2019年1月礼拝説教

 1月27日礼拝説教

 

    「荒野に呼ぶ声」      イザヤ40章1〜11節

 

40:1あなたがたの神は言われる、
「慰めよ、わが民を慰めよ、

40:2ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、
その服役の期は終り、
そのとがはすでにゆるされ、
そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を
主の手から受けた」。
40:3呼ばわる者の声がする、
「荒野に主の道を備え、
さばくに、われわれの神のために、
大路をまっすぐにせよ。
40:4もろもろの谷は高くせられ、
もろもろの山と丘とは低くせられ、
高低のある地は平らになり、
険しい所は平地となる。
40:5こうして主の栄光があらわれ、
人は皆ともにこれを見る。
これは主の口が語られたのである」。
40:6声が聞える、「呼ばわれ」。
わたしは言った、「なんと呼ばわりましょうか」。
「人はみな草だ。
その麗しさは、すべて野の花のようだ。
40:7主の息がその上に吹けば、
草は枯れ、花はしぼむ。
たしかに人は草だ。
40:8草は枯れ、花はしぼむ。
しかし、われわれの神の言葉は
とこしえに変ることはない」。
40:9よきおとずれをシオンに伝える者よ、
高い山にのぼれ。
よきおとずれをエルサレムに伝える者よ、
強く声をあげよ、
声をあげて恐れるな。
ユダのもろもろの町に言え、
「あなたがたの神を見よ」と。
40:10見よ、主なる神は大能をもってこられ、
その腕は世を治める。
見よ、その報いは主と共にあり、
そのはたらきの報いは、そのみ前にある。
40:11主は牧者のようにその群れを養い、
そのかいなに小羊をいだき、
そのふところに入れて携えゆき、
乳を飲ませているものをやさしく導かれる。

慰めよ、わが民を慰めよ」これは紀元前5世紀にネブカデネザル王率いるバビロン軍により滅ぼされ、70年に及ぶ捕囚とされたイスラエルの民への神の慰めのメッセージです。

主は打ちひしがれた者を励まし奮い立たせて下さる慰めの神です。

預言者イザヤがこのメッセージを書き留め得たのは天上の神の会議を見せられた結果です。

詩篇82でも明らかなように神は天上で全天使を統合しその会議により世界の歴史を動かされます

歴史の動向は権力ある為政者たちの意のままになるものでは決してありません

2節によれば神の慰めは民の服役の期が終了したことが根拠だと分かります捕囚を余儀なくされたのは永年の民の神に対する罪咎の刑罰でした

慰めの理由は刑期満了ゆえの赦しです

節ではさばくにわれわれの神のために大路をまっすぐにせよと神の慰めが具体的であることが分かります

古代バビロンでは「大路」とは偶像の神々が祭礼で牛やロバに背負われ神殿から練り歩く道路でしたその無力な偶像と対照してイザヤでは

主があなたがたを持ち運ぶわたしは造ったゆえ必ず負い持ち運びかつ救う(4)と語られます

これはバビロンからエルサレムまで一千数百キロ安全に帰国させる神の保証でした

事実バビロン帝国を打倒したペルシャ国の初代王クロスが、BC538に捕囚の民に帰還命令を発した歴史的事実を私たちは知っています。

神の慰めは神が歴史に介入されることで具現しました。その詳細はエズラ記に見る通りです。

これは主の口が語られたのである(5)神が語られると出来事になるのです

草は枯れ花はしぼむ(8)と民は人間のはかなさを痛感しましたが、『しかしわれわれの神の言葉はとこしえに変ることはない(8)と神の現実を体験させられたのです

この同じ主が人類救済のために歴史に介在され神の御子イエスの十字架により罪の赦しがもたらされました

御子を信じる者はたとい失意に陥ることがあっても神の慰めを豊かに具体的に経験させられることでしょう

1月20日礼拝説教

 

       「乳と蜜の流れる」           民数記13章25〜29節

 

 13:25四十日の後、彼らはその地を探り終って帰ってきた。

13:26そして、パランの荒野にあるカデシにいたモーセとアロン、およびイスラエルの人々の全会衆のもとに行って、彼らと全会衆とに復命し、その地のくだものを彼らに見せた。

13:27彼らはモーセに言った、「わたしたちはあなたが、つかわした地へ行きました。そこはまことに乳と蜜の流れている地です。これはそのくだものです。

13:28しかし、その地に住む民は強く、その町々は堅固で非常に大きく、わたしたちはそこにアナクの子孫がいるのを見ました。

13:29またネゲブの地には、アマレクびとが住み、山地にはヘテびと、エブスびと、アモリびとが住み、海べとヨルダンの岸べには、カナンびとが住んでいます」。 

 神が民を奴隷から解放されたのは、彼らに約束の地を与えるためです。

その約束の地カナンを目前にするオアシスのカデシに到着するや、12名が現地偵察に派遣されました。

らは、『そこはまことに乳と蜜の流れている地です。』と40日の偵察結果を復命し、証拠に地の産物を提示しました。

乳と蜜の流れている地」とは、神の約束された地が豊穣で恩寵に富む安住の地であることを言い表す美しい表現です。

これはキリストを信じる恵みにより罪の奴隷から解放されたキリスト者に約束された地上の信仰生活をも意味するものです。

信仰生活とは義と平和と喜びに満ち、信仰と希望と愛に生きる日々なのです。

しかしながら、彼らの現地査察報告で、そこに7つの手強い先住民がいた事実も忘れるべきではありません。

恩寵溢れる信仰生活を生きるとは、自分の具体的な問題や試練を征服、克服する霊的な戦いをも意味するものなのです。

信仰により救われるとは完全無欠な理想郷に入れられることではありません。

ここで彼らのうち10名が偵察を悲観的に報告し、多数決で入国実施を否決、エジプトに逆戻りする意思決定をした事件から、深く学ぶべきことがあります。

彼らは約束を信じられず呟きます。

それに対し「わたしは生きている。あなたがたが、わたしの耳に語ったように、わたしはあなたがたにするであろう(14:28)」と主が言われ、その後、彼らは40年の長きに渡り荒野を放浪することとなったのです。

箴言3:5には「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。

更に3:6では「すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」と勧められています。

救われたキリスト者の地上生涯は、乳と蜜の流れる地に生きるか、荒野の放浪に生きるか、その人自身の主に対する態度によって二者択一を迫られるのです。

偵察隊のヨシュアとカレブは約束を信じ、「わたしたちは必ず勝つことができます」と報告し、彼らがやがて約束の地に入れられました。

この新年も約束を信頼して前進あるのみではないでしょうか。 

 1月13日礼拝説教

 

        「神の御顔の輝き」       民数記6章22〜27節

   

6:22主はまたモーセに言われた、

6:23「アロンとその子たちに言いなさい、『あなたがたはイスラエルの人々を祝福してこのように言わなければならない。

6:24「願わくは主があなたを祝福し、
あなたを守られるように。
6:25願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、
あなたを恵まれるように。
6:26願わくは主がみ顔をあなたに向け、
あなたに平安を賜わるように」』。
6:27こうして彼らがイスラエルの人々のために、わたしの名を唱えるならば、わたしは彼らを祝福するであろう」。

 民数記6章に収められている祝祷は、出エジプトした民の準備が整った旅の直前、主がアロンに命じた務めです。

主は、『わたしの名を唱えるならば、わたしは彼らを祝福するであろう』とその務めの効果を保証されました。

祝福と訳された「ヴァラㇰフー」には「膝をかがめる」意味があり、慈父が子を慈しむように荒野を行く民に手を差し伸べ、その必要を満たす約束を与えられたのです。

荒野では糧食に事欠き、外敵にさらされること必至です。主は荒野において、いつでも民を守り通すと祝福されたのです。

それが事実であったと、旅も終わる40年後、『あなたの神、主がこの四十年の間、あなたと共におられたので、あなたは何も乏しいことがなかった(申命2:7』とモーセが回顧しています。

さらに神の祝福により受けるに値しない者に対する恩恵を溢れるばかりに与えるとも約束されました。

神が御顔を太陽のように民に照らされるからです。

旅する民の難題は、ガイドもない荒野を果たして無事に目的地にたどり着けるかどうかでした。

出エジプト33章に主が『わたし自身が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう(14』とモーセの難問に答えられたことを私たちは知っています。

わたし自身が」と訳された原語は直訳すれば『私の顔が』となります。

主がガイドとなり旅を導くと保証されたのです。

そればかりか主はその御顔を民に向けることで平安を賜るとも祝福されました。

このアロンの祝祷が現在でも礼拝の最後に唱えられるのは、キリスト教会に集まるキリスト者たちが、十字架による贖い(罪の赦し)のゆえに、今日の神の民とされているからです。

十字架において罪なきイエス様が私たちの罪を負わされ罪ある者となり犠牲とされました。

イエス様は神の御子にもかかわらず、神の御顔が背けられ見捨てられたのです。

それゆえに神は私たちに御顔を照らし、向けてくださり祝福されるのです。

2019年の行く道がたとい危険な荒野のようであっても、主の祝福は有効です。

守りと恵みと平安が保証されていることに感謝しましょう。

1月6日礼拝説教

 

      「すべてが新しい」      IIコリント5章1〜21節

 

5:1わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。

5:2そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。

5:3それを着たなら、裸のままではいないことになろう。

5:4この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。

5:5わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。

5:6だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。

5:7わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。

5:8それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。

5:9そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。

5:10なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。

5:11このようにわたしたちは、主の恐るべきことを知っているので、人々に説き勧める。わたしたちのことは、神のみまえには明らかになっている。さらに、あなたがたの良心にも明らかになるようにと望む。

5:12わたしたちは、あなたがたに対して、またもや自己推薦をしようとするのではない。ただわたしたちを誇る機会を、あなたがたに持たせ、心を誇るのではなくうわべだけを誇る人々に答えうるようにさせたいのである。

5:13もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、

気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。

5:14なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。

わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。

5:15そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。

5:16それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。

5:17だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。

5:18しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。

5:19すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。

5:20神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。

そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。

5:21神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。

それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。

 新年礼拝に開かれている聖言は、IIコリント5章17節で、

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。

古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」とあります。

新年にあって問われていること、それは新しい年を迎えた私たち自身が何者であるかであり、この聖言によれば新しく造られた者であるということです。

創造とは今まで無かったものが存在に呼び出される行為です。

新しく造られるとは、表向きは旧態然としていても、質的に新しい存在に呼び出される経験であり、イエス様を主とし、キリストとしてお迎えした人は、神の新作品なのです。

古代において神の呼びかけを受けたアブラハムは75歳でした。神によって質的に再創造された代表的な器です。

彼は主なる神が『あなたは祝福の基となるであろう』と約束された通りの人間となり、歴史を通じて今日に到るまで国々に恩恵をもたらしてきました。

この聖句の置かれた5章だけでも、キリスト者が経験する新しさが四つ明らかです。

新しい知識です、「主の恐るべきことを知っている(11)」。

新しい目的です、「生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きる(15)」。

新しい基準です、「わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい(16)」。

新しい立場です、「わたしたちはキリストの使者なのである(20)」。

それらは新しく造られた者のすべての新しさの極一部です。新しい力、新しい知恵、新しい価値、新しい希望、新しい性質、新しい職務、、、「すべて新しい」それはまさしく無尽蔵なのです。

人間の創り出した人工知能とも言うべき最新の機器に内蔵される機能を知り尽くすことも使い尽くすことも至難なように、神の新創造による質的新しさは驚異的なのです。

主はかつてイザヤにより預言された。『見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る

今年も新しいことをなさろうとされる神は、全てが新しくされたことを自覚する人を必要とされます。

キリストを受け入れたあなたを神は切実に必要とされておられるのです。