1227日礼拝説教

「宝の箱を開けて」 マタイ2章1〜12節

 高度の手段で大量の情報が行き交う現代は情報化時代、便利であるが危険と背中合わせ、虚偽報道は要注意とされる。

この特殊な時代に生きる人に、東方の博士達が価値ある示唆を与える。救い主の誕生の情報を彼らは、観察した星から得た。

古代の詩人は「天は神の栄光を語り大空は御手の業を告げる。」(詩篇191)と詩的に神の自然啓示を歌った。使徒パウロも「神の見えない性質は、世界の創造以来、被造物を通してはっきりと認められる」(ロマ120)と説いた。

澄んだ心で星の瞬きに神のしるしを見た博士達は幸いだ。野辺の一輪の花にも神の語りかけを聴く耳を持ちたい。救い主誕生の情報の確かさは、神の言葉啓示により確証された。

ヘロデ大王の諮問を受けた律法学者は、紀元前八世紀の古文書である預言者ミカ5章1節により、救い主の誕生地をベツレヘムと特定した。「主の定めはまことで、無知な者を賢くする。」(198)とも詩人は聖書の真理性を歌う。神の言葉である聖書は、神の霊感により書かれたが故に真実であり、信頼する者を失望させない。

星と預言に裏打ちされた博士達は、ベツレヘムで母マリアに抱かれた幼子イエスに会見するや、大いなる喜びに溢れた。真理は自由を得させ、信頼する者に喜悦をもたらし、人を礼拝へと導く。主イエスは「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真実をもって礼拝しなければならない。」と礼拝の本質を教えられた。

ここでヘロデ大王と博士達の礼拝する態度の違いが露呈する。ヘロデは「私も行って拝む」と言ったが、その実、彼はベツレヘムの幼児殺害計画を実行した史実がある。彼の態度はフェイクであり見せかけであった。礼拝に虚偽が混入するのを避けよう。

博士達の礼拝態度は、宝の箱を開けてイエスに献じたことに如実にその頃の真実が現れた。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのだ。」彼らはそれによって自分の心をキリストに明け渡し、イエスを宝として迎え入れている。

 

その会見後には、「別の道を通って帰っていった。」それは古い生き方に訣別したことをも暗示している。同じ道を帰ろうとするか別の道を帰るのか問われている。

1220日礼拝説教

「利用尽くされた男」 イザヤ71014

 聖書は預言とその成就の書である。神の語られた言葉が預言で、歴史上の実現が成就である。その意味でイザヤ7章のアハズ王への預言は、マタイ1章のヨセフの出来事で成就している。

預言と成就の時間差はおよそ700年あり、その確率は人智では及びもつかない。ユダ王国12代目のアハズ王は、敵の連合国に包囲され困窮し、その内心は風に揺れる森の木々のようだ。一方、700年後のヨセフは、許嫁のマリアが婚約期間中であるにもかかわらず妊娠しているのに気づいて途方に暮れている。両者の置かれた状況は全く違うが、人は手に余る困難に遭遇すれば恐れに支配されてしまう。

このような時の人の取るべき健全な態度は、あらゆる状況を支配される神に信頼することだ。

神は恐れるアハズ王に預言者イザヤを遣わし、『静かにしていなさい。』と勧告された。静かとは、そこに臨在なされる神に信頼することにより保証された状態を指す。

理解しがたい許嫁の妊娠に困惑するヨセフには、天使が夢に現れ、『恐れずにマリアを妻に迎えなさい。』と告げ、マリアの妊娠が神の直接的な介入によるのであるから神に信頼するよう勧告された。

困り果てる時に神に信頼することは分かっていても実は難しい。だが、真実な神は、神への信頼を促進させようと「しるし」を与えられる。

アハズ王に与えられたしるしは、乙女が身ごもり男の子を産み、その名がインマヌエルと呼ばれることだった。しるしとはその指し示すことが重要で、それは男の子の名の意味「我らと共に神がおられる」にあった。これはアハズ王の置かれた状況への預言であると同時に、実に私たちすべての人への預言である。

このインマヌエル預言は、700年後に神の御子イエスの降誕で成就した。天使はヨセフに御子イエスの使命が、人を罪から救うことだと告げ、十字架に磔刑に処せられたイエスにより実現された。

この御子イエスを信じる者には罪の赦しが、その心には「我らと共に神がおられる」確信が与えられる。この御子の降誕の陰には、ヨセフの従順があったことも心に銘記しておこう。

1213日礼拝説教

「道を開く先駆者」 マタイ11章2〜15節

さて、ヨハネは獄中でキリストのみわざについて伝え聞き、自分の弟子たちをつかわして、イエスに言わせた、

「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」。イエスは答えて言われた、

「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者は、さいわいである」。

彼らが帰ってしまうと、イエスはヨハネのことを群衆に語りはじめられた、

「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか。では、何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。柔らかい着物をまとった人々なら、王の家にいる。では、なんのために出てきたのか。預言者を見るためか。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。

『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである。あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。

バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。すべての預言者と律法とが預言したのは、ヨハネの時までである。

そして、もしあなたがたが受けいれることを望めば、この人こそは、きたるべきエリヤなのである。

耳のある者は聞くがよい。

全福音書がヨハネを最初に紹介したのは、彼が旧約メシア預言を代表するキリストの先駆者であるからだ。彼は叫ぶ声であって言でなく、光の証人であって光でなかった。

ヨハネは二人の弟子をイエスに派遣した時、権力者ヘロデ王の悪徳を糾弾したため、要塞の獄に幽閉されていた。

「来るべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか」と弟子に託して何故問うたのか諸説があるが、獄中に待機し、キリストの働きを間接的に伝え聞いていたヨハネの胸中の揺れ動きも感じられる。果たしてイエスが民の待ち望んだ約束の救い主なのか。

待つことは人間の高等な精神活動ではあるが、ともすれば否定的な妄想が差し込み悩まされ易い。不屈の精神力を有するヨハネにして人間の弱さを露呈したとあれば、ましてや私たちにおいておやであろう。

ヨハネの問いにイエスは『私である』と即答されず、『見聞きしていることを伝えよ』と解答された。病人の癒し、死人の生き返り、貧しい人への福音、それらすべては神の恩恵の業であった。ここにヨハネの躓きが見える。

ヨハネが民に語り施した洗礼は悔い改めだった。ヨハネはメシアが到来する主の日の差し迫る深刻な罪の審判を「斧はすでに木の根元に置かれている」と預言した。だがイエスの活動にはその兆しすら無いではないか。だがここにアドベント(待降節)でヨハネが取り上げられる意義がある。

キリストの到来は、初臨と降臨に起こる。御子の聖誕により神の恵みの時代が開始した。今はイエスの十字架の贖いを信じる信仰により誰でも罪赦され救われる時代である。だが、キリストは再び世の終わりに来られる。その時、ヨハネの預言した罪の審判が下るのである。それ故にこのアドベントにあって、御子の御降誕を祝い、かつまた厳粛な思いで再臨のキリストを待望しよう。

 

今日、この日自分が救われているとすれば、誰かが先駆けてキリストを紹介してくれたからに違いない。獄中のヨハネが苦悶したように、人知れず閉ざされている誰かがいるとすれば、私たちを現代の先駆者とさせていただこう。

126日礼拝説教

「秘義啓示の福音」 マタイ13章53〜58節

イエスはこれらの譬を語り終えてから、そこを立ち去られた。

そして郷里に行き、会堂で人々を教えられたところ、彼らは驚いて言った、「この人は、この知恵とこれらの力あるわざとを、どこで習ってきたのか。

この人は大工の子ではないか。母はマリヤといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。

またその姉妹たちもみな、わたしたちと一緒にいるではないか。こんな数々のことを、いったい、どこで習ってきたのか」。

こうして人々はイエスにつまずいた。しかし、イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里や自分の家以外では、どこででも敬われないことはない」。

そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは力あるわざを、あまりなさらなかった。

 教会は、アドベントでキリストの歴史的到来を追体験しようとする。帰郷したイエスを迎える村民は私たちにとり反面教師であろう。彼らはイエスの説教に仰天したが、結果的に躓(つまず)いてしまった。

ルカ4章では、イエスは手渡されたイザヤ預言から、約束のメシアが「私において実現した」と告知された。メシアとは苦しむ人に福音を伝えるべく神から遣わされる。福音とは秘義の啓示であり、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。」(ローマ58)という良き知らせである。私たちはそれを喜び、イエスの誕生で神の愛が現されたとクリスマスで祝おうとしている。だがナザレの村人は、語られた福音とイエスを信仰でつなぎ合わせず、躓いてしまう。

村育ちのイエス、それ故に知り尽くしている大工の息子イエスと神との関係を結び合わせることができない。それはイエスが「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と引用された格言通りだった。イエスが躓かれた場所が固有名詞ではなく故郷とあるのは、イエスを拒んだ神の民イスラエルを暗示すると同時に、現代の神の民である教会をも指し示している。

教会はイエスを主と信じ受け入れ受洗した聖徒の共同体であり神の民である。クリスマスの祝いを教会として、個人として何回経験してきただろう。その飾り付けや行事に慣れた果てに、イエスに躓くとは言わなくとも信仰の中心が霞んできてはいないだろうか。

 

十字架の言葉は、滅びゆく者には愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です。(コリント上118)」福音が神の力となっているだろうか。ナザレでは彼らの不信仰故にイエスは奇跡をなさらなかった。信仰が無くては神に喜ばれない。イエスへの信仰と従順は人をダイナミックな信仰の旅へと導き入れる。ある書名の「あなたの神は小さ過ぎる」が妥当していないだろうか。「私たちが願い、考えることすべてをはるかに超えてかなえることできる方」、イエスを主と信じ従いたい。