530日礼拝説教

「選びと招きの富」  マタイ11章25〜30節

そのときイエスは声をあげて言われた、

「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。

すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。

わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

 主イエスはその祈りで『天地の主である父よ。』と神に呼びかけられた。見えない神を完全に知るのは、父と親密な関係にあるイエスに限られる。「いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネ118

イエスは、父なる神を主と呼ぶことで、神が万物の創造者、所有者、かつ主権者であることを示された。神は万物を創造し、すべてがありのままに機能するよう保持され、造ったまま放置し傍観さる方ではない。万物と歴史に目的を定め、その実現の計画を摂理的に実行支配される。

ローマ8章22節には「実に、被造物全体が今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっている」とある。世界は人間の罪による堕落の結果、戦争、流血、破壊、犯罪、震災により混乱している。この現実において、ある罪が完全に表されるのを許し、ある罪を起こらないようにとどめ、ある罪悪およびその結果の及ぶ範囲を限定するよう、神は主権的に支配される。

兄達に裏切られエジプトで塗炭の苦悩を味わったヨセフは、自分がエジプトの宰相になった立場逆転状態で、「あなた方は私に悪を企てましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。(創5020」と兄達に確言できた。彼が神の摂理的支配を確信していたことが分かる。

父を示すため弟子を選ばれた主イエスは「子が示そうと思う者のほかに、父を知る者はいません」と言う。選ばれた弟子達だけが隠された真理の覆(おお)いが除かれ、主権者である神の支配の現実を悟ることが許される。驚くべきことに、弟子の選択基準は、単純に信頼し従う「幼子」の心にかかっている。この選びによりイエスは、人のあるべき姿を回復しようとされる。

本来、人は神の同労者、協力者なのだ。「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる(ローマ828」神は人を通し、人と共に働かれる。その模範であるイエスはそのため「私に学びなさい」と私たちを招かれる

523日礼拝説教

「砕けた悔いた心」  詩篇5112~14

わたしをみ前から捨てないでください。

あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。

あなたの救の喜びをわたしに返し、

自由の霊をもって、わたしをささえてください。

 約束された聖霊の降臨は、イスラエル三大祭の五旬節の日に起こった。

過越祭は出エジプトを、仮庵祭は荒野の旅を、そして五旬節は約束の地での収穫感謝祭で、今尚ユダヤ人は祝う。だが、出エジプトは十字架による罪の赦しによる人類救済計画の予型であり、五旬節の聖霊降臨により救われた新しい神の民、教会の誕生を意味する。

聖霊は神の賜物を信じる者に届けられ、その賜物は、古代に聖霊の注ぎを経験したダビデ王の告白の詩に明らかにされる。

ダビデ王はバテシバとの姦淫の罪を犯し、聖霊の臨在を失ったがために、その価値の偉大さゆえに、聖霊の満たしの更新を嘆願した。ダビデはその賜物を救いの喜びと言い、確かな霊、導きの霊と言い表し神に願い求めた。

神は、イエスをキリストと信じた者に救いの喜悦を賜る。信じた者に天与の力を賜る。信じた者の人生に神の導きの確信を賜る。この驚くばかりの恵は、十字架による罪の赦しに付随する贈り物。

人は誰しも人類の始祖アダムの最初の反逆による原罪を引きずり、かつまた、自ら犯した個々人の罪の責めを負う。ローマ118~32節に異邦人の諸々の罪が断罪されるが、その光に照らされた者は、弁解の余地は無い。

罪を犯した魂は死ぬ。死んだ後で人は神の裁きを避けられず、白日のもとに自らの罪状がさらされて申し開きはできない。火の池に投ぜられ永遠の苦悶にさらされる運命にある。キリストが十字架上で、「父よ。彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」と執り成し、身代わりの死を遂げられたのは、この恐るべき罪咎の赦しのためであった。

救われた者は洗礼により信じ赦されたと公に告白する。あの五旬節の日、使徒ペテロは洗礼を受ける者に、それに先んじて「悔い改めなさい」と勧告した。即ち、罪赦される前提に罪に対する心底の後悔と神に立ち返る真摯な態度、「砕かれ悔いた心」が不可欠なのだ。

ダビデ王は姦淫の罪の隠蔽を卑劣にも工作したが、預言者ナタンに弾劾され、打ち砕かれ懺悔した。受洗のために、受洗後も主の前に謙遜でありたい。

516日礼拝説教

「キリストの昇天」  ルカ244453

それから彼らに対して言われた、

「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。

そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われた、

「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらの事の証人である。見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。

それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。

祝福しておられるうちに、彼らを離れて、〔天にあげられた。〕

彼らは〔イエスを拝し、〕非常な喜びをもってエルサレムに帰り、絶えず宮にいて、神をほめたたえていた。

 蘇られた主イエスは40日間、ご自身を現し、ベタニアで弟子達の目の前で雲に包まれ昇天された。

ロケット推進力無しに重力に逆らい、真空の宇宙に昇ることを疑問視する人が沢山いる。それは現代の宇宙観を聖書に読み込むことから来る誤解であり、聖書は自分の思想や体系を読み込むのではなく、聖書解釈原則は読み出すことある。

神の御子はその地上での贖いの業を完成し、天の父のもとに戻られようとされた。聖書の時代の宇宙観は、天、地、地下であり、天は神の居られる場所という理解であったから、昇天によることこそ、父なる神のもとに戻る理解への最善の手段であった。

天地万物の創造主は重力法則でさえも制定された全能の神でもある。この昇天を使徒パウロは、詩篇6819節を引用することで、勝利した古代の王の凱旋の象徴によってエペソ4章で解明した。

主イエスは十字架の死と復活により罪と死とサタンに勝利され、天に王として凱旋し、神の右の座に着座し栄光を受け、天地の全権威を与えられた。その主権は国々の為政者達の束の間の統治権威など比較にならず、全宇宙、万国に及ぶ。

古代の戦いに勝利した王は、行列に捕虜と戦利品を伴い凱旋し、市民に贈り物を分配するのが慣わしであった。勝利し天に凱旋された主イエスは、10日後の聖霊降臨により聖霊の御人格において地に来られ、聖徒らに賜物を分与され、それによって教会が誕生した。

使徒、預言者、伝道者、牧師、教師や多くのキリストの職務(エペソ411)、キリストの御性質である9つの御霊の実(ガラテヤ522)、それに9つの御霊の賜物(コリント上12811)などはみな信じる者にその分に相応しく秤り与えられる。

ヨハネ14章でキリストの訣別の意向を知った弟子達の胸騒ぎと、現実に目前で昇天離別された弟子達の大喜びの相違は、昇天の悟りにあった。

昇天は不在ではない。主イエスが聖徒らに使命を与え、能力を付与され、常に王として共におられ統べ治めておられると悟っては喜ばないわけにはいかない。

主の祝福に呼応した弟子達の礼拝姿勢こそ私たちの原型だろう。

59日礼拝説教

「多面な心の対処」  マタイ6章1〜15節

自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。

もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。

だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。

あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。

それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。

また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。

あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。

また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。だから、あなたがたはこう祈りなさい、

天にいますわれらの父よ、

御名があがめられますように。

御国がきますように。

みこころが天に行われるとおり、

地にも行われますように。

わたしたちの日ごとの食物を、

きょうもお与えください。

わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、

わたしたちの負債をもおゆるしください。

わたしたちを試みに会わせないで、

悪しき者からお救いください。

もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。

見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」と主は人の心の在り方に注意を促された。私そのもの、人格、自我、自己を表す心を「心は何にも増して偽り、治ることもない。誰がこれを知りえようか。(179」と預言者エレミヤも心の不透明さを警告していた。

神の民は敬虔さを示す行為として施し、祈祷、断食を励行していた。施しは貧民への喜捨、祈祷は神との対話、断食は自己と心が向き合いその対象が異なる。

主がこの営みを捉えて警告される人の陥り易い問題点は、その行為が無意識に人に見てもらおうとする隠れた動機にあった。それは舞台で演技する役者に似ている。

偽善者たちが人から褒められようと会堂や通りでするように」と主が指摘される偽善者とは、見せかけだけの人、すり替えて誤魔化す人のこと、原語の「ヒュポクリテース」は本来、舞台役者を指していた。俳優や役者は演技によって報酬を期待すると同時に観客の拍手喝采、賞賛に酔いしれる。

人は本質的に褒められたい。人は栄光の神に似せて造られているがゆえに栄光の存在なのだ。

褒めることには子供の向上心を強化し才能を引き出す効果があるが、高慢、偽善と紙一重でもある。それがどんなに高尚で敬虔な様相を呈していても、人に見せようとし、人からの何らかの賞賛を得ようとする魂胆が、例え無意識であっても潜んでいるなら、主は「よく言っておく。彼らはその報いをすでに受けている。」と言われる。その報いが金メダルであり、莫大な賞金であったとしても、それは神が与える報いに比べれば比較にならない。

人は束の間の人生では、父なる神からの永遠の報いを期待するべきだと主は戒められる。

父なる神は、隠れたことを隠れた所で公平に見ておられる方である。人の陥り易い欺瞞に対処するには、自分の心が向けられている対象にその心がひたすらに奪われ続けることにある。

舞台役者の演技ではなく、隣人愛と神愛を真心から実践するものでありたい。

 

場所や場合によって巧みに使い分ける二重倫理に注意し、人が見ていようが見ていまいが誠実でありたい。

52日礼拝説教

「永遠の住宅事情」   ヨハネ14章1〜11節

「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。

トマスはイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」。

イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。

ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。

イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。

 最後の晩餐で「心を騒がせてはならない」と主は言われる。卓上で差し向かう弟子達の微妙な表情に主は彼らの不安を察知された。

「私がどこへ行くのか、あなたがたは知っている」との主の言葉を受け、トマスは「分かりません」と悲観的に答えた。胸騒ぎの原因は、主の訣別予告にあった。主の不在は居場所喪失を意味した。

それまでに、個人的居場所も社会的居場所も彼らにはあった。だが、主との全く新しい霊的な居場所を失いかけていた。主は捕らわれ、裁かれ、処刑され、復活し、昇天し、天の父の家に、彼らの為に永遠の居場所を備えに行こうと「父の家には住まいがたくさんある。」と言明された。主は天の父に至る唯一の道である。

すると「私たちに御父をお示しください」とピリポが問う。行く場所、その道は分かっても、主が戻ろうとする父がどなたかがピリポにはいまいち確信が持てない。イエスの父とは父なる神のこと、見えない神を具体的に示されれば満足できるとピリポは訴える。主の回答は何と、「私を見た者は、父を見たのだ」であった。

三位一体の神の第二位格である御子が人間となられた方こそ主イエスである。主に従う生活を通して、その人格、その言葉、その業を弟子達は目撃してきた。主の言動全てが父なる神の啓示であると主は答えられている。

更に最後のユダの質問は驚くべき霊的現実を私たちに開示する。約束された別な助け主である聖霊の来臨が、未来の天の永遠の住まいの確かな前味をもたらすことであると。

聖霊の降臨により、主イエスを愛する者は父と御子と一緒に住むと約束される。神が一緒に人と住むとは、親しく理解を深める霊的な交わりの比喩的表現に違いない。

 

主は山上の垂訓で「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る」と語られた。現実には誰も人の罪深い汚れで神を見ることはできない。だが、人の罪を赦し汚れを清めるべく主は十字架の道を進まれた。聖餐式に預かり、十字架の罪の赦しに感謝し、聖霊に満たされ、永遠の住まいに期待し、コロナ感染の危険で心騒がせず、主を礼拝しよう。