2月25日礼拝説教

「圧倒的な勝利者」  列王記下6章8〜23節

アラムの王がイスラエルと戦っていたとき、王は家臣たちと相談して、「これこれの場所に陣を敷こう」と言った。だが、神の人はイスラエルの王に人を遣わして言った。「あの場所は通らないように注意しなさい。そこにはアラムが攻め下って来ますから。」イスラエルの王は、神の人が言った場所に人を遣わし、警告に従って、そこを警戒するようになった。それは一度や二度のことではなかった。

このことによって、アラムの王の心は荒れ狂い、家臣を呼んで言った。「我々の中の誰がイスラエルの王と通じているのか。私に言えないのか。」家臣の一人が答えた。「いいえ、王様。イスラエルにいる預言者エリシャが、寝室でお話しになることさえイスラエルの王に知らせているのです。」するとアラムの王は、「彼がどこにいるのか、捜して来い。人をやって捕まえてやる」と言った。

やがて彼のもとに、「彼はドタンにいる」との知らせが届いたので、王は、馬と戦車、および大軍をそこに差し向けた。彼らは夜のうちに到着し、その町を包囲した。

神の人の召し使いが、朝早く起きて外に出てみると、軍隊が馬と戦車で町を包囲していた。従者が、「ああ、ご主人様、どうしたらよいでしょう」と言うと、エリシャは、「恐れることはない。私たちと共にいる者のほうが、彼らと共にいる者より多いのだ」と答えた。エリシャが祈って、「主よ、どうかこの男の目を開き、見えるようにしてください」と言うと、主はこの従者の目を開かれた。そこで彼が見てみると、山はエリシャを取り囲む火の馬と戦車で満ちていた。

アラム人が攻め下って来ると、エリシャは主に祈って、「どうか目をくらますことによって、この異国の民を打ち倒してください」と言った。主はエリシャの言葉どおり、目をくらますことによって、彼らを打ち倒された。エリシャは彼らに、「こちらは、あなたがたの行くべき道ではない。あちらは、あなたがたの目指す町ではない。私の後に付いて来なさい。あなたがたが捜している人のもとへ連れて行ってあげよう」と言って、彼らをサマリアへ連れて行った。

アラム人がサマリアに着いたとき、エリシャが、「主よ、この者たちの目を開き、見えるようにしてください」と言うと、主は彼らの目を開かれた。そこで彼らが見ると、サマリアの真ん中にいるのであった。イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに、「わが父よ、打ち殺しましょうか。打ち殺しましょう」と言ったが、「打ち殺してはならない。あなたは剣や弓で捕らえた者を打ち殺すのか。彼らにパンと水をやりなさい。そうすれば、彼らは食べて飲み、主君のもとへ帰るだろう」とエリシャは答えた。

王が盛大な宴会を催したので、彼らは食べて飲んだ。王は彼らを主君のもとへと送り返した。アラムの部隊がイスラエルの地に来ることは二度となかった。

 敵国アラムの大軍勢に夜陰に乗じて、包囲された預言者エリシャとその従者は絶体絶命でした。翌朝、従者が窓越しに大軍に包囲された現実に気づくと、「ああ、ご主人様、どうしたらよいでしょう」と絶叫してます。主イエスは弟子たちに「あなたがたには世で苦難がある」と言われます。従者は人生で苦難に遭遇する私たちを代表します。

両面から圧搾器で押し潰されるような苦しみに直面すれば、私たちの口からも「ああ、どうしたらよいのだろう」とため息が出ます。主に信じて従ったからといって安易な生活が保障されるわけではありません。家康の「人生とは重き荷を負うて遠き路を行くが如し」を待つまでもなく、生きるこの世には困難が山積しています。

預言者エリシャが従者に「恐れることはない」と激励したのは、彼が見える現実に苦悩するばかりで、見えない超現実が見えていないからです。真の現実は、敵軍を圧倒する天の万軍の包囲です。「私たちと共にいる者のほうが、彼らと共にいる者より多いのだ」これがエリシャに見える現実でした。それゆえにエリシャが従者の目が開かれるように祈ると、彼の目は圧倒的な味方の燃える戦車と軍馬を見ることができたのです。

人を萎縮させる恐れの克服は、心の霊の目が開かれ神の現実支配を認識することです。イザヤ40章15節には、「見よ、諸国民は手桶の滴のように、天秤の埃のように見なされる」と神様が、地上の200を超す国々、80億人を越す人間をどう見なされるかが預言されます。万物を創造された全能の偉大な神の前に、造られた人間は無きに等しいのです。

主イエスは苦難に直面するであろう私たちに「しかし、勇気を出しなさい」と激励されるのは、イエスが十字架の死と復活により、この世のサタンと罪と死に打ち勝たれたからです。狡猾なサタンの力と引力のような罪の力と死の力は、十字架の死と復活に飲み込まれてしまいました。イエスは十字架により全てを無力化されたのですから、圧倒的な勝利者として、主に信頼し、困難に立ち向かうことにしましょう。

2月18日礼拝説教

「時機を得た助け」  ヘブル4章14〜16節

さて、私たちには、もろもろの天を通って来られた偉大な大祭司、神の子イエスがおられるのですから、信仰の告白をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点で同じように試練に遭われたのです。それゆえ、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜に適った助けを受けるために、堂々と恵みの座に近づこうではありませんか。

 「時宜に適った助けを受けるために、堂々と恵みの座に近づこうではありませんか。」と呼びかけられている「時宜に適った助け」とは、いかなる助けのことでしょうか。悲鳴を聞き緊急救助されるような助けは、しっかり自立し、他人とも共同する人には必要ではありません。自助と共助の努力で自活できるからです。この助けとは、人生の究極の目標が人の死後に備えられている神の安息に入ることであることを自覚できる人が、絶対的に必要とする助けです。

人の人生は短く束の間であり、罪の誘惑と試練が待ち受ける荒れ野のようであるからです。最初の人アダムは、エデンの園で禁断の実を食べて堕落しました。エジプトの奴隷生活から解放された神の民イスラエルは、40年の荒野の旅路で誘惑に負けて罪を犯し、安息の地といわれたパレスチナに、入ることができませんでした。

この歴史的な事実を踏まえて聖書は、「だから、私たちはこの安息に入るように努めようではありませんか。さもなければ、同じ不従順の例に倣って落伍する者が出るかもしれません。」(4:11)と警告しています。希望する学校に入学する、会社に就職する、結婚する、土地を買いマイホームを建てる、学位を獲得する、優勝する等々、これらの人生途上の諸目標を努力して達成したとしても、究極の目標である永遠の神の安息に死後に入るには、時機を得た助けが不可欠なのです。何故なら神と人間の敵であるサタンが、罪に陥れる罠を仕掛けて虎視眈々と狙っているからです。

しかし感謝しましょう。大祭司なるイエス・キリストが時機を得た助けを必ず与えてくださいます。罪なき人となられたキリストは、十字架に罪の赦しを得させる犠牲の死を遂げ、三日目に復活、昇天して神の右に着座されました。

今や大祭司として、罪の誘惑に陥りやすい私たちの弱さを、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ同情し、哀れみと恵みをもって、執りなし祈り、助けの御手を差し伸べられます。その御助けを、恵みの座に近づき、兄弟姉妹と共に礼拝することにより得ることができるのです。

2月11日礼拝説教

「帳簿黒字の秘訣」  ピリピ4章10〜20節

さて、あなたがたが私への心遣いを、ついにまた表してくれたことを、私は主にあって非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。

物欲しさにこう言うのではありません。私は、自分の置かれた境遇に満足することを学びました。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹することにも、飢えることにも、有り余ることにも、乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強めてくださる方のお陰で、私にはすべてが可能です。

それにしても、あなたがたは、よく私と苦しみを共にしてくれました。フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、私が福音の宣教の初めにマケドニアから出かけて行ったとき、会計を共にしてくれた教会は、あなたがたのほかに一つもありませんでした。テサロニケにいたときにも、あなたがたは私の窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。

贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの帳簿を黒字にする実りを求めているのです。私はあらゆるものを受けており、有り余るほどです。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って、満ち足りています。それはかぐわしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。

私の神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスにあって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。私たちの父なる神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

 会計の帳尻を合わせ黒字にするのは誰にも大切なことです。使徒パウロは宣教活動に援助を惜しまなかったピリピ教会の贈り物に感謝するなかで、帳簿黒字の秘訣の第一は、自分の置かれた境遇に満足することと喝破しました。

「起きて半畳、寝て一畳」「天下とっても2合半」しかし、貧しくても富んでいても「ああ!不十分だ!まだ足りない!」と内心呟くのが人の常です。「欲望に吹き付けるあらゆる風の内で、金銭欲ほどに冷たく破滅的なものはない」(フローベル)

パウロの宣教活動の厳しさは言語に絶しました。「苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」(第二コリント11:27)それでも足り得た秘訣とは?パウロの証言を是非、胸中に留めよう。「私を強めてくださる方のお陰で、私にはすべてが可能です。」そうです。イエス様です。その愛に包まれ折れそうになる心を強められると可能なのです。

帳簿黒字の秘訣は与えられた範囲内で生活する努力にあります。使徒パウロは、極度の貧しさにもかかわらず宣教のために献金を届けたピリピ教会に、献金は利息を生む一種の投資であるとも語ります。株式投資が配当金を生む仕組みに似て、献金にはその人の心に感謝と愛と喜びが霊的な利子として配当されます。何故なら、献金は人から人に手渡されるとしても、本質的には神に対する献げものだからです。「それはかぐわしい香りであ利、神が喜んで受けてくださるいけにえです。」もっと欲しい、まだまだ不十分だと欲望と不平・不満が渦巻くこの世にあって、感謝と愛と喜びに溢れるとするなら、それはまさに黒字の生活です。

パウロは最後に神を讃える頌栄を歌わずにいられません。「私たちの父なる神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」それは「私の神は、、、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」とピリピ教会に言い切れるからです。黒字の秘訣は、必要のすべてを満たしてくださる神を告白して賛美することです。ハレルヤ。

2月4日礼拝説教

  「良くなりたいか」  ヨハネ5章1〜9節

その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには羊の門のそばに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。その回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。

†さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。

イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。

病人は答えた。「主よ、水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいません。私が行く間に、ほかの人が先に降りてしまうのです。」

イエスは言われた。「起きて、床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。

キリストの無数の奇跡からヨハネが抽出した7つの奇跡の3番目にあたるベテスダの池の癒しは、神の子イエス・キリストが、常に変わらず癒し主であると明示します。旧約聖書は「まことに私は主、あなたを癒す者である」と証言し、新約聖書は「イエスは民衆のありとあらゆる病気や患いを癒やされた」と証言します。

この池で、死に至る病、即ち絶望的な病人を主は癒されました。38年間寝たきりの病人は、いつまでも直らない、誰も助けてくれない、自力でもなんともならない、とほとんど絶望的です。しかし主が「良くなりたいか」と問い、「起きて、床を担いで歩きなさい」と命じるや、彼は歩き出しました。

創造者なる神は善なる方であり、その被造物はすべて善です。「良くなりたいか」と問い、安息日に治癒されたのは善なる主の御心でした。善なる神は善を為すのです。その善なる神は、今もなお働かれます。

ユダヤ人が習慣的に労働を一切禁じた安息日に、イエス様が病人を癒したため、主は厳しい譴責を受けました。安息日は、6日間の創造の秩序で神が聖定され、十戒で規定されました。労働の後の休息が人間には必要不可欠だからです。しかし、神は休みなく働き、被造物を保持されます。「主は永遠の神、、、疲れることなく、弱ることなく」、「見よ。イスラエルを守る方は、まどろみもせず、眠ることもない。」(詩篇121:4)神には午睡もなく休暇もありません。

詩人は自問します。「私は山々に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。」詩人は自答します。「私の助けは主のもとから、天と地を造られた方のもとから。」助けは良いお方であり全能の神から来るのです。

この善で全能の神が人となられた方が主イエス様です。この罪なき御子が十字架に磔にされたのです。ピラトは死刑を宣告し、十字架上にイエス様を磔ました。それは絶望より恐ろしい死に至る病、私たちの罪の赦しのためでした。イザヤ53章5節の預言、「彼が受けた打ち傷によって私たちは癒された」が成就したのです。罪赦された者として主に感謝し、必要な助けを受けましょう。