627日礼拝説教

「能力必要に応じ」  使徒行伝43237

信じた者の群れは、心を一つにし思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものだと主張する者がなく、いっさいの物を共有にしていた。使徒たちは主イエスの復活について、非常に力強くあかしをした。そして大きなめぐみが、彼ら一同に注がれた。彼らの中に乏しい者は、ひとりもいなかった。地所や家屋を持っている人たちは、それを売り、売った物の代金をもってきて、使徒たちの足もとに置いた。そしてそれぞれの必要に応じて、だれにでも分け与えられた。

クプロ生れのレビ人で、使徒たちにバルナバ(「慰めの子」との意)と呼ばれていたヨセフは、自分の所有する畑を売り、その代金をもってきて、使徒たちの足もとに置いた。

 使徒行伝の記録によれば、五旬節の日に聖霊が120名に注がれるや、3千人が受洗、麗しの門で足の不自由な乞食が癒されるや、使徒の説教で回心者を加え、信じた人は5千人に達した。ルカは彼らを「信じた人々の群れ」と呼び、これこそ誕生したての教会であった。

教会とは、キリストの言葉を聴いて救われ、イエスを主と信じた人により構成され、しかも「心も思いも一つにし」て信仰の一致を保つ共同体である。その信仰の一致は、使徒達が主イエスの復活を証しすることにより促進され、その結果として、神の大いなる恵みが会衆の上に置かれ、それは、教会に神の愛が注がれていることを意味した。

自分が神に愛されていることを、誰もが例外なく実感することができる。イエスにあるならば、何ものも神の愛からその信者を引き離すことはできない。神の好意が教会には明らかにされ、本来ならそれに値しない罪人であるにもかかわらず、信じた者は神の恩恵に与り、無償の賜物に感謝しないわけにはいかない。「あなたがたは恵みにより、信仰を通して救われたのです。それは、あなたがたの力によるのではなく、神の賜物です。(エペソ28)」

イエスを主と信じる信仰により深く結びついている人々の集まりである教会は、信仰と賜物を共有し、また、持ち物をも共有にする。罪赦され天地の主なる神に立ち帰った者は、自分の持てるものすべては、万物の創造者であり万物の所有者である神から貸与されている自覚に至る。

かつて裕福なヨブは一夜にして全所有物を失った際に『主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。』と告白している。人は神から貸与された全てを如何に活用したのか、最終的に神に申し開きをする責任を有する。

初代の群れでは、その共有の実践により、貧しい人は一人もいなかった。それは主イエスにより到来し、かつ、来るべき主の再臨において完全に実現する理想社会のブループリントでもあった。それは、暴力革命による共産主義制度ではなく、能力ある者が全く自発的に導かれ、自由に必要ある人々に対応する愛の業に他ならない。

620日礼拝説教

「共存共生のすべ」  コリント下8章1〜15節

兄弟たちよ。わたしたちはここで、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせよう。すなわち、彼らは、患難のために激しい試錬をうけたが、その満ちあふれる喜びは、極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て惜しみなく施す富となったのである。わたしはあかしするが、彼らは力に応じて、否、力以上に施しをした。

すなわち、自ら進んで、聖徒たちへの奉仕に加わる恵みにあずかりたいと、わたしたちに熱心に願い出て、わたしたちの希望どおりにしたばかりか、自分自身をまず、神のみこころにしたがって、主にささげ、また、わたしたちにもささげたのである。

そこで、この募金をテトスがあなたがたの所で、すでに始めた以上、またそれを完成するようにと、わたしたちは彼に勧めたのである。

さて、あなたがたがあらゆる事がらについて富んでいるように、すなわち、信仰にも言葉にも知識にも、あらゆる熱情にも、また、あなたがたに対するわたしたちの愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富んでほしい。こう言っても、わたしは命令するのではない。ただ、他の人たちの熱情によって、あなたがたの愛の純真さをためそうとするのである。

あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである。

そこで、わたしは、この恵みのわざについて意見を述べよう。それがあなたがたの益になるからである。あなたがたはこの事を、昨年以来、他に先んじて実行したばかりではなく、それを願っていた。だから今、それをやりとげなさい。あなたがたが心から願っているように、持っているところに応じて、それをやりとげなさい。もし心から願ってそうするなら、持たないところによらず、持っているところによって、神に受けいれられるのである。

それは、ほかの人々に楽をさせて、あなたがたに苦労をさせようとするのではなく、持ち物を等しくするためである。すなわち、今の場合は、あなたがたの余裕があの人たちの欠乏を補い、後には、彼らの余裕があなたがたの欠乏を補い、こうして等しくなるようにするのである。それは「多く得た者も余ることがなく、少ししか得なかった者も足りないことはなかった」と書いてあるとおりである。

 使徒パウロがコリント教会に書き送った手紙にエルサレム教会への施しを勧告した背景に、第4代ローマ皇帝クラウディオの治世下の大飢饉があった。献金ではなく困窮者への援助、施しで、その実施目的は互いの平等にあるとパウロは、荒野の旅路で民が経験した天からのマナの例を引用している。「今この時」困窮するエルサレム教会を援助するなら、いつか自分達が困窮するときには彼らが欠乏を補うことになるだろう。ここに人の基本的在り方である共存、共生の原則が生きている。

人は絆で結ばれた関係の生き物であり、施しは共に生きる具体的な恵みある祝福された行動の一つとして勧められている。「貧しい者をあわれむ者は主に貸すのだ、その施しは主が償われる。(箴言1917」実に人に対する施しは主に向けられている。主イエスも「この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。」と言われた。だが、分かっていてもおいそれとできる業ではない。

私たちを愛の業に向かわせる動機の根幹をパウロは「主は富んでいたのに、あなたがたのために貧しくなられました」と喝破した。その貧しさによって信じた私たちが富む者とされたではないか。キリストの貧しさとは神である方の受肉にある。イエスは神の御子としての栄光と祝福すべてを横にされ地に降り人となられた。天において富む方が地において貧しくなられた。

信じる者が豊かにされるのは経済的、金銭的ではない。罪赦され神の子とされ、永遠の命が付与されることにある。パウロはすでに施しを実行したマケドニア教会の態度を「喜びに満ち溢れ、極度の貧しさにも関わらず」と表現した。金銭の多少ではなく、聖なる動機付に裏打ちされた愛の奉仕に価値がある。

金銭に関わる募金活動は信頼される人々に託し、公明正大さが求められる。パウロの愛弟子でギリシャ人のテトスは募金を託され、1500キロ先の異国人ユダヤ人に奉仕した。それは文字通り「遠い者」への奉仕を意味した。

 

困窮者に対する救済の働きは、先ずは近い者から始め、導かれるなら遠い者へも実行させていただこう。

613日礼拝説教

「星のように輝く」  ピリピ212~18

わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。

あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。

すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。

このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる。そして、たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう。

同じように、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい。

 使徒パウロは、ローマの獄中から殉教をも覚悟しつつ、11年前に短期滞在した際にピリピの町に誕生した教会が、この世が歪んで邪悪で暗いので星のように輝くことを期待し、訣別の手紙を書き送った。創造主なる神は、大空に太陽と月を造られたが、無数の星にも果たす役割を与えて創造された。(創11419

手紙の背景にあるその時代、16歳の青年ネロは母アグリッピナの奸計でローマ皇帝に即位した。28歳で自殺するまでの12年間は実におぞましい。ネロは、政敵を毒殺、不倫を重ね、母をも殺害、遊興に溺れ、ローマ大火の責任をキリスト者に負わせ虐殺した。

一方で信仰の形骸化によるイスラエルの堕落は顕著、政治的に反ローマと親ローマが対立、過激派が台頭しユダヤ戦争が勃発、あのAD70年のエルサレム陥落の悲劇が現実化しつつあった。

だが私たちは歴史上、AD313年にローマ皇帝のコンスタンティヌス帝が出したミラノ勅令により、キリスト教が公認され国教とされたことを知っている。残存する多数の資料をもとにした最新の研究によれば、帝国を襲った二度の疫病流行時のキリスト者の在り方が大きな要因だとされる。

彼らは、疫病患者や貧者を命懸けで世話し、キリストの愛と奉仕を教えるのみか実践していた。それはギリシャ神話やローマの宗教には全く無い新しい生き方であった。主イエスは弟子たちに『あなたがたは世の光である。あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。』と命じられた。そして光が輝くとは「あなたがたの立派な行い」だと語られる。 

2千年前のローマ帝国では天然痘と麻疹が蔓延し人口の三分の一が病死した。新型コロナ・ウイルスが世界に蔓延し脅威となった今現在は、愛と奉仕が、夜空の瞬く星のように小さくても、私たちに求められているのではなかろうか。詩篇1483節にはまた輝く星が主を賛美するよう呼びかけられる。あのピリピの獄中でパウロとシラスが深夜に主を賛美すると大地震が発祥、事態は一変した。(使徒1625)主への喜びと感謝の賛美を霊的な武器として今この時にこそ歌おうではないか。

66日礼拝説教

「神の中に動く時」  使徒行伝17章28節

われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。あなたがたのある詩人たちも言ったように、

『われわれも、確かにその子孫である』。

 使徒パウロは、ギリシャの都市アテネで、文化人との対話により福音宣教を試みている。その対話でクレテの詩人エピメニデスの詩の一部「私たちは神の中に生き、動き、存在しているからです」を引用した。福音の真理を伝達するのに、異文化の既知の知識活用は、非常に優れた有効な手段であった。因みに、日本の神霊現象を表す漢字の「神」が、聖書原語から日本語に翻訳の過程で採用されたのもその意味であった。

ギリシャ人の神はゼウスのほか神話の無数の神々であり、日本人の神は天照大神を始め八百万の神々である。だが、私たちは福音により「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です」と証言する。

真の神は場所や建物に囚われない。人間の世話を全く必要とされない。むしろ人に一切を与えられる。人間を多様性のある民族、世界市民として地球に住み分けさせられた。ご自分の実在を証明する証拠を世界中に散りばめ、神は見いだすことが可能な方である。遠くにおられるのではなく身近な神である。

そのように確言できる理由は、人間として我々自体の存在が神の創造よるのであり、生きていること自体が神の命の息の吹きかけによるからに他ならない。詩人の神観は間違っていても、神が身近におられる論理が生きていたのでパウロはこれを採用したに違いない。

「主よ。あなたは前からも後ろからも私を囲み、御手を私の上に置かれる(詩篇1395)」と聖書も証言している。人は神の中に存在し、生きている。そればかりか動物の中の動物であり、人の本質は活動することにある。

だが、神への反逆の罪過により、その結果としての堕落は神ならぬ偶像崇拝を生み出し、人間の活動の歴史は相互の対立と紛争と流血に終始してきた。

人間として神の中に存在し、生き、本来的な活動をするために、誰しも悔い改め、方向を転じて生ける真の神に帰らねばならない。そのために、罪の赦しを得させる神の御子が十字架に救いの道を開いてくださった。

 

使徒パウロは異教徒との福音による忍耐強い対話の姿勢を示したが、私たちも日本における活動の模範としよう。