2019年7月礼拝説教

7月28日礼拝説教

     「神は唯一なれば」   出エジプト20章3節

20:3あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。

 

 奴隷の家から解放された民に与えられた神よりの十戒は、罪の奴隷から解放された私たちの生活の道標です。

3節はその第一戒で、唯一の神を明確に示します。

「なにものをも神としてはならない」とは、他に神があることを意味せず、霊、自存、永遠、無限の神は主のみということです。

また、「神としてはならない」ということで、あたかも人の側に神を選択する優先権があるかのように誤解されかねませんが、決してそうではなく、2節の序文で主なる神が「私はあなたの神」と宣言されることからしても、神が民の神となられたのは神ご自身の先行する愛の選びによるものです。

これは後に主イエスが弟子たちに「あなたがたが私を選んだのではない。私があなた方を選んだのです。」と語りかけられたことに通ずる真理です。

私たちの信仰告白は、自分の意志によるものではありますが、それに先んじて恵み深い神は愛の内にひとりひとりを救いに与り、神の子となるよう選んでくださったのです。

「なにものをも神としてはならない」と強烈な否定的命令調に訳されてはいますが、原語の文法に照らして文字通り訳せば、「なにものをも神とするはずがないであろう」と否定的な未来形であります。

この3節の第一戒は2節の序文の主の語りかけを踏まえて読まれるべきものです。

2節には神がアブラハムと結ばれた契約に基づいて誠実に約束を実行し、民を奴隷から解放された方であることが明らかにされています。

それゆえに、第一戒は、このような恩恵を確かにあなた方は受けたのであるから、「私より他に神々のありようが無いではないか」と神の愛に対する愛による応答を求める主なる神の呼びかけなのです。

心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛し、礼拝し、お従いすることが求められるのです。

更に和訳では隠されている真理は「わたしのほかに」が直訳では「私の顔の前で」にあり、すなわち、人の歩みは神の御顔の前にあることです。

どこに居ても何をするにしても感謝なことに神の見守りの中に生かされているということです。

7月21日礼拝説教

      「我は主、汝の神」   出エジプト20章2節

20:2「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。

 

 エジプトの奴隷から解放されたイスラエルの民に、十戒授与に先駆け、神はご自身を「わたしはあなたの神、主である」と明示されます。

そして彼らの神であることの証左として「あなたを奴隷の家から導き出した者である」と語られます。

430年に及ぶ過酷な奴隷状態から彼らを神が救出されたその理由は、彼らに何か優れたそれに値するものがあったからではなく、ただその始祖アブラハムとの契約に基づくものでした。

神は全く自由な専権により、遥か500年以上前にアブラハムを選び、彼と契約(創世15:18)を結ばれていました。

彼らを奴隷生活から解放されたのは、その契約に対する神の誠実さによるものです。それにより「わたしはあなたの神」であると確証されたのです。

それゆえに神の一方的な恩恵を受けた後に授けられた十戒は、訳としては否定命令形を取らざるを得ませんが、戒律を完璧に遵守すれば、それによって救われるという性質のものではありません。

むしろ、神は、恵みによりアブラハムの神となり、その子孫である民の神であり続けているのであるから、その関係に生きる民の基本方針に基づいて関係を保ち、深めていこうではないかとの呼びかけに他ならないのです。

かつてイスラエルの民はエジプトの奴隷の家から恵みにより解放され、私たちは罪の奴隷の家から救われました。

御子イエスが私たちの主人であった罪を引き受け、その罪諸共に十字架に死なれたために、信じる私たちは最早、罪の奴隷ではなくなったのです。

この恩寵に与った者として、十戒は神と私たちの関係の規範であることに変わりはありません。

更に私たちの神はご自分が「主である」ことを明らかにされます。

これこそ神の御名であり、その意味はかつてモーセに「私はいる」(共同訳)と明らかにされ、「わたしは必ずあなたと共にいる」(出3:12)を背景にし、

復活の主イエスの最後の約束、「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタ28:20)を裏打ちする啓示です。

天地創造の全能の神は私たちといつでもどこでも共にいてくださる主なのです。

 7月14日礼拝説教

      「人を試すことば」    出エジプト20章18〜20節

 20:18民は皆、かみなりと、いなずまと、ラッパの音と、山の煙っているのとを見た。民は恐れおののき、遠く離れて立った。

20:19彼らはモーセに言った、「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞き従います。神がわたしたちに語られぬようにしてください。それでなければ、わたしたちは死ぬでしょう」。

20:20モーセは民に言った、「恐れてはならない。神はあなたがたを試みるため、またその恐れをあなたがたの目の前において、あなたがたが罪を犯さないようにするために臨まれたのである」。

 430年の長きに及ぶ過酷なエジプトの奴隷生活から解放された民が、シナイ山にたどり着くや、主なる神はシナイ山に降られ、モーセにより十戒を授けられました。

その目的は、民を試し、民に恐れを置き、それによって民を罪から予防するためであることをモーセは明らかにしました。

主なる神は、奴隷から解放することで神の民とした彼らとの関係の中で、民が神に対して誠実であることを試す手段として、十戒を授けられました。

十戒を守れば神の民となるのではなく、すでに恩恵を受け解放され神の民とされたのであるから、誠実に生きることが求められたということなのでした。

そして、十戒が授けられた時に、民の前に恐れを置くという目的は、誠実であるための動機なのです。

モーセが「恐れてはならない」と語った直後に「恐れをあなた方の目の前に置く」と言うのは矛盾しているようですが、漢字は同じでも

前者の恐れは人を萎縮させる恐怖のことであり、

後者は神への畏敬、畏怖を意味するものです。

あの箴言1章7節に『主を恐れることは知識のはじめである』とある恐れも同様、主への畏敬の念を意味するものです。

神を恐れ敬うこと、畏怖の念で敬愛する心こそ人間の本分なのです。(伝道12:13

神への恐れを新約的に言い換えてみれば神への愛となります。

神を心を尽くして愛するなら当然、人は神との関係において誠実であり得るのです。

その結果、人は罪を犯すことを免れることができます。

しかも、その罪とは律法や規則違反ではなく、神との関係を破ることを意味しますから、十戒を守ることは愛の故に難しいことではあり得ず、それによってむしろ神との誠実な関係を強化し深めることとなるのです。

主がモーセにより民を奴隷から解放した歴史的出来事はまた、神が御子イエスにより罪の奴隷から解放される十字架の贖いの雛型でもあります。

その意味で、私たちは信仰によりキリストにあって現代の神の民です。

礼拝において十戒を朗唱し、畏敬の念で主なる神を礼拝し、真心から神に集中するとき、人を萎縮させる恐怖は消失することでしょう。 

7月7日礼拝説教

      「分かれ道に立つ」    エレミヤ6章16節

6:16主はこう言われる、
「あなたがたはわかれ道に立って、よく見、
いにしえの道につき、良い道がどれかを尋ねて、その道に歩み、
そしてあなたがたの魂のために、安息を得よ。
しかし彼らは答えて、
『われわれはその道に歩まない』と言った。 

 人が人生を生きることは一本の道を行くようです。

しかしながら、分かれ道で一つの道を選ばざるを得ない時、その結果は全く違ったものになります。

南ユダの18代目のヨシヤ王とその民に、「あなたがたはわかれ道に立って、よく見、良い道がどれかを尋ねて、その道に歩」めと語られたのは、それまで続いた民のおぞましい背信と罪に対する審判が、数十年後に迫っていたからです。

歴史によれば35年後のBC587に、バビロン帝国によりエルサレムは事実焼き払われ滅ぼされてしまいました。

当時、小国ユダは北アッシリア、南エジプトに圧迫され不安定であったため、ヨシヤ王はアッシリアに隷属し政治同盟することで平和を確保することに腐心していました。

それ故に預言者、祭司たちまでが『平安、平安』と言うことで民に保証していたのですが、それは全くのまがい物です。

主なる神は、良い道を選択することで魂の真の安息を得させようと配慮されたのですが、

彼らは『我々はその道に歩まない』と誤った選択をしていたのです。

2500年後の現代を生きる私たちにとっての「良い道」とは「わたしは道です」と言われた主イエス様を信じて従う行き方です。

何故なら主はこのエレミヤ6章16節を受けて、

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。』とすべての人を招かれ

そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。』(マタイ11:28,29)と約束されておられるからです。

人はその重荷が何であれ、どれほど過重であったとしても、主イエス様に来るなら不思議と休息できます。

なぜなら「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」と招かれる主イエス様が私たちの重荷を一緒に担って共に生きてくださるからです

神の御子であられるにもかかわらず人となられた主イエス様は謙遜に人に仕える者となり、

十字架に私たちの罪責と重荷と悲しみを担って受難を耐えてくださいました。

感謝なことに、私たちが聖餐のパンに預かるとき、私自身の重荷をも担い給うイエス様を信仰により思うことなのです。