326日礼拝説教

「十字架の勝利」  ローマ8章1〜8節

従って、今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることはありません。キリスト・イエスにある命の霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。

律法が肉により弱くなっていたためになしえなかったことを、神はしてくださいました。つまり、神は御子を、罪のために、罪深い肉と同じ姿で世に遣わし、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩む私たちの内に、律法の要求が満たされるためです。肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思います。

肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和です。なぜなら、肉の思いは神に敵対し、神の律法に従わないからです。従いえないのです。肉の内にある者は、神に喜ばれることができません。

イエス様の十字架の受難は、罪に対する勝利を私たちにもたらす神様の業です。罪に定められるとは、有罪が裁判で宣告されることです。

イエス様は、弟子のユダに裏切られ、議会で大祭司により死刑が宣告され、ローマ総督ピラトにより死刑が執行され、十字架刑に処せられました。最も残酷な死刑方である十字架刑は、ローマ帝国においては奴隷専用の処刑でした。

イエス様は、ローマ兵に嘲弄され、鞭打たれ、ゴルゴダの刑場で、両手両足を五寸釘で十字架に打ち込まれ、炎天下に裸で群衆のさらしものにされ、悶絶の苦痛に放置されました。それは文字通りパッション、受難でした。

しかしながら、イエス様が罪に定められ十字架で処刑されたのは、人類を罪から救うための神様の救済の業でした。「神は御子を、罪のために、罪深い肉と同じ姿で世に遣わし、肉において罪を処罰されたのです」罪の無い人間として生まれたイエス様に、私たちの罪責全てを負わせ、神様は罪を処罰されました。

人類の始祖アダムが、禁断の木の実を食べて罪を犯した結果、アダムにつながる万人が、生まれながらの罪人です。罪とは神様との関係が破れ、人生の的を外して生きることです。感謝なことに、イエス様が身代わりに罪の刑罰を引き受けられたので、信じる者は神様との正しい関係を回復させられるのです。イエス様の十字架は罪の赦しにより神様との交わりが回復させるばかりか、私たちを罪の影響力から解放する勝利の業でもあります。

「私は自分のしていることが分かりません。自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしているからです」と7章でパウロは私たちの内面的葛藤を代表して告白しています。そして「私はなんと惨めな人間なのだろう」と嘆きます。しかし、洗礼により、十字架でイエス様と共に古い自分が死ぬことを告白する人は、命の霊の法則が作用し、罪の力に勝利することができ、葛藤から解放されます。十字架を仰ぎ、聖霊に導かれて私たちは勝利に生きるのです。

3月19日礼拝説教

  「山頂からの展望」  ルカ9章28〜36節

この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られた。

祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、衣は白く光り輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後のことについて話していた。

ペトロと仲間は、眠りこけていたが、目を覚ますと、イエスの栄光と、一緒に立っている二人の人が見えた。この二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。幕屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのために。」ペトロは、自分でも何を言っているか、分からなかったのである。

ペトロがこう言っていると、雲が現れ、彼らを覆った。彼らが雲に包まれたので、弟子たちは恐れた。すると、雲の中から、「これは私の子、私の選んだ者。これに聞け」と言う声がした。この声がしたとき、イエスだけがそこにおられた。

弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時、誰にも話さなかった。

平地では見えない展望が高い位置から開かれます。三人の弟子は、イエス様と高い山に登ると、普段見ることのない霊的な展望に驚嘆しました。衣が白く輝き変貌されたイエス様に、天国が開かれたのです。人間であるイエス様に栄光の神の子が、あたかも4K液晶ビジョンのように鮮明に映し出されました。

神の子の栄光の輝きは、日曜の礼拝会にも展望されます。「二人または三人が、私の名によって集まる所に、私も共にいるのです」と約束されたイエス様は、信じる兄弟姉妹の内に内在しておられるからです。私たちは礼拝に集まりお互いに顔を合わせるとき、栄光の主にお会いするのです。

さらに弟子達は、そこに突然現れたモーセとエリヤが、変貌されたイエス様と語り合うのを目撃しました。モーセは1500年も前の人、エリヤは800年も前の人です。驚くべき歴史のタイムスリップでした。

歴史は、起こった出来事が書き留められたものです。書き留めた人物の見方や解釈に影響され、後世の人々もその解釈は種々様々です。歴史の解釈は、イエス様の前に立つとき正当性を獲得するものです。何故なら、人間は神により創造され、その人類の歴史は神様により支配され形成されるものであるからです。

私たちは過去の歴史を回顧し、また自分の個人史を思い巡らし、教訓を得ることに努めるべきです。しかし、イエス様を度外視した歴史理解は的外れとなることを覚えておくべきでしょう。モーセとエリヤがイエス様と語り合っていたのは、エルサレムでのイエス様の最期のことでした。それはイエス様が間も無く受けようとされた十字架の受難のことです。そればかりか、その最期は三日目の復活のことです。最期と訳された原語のエクソダスは、死であると共に出発、脱出を意味するからです。

十字架と復活は、信じる私たちを罪と死の奴隷から脱出させてくださる救いのみ業です。また受難からイエス様が脱出させられたように、神様は試練に遭遇する私たちのためにも逃れの道を備えてくださいます。礼拝霊的な高嶺から広く展望させていただきましょう。

312日礼拝説教

「真の日常的課題」  ルカ9章21〜27節

イエスは弟子たちを戒め、このことを誰にも話さないように命じ、そして、言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」

それから、イエスは皆に言われた。「私に付いて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を負って、私に従いなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、私のために命を失う者はそれを救うのである。人が全世界を手に入れても、自分自身を失い、損なうなら、何の得があるだろうか。

私と私の言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じるであろう。

確かに言っておく。ここに立っている人々の中には、神の国を見るまでは、決して死なない者がいる。」

 誰にでも24時間与えられている毎日をどのように生きるべきか、イエス様は「私に付いて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を負って、私に従いなさい。」と呼びかけられます。その日常課題は、イエス様をメシア(救い主)と信じ仰ぎ、イエス様にお従いすることです。

イエス様は、この呼びかけに先駆け、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」と受難を予告されました。

イエス様は、政治的、暴力的な革命家ではなく、罪の赦しを得させる十字架の死と栄光の復活のメシアなのです。このお方に従うことを望む者には、「自分を捨てること」を主は条件付けられます。自分を否定し、自分をあたかも関係が無いもののようにして、私に付いてきなさいと、厳しく言われるのです。それは、自分の命を救おうと思う自分、神様を度外視した自己愛中心の自分のことです。

自分を大切にするのは良いことです。しかし、愛の優先順位の第一にイエス様を置くことが求められるのです。それはまた貪欲な自分、極端に言えば「全世界を手に入れたい」自分を否定することです。

命は金銭、財産、富で贖うことができません。富を全能の神と取り違えるような自己を捨てることです。それはイエス様とそのお言葉とを恥ずかしく思う自分を否定することです。「私は福音を恥とはしない」と告白した使徒パウロが模範です。

しかし、自己否定は「自分の十字架を負う」ための条件であって目的ではありません。十字架を負って従うとは、イエスの十字架に倣うことです。十字架は重罪人の処刑方法ですが、イエス様は私たちの罪の身代わりの犠牲として処刑されました。十字架を負うとは、主に愛されたように、他の誰かのため愛の犠牲を払うことです。自分の時間、所有、才能、賜物をいつでも必要とする他者のために与える用意ができていることです。

執りなし祈る、奉仕する、訪問し慰問する、病人を見舞う、主が再び来られることを見据え、日々愛に生きることが課題なのです。

3月5日礼拝説教

「人生の試金石」  ルカ4章1〜7節

さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川から帰られた。そして、霊によって荒れ野に導かれ、四十日間、悪魔から試みを受けられた。さらに、

悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せて、こう言った。「この国々の一切の権力と栄華とを与えよう。それは私に任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もし私を拝むなら、全部あなたのものになる。」

イエスはお答えになった『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。

主イエスは荒野で40日間、悪魔の試みを受けられました。聖書で使われる40という数には、試みとか検疫の意味があります。それゆえに、人が遭遇する試練や誘惑は、それによってその人のうちにあるものを知ろうとされる神の試みの意味があるのです。

人間は神によって永遠に生きるものとして創造され、その人が永遠に生きるに相応しいかどうか、試金石である試練や誘惑を通して、神が知ろうとされるのです。人となられた神の子イエス様が、荒野で試練・誘惑を受けられたのは、私たちが試練・誘惑に遭うときに、助けることができるためです。ヘブル2章18節には「ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」と約束されています。厳しい試みに遭うときには、時宜にかなった助けを受けるため、恵みの座に近づき祈ることにしましょう。

悪魔が人を誘惑するその核心は、神様をその人の脇に押しのけて、その人が神様を無視し、度外視し、自分勝手に生きるように仕向けることです。石をパンにする誘惑は、神様を無視して「パンだけで生きる」、即ち、経済至上主義、唯物主義に人を誘い込むことが核心です。悪魔が主イエスに世界中の国の権力と栄華を一瞬に見せた誘惑の核心は、人を神様を抜きにした理想社会を作り出そうとそそのかすことです。権力者がその統治で国民に理想社会をもたらすこと、国民が幸福を実現する指導者を渇望すること、それが国の基本構造です。

人間の歴史は、権力の座をめぐる闘争の歴史であり、それが現代の実情です。すべての政治権威は神によるのですが、それは、最低限の秩序を確保するため許容されています。しかし、真の権威は、十字架に命を捧げられた主イエスに神から与えられ、それは天と地のすべての権能です。主イエスこそ王の王、主の主なのです。

イエス様を主と心に迎える人に神の国が現実となります。試練・誘惑に逢うときの祈りで主イエスの助けを受けるとき、平安と安全、それに聖霊に満たされた勝利の力が現実のものとなることでしょう。