荷物を探し出した!時間は刻々すぎる!ふと後部ガラスから後ろ観ると、二人が手を取り合って祈っている!だから私も内心祈った!30分が経過し、45分経過した!とうとう私は知恵を働かせて「遅れたらまずいから、どうだろう、鍵は弁償することにして出発したら」すると、A姉が後部座席にトランクから破れた紙袋を持ち込み、「袋が破れたので何か代わりはないだろうか?」あるわけもない!その途端に彼女が叫んだ!「ありました!」何とその捨てようとした破れた紙袋の底にあったのです!すぐ出発し走りながら、お分かりだろう!感謝の祈りをささげられたのだった!神は祈りに応えてくださったのだ。

今週も、難しい問題に直面するかもしれません。神は求める者に知恵を惜しみなく与えてくださいます。神に知恵を求め祈りつつ進みゆきましょう。

96日礼拝説教(詳細)

「落ちかかる危機」  伝道の書9章11、12節

9:11わたしはまた日の下を見たが、必ずしも速い者が競走に勝つのではなく、強い者が戦いに勝つのでもない。また賢い者がパンを得るのでもなく、さとき者が富を得るのでもない。また知識ある者が恵みを得るのでもない。

しかし時と災難はすべての人に臨む。

9:12人はその時を知らない。魚がわざわいの網にかかり、鳥がわなにかかるように、人の子らもわざわいの時が突然彼らに臨む時、それにかかるのである。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:Unknown.jpeg再び伝道の書9章からメッセージを語ろうとしていますが、その題名は「落ちかかる危機」としました。それは、11節に「時と偶然は彼らすべてに臨む」12節に「突然襲いかかる災いの時に」と時が臨む、時が襲うと言われているからです。いつも言いますように危機は含蓄ある言葉ですね。危ないけれどもチャンスでもあることを表す用語だからです。

 先週から大型台風10号が発生したので警戒するよう呼びかけられていますね。関西は逸れるようですが、九州は被害が大きいようです。気象衛星によれば日本がスッポリ覆われる程の規模、瞬間風速70mだと。十分備えるようにと警告されています。

 しかし、今日、聖書により我々人間に警告されているのは台風ではありません、時と偶然、災いの時なのです。それが何を意味するのか、我々はどう対応するべきなのか、共に み言葉に傾聴することに致しましょう。

  1. 物事の成否は意志努力によらない

 伝道者は11節で「太陽の下、私は振り返って見た」と言います。その結果「時と偶然は彼らすべてに臨む」と結論しました。では何を見たのか。彼の見たもの、観察した事は、それは人間の優秀さです。しかも具体的に「足の速い者、勇士、知恵のある者、聡明な者、知者」だと、5つの例を挙げています。足の速い者とは競技場で疾走する短距離ランナーのことです。勇士とは闘技場でライオンや武装した強敵と命がけで戦う戦士のことです。残る3つは知者に関係し、当時の技術者や教師や相談役を指していたと思われます。

 これら5種類の人々に共通すること、それは、その優秀さの結果として、勝利、成功、繁栄、人々の称賛が当然獲得できるだろうと期待されることでしょう。そして、その優秀さは、幼い時から「より速く、より強く、より賢く」なるよう特訓を受け続けたその結果であるに違いありません。

 これはどうでしょうか、非常に現代的だと思いませんか。「より速く、より強く、より賢く」なる!それは現代の教育のモットーではないでしょうか。幼い時からそうなるよう特訓しておけば、きっと成功する、繁盛する、勝利する、好意をもたれる、幸福になれるに違いない、そう確信して親は習い事に通わせようとする。空手道場、ボクシング、剣道、水泳教室、そして無数の塾がそこいらじゅうに乱立しています。

 BSテレビでは、毎日のように野球の本場米国で活躍する大谷選手が出場する試合が放映されています。カッコいいですね。先日、インデアナポリスの世界最速レースインディ500でホンダを使って佐藤琢磨が優勝を果たしました。カッコいいですね。その道で第一人者となり活躍する人々の姿は、誰にも憧れの的です。

 ところが、伝道者は必ずしも「速い者、強い者、賢い者」がその努力の結果、誰でも成功するとは限らないと言うのです。「時と偶然は彼らすべてに臨む」からだと!どういう意味でしょう。「時と偶然」これは「時と機会、チャンス」と言い換えたらもっと分かりやすいかもしれません。この場合の時は単に1時間2時間、1日2日という連続的な経過のことではありません、突然、人間に制御されることもないままに起こってくる事柄を指しているものです。時、即ち偶然の出来事と理解したらいいでしょう。

 先週金曜日に、またある方が号外を届けてくれました。大きな見出しは「安倍首相退陣へ」でした。先月末28日、阿部首相が突然記者会見で辞任を表明されたのです。その途端、何が起こったでしょうか、次期総裁選挙です。8日に告示され、14日に議員総会で総裁選、16日に臨時国会で指名選挙が行われようとしています。これこそ典型的な「時と偶然、時と機会」ではないでしょうか。直ちに三人が立候補を名乗り出ました。彼らにとっては、まさしく彼らに臨んだチャンス、落ちかかった危機と言えるでしょう。

 人の強い意志と人のたゆまぬ努力は、成功と勝利の可能性を秘めるでしょう。しかしながら必ずしも結果が出るとは限らない!時と偶然、時とチャンスがあってこそ結果が出る。それが人生の妙理ではないでしょうか。

 Ⅱ.災い危険は予測できない

 では12節によれば、伝道者は何をまた見た、観察したというのでしょうか。「人は自分の時さえ知らない」と言うのです。それはその前の「時と偶然」を指しているとも取れますが、11節後半の「災いの時」をも指していることは間違い無いでしょう。

 私たちはすでに3章で時の何たるかを学びました。そこには14行詩で28の出来事が挙げられています。どれも対照的な詩で、幸いと災いが一対になっています。人の生きる人生にはこれらの幸と災いが振り子時計のように落ちかかって来る!しかも、聖書は、人はその落ちかかるその時を知らないのだと強調するのです。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:images-6.jpeg 最近、朝のゴミ出しをした際に、お隣さんが手招きしておられる!何かと行けば、何と仕掛けた大きな罠に、これまた大きなイタチが捕獲されているではありませんか。お隣さんが市役所から借りてきたという大きな罠に、ドーナツを餌にしたところ見事に引っかかったと言われるのです。お隣さんは興奮気味でした。イタチはどうでしょうか。その罠に入る瞬間まで、まさか仕掛けられて捕獲されるとはご存知ないでしょう!

 ご覧ください。12節「不幸にも魚が網にかかり、鳥が罠にかかるように、突然襲いかかる災いの時に、人の子らもまた捕らえられる」と言うのです。獣に鳥に、魚に起こることが人間にも起こると聖書は言うのです。罠に網にかかる鳥や魚と同様、災いが襲いかかる、降りかかる、落ちかかる、しかもその時を人は知らないのです。

 私たちは祈り会で、政治的指導者のために祈ることをしていますが、この度、阿部首相が突然辞任されたと言いました。しかも持病の悪化のため政務に支障を来すからだとのことです。任期は来年9月まで、途中で挫折すると誰が想定しただろうか。7年8ヶ月と歴代最長記録をマークしたが、オリンピック開催を花道に意気揚々と退出しようとするところ、突如!新型コロナウイルス感染の災難が日本を襲う、結果、開催は吹っ飛んでしまいました。こんな事態を誰が予想することができたでしょうか。

 ですから聖書が、11、12節により、語っているメッセージは、こう言うことです。『どんな人生にも共通する二つのこと、「運、不運」と呼ばれる不確かな現実に人はどうしても翻弄されてしまう』と言うことなのです。

 Ⅲ.時と偶然への対処

 では、落ちかかる危機に、私たちは人間としてどう対処するべきでしょうか。

①神に信頼すること

 それは何と言っても神に信頼することです。今日の箇所を含めて9章を俯瞰してくると、全てが悲観的に否定的に見えてしまうかもしれません。先週は、人の人生で最悪なことは、すべての人に一つの運命、即ち死が臨むことだと言いました。今日の箇所では、成功も勝利も人間の意志や努力だけでは十分ではない、チャンスが必要だ、そればかりか知らないうちに、災いの時が突然人に襲いかかると言っている!これだけでは悲観的に見えても仕方ないかも知れない。

 ところが伝道の書に一貫していることが一つあります。「万事一切を神が支配されている」だから「この神を畏れ信頼しなさい」ということなのです。9章だけでも見てください。1節「正しき者も知恵ある者も彼らの働きは神の手の中にある」7節「神はあなたの業をすでに受け入れてくださった」9節「愛する妻と共に人生を見つめよ。」言った後に「それは、太陽の下、空であるすべての日々に神があなたに与えたものである。」とすべてを支配する神が、この箇所だけでも力強く証言されているのです。

 そればかりか、恵みの時代に生かされている私たちには、更に優れた光が与えられていることを覚えてください。ローマ9章16節の言葉によって、更にこの世界と歴史を治めたもう神がどのような方が明らかにされるのです。こうパウロは言いました。「従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるのです。」そうです。世界を統べ治める神は憐れみ深い神、善なる神、良きお方だと教えているのです。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:Unknown-3.jpeg 私たちの経験からすれば、『時と偶然が、災い時が突然襲いかかって来る、降りかかって来る、しかもその時が人にはわからない、予測すらできない!ならば、どうすることもできないではないか!』そう悲観的にならざるを得ません。しかし、その時と偶然をも実は、全てを貫き支配される方がおられるのです。天地を創造された憐れみに富む善なる神がおられるのです。

 私たちはだいぶ以前にルツ記から偶然を学びましたね。経済的不景気に見舞われたためアビメレクとナオミの家族は外国モアブに出稼ぎに行く、だが、夫が死ぬ、二人の息子が現地の女と結婚するが、次々と若死にする、途方に暮れるナオミは嫁のルツと帰国する。着の身着のまま貧乏のどん底で帰宅する。その時、大麦の刈り入れ時、ルツが思い立ち 落ち穂拾いに出かけて行く。貧乏人に許された限度内でできることをルツは精一杯しようとする。すると、どうでしょうか、彼女が落ち穂を拾った畑がナオミの近親者ボアズの所有地だった。それがたまたまそうであったと聖書は強調している。それがきっかけで事態は大きく展開する。やがてルツはボアズと結婚する、二人から生まれた息子の家系からなんと後の王、ダビデ生まれる。そればかりではない。その後の系図によれば、その家系から救い主イエスが生まれることになる! ルツ記が記されたのは、人の目には偶然としか思われない出来事でさえも、それがどんなに些細なことであっても神が支配されていることを教えるためだったのです。

 相対性原理のアインシュタインには彼が語ったとされる有名な名言がある。彼はこう断言しました。「どんな条件であれ、私には確信がある。神は絶対にサイコロを振らない。」分かりますね。サイコロを振る!それは偶然の典型でしょう。神はサイコロを振らない!気まぐれな方ではない!神は一貫して計画を有され、それを実行される方だということなのです。それゆえに、人の生きる人生で最も大事なこと、それは、神を信じ、全幅の信頼を神に寄せることなのです。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:Unknown-5.jpeg 箴言3章5、6節にはこうありますね。「心をつくして主に信頼し、自分の分別には頼るな。どのような道を歩むときにも主を知れ。主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」聖書のどこを開いても同じです! アメリカのコイン1セントに何と書いてあるか? 「In God we trust我々は神に信頼する! そうです!一番大切なことは憐れみに富む神に信頼することです。

 先週火曜日にウイ—ンのある兄弟から手紙が届いていました。その最後に英国の詩人ブラウニングの一片が引用されていたのです。懐かしく全文を読み返した。『我と共に老いゆけよ!最善はこれからだ。人生の最期、そのために最初が作られたのだ。我らの時は神の聖手の中にある。神は言われる、「私は一つの全体を計画した。青春はその半ばを示すのみ、神に信頼せよ。全てを見て恐れるな!」と』 そうです。「我らの時は神の聖手の中にある」のです。運・不運を嘆き、辛くて人生の不確かさを呟きたくなったなら、神を求め、神を見上げましょう。そして主に祈ることにしましょう。

②チャンスを生かすこと

 もう一つの対処は落ちかかる危機、チャンス、機会を無駄にせず生かすことでしょう。

この9章でも繰り返される否定的な言葉は、「人はすべてを知らないこと」です。1節「人は、目の前にあるすべてのことを知ることはない」とあります。12節では「人は自分の時さえ知らない」と「知らないこと」が強調されインクルージオになっています。

 しかし、実は人が物事のすべてを知らないことは決して否定的、悲観的、消極的ではないのです。すでに7章14節でも学んだことですね。「幸せな日には幸せであれ、不幸な日にはこう考えよ。人が後に起こることを見極められないように神は両者を造られたのだ、と」そうです。我々人間がすべてを、見極められないように、分からない、知らないようにされたのは神の深いご配慮なのです。知らなくていいのです。

 ではどうですか、もし全てが事前に分かったらどうなりますか。『その方がいい。予防できる、準備できる、対処できる、対策を立てられる。台風の予報がそうではないか』そう思われるでしょう。現代はまさにその方向に進歩していることは間違いありません。予測予報の技術の進歩は凄まじいものがあります。ところが、全て起こること、決まっていることがすべてわかったなら人間は、どうなるか想像してみてください。恐ろしくて生きて行く勇気を失うかもしれません。或いは、諦めたり、努力することもなくなり、怠惰になるかもしれません。無責任な生き方に陥ることになるかもしれないのです。そうではないのです。分からなくていいのです。人間は全てがわからない、知ることができないからこそ、今現在、自由に責任を取って生きて行くことができるのだということなのです。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:images-4.jpeg 大戦中、ドイツの捕虜となりアウシュビッツ収容所で生き残ったユダヤ人の精神医学者のヴィクトール・フランクルがこんな一つの実話を語りました。「夜と霧」は有名ですね。『あるとき、マルセイユの港から、無期懲役の判決を受けたひとりの黒人が、レビヤタン(ヨブ記41:1などに記されている海の巨獣)という名の船で囚人島に移送されました。その船が沖に出たとき火災が発生しましたが、その非常時にこの黒人は、手錠を解かれ、救助作業に加わり、十人もの命を救うことができました。そして、その働きに免じて後に恩赦に浴することができ、釈放されたのです。』 フランクルはこの実話を通して、発想の転換を勧めています。彼はこう言います。『黒人は、囚人船に乗る前は、「生きる意味などはない」と考えていたでしょうが、この船の火災の後は、人生の期待に答えることから生きる意味が生まれるということを実感できたことでしょう。』人は通常、「私は人生に何が期待できるか」と問い自己実現を図ろうとするものです。そして自分の願望、希望、理想を実現しようと計画し努力するものです。ところがフランクルは自分の体験からもそうではない、と言うのです。自分はこうなりたい、こうしたい、と自己実現を期待するよりも、むしろ「人生、社会が、歴史が私に何を期待しているか」を問うという発想の転換を勧めたのです。

 これは、伝道の書の教えに合致するものではないでしょうか。先週も9章10節を読みました。こうありましたね。「手の及ぶことはどのようなことでも力を尽くして行うが良い」これはこの先何が起こるか、全て知ることはできない人生であっても、自分に今期待されることがあるなら行うと言う、積極的な生き方ではないでしょうか。今日から始まる新しい週でも、自分の置かれている状況で、それがどんなに些細なチャンスであっても、自分に期待されていることがあるなら、できることを何でも実行することにしましょう。

③災いの時をも受容すること

 最後にこの箇所から言えることが今ひとつあります、それは災いの時をも受容することです。「突然襲いかかる災いの時」嬉しくないですね。辛いことです。でもそれもまた、憐れみに富む神の御手の中にあることを確信し、受け入れることが肝心なのではないでしょうか。

 旧約のヨブの実例は極端かもしれません。それでもヨブの態度に神を信じる謙遜な態度を学ぶことができます。彼は全てに恵まれた信仰に富む、人望厚い人物でしたが、一瞬にして不幸に、災いの時に襲われたのです。財産を失い、家族を失い、健康を失ってしまいました。しかし、彼はこう言うことができたのです。1:20「主は与え、主は奪う。主の名はほめたたえられますように」2:10でもこう言います。「私たちは神から幸いを受けるのだから、災いをも受けようではないか」これは神に対する生きた信仰がなくては言えない告白でしょう。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:images-5.jpeg そして、私たちが人生における災いの時に、苦難をも受容する信仰を学ぶのは何と言っても十字架の苦難を忍ばれた主イエス様からでしょう。今日、これから聖餐式を執行するのですが、それは受難の主イエスを偲ぶ儀礼です。あの十字架上で受難の中で語られたお言葉を一つ、今日心にしっかり止めることにしましょう。ルカ23章46節にこう記録されています。「イエスは大声で叫ばれた『父よ。私の霊を御手に委ねます』こう言って息を引き取られた。」もし、予期しない災いの時が自分に臨むことがあれば、私たちもそう祈らせていただきましょう。「父よ。私の霊を御手に委ねます」なぜなら、その災いの時ですら憐れみに富む神の御手の中にあるからなのです。

この9月の新しい週に、チャンスがあるばかりか、予期せぬトラブルが臨むかもしれません。その時、その災いが何であれ、主に委ねることにいたしましょう。