2016年5月礼拝説教

2016年5月29日礼拝説教

 

          「満ち満ちている」         エペソ1章15〜23節

 

1:15こういうわけで、わたしも、主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを耳にし、 1:16わたしの祈のたびごとにあなたがたを覚えて、絶えずあなたがたのために感謝している。 1:17どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、 1:18あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、 1:19また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。 1:20神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、 1:21彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。 1:22そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。 1:23この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。

                            エペソ人への手紙1:15~23

 

 エペソ書は教会を主題としている。使徒パウロがエペソの信徒のため祈るのは教会の意味をわきまえ確かな信仰に生きることだった。

 ここでは普遍的な唯一の教会が語られ、それは古今東西を貫くすべてのキリスト者の総体を指している。町々の大小様々な地方教会のことではない。それらすべてを含むキリストの教会を意味している。

 今現在20億人を超えるキリスト者も皆この教会を構成している。主イエスがこの岩の上にわたしの教会を建てると仰せられたのはこの意味での教会であったマタイ16:18)。

 主イエス様をキリストと告白する人は恵みによりみなこの教会に招き入れられている。

 神はキリストを『万物の上にかしらとして』この教会に与えられた。すべてを支配する権威者として勝利されたイエス様を教会は与えられている。

 パウロがエペソ市で宣教すると病いが制せられ悪霊が抑圧された人々から追い出された。魔術のとりこだった多くの人々も解放された。それは万物のかしらなるキリストの業であった。

 教会に与えられているかしらなるイエス様は、すべてのもののうちに、すべてのものを満たされる方でもある。天を満たす銀河も、陸を満たす生き物も、海に満ちる魚類もすべてを満たす方がイエス様である。なんとこの方が、私たちのこの教会に満ち満ちておられる。

 この驚くべき真理に私たちの耳目を開いていただこう。

 この教会に入れられたなら聖霊により神を認めることができる。

 信じた者が受け継ぐ永遠の希望を理解することができる。

 力強い活動される神の御力を知り体験することが許される。

 教会はキリストのからだのようではなく、キリストのからだそのものであり具体的な実体である。

 教会に個々に呼び出されたのは、この満ち満ちている方によって神の愛と力とにより充実した人生を生きるためであり、それによって神に栄光を帰することであることを感謝しよう。


2016年5月22日礼拝説教

 

          「運命の回復」          申命記30章1〜15節

 

30:1わたしがあなたがたの前に述べたこのもろもろの祝福と、のろいの事があなたに臨み、あなたがあなたの神、主に追いやられたもろもろの国民のなかでこの事を心に考えて、

30:2あなたもあなたの子供も共にあなたの神、主に立ち帰り、わたしが、きょう、命じるすべてのことにおいて、心をつくし、精神をつくして、主の声に聞き従うならば、

30:3あなたの神、主はあなたを再び栄えさせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主はあなたを散らされた国々から再び集められるであろう。

30:4たといあなたが天のはてに追いやられても、あなたの神、主はそこからあなたを集め、そこからあなたを連れ帰られるであろう。

30:5あなたの神、主はあなたの先祖が所有した地にあなたを帰らせ、あなたはそれを所有するに至るであろう。主はまたあなたを栄えさせ、数を増して先祖たちよりも多くされるであろう。

30:6そしてあなたの神、主はあなたの心とあなたの子孫の心に割礼を施し、あなたをして、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主を愛させ、こうしてあなたに命を得させられるであろう。

30:7あなたの神、主はまた、あなたを迫害する敵と、あなたを憎む者とに、このもろもろののろいをこうむらせられるであろう。

30:8しかし、あなたは再び主の声に聞き従い、わたしが、きょう、あなたに命じるすべての戒めを守るであろう。

30:9そうすればあなたの神、主はあなたのするすべてのことと、あなたの身から生れる者と、家畜の産むものと、地に産する物を豊かに与えて、あなたを栄えさせられるであろう。すなわち主はあなたの先祖たちを喜ばれたように再びあなたを喜んで、あなたを栄えさせられるであろう。

30:10これはあなたが、あなたの神、主の声に聞きしたがい、この律法の書にしるされた戒めと定めとを守り、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に帰するからである。

30:11わたしが、きょう、あなたに命じるこの戒めは、むずかしいものではなく、また遠いものでもない。 30:12これは天にあるのではないから、『だれがわれわれのために天に上り、それをわれわれのところへ持ってきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。

30:13またこれは海のかなたにあるのではないから、『だれがわれわれのために海を渡って行き、それをわれわれのところへ携えてきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。

30:14この言葉はあなたに、はなはだ近くあってあなたの口にあり、またあなたの心にあるから、あなたはこれを行うことができる。

30:15見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた。  申命記30:1~15

 

 人生は天の命により定められているとする思想が運命である。イスラエルの運命は神がその始祖アブラハムと契約を結ばれたことで祝福された(創15:18)。

 しかし聖書は神の民がその歴史の歩みで、契約を破って呪われ、かつまたその運命の回復を経験したことをも教えている。

 あのバビロン捕囚は呪われた運命であり、クロス王による帰還命令と神殿再建は回復された運命そのものだった。その運命回復の条件は神の定めた律法の遵守である(申命30:10)。

 律法は聖であり正しく善なるもの(ローマ7:12)。それを完全に守れば祝福され、破れば呪われる。だが、完全に守れる者はいない。ひとりもいないのだ。

 だがキリストが十字架にかけられ律法の呪いを引受られ、人間の呪いは除かれてしまった。神はイエスを主と信じる者を義とされその運命を祝福することとなされた。キリストは律法の終わりとなられたのだ(ローマ10:4)。

 キリストはから人となり下られ、死んで黄泉に下り復活、天に昇られた。

 キリストが死人の中からよみがえられたと信じ、このお方を主と告白するなら、そこに現臨してくださる。「主の御名を呼び求め(ローマ10:13」祈るなら誰でも救われるのだ。

 主に信頼する者は決して失望させられることはない(ローマ10:11)。

 人類の歴史はアダムの堕落以来、その命運は呪われ悲惨そのものであった。だが今や、イエスを主と告白するならだれでもその運命は個々に回復される。

 運命とは「命が運ばれること」だ。「わたしはあなたを背負い運ぶ」と約束されたイザヤ46章4節を思い起こそう。

「わたしはあなたを造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う」全能の愛なる主に担われその人生を運んでいただけるとするならば何たる幸いであろうか!


2016年5月15日礼拝説教

 

         「聖霊による刷新」             テトス3:1〜6

 

3:1あなたは彼らに勧めて支配者権威ある者に服し、これに従い、いつでも良いわざをする用意があり、

3:2だれをもそしらず、争わず、寛容であって、すべての人に対してどこまでも柔和な態度を示すべきことを、思い出させなさい

3:3わたしたちも以前には、無分別で、不従順な、迷っていた者であって、さまざまの情欲と快楽との奴隷になり、悪意とねたみとで日を過ごし人に憎まれ、互に憎み合っていた

3:4ところが、わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき

3:5わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである

3:6この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。

    テトスの手紙 3:1~6

 

 イエス様を信じる者はキリストにあって新しく造られた者です。その新しさをもたらす方が聖霊です。

 イエス様は昇天される前に、そばに来て助けてくださる方として聖霊を遣わされると約束されました。聖霊が私たちにもたらす新しさは質的にいままでに経験したことのない新しさです。

 聖霊は私たちを根本から刷新してくださるのです。聖霊は生きるための命を刷新します。

 それはニコデモに「だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。」とイエス様が言われたことです。霊的に誕生させられることです。

 イエス様を受入れた人が「天の父よ!」と祈り始めることです。

 聖霊は生きる法則を刷新されます。

 命が刷新されたキリスト者であっても罪過ちに陥るのは、依然として罪の法則のもとに置かれているためです。悪いと分っていても失敗するのはそのためです。

 ところが聖霊がもたらされる命の御霊の法則に自分を委ねるならば、罪の力を克服し勝利することもできるのです(ロマ8:1,2)。圧倒的な勝利者になる可能性は聖霊の賜る新しい原理法則です。

 聖霊による刷新は私たちに主イエス様を証言するための新しい力をもたらします。

 「ただ聖霊があなたがたの上に臨むときに力を受けます。そして私の証人となります。」と言われたのはその恵みです。

 私たちは聖霊によって新生させられ、生きる原理が更新されるばかりか、神の愛がイエス様により十字架の死と復活をとおして現実のものとなった恵みを新しい聖霊の力によって証言することができるようにされるのです。

 人にも言えず密かに悩む罪の葛藤があるでしょうか。新しい御霊の原理に委ねることです。聖霊はそば近くに来ておられ、助けを求める者を刷新されます。

 いまだに救われていない大切にする友人知人がいるでしょうか。彼らに証しできる力を聖霊に求め刷新していただきましょう。


2016月5月8日礼拝説教

 

          「優しき母に思う」         テサロニケ第一2章7節

 

2:7むしろ、あなたがたの間で、ちょうど母がその子供を育てるように、やさしくふるまった。

 

 「母の日」はおよそ100年前のこと、平和運動に貢献した母親を追悼しようと、アンナ・ジャービスが教会でカーネーションを贈呈したことが端緒である。一般化し商業化もした祝い日とはいえ、その意義と価値に変わりはない。

 カーネーションの花言葉が「母親の愛情」であり、子を優しく産み育てる母の心は永遠に賞賛されるに値するものです。その母の優しさを権威ある使徒、しかも男性であったパウロが教会での自分の振舞を表すのに使用したその言葉には驚きます。

 彼と同労者たちが危険をおかして開拓したテサロニケ教会で、「母がその子供を育てるように優しくふるまった。」と証言しています。原語によれば「母」はむしろ、雇われて他人の子供に哺乳する「乳母」と訳されるもので、乳母が他人の子供ではなく自分の子供を育てるように、とその優しさがより一層強調された表現なのです。

 パウロがテサロニケに福音を宣教した結果、そこに性別を超えた霊的な母子関係が成立したというものです。

 イエス様をキリストと受入れた者は罪赦されて父なる神に立ち返り、神の家族とされます。(エペソ2:19)人が愛に充足し健全に育成され永遠に存続する真の家族はキリスト教会を他にはないのです。

 いかなる困難があってもキリストの十字架の福音を宣べ伝えていかねばなりません。そこにこそ真の神を父とする兄弟姉妹の家族が育成されるのです。

 魂の救いのために産みの苦しみをし、霊的に育成する神の愛にあふれた優しい母が求められるのです。

 自分が今日あるために労し犠牲を払い祈り育ててくれた霊的な母がいたことを忘れないようにしよう。

 この「母の日」に生きている実の母を喜ばせよう。

 そして自分のため労した霊的母にも感謝しよう。

 性別を超えて男であれ女であれ、次世代の人々の救いのために霊的に優しい母となるよう祈ろう。


2016年5月1日礼拝説教

 

          「偉大な信仰要素」       マタイ15章21〜28節

 

15:21さて、イエスはそこを出て、ツロとシドンとの地方へ行かれた。

15:22すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。

15:23しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。

15:24するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。

15:25しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。

15:26イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。

15:27すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。

15:28そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。         マタイによる福音書 15:21~28

 

 「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。(ヘブ 11:6)」主イエスの短い公生涯でもフェニキアの異邦女性の信仰は異彩を放つものです。

 主は都エルサレムから来た律法学者たちとの論争を終えると国外に去られました。

 その腐敗した宗教に偽善を見抜かれたからです。信仰は腐り易いものです。私たちも教会が形骸化しないよう留意すべきです。

 その時突然、「娘が、、、苦しんでいます。」と一人の女が悲痛に叫ぶ。

 ところが聖書は、「しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった」と記述します。沈黙です。イエスの沈黙です。

 『神よ、何も言わずに、黙っていないでください。(83:1)』しかし、沈黙は無視ではありません。沈黙は神の本質です。沈黙は神が傾聴し受容されることです。

 それゆえ祈ることが許されるのです。

 「試みの朝 泣きあかす夜 気落ちせず全て 打ち明けまつれ 我らの弱気を 知れる君のみ 我らの涙の もとを読みたもう」最後に彼女の願いはかない、娘は癒されました。その信仰を主イエスがよしとされた故です。

 彼女がイエスを主と受入れ救い主と告白したからです。彼女がひたすら真剣に粘り強く求めたからです。そして彼女が限りない謙遜を示したからです。

 『子供たちのパンを取って子犬に投げてやるのは、よろしくない。』と言われるや『主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます』と女は信仰を表白しました。自分を喩えた子犬に神の慈愛を信仰により透かし見たのです。

 主イエスの女に対する評価は滅多に聴かれるものではありません。『女よ、あなたの信仰は見あげたものである。』

 今や十字架の罪の赦しのみ業の故に、広く万人に救いの門戸は開かれています。

 『神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じる』ことが求められているのです。