6月19日礼拝説教(詳細)

主の名を冠して」  使徒4章23〜31節

ふたりはゆるされてから、仲間の者たちのところに帰って、祭司長たちや長老たちが言ったいっさいのことを報告した。

一同はこれを聞くと、口をそろえて、神にむかい声をあげて言った、

「天と地と海と、その中のすべてのものとの造りぬしなる主よ。あなたは、わたしたちの先祖、あなたの僕ダビデの口をとおして、聖霊によって、こう仰せになりました、

『なぜ、異邦人らは、騒ぎ立ち、

もろもろの民は、むなしいことを図り、

地上の王たちは、立ちかまえ、

支配者たちは、党を組んで、

主とそのキリストとに逆らったのか』。

まことに、ヘロデとポンテオ・ピラトとは、異邦人らやイスラエルの民と一緒になって、この都に集まり、あなたから油を注がれた聖なる僕イエスに逆らい、 み手とみ旨とによって、あらかじめ定められていたことを、なし遂げたのです。

主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」。

彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した。

 御名を賛美します。私事ですが、いよいよ21日入院、23日手術となりました。皆様の祈りに感謝です。先週、入院1週間前の火曜日、担当外科医から詳細説明がありました。それによれば、この種の手術の死亡率は1%だそうで、人数にすれば百人に一人の割合。その百人の1人にならなければ、またお会いすることにいたしましょう。これから二回程、礼礼することになりますが、そのことについては信徒会で詳しく説明があるはずです。

 先週水曜日の朝のこと、ちょっと嬉しい事がありました。生ゴミの日なので、回収された後、カラス防止ゴミ袋を畳み終え、玄関に向かう後の私に、散歩中の見知らぬ男性から声掛けがあったのです。「先生、岸和田の横谷先生をご存知ですか?」私は急ぎ振り返り近寄って、「私は牧師の高木だが、あなたはどなたですか。」と問うと、彼は自分の名を名乗り、自分は隣の府営住宅の8階に住んでいること、岸和田市の教会に通っていることを打ち明けられたのです。そして彼は自分の手の平に私の名前をペンで留め去って行かれました。名前とは当たり前のようでいて不思議なものですね!名乗り合うことでもなければ、見知らぬ赤の他人のままだったでしょう。

 今日の説教題を「主の名を冠して」としたのは、実は、今日の聖書箇所が、ある一連の出来事の最終部分で、その鍵語が「名」であるからなのです。その発端が3章1〜10節の麗しの門の足萎えの癒しの出来事であり、そこから発生した問題が11節から4章22節のユダヤ議会の厳しい審判、そして最後が今日の箇所で、その結果としての祈祷会となっているのです。

1.        主の名を冠した信仰

  足萎え男の癒し

 この事件の発端をきっとよくご存知でしょう。使徒ペテロとヨハネが午後3時の祈りを捧げようと神殿に向かうと、麗しの門で乞食をしていた生まれつきの足萎えが、突然に癒される事件が起こったのです。乞食は通りがかりの二人に施しを乞うたのですが、ペテロはこう言って彼を癒しました。

「私には銀や金はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」するとなんと、たちまち男は癒され、躍り上がって歩き出したというのです。その結果、驚いた大勢の群衆が、ソロモンの廊にいた二人を取り囲むと、ペテロが彼らに向かって説教し、「このイエスの名が、その名を冠した信仰のゆえに、あなたがたの見て知っているこの人を強くしました。」と断言したのです。

私は、この16節の翻訳は初めてで、心を奪われました。他の訳は「イエスの名が強くしました」とか「イエスの名が、それを信じる信仰のゆえに強くした」なのですが、「名を冠した信仰のゆえに」とは名訳ではないでしょうか。「冠する」とは、上に被せる、上に乗せるという意味ですね。教会近くの末広公園名が最近更新されましたね。「マンデー末広公園」と大きな看板が掲げてあり、それは、中古自動車会社「マンデー」がスポンサーになった結果、社名が公園名に乗せられたというわけです。使徒ペテロがここで強調したのは、この乞食を癒したのは自分ではない、自分の力や自分の敬虔さで癒したのではない、そうではなくて、主イエスの名を信じるこの足萎えの信仰のゆえなのだということです。

  イワシの頭も信心から?

 この発言の背景には、主イエスの言葉の裏付けがあります。主イエスは、公生涯で、人々を救い癒しを実行なされた際に、しばしば「あなたの信仰があなたを治した、救った」と語られておられたからです。12年血のとまらない長血の女にもそう言われました(マタイ922)、盲人バルテマイにも(マルコ1052)、罪深い女にも(ルカ750)、10人のらい病にも(1710)そしてエリコの盲人にも(1842)主は同様に優しく語られ励まされておられます。癒されたこれらの人々に共通する信仰は「主イエスの名を冠した信仰」だったということなのです。信仰、信仰、「イワシの頭も信心から」と言って、誰を何を信じてもいいのだ、とにかく信じる何かがあればいいというのではないのですね。浄土真宗では「南無阿弥陀仏」と題目を挙げます。日蓮宗では「南無妙法蓮華経」と唱えるものです。南無とは帰依する、信じるということです。しかし、主の名を冠した信仰は「南無主イエス・キリスト」なのではありませんか。

私はこの度、人間ドック検査の結果、直腸癌が発見され治療を受けようとしております。医師から癌を宣告されて、自宅に戻って祈って与えられた御言葉は、ヨハネ9章3節で、「神の業がこの人に現れるためである」でした。生まれつきの不幸な盲人を見た弟子たちが、彼が不幸なのは本人が罪を犯したからか、それとも親が罪を犯したからですか、と主イエスに質問したのに答えられた回答です。主イエスは「本人でも両親でもない」と原因を問題にせず、この不幸には目的があるのだと答えられたのです。神の業がこの人に現れるその目的のためであると語られたのです。ですから、私は自分のこの進行性癌にも神様が現そうとされる目的があると確信できました。と同時に、ピリピ2章21節のあの使徒パウロの告白『私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益なのです』が想起されました。使徒パウロは獄中にあり、死を予感して語った名言です。それゆえに、77歳を過ぎた私は「神の業」を、身体の全き癒しとも、また死ぬこととも理解し、ただ御心がなるようにと祈っているのです。癒されて回復すれば許される限り牧師としての奉仕に余念なく邁進し、あるいは百人に一人の確率で死ぬその一人ならば、それもまた甘受しようと思います。使徒パウロは「私の切なる願いは、世を去って、キリストと共にいることであり、実は、この方がはるかに望ましい」(ピリピ123)と言い切っています。どちらにしても有益だからなのです。

③名は事物の概念 

 国語辞典の名の項には「名は事物の概念を代表する呼称」であるとありますね。

あの受胎告知の場面を覚えておられるでしょう。天使はヨセフに「その子をイエスと名付けなさい」と命じました。(マタイ121)、別な場所で、天使ガブリエルは、マリアにも「その子をイエスと名付けなさい」と命じました。(ルカ131)イエスとはイスラエルでは極めて平凡な名前で、日本の太郎のようなものです。しかし、その意味概念は、ヘブライ語のイエーシューア「救い」、イエホーシュア「主は救い」に由来しており、名は体を表すとすれば、主イエスにおいては、その名は文字通りの実体なのです。ですから、主イエスの名を冠する信仰とは、その救い主、メシアの概念を心底から確信する信仰なのです。ローマ1013には「主の名を呼び求める者は皆、救われる」と引用されていますね。主の名を冠した生きた信仰に立つ時、その御名は素晴らしい結果をもたらすことになるのです。名ばかりのクリスチャンではなく、名目だけの信仰ではなく、しっかりと主の名を冠した信仰に立ちたいものですね。

Ⅱ.主の名を冠した宣教

 ところが、この麗しの門の足萎えの乞食が癒されると、とんでもない問題が発生していたのです。ソロモンの廊に集まった群衆に説教をしていた二人の使徒は、その行為が不当と判断された結果、逮捕され、ユダヤ最高議会で裁かれる羽目になりました。

70人で構成されるユダヤ最高議会のサンヒドリンに、立たされた二人が問われた問題は、議事を進行する大祭司による尋問で明らかになります。

大祭司アンナスは言った、「お前たちは何の権威によって、誰の名によってこんなことをしたのか」と。逮捕し尋問した人々も、生まれつきの足萎えの乞食が癒された事実は否定しようがありません。彼らが苛立ち追求したその動機は、使徒ペテロの宣教にあったのです。ペテロは人々に大胆にキリストの福音を宣べ伝えました。そして、集まった群衆にペテロが説教をした結果、4章4節によれば「信じた人は多く、その数は5千人ほどになった」というのです。その信じた人数もさることながら、彼らが苛立つのは、2節で明らかなように、「イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えてい」たからです。イエスの死の責任は、イエスを断罪しローマ総督に提訴し十字架に仕向けた点にありました。下手をすれば問題を蒸し返し、群衆の反発を呼びかねません。ですから、裁く側の問題意識は、彼らが裁き死に至らせた主イエスの御名を宣教するところにあったのです。

 教会が福音宣教するには三つの理由があります。

①救いの絶対性

その第一理由は、救いの御名の絶対性にあります。ペテロは並み居る議員たちの面前で、堂々と告白し、「この人による以外に救いはありません。(4:12)」と言ってはばかりません。一休禅師の作だとする「分け登る麓の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな」という有名な和歌がありますね。これこそ日本人の典型的な信仰観念ではないでしょうか。どの宗教も入る道や手段は違っていても目指すところは一緒ではないかというのです。違った宗教に対する寛容さを日本人は重んじます。また混淆宗教(いろいろな宗教の教えを取り込んだ教理、教義信仰)が、日本人にはとても受けがいいのです。しかし、教会が宣教するのは、主イエスの救いの絶対性にあります。十字架の救い、罪の赦し以外に道はありません。イエスが道であり、真理であり、命なのです。御子イエスによらなければ、誰も神に来ることはできないからなのです。

  罪人の滅亡性.

 そればかりか、宣教の第二の理由は、人はイエスにより救われねば滅びるからです。

使徒パウロが「私たちは皆、キリストの裁きの座に出てすべてが明らかにされ、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行った仕業に応じて、報いを受けなければならないからです。こういうわけで、私たちは主を畏れることを知っているので、人々の説得に努めます。」(コリント下511.121)はっきり宣教の動機を述べています。ヘブル書9章27節にも「人間には、ただ一度死ぬことと、その後、裁きを受けることが定まっている」とあります。神に創造された人間は、神に対して責任ある立場にあります。私たちは神が義の審判者であることをも信じています。ウクライナの紛争では、ロシア軍による戦争犯罪の調査が進められ、適正な裁判が執行されるべきだと叫ばれます。国際司法裁判所がその中心となるのでしょうが、だからと言って強制執行する権限があるわけではありません。だが、天の法廷は違うのです。誰も死ぬことを回避できないばかり、死後の審判をかいくぐることは許されません。どんなに地上生活で逃げおおせたとしても最後には捕らわれ裁かれる命運に人は置かれているのです。 箴言24章11、12節をここで口語訳で引用しておきましょう。「死地にひかれゆく者を助け出せ、滅びによろめきゆく者を救え。あなたが、われわれはこれを知らなかったといっても、心をはかる者はそれを悟らないであろうか。あなたの魂を守る者はそれを知らないであろうか。彼はおのおのの行いにより、人に報いないであろうか。」ウクライナの紛争に適用できそうな聖句ですね。事実、困窮しているウクライナ人を救出するために身を粉にして活動する人々がおります。彼らのために祈るべきでしょう。だが、私たちはこの御言葉を永遠の実相で見るべきです。罪により滅びに定められたすべての人々への宣教の課題として受け止めるべきです。福音の宣教は死活問題なのです。私たちは神が愛であることを信じています。だからこそ、神は愛するがゆえに、御子を犠牲にして救いの門戸を開かれました。この罪の赦し、贖いの福音、十字架の福音を宣べ伝えねばなりません。先週の礼拝で語られた村上師のバングラデシュでの宣教の証しは感動でした。私は拝聴していて、あのルカ6:20を想起しました。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」と主は教えられます。バングラデシュは最貧国です。貧困家庭への児童教育支援が宣教に直結している現実を見せられました。ところが、日本とは事情が違いますね。日本は、経済的乏しさには縁遠いのです。だが、「心の貧しい人」がいるはずです。「自分は果たして、これでいいのだろうか。」と真剣に自問し、深い飢え渇きを持った日本人が潜在しているに違いないのです。ですから、私には宣教する責任が教会としてあるのです。

  宣教の至上性

 第三の宣教理由は、主の宣教至上命令でしょう。それは明らかです。主イエス自身が「行って全ての国民を弟子とせよ」と教会に命じられたからです。泉佐野福音教会には「主の名を冠した宣教」があるでしょうか。私は昨年11月ごろ、新しい献身をする機会がありました。当教会に赴任し8年目に入るが、改めて遣わされた泉佐野市に宣教しようと再献身したのです。 そのために、市内51の町々への「祈りの歩行」を開始しました。先ずは現地に出向き主の権威を宣言し、霊的雰囲気を変えることから始めたのです。その上で、種々の宣教施作を実行したいと思うのです。2週間前から、意想外な癌の確認で、治療するため中断しているのですが、回復した暁には断行したいと祈っております。

Ⅲ.主の名を冠した祈祷

 今日の聖書箇所の発端においては、主の名を冠した生きた信仰が癒しの奇跡をもたらしたことを私たちは確認しました。次の問題の発生では、主の名を冠した生きた宣教を確認しました。最後の結末の箇所で確認されるのは、「主の名を冠した祈祷」の素晴らしさです。

  祈祷の実践

ユダヤ最高議会は、二人にどう対処したでしょうか。彼らは、乞食の完全に癒された事実、それに二人の堂々とした態度に圧倒され、「どう処罰して良いか分からず」ただ脅かすだけで釈放するしかなかったのです。

すると、釈放された二人は、仲間のところへすぐさま行き報告すると、彼らがしたことは主の名による祈祷だったのです。24節ご覧ください。彼らは祈りました。「主よ、あなたは天と地と海と、そこにある全てのものを造られた方です。」29節をご覧ください。「主よ。今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、堂々と御言葉を語れるようにしてください。」彼らは主の御名を呼び求め、主の御名によって祈ったのです。

  祈祷の結果

その結果、何と集まった場所が揺れ動いたと言われています。木曜日の夕べのこと、ユーチューブで私はしばらく「東北大震災の津波」の動画に圧倒されてしまいました。市役所の津波警告放送が、サイレンと共に鳴り響き、高台への避難が訴えられます。そして押し寄せては、返えす津波の破壊の凄まじさはただただ驚くばかりです。しかし覚えてください、私たちが主の御名により祈るなら、自然でさえも呼応するのです。そして、神の聖霊の力が注がれて、大いなる業が教会を通して必ずなされるのです。

  祈祷の招き

あのエレミヤに対する約束を想起しましょう。エレミヤ33章1〜3節 「主の言葉が再びエレミヤに臨んだ。この時彼は、まだ監視の庭に閉じ込められていた。「地を造られた主、それを形づくって固く据えられた主、その名が主である方はこう言われる。私を呼べ。私はあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる。

主は閉じ込められたような状況にある預言者エレミヤに「私を呼べ。」と語られたのです。主は、あなたがどのような状況に置かれ、困難と孤独を覚えていようとも、語られます。「私を呼べ。」と。ここで、もう一度、ヨハネ14章12〜14節をも引用しておきましょう。「よくよく言っておく。私を信じる者は、私が行う業を行うだろう。そればかりか、もっと大きなことを行うであろう。私が父のもとへ行くからである。私の名によって願うことを何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。私の名によって願うことは何事でも、私がかなえてあげよう。

主イエスによって、このような約束が与えられた以上、何をためらう必要があるでしょうか。今週も主の名を冠した祈祷を捧げ、大いなる御業を拝することにしようではありますまいか。

 

祈ります。

 主よ。あなたは生まれつきの不幸な足萎えの乞食を、あなたの御名を信じる信仰のゆえに癒されました。主よ。私たちには自分の生まれつきの問題もあれば、置かれた状況の困難さもある現実を生きる日々です。そんな私たちに、救い主の御名が与えられており、御名を呼び求め、御名により祈る時、あなたが、私たちの思いと願いを超えて応えてくださることを感謝いたします。この新しい週を歩む私たちとあなたがいつでも共にいてくださることを感謝します。この週の歩みにおいて、私たちを素晴らしい御名の福音を宣べ伝えるために用いてください。

主の御名により祈ります。アーメン

6月5日礼拝説教(詳細)

分かれた炎の舌」  使徒2章1〜13節

五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。

さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。

みんなの者は驚き惑って、互に言い合った、「これは、いったい、どういうわけなのだろう」。しかし、ほかの人たちはあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言った。

 主の御名を賛美します。もうご存知でしょう。来週の礼拝には、京都七條教会の村上 渡牧師が説教を予定されます。二十代後半の若い牧師ですが、イスラム教国のバングラデシュで宣教活動を展開されており、是非皆さんにその働きを紹介し、祈り協力して欲しいと望んでおられるのです。実は、私はその機会に、妻と一週間の休暇を予定し、北海道の妻の親族を訪ねようと計画していたのですが、4月初旬に実施した人間ドック検査の結果、大腸癌が発覚したため、急遽予定を変更し、近く治療に当たることとなった次第です。事によると、これが最後のメッセージになるかもしれません。どうぞ私の遺言と思って真剣に聞いてください。

 最近、皆さんには、本当に心の底から腰が抜けるくらいに何か驚かされたことがあったでしょうか。実は、今日の聖書箇所で起こった出来事は、人々を腰が抜けるくらいにとてつもなく驚かせた事件なのです。6節には「あっけにとられた」とあります。「あっけにとられた」とは仰天する、狼狽することです。7節にも「驚き怪しんだ」とありますが、「驚き怪しんだ」とは、気が狂う、驚嘆するという意味なのです。その先の12節には「人々は皆、驚き戸惑い」とあり、「驚き戸惑い」とは、途方に暮れるとか、混乱することなのですね。こんなに短い箇所に、三回も、しかも最大級の表現で人々の驚きが記録されているとは、これは、ただ事ではありません。ですから、その驚きを口に出して、人々はこう言っていたのです。「一体、これはどういうことなのか」(12節)

1.聖霊の降臨

①祭りに符合した出来事

 この驚く出来事が起こったその日は、イスラエル三大祭の一つ五旬節の日でした。

三大祭とは、イスラエルでは、春祭りが過越祭、夏祭りが五旬節、秋祭りが仮庵祭となっています。これについては、レビ記23章に詳細に規定されていますから参照してみてください。これには、イスラエルの成人男子は皆、参加義務がありました。ですから、当時の世界中に離散していたユダヤ人男子達は皆、長旅をして集まり、この日ばかりは、エルサレム市内は祭りでごったがえすのが常であったのです。5節を見ると、「さて、エルサレムには天下のあらゆる国出身の信仰のあつい人々が住んでいたが」とあるのはその意味だったのです。さらに9〜11節を見れば、数えて16もの国名が出てくるのはその意味で、エルサレムにはその日、世界各国から祭りに集まっていたことが分かります。

この五旬節とは5、6月頃の夏祭りのことで、これは農業で言う収穫感謝祭のことです。パレスチナでは秋の10、11月頃に小麦の種を蒔き、冬を越した小麦が育つと春の3、4月に初穂が出てきます。そして初穂が出てから50日目が収穫の時期となり、収穫祭をすることになるわけです。ここで、イスラエルの祭りで注目するべきこと、それは、救い主イエス・キリストの生涯とぴったり符号していたことです。

主イエスが処女マリアから生まれたのは、秋祭りの仮庵祭の頃でした。主イエスが十字架につけられたのは春祭りの過越祭の日でした。そして主イエスが復活なされたのは、その三日後の初穂の祭りの日であったのです。では、夏祭りの五旬節に起こったのは何でしょうか。それが、主イエスの約束なされた聖霊の降臨なのです。

②予め予告された出来事

 最後の晩餐席上で、主イエスが弟子たちに、繰り返し予告されたことは、別な助け主、すなわち聖霊の到来でした。「私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。(ヨハネ14章16節)」。主イエスは、復活なされてからも、弟子達に言われたのです。「ただ、あなたがたに上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果まで、私の証人となる。(使徒1章8節)」その主イエスの予告し、約束された聖霊が到来なされた日こそ、夏祭りの五旬節の日だったのです。

どのように降臨なされたのでしょうか。それが2〜3節です。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こったのです。その音が120名の居た部屋中に響き渡ったというのです。私たちはもちろん、その日そこに居合わせていません。けれども、数年前に経験した風速50mを越す台風を連想すれば想像できるかもしれませんね。あの時の風力は、教会の瓦屋根の一部が吹き飛んでしまうほどの大風でしたね。それはそれは凄まじい荒れ模様であったことが懐かしいくらいです。風は見えません。だが、動いているのは分かりますね。強烈な音が「ゴーゴー」響くのも分かります。聖書は、この現象を「一同は聖霊に満たされた」と4節に書き留め、聖霊の降臨だと言っています。聖書の書かれた原語では「風」も「霊」も同じ用語が使われています。ギリシャ語の動詞で「プー」と吹くことを表す「プネオ」から、風はプノエ、霊はブニュウマと派生しているのです。つまり聖書では、風は聖霊の象徴とされているのです。

③教会に力与える出来事

 では聖霊が降り注がれたのは何の目的でしょう。それは、教会に力を与えるためなのです。先ほど引用した使徒1章8節で、「ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」と主が語られました。先週の礼拝で、主イエスの昇天を語った際に、初代の最初の教会とホンダ360が重なると言ったのを覚えておられるでしょうか。先週29日、モナコのモンテカルロでF1世界選手権が開催されていましたね。同じ規格で競う最速自動車レースです。エンジンサイズは1600CCで、走行距離は305キロで、決められたコースを最短回数で走った者が勝利するのです。今までの平均最高時速記録は372、6キロだそうです。私たちの走る高速道路の最高規制速度が80キロとすれば、その凄まじい速さは比較して推して知るべしです。残念ながら、日本のホンダは21年限りで撤退し参加していません。だが、昨年最後の12月12日のレースでは、ホンダF1が優勝しているのですね。50年前のホンダ360CCからF1への進化は凄まじいものがあります。それはともかくとして、自動車が走る原理は、エンジンのシリンダーに気化したガソリンを吹き込み、点火爆発させ発生するエネルギーを回転運動にさせるところにあります。

先週も、主が昇天される前の教会を、11弟子の有様を観察したところです。彼らは迫害を恐れ、鍵かけ閉じこもり、キリストの死を嘆き悲しみ、復活を目撃した人々の話しも信用できず、萎縮しきっていたのです。ところが、この五旬節の日です。突然、力を与えられ、俄然動き出したのです。聖霊が降られ、聖霊に満たされた結果なのです。彼らは、あたかも、アクセルを一杯踏み込まれ、ガソリンが吹き込まれたエンジンのように、力強く走り出したのです。覚えておきましょう。キリストの教会は、この日、実質的に誕生し、実質的に活動を開始しているのです。今現在、世界に多くの教団、教派に分かれているとはいえ、20数億人が、キリスト教徒であるのは、この日を端緒としていることを覚えておきましょう。今、ここにいる私たちが、集まってこうして主を礼拝している、その発端が、この日、この五旬節にあると言って過言ではないのです。聖霊は、ガソリンのような単なるエネルギーではありません。三位一体の神の第3神格です。父なる神、御子イエスとその本質において変わることがない主なる神です。

聖霊は、教会に力を与え、教会を助け、教会を弁護し、キリストの成就された救いを実行させるために来てくださったのです。

Ⅱ.聖霊の賜物

 そして、その聖霊の力の具体的な現れを私たちは「聖霊の賜物」と言うのです。賜物とはギフト、贈り物ですね。贈り物やギフトの背後にある精神は与える愛でしょう。神は愛です。神の最大の賜物は御子イエス・キリストです。この主イエス・キリストが昇天なされると、聖霊を送られ、聖霊が神の賜物を携えてこられたのです。では、その賜物の最たるものが何か、意外かもしれませんが、それが「舌」に象徴される「言葉」なのです。激しい風の響きに続いた現象が3節にこうあります。「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」 聖霊の賜物がこの「舌」に象徴されているのです。これは日本語訳ではよく分かりませんが、原語では明らかに3節の「舌」はグロッサで、次の4節の「他国の言葉」の言葉が同じく原語でグロッサが使われているのです。本来「舌」を意味するグロッサが言葉と翻訳されています。今日の聖書箇所には「言葉」が4箇所訳出されていますが、4、11節の「言葉」はグロッサです。6、8節の「言葉」はディアレクトスとなっています。この「ディアレクトス」の意味は「方言」或いは「国言葉」のことです。最初にこの箇所は驚きに満ちていると言いましたが、何に人々が驚き仰天しているかといえば、語られた言葉になのです。弟子達が語っている言葉に仰天しているのです。この聖霊の賜物である言葉が何を意味するのか、同じ現象が起こっている他の数カ所を含めて三つにまとめておきます。

  預言の言葉

 第一に、聖霊の賜物は預言と言って差し支えありません。聖霊が降っているもう一つのケースにエペソ教会があるので観ておきましょう。19章6節に、「パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。」と記録されています。聖霊が降った結果、人々が預言をしたと明言しています。聖書の中の預言は、一つの大きなテーマですから、全てをここで語りつくすことはできません。しかし、基本的に預言は、神から人が神の言葉を託されて語ることを意味することだと押さえておきましょう。

預言には、その場で、何の準備も無しに、神から直接、言葉を託されて語り出す働きです。それが教会の集会の最中であれば、そこに居合わせた全ての人に対する神からメッセージとなります。

預言にはまた、個人に対して、直接、神からある特定の人に言葉が託され、語り出される働きがあります。その典型的例が、使徒21章7〜14節の預言者アガボによるパウロ対する個人預言で知られています。パウロは、第三次世界宣教の終わりにありました。その時、預言者アガボが、パウロに向けて語り出したのです。「聖霊がこうお告げになっている。『エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す』」アガボは、パウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って演技を伴って個人預言をしているのです。私たちはこの預言が、事実、のちにエルサレムでパウロの身に実現したことを知っています。

来月7月21日に、カナダからライオネル・バッキー師が来日する予定です。私は彼が、他に二人の預言者たちと北陸で預言活動をされたのを知っています。私は彼らの通訳を担当し、つぶさに預言活動を見させていただきました。この教会にも来られるかもしれません。聖霊のこの預言の賜物を見ることができるかもしれませんのでお祈りください。更に、この聖霊の賜物である預言には、広い意味で教会の牧師や伝道者の説教も含まれると言って間違いではありません。説教は、説教者によって、祈り注意深く準備される働きですが、聖霊の導き無くしては、決して成し得ない言葉の語りであります。しばしば、説教が終わった後に聞くことですが、「先生は、私のことを指して語られたのではありませんか?」と尋ねられることがあります。しかし、そんなことは決してありません。誰か特定の人物を対象に準備されることがないからです。もし、聴き手がそのように感じたとすれば、それは説教自体が預言的であるからに他ならないのです。

②賛美の言葉

 聖霊の賜物の第二に賛美の言葉が挙げられます。もう一つの聖霊の注ぎの歴史的事例が、使徒行伝10章に記録されたローマの百人隊長コルネリオの家での出来事があるので観ておきましょう。10章46節を見れば、聖霊降臨がこう報告されます。「異邦人が異言を語り、神を賛美しているのを聞いたからである。」彼らは聖霊に満たされると賛美を語り歌い出したのです。賛美とは、神がどのようなお方であるかを、人が感動し褒め称える言葉で、その言葉にメロディが付随すれば賛美歌となります。聖書でよく知られたヘブライ語に「ハレルヤ」がありますね。これは「主を賛美せよ!」を意味し、神を賛美することは聖霊の賜物に他ならないのです。聖霊によらなければ誰も主を真心から賛美することはしませんし、できません。人は聖霊に満たされると神を賛美するようになるのです。詩篇40篇3節にダビデが歌って言います、「主は新しい歌をわたしの口に授け、われらの神にささげるさんびの歌をわたしの口に授けられた。多くの人はこれを見て恐れ、かつ主に信頼するであろう。」また、詩篇33篇3節で民に「新しい歌を主にむかって歌い、喜びの声をあげて巧みに琴をかきならせ。」と呼びかけられています。聖霊は五旬節に降られ、同じ聖霊は今でも私たちのところに来てくださいます。私たちも聖霊に満たされ、賛美を歌い、賛美の言葉を語り出すことにしようではありませんか。

③祈りの言葉

 聖霊の賜物の最後を「祈りの言葉」と要約することができます。五旬節で聖霊が、120名の弟子達に語らせた2節の「他国の言葉」の解釈が分かれるところです。ある人は、これは異言であると解釈し、ある人は多言であると解釈しています。この「他国の言葉」と訳された原語を直訳すると、「別な言葉」「違った言葉」と成ります。「他国の」と訳された原語はヘテロスで、その本来の意味は「違った、別な」であって他国、外国ではありません。しかしながら、その発言を聴いた人々の反応から「他国の、外国語の」の訳が生まれてきたものです。なぜなら、120名が語りだした言葉が、外国から来た人々に理解され、しかも、自分たちの出身である故郷の言葉で聞いているからです。実に不思議な現象です。4節で語った人々、つまり120名の弟子達が、7節では周囲の人々によって『この人たちは、皆ガリラヤの人ではないか』と見なされています。地理的にガリラヤ湖周辺のガリラヤ東部の人たちは、アラム語を理解し話せたと言われています。反対に西部の人たちはギリシャ語を理解し話せたと言われます。通常は日常語としてヘブライ語で話すのですが。しかし、この日は、違っていました。全員が、ヘブライ語で預言し祈り賛美したのではありません。いろいろな国々の言語で、しかも習ったことも無いのに、正確に理解できる言葉で語り出していたのです。

 一方で、使徒行伝中のその後の聖霊降臨の別な出来事では、聖霊に満たされた人々が一貫して「異言を語り」と言われていることが分かります。その場合は、「舌」すなわち原語でグロッサだけ使用されています。そして、この言葉に光を与える教えが、あのコリント上14章2節のパウロの教えではないでしょうか。彼はこう教えます。

「異言(グロッサ)を語る者は、人にではなく、神に向かって語っています。誰も聞いていないのに、霊によって秘儀を語っているのです。」そうです。「神に向かって語る」、それは祈りのことでしょう。五旬節の日、そこに居合わせる人々に理解された点では、その発言には預言的な性格があったことは間違いありません。しかしながら、語った人々が自分で何を語っているのか分からずに、他国の言語で神に向かって語りかけていたのであれば、それは祈りでもあったことに違いありません。聖霊が臨まれる時に、与えてくださる賜物の一つには、神への祈りがあるのです。そして神への祈りにも二種類が与えられるのであって、自分の母国語で分かって祈る知性の祈りもあれば、自分で違った言葉で祈る異言の祈りもあるということです。聖霊に満たされる日本人であれば、日本語で勿論、神に祈り、かつまた、習ったことのない異言、別の違った言葉で奇跡的に祈ることができるのです。

Ⅲ.聖霊の分与

 最後に五旬節に起こった聖霊の降臨のこの一句に注目して終わりましょう。4節です。「炎のような舌が分かれ分かれに現れ」すなわち、聖霊の賜物が人々に分けられ与えられたことです。この出来事の起こった場所には、三種類の驚き仰天する人々が登場してきます。

①第一番目の人々とは、最後に出てくる人々、この五旬節の不思議な出来事を見ていたある人々が呟いてこう言っているのです。「『あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、嘲る者もいた。」13節  彼らは、ガリラヤの田舎者が何やら騒いでいるのに関心を示しはしたのですが、そこで語られた言葉を分かっても無視しているのです。そればかりか、朝っぱらからワインに酔いしれて狂っていると嘲り馬鹿にしたのです。いつの時代にも、どこにもこのように神の尊い事柄に無頓着な哀れな人々がいるものです。そうならないように気をつけてください。神の驚くばかりの恵みと祝福を無にすることになります。

②しかし、五旬節の聖霊降臨の歴史的大事件に立ち会い、驚嘆し仰天した人々の中には、心の開かれた準備のできた人々も沢山のいたようです。彼らは故郷の言葉で、ガリラヤの田舎者が、大胆に語っているのにあっけにとられました。彼らは、その話の内容が『神の偉大な業』であるのを聞いて驚き戸惑ったのです。その「神の偉大な業」とは、救い主イエス・キリストの生涯、誕生から受洗、十字架、復活、昇天の出来事、主イエスの教えの数々でしょう。これらの人々は、世界中に離散していた敬虔な神を恐るユダヤ人でした。彼らはディアスポラです。彼らがこうして、エルサレムに祭りで戻ってきたのは、神に対する関心と開かれた心があったからに他なりません。この後、ペテロが、「朝からワインに酔っている」と誤解され批判されたのを受け、立ち上がり神の言葉を語り、救いの計画を解き明かすことになります。そして「酔っ払っているのでは無い」と否定し、神の救いの計画を語り出すのです。37節から見てください。心打たれた人々が「私たちは何をすべきでしょうか」と問うと、ペテロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦して頂きなさい。そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしよう」と勧告したのです。すると、どうでしょう。11節をご覧ください。なんと「その日に三千人ほどが仲間に加わった」というのです。皆さんの中にもきっと関心を示し、心を開いている方がおられることでしょう。主イエスを信じ受け入れて聖霊の賜物をいただいてください。

  驚き満たされた弟子たち

 その第三の人々とは、驚きつつ満たされた弟子たちのことです。突然のこの聖霊の満たしに預かった弟子たちは正直驚いたことでしょう。聖霊降臨は約束されていました。期待されていました。祈り待望されていました。だが、実際に聖霊が臨まれた時には、驚き深い感動に満たされたことでしょう。

私は高校二年生で牧師になる召命感を与えられ献身しました。通っていた教会の牧師夫人から、神学校に行く前に聖霊に満たされたらいいですよと勧められ、私は祈り始めておりました。するとその夏のキャンプのことです。キャンプ最後の集会の説教後の招きがあって、私は前に出て行って祈っていただいたのです。すると聖霊の賜物が与えられ、異言が私の口から出てきたのです。それからは、私は日本語で祈り、それに聖霊が語らせてくださる異言でも祈ることができるようになり、それは私にとって、今日に至るまで、掛け替えのない祝福となっているのです。

皆さんにもそれぞれの聖霊経験があることでしょう。聖霊に満たされ、聖霊の賜物をいただいた人は、その恵みを大いに生かし、祈りの生活をより一層充実されることをお勧めします。パウロがこの異言について語った重要な教えがコリント上14章4節にありますね。「異言を語る者は自分を造りあげます」聖霊の賜物である異言による祈りは、祈るその人の霊的人格形成に寄与すると言われているのです。だとすれば、大いに盛んに祈るべきではないでしょうか。異言の祈りは、聖霊の与えられる大いなる恵みの手段の一つなのだから、この賜物を大事にして、生かし活用するようにしてください。