8月27日礼拝説教

「強い人と弱い人」  ローマ14章1〜12節

 信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽んじてはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてもなりません。神がその人を受け入れてくださったのです。

他人の召し使いを裁くあなたは、一体何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人次第です。しかし、召し使いは立つでしょう。主がその人を立たせることがおできになるからです。

ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。おのおの自分の考えに確信を持つべきです。特定の日を重んじる人は主のために重んじます。食べる人は主のために食べます。神に感謝しているからです。また、食べない人も主のために食べません。神に感謝しているからです。

私たちは誰一人、自分のために生きる人はなく、自分のために死ぬ人もいません。生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。

 古代ローマ帝国の都ローマ市の教会が抱えた問題は、強い人のグループと弱い人のグループの対立です。弱い人とは、宗教的特定の日を重んじる菜食主義者、強い人とは、すべての日は同じと考え、食物にこだわらない人たちで、両者ともキリスト者でした。その考え、その生活の仕方の違いが問題で、批判し、侮辱し、裁き合い、一致できませんでした。

使徒パウロは、対立ではなく一致するように批判すべきでない理由をローマ教会に三つ挙げました。

どちらの側も恵みにより主の僕とされたのだから、他人の僕を批判するのは越権行為である。

どちらの側も生きる目的は同じで、主のために食べず、或いは食べる、主のために日を重んじ、或いは重んじないのだから、批判は当たらない。

どちらの側も、やがて自分がどのように生きたかを、神様の前で申し開きをする責任があり、裁きは主のなさることであるから批判する立場にはない。

物事について考えの違いが生じるのは、各自に与えられた信仰の秤(はかり)、すなわち考える度量が違っているからです。(ローマ12章3節)5トンの貨物車を丸ごと計量できる巨大な秤もあれば、封書だけ計量する小さな秤もあります。信仰者は、救われて一ヶ月、一年、十年と経過するにつれて信仰の秤の度量が変えられていくのです。

聖書は救いの道と、極めて基本的な生活の原則を私たちに提示するものであって、服装、飲食物、嗜好品、娯楽、趣味、その他諸々の詳細について、逐一指示していません。聖書が直接的に罪であると指し示す事柄以外の生活の仕方、考え方については、お互いに寛容であることが求められるのです。

私たちがやがて神の前に申し開きすることになることを示すとされるイザヤ45章23節の引用で、パウロはローマのキリスト者に、歴史を支配される神の主権を想起させたことでしょう。イザヤ45章はバビロン捕囚からの解放者、ペルシャ帝国のクロス王に関する預言です。

相互批判の対立ではなく、ローマ皇帝すら支配する主を賛美すべきです。混沌・混迷の現代でも対立を超えて神の主権を賛美することとしましょう。

8月20日礼拝説教

「宗教リトマス紙」  ヤコブ1章26、27節

自分は宗教に熱心であると思っても、舌を制することをせず、自分の心を欺くならば、その人の宗教は空しいものです。みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まることなく自分を守ること、これこそ父なる神の前に清く汚れのない宗教です。

世界の宗教人口比からすれば、三人に一人がキリスト者ですが、人数よりも質が問われます。礼拝する、賛美する、献金する、奉仕する、聖餐式に与る、傍目からはどんなに宗教熱心に見えたとしても、舌を制御することをせずに、自分の心を欺くならば、その人の宗教は空しいと聖書は指摘します。

心にあるものが口から出るものです。耳で聴かれた福音が心に下って悟られ、心の深みから変えられているでしょうか。「舌を治めることのできる人は一人もいません。舌は、制することのできない悪で、死をもたらす毒に満ちています。」同じ舌で神をほめ讃え、同じ舌で神にかたどって造られた人間を呪うような矛盾を人はしかねません。口の言葉で物事を起こし作り出すのは人間だけです。

すべてを口の言葉で創造された神に人は似せて造られました。その主なる神が、「私は唇に賛美の実りを創造しよう」と約束されます。主のみ助けをいただいて舌にくつわをはめ制御するなら、創造的な実りが期待できます。人を差別しないで、むしろ必要を覚える孤児ややもめを見舞い、手を差し伸べることも真の宗教の本質です。

人のなり振りを見て分け隔てをし、えこひいきするのはキリスト信仰から出るものではありません。神に信頼して多数の孤児を生涯見取り続けたジョージ・ミュラーがいます。一人の貧しい結核患者の青年を世話することから、神を信頼して聖隷福祉事業団を起こした長谷川保もいます。しかし、むしろ、私たちは身近の空腹な人に食事を提供する憐れみの心が求められるのです。

見ても見ぬふりをして自己中心的、自己満足的な生活に終始する生き方は、行いの伴わない信仰で、それだけでは死んだものだと聖書は指摘します。そればかりか、もう一歩踏み込んで聖書は、自分がこの世の汚れに染まってはいないか吟味するよう促します。

神を無視し逆らうこの世の特徴は地位、名誉を求め、富と暮らし向きの良さ、見栄を張った生活をひたすら求めることです。蛇のように狡猾な悪魔の欲望を突いてくる誘惑に対抗する決意が必要です。神に近づき主に従いましょう。

8月13日礼拝説教

「未来予想の的中」  エゼキエル12章21〜25節

主の言葉が私に臨んだ。

「人の子よ、イスラエルの地について、『日々は延び、幻はすべて消えうせる』というこのことわざは、あなたがたにとって何なのか。それゆえ、彼らに言いなさい。『主なる神はこう言われる。私はこのことわざをやめさせる。もはや彼らがイスラエルでこのことわざを使うことはなくなる。』それゆえ、彼らにこう語りなさい。『その日々は近づき、すべての幻は実現する。』イスラエルの家には、空しい幻やへつらいの占いもすべてなくなるからである。それは、主なる私が語ろうとすることを語り、その言葉が行われ、もはや引き延ばされることはないからである。反逆の家よ、あなたがたの時代に、私がこの言葉を語り、それを実行する—主なる神の仰せ。」

「一寸先は闇」という諺は今の時代には古臭いでしょうか。スーパーコンピューターが開発された現代では、気象予報をはじめ、未来は瞬時に予測可能です。しかしそれでも私たちは、人間の未来予測には限界があることを率直に認めないわけにはいかないのが現実です。

ところが、聖書に未来予想が的中した一つの事例を知るとき驚きを隠せません。南ユダ王国の末期、預言者エゼキエルが、言葉無しの象徴的動作でゼデキヤ王の末路を預言すると、文字通り的中し、王はエルサレムを包囲したバビロン軍に捕われ、息子達は目の前で虐殺され、彼の両眼はえぐられ、足枷をはめられバビロン捕囚となり、異国の地で獄死することになりました。それに先立ち、エルサレムのちまたには、「日々は延び、幻は消えうせる」という諺が流れていました。しかし、主は「主なる私が語ろうとすることを語り、その言葉が行われ、もはや引き延ばされることなない」と言われます。

ここに永遠の偉大な真理があります。主が語られるなら実現することです。

今の私たちに語られた預言は、主イエス・キリストが再び来られることです。ルカ12章40節で「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」と予告されました。十字架にかかり罪の赦しを得させ救うために2千年まえに来られた主は、「然り、私はすぐに来る」と予告されたのです。人類の未来に起ころうとする最大の出来事は、主イエス・キリストの再臨です。

ルカ12章において、主は「古びることのない財布」を用意して再臨に備えなさいと勧告されます。主の再臨に始まる永遠の生活に通用する経済の準備をしなさいと言われるのです。円もドルもユーロもこの世だけの通貨です。宝を天に積みなさいと言われます。腰帯で裾をからげ、灯火を灯して用意しなさいと勧告されます。

霊的に再臨に備えて目を覚ましているとは、主に祈りを通して語りかけ、主の御言葉である聖書に親しむことです。その上で自らの責任を忠実に果たしつつ再臨を待望する、そこに希望の未来があるのです。

86日礼拝説教

「必要な事は一つ」  ルカ10章38〜42節

さて、一行が旅を続けているうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタと言う女が、イエスを家に迎え入れた。

彼女にはマリアと言う姉妹がいた。マリアは主の足元に座って、その話を聞いていた。マルタは、いろいろともてなしのために忙しくしていたが、そばに立って言った。「主よ、姉妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」

主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない。」

マルタは、主イエスの一行を、家に招き入れると、食事で精一杯もてなしました。その際マルタは、手伝いもせずにイエスの足元に座り、聞き入る妹のマリアの態度を不快に思い、妹に手伝うよう注告をイエスに願いました。しかし、主は優しく、「必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ」と諌められます。唯一必要なことは、イエスの言葉に傾聴することです。

前の記事では、良きサマリア人の譬えにより、律法学者に隣人愛を教え、続いて主は、神を愛する愛をマルタに妹の姿で教えられたのです。荒野の誘惑でも、石をパンに変える誘惑で悪魔がイエスを試すと、主は「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」と御言葉で撃退されました。

「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」との神を愛する戒めは、具体的には神の言葉に聞いて従うことです。マルタは妹からこの唯一の必要なことを取り上げようと、「妹は私だけにおもてなしをさせています」と批判し、主に「何ともお思いになりませんか」と不平不満をぶちまけ、「手伝ってくれるようにおっしゃってください」とイエスを自分の願望の実現手段にしようと踏み誤ってしまいます。

イエスはマルタのもてなしを否定していません。人に仕え奉仕することは弟子生活の要でもあります。問題は、マルタがもてなしの多忙さに心が引き裂かれ、本来のあるべき自分を失っていたことです。イエスはマルタに「マリアは良いほうを選んだ。」と賢明な選択を推奨します。

人は自分の生物学的特性、人間関係、環境、時代背景、国籍、才能等を選べません。しかし、良い選択は人生を変えるのです。後にマリアがイエスの足に高価なナルドの香油を注ぎ出した時、ユダは無駄だと糾弾しますが、主は「私の埋葬の日のために、それを取っておいたのだ」と高く評価されます。出来る時にするべきことを実行できたのは、マリアがみ言葉に傾聴していたからです。多忙さに流されぬよう、御言葉に傾聴するべきではありますまいか。