1月30日礼拝説教

「可能引出す仮定」  マルコ1章40〜45節

ひとりのらい病人が、イエスのところに願いにきて、ひざまずいて言った、「みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。

イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。すると、らい病が直ちに去って、その人はきよくなった。

イエスは彼をきびしく戒めて、すぐにそこを去らせ、こう言い聞かせられた、 「何も人に話さないように、注意しなさい。ただ行って、自分のからだを祭司に見せ、それから、モーセが命じた物をあなたのきよめのためにささげて、人々に証明しなさい」。

しかし、彼は出て行って、自分の身に起ったことを盛んに語り、また言いひろめはじめたので、イエスはもはや表立っては町に、はいることができなくなり、外の寂しい所にとどまっておられた。

しかし、人々は方々から、イエスのところにぞくぞくと集まってきた。

 隔離され触れてはならない癩者に、主イエスは御手で触れ瞬時に癒された。今現在、恐れられる新型コロナ感染も、ワクチンや治療薬開発で希望があるが、治療法の無い古代ではレプラ(癩病)は絶望的だった。レビ記13、14章の規定によれば、判定された癩者は社会生活から隔離され、集会からも疎外され、その苦痛は想像を絶した。

今でこそ特効薬プロミンの開発で治癒可能とされたが、古代の患者は皮膚や末梢神経が菌で冒され、酷い場合には人体を変形させる慢性病で絶望的であった。しかしながら、「罪を犯した魂は必ず死ぬ。」、更に「すべての人は罪を犯した」と、この病が万人の死に至る病、罪の象徴であるとする聖書によれば他人事ではない。

人は一度死ぬこと、死んだ後に裁かれることが決まっている。裁かれた者は地獄の永遠の苦悩がその運命とされる。主イエスは地獄について14回も語られ、「もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。」と警告されておられる。

ダビデ王は、自分の欲望満足のため人妻のバテシバと姦淫の罪を犯し、預言者ナタンに糾弾され窮地に陥り、「過ちをことごとく洗い去り、私を罪から清めてください。」と祈り求めた。感謝なことにあの絶望的な癩者は、主により、その深い憐れみゆえに癒され清められ、ここに福音がある。

主はすべてのものに恵み深くその憐れみは造られたものすべての上に及ぶ。憐れみ深い神が人となられた方こそ主イエスであり、その延長線上に十字架がある。主は私たちの罪責すべてを引き受け、赦しを得させるため犠牲となられた。

癩者が、謙って主イエスの全能と主権とを告白すると「私は望む。清くなれ」と清めが彼に瞬時に注ぎ出された。彼の「お望みならば」との願いに、生きた信仰が光っている。「もし、あなたが意志されるなら」との仮定的な祈りには、神の主権を認める信仰が秘められているからである。

自分の置かれた状況がどうあれ、御心の成るよう祈ろうではないか。

1月23日礼拝説教

「霊的戦略と戦術」  マルコ1章21〜28節

それから、彼らはカペナウムに行った。そして安息日にすぐ、イエスは会堂にはいって教えられた。人々は、その教に驚いた。律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。

ちょうどその時、けがれた霊につかれた者が会堂にいて、叫んで言った、「ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」。

イエスはこれをしかって、「黙れ、この人から出て行け」と言われた。すると、けがれた霊は彼をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。

人々はみな驚きのあまり、互に論じて言った、「これは、いったい何事か。権威ある新しい教だ。けがれた霊にさえ命じられると、彼らは従うのだ」。

こうしてイエスのうわさは、たちまちガリラヤの全地方、いたる所にひろまった。

 「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」と孫子兵法に聞くまでもない。「私たちの戦いは、人間に対するものではな」く、敵が悪魔だと確認しておこう。

エデンの園で最初の人は蛇に騙され失敗した。狡猾な蛇が聖書を通してサタンのシンボルとして知られる。敵対者、誘惑者、悪い者、告発者、敵、ベルゼブル、空中の権威を持つ支配者、この世を支配する者、等々、悪魔は神と人に敵対し存在する。

悪魔は初めから人殺しであって、真理に立ってはいない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。」と主は、彼が人殺しであり偽り者だと糾弾された。国と国、民族と民族、人と人とが争うのは、サタンの策略に踊らされた結果に過ぎず、的外れも甚だしい。

人の心に蛇のように侵入し、ライオンのように恫喝する悪魔に対抗する戦略の要の第一は、集会に定期に集まること、第二に定期に神の言葉に傾聴すること、更に積極的に悪魔に立ち向かうことにある。主イエスはカペナウムの会堂に入り、会堂の会衆に神の言葉を教えられた。

私たちが、日曜日毎に礼拝に集まり、神の言葉に傾聴するとき、そこに主イエスは共に居られる。「では、これらのことについて何と言うべきでしょう。神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか。」主イエスが味方である限り誰も敵対することはできない。

「ですから、神に従い、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」主イエスは荒野の誘惑でも、聖書に「〜と書いてある」とサタンを撃退された。主イエスは汚れた霊を「黙れ、この人から出て行け」と悪霊を追放された。私たちも神に従うなら敵に対抗できる。

 

使徒パウロがエペソ6章10節以降に明記した霊的戦いの戦術を会得しておこう。武具に正義の胸当て、信仰の盾、救いの兜を着けよう。狡猾なサタンが切り込む隙を与えないよう要注意しておこう。霊の剣のみ言葉を常時使用可として記憶に留め、将軍イエスへの連絡通信として常に祈ろう。ならば「私たちは圧倒的な勝利者です」が当然の告白となるであろう。

1月16日礼拝説教

「喫緊火急の課題」  マルコ1章14〜20節

ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。

さて、イエスはガリラヤの海べを歩いて行かれ、シモンとシモンの兄弟アンデレとが、海で網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。

イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。

すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。また少し進んで行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。

そこで、すぐ彼らをお招きになると、父ゼベダイを雇人たちと一緒に舟において、イエスのあとについて行った。

 喫緊とは、差し迫った重要なことを意味するが普段はあまり使用されない。だが、主イエスの公生涯、最初の働きに妥当し、「時は満ちた。神の国は近づいた」という福音宣教は、主にとって最優先課題であった。

天からの啓示を受けて回心し使徒とされたパウロが、「私は福音を恥としません」、「福音を告げ知らせないなら、私には災いです」と語るとき、彼の喫緊課題も福音宣教であった。

福音(ユアンゲリオン)は、自称救世主のローマ皇帝の専門用語で、内容がどうであれ、皇帝の発言は社会を良くするとして福音(良きおとづれ)とされていた。だが、真の救い主が語られる言葉は文字通り良きことが起こる福音(良きおとづれ)に他ならない。

福音とはキリストである。イエスは真理を教えたのではなく、イエスご自身が真理である。将来どうなるのか行き詰まる世界に未来の希望を与えるのはイエスであり、戦争と対立の世界に平和をもたらすのは、「私は平安をあなたがたに残し、私の平安を与える」と確言されるイエスである。

福音には御国の約束が保証され、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」とマルタに語られたイエスを信じる者は死んでも復活し栄光の体が与えられる。

「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。」人となられた神の子イエスが罪の赦しを得させる十字架の犠牲の死を遂げ、三日目に復活されたことこそ福音であり、信じる者すべてに救いがもたらされる。罪の支配、罪の力、罪の存在から救われるとは何たる良きおとづれではないか。

主はこの福音を世界に宣べ伝える働き人を火急の課題とされる。ガリラヤの漁師ペテロとアンデレに「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と主は召された。主イエスの御名を呼び求める者は誰でも救われるが、聞いたことがなければ呼び求めることができない。救い主イエス・キリストを語り伝える者が起こされることこそ火急の課題だ。各自の召しは違うが、自分の召しを吟味し課題に応えようではないか。

1月9日礼拝説教

「万事が洗礼から」  マルコ1章9〜11節

そのころ、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊がはとのように自分に下って来るのを、ごらんになった。すると天から声があった、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。

 イエスは、ヨルダン川でヨハネから、罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を受けられたが、何故か誤解される向きがある。だが、教会は1月6日をキリストの受洗日とし、公生涯入りの公現日と記念している。

神である方が人となられたイエスは、この洗礼によりご自身を我々人類と一体化されたことを明らかにされた。マタイ3章15節で「すべてを正しく行うのは、我々にふさわしいことです。」とヨハネに語られた「我々に」の一言に表されている。罪ある人間とご自分を同化され、その罪を身代わりに担う決意の表れに違いない。

水から上がられたイエスに聖霊が鳩のように降臨したが、それはイザヤ61章1節「主なる神の霊が私に臨んだ」のメシア預言成就に他ならない。イエスは聖霊により神の言葉を語り、聖霊により奇跡を為された。十字架の受難も復活も神の力によるメシア(救い主)の業であった。イエスは聖霊降臨によりメシア意識を確立され、そこに天からの「あなたは私の愛する子」との父なる神のみ声により確かに救い主として認証された。

バプテスマのヨハネは罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を授けたが、主イエスは罪の赦しを与える洗礼を授けられる。復活されたイエスは教会に「あなたがたは行って・・・洗礼を授けよ」と至上命令を与えられたが、それはイエスを信じて罪の支配から救われる水の洗礼である。「罪を犯す者は誰でも罪の奴隷である」イエスは我々をそれまで主人であった罪の支配から解放してくださった。

だが、忘れてならない現実は、罪の支配から救われていても、罪の性質と力が信じた人に内在していることである。聖書は罪の性質を肉と称し、クリスチャンは肉と霊の二性質が拮抗すると教えている。感謝なことに、罪の支配から救ってくださる主は、肉の力に勝利するため聖霊の洗礼をも授けてくださる。別な助け主として来られた聖霊を祈り求め、明け渡すなら罪の力に打ち勝つことができる。

そして、やがて主イエスが世の終わりに再臨される時には、罪の存在そのものから救われることが約束されているとは何たる幸いであろうか。

1月2日礼拝説教

「新しい発見の旅」  ルカ2章41〜52節

さて、イエスの両親は、過越の祭には毎年エルサレムへ上っていた。イエスが十二歳になった時も、慣例に従って祭のために上京した。

ところが、祭が終って帰るとき、少年イエスはエルサレムに居残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。そして道連れの中にいることと思いこんで、一日路を行ってしまい、それから、親族や知人の中を捜しはじめたが、見つからないので、捜しまわりながらエルサレムへ引返した。

そして三日の後に、イエスが宮の中で教師たちのまん中にすわって、彼らの話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞く人々はみな、イエスの賢さやその答に驚嘆していた。

両親はこれを見て驚き、そして母が彼に言った、「どうしてこんな事をしてくれたのです。ごらんなさい、おとう様もわたしも心配して、あなたを捜していたのです」。

するとイエスは言われた、「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」。

しかし、両親はその語られた言葉を悟ることができなかった。それからイエスは両親と一緒にナザレに下って行き、彼らにお仕えになった。母はこれらの事をみな心に留めていた。

イエスはますます知恵が加わり、背たけも伸び、そして神と人から愛された。

 キリストの誕生と公生涯を除いた成長期の記録はベールに包まれ、12歳の時のエピソードのみに過ぎない。ナザレ村からエルサレムへの都上りの旅は、その帰路に問題が発祥した。

都から1日路の夕べ、宿営地で少年イエスの不在が発覚、気の転倒したヨセフとマリアは、捜しに捜し、エルサレムの神殿の中庭に発見した時は三日が経過していた。心中穏やかならぬ母マリアが、見つけて安堵しつつ「なぜ、こんなことを」と息子に詰問したのも無理はない。

ところがこの迷子発見劇は、我が子の再発見をもたらしている。イエスの「私が自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか。」との逆質は、マリアにとり理解を超えていた。

少年イエスは、自分がその時に居合わせた神殿を父の家と呼ぶことで、ヨセフの子ではなく神の子であると証言された。マリアは12年前の天使による受胎告知で、産まれてくる男の子が神の子であると既に聞いていた。忘れかけた今、息子の口から直接の神の子告知は衝撃であったろう。

そればかりか神の子であることは神を意味するのであるから、神が人の子となり、それからナザレ村で両親に支えられる姿に、私たちはイエスが全人類に奉仕するため、人間となり、人類の罪責を引き受け、身代わりの犠牲として十字架に命を捧げられる救い主を、垣間見せられる。

ヨセフとマリアは巡礼の旅の途上で、うっかりイエスを見失いかけていたが、あなたは、人生の旅の途上で、共に居てくださることが当たり前になっていて、その実、イエスを見失ってはいないだろうか。「あなたは初めの愛を離れてしまった」仕事の多忙さ煩雑さ、趣味道楽への精神の拡散、誘惑利得に繋がる絡みつく人間関係など、新しい旅の開始する年頭に整理する必要はないだろうか。

「私が自分の父の家にいるはずだ」とエルサレムの神殿に居たイエスは、今現在は、霊の神殿である教会に居られるはずだ。神の計画の必然性から絶対に私たちの集会に共に居られる。

あなた自身が神殿を構成する一つの石であると自覚しつつ、休まず集会に与ろうではないか。