2019年5月礼拝説教

5月26日礼拝説教

     「すべてに耐える」     第一コリント13章7節 

13:7そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。  

    コリント人への第一の手紙 13章7節 

「愛は寛容であり」に始まる愛の章に挙げられるその特性の最後は『すべてを耐える』で締めくくられています。

「耐える」とは原意を直訳すると「〜の下に留まる」で、聖書の各所に

「後に残る、逃げないで踏みとどまる、耐え忍ぶ」等々に訳されて使われます。

仏教では忍耐の代わりに忍辱が用いられ、匂いのきついニンニクの語源となっているそうです。

すべて』に耐えるとは耐える対象に制限無しということ。

その大胆な言い回しには驚くのですが、その可能性があるからこそキリスト者に明示されていると受け止めるべきでしょう。

現代人の生活とその傾向を暗示するインスタントやオートマと言った言葉は、

誰でも思いのままに瞬時に願望を実現できるかのような錯覚を起こさせるものですが、

現実はその逆で、あの「朝夕の飯さえこわし柔らかし、思うままにはならぬ世の中」の歌そのものです

聖書は自分の持っているもので満足しなさい(ヘブル13:5)と欲望の誘惑への忍耐を教えます

中でも耐えるに手強い相手は、

自分を傷つける他人の悪意であり、

それが陰湿な批判であったり、

邪悪で不当な攻撃である場合には、

しばしば堪忍袋の緒が切れてしまうものです

反撃するか萎縮するか逃避するか反応は違うでしょうが、果たして本当に忍耐できるものでしょうか。

ヤコブ5:11には「あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている」と

旧約から古代の信仰に生きた忍耐の実例が紹介されています

一夜にして全財産、十人の子供、健康の全てを喪失したヨブが、その逆境にもかかわらず

我々は神から幸を受けるのだから、災いをも受けるべきではないか』と言い得たことには驚嘆させられます

恐らく、苦難は無意味ではなくその中に神が成就される結末と目的があると確信したからに違いありません

さらに聖書は積極的に耐えて待望する希望が復活であるとも明らかにしています

この忍耐の特性は愛であり葡萄の木なる主イエスにつながることで初めて結実します。

『わたしの愛にとどまりなさい』との招きを受けて忍耐に生きるのです。

5月19日礼拝説教 

       「目標を目指して」      ピリピ3章12〜16節

3:12わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、

ただ捕えようとして追い求めているのである。

そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。

3:13兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。

すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、

3:14目標を目ざして走り、

キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。

3:15だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。

しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。

3:16ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである。

 

 

3月21日に後楽園での米リーグ公式戦を最後に45歳でプロ野球を引退したイチロー選手は、

小学6年で既に人生目標が決まっていたことが、その作文から分かります。

人は自分の目標を設定し、そのために計画を立て、実行することで到達しようとするものです。

キリスト者を代表する使徒パウロは

「わたしは目標を目指して走る」そして「ただこの一事を努めている

とレースのランナーに自分の人生を喩えました。

その目標が彼にとっては神の賞与であり、その賞与の意味することは、

自分のからだの復活であることが前後から分かります。

イエスを受け入れた者は、キリストが復活したように復活して新しいからだが与えられるのです。

イエスを信じ受け入れることで救われますが、

救いの完成は、からだが復活することによります。

信仰により罪赦され神との関係が回復し、からだがやがて蘇ることにより全人的に救いが完成するのです。

パウロがそうであったとすれば、私たちもまた人生の目標を栄光の復活に生きるものです。

そのために「後のものを忘れて」走ります。

十字架のキリストの死に与かる者は、

古い自分に死に、それゆえに過去に影響されずに生きるのです。

イエスを知る者はとてつもない価値転換を経験します。

それまで価値ある宝もキリストを知る絶大な価値の故に色あせてしまうのです。

「前のものに向かってからだを伸ばしつつ」走ります。

これこそ目標目指す現実的な生き方です。

目線は目標をしっかり見据え、なおかつ、走るべき人生の行程で、その都度、日ごとに自分の果たすべき役割責任を忠実に果たして生きるのです。

どんな些細な課題であっても目標達成に欠かせないのです。

しかもからだの復活は単なる自己実現、自己満足ではなく、

それによって神に栄光を帰する人間の生きる目的の実現なのです。

そのような生き方ができるとするならば、それはキリストにより捕らえられているからです。

捕らえようとして捕らえられている!神の先行する愛であり、選びなのです。

神がそうするように出発させ、ゴールインさせてくださるのです。

5月12日礼拝説教

       「神の子となる権」      ヨハネ3章1〜3節

3:1わたしたちが神の子と呼ばれるためにはどんなに大きな愛を父から賜わったことか

よく考えてみなさい

わたしたちはすでに神のなのである

世がわたしたちを知らないのは父を知らなかったからである

3:2愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である

しかしわたしたちがどうなるのかまだ明らかではない

彼が現れる時わたしたちは自分たちが彼に似るものとなることを知っている

そのまことの御姿を見るからである。

3:3彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする。 

 

「これから自分はどうなるのだろう」という漠然とした不安と期待は、

人間が人間であるがゆえの共通した思いでしょう。

そう思う私たち人間の人格の特徴の一つは誕生から死ぬまで一貫しているにもかかわらず発展変化することです。

進学進級することで小学生、中学生、高校生となり、

就職するとその社員、結婚すると配偶者の夫、妻、

出産するとその子の父、母、孫が生まれればその祖父、祖母と立場が発展します。

人の身分、立場地位は複雑多岐に変化もし人により千差万別でしょう

ところが誰であっても、ひとたび主イエスを受け入れた人は、

この世での立場がどうであれ、神から生まれ、驚くべき立場が与えられ、神の子なのであります

その特権がどのように豊かであるかは筆舌に尽くしがたく、

聖書には、神の子であれば神の相続人である

神の御霊に導かれて生かされる、

栄光の自由に入れられる等々、際限がありません

中でも神の子の立場にある特別な恵みは、

神の御子イエスの品性にあずかり、イエスに似たものとされることです

人は産みの親の特性に身体的にも性格的にもよく似る傾向にありますが

信仰により神の子とされた者は神から生まれた者として神の品性に似せられるのです

ガラテヤ5章に聖徒たちには御霊により愛喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制が結実すると約束されていますがそれはキリストの品性にあずかる恵みです

このような豊かな神の子の立場に置かれているのは神の愛の結果であり証拠であります。

聖書わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。』と勧告するのは、

今現在、神の子とされているにもかかわらず、この世にあって私たちはともするとその意識が曖昧になる危険性があるからです

現実には主イエスに完璧に似ているわけでもなく、周囲の人は誰も認めるわけでもないからです。

積極的にこの恵みの立場に生きるために、神の愛に感謝し、更に新しくされるよう助け主なる御霊の注ぎを求めたいものです。

5月5日礼拝説教

         「十戒・愛の構造」    ローマ13章8〜10節

13:8互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。

人を愛する者は、律法を全うするのである。

13:9「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、

結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。

13:10愛は隣り人に害を加えることはない。

だから、愛は律法を完成するものである。

 

5月最初の礼拝会から私たちは十戒朗唱を取り入れることになります。

十戒は奴隷解放された民に神がモーセにより授けられ、

恩恵に浴した人々が神の民として生きる新しい規範でした。

ローマ7:12律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。

とあり、律法は完全で聖なるものです。

しかしながら、これは完全に守って救われるための手段ではなく、

あくまでも救われたのだから、かく生きるべきであるとの指針でした。

ところが神の民はその歴史の進展とともに、律法を遵守しようとするあまり自己義を誇り、

かつまた、そのつもりもないのにそれらしく振舞う偽善に陥りました。

実は、神が民に十戒を授けられたのは、それによって救われるためではなく、

むしろそれによって人が罪の自覚を得させられるためだったのです。

人類の始祖アダム以来、罪によって堕落した人間は、罪の規定なしに、罪の自覚を持ち得ません。

ガラテヤ3:24で、「律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。」と説明されるように、

律法はキリストの十字架による罪の赦しに先立ち必要とされ、

律法により罪の自覚を得させられて初めて罪の赦しを神から受けることができるのです。

では十字架の罪の赦しが確立した今現在、十戒は廃棄されたかといえば、とんでもないことす。

むしろ、恩恵を受けたキリスト者の生活の基本的な骨格です。

ローマ13:810には「人を愛する者は、律法を全うするのである」「愛は律法を完成するものである」とあり、

十戒、律法は愛の構造で、家の建築で例えれば、その鉄筋構造に相当するものです。

十戒は人に愛があれば最低これだけはするであろうという消極的なもので、

それは積極的な愛の行為によって初めて完成されるべき規範なのです。

聖書の教える愛は感性や感情的な情愛ではなく、

どこまでも相手の益を図る意志的な行為、行動です。

神は御子を犠牲にする行動で愛を現されました。

私たちは十字架にその愛を知り、それゆえに隣人を愛するよう召されているのです。